広川町誌 上巻(3) 中世史
 

中世史


  8、蓮華王院領の頃
    1広庄と荘園領主、その荘官など
    2蓮華王院領広・由良庄の濫妨
  9、熊野路の昔
    1熊野路往還の地
    2院の熊野詣
    3広川地方熊野路旧跡
    4「熊野詣日記」から
  10、謎の在地領主広弥太郎
    1堀ノ内
    2湯浅氏系図に見える広弥太郎宗正
    3承久の変と広弥太郎
    4広弥太郎宗正の惣領家湯浅氏その1門
    5宗正の去就とその後
    6堀ノ内付近の門田と隻6田
  11、地名が語る中世広庄豪族群象
    1殿の土居が語るもの
    2西広城主鳥羽氏
    3中野城址と地頭崎山氏
    4公文原
    5猿川城の悪党
  12、広川地方八幡神社創建考
    1広川地方における3つの八幡神社
    2八幡神社の源流と推移
    3広川地方八幡神社創建の時代
    4広八幡神社
    5津木八幡神社
    6老賀八幡神社
  13、中世高僧の足跡
    1明恵上人と鷹島
    2三光国済国師と能仁寺
    3明秀上人と法蔵寺
  14、南北朝の動乱と岩渕の伝説
    1南朝遺臣かくれ里伝説地
    2南北朝時代の前夜
    3南北朝の対立と動乱
    4南北朝合一と後南朝抗争
  15、畠山時代
  16、中世庶民生活史雑考
    1顕れざる人々
    2庶民の遺したもの
    3山の生活
    4中世仏教と庶民信仰
    5宮座
    6農耕儀礼と有田田楽
    7農耕儀礼と農民社会
    8古銭埋蔵に想うこと
  17、中世新仏教の興隆と広川地方
  18、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄
    1広庄領主湯川氏の滅亡
    2天正の兵火と広庄内社寺
  19、伝承・資料等に現れた広庄土豪群像
    1伝承・資料に遺る土豪達
    2中世の広庄土豪群像

広川町誌 上巻(1) 地理篇
広川町誌 上巻(2) 考古篇
広川町誌 上巻(3) 中世史
広川町誌 上巻(4) 近世史
広川町誌 上巻(5) 近代史
広川町誌 下巻(1) 宗教篇
広川町誌 下巻(2) 産業史篇
広川町誌 下巻(3) 文教篇
広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
広川町誌 下巻(5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表
中世史

8、蓮華王院領の頃


1  広庄と荘園領主・その荘官など


広庄、即ち、広川地方は、かって、京都蓮洋王院領であった。由良庄と共に『吾妻鏡』巻5文治2年(1186)の記事に、蓮花王院御領として名が見える。
当時、広庄は隣の海部郡(現在日高郡) 由良庄と共に、蓮華王院(33間堂)を本所とする荘園であったらしい。
この寺領内に濫妨の事があり、それに関連しての記事である。左にそれを引用しよう。

吾妻鏡巻5、 文治2年8月条に
26日庚子  於蓮花王院領紀伊国由良庄 七条細工字紀太構謀計致濫妨之由 領家範季朝臣折紙并院宣到来之
間 今日令下知給之云々
下 蓮花王院御領紀伊国由良庄官
可早停止銅細工字七条紀太妨事

右件御庄 停止彼細工之謀計 任院宣領家可令知行庄務之状如件 以下
  文治2年8月26日

広由良庄濫妨事 折紙進上之 可令奏下給候 七条紀太丸之謀計殊勝候 尤可被処重科候也 称領家者基親朝臣云々 不知子細田舍人 猶以結構 如此之狼籍候歟 以外事候 就中 臨幸南山之由其聞候 彼庄相違候者
桧物具等不可叶候 年来抃田郷勤仕件役 而被建立高雄寺庄候了 雖片時可被念仰下候歟 恐恐謹言
  閏7月24日     木工頭範季回

蓮花王院領宏由良庄妨事 領家範季朝臣所進折紙証文案等如此 可被尋子細之由 内々御氛色候也 仍執啓如件
  後7月29日     太宰権師経房奉

  文治2年9月
25日 戊辰 平六兵衛尉時定執進召使則国状2通書之1通付職事云々 彼1通今日所到来世 是紀伊国由良庄七条紀太濫行事也
下 「遣」 蓮花王院御領広由良御庄
召使則国申藤三次郎吉助丸謀計濫妨事 右 則国捧持院宣 相具御使 (校非違使平六兵衛尉代官) 罷入御庄
相尋根元之処 彼吉助 以前28号左馬頭殿御使字藤内 而今則国罷向之時、吉助申云 左馬頭殿卜ハ僻事也、吉田中納言阿闍梨使也卜称申テ、 於院宣者不可用卜テ、 放種種悪口 陵礫御使申云、 我兄弟者、 於伊与国斬院力者2人頸 於召使者 不及沙汰之由申之、然而則国申含由緒検非違使所小目代、披陳子細之刻
謀計露頭 支度相違 夜中逃去了 件吉助者 貞能法師之郎從高太入道丸三舍弟也、今又巧濫妨 欲押領蓮花王院御庄、罪過旁深欺 又件阿開梨者、自七条紀太困貞之?取文書耽賄賂 相語北条小御館 所巧謀略也云々 件阿闍梨并七条紀太ヲ召取院庁 被加炳誡者 無後日之狼籍欺 仍勤在状 言上如件
  文治2年9月11日     御使召仗藤井判


右の記事を載せる『吾妻鏡』については、本書歴史篇の第1章「広川町名の歴史」の中で、既に簡単な解題を行っているので、その必要もないであろうが、同書は、また『東鑑』とも書く。平安末期から鎌倉中期の史料として極めて重要な文献である。鎌倉幕府の政治内容、鎌倉御家人社会の研究などの上に欠かせない根本史料であるばかりでなく、この時代の一般史を知る上にも貴重な存在であること、またいうまでもない。
ところで、同書に見える右の濫妨事件については、後述で若干触れて見たいと思うが、それはそれとして、いったい、何時如何なる経緯によって蓮華王院の寺領となったのであろうか。しかし、残念ながら、これを知る史料は、いまだ管見に入らない。さきに「尊勝院文書とその時代」を述べその中で、平安時代後期応徳3年(1086)内侍尚侍藤原氏によって、比呂庄(広庄)と宮前庄において免田各拾参町5段を熊野那智山領に寄進された経緯を見た。だが、広庄が京都の蓮華王院寺領となった経緯は史料から徴し得ないので、想像の外ないが、やはり、平安時代それも末期、誰かの寄進によるものであろう。この誰かが、当地方の土豪であったか、或はまた藤原氏の如き中央貴族であったか詳らかでない。然し、1〜2考え併せる場合、藤原一門のうちでなかったであろうかと想像が及ぶ。このことについては、追って卑見を披歴することにしたい。

だが、先づ広庄・由良庄を所領した蓮華王院、即ち33間堂について一言しておこう。同寺は京都市東山区7条大和路にある天台宗の名刹である。後白河法皇の発願によって、長寛2年(1164)、平清盛が造進。現在の本堂(33間堂)は鎌倉中期文永3年(1266)の再建になるもの。建長元年(1249)、火災に会って焼失したためである。堂内には、湛慶晩年の作である本尊千手観音座像をはじめ、鎌倉時代の仏師たちが刻んだ千手観音像101体が安置されているほか、28部衆が安置されており、いずれも傑作がずらりと並んでいるので有名である。
同寺の創建が平安時代末期、長寛2年であるから、広庄や由良庄が同寺の寺領となったのは、それ以後であるこというまでもない。そして、さきの吾妻鏡に見える鎌倉時代初頭文治2年、七条細工紀太丸の謀計による濫妨事件があった点より観れば、鎌倉時代以前に寺領となっていたことは確実である。
前掲史料によれば、広庄・由良庄の本所は、繰り返しいうまでもなく蓮華王院にして、そして、領家は範季朝臣、即ち、木工頭範季であった。彼の家は高倉を称したから高倉範季である。高倉家は藤原南家武知麿の裔とする『尊卑分脈』と藤原北家の裔とする太田亮著『姓氏家系大辞典』の両説があるが、とにかく、藤原氏より出た堂上の名門である。範季は元暦2年(文治元年=1185)正月20日、木工頭に任ぜられている。そして、同年12月24日、皇太后宮亮兼任。しかし、翌文治2年11月1日、何故か両官解却となっている。因にその後を記すと、建久7年(1196)正月6日、正4位下。建久8年12月15日、御待読労に叙せられ、建仁2年(1202)1月24日、正3位。同3年正月5日、従2位となる。そして、元久2年(1205)5月10日薨、行年76歳。(『公卿補任』による。)
ところで、当町大字西広に鳥場氏がある。もと鳥羽と書き、トリバと呼んだ当地方の旧家である。詳細は後章「地名が語る中世広庄豪族群像」に譲るが、この鳥羽氏は、藤原北家高倉流を汲む樋口氏の後裔か、はたまた、藤原北家道綱流より出でた樋口氏のそれか、なお、断定の限りでないが、平安末期か鎌倉初期、荘園関係で当地方に来住した下級貴族の後裔であるまいか。極めて想像的であるが、前記高倉家が、蓮華王院領広・由良庄の領家であった時代、その下司の如き任務を帯びて下向し来り、而して定住した家柄でないかと思う。同家所蔵の「鳥羽伝書」によると、後鳥羽上皇のころ、鳥羽氏の祖樋口某は由良に別業を有していたとある。系図や記録の類は近世初期騒乱の時代に屋形もろとも兵火のために灰燼し、そのあと、家伝によって、前記「鳥羽伝書」を作成したと同書に記している。この伝書には、祖先が初め西広に来住し、そして、由良興国寺附近に別業を有し云々と載せているが、これはむしろ、その逆であるまいか。勝手な想像であるが、最初に来住した地が由良庄であり、しかる後、何にかの事情によって広庄西広に居住を移したのでないかという気がしてならない。
前掲吾妻鏡の記事によると、蓮華王院領の広・由良庄庄官所在地は由良庄内であったと推測される。鳥羽氏(樋口氏)がこの両庄の庄官として来住し、その庄務の地が由良庄内の興国寺附近と考えられないだろうか。尤もそのころは、いまだ興国寺(旧西方寺)が存在していなかったであろうが、鳥羽伝書では開山寺の辺と記している。
さて、ここでさきの問題の1つ、蓮華王院に広・由良両庄を施入したのは如何なる筋からであったであろうかということについて、極めて想像的な意見になるが、若干述べて見たい。応徳3年、内待尚待藤原氏(大二条殿関白教通女 という)が、比呂・宮前両庄において免田各拾参町5反を熊野那智山に寄進のこと、史料に明かなところ。
比呂庄(広庄)は、宮前庄や由良庄と共にはやくから藤原氏の庄園であったと推想されるのである。しかし、藤原氏の庄園といっても、同一門の分割所領の形をとるような情勢となっていて、特に広庄においてはそのように解釈されるのである。前引『吾妻鏡』によると蓮華王院領広・由良庄の領家は、藤原北家高倉範季であったことが明らかであり、同寺への寄進は、この高倉家であったと思われるのである。そして、本所は蓮華王院、領家は高倉家という次第となったことと解される。
そして、さきにも言及した如く、現地支配者下司(荘官)の如き役目を帯びて、下向してきたのが鳥羽氏と見ては如何であろうか。
もっとも、前記「鳥羽伝書」では、当地方へ来住した当時、樋口を名乗っていたとあるが、後、故あって鳥羽を苗字したとある。樋口氏から鳥羽氏に変更した理由については伝書の内容に疑問の点なきにしもあらずであるから、後章でこの問題を取り上げ、やや詳しい考察を試みたいと考えている。しかし鳥羽は藤原の血脈であり、高倉家と関係のある家柄という点、この鳥羽家をもって蓮萃王院領広・由良庄庄官とみて、当らずとも遠からずであるまいか。
とにかく、平安時代広庄は藤原氏の庄園であったとしても、その中期から末期ごろには、一括伝領でなく分轄所領となっていたらしいこと、既に察知し得るところである。そして、そのうちには、内待尚待藤原氏の如く那智山領として寄進するもの、あるいはまた、京都蓮華王院領として寄進したと推想される高倉家などが現われたと観て、おそらく誤りないであろう。
さきに「尊勝院文書とその時代」の章で、若干余計なことと思いながら、荘園制成立過程と荘園制時代の構造について略叙したが、荘園の領主には本所とか領家があり、これがたいてい有力社寺や権門で、その荘園の現地支配には下司・預所・沙汰人、謂えば荘官が置かれていた。領地を寄進した在地の地主が任ぜられる場合が多かったが、領主から派遣される場合もあった。現西広鳥羽氏の祖先などは、そのうち後者の例であったのでなかろうかと想像される。
それが、鎌倉時代以後中世となると一層複雑化することになる。即ち、鎌倉幕府創設に伴って新たに守護・地頭の制が布かれ、各国に守護を各庄に地頭が配される。そして、やがて、守護や地頭による地方支配の強化が始まるのである。広・由良庄のことが「吾妻鏡』に現われるのは、あたかもそのような時代の始動期であった。このことが特別広・由良庄の濫妨事件に直接関係がないが、地頭のことに触れたついでに、鎌倉時代初期におけるこの地方のそれについて、若干、言及しておくことにする。
広・由良庄に濫妨起る前年、即ち、文治元年(1185)11月、源頼朝が朝廷に奉請して諸国に守護・地頭の設置と兵根米徴収の勅許を得ている。その時、広庄や由良庄にも地頭が置かれたか否か明らかでないが、それから30数年後、由良庄地頭には入道願生という鎌倉御家人が補せられている。これが、由良興国寺(旧西方寺)の草創と関係がある。
建保7年(1219・承久元年)1月、鎌倉3代将軍源実朝が公暁に暗殺されるが、彼の家臣葛山五郎景倫は、それを悲しみ入道して高野山に入り、法名を願生と号した。この願生は、実朝の死後、間もなく尼将軍政子(頼朝の室)によって、蓮華王院領紀伊国由良庄地頭職に補せられている。由良興国寺の前身西方寺は、この入道願生の開いた寺院で、後に法燈国師(心地覚心)に譲って、これを臨済宗法燈派の本山とした。しかし、当広庄は鎌倉時代誰が地頭に補せられていたのか、確かな史料が管見に入らない。
隣接の湯浅庄は、湯浅宗重が頼朝から地頭職に任ぜられ、歴代南北朝時代まで続いているが、広庄も鎌倉時代承久の乱(1231)ごろまでは、湯浅一門の勢力圏内であり、この一門から地頭職が補せられていたのでないかとの推測も全く不可能ではないが。
これは、数ある湯浅氏系図のその1つに、それを想わしめる人物が記載されているからである。誤記でないこと確かなれば、鎌倉初期、広庄との関係浅からず、次章においては、その人物に主役的登場を期待しているので、ここでは立ち入って触れないことにするが、地頭であったのか、あるいはまた荘官であったのか、その辺の事情は詳らかでない。しかし広庄における在地領主的存在であったと推想が及ぶのである。
さて、次に、さきの『吾妻鏡』に見える蓮花王院領広・由良庄に起きた濫妨事件について、簡単な解説を試みよう。


2  蓮華王院領広・由良庄の濫妨


古代末期から中世初期、広・由良庄は蓮華王院を本所とし、高倉家を領家としたこと明らかであるが、既に述べた如く、七条細工紀太なるもの主謀して、この両庄を横領せんとした。その陰謀が露顕して、領家に訴えられ、一味が処分された事件である。
彼はそれを策謀して、まづ、蓮華王院領広・由良庄の領家を基親朝臣と詐称した。基親は姓平氏。『吾妻鏡』では文治元年8月13日条に左少弁平朝臣、同2年1月7日条に権右中弁平基親、同4年4月9日条に修理右宮城使右中弁平朝臣と見える人物である。七条細工紀太は、この平基親を以て広・由良庄の領家と詐り野望を遂げようとしたのである。
そのころ、両庄の領家は、改めていうまでもなく、高倉範季朝臣であった。その庄官も既に現地に置かれていたこと明らかである。だが、そこにどのような隙があったものか、文治2年、かの七条細工紀太なるもの、平基親朝臣を広・由良庄の領家と偽り、自分はおそらく、その庄官とでも詐称しての年貢詐取計画であったであろう。
ところで、この七条細工紀太丸は、銅細工師であったらしいこと、前掲『吾妻鏡』に見える鎌倉幕府から由良庄官に宛てた下知状によって知り得る。字七条紀太とあるから、もと、京都7条辺にでもいたのであろうか。だが、この当時既に早くから由良庄の何処かに往していたものと思われる。だから、同書に載る領家木工頭範季の訴状に、この七条紀太丸を「子細を知らぬ田舎人、猶以て結構かくの如きの狼籍候欺」と云わしめたのであろう。
さらに、いうなれば、この男、単なる一介の銅細工師でなく、おそらく、その工人集団の棟梁の如きものであったのではなかろうか。でなければ、とうてい、前記の如き不敵な企みをなし得る筈がない。とにかく、ただの細工師でなく、かなり有力な地位に居た者との推想は、必ずしも無稽であるまい。
ところが、由良庄には、果してそのような工人集団所在地が、かって存在したであろうか。『紀伊続風土記』は、由良荘門前村の条で、それに暗示的な記載を行っているのに、まづ、注意したい。同書門前村条(現由良町大字門前)にいう。もと門前大工村と称したと。そして、「この辺の古文書棟札等に興国寺の大工の名多く見えたり」として、その大工・小工の名前を挙げている。そのあとに「又東整文治2年の条に由良ノ荘銅細工字、七条宗紀太濫妨を禁ずるの下文あり又右濫妨に就いて木工頭範季より関東へ遺す書あり」と述べているのがそれである。尤も同書では、はっきり彼の所在地であったとは書いていない。しかし、門前村の条で述べたところに、同書の編者も何んとなく、それを念頭に置いていたのに相違あるまい。
右の地を門前大工村と呼ばれたのは、興国寺の寺大工所在地ということから興った村名であったと解される。
然し、大工村なる起源は、もっと古いものであったかも知れない。 それが、興国寺がそこに出来たことによって門前大工村なる地名が新たに生れたのであるまいか。古くから大工村であったと見る理由と謂うのは、前引木工頭範季の訴状の中で「彼庄相違い候ば、桧物具等叶べからず候」と述べられていることである。彼の庄とは広・由良庄を指すことに間違いないが、この桧物具 (曲げ物ともいう。松・杉などの薄板を曲げて作った器のこと)など製作の細工師集団地が、後の興国寺門前村であったのではなかろうか。なお、この地は桧物師ばかりでなく銅細工師なども居て、文治のころ、それら細工工人集団の棟梁が、彼の七条紀太丸であったと解せられないであろうか。

そして、この工人集団の地なればこそ、大工村であり、興国寺建立時には、その中からその仕事に携わる大工も出、その後も大工として子孫業をなしたのかも知れない。
さて、由良庄に往していたと思われる七条細工紀太丸が濫妨を企てたについて、広・由良庄の領家高倉範季から院庁にも訴え出た。そして、文治2年閏7月24日の文書に下記の意味が述べられている。かの庄に違変があれば桧物具等、熊野参詣の所用を叶えることができない。それには先年来持田郷(伊都郡笠田荘)が勤仕してきたが、高雄寺(京都神護寺)の庄となったので、今はなおのこと、広・由良庄の任務が重大である。そこで、取り急ぎ処置下されたいと。処置とは、無法な濫妨を企てた七条紀太などの罪科に対する処分である。
ここで、あらたに、広・由良庄の桧物具等に関する知見を得た。それは、この庄で製作された曲物も、当時、熊野参詣の所用に勤仕したということ。そのころ、上皇・法皇・女院・公卿など宮廷貴族達の熊野参詣盛んな時代であった。その諸入用は沿道諸庄はじめ遠近諸庄の奉仕に俟つことが多かった。広・由良庄では特産品の桧物具などをもその用に供したのであったらしい。年来倖田庄がその役目を果たしてきたが、同庄が神護寺領となるに及んで、広・由良庄の役目が一層重要性を加えたということであろうか。それが、七条紀太の如く濫妨を惹き起すと、とうてい、順調にその勤めを果たし得なくなるということ、特にそれを付け加えての領家からの訴えであった。
そこで、その訴えによって、ただちに検非違使平六兵衛尉時定の代官則国が、広・由良庄に派遣されて実状調査が行なわれた。是によって一味の罪状が明らかになり、彼等は捕えられて処断。その顛末が、文治2年9月11日付の下文を以て、蓮華王院領広・由良庄に知らされている。
それによると、この陰謀は七条細工紀太のみの企てでなく共謀であった。 その共謀者の中に藤三次郎吉助丸という者がいた。この男はかって源頼朝に任え、藤内と号し、今は吉助といった。しかし、もと頼朝に仕えていたとは真っ赤な嘘であった。吉田中納言阿闍梨の召使とかで院宣にも従おうとせず、種々悪口を放つ痴れ者。そうして、云うに、わが兄弟は、伊与(操)国において北面の武士2人の頸を斬る。それでも沙汰に及ばなかったと豪語に及ぶという有様。だが、陰謀露顕、事ならずとなると、夜中俄に逃亡して姿を晦ました。この吉助は、貞能法師の郎従高太入道丸の舎弟で、このたび広・由良庄に濫妨を企み、蓮華王院御庄を横領せんとした罪科は軽くない。
また、件の阿闍梨は、七条紀太から文書や賄賂を受取り、北条小御館と相語って謀略に組していたという。そこで、この阿闍梨と七条紀太は院庁(院政の役所)に召取られ、厳しい刑罰を課せられたので、後日再びかかる狼籍はないであろうとのことであった。
大体、以上が「吾妻鏡』から窺い得た蓮華王院領時代の当地方の1出来事である。その時代というのは、上に見た如く鎌倉初頭であった。荘園制社会の1断面が示されているといえるであろう。尤も当地方といっても、どちらかといえば、主要舞台は由良庄であった。だが、上記に見た事件の範囲は、蓮華王院領広・由良庄全体に及ぶ出来事であったことはいうまでもない。
前述の那智山尊勝院文書と上記吾妻鏡。この2つは、当広川地方に関する限り、荘園史料として双壁をなすといっても過言でない。しかし、以上において、この好史料を充分に駆使し得なかったのは、勿論、筆者の未熟さによるものである。


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9、熊野路の昔



1  熊野路往還の地




広川町が広荘と呼ばれた長い期間、熊野路往還の地であった。
この熊野路は熊野参詣の旅人によって頗る殷賑を極めた時代があった。世俗この殷賑の有様を「蟻の熊野詣」の言葉で表現した。その時代は古代末期から中世にかけてである。此の間の初期のころは、上皇や女院、その他宮廷貴族が主であり、中期には武家や武家の女性が多くなり、末期ともなると一般庶民が参詣者の大半を占めるという変化があったが、そのうち特に有名なのは、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての所謂「院の熊野詣である。院政時代、上皇やその女院が多くの供奉者を随えて、この熊野路を行列をなして往来した。また、宮廷貴族の中には、院の供奉者としてでなく、独自の熊野参詣を行なったこともしばしばあった。それらのことが古来文献に現われているので、その一端をいまもなお知ることができる。
当広川町もその昔、熊野路沿道の住民は、年毎通過する院の宝駕を伏拝み、その行列に驚嘆の眼を見張ったことであろう。なおそればかりでなく、沿道諸荘は可成りの経費負担を免がれなかったのは事実である。
それらの経費は、最終的には農民達の労働の結晶によって賄われたことは今更贅言するまでもないであろうが、その反面、熊野路往還の地として、熊野信仰に源を発する文化と京の都からもたらされた中央文化の2つの流れが当地方在来文化に融合して、この地方の文化発展を促したこと、また否定できない事実である。

2  院の熊野詣


古代後期から中世へかけての熊野信仰隆盛期における、上・法皇をはじめとする貴顕紳士の熊野参詣は、種々の面で、この地方に及ぼした影響は決して無視することはできないであろう。その意味から、次に、院の熊野詣を中心に当時の模様を略記して見たい。
さて、院の熊野詣のことが見える文献は可成り多い。そのうち、比較的手にしやすいものをあげると、例えば 『栄花物語』 『源平盛衰記』 『大鏡』 『愚管抄』 『明月記』 『元亨釈書』 等あり、その他 『中右記』 『長秋記』 『兵範記』 『梁塵秘抄口伝集』 『本朝世紀』など数えられる。なお、これら古典に基づいて述べた近世・近代の著書は甚だ多い。
ところで、右のうち『明月記』に記載の後鳥羽上皇熊野御幸記は、その内容最も詳しく著名である。それで、ここでは『明月記』に見える後鳥羽上皇熊野参詣の模様を中心に、他の文献に見える古代後期から中世初期における院の熊野詣のことを若干述べることにしたい。
ところで『明月記』とは、鎌倉初期の歌人として有名な藤原定家(1162~1241)の日記集である。同書に、鎌倉時代初期、建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の熊野参詣に供奉した定家はその時の模様をつぶさに日を追って書き留めている。後鳥羽院第4度目の参詣御幸のときのことである。
建仁元年10月5日、早暁、御精進屋を出御。この時の供奉者は内大臣源通親を筆頭に、公卿・殿上人20余名。先達・導師各1名。北面武士多勢。定家は、諸種設営役を承って先駆した。

後鳥羽院一行は、京都鳥羽から船で淀川を下って大阪へ。大阪からは陸路熊野に向かうのである。途中、要所要所に祀られた、所謂、熊野九九王子社に詣で、奉幣や経供養を行なう。熊野九九王子社は、大阪天満附近の窪津王子を第1王子として、順次熊野那智山まで熊野路の要所要所に祀られていた。当広川地方では、津兼王子、井関王子、河瀬王子、馬留王子等があった。この九九王子社の外、四天王寺、住吉社、日前・国懸宮にも経供養や奉幣等が行なわれ、途々何かと行事が多く、都を進発して4日目即ち10月8日紀伊国藤白に着く。ここは必ず往還の宿所であった。特に藤白王子社(現在の藤白神社)は5体王子(熊野九九王子のうち、藤白、切目、稲葉根、滝尻、発心門)の1所として有名。歌会の外、翌朝白拍子の舞なども催され、見物者が雑踏して、定家は院の宿営に参る能わず早々に藤白坂をよぢ昇ったと記している。
10月9日朝、藤白王子社前の経供養や白拍子の舞などで、上皇の一行はやや遅立ち。蕪坂を越えていよいよ有田の地に入り、その日の夕刻前一行の行列はこの日の宿所である湯浅に到着。上皇は仮屋の御所に入られる。途中、宮原では蕪坂麓の山口王子、糸我では糸我王子、吉川の逆川王子(今の吉川神社)に詣り、昼の休憩は宮原の昼養所で行なわれている。現在も有田川岸辺に「お茶の芝」と呼ぶ旧跡があるのは、その跡という伝えがある。
ところで、藤原定家は、前夜、藤白でもそうであったが、湯浅においても院の仮御所から3・4町先の小宅に民宿する。その時の有様や、後鳥羽院湯浅宿営での模様がつぶさに窺える。定家の日記『明月記』に見えるところを、隣接地でのことでもあり参考のために若干叙述しよう。
定家は、自分の宿所として最初予定していた家が、忌中のため急いで変更せざるを得なかった。そして、寸時にせよ忌中の家に足を踏み入れたため祓いを行なわせた後、さらに海岸に赴き潮垢離をして身を清めた。古来、わが国では死の穢を非常に忌嫌う風習が強かった。特に神詣での場合などは一層厳重な精進を行ない械を清めたあとでなければ行うべきでないとされていた。
定家は前日から少し健康を害していたにもかかわらず潮を浴び、夜には院の御所での歌会に参上し講師を仰せつかった。この夜の歌会の詠題は「深山紅葉」と「海辺冬月」であった。彼の詠歌が載っているので左にあげると、

こえたてぬあらしもふかき心あれや
み山のもみぢみゆきまちけり
くもりなきはまのまさごにきみがよの
かずさへみゆるふゆの月かげ


の2首である。このたびの熊野御幸では、湯浅の宿所の外、住吉神社、平松御所(泉州の宿所)、藤白、切目、滝尻、本宮、新宮、那智など各所の宿所で歌会が催されている。詠歌は懐紙に認めるのを常としたから、これを「熊野懐紙」といって、いまも有名である。
さきに、定家は湯浅の海辺で臨時の潮垢離を行なったことを記したが、彼はそのあと「此の湯浅の入江の辺り松原の勝形奇特也」 と激賞している。既に述べた如く、当時、現在の広川河口附近はもっと湾入して風光明美な入江をなしていたらしい。
さて、明くれば10月10日、いよいよこの日は院の行列、広川地方通過である。都を出発して6日目。『明月記』には「10日、夜より雨降る」とある。夜来の雨も10日の朝「遅明止み、朝陽漸く晴る。昼天なお蔭る。払暁に雨を凌いで道に赴く」と見え、まだほの暗いうちに、雨の中を湯浅の宿所を出発された。そして「程なく王子御座と云々。但し路遠きによって、路頭の樹に向って拝す云々」とある。この王子は、湯浅町大字別所字雲崎の「久米崎王子社」である。現在は国道42号線が傍を通り、最近まで老松が残っていたが今はそれも無くなった。だが、1基の記念碑が建てられているので見当だけはつく。
ところで、建仁元年、後鳥羽上皇熊野詣の時、既にこの王子社のそばを通らなくなり、路は幾分西寄に移動していたらしい。そのため路頭の樹に向って遙拝したのであろう。
『中右記』天仁2年(1109)10月の記事中に「次過由和佐里、次於弘王子社奉幣」と見える。弘王子社は、この久米崎王子社だとの説がある。 同書は、中御門右大臣藤原宗忠の日記集(寛治1年保延4年、108711138)。
上記したのはその中に見える宗忠熊野参詣の時の記事である。弘王子が久米崎王子に間違いないとすれば、平安時代後期天仁のころには、熊野路はまだこの王子社のそばを通っていたのであった。それから92年後の鎌倉時代初期建仁元年には、最早やそこを通らなくなっていたということである。(註、1説に弘王子社は、井関の津兼王子社と見る向きもある。)
さて、後鳥羽上皇一行は久米崎王子社を遙拝して、いよいよ広川地方に入るとまもなく高城山麓から名島、柳瀬、殿の東部と山裾を通って井関の方向に進まれた。そして、次は井関王子社に参詣。ここでふたたび定家の簡潔な名文をあげておこう。

「次に井関王子に参る。此所に於いて雨漸くやむ。夜また明く。次にツノセ王子に参り、次にまたシシノセノ山をよぢ昇る。崔鬼の嶮岨。厳石は昨日に異ならず。此山を超えて沓カケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて樹陰滋り、路甚だ狭し。此の辺りに於いて昼養御所あり云々。又私に同じくこれを儲く。暫く山中に休息して小食。此所に於いて上下、木の枝を伐り、分に随って槌を造り、榊の枝に付けて、内ノハタノ王子に持参して、各これを結び付くと云々。」  (那智叢書第6巻、荻野37彦氏解読『熊野御幸記』より)

少し引用が長くなったが、右の名文によって、その道すがらの情景がありありと眼に浮かぶ。特に鹿ヶ背山の嶮しさ、その山路の狭いこと、今もなお昔の姿そのままといえるようである。鹿ヶ脊山を越えた日高郡の原谷に、今も絶王子の名が遺る。興味深い木槌奉納の風習はなくなっても、その名が残り、且つ鎌倉初期第一流の文人、藤原定家の筆になる「明日記」中の熊野御幸記(熊野道之間愚記)は、長くその事を伝えるであろう。
さて、院の御一行はこのように路々の王子社に奉幣や経供養を行ない、泊まりを重ね、宿所では歌会も催しつつ熊野本宮に御到着は10月16日。御出発の日から12日目である。熊野では本宮、新宮、那智山と御巡詣し、三山ではそれぞれ、舞、相撲、歌会など催され同月21日本宮を発って還幸の途につく。帰りは途中の行事がないので、湯浅の宿所又は、23日午のはじめごろに入られる。そして翌朝暁に出立され、雨の中を蕪坂、藤白山を越え、同月26日早朝鳥羽の御精進屋に入御の後、二条殿に還幸となられた。実に21日間を要した長途の行幸であった。
以上が大体「明月記』によって、建仁2年後鳥羽上皇熊野参詣の折を極めて断片的に記したのである。だが、他の上皇・法皇の場合も、供奉者や随従の北面武者の数に幾分差異があったであろうが、路々の行事その他については同上皇の時と大差なかったであろう。
ところで、広川地方所在の王子社で定家の『明月記』に見えるのは、井関、ツノセの2社である。だが、この外に古来その名の遺る王子社が1・2社ある。古いところでは津兼王子と白原王子。やや時代が降ると思われる馬留王子。この3社が「明月記」に見えないのはそれなりの理由があったに外ならない。そのことも含めて、かって当地方に所在した諸王子社について、後述で若干説明を加えるとして、まず、院の熊野詣にはどれ程の供奉者とどれ程の諸式が伴ったか『中右記』の記事から窺って見たい。
平安後期、元永元年(1118)白河上皇熊野御幸の時には、総員814人、1日の根料16石2斗8升(1人当り2升) 伝馬185疋。宮地直一博士は、この1日の根料16石2斗8升を、日程30日間として、御幸期間中の所要量を488石4斗と計算している(『神祇史の研究』)

右は、おそらく最大の事例であろうが、女院単独の参詣を除けば、各院各回の熊野御幸は、前記事例に及ばずとも遠からずということであろう。もっとも、連年参詣を繰り返された鳥羽・後白河・後鳥羽3上皇の場合はそれ程でもなかったかも知れないが。だが、建暦元年(1211)後鳥羽上皇17度目の熊野参詣の時、日高郡小松原宿1所の根料は往復2日分で98石を計上せられた。1日分49石の勘定となる(宮地博士前掲書に、新宮文書同年2月後鳥羽院廳下文により記載)。
とにかく、1回の参詣には根料やその他諸費は、実に莫大なものであったらしい。そして、熊野参詣は、法・上皇にとどまらず、女院、貴族達にもその風習が及んだ。だからこそ、藤原定家は『明月記』の中で「天下貴賤競南山、国家衰弊又在此事」と慨欺をもらしたのである。院、女院の参詣には必ず、沿道の国司・郡司の課役や同諸圧の課役が伴った。さきにも記した如く、結果的には農民の負担となって肩に掛って来たに相違ない。
ところで、院の熊野詣はどの位の回数行なわれたか、次にあげると

宮地博士 「日本神祇史研究」 「和歌山県聖蹟誌」
宇多法皇     1度      1度
花山法皇     1度      1度
白河上皇     9度     12度
鳥羽上皇   21度    23度
崇コ上皇     1度      1度
後白河上皇  33度    34度
後鳥羽上皇  28度    29度
後嵯峨上皇    2度      2度
亀山上皇     1度      1度
計      98度     103度


なお、後鳥羽上皇は少くとも31度の熊野御幸をされたのではないかとの見方もある。王葉和歌集に31度目の時の御製が載せてある。
次に女院の熊野詣は、法皇に同伴の場合と単独の場合とあるが、『和歌山県聖蹟誌」より転載すると


待賢門院  9度
美福門院  4度
建春門院  3度
八条院   3度
七条院   4度
殷富門院  1度
修明門院  5度
承明門院  1度
陰明門院  1度
大宮院   1度
東二条院  1度
玄輝門院  1度
計   34度


右のほか皇族に、道法法親王、道助法親王達の熊野参詣が知られている。なお、ついでに記すと貴族の熊野参詣は、法・上皇に供奉しての場合もあれば、単独の場合もあって、回数の多いところをあげれば、藤原康頼は33度参詣を宿願して、18度に及ぶことが『源平盛衰記』に見之、藤原長房の21度、源有雅・藤原信能の各13度、藤原宗行の22度、藤原成重の16度等である。 (宮地博士『熊野三山の史的研究」)
上記した女院の熊野参詣の意外に多いことは、特に眼を惹くところである。定家の『明月記』を見ても判るとおり、当時の熊野街道は畷阻な山路が多く、男性でも決して楽な旅でなかった。にもかかわらず、宮廷女人の熊野参詣が甚だ多かったことは、如何に女人の間に熊野信仰が盛んであったかを物語るものである。さればこそ、さきに述べた如く、平安後期応徳3年、藤原氏出身の女官が比呂・宮前荘において、それぞれ免田拾参町5反を寄進したのである。
上記の如く能野信仰隆盛の陰には、熊野御師・先達の朝野之の働きかけの功績が見逃せない。

3  広川地方熊野路旧跡


熊野三山(本宮・新宮・那智山)信仰が、本地垂跡説に基づいて漸く盛んになるのは平安時代からである。
初は修験道の道場として行者の厚い信仰を集めた。そのころから熊野参詣路が開けたのであろう。平安後期には前記したように、法皇・上皇・女院・その他貴族の間に、現世利益、後世安楽を祈願して、この嶮咀な熊野路を、長途の労苦もいとわず、頻繁に往来した。それが鎌倉初期、承久の乱ごろまで続いた。雲上人の熊野参詣行列はあたかも蟻の行列の如くであり、世に、蟻の熊野詣の言葉を生むに至った程である。もっとも、蟻の熊野詣の里言は、高貴の人々の場合のみを指したのでなく、その後、武家階級やさらに後世の庶民熊野参詣の有様をも評した言葉であったかも知れない。
とにかく、古代末期から中世にかけて、熊野路の殷賑を極めたことは既に述べたが、この広川地方にも当時の遺跡が幾つか所在する。今は殆ど人々に忘れられようとしているので、次に略記しておくことにしたい。
井関王子社  広川町では、まずこの王子社からあげよう。明治末期神社合併のころまでは大字井関小字先開にあったが、合併に際して津木本山八幡神社に合祀されたと伝えられる。近代までの旧熊野街道と云われた道路の東側で、旧井関橋を渡るとすぐ台地があり、そこが井関王子社の所在地であった。しかし今は全く跡形もない。
定家の『明月記』などに見える井関王子はこの社のことであろうか。
津兼王子社 

江戸時代末期(慶応の頃)を追想した梶原氏の井関地図より 津兼王子が見える
 ところで、井関王子旧社地の東方およそ3百程の地点に、近年まで椿の小さな森があった。現在は柑橘園となり、その跡形も明らかでなくなった。だが、そこが井関王子社成立以前の津兼王子社の旧跡であるとの説と、井関王子即ち津兼王子とする説がある。(那智叢書第7巻『九九王子巡拝記」は後者説をとっている。)津兼王子跡は津兼の入口に遺り、古い時代にはその辺が熊野路であって、今に古道の跡が遺る。
前記2王子社の関係について、およそ次のような推測が可能である。
湯浅方面では、別所の久米崎王子社のそばを 熊野路が通じていた古代後期には、広川地方でも、柳瀬を通って井関の東部に入った。井関に入ってからも東部山ぎわを真直ぐ南に進んだのである。その途中に当る津兼に、王子社が祀られたのであろう。それが、時代が降って、路が西側に替ってから、井関では津兼王子の遙拝所として、先開にとりあえずその祭場が設けられたのでなかろうか。それがやがて、井関王子と呼ばれるようになったと想像される。鎌倉時代ごろともなると、先開の井関王子社が、広川地方において最初に参詣する王子社となっていたらしくもある。



河瀬王子社  『明月記』に「次に井関王子に参る、(中略) 次にツノセ王子に参り、次にまたシシノノセ山をよぢ昇る」とあるが、この文中に見えるツノセ王子は、河瀬王子のことである。ツノセは川の瀬との説(『続風土記』)と、津の瀬が正しいという説 (芝口常楠著『葵羊園叢書』所収「ツノセ王子考」 および 『湯浅町誌』の編者西尾秀) があるが、いずれにしても、今なお社地が歴然と遺っているのは、この河瀬王子のみである。現在も津木本山八幡神社の渡御所となって、河瀬橋南詰に森があるが、これ程はっきり旧社地が保存されているのは、余り例が多くない。
白原王子社  上記の河瀬王子の前身は白原王子である。この王子社の名が見えるのは、『中右記』である。同書には「於同弘河原昼養、午剋暫休息之後出此処、於白原王子社奉幣、「件王子近代初出来、有其験者」 と、天仁2年(1109)10月、藤原宗忠が熊野参詣時の記に見える。宗忠は由和佐里(湯浅の里)を過ぎて、次の弘王子社(久米崎王子社とする説と、津兼王子とする説とがあるが、今いずれとも決して兼ねる)に幣を奉り、そのあと午の時刻となったので、弘河原(広川原)で昼食をとり、暫く休息の後、此処を発って、また、白原王子社に奉幣したというのである。それに付け加えて、件の王子(白原王子)は、このころ新しく祀られた王子社で、その霊験あらた かであるといっている。
ところで、白原王子社とは、白原に祀られていたからその名が付いたのである。井関の南端に今も小字名白井原がある。往古の白原からの転訛に相違ない。そして、白原王子の社地は、河瀬橋北詰側の山麓にあったと伝えがある。この白原王子が、河向うの河瀬に移され、河瀬王子となったと見られる。

馬留王子社  河瀬王子からさらに南に向うと、鹿ヶ谷山麓に、馬留王子社があった。このあたりから鹿ヶ脊の山路となるので、馬留の称があるのであろう。今は路傍に小さな石の記念碑が建てられているが、(殿、楠本謙1氏の造立)旧跡と見られる場所は全く姿を消している。『明月記』の後鳥羽上皇熊野御幸記にも見えないので、建仁以後の祭祀であると想像される。以上が、わが広川町に、かって祭祀されていた王子社である。その都度述べたとおり、現在では旧社地も不明となっているのが多い。それと共に人々の記憶からも次第に消えてゆこうとしている。せめて、本町誌にその跡を詳しく載せて後世に残したいが、今はそれもむつかしい状態と謂わざるを得ない。

鹿ヶ脊山  『明月記』後鳥羽院熊野御幸記に「次にまたシシノセノ山をよぢ昇る。崔鬼の嘘咀。厳石は昨日に異ならず、此山を超えて省力ケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて樹陰滋り、路甚だ狭し。」と、藤原定家は、鎌倉初期当時の鹿ヶ脊山状景を簡潔な文章で綴っいるが、それ以前も大体同じような有様であったらしい。藤原宗忠は『中右記』に、天仁元年の熊野参詣記事を載せて、次のように述べている。  「次登鹿瀬山 登坂之間18町其路甚嶮岨 身力己尽 林鹿遠報 峡遠近叫触物之感、 自然動情」 平安時代には、この附近の山間に鹿が住み、遠くの林や近くの谷間で鳴き声がしたらしい。そして見るもの聞くものみな自然の情を動かすものばかりであると、世俗を離れた静かな情景を叙している。
ところで、いまは昔程の深山幽谷でなくなったが、この人里離れた鹿ヶ脊山の峠には古い時代の伝説地が残っている。即ち、法華の壇である。深山峻咀の難所ならではの奇怪な伝説を『元亨釈書』より転載しよう。即ち、骸骨法華経読誦説話である。原漢文は別のところに掲げられるので、ここでは訳文を載せることにする。拙い訳文であるが、左の如くである。

釈円善、叡山東塔院に居り法華を誦す。
適熊野肉脊山に遊び卒す。其後沙門壱叡と云う者有り行きて山中に宿す。中夜に法華経を誦するを聞く。其声微妙なり。叡以て為す。先にまた人有りて宿すと。1巻己り礼拝懺悔。又1巻読む。毎巻かくの如し。天明けたれど人無し。傍に骸骨有り 支体全て連る。青苔遍く鎖り。衣服に似る。想うに久しく歳月を経ると。髑髏の口中に舌有り紅き蓮の如し。叡見るこの感恠(不思議)所由を視んと欲して次の日も去らず。夜に入って経を誦すること昨の如し。暁に至って叡起きして曰く。既に経を誦するは必ず心語有るからならん。願くは本事(真相)を聴し給へ。以て霊感を伝えん。骨人答えて曰く。我はこれ台嶺(比叡山)東塔院の某なり。此処にて死す。生平(生前)堅く誓を起して法華経6万部を誦す。存日わずかに半数にて天し。願力抜けず。そのため此処に住してなお経を誦むのみ。今己に終りに殆(近)し。此処に居ること久しからじ。此処を去って兜卒内院に生を当(得)る。 叡聞き了り骨人に礼をして去る。翌年又来たれば苔骨見えず。

右の霊柩談は元亨釈書巻19に載るものである。同書は鎌倉時代末期、虎関師錬の編述にかかり、わが国に仏教が渡来してより鎌倉時代に至るまでの桑門伝(仏僧伝 )である。元亨2年(1322)、虎関が上表して大蔵経に入れられんことを乞うたので元享釈書と称するという。
ところで、この伝説の祖型が、『日本霊異記』に見える。人物と場所が異るが殆んど相似ている。なお、『今昔物語』にも同様のが載る。前記した如く、古代末期から中世、熊野参詣路の難所として聞こえた鹿脊山が、何時しかこの物語りの舞台となったのであろう。
右の怪異譚はよく知られているところであるが、案外今日まで知られていない仏教関係史実がこの鹿脊山に存在するかのようである。京都妙顕寺旧記『日像門家分散之由来記』中の「像師御流罪地/事」に、鎌倉末期延慶3年(1310)から翌応長元年の1ヵ年間、「紀ノ国師子セ」に配流となるとある。日像は日蓮の孫弟子で京都に日蓮の教を布教するにつけて比叡山の弾圧を蒙り、院宣によって前後3回配流の身となるが、その1ヵ所が、この鹿脊山と考えられるのである。この事については後章および宗教篇でやや詳しく触れることにしたい。
なお、その後、南北朝時代、上記日像開基の妙顕寺の大覚大僧正が、待僧朗妙を伴なって、釈円善伝説地であり、なおまた、開祖日像配所の地である鹿背山を訪ずれ、弟子朗妙をしてこの山中に草庵を結ばせてたのが、後の広養源寺の起源と伝える。 (養源寺縁起その他)
さて、前記伝説によってか、はたまた、史実によってか、この山上に法華経塚なる遺跡がある。現在、壇上には日蓮聖人の供養塔として五輪石塔が建立されているが、中世末期か近世初期の造立であると看做される。
ところで、この山中には、平安時代後期、既に、草庵が所在したらしいことが当時の文献に見える。それは、永保元年(1081)9月、勧修寺為房卿(参議大蔵卿藤原為房)が熊野参詣の日記『為房卿熊野参詣日記』に、次の如き記事がある。

28日戌の刻、鹿ヶ瀬山中に着し草庵に宿す。

熊野参詣往還の峠として、この草庵が時には右の如き貴顕の宿舎となったのであろうが、勧修寺為房よりも、さらに早く、増基法師 もこの山中で1夜を過されていること、同法師の筆になる『いほぬし』に「ししのせ山にねたる夜鹿の鳴を聞て」と前書して、歌1首を載せている。

うかれけん妻のゆかりせの山の名を尋ねてや鹿も鳴らん

古来、この山中には鹿が多かったらしい。前記『中右記』にも藤原宗忠が、その声を聞いた時の感情を記している。ところで、鹿背山のことが最初に見える文献は、上記『いほぬし』である。同書は平安中期延喜ごろ(901〜922)の著作とされているから、そのころ既に熊野街道として鹿背山を越えたことが知り得られる。
鹿背山に関することを挙げると、まだまだ多い。しかし、別章や別篇で同山に関する記事を扱かうことになるであろうから、それとの重複もある程度避けて、以上で止めたい。


(追加 井関円光寺住職 野村隆章氏 作成)

4  『熊野詣日記』から


極めて最近、思いかけず熊野参詣に関する貴重な史料を知見するを得た。これを機会に、若干、熊野路の昔を書き加えたい。その内容は室町初期に属する故に、前記の続編ということになるであろうか。特にこの史料によって、わが広庄の地が貴人の宿所となったこと、それに関連して1古伝の裏付けを得た。

熊野那智大社から『那智叢書』が発刊されている。その第17巻目「熊野詣日記解説」が、昭和46年10月1日に出された。何時も乍ら本篇の筆者も寄贈にあずかり、御厚意を感謝しているところである。
この熊野詣日記というのは、足利義満側室北野殿、義満の女南御所、同じく今御所の一行が、室町時代初期、応永34年(1427)9月半より10月半までの約1ヶ月間にわたる熊野三山参詣の実録である。同日記の筆者は、往心院実意という先達。その写本が宮内庁書陵部蔵本として伝わる。今般同部嗣永芳照氏の解読文を付し、那智叢書の第17巻として発刊された。
さて、同書をここに挙げたのは、北野殿一行が、9月23日、宿泊地とされたのは、当地方であったからである。
一行が京都を出発されたのは9月20日。そして23日、藤代たうげ、いとが坂、さかさま川王子を経て、御宿ひろに到着。同書に

御宿ひろ御まうけ玉木くたるおり済々まいる
24日天晴
ししのせのたう下にて御こしやなひ(やしなひ)
御ひる内の畑


とある。以下略するが、24日の宿は左の如く記されている。

御宿上野、御まうけはしの湯川

ところで、右に引用した「御宿ひろ」とは、広庄内であること間違いないが、その何処であろうか。ひろとあるから、現在の広に決っているといわれるかも知れないが、当時の状況から推す場合、必ずしもこの説は当を得たものといい難い。いまの広は、そのころ果して広と呼ばれていたか否か疑問だし、貴族婦人の宿所となる場所であったか否かも疑問である。本篇最初の章以来、しばしば触れたことであるが、現在の広が要衝の地となるのは、室町時代でも、もっと後であったと考えられる。右にいう「ひろ」とは、おそらく、当地方を代表する地名で、当地における熊野路宿場もかく呼ばれたのであろう。このときの御宿ひろは、現在の広でなく、後世宿場として発展した井関辺でなかったかと想像される。その濫鵬は室町初期、或はもっと遡るのであるかも知れない。
先記した如く、湯浅は古来の熊野路宿場として有名であった。広庄の井関・河瀬が宿場となったのは、湯浅よりも後であったであろう。その後というのが、はっきりしないが、応永ごろには、既に始まっていたと解される。
なお、もう1つ注意を惹くのは、御宿ひろの下に割註の如く小さく2行に書かれている詞である。即ち、 「御まうけ玉木くたるおり済々まいる」とある記事。
御まうけ玉木とは、宿所の設けは玉木の奉仕という意味であるが、この玉木とは玉置氏のことであろう。同氏は日高の土豪。かって、当地津木方面も同氏の所領であったとの伝説がある。確かな史料に接し得なかったので真疑の程に多分の疑いを抱いていた。ところが、今回、図らずもこの「熊野詣日記」によって、それが傍証された如くである。
伝説では何時のころとも解からなかったが、この史料に拠れば、室町初期応永のころ、玉置氏が、広庄全体とは云えないが東南部地域の所領者であったらしい。応永34年、北野殿(西御所高橋殿)および南御所大慈院聖久・今御所と呼ばれる聖久の後の大慈院主(南御所黒尼)一行の熊野参詣に際して、この庄内に宿所を設けて奉仕した史実は、その辺の事情を物語るものとして殊に注意を惹くところである。

玉置氏が津木方面を所領したとの記載が、森彦太郎氏著『日高郡誌』にも見える。だが、それが何時のころに始まったのか、皆目見当がつかなかった。この点では伝説と異るところないに等しい位にしか受取り得なかった。
それが少くとも室町初期ごろからと、推測し得る史料に接して安心すると共に、地域の点でも単に津木方面だけに止まらなかったとの判断に達してよいとの示唆を得た。
この判断に対応する資料として、本歴史篇の第1章の部分を顧みたい。その章のある箇所で室町初期から同末期の間、広庄は東西に分けて呼ばれ、東広庄・西広庄の区別のあったことに触れた。応永15年(1408)の上津木熊野権現社棟札に見える東広庄、大永2年(1522)の名島能仁寺文書に記された東広庄。時代的にいえば室町時代殆ど全期。地域的にいえば津木方面から名島にかけての広川地方東南部一帯は、かく呼ばれたことは明らかである。何処を境としたか不明だが、同地方の西北部は西広庄と称されたであろうことは、西広の地名が遺る事実から推して想像に難くない。室町初期から広庄を東西に区分して呼称するようになったのは、東部と西部で所領者を異にしたという様な事情からではあるまいか。そのとき東広庄の地域は玉置氏の領地で、西広庄の地域には、また別の領主がいたのではなかろうか。例えば、西広鳥羽氏の如きは旧領千7百斛(石)を領したと同家伝書にいうから、西広庄領主は鳥羽氏であったかも知れない。同氏については、既に前章で触れ、さらに後章で略叙するから、ここでは、ただ1つだけいうことにすると、応永18年(1411)、広八幡社境内に祭祀されていた荘の天神を、庄民の争いから山本光明寺境内に遷宮したというが、その時の主役は鳥羽氏であったという。
さて、天神社遷宮の原因となったと伝える庄民の争いとは、いったい何であったか。その辺の事情を伝えた史料は見受けないが、そのころ既に広庄が東西に分かれて何かの対立があったと想像される訳である。室町時代初期ごろから始まったと推測される東西の対立というのは、想像を逞しくすれば、東西支配者間の軋礫というような問題から端を発したのであるまいか。とにかく、荘の天神社と称されて広く庄民の祭祀するところであったと伝える天神社が、室町初期、祭祀地を山本光明寺境内に遷して、山本・池ノ上・西広・唐尾4ヶ村の天神社としたところに、何かそうせざるを得なかった新事態が発生したのだと思う。
足利義満側室北野殿一行の熊野詣に際しての御宿ひろと、その宿所設営者玉木(玉置)のことから、意外な方向に叙述がそれたが、津木が玉置氏の領地であったという伝承が、虚伝でなく実伝であったことを今回計らずも 「熊野詣日記」 に拠って知るを得た。それに関連して、室町時代初期から当庄が東西に分けて呼ばれるようになった理由も、前記『熊野参詣日記』によっておよそ見当がつき得たとひそかに想っている。
さて、北野殿一行は9月23日、御宿ひろに1夜の旅枕を休められ、翌24日、輿は鹿ヶ脊峠の難所を越え熊野路も日高郡に入る。その夜の御宿は同郡上野。宿所の準備は日高地方の豪族湯川氏が受持った。たいてい、その地の領主が宿所を設備して待つのが習わしであった。
熊野参詣路の中で有田・日高の郡境、鹿ヶ脊峠は、古来、嶮咀の場所として有名。北野殿一行も 「ししがせのたう下にて御こしやしなひ」 と、この峠に興を休めて1息入れられた様子が記されている。そして「御ひる内の畑。」
槌の王子では槌を作って木の枝につけて、「徳ありくとはやしまいらするなり」と、古来の風習そのままである。
昔の旅というものは、現代人のとうてい想像も及ばない労苦があった。それでも、信仰心篤い昔の人は、その労苦をいとわず熊野路や伊勢路の旅をした。旅の路々で神に供物を捧げて旅の安全と身のしあわせを祈願した。
その習俗の1つが槌王子での行事であった。
このように神の加護にすがって上代は主として貴族が、鎌倉時代は主に武家階級が、室町時代以降は一般庶民が有名霊域に信心を運んだのであった。その街道の要所要所に自然と宿場ができるが、熊野街道の井関・河瀬辺が宿場とされることになったのは何時のころからか明らかな史料に接しないが、「御宿ひろ」と記載のある前記 『熊野詣日記』 などは、案外初期史料に属するものかも知れない。しかし、そのころは、いまだ一般庶民が盛んに熊野参詣を行なう時代になっていなかったであろうから、宿場らしく旅籠屋が軒を並べるようになるのは、もっと時代が降ってからであったと思われる。井関・河瀬が熊野街道の宿場として栄えるのは、庶民の旅が盛になる近世が最高であったであろう。勿論、庶民ばかりでなく、武士も宿としたであろうし、様々な階級人が1夜の泊をここに求めて、また翌朝立ち出たのであったが、いまその名残は、僅かに屋号などで、かっての宿場を偲ぶ以外にない。
この井関・河瀬が宿場として繁栄を見たであろう近世のことについては、後述で章を改め若干触れて見たいと思う。熊野信仰によって開けた街道が、その通行者の変遷によって、この街道に織りなした風景にも、また、それに応じた変遷があったであろう。
さらにいうならば、最初、熊野参詣路として開けたこの街道であったが、中世を過ぎると、そのためのみの街道でなくなる。あらゆる階層の人が、あらゆる職業の人が、あらゆる所用のために通行する街道に変化する。現在多少道筋が変ったが、国道42号線は熊野街道である。観光紀州の動脈線というべきであろうか。ここに歴史の変化を眼のあたりに見る思いがする。


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10、謎の在地領主広弥太郎


1  堀ノ内


堀ノ内と称する地名は、たいてい、中世豪族屋形跡に遺るそれであるという。この広川町の地にも堀ノ内と呼ばれる小字地が所在する。大字南金屋と同東中にまたがってこの地名が遺っている。南金屋に属する方は堀ノ内、東中に属する部分は東西に分けられ、東堀ノ内、西堀ノ内と呼ぶ。この3小字地は相接して所在し、広八幡神社の森と男山丘陵の北部にして、広川沖積平野のうちの高所部に位置している。いまは、水田と柑橘園となっているが、つい近年まで東堀ノ内には、大きな古井戸が残っていたという。
中世豪族屋形を堀ノ内或は土居と称するのは、屋敷の周囲に水を満した堀をめぐらし、さらに、その内側に高い土手や生垣を造って外敵の侵入に備えたからである。堀の内の中には、居宅の他、郎従や下人の長屋および馬小屋などの建物があるのが普通で、そのうえさらに、耕地まで含まれていた場合が少なくなかったから、堀ノ内は広大なものが多かった(豊田武者『武士団と村落』)
南金屋と東中に跨って現存する堀ノ内は、前記の如く堀ノ内・東堀ノ内・西堀ノ内と3小字地に分割されているが、もとは1つの堀の内、即ち、中世豪族屋形地であったのであろう。とすると、この広大な堀の内を構えた豪族とは、一体誰であったのであろうか。これほど広大な堀の内を屋形としたからには、相当有力な在地豪族であったに相違ない。鎌倉時代以降、有力在地豪族の中には、その地方の地頭職を与えられた例が多いが、広庄においては、そのような地頭も殆んど判明していない。しかし、堀ノ内という地名が遺っている以上、有力な在地豪族か地頭が館とした跡と解される。
右の堀ノ内を館としたのは誰かという詮鑿の前に、このような豪族の存在した中世社会への移行に注意を向けよう。といっても、本書では詳細にわたって述べることも妥当でないから極めて簡単に触れるに止めたい。
1時の栄華を誇った平氏も、壇ノ浦の戦に敗れ、これを破った源氏の棟梁源頼朝が鎌倉の地に武家幕府を開設する。この鎌倉幕府の創設は文治初年ごろ(1185〜86)といわれているが、そのころから、一般的に中世と呼び、貴族中心の荘園制時代から、武家中心の封建制時代に漸次移行する。そして、地方においても武士が勢威を振う世の中となるのである。
「武士の擡頭は、平安時代末期からとされているが、広川地方周辺においては、湯浅氏がそれに当る。この湯浅氏については、本章の題名とした人物に重要な係わりがあるので、後述で若干詳しく触れる必要があるであろう。
ところで、中世鎌倉時代、武士が次第に勢力を得るに従い、貴族に取って替って支配階級の地位を獲得するが、それまでは、荘園と公領を問わず、これを管理するのは政所であった。そして、地方武士はそこの在庁官人的存在に過ぎなかった。 ところが、鎌倉幕府成立後、下司や公文、在庁官人など在地領主の中から、幕府によって地頭職を与えられ、それが地方の中心勢力となる。前記湯浅氏もそれであった。政所を中心とした平安末期の村落構成は、鎌倉時代に入ると地頭屋形を中心としたそれに替る。この地頭屋形が、さきにもいった如く、「堀の内」または「土居」と称された。
この堀の内・土居の称は、必ずしも地頭屋形のみを指す言葉とは限らず、広く中世豪族屋形はそのように呼ばれたのである。
いまも広川町に地名として遺る堀の内は、何時、誰の館であったか。ここが、そのような歴史的な場所であったことさえ完全に忘れ去られている。今は当時の遺物と思われる古井戸も埋められ、遂に姿を消してしまった。
さて、何にか手掛かりがないものであろうか。
そこで、まず、着目されるのは、湯浅氏系図に見える湯浅宗正である。現在知られている同氏系図は幾通りかあるが、その中に広弥太郎と名乗る湯浅宗正なる人物を載せているのがある。広弥太郎と名乗っていたとすれば、必ず広庄を所領し、広庄の何処 かに住した人物であったに相違ない。といっても最初から前記堀ノ内を館にしていた地方武士であると断定する訳でないが、まず、この人物に登場願うことにする。
かって、この堀の内に残っていた古井戸も、今は姿を消し、その時代的考証も手掛りを失ったが、後述で段々傍証資料も挙げる如く、右の堀の内は、鎌倉時代土豪の屋形跡であったことには間違いないであろう。

2  湯浅氏系図に見える広弥太郎宗正


世に湯浅系図として知られるものに、(1)崎山文書湯浅一門系図、(2)施無畏寺文書湯浅系図、(3)続群書類従所収湯浅系図、(4)諸家系図纂湯浅氏系図、(5)南紀湯浅誌所収湯浅一門系図、(6)「和歌山県聖蹟」所収湯浅氏系図などがある(安田元久著『初期封建制の構成』第2篇、鎌倉時代に於ける武士団の構造第1章湯浅党)。特に近年注目を惹き、その後諸書に引用されているのは、有田市山田原上山英一郎氏秘蔵の、所謂、上山氏湯浅系図である。例えば『有田郡先賢伝記』所載中西正雄著「明恵上人伝」、伊藤只人編『紀州史備要』、『湯浅町誌』等にあげる湯浅氏系図は、おおむね上山氏のものに拠っている。
上記、上山氏湯浅系図によると、湯浅一族の祖、湯浅入道宗重の第2子に広弥太郎宗正なる人物がある。ところが「承久乱時参京方滅亡畢」と註記されている。想うに他の同氏系図において、同人物の名の見えないのは、多分註記のような事情が存在し、時の権力に憚り、その記載を遠慮したのでもあろうか。
湯浅宗重の次子宗正が、広弥太郎を名乗るからには、鎌倉時代初期、この広庄の何処かに屋形を構えていた地方武士であったに相違ない。それが、承久の乱に際して宮方に味方したため、家滅亡におわった悲運の武士であったことを想わしめる。

ところで、彼の悲運を招いた承久の乱とは一体どういう事変であったか。広川町史の域を超えるかも知れないが簡単に述べよう。

3  承久の変と広弥太郎


一口にいえば、鎌倉初期、承久3年(1221)時の院政主後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げて、はしなくも敗北に帰した事変である。
承久元年(1219)正月、鎌倉3代将軍源実朝が、2代将軍頼家の遺子公暁の凶刃に介れ、鎌倉幕府の実権が全く執権北条義時の手に落ちる。当時京都の朝廷では後鳥羽上皇が院政の主として皇室政治の中心をなしていた。上皇はかねてから、王政復興を念願され、倒幕の機を窺がっていた。その折から実朝の横死である。この時をおいて最早その機会はないと判断され、上皇は六条宮・冷泉宮の2皇子、並びに志を同じくする順徳上皇、その他近臣の高倉範茂・坊門忠信および2位法印尊長などの有力側近等と相謀り、北面・西面の武士をはじめ、畿内・近国、在京中の武士で京方に心を寄せる兵力を結集して挙兵した。そして直に、義時追討と、諸国の守護・地頭たちに倒幕参加を命じた宣旨が発布された。その宣旨に応えて上皇のもとに馳せ参じた武士の中に、広弥太郎宗正がいたのであろう。
ところで、京方は緒戦において多少の戦果を収めたが、間もなく北条泰時、同朝時、武田信光等のひきいる幕府の大軍に、苦もなく京の都が制圧された。
戦いに敗れた京方は、討幕挙兵の責任者として後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へと島流しとなり、土御門上皇も土佐に流された。なお、後鳥羽上皇の皇子六条宮は但馬へ、同冷泉宮は備前へと配流の身となった。京方に対する処罰は厳しく、上は上皇から下は武士に及び、討幕計画に参加した貴族のうち、葉室光親・高倉範茂など6人は死罪。坊門忠信は実朝の妻の兄ということで流罪。その他の貴族も或るいは流罪・免職・謹慎などそれぞれ処罰を加えられた。さらに武士の大半は斬罪に処せられるという冷酷さであった。
右のような厳酷な幕府の処置であったから、武士として上皇方に味方した広弥太郎も、他の多くの武士同様斬罪に処せられたか、或は戦死したか、いづれにしても彼の家門は、この乱によって滅亡の悲運に遭遇したのであろう。
承久の変を契機に、以後全く、皇威が衰え、鎌倉幕府の勢力が世を覆うに至る。そして、時代は鎌倉武家社会へと急速に移行してゆく。この承久の乱からでも鎌倉幕府の時代が百十余年続くが、そのような時代の中で時の権力者に憚かり、広弥太郎宗正が湯浅系図から除外され、上山氏湯浅系図のみに名を留めるということでなかろうか。

4  広弥太郎宗正の惣領家湯浅氏とその一門


湯浅一門の中で広弥太郎だけが何故京方に参じたのであろうか。この問題は非常にむつかしいので、後述に譲るとして、まづ、彼の本家である湯浅庄の地頭湯浅氏と、有田地方を中心に紀伊国南北各地に勢力を張っていた同氏一門について、若干叙述を行なうことにしたい。
湯浅氏一族の祖、湯浅宗重は如何なる家系の出身なるや、従来意見を異にするところであるが、とにかく、平安末期から全国各地に武士の撮頭が著しく、次第に武士の勢力が表面化する時勢の中で、彼宗重も湯浅庄を中心に支配力を強化していった武人である。『紀伊続風土記』は、その出身を源氏として、源頼光の末孫太郎忠宗謎の子宗重と記している。これは如何なる根拠によるか知らないが、甚だ信憑性に乏しい。安田元久氏は前掲書で、続風土記の説は何にかの間違いであろうとし、藤原氏説を取っている。その根拠は、宗重以後の一門有力者に藤原姓を称する武士が多いこと。施無畏寺文書、寛喜3年(1231)4月、湯浅一族の1人、藤原景基(湯浅町田、森九郎家祖)が、湯浅氏所縁の明恵房高弁のために、自領を寄進し、栖原白上山に施無畏寺を建立。その時、4至境を定めて殺生禁断の聖地とし、郡内一家之連署を求めた古文書には、一族実に49名が連署の中で、紀姓・源姓も見られるが、最も多くを占めているのは藤原姓である。しかも一族の有力者は殆んど、この姓を称している。同氏はこの事実に注目されての所説である。さらに、この藤原姓の由来するところは、かの有名な粉河寺縁起(国宝、那賀郡粉河寺所蔵)に求められるとしている。同縁起康和元年(1099)の記事中に、湯浅之住人藤原宗永なる者の名が見え、武勇の家に生れたとある。これが、湯浅氏の祖であり、当時(平安時代末期)既に、湯浅における豪族であったことを窺わせる。この湯浅住人藤原氏は、中央貴族の余流なるや否やについては、安田氏は不明との見解を示しているに対し、『湯浅町誌』は、湯浅氏系図によって、藤原秀郷の後裔としている。
秀郷6世の子孫藤原師重が、紀伊守に補任せられ、紀伊との関係が生じた。師重の子の宗良が、即ち、粉河寺縁起に見える宗永である。その子宗重、周辺群小勢力を圧して、近辺に勢威並びなかった湯浅入道宗重その人に外ならないというのが、同町誌の説である。
いずれにしても、湯浅宗重の祖は平安時代末期早くより湯浅庄を本拠として、この地方に勢力のあった土豪に相違あるまい。
ここで再び古代末期における土豪、即ち地方武士の発出経緯について振り返って見たい。貴族階級中心の古代社会もその末期、各地方の公領・荘園の内部に土地を多く所有する田堵・名主層が次第に成長する。その中で有力な土豪は、田堵・名主層を配下に収め、武力を備えて勢力の伸張がはじまった。これが武士の撞頭である。国司・郡司はこの武士を国府や郡衙の在庁役人に登用したり、荘園領主は荘園領内の秩序維持と外部からの侵略に備えて重用した。かくして、武力なき荘園の本所・領家は次第に新興武士に浸蝕されてゆく結果を招いた。荘園経済を基盤としてその上に咲いた貴族社会の繁栄も、右のような情勢に伴って、やがて凋落の秋が訪づれる。
それに対し、公領・荘園内に勢力を得た地方武士を統合組織し、一大勢力にまとめた武士団の棟梁として、特に有名なのは源氏・平氏など上級武士である。
右のような時代情勢の中で、湯浅地方を中心に、次第に地方豪族として生長を遂げたのが、湯浅氏の先祖であり、最も顕われたのは湯浅宗重であった。湯浅氏を名乗ったのはいうまでもなく、湯浅庄を本拠地としたからに外ならない。
一般に湯浅氏の初代とされる湯浅宗重は、『平治物語』や『愚管抄』に名が見えて、歴史の舞台にその勇姿を現わす。平治の乱(平治元年・1159)の間際、熊野参詣の途中にあった平清盛とその子重盛を助けて、無事京都帰還に成功させ、それによって平氏は、藤原信頼・源義朝の軍を破り、あやうく危機を脱した。 (上記2書に詳述。前者は鎌倉中期ごろに成立の軍記物。後者は慈円僧正著、承久2年成立の史書)この功により宗重は、以後、平氏の有力家人となって活躍することになる。
平治の乱の翌年、永暦元年(1160)、比叡山では、学匠と堂衆との対立が悪化した。堂衆は坂本の早尾坂の城に立て籠りまさに戦にならんとした時、平清盛に平定の院宣が下った。その際、清盛から平定軍の大将を仰付かったのが、湯浅宗重であった。『源平盛衰記』は次のように述べている。

入道勅定を蒙りて、紀伊国の住人湯浅権守宗重を大将として、畿内近国の武士3千余騎を相副へて、東坂本へ差遺す云々

当時、叡山の僧兵はあなどり難い勢力をもち、後白河上皇をして、ままにならぬのは加茂川の水と僧兵、と慨嘆させた程である。それ程の叡山堂衆平定に宗重が選ばれた事実は、如何に彼は平氏の家人としてその武勇を重視されていたかが判る。
なお、彼が平氏家人中で重きをなしていた証拠を、平氏の反対者側の源頼朝の書状からも窺える。藤原能保に宛てた文治2年(1186)の頼朝書簡(崎山文書、同年5月6日付)に湯浅入道宗重法師者平家々人之中為宗者候。と見える。ところが、平家没落後間もなく彼は、源頼朝の知遇を得て、本領を安堵され鎌倉御家人の地位を与えられている。(文治2年)
それというのも、文覚上人のとりなしがあったからであろうが、生かして用うれば十分利用価値ある武士であったからに相違ない。
かって、宗重平氏の有力家人であったころ、即ち、元暦元年(寿永3年1184)、平家討伐のため西上していた源義経にあてた兄頼朝の書状に、湯浅入道は文覚上人と関係ある者故、特別の配慮の必要性を説き、さらに、追書して(崎山文書、元暦元年2月4日付)返々もゆあさの入道をば、人いかに申ともうたせ給ふへからす、いとおしくしたまふへく候、と、大変な念の押し方である。本来なれば平氏と共に討たれる運命にあった彼宗重は、頼朝の命令で助命されている。そして、頼朝が政権を握り鎌倉に武家幕府が開創されるや、直に本領安堵、御家人に取り立ての厚過を受けている。(文治2年5月)
かくて、鎌倉幕府から所領と身分の保証を得た宗重は、同時に湯浅庄地頭職に補せられ、彼の地歩は益々確固となった。
上来記したところによっても、ほぼ推察できるように、彼宗重は、単なる武人というだけでなく、相当な政略的手腕も併せ持った地方豪族であったらしい。その宗重に幾人かの子女があったことは、系図の物語るところであるが、宗重のあと、本領湯浅庄の地頭職に嫡子宗景が、阿弖川・保田・田殿・石垣諸庄の地頭職に宗光が、糸我庄に宗方が、そして末娘は藤並庄地頭職藤並十郎に嫁し、有田郡の大半は湯浅一門を以って占めるに至った。
なお前記したように、広庄は宗正の所領するところとなっていた模様である。だが、承久の変によって、同店は最早や湯浅一門の手中から離れていたことは推測に難くない。
湯浅一族の祖宗重歿後、湯浅一門の中心的存在は、本領湯浅庄地頭職を相伝した宗景と、郡内で数庄の地頭職を兼補された宗光であった。(だが、宗光の方が優勢であった如くである)宗光は後に、自分の地頭の地を、己が子それぞれに分かち継がせている。石垣庄は宗基に、保田庄は、宗業に、阿瀬川庄は宗氏にという具合にである。
なお、ついでに記すなれば、湯浅一門の勢力は、ただ郡内に止まらず、紀北・紀南の地方にも及んだ。そのような勢力の発展と維持のために、湯浅氏一族血縁関係その他連繋のもとに、強固な武士団を組織した。これが史上に名高い湯浅党である。

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5  宗正の去就とその後


承久の変時、京方に参じ、遂に家門滅亡に畢るとある広弥太郎は、その名の示すとおり、広庄内に住した地方武士であったと見て間違いない。すると、広庄内において一体どの辺に屋形を構えたのであろうか。現在広川町において、その跡らしい場所を求めるとなると、前記堀ノ内と大字殿小字土居が、まづ注目にのぼる。だが、殿の土居は堀ノ内よりやや遅れた屋形旧跡と推想される点がある(このことについては後述する)。とすれば、やはり堀の内に蓋然性以上のものを認めたいのである(後章で広八幡神社創建年代考を試みるが、それとの関連性においても筆者は想定した次第)。
ところで、湯浅一族の中で、広弥太郎宗正だけが、何故、後鳥羽上皇の院宣に応えて京方に参加したのであろうか。これは極めて難解な問題であるが、若干、想像的な所見を述べてみたいと思う。
その由因については、幾つか脳裡に浮かぶ。果たしてどれが真の由因であったか、次にあげて判断の資としたい。
その1として、後鳥羽上皇は承久の変までに、30度前後、熊野参詣を行なわれている。その都度、沿道諸庄の地頭や豪族と接触があった。広弥太郎宗正も、湯浅一族の1人として、惣家湯浅宗景等と共に奉仕した所縁を考えられる。
その2として、政略的に湯浅一門が、京方・鎌倉方両方につき、勝敗がいずれになっても、全く不利な立場に立たない手段を取った。そして、宗正は京方に参じ、宗光は鎌倉方として戦功を顕わすということになったのではないか。湯浅宗光はその戦功によって、鎌倉幕府から新たに牟婁郡芳養上を与えられている。広弥太郎は湯浅一族の両道政策による犠牲者という見方もできる。
その3として、鎌倉時代初期、広庄は京都蓮華王院領であった。そして領家は高倉範季である(吾妻鏡)。広弥太郎宗正は在地領主として何等かの関係があったかも知れない。範季の子範茂は既に記した如く、承久の挙兵時における上皇側の中心人物として処刑された貴族である。父範季が広庄領家職であったのは、文治ごろで、それからおよそ30年後の承久の変ごろには、その子範茂がそれを継いでいたと想像される。当時の荘園の領家と荘官は、たとえ断ち難い主従関係でなかったにしても、領土関係でそれに等しく、広弥太郎はその縁によって、京方に参加したとの想像も、全く無稽のことではない。
以上3点はいずれも、一応もっともらしい理由と考えられるが、そのうち最も重視してよいのは第2番目にあげた事項でなかろうか。中世武士社会では、しばしばその例を見るところである。
ところで、広庄は、広弥太郎宗正滅亡後、誰が代わって所領したのであろうか。承久の乱の処理を完了した直後、幕府は京方に味方した武士の所領を没収し、新に地頭を配した。広庄の場合も、事情は右と異なることはなかった筈である。しかし、湯浅一門から補せられたということは考えられない。それは次の史料が物語るところである。もっとも、承久の乱を去ること68年後の史料であるが、崎山文書中に「湯浅入道宗重法師跡本在京結番」というのがある。京都警固の割当定書というべき文書。少し長いが参考のために載せると、

湯浅入道宗重法師跡在京結番事(次第不同)
1番田殿荘下方(他門) 加他門大豆田5ヶ日定  正月9日まで
2番田殿仲荘                 同19日まで
3番糸我荘                  同27日まで
4番石垣河北荘  加長谷川村定        2月27日まで
5番浜仲荘    丁塩津今年除之除丸田大崎加小倉  3月15日まで1
6番宮原荘(他門) 他門加当麻井村3ヶ日3分1役今年除之  3月28日まで
7番石垣河南   丹生図十ヶ日        4月20日まで
8番湯浅莊                  5月晦日まで
9番同荘多須原                6月20日まで。
10番六十谷紀伊浜(他門)             7月20日まで)
11番芳養莊東西 8月10日まで
12番保田荘  加丸田大崎岩野川阿世川上半分之  10月3日まで
       除上方半分直松石1日1夜
       加糸我1日1夜定
13番阿世河上下        同月25日まで
14番木本東荘(他門)         11月26日まで
15番同西荘        12月26日まで
16番田殿荘上方        明年正月11日まで
17番藤並荘(他門)         2月6日まで
右守結番次第無惰怠可被勤仕立状如件
正応2年12月


正応2年(1289)といえば鎌倉後期に当る時代となっているが、右の結番定書を見ても判るとおり、在田郡はその大半以上、その外、遠く紀北・紀南の地まで湯浅党の勢力が及んでいる。その中で郡内、名の見えないのは宮崎荘と広荘だけである。もっとも、宮崎荘はすでに熊野宮崎氏一族の支配下にあり、湯浅一門の勢力圏外であったことに疑いはない。 ところが、湯浅一族惣家の本領地湯浅荘に至近の当広荘が、この史料に記されていない点、特に注意されるべきである。当時、同一門の勢力範囲外であった証拠と考えて間違いないであろう。おそらく、承久の乱に広弥太郎宗正が、京方に味方した廉により、彼の家門が取り潰しとなり、湯浅一門外から新に地頭が補せられたと想像される。その後、正応ごろに至っても、なお、広庄は湯浅党の勢力範囲外であった、と前引史料がそれを物語っていると謂えるのでなかろうか。

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6  堀ノ内附近の門田と双六田


湯浅宗重は、はじめ、湯浅町の北方岩崎に山城を構え、その附近に住したと伝えられるが、その後、青木の地に山城を移した。いまも湯浅城址なる旧跡が遺っている。そのころの屋形はどこであったか、いまだ明らかでない。宗重の嫡子宗景以降の屋形か湯浅町のどこかにあった筈である。
ところで、同じく宗重の子宗正は広荘に住し広弥太郎を名乗ったらしいことは、1系図によって知るところであるが、その屋形を、前記堀ノ内と既に推定した。この堀ノ内に近く、小字地名門田と同雙六田がある。ともに広川沖積平野の一部を占めて、広八幡神社の北方に当たる。前記堀ノ内と殆んど地続に所在する。この門田は、上記の如く、広川沖積平野の中にあり、おそらく中世以降の墾田地であろう。この門田、または門畑と呼ばれる土地は多くの場合、地方豪族屋敷の門前、或はその附近にあるを常とした。そして、この地名は、中世地方豪族直営の耕地名であった。この地名の一画は、国衙や荘園領主から租税の免除を受け、在地領主の完全な支配下に置かれていた。耕地の経営は、郎従や下人の労働によったのである。そして、門田・門畑は、在地領主にとって重要な生活の根拠地であると共に、勢力の根源地として特別な意義を有していた。 (豊田武著『武士団と村落』)
当広川町に遺る門田なる地名もやはり、右のような歴史を有した、土地に印された中世史の資料である。これがまた堀ノ内との関連性において、一層意味があるといえよう。
次に注目される地名は、雙六殿(雙六田とも書く)である。

この地名伝承については、従来、かって広八幡神社の祭礼に雙六の行なわれた場所であったといわれている。
或るいはそうであったかも知れない。しかし、それよりさらに、この地名起源をなすものがあったのではないか。
ここで考えて見たいのは、堀ノ内との関連性である。
ところで、雙六は、早くも7世紀ごろから、わが国でも行われはじめた遊戯であった。古来、上流社会において盛んであり、鎌倉時代には武士の間でも盛行した。絵巻物にも描かれ、人のよく知るところである。それ以降においては、一般庶民階級にまでこの風習が及んだ。
広川沖積平野の高地部に、中世地方豪族の屋形跡堀ノ内が遺存し、その地続きに雙六殿の地名が遺る事実を勘考するとき、鎌倉時代武士の間に好んで行なわれた雙六の事を想起せざるを得ない。この雙六殿は、堀ノ内の住人達が、その遊戯を行った建物があった場所でなかろうか。
とにかく、広八幡神社の森と男山丘陵を南にして、その他3方は余り広大でないが広平野が展開する。そのような立地条件のところに、堀ノ内・門田・雙六殿と互に関連ありと見られる地名が、いまなお遺る。それが何等、広弥太郎宗正の屋形跡との確証はないが、宗正が広荘に往し広弥太郎を名乗ったとすれば、まず、この地を彼の旧跡に比定したい。
ところで、本章の題名を「謎の在地領主広弥太郎」としたが、最も信憑性あるといわれる上山氏湯浅系図に拠る場合、必ずしも謎の人物ではない。あえて、上記の如き題名を付したのは、他の史料に全然遺らないからである。この広弥太郎宗正が承久の乱で滅亡後、広庄と湯浅氏の関係が史料に現われるのは、南北朝時代正平6年(1351)、後村上天皇の勅願によって名島に能仁寺が建立されるが、その本尊薬師如来像胎内に納められていたと伝えられる書付である。それには「奉行湯浅八良右衛門入道明暁」と見える。承久の乱から数えて、実に130年間、湯浅氏と広庄の関係の有無は全く不明である。それのみか、この間における広庄地頭も誰と誰であったか査として判明しない。だが、さきにも記した如く、正応のころはまだ湯浅氏一門の支配圏外であったことは明らかである。



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11、地名が語る中世広庄豪族群像


1  殿の土居が語るもの


南金屋・東中両大字間に所在する、堀之内なる地名を取りあげ、広弥太郎即ち湯浅宗正の屋形跡でないかと、想像的意見を述べた。そして、この広弥太郎を、鎌倉初期広荘の在地領主像として描いた。彼は承久の変に後鳥羽上皇の倒幕挙兵に参加し、家滅亡に畢ったと一湯浅氏系図が伝える人物である。彼の滅亡後、湯浅一門以外から、広荘に新地頭が置かれたのでないかと、これまた想像的見解を述べたところである。
ところで、もしそれが当っているとすれば、その地頭は、何処に屋形を構えたのであろうか。史料の上から何ら徴証すべきものが発見されない現段階では、やはり地名の上から探ねる以外にない。
さて、広川地方内にそれを思わしめる地名が他に求め得るであろうか。先づ脳裡に浮かぶのは、大字殿の小字「土井」である。前記堀之内の東南方5〜600mの地点に土井と称する一画が存在する。この地を最有力候補地として挙げたい。その理由について以下若干述べて見るとしよう。
さきにも少し説明したが、中世豪族屋形には、外側に堀を巡らし、その内側に土堤(土手)を築いて外敵の侵入を防いだものが多かった。中には土堤だけのものもあったようである。『一遍上人絵伝』にも鎌倉時代の地方武士屋敷が描かれているが、それを見ても判明するであろう。この土堤をめぐらした屋形を一般に土居と呼んでいる。土居は堀之内同様、中世地方豪族の屋敷跡である。金屋町中井原にも土居と称する地名が残っており、最近、刀の破片が発見されたが、鳥屋城城主畠山氏の居館址という説が有力になっている。当町殿の小字に土井と呼ぶのが所在するのは、土居の用字転化に外ならないと見る。
現在大字名となっているが、かって村名であった殿なる地名について、『紀伊続風土記』は、次の如く述べている。
「殿の名地頭高貴の人の住せし地なるより起りしなるべし、然れども遺跡を尋ぬべきなし」と、同書も、地頭か高貴の人の住んだ地と見ている。だが、その遺跡は尋ねるに由なしと、簡単に片付けてしまった。ところが、幸い、それがあるでないか。いうまでもなく土井、即ち、土居である。
土居所在の地点をもう少し説明しておこう。殿と南金屋の境に、通称「新の池」と呼ぶ用水池がある。その東側台地が土井(土居)の地名を持つ。南に明神山系の尾根が屏風の如く立ち、北麓はなだらかな台地をなす。土居はその一部を占めている。土居の東方程近く広川が流れ、それとほぼ平行して熊野路が南北に通じている。北を望めば広川沖積平地が眼下に展開する。
豊田武博士はその著書『武士団と村落』の中で「中世初期の村落を考える場合には、何よりもこの武士、とくに地頭領主の居住形態を考えて行かねばならない。
武士の居住する屋敷は、重要な河川や交通路を支配し得るような要衝の地位にあった」と述べられ、さらに「その多くは山や丘を負うた扇状地の上手に屋敷をつくり、用水のとり入れ口や溜池を背にした。ところを選んで屋形を構えたことを説かれている。この説明は、あたかも殿の土居を指して言っている如く、右の条件にぴったりあてはまる。
この土居を以て鎌倉時代広荘の地頭屋敷と想定したのである。広弥太郎が承久の変で滅亡した跡に補せられた広荘地頭であったか、将又、それより更に以後、此の地の地頭として所在した土豪であったか、早断は許されないが、とにかく、中世地頭屋敷であったことはほぼ間違いないであろう。
堀之内や土居と称される地頭屋形や豪族屋形の周辺には、次第に百姓や一般庶民の集落が形成されてゆく。殿における土居の周辺にも、おそらく、そのような集落が形成されていったに相違ない。それを想わしめる1例を次に挿話としてあげよう。多少参考となる事柄であると思う。これは筆者の懇意な1古物商人の直話である。
最近古陶磁ブームで、古い焼物が市場において高価に取引されている。広川町の古い焼物としては、男山焼の陶磁器は知られているが、その目ぼしいものは既に早くこの地方から姿を消している。ところが、昔、農家に種壺や葉茶壺として使用した古備前や古丹波の壺が、まだ農家の台所の片隅に放置されていることがある。それが特に多いのは広川町の殿である、他にこのような例を見たことがない。そしていずれもあそこから出る壺は古い不思議な所である。旧熊野街道筋でも殿は特別だ。
話の内容は、大体以上の如くであった。筆者もその古い壺を幾度か実見する機会を与えられた。たいていは室町時代から桃山時代までの備前・丹波の壺であったが、その中には鎌倉時代と推定可能な直線文の古い形式のものがかなり存在した。よくも現在まで伝世されたものと驚いた次第であった。
右の事実を、最初は、旧熊野街道往還の地であった関係からかと思ったが、同じ沿道でも他の集落に余り例を見ないと聴かされて、何か外に理由があったのでなかろうかと考えざるを得なかった。その理由とはいったい何であろうか。

上記のとおり他に例を見ない多くの古い壺が遺存したという事実、単に熊野路往還の民家であったからではない。殿の土居を中心に形成された中世集落の場所であったというのが、その理由として挙げられるのであるまいか。
中世の熊野街道宿場は、早くから集落が形成されていたであろうこと疑いを入れないが、殿はその宿場ではない。此処の場合は土居周辺の集落として発達したものであろう。それが案外早い時代からであったと考えられる。
そのため、他の農村に比類稀れな鎌倉時代を含む中世古陶が、古物商人も驚く程数多く伝えられたのであるまいか。
「殿なる地名も『続風記』が記すように、地頭か高貴の人の住居した地であったことから発生したものと思われるが、先記した如く、同地の土井、即ち土居がその屋形の所在地であろう。そして、この土井の附近に、町通、南通、中通、北通などの地名が遺るのも、雑然と百姓屋が建ち並んだ普通の農村集落とはその趣を異にしていた証拠であるまいか。
ところで、殿の土居を屋形としていた地頭は、中世の何時ごろと観てよいのであろうか。先に引いた正応2年(1289)の「湯浅入道宗重法師跡本在京結番」には、広庄の名の見えないことは既に注意を惹いたところである。ここに繰り返し謂うと、承久の乱後、広庄地頭職には、湯浅党一門以外から補任せられていた1証左を右の史料に見い出し得るのであるまいか。
そして、その後の地頭屋形は、この土居であったと想像を巡らし得ないであろうか。筆者の乏しい観察力からしても、南金屋と東中にまたがる堀の内は、殿の土居以前に廃絶した中世土豪屋形跡と推想される点などから、殿の土居は、承久の乱以後の広庄地頭屋形跡との一見解を披瀝しておく次第である。

以上はあくまで筆者の想像にまかせて、すくなくとも承久の乱以後の広庄地頭屋形跡を推定したものである。
然し、殿とか土居の地名は、ある時代の歴史を物語るものであり、その時代とは、大体鎌倉時代でないかと推想しているところである。
今ここに改めて多言を要しないが、古くから殿村と呼ばれてきた地名、その中に土居と称する小字地名。『紀伊続風土記』は既に地頭か高貴の人のかって住した処と述べている。それを敷衍したに止まったが、地名の歴史的意味を研究すれば、地方史の空白部分が埋められてゆくに相違ない。

2  西広城主鳥羽氏


大字西広に、城ノ垣内の地名がある。同地名の所在するのは小字地名北山の一画で、そこに小さな丘陵があり、その附近の地を一般に城ノ垣内と呼んでいる。
中世この地に豪族鳥羽氏の屋形があった処から、この呼称が生れたものである。鳥羽氏については既に若干触れたが、現在西広鳥場氏の祖。同家所伝の「鳥羽伝書」によると、その出自は藤原氏。鳥羽氏の祖は樋口三位より出でもと堂上という。中古、紀州熊野社再興にその司職に任ぜられた樋口某、院に随って南紀に赴いた時、在田郡西広に居所を移したい旨を上奏し、しかる後この地に累世居館を構え旧領1千7百斛(石)を有したという。
同伝書は、さらに鳥羽氏苗字の由緒を語って曰く。判り易すく書き直すと、「その後、建仁4年(1204)後鳥羽院熊野御幸に、湯浅の駅に御止宿され、それより由良水門(湊)の興国寺(旧西方寺。法灯国師を開山としている)に御輿を御寄せ遊ばされた。幸いにかの仏閣の傍に掃部助正信の別業が有り、また、気に御筵を遷して御遊宴を遊ばされ、叡慮斜でなかった。先祖がその奉仕の功により、後鳥羽院より、尊号鳥羽の2字を下賜され、正信の称号とすることを許され、家門の名誉とした。しかし、トバと訓むことは恐れ多いのでトリバと訓み、一族これを名乗りとした。
大体、右のような意味のことを述べている。ところが、正信は織豊時代の人であり。正信の別業とか、正信の称号とか伝書に記してあるのは、時代的に混乱している。正信は特に著名の人物であったので、鎌倉時代のこと述べるに、彼の名を擬したのであろう。そして、鳥羽苗字の由緒を語ったものと推測されるが、もともと、これは、自家の苗字を飾るための作為であったと思う。因にいうと、建仁4年には、まだ、由良に西方寺(後、興国寺)が開基されていなかった。
しかし、鳥羽氏は、その出自、藤原氏であるとの伝えは、必ずしも否定できない。また、正信の祖は樋口氏であるとの伝えも、けだし無根の言とはいい難い。
太田亮氏の大著『姓氏家系大辞典』(第6巻)補遺の部に、鳥羽のことを載せて、次のように記している。

鳥羽  トバ
紀伊国有田郡の名族にありて、「藤原北家中関白道隆の後裔、山城鳥羽より起る」と伝えられる。氏人は太田水責記に「在田郡西広鳥羽掃部正信居」を載せ、士姓旧事記に「在田郡西広城主鳥羽掃部助正信」と見え、子孫紀州家に仕う。(鳥羽正雄氏。)


西広鳥羽氏の始祖を樋口三位とする上記鳥羽伝書について、前掲『姓氏家系大辞典』を参参に真疑を探ねて見たところ、やはり、可成りの信憑性が認められる。
太田氏は、前掲書第5巻に樋口氏のことを詳述している。それによると、樋口氏は、全国各地にその分布を示し、顕著なるもの34例を挙げている。その中で、藤原氏より出るもの幾氏かあるが、第5~6番目に記載される左記2流は、最も西広鳥羽氏の源流と思考される。少々繁雑をいとわず引用させて貰うことにする。

5、藤原北家道綱流 雲上家の称号にして尊卑分脈に「伝大納言道綱―参議兼経―左中将敦家―刑部卿敦兼讃岐三位季行(以上楊梅条を見よ)―定能(号樋口大納言)|資家と見ゆ。二条に詳か也。
6、藤原北家高倉流 これも堂上家にて高倉永家の2男中将親具(水無瀬)の2男信季(正三)を祖とす「信孝ー信康―康照―基康―冬康―宜康―寿康―保康―功康―誠康」そして、樋口氏の紋所として、2重円の中に3巴文を配した図を載せている。


ところで、前記、鳥羽伝書の冒頭に「藤原ノ姓旗ノ紋咥松枝舞鶴亦衣裳紋三頭左巴後世是成丸内三星」と記している。これは、鳥羽氏その姓を藤原とし、衣裳紋は祖先樋口氏の3巴紋の流れを汲むものであることを語っているところであろう。
鳥羽氏の苗字、伝書によれば、鎌倉時代建仁4年(元久元年1204)後鳥羽上皇から下賜されたとなっているが、さきにも述べたとおり、これは恐らく由緒を飾るための伝承であって、必ずしも史実と云い得ない。山城国(京都)紀伊郡に、古く鳥羽郷があり(『和名抄』)、後世、鳥羽荘となっている。鳥羽氏の祖、この地を領し、この地に住して鳥羽氏を名乗っていたのであるまいか。因に記すと、鳥羽の地名が存するのは、上記山城の外に若狭・大和・志摩・三河・常陸・越前・丹波・備中等かなり多い。その中で西広鳥羽氏は山城鳥羽より起るという鳥羽正雄氏の説を、太田亮氏は前掲書に載せているが、この山城鳥羽氏の一族が、当地方に来住した理由については、先章「蓮華王院領のころ」で卑見を述べた如く、荘園関係によるものであろう。
既に幾度か憶測を漏らしたことであるが、平安時代後期、広庄は藤原氏の荘園であったと思われる。それが同氏一門の分割伝領となるに至っていたと解すれば、一層理解が容易である。何んとなれば、応徳3年(1086)内待尚待藤原氏による広庄免田拾参町5反の熊野那智山に対する施入、なおまた、想像であるが、藤原北家高倉氏による広庄の京都蓮華王院への寄進など、藤原一門の分割伝領という前提こそ、これを可能としたであろう。
先章で既に述べた如く、高倉氏は自家の荘園である広庄と由良庄を蓮華王院領として寄進して、同氏はその領家となり、庄官には同家の流を吸む樋口氏、即ち鳥羽氏を下向させたのであろう。或は蓮華王院領とされる以前からの庄官であったかも知れないが、とにかく、鳥羽氏がこの地方に来住した理由として、藤原北家高倉氏との関係を見逃すことができないのではあるまいか。
『吾妻鏡』文治2年8月の記事によると、当時、蓮華王院領広・由良庄庄官在住の地は由良であったらしい。
西広鳥羽氏の祖がこの庄官として来住したのは、最初、由良庄内であったと考えられる。その後、何にかの事情によって広庄西広に居を移したのであろう。それが、歳月を経るうちに、伝承が反対になったものと想像される。
前記「鳥羽伝書」には、同家が最初西広に来住し、鎌倉時代、樋口正信 (鳥羽正信) が、由良湊に別業を有し云々とあるのは、後世誤り伝えられた結果であろう。むしろその逆が真でなかったであろうか。そればかりでなく、掃部助正信を鎌倉時代建仁(1201〜14)ごろの人としているが、これも誤伝であること、前記『太田水責記』や『士姓旧事記』によって明らかである。即ち、「在田郡西広城主鳥羽掃部助正信」と同書に見える織豊時代戦国武士であった。
この正信が地方に武名あったところから、後世、誤り伝えられて鎌倉時代における鳥羽氏祖とされたのであろう。
現在、西広鳥場家所蔵の史料は極めて少なく、しかも中世のものはその写しである。この写も最古の紀年を有するのは、文明5年(1473)7月213日付の湯川政春の文書で、鳥羽口四郎に宛てたものである。既に記したが、同家は近世初頭没落して屋形も地領も失い、中世のもの殆んど伝世しない旨、伝書に謳っている。戦国の世、全国的に「国盗り」の戦乱激しい時勢の中で、鳥羽城の垣内も兵火に罹り、屋形諸共家系の1軸その他灰燼に帰し、祖先伝来の地領も奪われ、鳥羽民部正友の代に帰農したと伝える。
ところで、鳥羽氏の来歴を記した「鳥羽伝書」によると、正信はその室、湯浅の白樫弾正の女であり、彼の弟は湯川政春の養嗣、妹が神保に嫁す他、正信の子正友は畠山ト山(尚順)の女を娶っている。なお、宮崎氏との通婚もしばしば行なわれており、周辺豪族との間に繁く姻戚関係を結んでいることが見える。だが、時代の変革期に、これら各地の土豪と共に武運拙く衰亡の悲運に見舞われたのであった。さらに、近代初期、同家は逼塞の度を加え、地方の名家鳥羽氏の近世文書や記録の類も、その多くは散逸し、いま残るは数通に過ぎない。
この鳥羽氏がその隆盛時に、屋形の坤の方位(西南の方角)田畑の中に、宇佐八幡神を勧請し、一族の氏神として祀っていた。いまもなおその跡が西広小字大場の地に僅ばかり石壇一部を留めている。なお、旧屋形の北東程近い山中に小字地名金剛谷の称がある。往昔、鳥羽氏の氏寺建立の地と推想される。その入口に舞殿と呼ぶ地名が遺っている。かって、金剛谷の氏寺で舞楽を行なった旧跡であるまいか。金剛とは仏教語で、力を象徴する言葉である。武家は好んでこの文字や言葉を用いた。けだし、鳥羽氏の寺を金剛寺と号したのでなかろうか。そこから金剛谷の地名が遺ったものと思われる。
なお、もう1つ、山本乙田天神社と鳥羽氏の関係について記載しよう。
山本乙田天神について『紀伊続風土記』巻之59は、同神社はもと広八幡境内にあり、荘の天神と呼ばれたが、応永18年(1411)、氏下に争論があって、山本薬師堂(光明寺)境内に移され、山本・西広・唐尾・和田4ヵ村の氏神とした。そして、光明寺の支配下に置かれていたが、寛永13年(1636)、山本乙田に移し、光明寺の支配から離れ、新に乙田氏を神主とした。と記し、さらに、牛王印の銘「応永18年辛卯6月1日了意恭白」を載せている。ところで、広八幡神社境内から天神を光明寺境内に移したときの主役は、西広鳥羽氏の祖先であったと、古くから伝承がある。そのため、由来、同天神社の祭礼には鳥羽氏の指図がなければ渡御が行なわれない慣習となっていた。同家には今も「天神社3事」という天神社祭礼式次第定書を伝えているが、かって、前記、4ヵ村を支配した土豪であったことを示唆するものである。
右の「天神社3事」の内容については、宗教篇神社の部で詳述されるであろう。

3  中野城址と地頭崎山氏


当町の大字上中野には、従来「中野城址」なる旧跡があると伝えられてきた。 この中野城址とは、中世にかって、当広庄地頭であった崎山氏居館の跡という。ところが、この屋形跡と称する所謂中野城址は、現在確実な所在地が不明となっている。
中世室町時代地頭崎山氏については、田殿の名族崎山氏の支流とする説(『有田郷土誌研究のしおり』)と、別の崎山氏とする説(『紀伊史料』4号所載、森彦太郎氏「中紀の著姓崎山氏」)がある。どちらの説が当を得ているのかの詮鑿は暫らくおくとして、まず、中野城址と一般に呼ばれている崎山氏の広庄地頭屋敷跡を探求することから始めよう。
『紀伊続風土記』は、上中野と南金屋の境に妙見森のあるところを、それであろうと記している。ところが、これに対して、『有田郷土誌研究のしおり』の著者西尾秀氏は、そこは谷間の低地であり、とうてい地頭屋敷の地と考えられないとし、中野城址は、古くから城跡と伝えるという法蔵寺北側の台地を当てている。この両者を地形上から比較する場合、西尾氏説の方がやや有利と見られる。妙見森所在の場所は余りにも低地であり、現在でもなお民家の建てられていない処である。 ところが、前記2説には拠りどころとなるものは、極めて稀薄である。もう少し徴証と目される何かが遺存する地を求める必要があるのでなかろうか。
右のような観点からあらためてそれらしい地点を探ねると、上中野に堀ノ平なる小字地名を有する一画がある。
同大字集落の南西、上中野台地における上手部分に位置する。現在は殆んど柑橘畑となっているが、南に明神山系の山並を背負い、東に光見寺池なる溜池をひかえ、その他は耕地が展開するという場所である。先に引用した豊田武氏の中世地方豪族屋敷所在の条件に殆んど適合していると思われる地形である。その上、堀ノ平と称する地名は、堀ノ内と同様、中世地方豪族屋形の通称に起源していると思われる。
この堀ノ平の西側の小字は坊野の地名を持つところ。東側に光見寺と呼ぶ用水池がある。現在、光見寺なる寺院は、何処にあったか全然不明である。上記坊野は、寺院の僧坊のあったところから起きた地名であるや否や、詳らかでないが、光見寺と称された寺が何処かに所在したに相違ない。
なお、堀ノ平に程近く、新古と称する小字地名の一画がある。文字どおりであると、何のことか判らない。極めて奇異な地名といわざるを得ない。しかし、これは用字の転訛と見なければならないから、初めの地名を求めると、新古はおそらく新郷であったであろう。それはこの小字地名の発音からも窺える。即ち、「シンコ」と呼ばずに「シンゴ」といっていることである。なお、この地に新古を苗字とする家があるが、地元では「シンゴ」と発音している。新古は新郷の転訛である証拠であろう。ところで、新郷とは何にを意味する地名か。それを考えて見なければならない。

新郷とはいうまでもなく、本郷に対してその後に開けた地を謂う言葉である。本郷なる地名で有名なのは東京都の本郷であるが、此処も他の場所より先に開けた地であったと思う。さて、上中野の新郷は何処に対しての新郷であったのであろうか。想うに崎山氏が本拠とした堀ノ平に対して、その後に開かれた地を新郷と呼んだのではなかろうか。
日高郡日高町萩原に同家の後裔と称する旧家があり、旧記を伝える。室町時代後期、崎山飛弾守家正なる者、広庄中野村に居住し、広庄および日高地方の一部を所領するという。 この崎山氏のことについては、前掲森彦太郎氏の「中紀の著姓崎山氏」が詳述しているので、その一部を引用させてもらうと、

崎山氏、有田日高にまたがる名族、八幡太郎源義家の弟加茂義綱の孫秋山次郎吉宗より17代、「崎山造酒之丞吉時より8代、崎山越前守長子飛弾守家正を祖とする。
家正は在田郡広荘中野村に居住し、畠山家に仕えていた。その男に但馬守家時、弥四郎吉国あり。一門34人、家士若干を有して鹿背山を中に広附近および日高の原谷附近を領していた。ところが、大永2年の秋かねて畠山家と交際のあった阿波の三好氏(義長)が兵をひきいて由良に入国し、高家荘池田村小坊子嶺に拠って畠山氏の虚に乗じようとした。畠山の当主高国は時に河内に居った。そこで、崎山飛弾守家正はただちに中野の邸を出て原谷の鞍多和山に趣き、孤軍苦守旬余にわたったが、一族死没し。遂に熊野に奔る。既に畠山高国河内より馳せかえり湯川氏その他の援を得て三好勢を追払った。家正は熊野から帰り湯川氏に属し、大永3年居を亀山城北の東光寺(今東内原村大字萩原)に移した。家正の長男但馬守家時は鞍多和戦に流矢に中って死し、次男弥四郎吉国家を継ぐ。弥四郎の子を弥五郎といひ、湯川直光に随って河内合戦に功あり、その子弥右門は天正13年名島合戦に功があったが、豊臣氏南征後所領にはなれて農民となり、萩原に居住することとなった。いまも萩原(本郷)に崎山本家があり、東光寺にも支流が残っている(以下略)


以上引用が少し長くなったが、崎山氏が中野に居住した時代が判るし、その崎山氏が一門34人を擁していたという。現在広川町やその附近に崎山氏を名乗る旧家のあるのは、その後裔と伝えられる (『紀州文化』所載 山口華城「南紀男山焼」)。
室町後期大永3年(1523)崎山氏は、日高郡萩原に居所を移したとあるから、その後、中野の屋形は退廃し、附近に住した家臣達も移転したであろうから、遂に残ったのは堀ノ平なる呼称のみとなったと思われる。そして、当時は武家屋形でも瓦は使用されていなかったから、従って古瓦の出土もなく、後世まで地名となって遺っても、それが領主屋形跡であったという伝承が、長い歳月の間に民間の記憶から消失したのであろう。しかし、上中野には中野城址があったという伝えは、今もなお一般の記憶の底に残っている。そのため、それらしい場所が云々されて来たが、いずれも地名から探求するという方法を怠っていることから、その旧跡が確定しなかったものと考えられる。ところで、中世広庄地頭崎山氏は、田殿の名族崎山氏の分家であるという由諸書が、崎山文書(史料編纂所影写)の中に存在することは、松本保千代氏から教えられた。そして、同氏はそれを解読して送ってくれたのである。左に掲げて参考に供したい。

由諸
1、当家先祖者崎山、紋者瓜巴、有田郡の内広ノ庄の地頭にて則居城者広町はづれに居舗ヲ拵居住有之候、近辺7ヶ村の知行仕候、今検地弐千4、5百石にて可有之候、根本崎山之本家者同郡田殿之庄って有之候、何之時代より方広江分レ候哉爾ト知レ不申候、我等曽祖父崎山小助代迄16代広之庄本地 来候、天正13年3月廿日湯浅之白樫ト取合にて後 牢人仕候而崎山小助 子同姓六兵衛卜申候、同郡石垣ノ庄市場村ニ居住申
候処ニ大阪御陣之節、家康公様江御目見へ仕候て御陣之御供奉仕数度之高 名預保美ニ諸太夫 罷成候処ニ病身ニ相成候て御役御免奉願帰国仕候て病気養生仕候処ニ爾々共無之候故永牢人ニ罷成候而家康公より之5千3百石之御手印頂戴仕有之候所24代目崎山九太夫後家代ニ宮原之御手印と壱所ニ宮原八幡宮之御社へ奉納由申出候 依而由諸委細為後日如件
宝暦6丙子天
11月吉辰

1、右之由緒書殊之外古成虫食
破候故16代小助迄系図書
難見分ヶ能成候故中興六兵衛より
之系図書弁ニ以前之由緒江
市太夫より近代之一
(末尾欠)

崎山六兵衛
嫡 市太夫
同 九右衛門
同 九右衛門
女子女子女子
女子女子
同姓  友悦
女子 男子
嫡男 女子
男子 男子


右の由緒書は江戸時代中期に書かれたものであるが、これによると、広庄崎山氏は田殿崎山氏の分家と云うことになる。そして、広庄地頭職当時、広町はづれに居館を構えていたという。広庄崎山氏の系統を問題として取り上げてゆく場合の1史料となるであろう。
それにしても、広庄地頭時代、その屋形は広町はづれに構えていたということが、いささか気に掛るが、これは単に文章の綾と解すべきであろう。江戸時代初期元和元年(1617)の文書 (日高郡日高町萩原崎山家所蔵)に一門34人と共に広庄中野村に屋形を建て代々栄えたりと見えるから上中野堀ノ平では多少距離的には広町はづれと謂い難いが、この堀ノ平こそ、広庄地頭崎山氏の居館であったこと、おそらく間違いあるまい。今なお古老は上中野城を口碑にのぼす場合があるが、その位置については、誰一人として確信を以って語り得る人がない。続風土記に載る妙見森をそれだろうと称える人も、実際は半信半疑というのが実体である。本書で、筆者は上中野堀ノ平説を提唱したが、堀ノ平は堀ノ内や土居と同様、中世土豪の屋形に、今なお残った地名として注意して然るべきであろう。
しかし、繰り返し云っておきたい。地名は歴史をも語る重要な資料であるが、その当時の文献史料程にも正確に立証し得るものでない。従って上中野堀ノ平中野城址説も、単に筆者の私見に過ぎないので、今後の研究に待つところまことに多い。

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4  公文原


下津木寺杣の小字に公文原と称するのがある。この地名はかって、この地方がどこかの寺領か荘園であった時代、その公文職の所在地であったところから生れたものであろう。公文とは領主から現地支配者として置かれたものであり、たいていの場合、その地方の土豪が当てられた。おそらく、寺杣台地を屋形とした公文もそのような性格のものであったに相違ない。
然し、次章において「広川地方八幡神社創建考」を予定しているので、これとの関連性にて寺杣公文職・その子孫について、若干、叙述することにしたいと思料している関係上、ここでは、極めて簡単に取り扱い、できるだけ次章との重複を避けたい。
寺杣公文原の旧家椎崎氏は、その祖先に公文大夫と称する有力者がいたことを物語り、津木谷切っての名家とされている。同家には一面の古鏡が所蔵されていた。小型ながら菊花双雀文の鎌倉時代から室町初期を降らない青銅鏡である。この鏡は、同家の附近にもと栗野明神社と呼ぶ小祠があり、その旧社地から出土したという。栗野明神社は、椎崎家の氏神として、公文職時代に屋形の近くに祭祀したのでないかと想像される。同家の旧記からもそれが推想される。だが、同家も近代の変動の波に洗われて近年他郷に移住した。同家に伝えられていた古い記録・文書の類はその前後に散逸し、もう1度それを調べなおして、ここに史料として十分役立て得ないのは残念である。今はこの旧家も去り、口碑にのぼる数々の伝承も何時かは、人々の記憶から消えてゆくことであろう。しかし、寺杣台地の公文原の地名は、中世史の名残を秘めて後世まで長く遺るに相違ない。

5  猿川城の悪党


 津木猿川に猿川城址と呼ばれるところがあったとの伝承がある。現在その旧跡は不明となっているが、往昔、悪党の居城であったと、地元の古老が伝えるばかりか、江戸時代の地方記録にも見える。そして伝え云う。むかし、猿川に城があり、盗賊の頭が多くの手下を従えて立て籠ったと。猿川城の悪党とは盗賊の徒党と思い込んだ伝説である。後世、悪党という言葉から、盗賊の類と思い違いしているようだが、中世の悪党とは、単なる盗賊の類でない。それでは、悪党とは何か、簡単に説明しよう。
 中世の所謂悪党とは、山賊・盗賊を指す場合もあったかも知れないが、それよりも、一般に鎌倉時代・南北朝時代に、荘園本所や幕府の支配に反抗する地頭や名主を指す言葉であった。そのような土豪の中に、一族郎党や朋輩と連繋して武士団を組織し、勢力を張った一団もあった。この勢をかりて、荘園や公領に乱入、政所や公文を襲いなどした例も少なくなかった。悪党なる呼称は、このようなところから生れたものと考えられる。これら悪党と称された地方武士の中に、城郭を構えたものもいた。南北朝時代、南朝の忠臣として著名な楠木正成も、悪党と呼ばれた河内の土豪であった。(『太平記』)。
 猿川城址は例え悪党の城郭址であったとしても、単なる山賊・盗賊の徒党が根城とした旧跡ではなかったであろう。彼等も津木谷の土豪として、荘園領主の意に従わなかった徒であったか、幕府の命に従わなかった地方武士であったと考えられる。相当以前に属するが、或るところで文書や記録を調べた際、猿川城の悪党は、吉野方となって戦ったとあったのを眼にした記憶が残っている。さて、何処の記録であったのか、今となっては全く思い出せないし、その時のメモが紛失して発見に至らず、再びそれを見直すこともできない次第である。甚だ残念な手落ちであったと後悔しているが、今更致し方もない。現在地元の古老や、一部江戸末期の記録が伝えるような、山賊・盗賊の徒でなく、南北朝時代足利方に反抗した土豪であったことは間違いなかろう。
猿川城址は、最早や所在不明となり、地名の上からも探ねる由もなくなっているが、とにかく、中世における広荘内の土豪として、特に南北朝時代活躍したと思われるその一団を見逃す訳にはゆかないであろう。
注)猿川城の跡地は不明とのことだが、地元の名士に尋ねると、猿川不動堂がその地であり、そこに砦があったとのことである。


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12、広川 地方八幡神社創建考


1  広川町における3つの八幡神社


当地方各大字内には、必ず2〜3社の小祠があった。明治末葉の神社合併で、現在、僅かに旧社地のみ残す有様となったが、かつては、その地住民の産土神・里神として信仰され、四季の祭祀も怠りなく行なわれた、周辺集落の鎮守であった。
 ところが、この小祠とはその規模を異にする神社が、この広川地方にも幾社かある。まず、その代表的なのを挙げると、広八幡、津木八幡、老賀八幡の3社と、現在広八幡神社境内に遷座となっているが、乙田天神社である。
 以上の神社には、殆どそれぞれ縁起を伝え、その由緒を誇っている。他の小祠と異なる点といい得る。特に上記各八幡神社はいずれも神功皇后三韓征伐の帰途立ち寄った処、或はその縁故によって八幡神を祀ったとある。
何処の八幡縁起も似たりよったりで、その勧請は、遠く古代に遡ると記している。
しかし、現在の歴史学上では、神功皇后の実在性に疑問点が多いとする学説が大勢を占めており、単に伝説上の女傑という外はなかろう。
 ところが、当広川 地方においても、神功皇后の縁故地ということで、八幡神社が祀られており、その祭神は、皇后とその皇子応仁天皇並びに父仲哀天皇とされている。わが国では早くから、八幡神は応仁天皇という伝承があり、それぞれ各地に八幡神社が勧請祭祀された後、その伝承に基づいて、各々の八幡縁起を、神功皇后逗留伝説などを以って飾ったものに外なるまい。

2  八幡神の源流と推移


例え各所の八幡縁起が、単なる伝説の域を出ないにしても、八幡神をこの広川地方に勧請するには、それだけの理由があった筈である。その理由は何であったかの探求は甚だ因難であるが、後述で若干試みたい。しかしその前に八幡神とはどのような神であり、その信仰がどのような途をたどって来たか、少し述べておこう。
八幡宮として最も古い歴史を有するのは、いうまでもなく、九州大分の宇佐八幡である。その祭祀は古代に遡る。京都石清水八幡宮は、その後平安初期貞観元年(859)僧行教の奏請により、宇佐八幡宮から勧請したに始まる。日本全国に旧社格が村社以上の神社総数十万社。そのうち、八幡宮と何等かの関係を有する神社は、約3万余社にのぼるという(中野幡能著『八幡信仰史の研究』)。 上記の、広、津木、老賀の3ヶ所八幡神社も、その3万余社に含まれている訳であろうが、旧村社以上約十万社のうち、およそ3分の1に当る八幡社の存在は如何にその信仰が盛んであったかを物語るものである。
この八幡信仰の問題は、神社信仰史の中で最も難解な問題の1つとされているが、大体次のように見られている(前掲『八幡信仰史の研究』)。
 八幡宮の祭神は、一般的に応仁天皇としているが、この応仁八幡の成立は、およそ6世紀末か7世紀初頭の頃と見られるが、それより以前余程古くから、九州大分の古代豪族宇佐一族の神として祭祀していた。その八幡神に、あらためて応仁天皇を充てるようになったのが前記の時期であったらしい。その理由については後で触れるとして、応仁八幡以前の宇佐一族の神とは、一体どのような神であったのであろうか。
 ところで、本篇(広川町誌歴史篇)の筆者は、八幡神の起源について、一般の説にいささか疑念を抱いていた。
応仁天皇は、古来、神功皇后の皇子という伝説があり、同皇后は三韓征伐の砌り、懐妊していて、その胎内にあって渡韓したという応仁伝説から、八幡宮はその起源を朝鮮に有する1種の渡来神、渡来族の神でないかと、ひそかに考え、遂には、本書編集委員の仲間にも語る始末であった。そのうち、中野幡能氏がその著『八幡信仰史の研究』において、明確な見解を示されていることを知った。それによると、応仁八幡成立以前の八幡を原始八幡と呼んで、その起原を大要次の如く説いている。
 原始八幡宮が、宇佐神宮に祭祀される以前に、同じく大分の古代豪族辛島氏一族の祖神であった。辛島氏は即ち韓島氏であって、その祖先は朝鮮からの渡来族である。韓島一族が祖神として祖国の神を祀ったのが、日本における八幡信仰の起源である。
 宇佐氏が、辛島氏を自分の勢力下に収めた時、政策として辛島一族の祖神を自分達一族の祖神として尊崇した。
相手方懐柔策として、最も有効な方法であったに相違ない。
 それがまた、大和朝廷が九州平定後、九州地方豪族懐柔策として、朝廷は八幡神を祭祀した。そして、いつしか応仁天皇を結びつけて、応仁八幡信仰が生れた。それが、前記した6世紀末か7世紀初頭と見られるのである。
朝鮮に起源を持つ八幡が、韓島氏渡来によって日本に移し祀られ、韓島氏八幡となり、次いで宇佐氏八幡となる。さらに3転して応仁八幡となるが、やがて、本地垂迹説に基づく神仏習合から、八幡大菩薩と称される等、様々な過程を経て、八幡信仰が進展するという。
 そして、古代末期、清和源氏が一族の氏神として、厚く信仰することとなる。さらに、源頼朝が天下の政権を掌握し、鎌倉に武家幕府を創設するや、彼は同地に鶴岡八幡宮を建立し、且つまた幾多の八幡宮を中興または創建した。頼朝の天下覇権により世を挙げて武士中心の社会となる情勢の中で、その武士の棟梁源頼朝の八幡社興隆の事蹟は、当然、鎌倉御家人および諸国の武士に大きく影響を及ぼさずにおかなかったであろう。
 宮地直一博士も、その著『神祇史の研究』の中で、鎌倉時代武家社会に八幡信仰が盛行する原因を、鎌倉幕府の八幡信仰に求めている。
 広川地方における前記3ヶ所八幡神社も、その創建に多少の遅速はあったとしても、この時代風潮下に成ったものと想像する。

3  広川地方八幡神社創建の時代


 当広川地方における八幡神社の創建は、前記3社とも各々の縁起の語るところによると、いずれも古代に遡るとしている。しかし、これは創建後可成り年代を経て、縁起作成にあたり、応仁天皇を主神とする八幡縁起のことであるから、神功皇后伝説を取り入れ付会したに過ぎないことはいうまでもない。
やはり、前記した如く、鎌倉時代に全国武士階級の間を風靡した八幡信仰が当地方にも波及し、八幡神社の勧請祭祀となったものと思う。この地方の有力武士が、己か屋形の近辺にそれぞれ社殿を建立し、八幡神を勧請したと見るのが妥当であろう。
以上は、この地方における八幡神社創建の背景を、鎌倉幕府を中心とする武家社会の八幡信仰に求めようとするその前段である。
さて、広、津木、老賀の八幡神社を、それぞれの地に勧請した如き鎌倉時代武士が、果たして、この広川地方で考えられるか否か。もし、ありとすれば、どのような武士であったか。その問題について考えて見る必要があるであろう。先づ広八幡神社の場合から考察を試みよう。

4  広八幡神社(広川町大字上中野)


 この神社には、一応縁起書がある。その縁起書の内容については、宗教篇で述べるであろうから重複を避けたい。そこで、同神社をこの地に創建し、八幡神を勧請したのは、一体誰か、それを縁起書を離れて考えて見たい。
現在、重要文化財指定を受けている広八幡神社本殿は、室町時代初期説もあるが、むしろ、南北朝時代を降るものでないとの説が至当であろう。そして、この社殿は創建当時のものでなく、再建説が有力である。 同神社は楼門を持つ両部の八幡神社であったことが窺い得る。しかし、同神社の創建年代となると諸説様々で、確かに拠るるべきものがなかった。ところで、筆者は、別な方面の資料から八幡神社としておそらく鎌倉時代初期の創建でないかとの見方に至っている。縁起は縁起として、それなりに尊重すべきであろうが、歴史は歴史としてまた別の途がある。
本篇中で既に「謎の在地領主広弥太郎」を書いた。その中で、広八幡神社の森および男山丘陵の北麓に、堀之内があり、中世豪族屋形跡と推定し、更に、この堀之内屋形の主人公を、広弥太郎、即ち、湯浅宗正と推定した。
この屋形の住人広弥太郎が、己が屋形の近辺の森に、八幡神を勧請したと想像するのである。一口に謂えば右のとおりであるが、これをもう少し詳しく述べる必要があろう。
湯浅一族の祖、湯浅権守宗重は、平安時代末期に田村の国津神社から勧請して、湯浅の地に顕国神社を創建した。そして一族の氏神と仰いだ。宗重がまだ平氏の家人となる以前である。平氏滅亡後間もなく彼は源頼朝の特別の処遇を得て、鎌倉幕府の御家人に加えられるに至る。その経緯については、先章において既に述べたので重複を避けるが、彼は深くその恩誼を感じたであろう事は想像に難くない。頼朝が鎌倉に武家幕府を開き、その地に鶴岡八幡宮を建立した外、幾多の八幡を中興または創建した。その影響が鎌倉御家人や諸国の武士に及んだことも既に述べたところである。湯浅宗重は、そのような時代潮流の中で、早くも八幡神社の勧請を考えたとしても不思議ではない。しかし、湯浅の地には、既に、氏神として顕国神社を祭祀している。そこで、彼は次子宗正の住する広庄の地に、八幡神社の創建を考えたと見られるのである。或は、それは宗重でなく、広弥太郎宗正自らの考案であったかも知れない。とにかく、宗正屋形堀ノ内に近い森に広八幡神社建立が行なわれたと想像したい。
この堀ノ内住人を広弥太郎宗正と見れば、既に述べた如く、彼は承久の乱の時、京方に味方して家門滅亡に畢ったという。従って、広八幡社創建は、当然それ以前としなければならない。同神社のそれを鎌倉時代初期と見る理由は、けだし、そこにある。
日高郡由良町に蓮専寺という真宗寺院がある。同寺には『蓮専寺記』と称する旧記を伝える。江戸時代の筆録であるが、古い伝承なども記録されている。その1例として、ここで特に注意にのぼるのは、即ち左の記事である。

正嘉2年8月5日広八幡神社焼失、霊巌寺13軒不残焼失、

正嘉2年(1258)といえば鎌倉中期。それが、同じ広庄内で同じ日に神社と寺院が如何なる火によって同時に火災に会ったのか。その理由については伝えるところがない。だが、おそらく、偶然の一致でなく、この2ヶ所の火災には何か関連性があったのではあるまいか。何事かがあり、何者かによる放火であろう。同年9月諸国に群盗が蜂起する(岩波版『日本史年表』)ということと関係あるや否や知る由もないが、何者かによる放火に相違ないことだけは想像がつく。
それはさておき、この記事は、鎌倉中期正嘉の頃、広八幡や霊厳寺既存を立証する1資料として注意されてよい。尤も、江戸時代の記録という点を考慮すれば、鎌倉時代中期に関するこの記事に全幅の信頼を置き得ないかも知れないが、事件の月日まで明記しているところより観て、一応、事実を伝えたものと解釈したい。とにかく、広八幡神社は鎌倉中期、既に存在したと『蓮専寺記』が雄弁に物語っている。創建はそれ以前であったことは想像のとおりであろう。
本歴史篇了稿後かなり日を経て、たまたま、古ノートや書簡の整理をしていると、その中から広八幡神社に関する故和田喜久男氏(日高郡美浜町和田)の書簡が発見された。同神社創建年代について参考となるところがあるので、追録としてその一部を要約し、それに私見を交えて左に披瀝することにしたい。
広八幡神社古記に「嘉禎2年8月日従四位上雅楽□□□□」とあり、あとに雅楽に関する記事があったという。
おそらく、同神社旧蔵物の銘文を写した古記録であろうと、和田氏はかなり信憑性を認めている。(註、筆者はこの古記録や雅楽面を観る機会に恵れなかったが、和田氏は、古記録のみ相当以前に実見したという)
ところで、この嘉禎2年(1236)は鎌倉初期の末というか同中期の初め頃というか鎌倉時代も比較的年代を経ていない時期のものである。その時代に広八幡神社が既に創建されていた1つの証拠資料として重視に値する。
なお、同八幡の創建年代を推定する上に参考となるのは、平安時代延久4年(1072)の石清水八幡史料には紀伊国の古い八幡宮は総て記載されているが、これには広八幡宮が見えぬばかりか、降って平安末期嘉応元年(1169)の鞆渕八幡宮(那賀粉河町) 所蔵のそれにも紀伊国所在の八幡宮に総花的に神領の奉納された庁宣があるが、これにも広八幡神社の名が見えない。以上の史料から観て、同八幡の創建は、嘉応元年以後、嘉禎2年までの間と推定して然るべきであり、既に述べた如く、鎌倉初期の創建という見方が、おそらく至当であるまいかとの念を一層強くしている。
前記したことであるが、丁度その頃は、源氏の氏神として鶴岡八幡宮の尊崇と相俟って鎌倉御家人はじめ広く八幡神信仰が盛行し、八幡神勧請が各地に行われたことは、既に先学の説くところである。縁起は縁起として尊重するが、それに謳われる程古代に遡るものでなく、それかと謂って、『続風土記』説の如く、応永年間梅本覚言が津木八幡より勧請祭祀ということにもいろいろ納得のゆかない点が認められる。
鎌倉時代の豪族が、自分の屋形の近くに八幡神を祭祀した当地方の例として、最も明らかなのは、前章において述べた西広鳥羽氏である。この事例が示す如く、広八幡神社を創建したのは、堀の内を屋形とした鎌倉時代初期の豪族であったであろう。それが、広弥太郎、即ち湯浅宗正であったと観るのである。同神社の楼門は鎌倉末期の建物という。その頃、広弥太郎に代って別な背景が存在し、その力によって建立されたに相違ない。
以上の創建年代考と関係がないが、この広八幡神社内の建造物は殆んど重文指定である。他の篇との重複を避けて、その建造物の名称と年代のみを左に記すに止める。

八幡神社本殿  南北朝時代と見られる。
八幡神社楼門  鎌倉時代の様式が遺る。
八幡神社拝殿  室町時代中期とされる。
摂社若宮神社 左記の棟札がある。
同高良神社   紀伊国在田郡広庄八幡宮 若宮武内 2社造営応永廿年癸巳2月下旬始之境内社天神社本殿 乙田天神社と称す。現在の社殿は桃山時代の再建という。

右建造物に附随して棟札28点がこれも重文指定を受けている。この棟札で最古のものは、前記若宮・武内2社造営時の応永20年(1413)の年記あるものである。『紀伊風土記』が、これをもって、応永年間梅本覚言、前田本座八幡をこの地に遷宮との記事を載せたであろうが、棟札には梅本覚言の名が見えない。確かに消えることは、前記した如く、広八幡神社創建は、平安末期嘉応の頃以後、鎌倉初期末の嘉禎以前と見て間違いないであろうということである。

5  津木八幡神社(広川町大字前田)


この神社は、一般に本山八幡または本座八幡と称し、広八幡神社は、この神社を遷し祀ったものとの説がある(『紀伊続風土記』)。
同八幡神社縁起によると、神功皇后三韓征伐から還幸の途次、逗留された地をトして宇佐八幡宮を勧請したとある。また一説に、日高郡衣奈八幡神社から勧請したとも云う。さらに、津木老賀八幡縁起別伝によると、津木寺杣は、神功皇后三韓征伐の帰途1泊されたところ、その縁故の地に、欽明天皇の御宇、宇佐八幡宮より勧請した。その後、貞観4年(862)勅命により諸国に八幡宮造営の行なわれた際、寺杣の地風景良ろしからず、前田六本木に遷宮したという。また曰く、寺杣の地より権崎公文太夫の祖先が、上津木中村の地に鎮座を移したのが老賀八幡神社とする (老賀八幡縁起)。
右の伝承はとにかくとして、津木八幡神社にしても、老賀八幡神社にしても、その創建には、広八幡神社の場合と同様、その背景には土地の豪族が存在していたと考えたい。そのことは、上記老賀八幡神社縁起書においても僅かながら示唆するところである。
それでは、前田の津木八幡神社創建には如何なるバックが所在したのであろうか。それを考察する前に、現在知見し得る同神社関係資料を挙げることにしよう。
もっとも、その資料は後世の写しであるが、津木八幡神社の棟札写本である。本物の棟札は、いま不明となっているが、江戸時代安永9年(1780)、一溪子なる人物が書写し、河瀬の旧家鹿瀬六郎太夫家に伝えられるものである。鎌倉末期から江戸時代中期までの棟札10枚を写している。それによって、最古のを見ると、鎌倉時代嘉元2年(1304)の紀年銘を有する。即ち、左記のとおりである。

本社八幡宮棟上大願主散位藤原朝臣嘉元2年甲辰3月9日 大工 津守為清 敬白

嘉元2年は鎌倉末期にして、鎌倉幕府は執権の北条師時が実権を握っていた時代である。右の棟札では同八幡神社の創建時を示すものか否かなお明らかでないが、この時、同八幡神社社殿の上棟が行われていることが判明する。その時の願主散位藤原朝臣とは、一体誰なのか、これだけではさっぱり判らない。散位とは位いだけあって官職のない者の称であるが、中央貴族の藤原氏一門なるや、はたまた、湯浅氏の如く藤原姓を名乗る地方豪族であったか、その辺のことは一向不明である。
当時は、正当な藤原氏でなくとも、随分その姓を冒したものが多かったから、藤原朝臣と名乗ったからとて、必ずしも名族とは限らない。しかし、津木八幡神社社殿造営の大願主となる程であるから、かなりの経済力を有した、当地方関係有力者であったに相違ない。

ところで、『大平記』に、熊野8荘司の1として鹿瀬荘司の名が見える。鹿瀬荘司を名乗るところから推測すれば、河瀬の鹿背山麓附近に屋形を構えていた豪族であったこと明らかである。鹿背城は、この鹿瀬荘司の山城であったであろうが、室町時代、南朝方の余党がこの城に拠って、紀伊国守護畠山氏に抗戦し、衆寡敵せず遂に落城したと云う。(『畠山記』)。
 それよりさらに古く、平安時代末期、熊野別当湛増が謀反して、鹿背に山塞を切り開いたこと、『玉葉』(九条兼実の日記、平安末期から鎌倉初期の史料として有名)に見える。同書では、治承5年(1181)9月廿8日付で、その伝聞を記載している。応徳3年、当荘免田拾参町5段が熊野那智山領に寄進されて後、およそ百年近い頃である。
那智山領となった広荘内には、既にしてその荘官がおかれていたことであろう。後世文献に見える鹿瀬荘司は、かってその荘官の後裔なるや否や明らかでないが、熊野湛増が、鹿背山に山塞を下した因縁には、熊野領荘官在住の地縁関係が与っていないのでないかとの想像も浮ぶところである。
広荘免田拾参町5段は、何時の頃まで熊野那智山領であったか、それを証する史料を知見し得ないが、鹿瀬荘司は熊野神領荘官であったとすれば、その地位でなくなった後も、この地に住し中世地方豪族としてなお勢力があったと思う。
ところで、鹿瀬荘司とは、上記した如く、鹿瀬に住したことから出た名である。別に姓氏を名乗っていたであろうこと間違いあるまい。それが、藤原姓を冒していたと、強いていう訳でないが、その可能性も全く否定できない。例えば、寛喜3年(1231)の施無畏寺文書湯浅一門連署には、49名中、藤原姓を名乗る者31、2を数える有様である。従って、藤原朝臣と名乗っても、誰であるか知る由もない。たとえ鹿瀬荘司が藤原朝臣を名乗ったとしても、特別不思議でない時代となっていた。

同神社は嘉元2年から171年後、室町中期文明7年(1475)、 また社殿の上棟を行っている。嘉元の社殿が朽損したため再建となったのであろう。

本社八幡宮棟上  文明7乙未正月25日
        天長地久社等泰平
        庄中平安諸人快楽
         大願主 木氏朝臣
             大工吉行敬白
裏面、為造営之殖木百30本殖置也政所


このたびの大願主は、木氏朝臣と記している。これは、紀氏朝臣と書くところを、木氏朝臣と書いたものと思われる。これもまた、誰か判らない。湯浅氏一門の中に紀氏を称する武士がいたから(前掲旋無畏寺文書湯浅一門連署)その後裔者であったかも知れない。(室町時代広庄の地頭は、崎山氏であった。同家は田殿庄崎山氏の一門との伝えもあるが、田殿崎山氏は紀氏との説にもかかわらず、広庄崎山氏は源氏を名乗っている。)
ところで、再建の場合でも棟札には、前掲文明7年の例に見る如く、単に棟上としか記していない。嘉元の棟札が実際再建時のそれであっても、棟上と書いたとすれば、この棟札をもって同八幡神社創建の決め手となし得ない。確かな証拠がある訳でないが、創建はもっと遡ると、私はひそかに推想している。
津木本山八幡神社の創建は、広八幡神社のそれに比較して、さして、年代に大きく開きがなかったと想像する。

その理由は、同神社の至近距離に古代末期からの土豪鹿瀬荘司なる者の居館があったと思われることである。この土豪の居館は鹿背山麓の河瀬に所在していたこと間違ない。そして、この土豪も鎌倉時代、逸速く時代の潮流に棹さして、館の近傍に適地をトし、八幡神を勧請祭祀したのであるまいか。これが津木本山八幡神社の創建と思われる。古くから口碑として、同神社は衣奈八幡(日高郡由良町衣奈)の分霊との伝があるから、衣奈八幡神社から勧請したのであったかも知れない。
ついでに、もう1つ、同神社中世の棟札を掲げておこう。

本社八幡宮棟上 天文10年辛丑8月11日
       藤原朝臣大願主 盛堅
           大工吉家敬白


室町末期天文10年(1541)は、同中期文明7年(1475)から66年後に当る。この時また再建の時期がきていたらしい。この時の願主は藤原朝臣盛堅であるが、畠山の重臣丹下備後守であろう。右棟札では盛堅と記し、老賀八幡記録には堅盛と書いている。
ところで、天文10年頃は、名島の広城は既に落ち、当荘は日高の豪族湯川一族の手中に収められていたと思われるが、当時、鳥屋城 (旧石垣荘、現金屋町)や岩室城(旧宮原荘、現有田市)などは、まだ、畠山勢力の拠城として、健在であった。だが、既に広庄は湯川氏の手中にあった筈なのに、津木八幡宮上棟に、畠山の家臣丹下備後守が願主となっているのは、どのように理由からであろうか。広庄のうちでも津木方面は湯川の勢力範囲外であったかも知れない。この時代津木方面は日高の土豪玉置の所領であったとの伝承もあるから、私の想像の及ばない事情が存在したのでもあろうか。
なお付記すると、同八幡神社もかつて両部であり、『紀伊風土記』編纂当時には、神宮寺の庫裏(裡)と鐘楼が残っていたと記載されている。

6  老賀八幡神社(広川町上津木中村)



この八幡神社の創建を伝える縁起に関しては、宗教篇神社各説において詳しく述べられるであろうから、概略をいうと、やはり、その創建は神功皇后縁りの地を下してとある。
同皇后三韓征伐の帰途1泊の地下津木寺杣に欽明天皇の御宇、九州宇佐八幡宮より勧請という。 その後、寺杣の地風景悪きため、同地椎崎公太夫の祖先、上津木中村の地に鎮座を移すと伝える(老賀八幡縁起)。
右で特に注意を惹くのは、最初寺杣の地に勧請したということ。その後、椎崎公太夫の祖が中村に遷宮したということである。
また、別伝では、畠山持国が中村的場の地を寄進して中興したというが、いづれも、最初の祭祀地は下津木寺杣としている。
この最初の祭祀地を寺杣とするところに、老賀八幡創建を解くヒントが蔵されていると思う。
ところで、この寺杣に八幡神を勧請したのは、勿論、縁起書や『津木村誌』の伝える如き古代であるまい。既に、広・津木両八幡神社のことを述べたが、この老賀八幡も、おそらく、同様な時流の中で創建された神社であると想像されるのである。この創建に関する問題解明の鍵は、椎崎公太夫の祖先が握っていると思われる。それで、この椎崎公太夫の祖先とは、いったい、如何なる人物であったか。 まづ、この問題から考察してゆく必要があるであろう。
そこで、その第1歩として、この地の地名に調査の足を踏み入れて見た。広八幡神社創建考の場合にも、付近の地名「堀の内」を非常に重視したこと、既に御承知のとおりである。
老賀八幡縁起には、この神社もと寺杣に鎮座し、後、椎崎公文太夫の祖先、上津木中村に遷宮するとあること、既に紹介したが、それに関連して、寺杣の地名に、まづ、眼を向けて見た。寺杣とは、寺院の経営する林業地、もしくは、山地寺領を指す言葉である。この下津木寺杣の小字地名に公文原というのがある。同地を流れる広川の東岸台地上に位置する。椎崎公文大夫は、この台地に居住する土豪であった。その子孫と称する旧家椎崎氏は、極めて最近まで、この台地に居を構えていた。そして、数々の資料を伝えていたが、近年転出に際し、その資料の殆んどが散逸したという。
例の『紀伊続風土記』は、この旧家を叙して、「先祖詳ならず昔は数世此地の公文職を勤めし故に地の字を公文原という。門前に榎木の大樹あり、太さ3圍許なり。大抵5百年許を経しものならん。」と、記して、その由緒と地名起源に注目している。しかしもう少し詳しく、公文のことを述べておこう。
公文とは、もと、律令時代公文書の総称であった。それが、やがて公文書を取扱う役所や役人の称となり、平安時代や鎌倉時代には貴族の家で文書を扱う役人も公文職、または公文と称した。中世荘園の現地事務を司る荘官も、また、公文と呼んだ。後世、寺院の世話人をも、かく名付けられるに至る。
寺杣公文原の地名起源となった公文職は、既に続風土記が前掲文で回答を与えてくれている如く、中世この地方の荘官であったと解される。

前掲、続風土記に、寺杣の地名、由良興国寺建立の杣人の出たことにより、この地名起るとしているが、おそらく、鎌倉時代、同地は、興国寺(当時西方寺)か何処かの寺領であったために寺杣の地名が遺ったのであろう。
寺杣の公文は、興国寺の寺領の荘官であったか、或は他の荘園のそれであったか、とにかく、この地の土豪であり、寺領か荘園の現地管理者であったことは確である。
ところで、椎崎公文大夫は、知見し得た史料からするなれば、およそ、室町末期戦国時代から桃山時代頃の人物である。代々襲名したかも知れないが、史料に徴し得る椎崎公文太夫は上記の時代に 動したこの地の土豪であったらしい。(宗教篇神社各説老賀八幡の項参照)
 この椎崎公文大夫の祖先が、寺杣の地に九州宇佐から勧請した八幡神社を、上津木中村に鎮座を遷したのが、現在の老賀八幡神社と伝えいう。寺杣の地から中村に鎮座を遷した公文大夫の祖先よりさらに以前、寺杣の地に八幡神社を勧請した同家祖先があったのではなかろうか。これが、即ち、老賀八幡の創建であったと考えたい。
その時代については、確実な史料がある訳ではないが、とうてい縁起書の伝える如き上代に遡るものでないこと多言を要すまい。
椎崎公文大夫の祖先が、公文職として津木方面に現地支配者の地位を得ていた時代で、しかも、武士階級の間に八幡神信仰隆盛期を形成していた時代がそれに当ると見るのが、最も当っているであろう。このような観点から推定して、鎌倉時代以降として誤りな あろう。重ねて謂うと寺杣台地に屋形を構えて、この地方に勢力のあった公文職の椎崎家祖先が、自邸の近 に八幡神社を勧請祭祀したというのが事実であろう。そして、室町時代の頃、椎崎家の祖先によって、上津木中村に遷されたというのが、おそらく間違いでなく、縁起書も丸呑みにしない場合はかなり参考となるものと思っている。

以上で大体、老賀八幡神社の創建に関する所見の一端を概述した。津木八幡、広八幡の創建に比して、その年代はやや降るのでないかと推想されるが、やはり、鎌倉時代を降るものでないであろう。
次ぎに参考のため、かつて、同神社所伝の遺品について触れておきたい。
『紀伊続風土記』同社の記に、「神庫に鬼鰐師子頭あり裏に『享禄5辰8月吉日奉寄進津木宮藤原朝臣大工吉家作之』とあり」と見える。この銘文でも、やはり、藤原朝臣を称している。この姓を名乗る人物は地方においても、かなりいた事実を物語る。
ところで、ここで思い出すのは、前記津木八幡神社棟札写である。天文10年のそれを、重複をいとわず再録すると、

本社八幡宮棟上  天文10年辛丑8月11日
           藤原朝臣大願主盛堅
          大工吉家敬白


老賀八幡の神楽面の銘文は、享禄5年(天文元年、1532)で、右棟札の9年前である。大工吉家は両者同一人物であろう。すると、享禄5年の藤原朝臣も、丹下備後守盛堅であったのであろうか。
なお、もう1つ付け加えておこう。老賀八幡にも、もと別当寺があった。安楽寺と号したが、今は廃寺となっている。同寺の仏像数体遺る中に、鎌倉時代を下らないと推定される木造阿弥陀如来像がある。小像ながら、老賀八幡別当寺遺品として注目を惹く。
以上、大体、広川町における3ヶ所八幡神社の創建年代考を略叙した。これは、いずれも、旧来の縁起にとらわれず、筆者の所見を述べた訳である。従って、旧来の説を信じて疑わない人々には、意外の感を与えるかも知れない。だが、その創建期は古代にあったにせよ、将又、中世にあったにせよ、八幡信仰には変りがない筈である。古いのみが自慢でない。やはり、できるだけ史実に近い把握が必要であろう。筆者の所論はいずれも単なる想像の域を越えるものでないが、全く的はずれなものとは思っていない。
 それはさておき、本地垂迹説の思想を最も早く受け入れたのは、八幡神社であった。八幡神の本地は阿弥陀如来という仏家の説により、必ずといってよい程、八幡神社には、神宮寺または別当寺が併存していた。当広川町の前記広・津木、老賀の3八幡神社も、その例外でない。広八幡には仙光寺、津木八幡には神宮寺、老賀八幡には安楽寺などそれである。
八幡宮は、古来、応仁天皇を主神とし、その母神功皇后、その父仲哀天皇、重臣武内宿弥など併祀し、上下の尊崇厚かっただけに、いち早く、仏家の利用するところとなったという説がある。

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13、中世高僧の足跡


1  明恵上人と鷹島 ー飛びて帰れね鷹島の石ー


(1) 蘚婆石
われさりてのちにしのばむ人なくば
とびてかへれねたかしまのいし


これは、『玉葉和歌集』に載る高弁の歌である。この作には、次のような前書がついている。

紀州の浦にたかしまと申すしまあり。かのしまの石をとりて、つねにふつくへのほとりにおき給しきに、かきつけられし。

同歌集は、勅撰和歌集で、8代集の1つ。鎌倉時代京極為兼の撰進にして、同時代歌人の作品を収めている。
右の歌の作者、高弁とは、明恵房高弁で、一般に明恵上人と呼ばれ、紀州が生んだ鎌倉時代の高僧である。
ところで、高弁の詠んだたかしまの石とは、当広川町西部海上に浮ぶ鷹島の石に外ならない。嘉禄2年(1226)9月、高弁は、一門の弟子や親族多数を併って紀州の浦たかしま(鷹島)に渡り、4、5日逗留した。その時、島で拾った渚の小石を常に栂尾高山寺(京都市右京区梅ヶ畑)の机辺に置いて、鮮婆石と名づけて、島を偲ばれた。(『神尾明恵上人伝記』)
右の1首は、高弁晩年、この島の小石を愛惜して詠んだものである。歌意は、自分の死後、もし、この石を顧る人がいなかったならば、飛んで帰れよ、鷹島の石よ。というのである。
あたかも、人間に話しかけるように、自分の死後を考えて詠んでいる。何故、机辺の1小石をかくまで愛されたか。何故に鷹島の小石を机辺に置いて、大切にしたか。その訳を上人の高弟喜海の筆になる『栂尾明恵上人伝記』(明恵上人要集本)から抄録しよう。

華宮殿の東の高欄の上に1の石を置けり。是は先年紀州に下向の時、海中の島に4、5日逗留す。其の時、西の沖の島のかすみて見えたるを、天竺に思い准へて、南無5天諸国処々遺跡と唱へて、泣く泣く礼拝をなす。

多くの同法亦親族の男子等あり、同じ礼拝を進めて告げて曰はく、天竺に如来の千幅輪の御足の跡を踏み留め給へる石あり。殊に北天竺に鮮婆河と云う河の辺に如来の御遺跡多くあり、其の河の水も、比の海に入れば同じ塩に染まりたる石なればとて、此の磯の石を取りて、鮮婆石と名づけ、御遺跡の形と思い、(中略)此の磯の石を持して身を放ち給ばず。仍て1首思いつづけ給う。

遺跡ゆいせきを洗へる水も入る海の
   石と思へばなつかしきかな


明恵房高弁は、釈尊に対し、如何に敬慕の情が厚かったか。上記引用の文章や和歌によって明白である。そして、釈尊の遺跡天(印度)と鷹島は、同じ海水で連らなっているという考えに基づいて、鷹島の石をこよなく愛慕された。この小石は、いまもなお、高山寺の宝庫に、上人遺愛の品として保管されている。
かねてから、高弁は、非常に釈尊敬慕の情やみがたかった。そのため、釈尊の遺跡巡拝をと、印度渡航の志しきりであった。時に建仁(1201〜1204)の頃である。ところが、明恵上人紀州8所遺跡の1所で知られる星尾遺跡(有田市星尾)において修行中、保田庄地頭、伯父湯浅宗光の室が神がかりして、春日大明神の御託宣を伝え、高弁の印度渡航を思いとどまらせた(喜海筆『春日大明神御託宣記』および『漢文行状記』)。いまも、星尾神光寺西隣りの森に遺る石造卒都婆(康永3年再建)に「建仁3年癸亥正月29日、春日大明神御託宣処」の刻銘がある。
高弁は、春日明神の託宣により、釈尊遺跡巡拝を思い止まったものの、釈尊敬慕の念、毫も変るところはなかった。さればこそ、鷹島の石を、鮮婆石と呼んで、限りなく釈尊を偲ばれたのである。
ところで、高弁の鷹島渡訪は、嘉禄2年の時だけでなかった。25、6オの青年僧の頃にも訪島された模様である。同島は、苅藻島と共に、紀伊8所遺跡と並んで、明恵遺跡として知られる所以である。そして、鷹島の小石を蘚婆石と称し、栂尾に持参したのは、晩年に近い52歳の秋であった。

(2) 明恵上人略伝
鷹島は、縄文以来の文化遺跡として、当広川地方文化史の上に、重要な地位を占めるが、鎌倉時代、明弁によって、仏教遺跡としての性格も付与された。特に、この点が早くから注目を惹き、これが、また、おける古代遺跡発見の一契機となった訳である。広川地方文化史上、直接、間接関係深い明恵上人を偲ぶ意味において、その略伝を挙げることにしよう。
平安朝の末、承安3年(1173)正月8日、在田郡石垣荘吉原(現在の金屋町歓喜寺)で誕生。父は、京武士(高倉院の武者所)平重国。母は、湯浅宗重の4女である。ところが、治承4年(118O)正月母に、9月父に相次いで死別した。高弁8歳の時である。一時に父母を失った彼は、伯母(湯浅一門崎山信証尼)のもとに引取られ養育された。
9歳の年、京都高雄に上り、碩学賢如房律師尊印の門に入った。そして、華厳5教章や悉曇等仏教々学を日夜不退の修行に専念した。その間、文覚や伯父浄覚の指導も得た。鎌倉初頭、文治4年(1188)16時、奈良東大寺戒壇院において受戒し、正式に沙門となる。以後一層、華厳の行者として、学・行共に刻苦性桑門の修行に余念がなかった。その修行は、都の地ばかりでなく、時には、高野山、在田郡処々の山中、または海上の小島と、その生涯は全く聖者の苦行に終始した。高弁ほど、清僧高弁が、郷里有田の地において、にこもって修行した。その場所は、誕生地せて、明恵上人紀州8所遺跡として既に有名である。嘉禎2年(1236)高弟喜海がこの旧蹟に木造卒都婆を建てて記念した。
だが、それが朽損したので、その後80年を経て、康永3年(1344)、比丘弁迂が一族を勧進し石造をもって再建した。それが、現在、重要文化財指定を受けている卒都婆である。
因に、その遺跡を挙げておこう。

歓喜寺 (誕生地。金屋町大字歓喜寺。)
西白上 (白上前峰。湯浅町栖原。卒都婆銘に「建久之比遁本山高雄来草庵之処」とある。)
東白上 (白上後峰。右に同じ。卒都婆銘に「建久比蟄居修練之間文殊浮空中現形之処」とある。)
筏立 (金屋町歓喜寺西原。建久9年(1198)高弁華厳唯心観修の地。現存卒都婆江戸期享和2年建立。)
糸野 (金野町糸野。卒都婆銘に「建仁2年(1202)付浄覚上人入壇灌頂処」とある。)
星尾 (有田市星尾弁財天谷。卒都婆銘に「建仁3年癸亥(1203)正月29日。春日大明神御託宣処」とある。)
神谷後峰 (吉備町船坂聖人。卒都婆銘に「建仁末比仏頂法修行之処」とある。)
内崎山 (吉備町井ノ口。卒都婆現存せず。もとの銘「承元第4暦庚午(1210) 製光顕抄並被華厳大疏演義抄之講処」とある。)


上記8所遺跡の外、鷹島・苅藻島があることは既に記した。苅藻島は、建久末比、白上の峰で修行の切り、高弟喜海らを伴って渡島し、5日間島籠りした高弁縁りの島である。かつ、この小島に宛てて、長文の手紙を送っているので名高い。
高弁の郷里における修行の地は、大体以上の如くである。なお、彼の糸野成道寺、神谷(吉備町出)の最勝寺等の中興、栖原施無畏寺の開基などは著名である。施無畏寺は、湯浅氏一族の須原景基 (森九郎)が、寛喜3年(1231)自領を寄進して、高弁を開基に仰ぎ建立した。時に高弁59才。入寂の前年であった。
ところで、高弁壮年の頃、学徳既に都の内外に隠れなかった。建永元年(1206)34才の時、後鳥羽上皇の恩召によって、高雄神護寺の1院、栂尾の別所十無尽院を賜り、高山寺を興した。その翌年承元元年(1207) 東大寺尊勝院の学頭となり、華厳宗興隆に貢献された。高弁は鎌倉時代、新仏教興隆の中で、ひたすら古代仏教華厳宗復興に身魂をかたむけられたのである。
ところが、施無畏寺開基の翌年、即ち寛喜4年(1230)正月19日、栂尾禅堂院において法弟たちに教誠を垂れ、我昔所造諸悪業、皆由無始貪隷嬢、従身語意之所生、一切我今皆懺悔、と誦し終って、安らかに寂滅されたという。同21日夜、禅堂院の後の地に葬られた。いまの廟所はそれである。

2  三光国済国師と能仁寺―何んにも名島の能仁寺―


広川町内の諸寺院のうちで、名島の能仁寺は、後村上天皇の勅願所として名刹の1つであった。ところが、何時の頃からか廃頑して、何んにもなしまの能仁寺、という里言を生むに至った。同寺の現状は、この言葉どおり廃寺同然、最早や見る影もない。
高城山南麓台地を境内とする同寺は、現在、薬師堂と僧舎1棟を残すのみとなっている。だが、隆盛期には伽藍僧坊震を並べる有様は郡中にその比を見ざる壮観であったという。 とにかく、かつては郡内に名高い巨刹であった能仁寺の開基は、南北朝時代の高僧、三光国済国師である。
能仁寺の創建は、南北朝時代正平6年(1351)となっている(能仁寺文書)。開山三光国済国師とは、どのような高僧であったか、まずその略伝を挙げよう。
同国師は、由良興国寺の開山、法燈国師心地覚心の高弟である。諱は覚明、孤峰と号した。国済国師号は 後醍醐天皇から、三光国師号は後村上天皇から賜わった。
ところで、国師の伝記は、『本朝高僧伝』の外、国師の弟子聖珍の著『孤峰和尚行実』その他数種に見えるところであるが、それらの文献に基づいて浜口恵璋師は『紀州文化』第9号に「三光国済国師について」を載せて詳述している。
国師は、鎌倉時代文永8年(1271)奥州会津に生れた。そして、南北朝時代正平16年(1361)泉州高石の大雄寺で入寂。時に令91歳。能仁寺の開基は正平6年であるから、国師81歳の年である。
弘安10年(1287)17才で落飾僧籍に入り、初め比叡山において法華経を学び、止観の行を修した。次いで、紀州由良の法灯国師の門に入って、禅の修行に専念。かくするうち、永仁6年(1298)師覚心(法灯国師)を失なった覚明(国済三光国師)は、海内遍参を志し、奥羽の法明和尚、関東雲厳寺開山高峰顕日禅師、鎌倉の紹明禅師など、当時有名な禅林に入って禅の真髄探究に精進。更に、応長元年(1311)覚明41才の時入宋。中国(支那)において、天竜寺、天台寺等に参じ、彼地1流の諸知識のもとで仏教の奥義を学び、滞支およそ10年の後帰朝。
帰朝後、鎌倉の巨福寺に居ること暫らくにして、能登国羽咋郡洞谷永見寺に瑩山紹瑾和尚を訪い、やがて、紹瑾和尚の命を受けて出雲国能義郡に至り、雲樹寺の開山となる。その頃、覚明の学徳は天下に聞こえ、雲樹寺は山陰の一大禅林となる。
ところが、覚明が雲樹寺において弟子の教養に専心の頃、国情騒然たるものがあった。即ち、南北朝動乱の発端となる「正中の変」(1324)、続いて「元弘の変」(1332)である。時の帝、後醍醐天皇の鎌倉北条幕府討伐計画が失敗に終り、幕軍に捕えられた天皇は隠岐に流遷の身となる。だが、護良親王の活躍に呼応して楠木正成、赤松円心、得能通綱、土居通増、菊池武俊など諸国の土豪が挙兵し、討幕の気勢が大いにあがった。
かくして、元弘3年(1333)閏2月、後醍醐天皇はひそかに隠岐を脱出し、名和長年に擁せられて、伯耆船上山の行在所に拠った(『太平記』)。 そして、後醍醐帝が船上山行在所滞留の折、雲樹寺の覚明を召され宗要を御下問の後、受戒された。その後3年、即ち、建武2年(1335)再び覚明を召され、同年10月5日、次のような勅書をもって国済国師号を授与されたのである。

師者無門ノ孫、法燈子。振錫大唐旌道扶桑。朕於4海不穏之時、迎師行在大得沿法楽。
承衣孟戒宝。回鸞京都再入内。
聊表酬恩。特賜国済国師。
建武2年10月5日


さて、当時の国情であるが、帝の隠岐脱出を知った幕府は、直ちに、名越高家、足利高氏を将として西上せしめた。ところが、幕将高氏(後ち尊氏)は反旗をひるがえし、京都の六波羅を攻め、元弘3年(1333)5月7日これを陥した。続いて新田義貞も鎌倉を攻略して、執権北条高時等一族を死地に陥入れた。時に同月22日。源頼朝以来の鎌倉幕府がここに壊滅に至ったのである。
鎌倉幕府壊滅後、日を置かずして天皇は伯耆から京都に還幸。そして年号を建武と改元。一まず天皇親政の念願達成となった。これを世に建武の中興と呼ぶ。覚明が国済国師号を下賜されたのはその翌年(1335)である。
ところが、折角、建武の中興が成ったが、それも束の間、今度は足利尊氏が鎌倉に拠って叛逆という事態が起こる。これがやがて、天下を南北両朝に分ける大動乱にと発展していった。足利尊氏と新田義貞の宿命的な天下覇権の争が根本に横たわっていたからに外ならない。そして、南朝方(吉野朝廷)の臣相次いで敗れ、苦難のうちに延元4年(1339)8月、後醍醐天皇は吉野行宮において崩御された。
後醍醐帝のあと、後村上天皇が即位し、翌年興国と改元。同年、さきに法灯国師が海部郡由良荘に開基の西方寺に興国の寺号を賜う。
それよりさき、足利尊氏や弟直義は、国済国師覚明を吾が味方にせんと辞を低くして乞うたが、覚明はそれに応じなかった。そして一層南朝方に心を寄せたのであった。正平2年(1347)4月、次の勅書によって、後村上天皇から三光国師号を加賜される。

  勅
国済国師者、先帝尊崇異地。受衣奉戒
朕亦迎内順僧伽梨 授菩薩戒
為旌法恩。特賜金襴方袍。
更加号日三光国師。
正平2年4月3日


覚明は、その前々年、即ち興国6年(1345)、紀州由良に戻って、先師法燈の滅後とかく衰微に傾きつつあった興国寺の復興に努められていた。覚明を以て興国寺第2世とする所以である。
かくて、覚明は再び紀伊国に駐錫することとなった。広荘名島の地に新たな禅林開創となるのはこの間である。
国師号を加賜して尊崇厚かった後村上天皇は、自ら大檀那となり、覚明を開山として能仁寺建立となる。時に正平6年(1351)のことである。
いま廃堂同様に荒廃した薬師堂内に、薬師如来坐像が安置している。江戸時代正保3年(1646)堂宇再建に際し、同仏像胎内から1通の書付けが発見され、それが『紀伊続風土記』巻59に載せられている。

大日本国南海道紀伊国在田郡東広山能仁寺
住寺覚明当寺開山 大檀那
後村上天皇勒願所
  奉行 湯浅八良右衛門入道明暁
      掌作事 氏 藤原宗永
  正平6年辛卯9月12日功了


この墨書が、再び胎内に収められたか否か、調査の機会がなければ判明しないが、能仁寺創建の模様を物語る貴重な史料である。
この能仁寺は、草創当時から寺領40町を有し、国家安隠宝祚長久、四海平等利益のための祈願所として、地方に重きをなした禅刹であった。それを証するのは、『能仁寺文書』として知名な次の古文書である。(「高野山文書」中に収録)

左少将顕教教書写
応任輪旨処寄付以於広莊内水田40町
為仏餉料  者永為当寺領、到符、
可抽聖朝安穏宝祚長久、四海平均勢気者
國筆達如件
 正平6歳辛卯11月日  左少将顕教奉
  能仁禅師御房


右文書に見るように、論旨によって、創建と同時に広庄内で水田40町の寺願寄進を受け、寺院経済の基礎が確立された。それに伴なって南朝方寺院としての活動がかなり活発に行われたことであろう。正平の頃は、足利尊氏同直義兄弟や一門の不和などによって、やや南朝方に有利な情勢であった。とはいうもののそれも須叟にして終り、その後は一層南朝方に取って苦しい時代となって行く。能仁寺は創建後程なくして、そのような時代を迎えるのであった。
ところで、能仁寺建立の奉行を勤めた湯浅八良右衛門入道明暁は、(上山氏系図では八郎右衛門尉法名道暁)湯浅荘地頭湯浅宗利である。当時は、地頭の交替は、あたかも朝令暮改に等しく、広荘は鎌倉後期、正応の頃、湯浅一族以外の地頭がいたらしいが、能仁寺創建当時は、湯浅宗利が広荘地頭職をも兼補されていた模様である。無論、吉野朝廷からである。掌作事を勤めた藤原宗永は湯浅氏一族、宗景の子景光が分家してそれから4代目に当る武士である。能仁寺の後盾には南朝方豪族湯浅氏があったことは、本尊胎内墨書からも推察することができるであろう。
さて、同寺隆盛時、伽藍僧坊震を並べたことは『紀伊続風土記』に、能仁寺伽藍所」として、山門、仏殿、法堂、多宝塔、観音堂、禅堂、経堂、食堂、鎮守、方丈、庫裏、寮舎、浴室、鐘楼等の諸建造物があり、なお「廃僧坊」として次の18坊を挙げている。

道念寺、蓮花寺、明日庵、多宝寺、円妙寺、蓮開寺、弥勒寺、性寿院、禅昌院、実相院、三覚院、証心院、宝光院、地蔵院、中之坊、法輪院、真珠院。

右の18坊の所在地について、故浜口恵璋氏は、能仁寺附近には到底それ程の 場所は考えられないから、庄内寺領各所に散在していたのでなかろうかと見ておられる。いま大字南金屋に蓮開寺があるのは、その1坊の名残であると同氏は説明している。
現境内は、勿論往時の一部分に過ぎない。附近の畑地は旧伽藍地にして、今も古瓦片が発見される。この一画の台地は可成りの広衣を有するので、続風土記所載の伽藍が輪 奥の美を誇ったところであろうが、そこから程近い柳瀬にも旧寺域が及んでいた模様である。
ところが、天正13年(1585)3月、豊臣秀吉の紀州征伐で兵火に罹り灰燼したとの伝承がある。これは古社寺衰退譚にしばしば見るところであるが、能仁寺の場合はおそらく事実であったであろう。
だが、同寺の衰微はこの時が初めてではなかった。さきにちょっと言及したが、南北朝時代末期に早くもその危機が訪ずれたといってよい。
天授5年(北朝年号康暦元年、1379)、湯浅氏が足利方の山名義理に攻められ湯浅城陥落。その頃は全国的に南風競わず、南朝方の敗色が濃厚になるばかりであった。やがて、南北両朝合体の形で動乱が一応治まるがそれは南朝方の没落に外ならなかった。南朝方寺院能仁寺の蒙った打撃は甚大と謂って過言ではなかったと思われる。同寺衆徒の悲嘆は察するに余りあるであろう。
 山名義理のあとを襲って、大内義弘が紀伊国守護職の地位に就いたが、義弘が幕府に叛いて滅び、これを撃った畠山基国が新たに紀伊国守護職を加増される。彼は既に河内の守護職であったが、応永7年(1400)紀伊国守護を兼ねることになる。そして、やがて、紀伊国における畠山の城が、能仁寺の真上に築かれたのである。
南朝方寺院として同寺の苦痛たるや、とうてい筆舌に尽くし難いものがあったであろう。その圧力の如何に堪え難いものであったか、さすがの能仁寺も寺運衰微を余儀無くされたことは改めていうまでもない。更に、行動面においては、常に監視の眼が注がれ、衆徒達の無念やる方ない時代を迎えた。
上記の如く、南北朝の動乱が、南朝方の敗北によって、当地方の巨刹能仁寺の苦境時代がたちまち始まった。
そして、1世紀余りもそれが続いた後、再び日の目を見る機会にめぐり会ったのである。
室町時代末期の初め頃、大永元年(1522)、日高の豪族湯川氏などが広城に畠山氏を攻めてこれを陥し、広庄を領した。そして、能仁寺に対し、あらためてもとの寺領40町を安堵し、復興を図った。『能仁寺文書』湯川光春田地寄進状に

於東忘庄善党40町、藥師堂為修造
勸行科令寄符訊猥食寺用莫招後勘
仍寄附状如件

大永2年3月   光春  (花押)
         能仁寺架徒中


大永2年(1522)は、畠山尚順(ト山と号す)が広城を逃れて淡路に敗走したその翌年である。湯川光春の芳志によって、寺運再び往時に復した能仁寺も、それから半世紀余の後、天正の兵火により灰燼に帰し、寺領また没収に遇うとの伝えは前記のとおりである。
正平6年、覚明を開山とした禅林雁蕩山能仁寺は、後村上天皇の勅願所、南朝方寺院として浮沈はあったが、とにかく近世初当頃まで臨済の法灯を守って来た。だが、江戸時代には真言宗に属し高野山金剛峰寺の末寺に転宗した。
能仁寺が臨済宗から真言宗に転宗したのが、上記の如く近世程なくであったらしい。だが、天正の兵火後、同寺はしばらく住持中絶の時期があった模様である。「能仁寺文書」(『高野山文書』所収)中に見える出雲国能儀郡雲樹寺よりの口上書にそれが窺われる外、開山国師像その他寺宝調査のため雲樹寺住持が能仁寺に逗留のあったことが判明する。

雲樹寺口上書之覚
1、紀州有田郡広荘偽蕩山能仁寺者、当寺開山三光国師之開基、後村上天皇之勅願所ニ而御座候処、基後兵火を経住持中絶仕只今ニ而者真言宗より政相続来候得共国師之寿像並綸旨之写等御座候ニ付享保8年之春太守より殺生禁断之制札等被下候由、雖然年代久遠ニ御座候へハ由緒等不分明候ニ付当住持信海法師当へ罷越、開山
之事跡弁宝物等致書写ヲ能仁寺ニ安置仕度段彼地御公儀江被願上、御許容之上当月初ニ出足昨日当寺へ到着候、尤当寺同宗紀州由良興国寺より之添状其外数通之証拠物等被致持参対談之上点検仕候処、何之疑敷儀も無御座候間来月中旬迄当寺ニ滞留右物書写致させ申度候何とも御許容之程奉願候以上
  子4月27日   能儀郡清井村
               雲樹寺
  長坂 佐内殿
  田中藤右ヱ門殿


参考のためにもう1通文書の引用を行いたい。これは湯川光春から能仁寺衆徒に与えたものである。

就テ国取相之儀其許迄取返シ候処、衆徒中心懸神妙候、殊更田中津守等曲動之処寺内無ク他事取鎮メ大悦之至猶両人可申候謹言
   3月     光春花押
     能仁寺
      衆徒中


引用の順序が前後不同となったが、右引用の文書は、大永2年3月、湯川光春の田地寄進状と同じ時のものである。
能仁寺は室町時代、寺領の総てではなかろうが、その大部分が畠山氏のために没収されたことは間違いあるまい。さきに、若干触れた如く、大永の初め、湯川光春など広城に畠山氏を攻め落し、広庄を手中に収めたとき、光春は能仁寺に対し、もとの40町を安堵する。それというのも、この時の合戦には、能仁寺衆徒が湯川方に協力した恩賞という意味もあった模様である。特に、田中・津守等が、同寺衆徒に対し畠山方に加勢するようにとの誘いでも行なったのであろうか、その勧誘に乗らず衆徒一致してよく事に処したらしいことに対する感状であった。
田中・津守いずれも畠山氏の家臣であった。田中氏のその後のことは明らかでないが、津守氏がやがて湯川氏の家臣となることは、後述の「明秀上人と法蔵寺」の条で窺える。
再び国師のことに戻るが、能仁寺建立の正平6年から2年後、即ち同8年(1353)覚明に対して、後鳥羽上皇の御影奉安の大興禅寺を、摂津水無瀬の地に建立の下命があった。そして、その造営料に後村上天皇の綸旨によって、覚明は、正平8年5月22日、近江国大原庄地頭職、同国箕浦庄地頭職、丹波国宮田庄領家職、播磨国弘山庄地頭職、備前国須恵保地頭職に補せられている。朝廷では早くより同寺建立の発願をなされていたが、戦乱の世に遭遇して、なかなか実現の機会を得なかったのである。水無瀬は北朝勢力の地であり、覚明とても同寺造営の事業が果し得たかったのではないかと思われる。
さきに、国師91才の高令を以て、泉州高石の大雄寺にて入寂と述べたが、この寺院も後村上天皇の勅願によって覚明が開山となり建立した禅刹である。南北朝時代には南朝方寺院として楠木氏の活動を助けた有力寺院で、伽藍壮大であったというが、室町時代中期応仁年中(1467〜68)兵火に罹災焼失したという。
以上見るように、三光国済国師は、後醍醐・後村上2代の南朝方天皇の尊信厚く、南朝方禅僧として、大雄寺、能仁寺の開山となり、大興寺の建立に尽力される等、顕著な足跡を遺しており、その以前に雲樹寺の開祖とし大きな業績を示すなど、史上隠れなき名僧である。その学徳を慕って集まる仏子の多かったことは当然であるが、在俗の名士も、国師開基の寺院を訪ずれることが少なくなかった模様である。当地能仁寺の場合を見ても、後村上、長慶、後亀山南朝3代に仕えた藤原長親(右大臣)も来訪し、暫らく滞在したと伝えられる。『衣奈八幡縁起』は、長親が由良興国寺滞在中の真筆というが、河瀬鹿ヶ瀬家に伝わる写本『霊巌寺縁起』は、藤原長親が能仁寺逗留中の筆になった原本を写したものと伝えられるところである。
廃殖の能仁寺薬師堂内に、正平6年造顕の薬師如来坐像が安置されている外、開祖三光国済国師木彫像が安置されている。当町の文化財として共に急速な保護措置が必要である。それを痛感せざるを得ない程甚しい堂宇の荒廃は、言語に絶するものがある。


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3  明秀上人と法蔵寺


(1) 中野の本寺
中野の本寺とは、今もなお、当町上中野法蔵寺を指す言葉として通用している。この法蔵寺は山号を池霊山と称し、浄土宗西山派寺院として地方に重きをなし、かつては25ヶ所に末寺を有して郡中の大寺であった。開基は室町時代の名僧明秀光雲である。
同寺の開基については、諸書年次を異にするが、紀州における明秀開創寺院中、過去には梶取の総持寺と本山争いをした程、紀伊西山派としては早期草創に属する。(同寺の開基についてはさらに後述する)
同寺は室町中期頃以降、この地方の領主達から厚く保護されたことは史料に明らかである。先ずそれを参考にあげよう。

寄進状(石垣城主畠山康純寄進状)
観喜寺殿様之御位碑、寺家江奉置訪御申候由、曾我民部仁物語仕候処、可然候由、被申候、然ば自寺家御納之
見付之於御年貢は永代寄進申候
恐々謹言

明応13月15日 註・明応10年生文亀元年(1501年)       康純花押
     法蔵寺参

寄進状(津守直国寄進状)
当庄、御年貢之内参石は、現到2世之御為御寄進既被成、御判之上者、末代不可有相達之条、直国可致取納旨、被仰付候、恐惶謹言
 天文13年辰霜月5日
       津守直国花押
    法藏寺 待者中
註・津守直国生瓜庄在地土豪  天文13年(1544年)

寄進状(湯川光春寄進状)
当庄、年貢米参石、右永代寄進仕候、然上山後夕之儀可被成其意候、猶委細小津守左京進仁申付者也仍如伴
 天文13年霜月6日   武田宮内少輔光春 花押
   広之庄中之村  法蔵寺 参

註・湯川光春は日高郡および当庄の領主。前掲直国寄進状と右古文書とは1連のもので、光春は直国に命じて、年貢米参石の地を寄進した時のものである。

寄進状(浅野幸長寄進状)
為当寺領於在田郡庄7石之所寄進候也仍如件
 慶長6、12月6日    左京太夫幸長 花押
              法蔵寺

註・浅野幸長は当国大名。幸長が大名として入国したのが、慶長6年(1600)で、その年寄進に及んだのである。

以上の外まだ1、2通の文書があるが省略する。当時の領主から、それぞれ上記の如く寄進を受け、寺運安泰であった。更に、江戸時代紀州藩徳川氏からも厚遇されている。

(2) 法蔵寺開祖明秀光雲
右の如く歴代領主から保護のあった法蔵寺が、室町時代明秀の開基であることは、先記したとおりである。では、明秀とはどのような桑門であったか、当地に関係の深い名僧であるから、若干略伝を記し、法蔵寺の開基についてもその中で触れることにしたい。
明秀は赤松氏の出身と伝えられているが、実際その伝記に不明なところが多く、従来発表されているものも一定でない。南北朝史上高名な赤松則村(円心)の孫義則を父とするというのが通説なるも、貴志康親氏はその著『明秀上人と総持寺』の中で、義則の子にそれらしい名が見出し得ないから、実子でなく養子であろうと述べている。実子でないにしても俗系は赤松氏に列なり、出家後もその縁故により随分便宜を得て、長く紀伊国各地を巡錫した模様である。そのことは後で述べるとして、明秀の俗系赤松について若干記しておきたい。

赤松氏は村上源氏の系統で、播磨の国を本拠地とした名族である。鎌倉時代末期、明秀の曽祖父赤松則村はその子則祐と共に倒幕の挙兵に加わり戦功があった。ところが、後醍醐天皇の建武中興に際して、戦功諸将に対する処遇や論功行賞に不公平があるとして不満を抱いた足利尊氏は、建武2年(1335)10月鎌倉において、同12月則村は播磨において反旗を翻えした。以後、南北朝時代、則村は尊氏に味方して常に北朝方として活動したのである。そして、足利氏は京都室町に幕府を開くと、赤松氏はその4職家の1つとして代々重きをなしたが、明秀の兄に当る満祐が、時の将軍義教を、領地に関わる恨みから、嘉吉元年(1441)6月、自邸に招いて殺害した。そのため満祐は郷里播磨に走って白旗城に立篭ったが、山名・細川の追討軍に破られ自害し、彼の反逆によって、赤松家は没落の危機に見舞れた。(嘉吉の乱)
ところが、長禄元年(1457)、赤松の遺臣が後南朝円満院の宮を紙して神器を奪ったので、その功によって赤松家は再興が許され、政則は加賀半ヶ国の守護となった。
満祐が反逆し、赤松氏没落となったのは、明秀40歳頃であり、政則が再興を許されたのはそれから17年後で明秀57歳頃に当る。その間、彼は殆んど紀州において西山派の布教に全力を注いでいた。
ところで、明秀はどのような所縁で紀州来錫となったか。そして、真言勢力のなお盛んであったこの地方で、 、あれほどめざましい浄土宗西山派の拡充を遂げ得たのか。それらの問題に入る前に、彼の出家が何歳頃であったのか、その師は誰であったのか、このことを少し述べておきたい。
明秀の出家について10歳説(『明秀上人讃仰』)と17歳説(梶取総持寺本『開山明秀上人』)の2とおりがあり、貴志康親氏は前掲書で前者の説を支持している。明秀の師円光(群馬県吾妻郡普光山善導寺2世)は、曽祖父則村(円心)の兄に当り、京都禅林寺の第26世にも就任している。円光が禅林寺座主在任中に明秀が剃髪して弟子入りしたのであろうと、同氏は考証しており、それに基づいて10歳出家説をとっているのである。
曽祖父則村の兄円光について仏門に入り、円光寂後、その法弟にして実弟(則村の末弟)光融(吾妻の善導寺3世。後に円光の跡を継いで禅林寺27世)を師として仏道を修したものと思われる。しかし、明秀の修業時代は明らかにし得ない点が多いとされているので、ここでは、以上の紹介に止めておきたい。
さて、明秀が紀州来錫の所縁は何んであったか。『紀伊続風土記』は、「明秀上人は光融上人の弟子で、光融を尋ねて此地に来り」云々とあるが、光融が再興して善導寺と名付けた海士郡福島村(現在和歌山市)の寺を去り、吾妻へ赴むいて善導寺第3世となったのは、応永20年(1413)の頃であるから、明秀はまだ10歳頃の子供であった。その頃ようやく仏門に入ったばかりである。従って、続風土記の説は誤りと見るべきであろう。
星田義量氏述『明秀上人小伝』(法蔵寺発行)は、明秀上人の師円光は、紀州湯浅氏出身の識阿上人の高弟であり、識阿開基の吾妻郡善導寺第2世である。明秀は先師の縁故により、識阿の縁辺を尋ねて有田の地に遊化することになったと述べ、若干の例外はあるが彼の開基寺院は殆んど湯浅一門の旧勢力地方であったと付け加えている。
なおまた、赤松氏と湯浅氏は南朝方であったこと、明秀の兄満祐が足利将軍義教を殺害して倒幕を企てたこと等を挙げて、明秀の紀州巡錫には、室町幕府から当然白眼視され、紀伊国守護畠山氏からは、かなりの圧迫があっただろうと見ている。
ところが、これと反対の見方をしているのは、前記貴志康親氏『明秀上人と総持寺』中の「明秀上人紀州入国の因縁」である。同氏の説を要約すると、赤松氏は村上源氏の嫡流であり、足利氏は清和源氏の流れを汲み、畠山氏は足利義兼から出た家筋で、いわば互に同じ血統の一族である。明秀上人が紀州来錫には福島の善導寺や高野山の赤松院も全然無関係でなかったであろうが、最も信頼の出来る大人物が紀州にいたからである。
それは父義則と共に足利将軍直参の武将であり、且つ足利氏一門の守護職畠山氏であった。そして、畠山氏の庇護のもとに宗教活動を行ない、最初に開基したのは広庄の法蔵寺である。同寺は畠山氏の紀州本拠広城に近く、開基は永享10年(1438)で、梶取総持寺より12年も早い。
上記の如く3説を紹介したが、特に星田説と貴志説は真向から対立している。明秀が有田地方を中心に紀州各地に多くの寺院道場を建立している事実から推想するならば、畠山氏の圧迫下ではとうてい無理であり、畠山氏の庇護のもとでなし得たと解する貴志康親の説に、むしろ、妥当性を感じるのである。

(3) 法蔵寺の開基
同寺開基年代についても諸説がある。『法蔵寺縁起』は、永享8年(1438)、最初に広庄寺村の地に建立され、宝永4年(1707)の大津波に罹災したので現在の上中野台地に移建したものと伝える。『紀伊続風土記』はまた「当寺開基は総持寺開基明秀上人永享年中の創建なり明秀総持寺にありしに学徒塵集し道俗雲会す上人其喧闇を厭ひ此地に来り当寺を立て蟄居す」(以下略)と記している。縁起書も続風土記も大檀那を津守浄道・梅本覚言としている点は一致するが、後者の方は総持寺開基後とするところに相違がある。両書とも初め寺村に建てたといい、縁起書は江戸時代宝永4年後に上中野に移建と記し、続風土記は創建後間もなく移したと述べている。この両説には、それぞれの事実が物語られていると筆者は解釈している。このことについては後述で若干私見も挟んで行ってみたと思っている。
さて同じ永享説でも貴志氏は同10年とし、寺伝よりも2年遅く見ている。(前掲書)ところが、星田氏は明秀最初の開基が総持寺で宝徳2年(1450)。その3年後享徳2年(1453)津守浄道を大檀那として法蔵寺を開基と説いている。(『明秀上人小伝』)。しかし、貴志氏は余程綿密な考証の上に立っての所説と認められるから、貴志説に左但したい。法蔵寺は総持寺と本山競いをしたと、同寺の旧記に見えるという事も、総持寺以前の開基という誇りがあったからに外ならない。
ところで、同寺縁起書に見える江戸期転地説と、続風土記のいう開基直後移建説、そのいづれもが全く根拠のないものでなかろうと記したことに対する説明を次ぎに試みよう。
まず、縁起書・続風土記ともに、最初法蔵寺を建立したのは広庄寺村と記しているが、その寺村とは何処か。
伝承や出土遺物から見ると、日東紡績和歌山工場(広工場のこと)附近ということになろう。同工場は初め内海紡績として建設工事の際、東側の社員社宅附近から舟型後背式石仏や1石五輪塔など出土があった。それを見ると寺村とは、恐らくこの地であろう。寺が建立されたので寺村の地名が生れたのであろうが、今ではこの地名も殆 殆んど人々の記憶から消え去ろうとしている。
法蔵寺縁起は、宝永4年(1707)大津浪で被害を蒙り中野村に移ると記載するが、その以前から既に法蔵寺の中枢は中野村にあった。前記天文13年湯川光春の寄進状に「広之庄中之村法蔵寺」と明記されているからまづ間違いなかろう。だが、かつて寺村と称された地から室町末期の石仏や石塔が発見されたことは、まだ、その時代、或は縁起書のいう如く、宝永の津浪頃まで堂宇が残っていたのであろうか。現在の上中野の地に同寺が建立された後も、旧地には別院のような形で堂宇が長く存置していた。それが宝永の津浪に会い、上中野に移ったとの伝承がそこから生れたものと想われる。その旧地も水田となり、現在では工場敷地の一部と化して、遂に寺村地名も次第に人々の記憶から消えつつある始末。 縁起書の宝永津浪後の上中野に移建説には、史料の上から全面的な信頼性はないが、或る事実の一面を物語っているかも知れない。
次に続風土記の説を見よう。同書は註していう。「法蔵寺初は広村の内小名寺村という所に建つ上人人里に近きを厭うに因りて2人の者(筆者註、津守浄道・梅本覚言)その領する地を寄附して寺を今の地に移すという」
と。そして「旧は塔頭8坊あり、今受陽軒自性軒の2坊存す其他常修庵、西帰庵、直西庵、梅陽軒、財徳院、財聚軒の6坊皆廃絶す(以下略)」と詳しく説明している。
右に引用した記事から窺えることは、同寺は、最初広の寺村に建立され、明秀在世中に上中野に移建したということである。それを直接立証するという訳ではないが、室町末期の天文13年、既に法蔵寺が上中野に所在したことは、前記湯川光春の寄進状が明白に物語る。あれ程の寺院建立には、当然、有力な背景があった。 津守浄道・梅本覚言などの土豪がそれだという。この両人が大檀那となって、上中野に法蔵寺を移建したとする説は、現在確証を得ないが、それを信じてよいであろう。
明秀は人里を厭ってかどうか、とにかく、津守浄道・梅本覚言というこの地方土豪を大檀那に得て、法蔵寺の移建が成ったことは、疑を入れない。法蔵寺創建の地は広寺村であったという伝承には、あえて、反論の意見もないが、現在の法蔵寺所在地は、宝永後の移建地 でないことだけは、前掲古文書の証明するところである。同寺は慶応年間に火災に会っているので、詳しく知る史料に欠けるところが多い。
上記した如く、明秀が紀州において最初に開基したのは法蔵寺であるが、その後、前記梶取(和歌山市)総持寺の外、湯浅に深専寺、田殿に浄教寺を建立するなど、有田地方を中心に数多の西山派寺院を建立する。その寺名については、宗教篇寺院各説の法蔵寺の項の明秀に関する記述の中で言及するであろうから、ここには省略するが、彼は民衆教化に至妙の僧であった。宮崎円遵博士の説によると、絵解をもって民衆教化した僧であり、特にその道に卓越していたらしい。 むつかしい教義の説法よりも、縁起図や曼陀羅図その他絵巻類を用いて、口演よろしく民衆に判りやすい布教は、最も効果的であったこと云うまでもない。そのため、明秀の足跡が及んだ地には、次ぎ次ぎと檀那や信者を得て、数多くの寺院建立や道場の開設となったのであろう。当広川町の法蔵寺はその第1号というべきであるまいか。
この広川地方に浄土宗西山派を弘通する基礎をなした民衆教化の名僧明秀上人も、海草郡下津町曽根田の竹園社で静かに生涯を遂げた。広川町としては最も関係深い中世の名僧というべき人物でなかろうか。

<写真を挿入する 「岩渕観音寺宝筺塔>

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14、南北朝の動乱と岩渕の伝説


1  南朝遺臣かくれ里伝説地


広川町大字下津木の岩渕観音寺墓地に、1基の宝篋印塔が遺存する。これについては、南朝方武人木寺相模の墓、または、その子息の墓という里伝がある。同石塔の様式からすれば、南北朝時代を降るものでない何分無銘の石塔であるので、すぐそれと首肯でき得る資料でない。
ところで、この岩渕部落は昔から、南朝遺臣のかくれ里伝説地として知られている。そして、いまなお、その後裔と称する家が幾軒か存在する。例えば、井窪、および小原苗字を名乗る家などはその代表的な例である。
この岩渕は、当広川町地域中、最も山間僻地にして、近代ある年代まで近在の部落との通婚も稀れであった程の特別環境を形成していた。交通不便な僻地という地理的条件もさることながら、南朝遺臣の血統を継ぐという里人の矜恃も与かって、村外婚が一般的に行われなかった。近年ようやく道路が開修され、この山峡集落にも次第に近代化の波が押し寄せつつあるが、それでも、年々、若人達は父祖の地を去ってゆき、所謂、過疎化しつつある。若人層には、伝説の魅力よりも現実生活の魅力の方が比重が大きいに相違ない。
現代の若人達から、次第に南朝遺臣後裔意識が薄れてゆくと共に、周囲からも徐々にこの伝説が忘れられようとしている。史実として、やかましく取りあげる証拠もないが、日本歴史上最も長期にわたり、かつ広範にわたった動乱が生んだ伝説地として、極めて注意を惹く。
とにかく、紀州の山間部には、この日本歴史の1時代を投影した伝説が多い。同地と山1つ距てた金屋町糸川や修理川にも同様な伝説があり、さらに有田郡の奥地にはその例まことに多い。 糸川や修理川の場合、単なる伝説として看過し得ない資料が遺存するとか。さらに、有田奥地のそれは、史実性に富むとの説も伝聞する。その中で、岩渕・糸川・修理川の3部落は、中に山を挟んでいるが、同根風土を想わせる土地柄である。
さて、岩渕や隣接山峡に、南朝遺臣かくれ里伝説を生んだ南北朝の動乱とは、一体、如何なる出来事であったのであろうか。何故に各地に悲劇的な史話や伝説を遺したのであろうか。
これを一口にいえば、1国2朝の対立が原因となり、天下を2分して長期にわたる戦いが、この国土を隅なく血に染めた末、一方が悲惨な敗北に終わったからである。
天に2日なく、地に2王なき道理に違えて、現実に2朝が競存した混乱の時代が余りにも長く続いたため、日本史上最大の悲劇時代を出現せしめたのである。
前記岩渕の伝承は、史実に基づくものであるか、単なる伝説に過ぎないものであるか、その穿鑿は容易でない時代の投影として観る場合、歴史的な意義があるであろう。その意味において、岩渕伝説の時代的背景を、以下、簡単に通観してみたいと思う。然し、いささか町史の域を越えることになる点御了解願いたい。

2  南北朝時代の前夜


上述において若干触れた如く、南北朝時代なる呼称は、同時に南朝と北朝が両立して天下を2分したからに外ならない。
南朝はおおむね吉野に朝堂をおかれ、北朝は京都に朝廷をもたれた。南朝の皇統を大覚寺統といい、北朝の皇統を持明院統という。いずれも鎌倉時代中期の後嵯峨天皇より出ている。即ち同天皇の嫡子後深草天皇の子孫は持明院統、後深草天皇の弟亀山天皇の子孫は大覚寺統と称され、皇位継承を繞って、鎌倉時代、この両統間に対立が激化した。これに、斡旋という形で干渉したのが鎌倉幕府である。そして、鎌倉時代後期、両統が交代で践祚する慣例を作った。所謂、、両統の交迭である。
ところが、鎌倉時代末期に至り、大覚寺統後醍醐天皇は、幕府の朝廷干渉を嫌い、ひいては、倒幕の心さえ抱かれるようになった。その頃、鎌倉幕府の執権北条氏の独裁政治が、より表面化し、得宗一門以外は武士のみでなく、広く農民層まで反幕意識を抱きはじめていた。かつ、一門や有力御家人間に内紛が絶えなかった。この好機逸すべからずと、後醍醐天皇は近臣と謀って討幕を計画した。しかし、こと事前に露顕して失敗に帰した。これが即ち正中の変(1324)である。

このままでは天皇の立場が益々不利となるばかり、天皇はひそかに再び討幕の計画をめぐらされた。だが、重臣吉田定房は、この危険を恐れて幕府に密告した。主謀者として日野俊基等が捕えられたが、天皇には累が及ばなかった。時に元弘元年(1331)のことである。皇室の安全を願った吉田定房の工作があったからであろうといわれている。
だが、おさまらないのは後醍醐天皇である。天皇は俄かに京都を出奔し、笠置山に籠って挙兵。しかし、笠置山は陥ち、天皇は六波羅に移され、赤坂城に拠った楠木正成も敗れた。そして、翌元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇は隠岐に流される。京都では新に皇太子量仁親王(持明院統、後伏見上皇の皇子)が即位した光厳天皇である。この事変を世に元弘の変という。
以上が大体、南北朝時代の前夜ともいうべき慌しい時代である。

3  南北朝の対立と動乱


正中の変、続いて元弘の変、2度に及ぶ後醍醐天皇の討幕計画は蹉跌に終った。しかし皇子尊雲法親王(大塔宮護良親王)は、そのあとを受けて再挙を図り、活動を開始する。まず熊野山や高野山に令旨を伝えて出兵を促した。だが、直ちに応じる色が見えないので、自身還俗して吉野に挙兵した。この護良親王の股肱となって随分活躍する武士の中に、木寺相模がいることが『太平記』に見える。
護良親王の吉野挙兵も、正成の赤坂城奪還も、その翌年の元弘3年に敗れて、正成は千早城の堅品によって、ようやく守りを支えるを得た。護良親王は、僅かな近臣を伴に熊野に落ちるが、木寺相模もそれに加わって、途々力闘している (『太平記』)。この有田地方にも大塔宮に関する伝説地が多い。そして、当町津木の霊厳寺などもその1つであり、岩渕観音寺の宝篋印塔は、木寺相模の墓、或はその子の墓と里伝にいう。しかし、その真偽を知る由がない。
ところで、隠岐に配流の後醍醐天皇は、伯耆の名和長年を頼って、ひそかに島を脱出し、伯耆船上山の行在所から各地に綸旨が発せられ、討幕の挙兵を促した。これに驚いた幕府は、早速、幕将足利高氏等を後醍醐軍討伐に西上させた。だが、ここに予期せぬ事態が勃発する。高氏は伯耆に向う途中、突如京都六波羅を攻めこれを破った。この六波羅陥落は元弘3年5月7日である。これに続いて、新田義貞は鎌倉を攻略し、同月20日、敗れた執権北条高時は一門と共に自殺を遂げた。ここに源頼朝以来の鎌倉幕府も滅亡を見た。
ところで、鎌倉時代と南北朝時代の境目頃、謂うなれば南北朝動乱前夜の舞台に、有田地方の豪族湯浅一門が、初めて登場する場面があるので紹介しよう。
元弘2年、楠木正成が赤坂城に挙兵した時、赤坂城や金剛山千早城を攻めた鎌倉軍勢の中に、湯浅一門の名が見える。湯浅定仏(阿豆川庄)・安田次郎兵衛尉(保田庄)・石垣左近将監(石垣庄)・湯浅彦次郎(湯浅庄)・藤並彦五郎(藤並庄)・宮原孫三郎(宮原庄)・糸我孫五郎(糸我庄)など湯浅一門郡内各庄地頭が、鎌倉御家人として幕軍に加ったものであろう。(『正慶乱離志』「楠木合戦注文」)
しかし、間もなく、この湯浅一門中から宮方(後醍醐方)につく者が現われる。最初に宮方に加わるのは湯浅定仏であり、これに做ってか、やがて南北朝時代、湯浅一門の多くが南朝方に味方して活躍するに至る。
ところで、この湯浅定仏が宮方に転じる経緯について、面白い物語が太平記に載る。大要左の如くである。
楠木正成は赤坂城に挙兵し、暫らく兵勢盛んであったが、衆寡敵せず、赤坂城は陥落した。正成は自害して城と運命を共にしたかに見せかけ、逃げのびた。ところが、同年4月、正成は5百余騎を率いて湯浅定仏の守備する赤坂城を急襲する。城中に兵根の蓄えが少なかったので、定仏は自領紀伊国阿瀬川庄から人夫5・6百人に兵根を持たせ、夜中城内に運び込もうとした。この情報を得な正成は、部下を要所に待伏せさせ、兵根を奪い、その俵に鎧冑を詰め、兵2・3百人を湯浅方に仕立て、城内に運び込ませようとする。それを、楠木勢は阻止するという芝居を打って、正成は味方を苦もなく城内に送り込んだ。城内に入った楠木勢と、城外に押寄せた楠木勢が呼応して、一挙に湯浅勢を攻め立て降参させた。この機智に感服した定仏は、直ちに楠木の軍門に降って宮方となる。
正成は湯浅勢を併せて700余騎をもって、和泉・河内2国を打ち従え、大軍勢となったから、5月17日、天王寺に軍を進めた (『太平記』)。これが、湯浅氏が宮方となる切っ掛けである。
さて、鎌倉幕府滅亡の寸前、持明院統の光厳天皇は後醍醐天皇によって廃位され、後醍醐帝はその翌年、京都に還幸。討幕に参加した貴族・豪族のうちで、足利高氏(後尊氏)と新田義貞の功績が最も顕れた。これが後にライバル意識を燃して、南北朝の動乱を一層熾烈なものとした。南北朝の動乱は、一面、足利尊氏と新田義貞の権力争いであった。彼等は祖先を同じくする家柄であり、その祖は源氏である。平氏より出た北条氏を倒したこの両武将は、天下の覇を競って激突したのも、互に源氏の出という宿命からであろう。このことは『難太平記』や『参考太平記』からも窺える。
鎌倉幕府を倒して、所謂、建武の中興が成るが、それもつかの間。やがて、足利尊氏が後醍醐方と対立することになる。そして、建武3年(延元元年=1336)8月15日、光厳上皇の弟豊仁親王は、尊氏に擁立されて践祚した。即ち、光明天皇である。ここにまた、大覚寺統の後醍醐天皇と持明院統の光明天皇と両朝対立という異常現象が生まれた。その後、およそ半世紀余、両統両立の所謂南北朝時代が続く。南朝(大覚寺統)は後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代。北朝(持明院統)は、さきの光厳を含めて、光明・崇光・後円融・後小松と5代。それぞれ天皇が在位して、天下もこの両朝に分かれて、互に鎬を削った。
延元元年(1336)12月、後醍醐天皇はひそかに吉野に移られ、南北朝分裂が決定的となる。だが、この分裂より先に南朝方の新田、北朝方の足利、この対立が南北朝動乱の主因となった。楠木正成は、解決策として新田義貞の命を賜わりたいと、後醍醐天皇に奏上したということが『梅松論』に書かれている程である。だが、天皇はこれを聴許する筈がなかった。解決の方途を断たれた正成は、死を覚悟で兵庫に軍を進め、足利勢と戦い敗れて遂に自刃した。時に延元元年(1336)5月である。
南朝方は、正成をはじめ、次ぎ次ぎと主要武将を失っていった。延元3年5月、北畠顕家は、高師直と和泉堺及び石津に戦い敗死。続いて7月、新田義貞は斯波高経と越前藤島に戦い敗死。それよりさき、建武2年(1335)7月、足利方に補らえられて鎌倉の土牢に幽閉の身となっていた護良親王(大塔宮)は、尊氏の弟直義に害されている。後醍醐帝には、護良親王の外に幾人かの皇子があり、それぞれ南朝方武将に擁せられ各地に転戦しており、忠勇なる味方の武将も少なくなかったが、早くも後醍醐の身辺には敗色が濃くなっていた。その憂色漂う中で、廷元4年(1339)8月、吉野行宮において崩御された。そして、義良親王が即位して、後村上天皇となられる。南朝年号は興国と改元。やがて、正平と改元されるが、その2年(1347)楠木正成の子正行は、一族と共に紀伊・河内・摂津などに転戦し、翌年1月、高師直と河内4条畷に戦って敗死し、足利方の猛将高師直、吉野に攻め入り後村上天皇の行宮を焼く。後村上帝は吉野の奥、加名生に移られる。
この後村上天皇が1時奥有田阿弖川城に難を避けられた。だが、そこも足利直冬の攻撃に会い加名生に遷幸となる。同天皇は、この広川地方と最も関係深 い天皇である。正平6年(1351)、国家安穏宝祚長久を願われて、名島に能仁寺を建立されている。
南朝方苦境の中でようやく九州では菊池武光等が懐良親王を奉じて善戦していたが、親王の薨後それも衰微した。かくて、南朝方は殆ど振わなくなり、足利勢力が全土を風靡するに至った。
ところで、勝利の軌道に乗っていた足利方には意外に内紛が多発した。足利直義と高師直の不和。足利尊氏・同直義兄弟の対立。 その他足利一門間に紛争が繰り返されたのである。そのため、必ずしも常に北朝方は優位に立った訳ではなく、時には尊氏が、また時には直義が南朝方につくという事態もあった。そして、その果て、観応2年(南朝年号正平6年)、遂に直義は尊氏に殺されるという事件が起る。即ち、観応の騒乱である。
右の事情を殊更付記したのには、若干、理由がある。この有田地方には南北朝時代の金石文がかなり遺存するその年号を見ると、北朝年号遺品が南朝年号遺品よりも多い。だが、その中にあって、正平のものが4例知見に及ぶ。正平という年号は長かったが、その間における北朝年号の遺品は延文銘1例に過ぎない。この正平の頃がちょうど足利方内紛の時代であり、それが15年間ばかり続いている。南北朝時代、苦難の途を歩んだ南朝方も、この正平の頃は比較的有利な立場にあった。所謂、正平の一統である。その故に長く改元もなく、かつ、一般的に広くこの年号が用いられた。有田地方に遺る金石資料にもそれが窺い得るであろう。しかし、この正平が終ると南朝勢力が急激に衰えた。
さて、この南北朝時代、この地方はどうであったであろうか。湯浅一族は殆ど南朝方に味方していた様子である。その中で、保田庄の貴志氏が北朝方であったという。正平の頃は、広庄も南朝方湯浅氏の支配下であった模様である。正平6年、後村上天皇の勅願によって広庄名島の地に能仁寺が創建されるが、その時の造寺奉行が湯浅宗利である。この宗利、湯浅庄地頭であるが、広庄地頭も兼ねていたようである。

有田地方は、一部を除いて、鎌倉時代以降殆ど湯浅党一門の勢力下にあった。この鎌倉時代、幕府の御家人として、元弘2年、楠木正成の拠る赤坂城攻撃に加参した。だが、その翌年、早くも後醍醐方に転向した経緯については、先記したとおりである。それ以後、湯浅一族は紀伊国における南朝方勢力の中心的存在をなしてきた。
また、同国の橋本正督も南朝方土豪として、足利方の将細川業秀を淡路に敗走せしめるなど、この地方は長く南朝方の1拠点であった。
だが、この湯浅一族は天授5年(北朝年号康暦元年、1379)、橋本正督はその翌年、山名義理・同氏清等の進撃を受けて敗亡する。
ところで、上述の如く、この有田地方は、湯浅一族や橋本正督など、南朝方勢力の地と思われるにも拘らず、金石資料に現われたこの時代の紀念銘には、北朝年号を用いた遺品が多い。尤も、天授以後はこの地方の南朝勢力が殆んど地に落ちたからであるが。

南北朝時代有田地方金石資料
  遺品名      紀年      西暦     南北朝別 所在地
宝篋印塔康永2年 1343北朝 有田市糸我町雲雀山
明恵遺跡卒都婆康永3年1344 有田郡金屋町歓喜寺外7ヶ所(現在5、補1)
宝篋印塔貞和2年 1346 有田郡吉備町野田觀音寺址
鰐 口 貞和2年 〃 有田郡清水町3田 但し元那賀郡岩出荘極楽寺遺品
宝篋印塔観応2年 1351 有田郡湯浅町栖原施無畏寺
五輪型卒都婆正平8年 1353南朝有田郡金屋町川口
 〃 有田郡金屋町岩野川
五輪石塔延文2年 1357北朝有田郡吉備町長田浄教寺
梵鐘 正平18年1363南朝有田郡金屋町系野成道寺
板碑 正平19年1364 有田郡清水町沼谷
宝篋印塔文中2年 1373 有田郡吉備町奥
石造宝塔文中3年 1374 右同所
板碑 文中2年 1373 有田市星尾阿弥陀寺
 文中4年 1375 右同所に3基
宝篋印塔永和2年 1376北朝有田市辻堂称名寺境内
宝篋印塔永コ元年 1381北朝有田郡湯浅町栖原施無畏寺
地藏石仏弘和2年 1382南朝有田郡金屋町修理川
板碑 至コ2年 1385北朝有田郡吉備町岡田西福寺
石造宝塔至コ2年 1385 有田郡金屋町延板延命寺
宝篋印塔至コ3年 1386 有田市宮原町道善国寺
板碑 至コ4年 1387 有田郡湯浅町山田証大寺
板碑 嘉慶元年 1387 有田郡吉備町吉見峠
觀音石仏康応2年 1390 有田郡広川町井関円光寺
板碑 康応1389〜90 有田郡吉備町植野

上掲金石年表から窺うと、湯浅氏健在中にも、その周辺に北朝年号の用例が見られる。貴志氏以外にも北朝方勢力が存在したかのようである。地方武士や寺院の中には、ひそかに北朝方に志を寄せるものがあった証拠であろう。
ところで、正平の一統に、京都回復を念願されて、しばしば軍を京都に進められた後村上天皇も、正平23年(1368)3月摂津住吉行宮で崩御。次いで践祚されたのが長慶天皇である。同天皇の在位中は南朝勢力の衰微甚しい時代であったから、吉野や紀伊の山奥に行宮を遷されて苦難の生涯を送られた模様である。長慶天皇の研究に生涯を捧げた星田義量氏によると、奥有田上湯川の日光神社もその遺跡地と称されているが、当広川町の霊厳寺にも一時身を寄せられたと、同氏の著『明秀上人小伝』にいう。同氏は如何なる史料に徴してこの説をなしたか明らかにしていないが、霊巌寺は先帝勅願の能仁寺奥院と伝承があるところから、全然、否定する訳にもゆかないであろう。当時、能仁寺は、郡内屈指の南朝方寺院であり、霊巌寺はその奥院として要害の地にあった。先記した湯浅一族や橋本正督の挙兵、そして敗亡は、この長慶天皇の時世であった。
湯浅・橋本両氏の滅亡から数年後、弘和3年(北朝年号永徳3年、(1383)10月か、その後においてか、長慶天皇は譲位され、弟の後亀山天皇が即位された。

4  南北両朝合一と後南朝抗争


半世紀に余る南北朝の軋轢、宮方と武家方の抗争も、南朝方の衰運覆い得ぬ後亀山天皇の世となって、ようやく、両朝合一の気運が実を結ぶことになった。それ以前から、楠木正儀(正行の弟)が、南朝と足利幕府の間を周旋して、南北合一のために尽力したが、南朝方の容れるところとならなかった。かえって、正儀は裏切り者として、南軍の攻撃を受けるのである。正儀は止む得ず、北軍に加わった時期もあった。だが、後亀山天皇は情勢を判断されて、一身の安危より国情の安定を重視し、和睦に応じる決意された。そして、元中9年(明徳3年、1392)閏10月、南北の講和が、ようやく成立した。同天皇は京都に還幸し、譲位して北朝の後小松天皇に神
器を授けられた。
国民は、長い間の動乱に日々暗澹たる気持であった。1日も早く平和の訪れを等しく待ち望んでいたに相違ない。そのような気持が後亀山天皇にもよく判っていたであろうし、足利方もかねてから、南北合一に傾いていた。
およそ60年間の南北の対立が、終止符を打つ時となった。 この終戦も南軍の敗北という犠牲の上にもたらされた結果である。南朝遺臣の悲痛や、想像に余りあるというべきであろう。
ところで、この多年にわたる動乱に、公家勢力が全く衰微し、荘園を通じて農村の中の中小武士や農民達を支配していた貴族特権が力を失った。地方民はその束縛から解放され、時代は転換期を迎えるのである。南北朝の動乱は、幾多の曲折を経て、この頃から室町時代に移る。
南北両朝合一に先立って、足利氏は既に、京都室町の地をトし新たな武家幕府を創設していた。永和4年(1378) 将軍足利義満の頃である。それより以前、尊氏およびその子義詮が京都2条にいたから、既に、幕府開設の基礎が築かれていたであろう。
上記した如く、元中9年南北両朝合一は成ったが、その時の講和条項を、その後、室町幕府は忠実に履行しようとしなかった。これが、事ある毎に南朝方の憤激をかったこというまでもない。そのため、室町時代前期およそ50年間、勢力の回復を意図して、しばしば後南朝勢力の蹴起があった。だが、その一々について詳細を記す訳にもゆかないので概略に留めて左に挙げよう。

応永17年(1410)後亀山上皇、嵯峨大覚寺から吉野に潜幸。飛騨の国司姉小路尹綱、伊勢の国司北畠満雅の挙兵。共に敗れて、上皇同23年(1426)再び嵯峨に還幸。
正長元年(1428)後亀山上皇の孫小倉宮、皇位継承の競いから北畠満雅に擁せられて挙兵し満雅戦死。宮は永享2年(1430)京都に還った。同10年、南朝遺臣鹿ヶ背城に拠ると『有田郡誌』に見える。
嘉吉3年(1443)9月、南朝遺臣が皇居を襲って神璽を奪取。そして神璽は長禄2年(1458)8月まで15年間、後南朝の手に納った(『看聞日記』『康富記』等)。この事変の数日後、南軍方の多くは、追討軍のために比叡山において討死、または召捕られた。しかし、逃れて下山するものがあった。一団の中に南朝の皇胤が幾人か加っていたという。 この皇居襲撃の南方勢中に湯浅八郎の名が見える(前掲書)。
文安元年(1444)7月、奥紀州北山において、上野宮王子円満院円胤の挙兵。一時南軍優勢であったが、やがて、4年12月16日紀伊の守護畠山勢のために討死され翌年正月その御首が京都に送られたという (『康富記』)。
伝説では、この円満院円胤を義有王と称されている。しかし、史料には、これを徴証するべきものがない。ところで、永享9年(1437)将軍義教の弟、大覚寺義昭が大和に出奔して、義有と称し叛乱を起した際、円胤もこれに応じて京都を出奔し、共に事を挙げたらしい。嘉吉元年(1441)義昭は薩摩で討たれた後も、円胤は紀和の間に隠棲して、再挙を図ったと思われる。このような事情があったので、義昭と円胤が混同され、円胤を義有王と誤伝が行なわれたものであろう。(「歴史地理」第87巻第3、4合併号所載、臼井信義氏『南朝の皇胤』による)。
更に、この地方の伝説によると、義有王は、湯浅城に立籠って抗戦したが、敗れて現在の吉備町吉見に避れたが、そこで自害されたという(『紀伊続風土記』その他諸書にも見える)。
最後に湯浅城に拠った南朝の皇胤は、義有王と誤伝される円満院円胤その人であったことは間違いあるまい。
前記の如く円胤は北山戦に敗れた後、本郡奥地阿瀬川城に移り、ここに拠ったが、佐々木高清・宇都宮禅綱らの大軍の攻撃を受け、さらに湯浅城に退いて北軍の猛攻を支えんとしたが、遂にこの堅城も陥落して、自害されたのであるらしい。その時を文安4年(1447)12月22日、あるいは23日と地方諸書は記している。
『康富記」の12月16日と記載あるのと、若干、その日を異にする。ところで、この円胤を援けて奮戦した諸氏に、楠木2郎正秀・湯浅掃部助など、楠木・湯浅および恩地・和田等南朝方諸氏の末族があったと伝えられるところである。
円満院円胤の紀州挙兵の後、南朝皇胤は玉川宮王子梵邵・梵仲兄弟2方となってしまった。然るにこの2方、即ち北山宮・河野宮も、赤松遺臣等が神璽を求めて北山郷を襲撃した長禄元年(1457)12月2日夜、両宮とも悲壮な最期を遂げられてしまった。このようにして、後南朝も勢力回復ならずして、皇胤悉く非業の最期を遂げられた。
以上、いささか1町史の域を起えて、南北朝の動乱とそれに続く室町初期の後南朝の抗戦を叙述した。南朝および後南朝は、常に奮戦しながら、最後には悲運に終っている。この宮方に参加した武士達も、その多くは運命を共にし、日本歴史上比類を見ない哀史を遺した。その遺臣・残党は、山深く隠棲して世を忍んだのである。この哀れな物語りを伝える1つとして、当町岩渕の南朝遺臣かくれ里伝説が存在したのである。全く無根の作り話として、必ずしも否定できないものを感じるのではなかろうか。

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15、畠山時代


およそ、半世紀を超える南北朝の動乱も、南北両朝合体という打開策によって、一応、干戈を納め得た。だが、その結果は、さきに、後醍醐天皇が願念された天皇親政と程遠い、やはり、武家政治再来に外ならなかった。鎌倉幕府に代って、京都室町に足利の武家幕府が、この時既に創設されていたのである。
明徳3年(1932)10月、南朝後亀山天皇は南山から京都に還幸され、北朝後小松天皇に神器を授けられて南北朝合一なった頃から時代を、ひとくちに室町時代と呼ぶ。
この室町時代は、この地方では、また、畠山時代ともいわれている。畠山氏が紀伊国守護職を併任して、広庄名島の地に、その拠城を有していたからに外ならない。本章では、主として、この畠山守護職時代の出現から終焉までを略叙してみたいと思う。
ところで、この室町時代は、鎌倉時代御家人地頭の地領支配と、江戸時代大名の地領支配の中間的な守護の地領支配の時代であった。だから、いまだ江戸時代の大名程、その地領支配は強固なものでなかった模様である。
そして、この時代、農・工・商の発展と相俟って、庄民勢力が次第に盛り上って、所謂、下剋上の世紀を形成した。武士社会においても下剋上はこの時代の特色である。




さて、畠山氏は、室町初期応永7年(1400)紀伊国守護職を併任すると、初めに名草郡大野に城を築き、やがて、この広庄名島にも築城した。この山城を、いま高城と呼んでいるが、広城というのが正しい呼び名である。 畠山氏は、この他、石垣庄に鳥屋城を、宮原庄に岩室城を構え、一族を配し、さらに、護りを堅くした。
ところで、畠山氏は、いったいどうして、紀伊国守護職となったのか、その経緯について簡単に述べよう。
少し時代が遡るが、南北朝時代永和の頃(南朝年号天援)既に南朝方勢力が衰えたとはいえ、いまだ各地に、兵を挙げるものがあり、紀伊国では、湯浅氏もその1人であった。
また、特に同国橋本正督が挙兵して、幕将細川業秀を淡路に敗走せしめる。そこで、幕府(将軍義満)は永和4年(1378)10月、山名義理を伊国守護に、山名氏清を和泉国守護に補して、共に紀州に進攻させた。この攻撃を蒙って、湯浅一族は、翌康暦元年(天授5年) 遂に滅亡し、橋本正督も、その翌年戦死して、南風全く振わなくなった。
それから、13年の後、山名義理(美作・紀伊両国の守護)は、同族山名氏家(因幡の守護)と共に、弟氏清(丹波・和泉・但馬の守護)に動かされ、山名一族は幕府に叛旗をひるがえした。時に明徳2年(元中8年1391)のことである南北両朝合体の前年に当る。そして、山名軍は一時、京都に迫ったが、幕軍との戦いに利あらず、氏清は京二条大宮で戦死し、氏家は敗走。義理は大内義弘に追撃されて紀伊に逃れ、藤代から船で由良に奔り、興国寺に入って出家したが、遂に伊勢に至って没落した。だが、氏家は、その翌年宥されて入京している。
この明徳の乱に戦功の諸将は、みな山名氏の旧領を頒たれ、その守護職に補せられた。
山名義理を追撃して、遂に滅亡させた大内義弘は、その戦功によって、義理の旧領和泉・紀伊を与えられ、もとの領地周防・長門・豊前・石見と併せて6州の守護を兼ねることとなった(『明徳記』)。
山名氏、紀伊の守護たること、僅に十有余年、その跡を襲った大内氏も、これまた、紀伊国守護たること、10年にも満たない短期間であった。次に、それを述べよう。
上記した如く、大内義弘は明徳の乱の戦功により、分国6州に及ぶ大守護大名となる。そして、その勢力、遂に管領家を凌ぐ有様。この勢力、やがて彼をして驕慢な態度をとらせる結果を生んだ。それが高じて、早くも室町幕府に対し叛意を抱く運命を招いた。
彼は、応永6年10月、筑紫・中国の兵を率いて泉州堺の地に陣したが、翌11月、幕府軍の攻撃に会って敗死した。彼義弘の軍を破ったのは、畠山基国・満家父子の軍であった。その戦功によって、基国は、ただちに、紀伊国を与えられ、当国の守護職となるのである。彼は既に河内国の守護であったから、この時から河内・紀伊両国を所領することになるが、彼の子孫は数代、紀伊国守護として続いた。中世紀伊国守護職中この畠山時代は、最も長く、室町初期から、殆んどその末期まで及んだ。
従って、当地方の室町時代は、畠山時代という言葉で、長く呼ばれてきた。しかし、紀伊国全体からいえば、必ずしも、実情はそのようなものでなかった模様である。これについては、後述で少し触れる機会があるであろう。
ここで、基国を初めとする紀伊国守護職に就いた畠山代々の名を、左に挙げよう。

氏名   法名 官職名・通称   在任期間
畠山基国 徳元 右衛門左入道   応永7年(1400)〜応永13年(1406)
同 満家 道元 尾張守・左衛門督 同13年〜永亨5年(1433)
同 持国 徳本 尾張守・左衛門督 同5年〜文安4年(1447)
同 義就    右衛門佐     宝コ2年(1450)〜ェ正元年(1460)
同 政長    左衛門督     文明18年(1486)
同 尚順 卜山 次郎・尾張守   永正元年(1504)〜永正12年(1515)


右は、高柳光寿・竹内理三共編『日本史辞典』(角川版)によって掲げた。ついでに、畠山氏以前の紀伊守御職を参考までに挙げると、さきに述べた山名義理、大内義弘以前に細川顕氏、畠山国清、細川 業氏の順にあった。
それを、前掲書から引用すると次の如くである。

氏名    官職名・通称    在職期間
細川顕氏  陸奥守       建武4年(1337)
畠山国清  左京太夫      建武4年−観応2年(1351)
細川業氏  陸奥守       永和4年(1378)
山名義理  修理大夫      永和4年〜明徳2年(1391)
大内義弘  周防介・左京権大夫 明徳3年(1392)〜応永6年(1399)


しかし、何んといっても、当地方に最も縁故が深いのは、既に言及した如く、広庄・石垣庄・宮原庄に、それぞれ山城を構え、当国(紀伊国)支配の中心を、この有田地方に置いた畠山氏である。そのうち、特に、広庄名島の山城は紀州における畠山氏の本城として、最重要な存在であったと考えられる。
ところで、この広城は、何時頃の築城にかかったものか、その年代について明らかでない。この城は標高136メートルの比較的低い山ではあるが、『湯浅町誌』の記す如く、南西北の3面は広・湯浅の平地に臨み、東は連峰の要害をなす。山上の展望はすこぶる広く、西は湯浅湾の岬角島嶼を見渡し、南は遙かに鹿ヶ瀬山脈の天嶮を控え、北は遠く長峰山脈の景勝に対して、実に自然の要害の位置を占めている。
なお、この山城の麓に近い広浦の地をトして居館を構え、広千軒の基をなした。広浦海岸は、その時代から郡内屈指の物資移出入の港となり、海岸に近く市場が開設されるに至った。(このことは、いまなお、同地の地名として遺る。後章において言及する予定)
畠山氏は本領河内の高屋城との間を往来して、この地方の支配を監督したのであろうが、基国以降累代、しばしば、室町幕府の管領職の地位に就いたから、京都にあって幕府政治の中枢をなしたことが多かった。そのため、重要家臣を配して広城を守らせたと思われる。畠山氏の中で、持国と尚順が最も当地方に語り伝えられている。
現在広養源寺境内地となっている旧畠山居館跡も、ト山(尚順)のしばしば来住した屋形跡と称されているが、比処が畠山屋形となった年代も不明である。しかし、尚順以前からのそれであったことは間違いなさそうである。
広城の築城については、『高城築城記』という江戸時代文政12年(1829)教徳寺権律師 永雄作の記録がある。これによると、名島高城は、畠山右衛門督基国の築城にかかり、基国の兄南禅寺十大業和尚の縄張りによるものと見えるが、基国の時代から相当の年代を経過した同記録の信憑性に疑問がある。『湯浅町誌』は、この疑間を次の如く述べている。

「築城後30年までは、南朝方の湯浅・楠木らの残党が、湯浅城に拠っていたようだから、年代的に多少の疑問点がある。しかし、畠山氏は紀伊国守護となり、有田に3城を築いて、南朝方の残党を抑えんとしたが、その本拠河内は半ば畠山氏に属し、半ば若江城主三好氏の領であったから、絶えずその攻略を受けていたので、高城は畠山氏の逃避所であった。」と。

右は、単に『高城築城記』の説についての疑問点のみでなく、畠山氏にとって、この城の果した役割にも言及されている。
畠山氏は、室町中期享徳3年(1454)頃から、しばしば、内紛が起きた。満家に持国・持富の2子があり持国の子義就と持富の子政長の家督争いに端を発したものらしい。この争いが同族兵火を交えるという中世武家社会の宿命に似た事件に発展した。初め、畠山持国の重臣神保等が、畠山義就を廃して畠山政長を立てんことを謀り、事発覚して政長が逃れるが、やがて、京都において義就と争乱に及び、持国の第宅を攻むるなど事態は一層険悪な同族の利権争となった。そして、義就・政長間の家督権争奪戦が繰り返された後、義就の失脚となり、将軍足利義政は畠山義就の領国河内・紀伊・越中を畠山政長に与える。寛正元年(1460)9月のことである。
その5年前即ち、康正元年(1455)3月、持国が死歿し、同年7月、政長、義就と河内に戦うが、この時はまだ、幕府は和を講ぜしめて2人を京都に召還している。だが、上記の如く、寛正元年、義就は所領を召上げられたばかりでなく、同年閏9月、将軍足利義政は義就追討の綸旨を請うて許され、それを政長に授けた。その後は、なお一層、政長・義就間に激しい攻防戦が繰り返され、各地で激戦が展開されること数年に及ぶ。その間に義就が紀伊に拠るかと思えば、また、政長が拠るという事態もあり、河内・大和その他の地と共に当国は、同族戦争の修羅場とされた。そのとき、おそらく、この広城も戦場となったことがあったかも知れない。
豪雄の畠山義就遂に屈することなく、寛正4年(1463)、幕府は彼の罪を釈したので、やがて、再び白日のもと勢力を天下に示すことになる。
だが、義就と政長の間に和解が成立したのでない。その後も、しばしば抗争が繰り返された。そればかりでなく、その子孫までが互に兵火を交えるという宿命がつくり出された。因に、両者の系統を示すために、畠山系図の一部を左に掲げることにしよう。


歴代紀伊国守護職の中で、当広庄に拠城を持っていた畠山氏のことであり、当地方の土豪の中にも、畠山氏の内紛戦争に出陣したと伝えるものもあるので、あと暫く、この問題に触れてゆきたい。室町時代の歴史の中で、最も長期にわたる争乱は、いうまでもなく、応仁の乱である。
この応仁の乱の発端も、畠山義就・同政長の抗争と深い関係を有した。この乱の原因は、室町幕府が守護大名に対する統制力の欠如、たび重なる幕府の失政、腐敗、土一揆、徳政一揆などの頻発、それらによる幕府支配力の失墜に求められるが、事の起こりは、管領家畠山・斯波の継嗣問題に端を発している。
畠山氏の継嗣をめぐる義就と政長の争いについては、既に略叙したが、前述の如く、将軍義政の怒りにふれて久しく追われる身となった畠山義就は、許されて後、応仁元年(1467)ひさびさに河内から京都に上った。
彼は山名持豊邸において、義政・義視を迎えて帰参挨拶の饗宴をひらいた。その饗宴の2日後、管領畠山政長がにわかに罷免される。これに代って、山名持豊派の斯波義廉が、新管領に任命された。おさまらないのは、いうまでもなく政長である。失脚した彼の兵は三条高倉、正親町京極方面の市街地に火を掛け、酒屋・土倉の掠奪をはじめた。持豊・義就は自派の諸将をあつめて、政長の後援者細川勝元との対決の構えを示した。
かくて、両派の戦いとなり、天下の諸将は東軍(細川勝元党)・西軍(山名持豊党)に2分し、実に11年の長きにわたって京都を戦渦に巻き込んだ。この乱に、畠山政国紀伊を発して河内に入り、東軍と西岡に戦いて利あらずという。
 応仁の乱には、室町幕府内部の問題、細川対山名の勢力争い、その他様々な原因があったが、口火となったのは、畠山義就と同政長の私闘といって過言でない。そして、この私闘が発端となって、京の都を灰燼せしめた。
この畠山義就・政長の抗争は、その後も長く続き、猶さらに、両者の子孫によって、それが引き継がれることになる。
延徳2年(1490)12月、畠山義就は死歿したが、その3年後、即ち、明応2年閏4月、畠山政長、赤松政則 畠山義就の子義豊等に攻められ、正覚寺(河内渋川) において自害し、その子尚順紀伊に走る。そして、同年7月尚順紀伊を略する。明応4年3月、今度は義豊河内より紀伊に兵を進める。紀伊は、持国の後、義就が跡を継いだが、内紛によって政長の所領となる。しかし、それが何時まで保ち得たか、確実なことは不明である。義就が勢力を挽回することたびたびであるので、取り返したこともあったのではなかろうかと相像される。
それはさておき、永正元年(1504)、畠山尚順紀伊国守護となるから、また、政長の家系によって統治となること明らかである。
ところで、義就の子義豊と政長の子尚順は、久しく親の代からの宿敵として、たびたび兵火を交えている。明応6年(1497)10月、河内高屋城で。同年11月、同国三筒と高屋城で、翌年8月、山城木津で、同8年正月、河内野崎城で、続いて河内17箇所で、そして、互に勝敗を繰り返したが、遂に義豊は明応8年(1499)正月26日上記17箇所において、その子義英と共に大敗し、義豊は自刃、義英は遁れた。だが、その翌年9月、尚順は義英を高屋城に攻めて大敗し紀伊に走る。尚順はその前年12月にも、細川政元と摂津天王寺で戦い敗れて紀伊に逃れ、河内の諸城をことごとく失っている。下山で知られている尚順は、しばしば広屋形に来住したとの伝えがある。 紀伊に逃れとか、紀伊に走るとかの都度、来り住したのであろう。この尚順、永正元年、紀伊国守護職になり、かつ、同年12月、宿敵義英との間に和睦を結ぶことになる。だが、この講和も永続しなかった。

右の如く見てくると、広庄高城は、『湯浅町誌』 のいう如き、畠山が本拠河内において三好の攻略を受けた際の逃避所と簡単にいってしまえないのでなかろうか。同族相攻略の際にも、しばしば、雌伏の場とするか、勢力扶養の場とするか、畠山氏に取って、重要な役目を果す拠城であったと思われる。
室町末期戦国の常として、尚順や義英は、河内・和泉・大和地方において永正年間、赤沢朝経等の功撃を受けると共に、尚順・義英間の戦闘も繰り返されるという有様であった。尚順と義英の対立は、その後において、尚順の子稙長と義英のそれとなって河内方面での交戦が絶えなかった。従って、畠山の本領河内の高屋城や同方面の諸城は、頗る安定性を欠いていた。それに比して、広庄の高城、石垣庄の鳥屋城、宮原庄の岩室城、所謂、有田の畠山3城は比較的安全性を有し、尚順などは戦いに疲れて広に来るというケースが多かったのではなかろうか。それが、大永2年(1522)、日高郡の豪族湯川光春が、同郡の野辺氏と共に叛き、夜襲にあって広庄の高城は陥される。尚順は遁れて広浦から船で淡路に落ち、洲本の光明寺で間もなく客死した。
ところが、この年代については、従来、諸説があり、一定していない。この諸説については、後述で一応その当否を検討して見たいと思っているが、その前に、鳥屋城と岩室城のことを簡単にいっておこう。
鳥屋城の跡は、現在の金屋町中井原に遺る。もと石垣城と称し、湯浅宗基はじめて築城するところという。爾来、石垣氏を名乗って数代この山城を守った。だが、康暦元年(天授5年=1379)宗良の時、足利方の山名義理等の攻撃に会い落城した。その後、室町初期、応永8年(1401)基国の子満国、石垣城の跡に築城して初代鳥屋城主となる。以後、天正13年(1585)に至るまで畠山氏の拠城であった。と『有田郷土誌研究のしおり』が述べている。ところで、一方『紀伊続風土記』は、基国の弟深秋の築城、満慶、持秋、教重等換城とし、明応年中(1492〜1500)畠山尚長河内より来住の後、天文年中(1532〜57)同政国、景友景春、深国等が拠城とするが、天正年中豊太閤のために落城と述べている。上記2説は、その築城者に、若干の相違がある。前者は畠山基国の子満国とし、後者は義深の2男深秋、即ち、基国の弟としている。いずれなるや明かでないが、長く畠山一族の拠城となったことは確である。この畠山の一族石垣庄に住して石垣氏を苗字としたが、この鳥屋城が羽柴秀吉の紀州征伐に際して落城したのは、天正13年(1585)3月のことであった。

岩室城は、いま、有田市宮原町東にその跡が遺る。この山城も鎌倉時代、湯浅一族の岩村城と称した旧山砦。その跡に室町時代畠山尚順の3男政氏が築城し、政国、政能3代の拠城とした。だが、天正13年、鳥屋城に先んじ落城した。
さて、さきに、広庄高城の落城年代に諸説があり、いづれが正鵠を得ているかの検討は、後述で行なう旨記しておいた。ここで、それを行なうことにしたい。
高城の落城を大永2年(1522)とするのは、『湯浅町誌』および『有田郷土誌研究のしおり』である。ところが、『紀伊続風土記』は天文2年(1533)とし、『有田郡誌』は天文3年とする。その他の諸書も天文説を採るものが多い。大永・天文両説の間に11〜2年の差がある。その時の城主も尚順(ト山)とするものと、その子稙長とする両説がある。そして、天文説を採る書にも尚順説と稙長説があり一致を見ない。これを、もう少し具体的に紹介すると次のとおりである。
大永2年説を採る『湯浅町誌』・『研究のしおり』は、湯川氏の夜襲に会って敗れた尚順は淡路に遁れ、同年7月17日その地に客死、と記している。天文2年前の『続風土記』は、それを稙長とする。天文3年説を唱える『郡誌』は、それを尚順としている。
右の3説の中で、最も信憑性のあるのは、最初の説と判断せざるを得ない。その根拠を左に示そう。
大永2年3月、湯川光春は、広庄名島の能仁寺に対し、同庄内において田40町を寄進している(中世高僧の足跡の章中、能仁寺のところに、同寄進状を挙げる)。 同寺は南北朝時代正平6年(1351)の創建であるが、この時、後村上天皇の綸旨によって、庄内水田40町を寺領として与えられた。応永7年、畠山基国、紀伊国の守護となって後、特に南朝方寺院として、また、室町幕府の政策として、同寺も圧力を加えられ、大永頃にはかなり衰微していた模様である。湯川光春が、畠山勢力をこの地方から駆逐して広庄を所領したとき、ただちに、旧寺領40町を安堵して寺運復興に資したのである。
湯川氏の攻撃に敗れて淡路に遁れ、同地の州本光明で客死したのは、畠山尚順である。日置正一著『国史大年表』によると、彼は大永2年7月17日歿すとある。高柳光寿・竹内理共編『日本史辞典』(角川版) 付録年表に尚順の没年を大永2年としている。
以上の点から観ても、広城(高城)が湯川氏等のために陥落させられたのは、大永2年で、尚順とするのが妥当と思われる。『増穂のすずき』などが、天文2年説を採っているので、この説に随うものが多いのであろう。
ところで、天文説がどうして生れたのであろうか。それには何か理由があったからであろう。尚順は大永2年淡路に敗走して、広庄と広城は湯川氏の掌中に握られるに至るが、当時、尚順の子稙長は本領河内の高屋城にあった。その植長は広城奪還のため兵をこの地に進めたことであろう。そして、最後の決戦が天文2年若しくは同3年であったのでなかろうか。これが一般に尚順の敗走の時と混同され、天文2年、或は3年の尚順(続風土記は細長淡路に敗走と記録)敗北説となったものと想像される。以上の如く推測すると稙長の失地奪還戦も不成功に終ったに相違ない。以後、当地方における湯川氏の地歩は、一層強固なものとなったのであろう。
なお大永2年説を立証する意味で、森彦太郎氏の「中世の著姓、崎山氏」の記事を参考に述べると、この時代の広庄在地豪族で、畠山の家臣崎山地頭)は、大永2年、阿波の三好氏が畠山氏の高城を攻めた時、それを迎撃せんとして敗れ、一時熊野に遁れたが、間もなく帰来して湯川氏に属し、大永3年、日高郡萩原に居を移した。と。湯川氏は野辺 と共に三好氏の援助を得て、名島高城に畠山氏を破ったのであろう。この時、畠山の重臣遊佐河内守は傷を負い、額田甚三郎は最後まで奮戦して悲壮な死を遂げたと伝えがある。
ところで、室町時代、紀伊国は、一応、畠山氏の領国となったが、この時代は、当国においても、大寺・大社・土豪が各地に勢力を張っており、かつ、畠山氏は本領河内や大和・和泉などで合戦の絶え間がなかったから、紀伊国においては、畠山氏の威勢は余り強大なものでなかったであろう。例えば高野山は、多くの寺領と4千乃至5千の僧兵を有し、根来寺は高野山以上の寺領と8千乃至1万の僧兵を擁していたといい紀北方面では、この他に粉河寺あり、日前・国懸両神社もまた多くの神領を有して勢力悔り難きものがあった。一方紀南方面では、湯川氏・玉置氏・野辺氏、熊野の堀内氏、そして、諸国にまで神領の拡まった熊野三山の勢力はいうまでもないであろう。
だが、さきにも言及した如く、わが広庄に畠山氏が、紀伊国守護として、その拠城を築き、屋形を構えたことは、何んといっても当地方の発展に大きく作用した点で重要な事柄であった。広浦海岸の埋立や同海岸の防浪石堤など、畠山氏の事業という。室町末期広千7百軒との伝承には幾分誇張もあろうが、当時畠山の城下町的存在であった広浦は、港に船の出入も多く、海岸の市場も大繁昌であったと言う。畠山歴代のうちで持国は、津木老賀八幡の中興者として記録に遺る。なお、畠山氏による新田開発もあったと伝える。
大永2年、この地方から畠山勢力を追放した湯川氏は、広の北辺に1町4方の屋形を構え、広町割をつくったと伝えられる。寛政頃(1789〜1800)には、湯川氏の旧屋形跡は新田と化してはいたが、その頃は、まだその場所が明らかであったらしく、同5年広村「大指出帳」に記されている。

本章は主として畠山時代の広庄を書くつもりが、意外な方面に筆が延び初志といささか相異るものとなったが、その埋めあわせのためにも、『紀伊続風土記』巻59広村の記事一部を載せよう。
「此地古は海中なりしに後世陸地となり運送の便宜きに因り人家次第に充満し富豪の者多く広の町の名起れり
其後畠山氏が邸宅を建て益々繁栄するに従いて土地狭小なれば洲浜へ家宅を建出し4百間余の波除石垣を西北の海浜に築き郡中1都会の地となりぬ。


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16、中世庶民生活史雑考


1  顕われざる人々


各時代の社会構造の底辺を形成したのは、いうまでもなく、一般庶民である。だが、地方史を編む場合、最も苦労するのは、この庶民生活史といってよい。特に、中世以前では、その史料は殆んど管見に入らない。
古来、長い期間、庶民は文字と無縁であった。文字は、専ら、上流階級の占有で、一般庶民は、自からの手で文書や記録に自分達の名や行動を記るす術を持たなかった。
その一方で文字を占有した貴族や武家、その他上層階級は、一般庶民に対して、牛馬程度の見方を普通とした。
彼等上層階級は、一般庶民の労働の結晶を吸い上げて、栄華の夢をむさぼりはしても、庶民の功績や労苦をねぎらい、それを文筆にするということは、殆んど念頭になかった。まして、その他のことは、余程の事情がない限り筆録されなかった。
庶民の血と汗は、絶えず地上に流されてきたが、歳月は、その跡をかき消していった。だが、そのある部分は、時には地上に、時には地下に痕跡を留めている。紙上から把握し得ない一般庶民の生活史を、地上や地下から探求する外はない。しかし、その痕跡は、正確に、庶民生活史を復原し得るに足る、資料提供の場であるや否やは史料に及ばない。それだからといって、これを看過するということは、決して適切な処置でないであろう。
文献史料を最も典拠としなければならない中世史の、その半面に当る中世庶民生活史を、これからは殆んど発見し得ないという事実は、如何に彼等一般庶民は、文字上から疎外されていたかを物語る。この疎外された庶民は、いうなれば、顕われざる人々である。
この顕われざる人々の生活史を何としてでも、また、幾分でも探求して見たい。文献史学の及ばない点は、考古学や民俗学の助けを借りて、可能な部分だけでも何とかして発見に努めたい。

2  庶民の遺したもの


紙上に痕跡を、殆んど遺さなかった庶民と謂えども、時代文化創造の原動力となった生産の担い手である。彼等の汗と油の結晶が、貴重な過去の文化を生み出す基盤を作り上げた。基盤があったればこそ、その時代その時代、驚くべき見事な文化の花が咲いた。
その時代その時代の見事な文化を享楽したのは、庶民の汗と油の結晶を吸い上げて、時には逸楽を事とした特権階級である。然し彼等自らの文化所産以上に数多の文化財を後世に遺した庶民を忘れてはならない。
ところで、一般庶民は、自分達を牛馬の如く遇した支配階級に提供した見事な文化所産ばかりでなく、彼等自身のためのささやかなそれを、この地上や地下に僅かながらでも遺した。それは、単なる断片に過ぎないが、彼等の生活の1断面を示唆する貴重な資料として注意を惹く。これを拾い集め、継ぎ合せなどすることによって、幾等かその時代の庶民生活史の復原も可能であろう。
本章では主として、この復原の作業を試みて見たい。果して、筆者の乏しい知識では原型に近い復原が成るかどうか。また、拾い集め得る資料も復原しようとする時代に適合しているかどうか。
まず本章における資料と予定しているものの所在を示しておこう。大字下津木に寺杣の地名がある。由良興国寺建立に際し、この地方の杣人達が、同寺建立用材伐採に従事したというのが地名起原伝説となっている。(この当否については、既に、八幡神社創建考の章で、若干、言及したが)。
同下津木岩渕から、土師系統の土器片が、多数発見されている。壺や鉢などの破片であるが、口縁の作り等から鎌倉時代前後の遺品と推定される。その時代に、この土器を使って、あの不便な山峡で生活を営んだ人達がいたことを物語る。
下津木滝原と上津木落合の行き通う山路に、1基の宝篋印塔が遺存する。地元の人達は、そこを花折さんと呼んでいる。何か、仏教に関する信仰遺跡であることは疑いを入れない。
大字名島に妙見社が祀られている。同社の祭祀は、毎年、司祭者が交替で執り行ってきた。古い祭祀形式が伝承されているところに注目すべき点がある。
大字上中野に、広八幡神社祭礼に奉納する田楽が伝承されている。室町時代の様式を伝える民俗芸能として、現在、県無形文化財指定を受けているが、この田楽は農耕行事を芸能化したものである。何か、そこに重要な意味が存在していたに相違ない。

広八幡神社鎮守の森から、約7百点に及ぶ古銭が、先年発見された。中国宋銭および明銭である。これは、一般庶民とどういう関係の埋蔵品か、その点明らかでないが、埋蔵理由には何か非常事態が秘められていそうである。
右八幡神社の森近くの田圃の地下から反器の紐が発見されている。この出土品は、少くとも鎌倉時代を降るものでない。史料に代って、当時の歴史を、幾等か物語るかも知れない。
大字西広の北山・北方その他各所から、反器が発見されている。そのうち、とうてい、住居跡や、寺院址と思われない低地の地中からも、それが出土を見ている。これは、何を物語るものであろうか。
以上の外、丹念に調査すれば、まだまだ、多数の資料発見が可能であろう。しかし、いまその余裕がないので断念せざるを得ない。
庶民は大小樹木の陰に、息吹く雑草の如くである。踏まれても枯れない強靱さと素朴さを持つ。ひっそりとささやかに咲く花の中には、とうてい園芸花卉に見られない美しいものが稀でない。

3 山の生活


庶民生活史資料の1断片として、下津木寺杣地名伝承と、同岩渕の土器出土例を挙げた。
寺杣なる地名の起源は、先記したとおり、由良興国寺建立用材の伐採人か、この地から選ばれたことによるという。 地名の用字から生れた地名伝承であると思料されるが、この地方は、近代まで山林業を主に生活を営んできた人々の多かった事実に照して、古来、山仕事が、この地方の主要な生業であったことは疑問の余地がない。
ところで、寺杣なる地名は、里伝の如く興国寺建立時の杣人出身地であったことに由来するとの解釈もあながち荒唐附会と一蹴し得ないが、先記したとおり、寺院の林業経営地に類する寺領であったと思われる。従って、この寺領内に住した庶民は山仕事に携わったであろう。この寺領も寺杣であれば、住民もまさに寺杣であった。
由良興国寺(旧西方寺)のそれであったという口碑は案外事実を伝えているかも知れない。
ところで、寺杣地名と関係ありとされる興国寺について、簡単に述べておこう。同寺は、さきに述べた名島の能仁寺とは特に関係深い臨済の名刹である。多少、脇道にそれるきらいもあるが、当町至近の一大禅刹として、また、その影響が当地に及んだ点から、あえて触れることを御諒解願いたい。
日高郡由良興国寺は、もと、西方寺と称し、鎌倉時代の名僧心地覚心を開山第1世とした南海禅林中の名刹である。西方寺は、鎌倉時代安貞元年(1227)、入道願性の創建になる。その22年後、正嘉2年(1259) 願性はこの寺と寺領とを、覚心(法灯国師)に寄進して、国師を請じ開山第1世とした。願性は、鎌倉幕府源実朝の御家人葛原景倫という武士。そして、由良荘地頭職であった。
由良西方寺が、後醍醐天皇から、興国2年(1341)に興国の寺号を賜わった。それより先、心地覚心は、亀山上皇から法灯国師号を、後醍醐天皇から円明国師の諡号を贈られた高僧である。
覚心は、はじめ、奈良東大寺忠覚律師について、具足戒を、次いで、高野山に登り修行。さらに京深草の道元に菩薩戒を受けられた。その上、5ヶ年間、中国宋に渡り教学を究めて帰朝。永仁2年(1294)92才の天寿を全うして、遷化した。
上記のとおり、興国寺の創建は、安貞元年である。その後、幾たび再建されたか、詳細は不明であるが、近世初頭、天正13年(1585)豊臣秀吉南征の折、その兵火に罹災して、堂塔重宝を焼失し、現在の建物は、慶長6年(1600)、当時の国主浅野幸長の芳志によって再興なったものと伝えられる。
津木寺杣の杣人達は、興国寺建立に際して立ち働いたとの伝承には、必ずしも疑問を持つものでない。ただ、寺杣の地名これより起ると、決めてしまうことには、先記した如く躊躇せざるを得ない。
津木地区は広川町でも特に山間集落の地である。古来、薪炭類の生産が住民生活を支えてきたこと、近代の史料からも想像の及ぶところである。(産業篇にて記述)
さて、ここで、津木方面における山の仕事を中心とした住民の生活を競って見よう。
同地方は何時から人間生活の舞台となったか、明らかな資料がいまだ発見されていない。考古資料として、最も古いところでは、さきにあげた下津木岩渕から出土した土師系統の土器である。それも鎌倉時代前後と推定される遺物で、ただちに津木谷文化開闢の時期を示唆するものとはいい難い。だが、この資料の存在は、中世におけるこの地方の庶民生活史を述べる1つの手掛りとして、まことに貴重な存在といえる。
広川地方でも南広方面は、先記した如く弥生式時代から農耕文化の波及地であったが、この津木方面は、それがかなり遅れていたと想像される。そして、山岳森林が大半を占める同地方は、人間生活の舞台となって後も、動物の棲息地としての自然環境が急速に変化することはなかった。というよりも永く続いた。此地に棲んだ各種動物は、津木谷住民にとって天与の獲物となった。そして、これが山村生活を助けたこと想像に難くない。この狩猟生活を反映している1つに、椎木明神祭祀起源伝説がある。当然、民俗資料篇伝説の部で取り上げられるので、それを参照されたいが、狩人が誤って大蛇を射殺したため、その怨霊の崇を蒙って悶死を遂げた。遺族や周囲の人びとは、その大蛇の霊を慰めるためにその山の奥に祀ったのが椎木明神である。そこに椎木の大木が生茂っていたので椎木明神と称えた。 と謂うのが、同神社の起源伝説である。その他にも狩猟に関した伝説口碑が遺たされているが、それらは何れも山村津木の往昔をしのばせるに足る。
しかし、津木谷村落の住民は狩猟のみを生業としたものでないこと勿論である。記述に統一性を欠き雑然たるものになるが、広川地方における、他地域に見られない特徴は、古くから柿の産地として名があった。近年富有柿などの優秀品種におされて、昔ほどの名声は失ったが、俗に津木のはっぽ柿といえば、湯浅・広の町に出荷されて、初秋ごろの味覚を十分堪能させたものであった。この在来の柿は、野や山に栽植されて、畑栽培の果樹でなかった。古い時代の山地農業をそのまま伝えたものとして、特に注意されて然るべきだと思われる。当地方でなく現清水町、昔の阿豆川庄に関する史料であるが、鎌倉時代の古文書に柿598本とか、また、7百本とか見え、その本数に対して、領主から一定の率をもって所当(年貢)を賦課されている (『高野山文書』所収建久4の率れ(1193)年の阿豆川文書)。
本書産業史篇で、右の文書を引用し改めて中世津木谷産業を類推してみたいと思向しているが、とにかく、古くから津木谷における柿栽培も、阿弖川庄の如く、既に鎌倉時代のころには山地産業の一環として行なわれていたのでないかと推想される。そして、近代までこの地方の特産物として、かなり重要な役割りを果してきたのは確である。だが、現在ではこの所謂はっぽ柿も津木谷の特産物としての座から脱落し、次第に人々の記憶から薄らいで行きつつある。
津木谷では、上記はっぽ柿に次いで秋には栗が売りに出された。これも山野の中で栽植が行われ、山地産業の一端を担うものであった。前掲阿豆川文書では、柿が本数で載っているに対し、栗の場合は栗林31町とか20町とか面積をもって記載されている。柿は散在的であったのに対し、栗は集中的栽培というか栗林経営方式で行なわれていたことが窺知される。津木地方での栗も同様であったのか否か、現在では余り見掛けなくなっている。
だが、柿や栗よりも、さらに津木住民の生活を大きく支えてきたのは、何といっても薪炭類の生産であった。
これも相当古い歴史を有し、近代に至って燃料が石炭・電化・ガス利用と段々薪炭の需要がなくなるまで、その生産が盛んであった。津木方面におけるこの事業の始ったのは、いったい何時ごろかという確かな資料が管見に入らないが、津木の1地区に寺杣の地名が、中世早くから生まれていたとすれば、中世すでに、その業に携わるものが多かったと想像ができる。
先記した岩渕からの出土土器が、鎌倉時代の遺物と推定されるとすれば、右に叙述した生業に携わった同時代人の日常雑器であるまいか。そのうちに津木山峡にも次第に水田が開墾されて、農耕経済を生活基盤とする時代へと進展していったに相違ない。
以上の記述において、木材林業に殆んど触れなかったが、古い時代には余り植林事業が行なわれなかったのでないかと、単に筆者の独断かも知れないが、そのような見方をしている。津木山林において本格的な植林事業を行ない木材を搬出するようになってから、余り時代を経ていないように思われる。
近代に至ってからも、津木谷村落民の炭焼き業者や薪柴業者の引く荷車は、近代の態野街道に車輪の音を高だかと響かせたが、木材の搬出する轍は稀に見るに過ぎなかったといい得る。津木山林の植林事業は新しい。
蛇足をあえてするならば、比較的長く山野の天然資源を利用して生業を営んできたかに想像される。
津木地方が本格的な農業時代に入ったのは、中世もかなり経過していたころであるまいか。かって、古島敏雄氏はその著書の中で、山間の奥地まで墾田が進むのは、近世に入ってからとの見解を示している(岩波新書『土に刻まれた歴史」)。津木谷の奥地が現在の如き水田となったのは、同氏の説の如く、旧藩時代と見ることができる。
それを立証するのは、慶長検地の石高と享保ごろの検地石高に相当の開きがあること、他の村々に余り見られないこの現象が有力な証拠といえるであろう。
津木地方は、以上に見た如く、長期間山村生活を続けてきた。そして、その環境に即応した生業を営んできた

ことはいうまでもないが、山村生活には、それに応じた作法や信仰があった。山で働く人達が、伐採に際して、山神の許しを願ったのである。本書宗教篇にいちいち挙げられる筈であるが、津木地区には、ことの外、山神を祀った小祠が多かった。これは山村生活者、即ち、杣人、薪炭製造者、猟師などが山神の許を得て仕事を行なうという古来の民俗に基づくものであろう。
平安時代の文献『延喜式』(神祇7)に、大嘗殿用材や御膳柏など伐り出す場合、卜部が国司・郡司以下の役人や役夫を率いて、所定の山林に至り、採材前に山神祭祀を行なう神事を述べている。同書祝詞の中にも、幾多もの神名を並べた後に、「遠山・近山に生立てる大木小木を本末切り云々」とか「本末をば山神に祭り、中間を持出来りて斎柱立て云々」と見える。これは、朝廷の用材を伐り出す場合の例であるが、その他の場合においても、やはり採材に先立ち、何等かの神事をもって山神を祭祀し、その後において作業を開始するのが普通であった。
津木方面のみとは限らないが、山神祭祀行事は、極めて近年まで、かなり厳格に守られてきた。特に、伐採の初日には吉日を選び神を祭って神酒を供えるなどは、広く一般的に行なわれた山始め行事であった。既記の如く津木地区には、かって、各所に山神社が祀られていた。山中での仕事が主であったこの地方の風土が、この1事にもよく象徴されていたと思う。
「月の7日と日の9日と、山に行くなよ奥山へ」という言葉がある。7日と9日は、山神の日とされていたからであり、この日に限り、山神が山に遊御されているからというのであった。山で伐木する人達ばかりでなく、狩猟を業とする人達にも、それぞれ山神祭祀行事があった。だが、それを挙げるのを省略して、室町初期の文献『庭訓往来』に湯浅鎧の名が見えることに関連して1言するならば、この湯浅鎧に使用した皮革などは、地理的にいって、津木谷猟師からの供給が少なくなかったであろう。

津木の山林には、猪・鹿・狸・狐・雉その他禽獣の棲息が豊富であったにも拘らず、旧藩時代、藩主の狩場から除外されていた (飯沼家旧記「手鑑」)。広川地方では他の村々が鷹場とされ、様々な規制が設けられていたが、津木方面にそれがなかったのは、同地方においては、狩猟を業とする者が多かったためと解される。近世よりさらに中世の方が狩猟を業とするものが多かったことは想像に難くない。
再度津木方面の山神信仰に及ぶが、山神社と称する小祠の外、山神信仰につながる神社が幾社か津木の地に鎮座した。まず、注意を惹くのは、大字前田露谷の三輪社、下津木岩渕の三輪社、上津木中村の三輪社などである。
岩渕の三輪明神を大和から勧請したのが同地の旧家井窪家の祖先と伝えられるが、それは、中世室町時代のことであったらしい。
津木谷村落における山神信仰に言及したが、先記の椎木明神起源伝説と共にこの地方の伝説で著名なのは、下津木岩渕の牛滝不動に関するそれである。これは水神信仰の現れと見られるので、この山間地方にも農耕生活が展開されたに伴って、何時ごろからとは云い難いが、滝を水神として崇め祀った故事が、時代を経て伝説に変化したものと推測される。
今もなお、不動明王を祀って里人の信仰を集める場所となっているが、牛滝なる名称の起源には、古い時代の農神信仰、農神祭祀行事が潜んでいると想像する。 この想像を簡単に謂うと、農耕に、特に稲栽培に欠くことのできないのは水である。この水の神を祭るに際し贄として牛を殺して供えたというような時代があったのでなかろうか。中国古代の農神祭祀にその源流があり、日本にもその習俗が伝えられて、古代や中世にその事例が決して珍らしいものでなかったという。岩渕の牛滝も、かって、牛を犠牲として水神(これがまた農神でもあった)の祭行事を行った場所であったとの想像は、必ずしも荒唐無稽と1蹴すべきでないと思う。 『熊野の伝説』には、紀南地方に牛鬼滝と呼ぶ滝が所々にあることが見えるが、それもおそらく、岩渕牛滝と同様な故事が、奇怪な牛鬼伝説に変化してしまったのではあるまいか。
前記した如く、農神を祭る場合、牛を供牲する故事は、中国古代の神事として始まるが、旱魃が続いて水に困ったり、そのため凶作の恐れがある場合に、牛を殺して供え雨乞いを行う習俗は、さらに広い地域に伝えられていた。わが国にもその習俗の行なわれた時代のあったことは、既に記したが、その場所は大抵滝や水辺であった。
『古語拾遺』(斎部広成撰大同2年(807)成立)には、農耕儀礼に関係して牛の肉を用いることや、虫害や旱害に牛を屠殺して肉を供えて防ぐことなど記されている。雨乞いに牛を犠牲とする事例は、『日本書紀』皇極天皇元年(642)7月条に見えるのを初見とするが、上記2書に見える事例は、いずれもわが国の事とはいえ、遠く古代に属するものであるので、岩渕牛滝の傍証としては、やや時代的に隔たりがありすぎるかも知れない。しかし、その習俗は、長く中世まで続いたのであったと解されるので、参考として掲げることにした。牛滝伝説については、民俗資料篇において紹介されるであろう。
註参考文献、佐伯有清著『牛と古代人の生活』。

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4 中世仏教と庶民信仰


上津木落合から下津木滝原に行き通う山路の傍に、花折りさんと呼ばれている場所がある。広川上流に臨む山麓台地に位置する。そこに1基の宝篋印塔が遺存し、所刻紀年銘や様式から、室町時代中期の石塔であることが判明する。
かっては、路行く人の必ず供花合掌したところと伝えがあるが、いまその信仰も消滅寸前にある。此処を里人は、古来、花折りさんと呼びならわしたことは、上記のとおりだが、郡内では、他に花折りさんと呼ぶところが数ヶ所存在する。行路病者の遺骸を葬った場所とか、何か供養塔の建立されたところに、通行人が、花を手向けて供養したことから、この名称が生まれたのであろうか。
滝原の花折りさんは、宝篋印塔が建てられている場所であるが、宝篋印塔は、元来、宝篋印陀羅尼経を奉蔵して供養するを目的とした1種の塔である。だが、わが国では、鎌倉時代ごろから他の石塔と同様、単に死者の供養塔とされるようになり、時代が下ると、墓塔とされるようにもなった。

<写真を挿入 「滝原花折りさんの宝筺印塔」>

さて、滝原花折りさんの宝筺印塔は、何時、誰によって建てられたか。左に銘文を挙げよう。

康正3丁丑月
願主沙門


康正3年(1457)は、9月に改元し長緑元年に当る。前記のとおり室町中期である。願主は、沙門とだけ読めるが、その下の名が判らない。沙門とは、いうまでもなく僧侶のこと。
残念ながら僧の名が判読不可能であるので誰か不明だが、真言系統のそれであったのではないかと想像される。宝篋印塔々身4面に刻まれている梵子、即ち、種子は、金剛界4仏を現わしている。キリーク(弥陀)、アク(不空成就)、ウン(阿閃)、タラーク(宝生)の4仏である。そして、塔身中央は、種子を刻むことができないが、大日如来(バン)を意味する。この印塔は、金剛界5仏曼陀羅を象現したものであって、密教教義上重要な曼陀羅である。以上のことから、造立の願主沙門は、真言系統の僧侶であると見ることができる。
この沙門は、この附近所在寺院の住僧であったか、諸国巡錫の修行僧であったか知る由もない。だが、この石塔は、墓塔でなく供養塔と推測して然るべきであろう。
塔高は、159cmを有し、彫刻手法にもなかなか入念なところを見せた石塔と云い得る。おそらく、沙門独力での造立ではあるまい。附近の人々から喜拾を得て建立したものに相違ない。
古代仏教は、殆んど貴族中心のそれであった。真言宗も天台宗も、そのことには変りがなかった。ところが、中世、鎌倉時代から、一般庶民を対象とした新興仏教がはじまる。 (このことについては、宗教篇で、若干、詳述する)
その影響によって、天台・真言などの既成宗派も、一般庶民の中に下りて来た。そして、盛んに庶民教化に力を致すことになるのだが、特に、中世においては、高野聖の活動がめざましい。
高野聖とは、中世、全国を勧進遊行した高野山の僧であるが、平安末期、浄土信仰を抱いて遁世する者が多くこれを聖と呼んだ。高野聖も、そのような性格を有し、半僧半俗の勧進僧であった。高野聖は、新仏教興隆の中で、弘法大師信仰を説いて、諸国を行脚した。室町時代には、勧進ばかりでなく、行商も兼ねる者さえ現れた。
今も各地に弘法井戸とか、弘法の松とか、弘法大師空海に因んだ伝説が遺っている。それは、たいてい、高野聖の行蹟が弘法大師に結びつけられて伝説化したものであろう。なお、中世になると、各地に小規模な各種石塔や石仏が数多造立されるようになる。一般庶民が仏果を願って、供養のために建てたものが多い。これも、高野聖の庶民教化があずかって力となったこと明かであり、それが、他の宗派の信者にも波及していったことは想像に難くなかろう。
そこで、前記滝原の宝篋印塔であるが、右の如き時代背景を参酌する場合、けだし、高野聖の勧進による造立であったのではなかろうかと想像が及ぶ。従って、願主沙門は、高野聖で、近辺の善男善女は、その勧進に応じ、仏果を願って合力したのであったかも知れない。
南北朝の動乱後も、なお、世情平穏ならず、そのため、上下を問わず、心あるものは、仏の慈悲に縋って、安心立命を願うものが多かった。特に、封建制度の鉄鎖に繋れた一般庶民にとっては、仏の救いが何よりの頼りであったに相違ない。
上代文化は、輝かしい仏教文化によって光彩を放っている。中世文化も鎌倉時代ごろは、武家階級を背景とした仏教文化で飾った。だが室町時代以降、仏教が庶民化したことによって、仏教文化が、昔日の絢爛さ、豪華さがなくなり、地味となってゆく。仏教文化が絢爛を失ってゆくとき、上流社会は、代ってまた別な文化を創造してゆく。即ち、茶道文化である。これもやはり、人眼を奪う見事な文化であるが、所詮、当時の一般庶民には、殆んど無縁の文化であった。だが、彼等庶民にも、或る種の文化を遺した。極めて地味な存在であるが、野の仏、野の石塔などがそれである。滝原の宝篋印塔も、その1つであった。彼等には、豪華な文化を生み出す余裕はなかったが、それでも、大樹の陰に咲く草花は、園芸花卉以上に雅味がある。ここに庶民文化の本質と、庶民信仰の姿を見出だすことができる。

5 宮座


大字名島に、古くから妙見社が祀られている。なお、当広川地方には、かって、各所に妙見社が祀られていたことは『紀伊続風土記』その他によって窺知し得るが、その旧社地さえ残らないものが多い。今その中で毎年祭祀行事を、昔ながらに行なわれているのは、名島の妙見社のみとなっている。(かって、当広川地方に祭祀されていた多くの妙見社については、宗教篇に記載)

その祭祀には、毎年司祭者が交替して取り行なわれてきている。所謂、1年神主である。そして、この1年神主、即ち、頭屋を勤める家は、昔からこの村(現在の大字名島)で、特定の家何軒と定められていた。しかし、いまは、その制約も自然と消滅し、村中すべての家が廻り持ちとなっているという。

以上の事例は、明かに中世からの宮座制度を、多分に伝承していることは、疑問の余地がない。
宮座は、上記事例からでも判明するが、もう少し、説明を加えることにしよう。
宮座は、宮仲間、または宮講ともいう。講には各種の講があって、それぞれの行事が行なわれた。名島妙見社宮講は、その1つを現在まで伝えてきた稀有の例として注意にのぼる。
宮座、または宮仲間は、主として中世から見られる祭祀特権集団である。村(現在の大字)の有力農家が、その講成員であった。普通は、新に分家しても、直ちに宮座に加わる資格を与えられなかった。古代の氏族集団祭祀が、氏族制度の崩壊に伴い、自然にその風習が衰退し、代って地縁的集団祭祀様式に変化した。その場合、村の有力者が仲間を組織したのである。そして、その家は、世襲的に仲間権を子孫に継承した。 この宮仲間は、村の指導的地位を獲得していたので、その他の村行事にも中心的役割を果たすのを普通とした。中世における村落共同体の中核は、この宮座仲間であった。
ところが、中世末期、小前百姓も次第に成長をはじめると、宮座の特権を封鎖して排他的に維持することができなくなる。必然的に、その門戸を新興生長農民のためにも開かざるを得なかった。近世村全体が宮仲間に加入した事情は上記の如き時代変化に外ならない。しかし、古来の宮座制度を近年まで伝え、祭礼当日神前や仏前の着座が、村の旧家によって占められる風習が残っている。例えば、清水町粟生の薬師堂に伝承される「おも講」はその1例である。この「おも講」の行事を堂頭式と呼んでいる。
以上が、宮座、宮仲間、宮衆などと呼ばれる祭祀集団の概略である。このような祭祀形式が、近代、その姿を消したものが多い中で、名島の妙見社宮座は、たまたま、近年まで伝承された事例である。史料の上では上津木中村において近世の行事内容の詳細を知り得る。中村の宮座については、他の篇に記載があるので省略する。
宮座は、農村ばかりでなく、都市にも勿論あった訳だが、都市では比較的早く姿を消し、農村においては、より多くより長く残った。
宮座と同様な地縁的祭祀集団には、各種の講があった。例えば、観音講・庚申講・伊勢講・山上講・恵比須講太子講・念仏講など種類が多い。これら諸種の講については、本書民俗資料篇で述べることになるので、それを参照されたい。だが、現在まで存続しているものは、案外少いと言ってよいのでなかろうか。
前記したことであるが、宮座とも宮仲間とも、また宮講とも呼ばれるこの地縁的祭祀集団、主として中世社会の中で組織された特権的集団であった。現在名島妙見社に伝えられる宮座は、最早や特権的性格が消えているが、それは近代に至ってからという。

6 農耕儀礼と有田田楽


広八幡神社祭礼に奉納する田楽を、地元では「しっぱら踊り」と呼んでいる。古来、上中野の若い人達によって継承されてきた。最近、有田田楽の名で広く知られ、県指定無形文化財にもなっている。この田楽についても、民俗資料篇で、あらためて述べるが、ここでは社会史的な面から、若干、叙述を試みたい。
有田田楽と呼ばれることからも明らかなとおり、田楽の流れを汲むものであることは、いうまでもない。そして、上中野の有田田楽は、室町時代の遺風を伝えるものとして注目をされている。
ところで、田楽は、何時のころ、どのようにして起ったか。それが、どのような消長を示したか。これを生んだ社会、これを育てた社会、これを伝承した社会、そして、これを見捨てた社会などについて、以下簡単に述べてゆくとしよう。
田楽は、初め、田植にあたり、豊作を祈って、田の畔で踊った田遊から始まる。即ち、農耕儀礼の1種である。
それが、平安中期には、早くも芸能化せられ、田楽法師なる職業人まで出現しているところを見ると、それ以前、かなり早くから古代農耕社会に行なわれていたことは、疑問の余地がないであろう。
最初、古代稲作農民の間で、農耕儀礼として行なわれていたのが、やがて、都市人にも、もてはやされ、次第に芸能化され発達したのである。
平安後期の学者大江匡房(1041〜1111)の著書『洛陽田楽記』(群書類従遊芸部所収)によると、前記の如く、平安時代中期には、田楽法師という職業芸人が現われ、都市で大流行を呼んだ。やがて、田楽座なる組織が生れて京都の白河田楽座、宇治の田楽座、奈良の田楽座などは、特に有名であった。このような田楽座の一団は、扇笠を被ぶり、腰大鼓を打ち、びんささらを鳴らし、笛や歌に合わせて舞ったというのである。
右の古風な所作が、いまもなお、広八幡神社祭礼時の有田田楽に窺うことができる。やはり古い形が残っているなという思いがする。
鎌倉時代、鎌倉では、田楽辻子と云う大道芸人の群れが出現し、南北朝時代にかけて、なお、大流行であった。
北条高時、足利尊氏らは、特に好んだという (高柳光寿・竹内理3共編『日本史辞典』角川版)。
だが、室町時代、猿楽が盛んとなるに及んで衰微した。そして、地方の神社に神事芸として僅かに残った(同上「日本史辞典」)。広八幡の有田田楽などその好例というべきであろう。
上中野の人達の間でも「しっぱら踊り」は、稲の栽培行事を踊りに仕組んだものといい伝えている。稲の豊作を祈った田遊び、即ち、農耕儀礼から生れたものであるから、農耕行事を芸能化したものに相違ない。
しかし、現在の有田田楽には、もとの型に、他の神事舞が加わって、複合的な神事芸能になっているように思われる。
獅子や鬼・鰐といわれている赤面神人など加わっているのは、別の神楽が、何時のころにか参加するようになったからに外ならない。
獅子・鬼・鰐面の神人は、元来、広八幡神社の神楽であった。それが、田楽が広八幡神社の神事舞となってから、2者共演の型をとるように変化したのであろう。
古く農民達は、豊作を祈願して、田圃脇で踊ったのは、極めて野趣的で、素朴な民俗舞踊であったに相違ない。
現在の有田田楽は、室町時代の田楽様式を伝えるものと称されているが、既に、田圃脇で踊る農民の素朴な農事芸能の域を脱している。いちいち説明を受けなければ、容易に理解できない程、農耕舞踊らしい所作が感じられなくなっている。それは、都市で或る期間、職業芸人に手掛けられているうちに、野趣的な面が失なわれた結果であろう。上中野の田楽もその影響を免れなかったのではあるまいか。
さて、農耕技術が向上した現在、祭礼に農作物の豊饒を祈り、また、収穫を感謝する素朴で、かつ敬虔な古来の農民信仰は、殆んど失なわれたが、上中野の田楽が神事舞踊となったのは、まぎれもなく、なお、中世農民社会の農と祭の一体関係を物語るものであろう。



祭礼の日、神前に奉納する田楽には、中世の祖先が、神に豊饒祈願、収穫感謝の意味を込めて奉仕した上中野集落の姿が伝えられている。農民にとって、その年、その年の豊凶は、死活問題であったことは云うまでもない。そして、自然的条件に左右される稲作麦作の豊凶は、神のなせる業と見たのは、古代農耕社会からの常識であった。そこに農と祭の一体関係が生れてきたのである。有田田楽も農耕儀礼の芸能化に外ならない。この田楽が、おそらく、室町時代以降の或る時期に広八幡祭礼時に奉仕することになり、今日まで伝えられたものであろうが、変貌常ない社会の中で、室町時代の古風を能く伝承した同田楽は、単に珍重すべき存在と言うに止まらず、豊饒を願った古代社会人からの姿を窺う上に、またとない好個の資料というべきであろう。
右の田楽を伝承する上中野には、また、はなはだ古風な雨乞踊りが伝えられていた。昭和10年代に、大旱魃があった際、同地区の人達によって踊られて以来、脚光を浴びる機会がなくなったが、きわめて、前記田楽に似かようた所作が見られた。白衣を着て、扇笠を被むり、打楽器を打ち鳴らして踊る所作には、素朴な民俗芸能と、農耕儀礼の芸能化が窺われた。雷や風その他様々なものが登場して、それと問答を交えながら農民の豊饒を願う心、豊饒に不可欠の雨を乞うひたすらな願が農民らしい素朴な踊に表現されている。
さきの田楽といい、また、この雨乞い踊りと云い、古い時代に農作物豊饒祈願や収穫感謝を神に告げる農耕儀礼として、上中野集落に行なわれてきたものであろう。それが、或る時期に一方は、より優雅に洗練されて広八幡祭礼に奉仕し、他の一方は比較的素朴な姿のまま、雨乞い祈願に奉仕するという使命を帯びて、互の途を歩んできたものと思われる。この両者は、元来、同根から発した2本の幹であったに相違ない。
繰り返しいうことになるが、上中野に伝承されている田楽、いまは忘れ去られようとしている同部落の雨乞い踊り、共に古い時代の農民が農作物の豊作を祈って田の畔などで踊った民俗舞踊、というより、農耕儀礼を起源としている。中世においても、これを行なう人達の心の深奥には、敬虔な農耕儀礼の精神が躍動していたことであろう。

7 農耕儀礼と農民社会


広八幡神社の南、上中野小字末所の水田地中から、独形の瓦器が出土し、同地の岩崎厚氏が保管している。この外、西広田圃の各所からも出土を見ているところである。そのうち、とうてい寺院址・住居址と想像できない低地の水田地下から発見されている理由について、どのような解釈が可能であろうか。
その前に、瓦器とはどのような土器であるか。そして、何時ごろから現れた焼ものであるか、簡単に述べておこう。
さて、瓦器は土師器から派生した焼ものと考えられる。灰黒色にいぶし焼きした軟質土器で、還元炎焼成によって、土師器と異った色に焼き上ったのである。平安時代から杯形の瓦器が現われ、塊形、皿形、鉢形など、次第に器形が多様となった。そのうち、塊形が主で、皿形も多い。そして、小皿形のものは瓦器としては、最も時代が新しいという。平安初期からはじまり、室町時代に終った焼ものとされる。(『考古学辞典』小林行雄博士解説)
しかし、その終末時期については、また別の意見もある。例えば、三上次男博士は、鎌倉時代と推定されている (『日本の美術』別巻「陶器」)。
この軟質土器の瓦器も、当時の日常食器であろうと見ている。だが、日常食器とされた外、祭祀器として広く用いられたとの見方も普遍的である。

右に挙げたように、瓦器は、古代後期から中世前期、または、同中期の間、相当長期にわたって行なわれた焼物である。その当時、貴族社会では、高級な漆器や中国から舶載の陶磁器、鎌倉時代以降は国焼の陶器などを調度品とした。このような高級品は、一般庶民にとっては高嶺の花。瓦器や木器(木地)が庶民の手にし得る日常食器か祭器であった。しかし、上流社会でも、祭祀などの場合に1回限り祭器として、瓦器などを用いることが多かった模様である。
ところで、最初に記した如く、住居址や寺院址と思われない低地水田地下から、しばしば、瓦器の出土がある。
当広川地方だけの例でなく、周辺地方においてもその事例が少なくない。そして、申し合せたように皿形の瓦器が多い。特に小皿形が大半を占めている、これは何を意味しているのであろうか。
出土地の立地条件から見て日常食器が廃棄されたと思われないこと。その殆んどが小皿型であること。従って、これは別の目的で使用された遺物と考えられること。特に低地水田の地下からの発見であることなど、何かそこに、改めて考えて見なければならない問題が潜んでいそうである。
さて、潜んでいそうな問題とは、いったい何であろうか。出土場所が低地の水田であること。日常食器にしては小型に過ぎる皿型瓦器であること。瓦器は祭器として使用されることが多かったということ。以上の諸点から必然的に脳裏に浮かぶのは田圃附近で行なわれる田祭である。
古来、稲栽培に際して、農事の折目折目に、豊作を祈って様々な田祭りが行なわれた。即ち田の神祭りである。
今もなお、その遺風が各地方で行なわれているのを見聞する。水口祭、苗代祭、田植祭、虫送り祭、収穫感謝の亥子祭。その他、稲作に伴う祭儀が多い。これらについて、古今東西の例を、歴史学的に、民俗学的に研究した業績が、最近、幾多知られている。就中、にいなめ研究会編『新嘗の研究』(第1−第3輯)には、多くの学者の優れた研究が収められている。それによって、稲米祭儀には日本でも、古来、土器を用いて供物を奉げた例が幾多知り得る。その他多くの民俗学者が、各地の例を挙げて、古来の農耕儀礼を論証する中に、これを明らかにしたもの、また、少なしとしない。
土器に供物を盛って、田の神や新嘗祭の神に奉献したことは、まぎれもない歴史的事実として、既に証明済みである。前記、西広水田地中から発見された小皿形瓦器も、田圃の中で行なわれた、田祭、即ち、農耕儀礼用の祭器であったに相違ない。このように、田の神に供物を奉げた土器は、1回限りで、そのまま田圃に残しておくことが多い。それが、長い歳月の間に、土中深く埋没して、後世何かの機会にそれが発見されるという訳である。
この土器は小皿型瓦器であるところから、鎌倉時代か、降っても室町時代中期ごろまでの遺品と推定される。
日本に稲作が渡来したのは、弥生式時代とされている。今からおよそ2千2―3百年程以前にあたる。爾来、長く日本農業の、否、日本産業の中心的地位を占めてきたのは、今さらいうまでもない。従って、稲作の豊凶程、重大な問題は過去において比類なかった。
それ程長い歴史と重要な地位を占めてきた稲作であればこそ、「いね」とは「命の根」を意味する言葉という説もある。政治というものが始まって以来、長い歴史は、1貫して稲作拡張政策に終始した。墾田・灌漑設備などへの熱意はひと方でなかった。それというのも、支配層の経済基盤は農民による米作りに外ならなかったからである。時には呵責なきまでに農民に対して重い田租を負担せしめた。その重い年貢にあえいだ農民達は、この上納と自分達の生命を守るため、常に米の豊作を祈った。年貢を果たし得なかった農民程、惨めなものはなかったであろうから。だから、農事に際して、ただひたすらに、豊饒祈願をこめて田の神祭りを行なったのである。


西広の水田地下から発見された小皿型瓦器は、そのような祭祀行事に使用されたものであるまいか。殊に低湿水田地下から出土する瓦器には、そのような祭器的なものがあると想像される。ところで、中世農民の収穫が、いったいどのような階層に吸い上げられたか、参考までに玉泉大梁著『室町時代の田租』から左の表を借りて載せておこう。



鎌倉時代承久の乱、次いで南北朝の動乱などを経て、室町時代には、武家領は荘園を圧倒する程に変化を見せていた。だが、その土地を耕して田租を納めるものは相変らず農民であった。この時代の田租は物納でなく、米を銭に換算して、何町何反の耕作に対して所当何貫何文との定めであった点、他の時代と異っていたといえば、いえないことはない。
しかし、例え田租の方法が変っても、農民の汗と油の結晶が所当(年貢)となって吸い上げられていった点には少しの違いもなかった。

8 古銭埋蔵に想うこと


さきに室町時代の田林は銭納であったと記した。だが、この始まりは、既に鎌倉時代に見えていた。これは、当時、貨幣流通経済時代に入っていたことを証するものであり、特に、室町時代、中国明との貿易が盛んになって、彼国の銭貨が、わが国で多く使用されていた。貢納、即ち、年貢も、段銭、棟別銭、夫銭、地子銭など、銭によるものが増加し、銭貨の流通が一般化した。しかし、絶対の信用ある政府がなく、鋳造技術も進んでいなかったことから、室町初期のころには、洪武銭・永楽銭など流入が多く、これを使用したが、後に日支私貿易船の往来が盛んとなるに及んで、私悪銭,も横行した。これによって、円滑な貨幣の流通が妨げられたので、幕府や諸侯は、制令をもって、撰銭の規準を示し、撰銭なるものを行なわせたが、余り効果はなかった。
貨幣流通の展開に伴い、高利をもって銭貸しを業とするものも現われた。利息付の担保貸付けを営業するものを土倉といった。土倉の勢力が、室町時代には、著しく伸長し、有力商工業者の中には、これを兼業し高利をむさぼる者が多く現われた。酒屋・味噌屋などにそれが多かった。幕府はこれに眼を付け、酒屋・土倉を、納銭方の統制下に置き、土倉役、酒屋役を賦課した。その反面、幕府は、酒屋・土倉を保護し、役銭の増加を図った。
ところが、高利の銭を借り貧窮に落ち入ってゆくのは、下級武士や、農民であった。幕府も武士の困窮を打ち捨てておく訳にゆかず、これを救うため、徳政令を出して、借金棒引の政策をとった。この時、武士だけとする訳にもゆかないから、一般庶民をも対象として徳政令が発布された。これが、早くも鎌倉時代から、端緒が現われ、室町時代には、高利資本の圧迫に悩む土民等の一揆によって、幕府は、やむなく、しばしば徳政を行なわざるを得なかった。
ところで、当広川地方において、それを物語る史料があるか、と反問されると、明らかな史料はないと答える外はない。しかし、当時流通した古銭が、多量に発堀されているので、埋蔵には、何か重要な歴史的事実が秘められているのではないかと想像される。
広八幡神社の森、社務所の南側は、早くから採土場となっている。そこから近年、およそ、7百枚に及ぶ古銭が、採土作業中に発堀された。現在、和歌山県教育委員会の保管にかかるが、2枚の唐銭を含む、宗銭・明銭である。昔、賭博者か盗賊の類でも追われて隠匿したのであろうかと、説を立てるものがいる。わが国でも賭博の歴史は古い。特に双六などは、『日本書紀』に見え、博戯としては古い歴史を有し、『延喜式』には、身分の高下を問わず、いっさい禁示の布達が記されている。鎌倉時代、武士階級の間で流行したことは、既に述べた。室町時代以降も、無論、行なわれている。丁半賭博も、平安時代から一部行なわれたという。だから、賭博者が地中に隠匿したとする説も、全く否定できない。
だが、また、別の想像も可能である。その理由についていうと、上記した土倉・酒屋の外、寺院も無尽銭と称して、祠堂銭や寺領の年貢銭を利用して、盛んに担保貸付を行なっていた。広八幡神社に、仙光寺と称する別当寺があったことは、既に述べたが、その盛時には、塔頭6院を有したという豪勢さであった。そのころ、寺社領も多かったに相違ないから、経済力があって、無尽銭の名目で、銭貸付を行なっていたとしても無理でない。

それが、徳政一揆か、土一揆の際、災難を避けるために、所有銭を八幡神社の森中処々に分散隠匿したのでなかろうか。一揆が鎮まって地中から堀出しの際、偶々、堀り残されたのが、昭和年代まで埋蔵となって、幾世紀か振りに偶然の発堀となったのではあるまいか。
賭博の徒か、盗賊輩か、将又、寺社か、出土古銭は、語ることをしないから、埋蔵の謎は、なかなか解明は困難といわざるを得ない。だが、この古銭は、中世における当地方の貨幣流通の存在を物語るものとして、1つのささやかな資料というべきであろう。
ところで、中世の徳政については簡略ながら説明を行なったが、土一揆とはどういうことか、いまだ十分言及
しなかったから、それを簡単に記しておきたい。
中世日本の村落は、名といわれる共同体であった。名田といわれる土地を所有し、その集団の長は名主と称した。名主は、この農民集団と名田経営の企画者・指導者として、名田と集団内農民に分割耕作させた。その場合の単位は、個人でなく、家族であった。中世村落共同体の長たる名主は、名の大小により、富の蓄積の多寡により、当然、程度に差はあった。 それぞれ武装して地侍となっていた。このうちには、幕府の家人となって、地頭の地位を得たものも少なくない。平安時代からの荘園の地は庄と呼ばれたが、庄内村落構造は、名と変ることもない共同体であった。そして、名主にあたる村落共同体の長は、荘園の荘官であり、公文職に就いていた。
以上のような、中世農村社会の構造の中で、農民は共同体的生活を営んでいたのである。領主の年貢取り立てが苛酷な場合や、凶作で貢納が困難となった時、村落内の指導者、即ち、地侍的下級武士に率いられ、蜂起した。
そして、年貢の減免を強請するとか、支配者の不当を詰責した。これが、土一揆である。1名、1庄の土民蜂起もあれば、近隣名・庄連合で立ち上がることもあった。それが、波及して、日ごろ不満を抱いていた地方においては、各地に連鎖反応的に拡まった。
鎌倉時代にはじまる徳政一揆、土一揆は、室町時代に至って高潮に達し、頻発したことは、幾多の研究書にも挙げられているところである。中村吉治博士著『徳政一揆と土一揆』(日本歴史新書増補版)所載の徳政と土一揆年表によると、畿内を中心に随分多数例が見受けられる。だが、紀伊国に関係ありと見られるのは、正平22年(1367)高野山領における農民蜂起、寛正元年(1460)5月の根来僧と農民の水争合戦(死者7百人)の2例である。これは、史料に現われた件数であったであろうから、史料に現われないそれは、どれほどあったか計りしれない。だから、広庄内になかったと、必ずしも断言できないであろう。
広八幡鎮守の森に、古銭を埋蔵したのは、どういう理由があったか。徳政一揆、土一揆などに関係ありと、必ずしも強弁はでき得ないが、右に述べた如き時代背景を一応念頭におくとき、案外この辺に謎を解く鍵が存在するかも知れない。
ついでに、もう1つ、古銭発見の実例を挙げておこう。当町に隣りする湯浅町の北町において、蔵野米穀店の裏庭から、約5キログラムに及ぶ古銭が出土した。時代はやはり、中世のもので、宋・明銭である。これも、広八幡の森の場合と同様、何かの理由で埋蔵したのであろう。湯浅は古くから、熊野街道の宿所として盛之、土豪湯浅氏の本拠地として、中世早くから開けた地であった。さらに、前記した如く、湯浅鎧の製作地として知られ、中世も中ごろとなると既に市街地をなしていたと思われる。銭貨の流通は、わが広川地方に優るとも劣らなかったであろう。酒屋、土倉などの金融業者の存在を想像することも、また不可能でない。同地の古銭埋蔵をどう見るか、簡単に結論を急ぎ得ないが、広八幡鎮守森のそれと併せ考えて見る必要があろう。
以上で、ひとまず、中世庶民生活史雑考の章を摘筆する。鎌倉・室町両時代における庶民生活の一端に触れ得たに過ぎないが、数百年の歴史を隔てて、その時代を幾分復原し得たであろうか。今後新しく発見されるであろう資料によって、誤膠の点ありとすれば、必ず修正されるであろう。

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17、中世新仏教の興隆と広川地方


先章では、広川地方における中世高僧の足跡を略叙した。即ち、華厳の明恵、臨済宗の覚明、浄土宗の明秀などが当地方に遺した事蹟の概略であった。このうち、臨済宗・浄土宗は、鎌倉新仏教といわれるものであるが、中世当地方には、この外、日蓮宗・一向宗(浄土真宗)などの、所謂、鎌倉新仏教が波及している。この点について、いまだ触れる機会がなかったので、左に若干叙述を試みたい。
日本歴史の中で、仏教の演じた役割には計り知れない大きなものがあることは、いまさらいうまでもない。それと同様のことが、この1地方史の場合においても云い得る訳である。それを想うとき、高僧の事蹟のみ取りあげて、他を顧みない訳にもゆかないであろう。
さて、鎌倉時代の新仏教といえば、良忍の融通念仏宗、法然の浄土宗、親鸞の真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗などを挙げるを普通とする。そのうち、最も当地方へ弘通されたのは、浄土宗と真宗である。これに次いで臨済宗と日蓮宗を挙げ得る。その他についてはおよそ明らかでない。
浄土宗が、当地方に弘通されたのは、先章で述べた明秀に負うところが多い。明秀が上中野に法蔵寺を、湯浅に深専寺を建立して、当地方に浄土宗西山派の布教に努めた。先章で、既に記したことであるが、彼は民衆教化の妙手であり、その教化に帰依し、称名念仏が急速に当地方民衆の間に弘まって行ったと思われる。明秀開基の法蔵寺は、かって、郡内外に末寺25箇寺を有し、郡中一の大寺に数えられたが、盛時、檀家も千余軒あったという(『紀伊続風土記』)。その基礎は、室町時代初期、民衆教化の名僧明秀によって築かれたものであろう。伝えによると、当広川町上津木の安楽寺も明秀開基とされているが、これは、何かの間違いであろうが、法蔵寺末となったことにおいて、明秀と何等かの関係があったかも知れない。
この広川町に浄土宗西山派寺院が、法蔵寺以外に12〜3箇寺存在する。詳しいことは、宗教篇で述べられるが、左に所在地と寺名を掲げると、西広に法昌寺と手眼寺、池ノ上に法専寺、山本に光明寺、南金屋に蓮開寺井関に円光寺、河瀬に地蔵寺、柳瀬に柳生寺、前田に万福寺、下津木寺杣に広源寺、同岩渕に観音寺、上津木の落合に極楽寺、同中村に安楽寺等である。上記の寺院は、かって、悉く法蔵寺末であった。だが、このうちには 、もと、真言寺院として、法蔵寺創建より遙に古い歴史を有すると思われる寺がある。例えば、既に「古寺追想」の章で述べた山本の光明寺や、西広の手眼寺など。 その他、河瀬の地蔵寺、前田の万福寺、中村の安楽寺なども、おそらく、もとは真言宗の古寺であったと推想される。それが、何時のころからか、浄土宗西山派法蔵寺の末寺となっていた。明秀在世中の転宗があったか、否か、全く知るを得ないが、確かにいえることは、法蔵寺創建以後、開祖明秀の遺徳と同寺の威光が、当地方の古寺をも転宗せしめることになったのであろう。また、新たに同宗信者の道場や新寺院の建立をも促したと思われる。しかし、その悉くが、中世に属したか否か、詳らかでないが、江戸時代に降る創建や転宗は案外少ない模様である。
広川地方において、浄土宗西山派に次ぐ寺院数を有するのは、真宗の本願寺派である。前者は室町初期永享10年(1438)前後、明秀光雲が当地に法蔵寺を開基したことにはじまるが、後者はそれよりやや年代が降って、室町中期以降に、初めて広の地に真宗寺院が現われる。即ち、覚円寺、円光寺、安楽寺、正覚寺などである。

寺伝によると、覚円寺は、畠山の家臣吉田喜兵衛実景、文明8年(1476)蓮如上人の弟子となって薙髪、釈了恵と改め当寺を建立したという。 円光寺はまた、文明年中蓮如上人熊野参詣の切り、当地の真言宗小寺に止宿することあって、住持浄恵教化を乞い弟子となって改宗したとの伝えである(『紀伊続風土記』)。安楽寺は、斯波の家臣浜口安忠剃髪して正了と改め、永正年中(1504〜1520)、広浦松崎の地に道場を建てたのが当寺の創始という。安忠は初め故あって遁世し高野山に入ったが、後明応年間(1492〜500)、広浦に移り、本願寺実如上人に帰依して、上記の如く広浦松崎に門徒の道場を創建したと伝えられる(『有田郷土誌研究のしおり」)。
また、別伝には、安忠高野山を下って広浦に移り、蓮如上人に帰依して法名を正了と賜わり、永正6年(1509)、当地に道場を建てたのが安楽寺の起源という(安楽寺縁起)。正覚寺は大永4年(1525)、僧教意が実如上人より方便法身画像を下附され道場を建てたのにはじまると伝えられている。殿の正法寺は雑賀孫市の甥孫右衛門の開基。唐尾善照寺は大永3年妙西尼の開くところとの伝えがある。
右諸寺伝は、その総てが信憑性に欠けることない正伝なるや否や、若干疑問の点も存在するところであるが、これについては、さらに他の資料を得て考察を試みたい。だが、わが広川地方に一向宗(真宗)の及ぶに至ったのは、大体、室町時代後期の初めごろからであったと思われる。
ところで、右に見た覚円寺の開基、円光寺の真言宗から真宗への転宗は、いづれも、蓮如の法弟となった当地のもと武士と真言僧とによるという。特に円光寺の真宗への転宗は、文明年中蓮如上人熊野参詣に偶々同寺に止宿したことが機縁となったことをいっている。この伝には、いささか疑念を抱かざるを得ない。そればかりでなく、吉田実景が蓮如の弟子となったというのにも、若干の疑問が生ずる。以上の疑念は、何故抱かれるか。その理由について、宮崎円遵博士の「紀伊真宗の源流」(昭和8年4月『紀伊郷土』第4号所載)が、重要な研究として注目されてよいであろう。
同博士の研究によると、和歌山県下若干の真宗寺院の縁起類に、文明8年(1476)蓮如上人紀伊下向のことを伝えるが、根本史料にそれを立証するものがない。海南市清(冷)水了源寺(旧清水道場)に下附され、現在鷺森別院に所蔵の親鸞聖人蓮如上人2尊像に、左の如き裏書があり、蓮如の筆頭として信拠すべきものであるが、これを以て、必ずしも、文明8年蓮如紀伊下向裏付史料となし難いと謂う。

 釈蓮如 (花押)
 文明8年丙申10月29日
撰州島上郡富田常住也
雖然此御影紀伊国阿間郡
大谷本願寺親鸞聖人真影
水道場之本尊定之者也
     願主 釈了賢


右裏書の文明8年、蓮如の紀伊遊化、または、熊野参詣の形跡が信拠すべき史料に発見できないこと、宮崎博士は、詳細に史料を挙げて考証されている。なお、これを事実の如く伝える文献は、総て江戸時代の成立であること、いちいち書名を挙げて、その信憑性においては、とうてい、当時の史料に及ばないことを指摘されている。
後世、文明8年蓮如上人紀伊下向の伝説が行なわれる因をなしたのは、宮崎博士のいう如く、けだし、前掲書にあったと解してよいであろう。

なおまた、文明18年(1486)蓮如上人熊野参詣説をとっている書もある。同年の蓮如紀伊下向は確証ある史実であるが、されど、この場合も熊野参詣の事実を徴証すべき当時の史料が存在しない。文明18年における蓮如の遊化を筆録せる「紀伊国紀行」があり、前記宮崎博士の論文中に、その全文が引用されているが、冷水・藤白より南のことは現われていない。同博士も言及されている如く、もし、冷水・藤白以南の紀伊下向や熊野参詣が行なわれていたとすれば、何等かの形でこれを筆端に現したに違いないと思われる。なおまた、子弟の手による上人伝や行実の筆録がかなり存在するのに、このことに言及したもののないのは不審に堪えない、と博士は、同年(文明18年)の蓮如紀南遊化または熊野参詣説に疑問を抱かれている。
以上の点からすれば、江戸時代の記録に成る縁起書や著書、それに基づく諸文献は、おそらく、文明8年の冷水了賢寺2尊像裏書や、文明18年の「紀伊国紀行」から生まれた誤伝であろう。とすれば、この有田地方に伝えられる文明8年、或は同18年の蓮如に関係する事柄は、とうてい史実と認め難く、単なる伝説の域を脱しないものと解せざるを得ない。因に記すと、現吉備町井ノ口安楽寺、同町岡田西福寺、湯浅町仙光寺など、いずれも蓮如の紀伊下向に縁りの地と、縁起書その他に見えるが、史実を伝えたものと云い難い。わが広川町の円光寺もまた同様であり、覚円寺の開祖吉田実景が文明8年、蓮如の弟子となり剃髪したというのも疑わしい。その他、当地にあって蓮如上人に帰依し云々の所伝にも、いささか疑念を禁じ得ないところである。
すると、いったい何時ごろ当地方に真宗が入ったと観るべきであろうか。確証がある訳でないが、おそらく、蓮如・実如時代が過ぎて証如・顕如の時代となってからであるまいか。証如は初め黒江、後に和歌浦に暫らく住したと『鷺森御坊旧事記』に記載があり、顕如は和歌山の鷺森に立派な堂宇を建立して、1時そこに拠ったことは、今更説明の必要もない程よく知られている事実である。

証如・顕如は、右に挙げた如く紀伊国と深く関係があり、その影響が広く及んだことを重視すべきである。わが広川地方にもその影響が及んだと解して大過ないであろう。
なお、この両僧時代に地方武士で門徒となるものが多かった。その中には出家して1寺の開基となるものもあったから、当地方においてもそれがあったと解してよいのではあるまいか。
さきに言及した如く、中世わが広川地方に、鎌倉時代興隆の新仏教として、前記の浄土宗や一向宗(真宗)以外に臨済宗と日蓮宗が波及している。しかも前2者に比較して後2者の波及はかなり早い。臨済宗のそれについては、先章において、南北朝時代正平6年(1351)、名島に三光国済国師覚明開基の能仁寺を述べているので、ここに重複を避けたい。すると、残るところは日蓮宗である。これについて、左に簡単な叙述を行なうことにしよう。
現在、広川町に日蓮宗の寺院として養源寺がある。同寺はこの広川地方ばかりでなく、有田郡市内唯一の日蓮宗寺院として、極めて特殊な存在であるといって過言でない。有田地方において他に例を見ない日蓮宗寺院が何故この広川町の地に現存するか。そのよって来たるところは何か。即ち、広養源寺の源流は何か、これは、極めて興味ある問題であるといってよい。
ところで、このことについては、勿論、宗教篇の寺院各論で触れるであろうし、なお同篇仏教史総論でも、若干言及するところとなるので、おのずと重複が避けられない。だが、その弊をできるだけ避けるため、本章においては、極めて概略に止めておきたい。
養源寺が、現在の地に建立されたのは、江戸時代正徳年間(1711〜15)である。その時、後の8代将軍徳川吉宗の母堂浄円院が願主となって建立が行なわれている。同寺本堂の棟札に、それを物語る資料を発見する。

当寺本堂並境内寄附
中納言吉宗公長福君・小次郎君御武運長久
 正徳3癸己正月
          願主 浄円院


右正徳3年(1713)銘棟札が、即ちそれである。だが、この棟札は、養源寺沿革の途中にある極めて重要な1里松ともいうべきか。同寺はここに至るまでに、相当長い道程があった。この道中への出発地は、史実と伝説に満ちた鹿ヶ背(肉ヶ背)山である。
鹿ヶ背山とは、いうまでもなく、当広川町河瀬に所在する山で、旧熊野街道の嶮処として、古来有名である。
古代末期からの熊野参詣紀行に名をとどめ、元享釈書に怪異譚が載る。ところで、養源寺縁起は、この元享釈書の怪異譚が、その発端をなしている。所謂、法華壇伝説である。叡山東塔院の僧釈円善が、熊野に旅して肉背山に卒し、生前発願の法華経6万部読誦の残り半分を、白骨となってこの山中に読誦していた。それをたまたま同山中に1宿した沙門壱叡が発見し、その故を尋ねて、この髑髏読経怪異の訳を知った。そして壱叡は礼拝して去り、翌年また来り元の場所に注意したが、既に苔骨は消えていた。というのが同書の概要である。養源寺縁起は、さらに、壱徹は此処に塚を築き宝塔1基を建立したと記している。
それからかなり時代を経て、南北朝時代、大覚大僧正(妙実上人)が京都妙顕寺を弟子朗源に譲り、延文2年(正平12年 = 1354)、待僧朗妙を伴い紀州遊化を行なわれた。その時、鹿背山中に元享釈書で知られる釈円善の遺跡を訪ね、その地に朗妙を留めて草庵を結ばせ永住させた。鹿背峠を南下した山中に法華堂が後世まで所在したと伝えられるが、その創草は、この朗妙の草庵という。さらに時代が下って、広浦に移り、法華寺となる。
広浦法華寺の場所は、いまの田町の中程(浦清兵衛氏宅附近)であったという。この法華寺が江戸時代中ばごろ大蔵尉筆日蓮讃の大黒天1幅を得、当時紀伊藩主徳川吉宗および母浄円院の信仰を受けて、藩祖頼宣の広浜御殿の旧地を寄進され、そこに堂宇を建立されたのが、現在の広養源寺という(『養源寺縁起』『紀伊続風土記』『紀州日蓮宗風土記」など、これを伝える文献が多い)。
ところが、最近、右の養源寺の起源と異る重要な源流のあることを知見した。それは、上掲『紀州日蓮宗風土記』(中井了順著)に見える記事である。即ち、前記京都妙顕寺の開祖日像が、比叡山に憎まれ、院宣によって3度追放を受けるが、その2度目の配流地が「紀ノ国師子セ」であったということ、これである。これが直ちに養源寺の起源に結び付くか否か、いまだ速断を許さないが、全く無関係であり得ないと思料されるので、若干、この事について叙述を試みたい。法華経塚の伝説は元享釈書以来、よく人の知るところであるが、日像配流地としての鹿ヶ背山のことについては、余り知る人のない史実であるから略叙しておくことにする。
日蓮の布教は鎌倉を中心に、専ら東国地方に行なわれていた。だが、日蓮死の直前、自分の無きあと京都開教を孫弟子日像に託した。鎌倉幕府に入れられなかった立正安国の論を京都の朝廷に期待したのである。日像は祖師の遺言を体して、京都に布教し、町衆の帰依を得るが、間もなく比叡山に憎まれ、徳治2年(1307)から元享元年(1321)の間に3度追放の院宣をうけ、そのたびに許されて、後京都に妙顕寺を建立する。(岩波新書『鎌倉仏教』)。
この日像が3度の追放のうち、2度目の延慶3年(1310)から翌応長元年の1ヶ年間、に配流となる(妙顕寺旧記 「日像門家分散之由来記」中の「像師御流罪地ノ事」)。右に見える紀ノ国師子セとは、当広川町河瀬の鹿ヶ背(肉背)に外なるまい。
さて、さきに挙げた大覚大僧正妙実は、日像開基の京都妙顕寺の第2世。しかも日像の直弟子であった。その妙実が、紀伊国遊化に際し、開祖配流の地を忘却する筈はあるまい。鹿背山は円善や壱叡の伝説地たることは、例の元亨釈書で周知していたことは間違いないとしても、それよりも、なお一層、妙実に取って開祖日像上人の縁故の地、しかも日像師1ヶ年間配所生活を送った鹿背山に想を寄せ、杖をこの山中に運んだことであろう。そして、円善遺跡の供養を兼ねて、弟子朗妙を此の地に留めて草庵を結ばせたものと推想される。
それでは、妙実の紀伊国遊化は、果して史実であるか、単なる伝承であるか、ここで振り返って見たい。法華寺(養源寺)旧記と伝えられる鹿背経王塚碑文中に「延文丁酉(2年=1357)之夏、大覚大僧正、周遊此地」とあるという。那賀郡多田郷の妙台寺の大覚大僧正筆の題目本尊には「延文2年 5月2日」とあることからも、上記碑文と一致する。妙実の紀州遊化は、同年夏に行なわれた証左として、史実を物語るものと見てよいであろう。
古来、法難を蒙り、流罪となった高僧名僧は少くない。その人達は、殆んど配流地において例外なく信者を得ている。それらの高僧名僧中には、流人の身ながら積極的に布教した例もある。日像の場合もまた然りであったのではなかろうか。その後における朗妙の駐錫と相侯って、当地方や日高郡原谷に、日蓮宗信仰者が現われ、それを立証する資料の一端が触目される。
鹿背峠を日高郡原谷に降る途中の山中に、数基の題目板碑が現存する。その紀年銘には、室町初期永享8年(1436)、嘉吉6年(文安3年=1446)、同中期寛正2年(1461)などがある。なお、永享年号のが他に2基見受けられる。とにかく、これらの板目板碑は、近代初期ごろまで残っていた法華堂の附近に所在していたものという。この小堂は、数十年前に広養源寺に移建されたと伝えられる。日高郡側であるが、鹿背山中に室町時代の題目板碑の遺存すること、しかも7~8基を数えること、当時の日蓮宗信仰のかなり盛んであった証左となるであろう。これがまた、広養源寺前史を物語る貴重な資料となるのであるまいか。
鎌倉時代後期日像の鹿背山配流、南北朝時代朗妙の同山止住などが、日高郡原谷や広川地方に日蓮宗信仰の初期時代を出現せしめたと思われる。この地方の日蓮宗弘通が日像の配流によって始まるとすれば、けだし、和歌山県下における同宗弘通の最初の地ということになるであろう。
以上いささか叙述に繁簡の差があったが、中世わが広川地方に及んだ鎌倉時代興隆の新仏教を概観した。資料の関係で、寺院や道場の創建が中心となったが、鎌倉仏教は、いうまでもなく庶民仏教であり、庶民の信仰が、前記した諸寺院や諸道場を中心に行なわれた。中世は南北朝の動乱、それに続く後南朝の抗争、その他地方豪族
間の争い等、騒然・暗澹・悲惨の世情の中にあって、貴賤上下皆心を暗くしていた。特に動乱の余塵をかぶった民衆は、安心を信仰に求めたであろう。庶民教化の旗印を揚げた新仏教は、この民衆の中に拡まっていったのは当然であった。

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18、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄


1 広庄領主湯川氏の滅亡


先章で述べた畠山氏の広城陥落、湯川氏の制圧。これらは、大体、わが国における戦国時代に当る。そのころ、各地に大小数多の群雄が割拠し、鎬を削って勢力競いに明け暮れていた。
この戦国の世に、尾張半国の大名から身を起こし、次々と諸国の大名を抑えてついに天下統一の業を遂げたのは、いうまでもなく、織田信長(1534〜82)である。だが、彼は間もなく、京都本能寺において、その臣明智光秀(1528〜82)に急襲され横死した。そして、直に光秀を討ち、旧主の仇を報じた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉、1536〜95)は、信長の跡を受けて天下の覇権を掌握する。かくて、戦国時代が終幕を告げるが、彼は天下平定のため旧勢力打破を強行した。その1つの現われとして、豊臣秀吉の紀州征伐がある。紀伊国の一大勢力根来衆徒も、彼のために破られ、名草郡の太田城に拠った日前・国懸両宮勢力と、それと連合した雑賀党勢力を、同城を水攻めにして陥れた。有田郡では、岩室城(宮原)・鳥屋城(金屋)において苦もなく畠山勢力を挫き、広の湯川勢力も倒された。その他各地において諸勢力が打倒されている この秀吉の南征は天正13年(1585)のことであった。
だが、湯浅の白樫氏(左衛門尉)のみは、既に秀吉の起請文を得て彼に内応し、有田川下流地域を占居していた宮崎氏を攻略し、その附近の社寺(須佐神社・神光寺・浄妙寺等)領を掠奪しなどして、秀吉の命に従った。
広庄の湯川勢力を攻撃した秀吉方の先陣を努めたのも白樫の軍勢であった。 この時の模様が、日高郡日高町萩原の旧家に所伝の史料に見えるので後述で若干触れたいと思う。
羽柴秀吉の命に従い、附近の諸勢力を挫いた白樫氏は、その功により5千石を与えられ家臣となったが、豊臣氏の大阪落城後、やがて彼も滅亡した。
ところで、秀吉の南征当時、紀南地方に最も勢力のあったのは、日高郡小松原城主湯川直春であった。この湯川氏は広庄湯川氏の本家で、日高・牟婁両郡の諸勢力を統合し、熊野において大いに抗戦。この時、*口熊野の山本主膳・真砂次郎七郎・田上五郎太夫なども湯川勢力に呼応して奮戦し、秀吉方の軍も容易にこれを破るを得なかった。そこで秀吉は、湯川・山本などの領地を安堵すると偽り、和を約し、翌天正14年、計略をもって湯川直春・山本主膳の両雄らを大和郡山に誘殺した。新宮の堀内氏は早く帰服して本領を安堵され、日高の玉置氏も味方して所領の大半を安堵された外は、紀南の諸勢力は悉く崩壊せしめられた。紀北の強豪根来衆徒を手始めに、日前・国懸両宮と雑賀党の連合勢力、紀南の湯川・山本勢力など次々と、紀伊国の旧勢力は倒され、豊臣秀吉の紀州統一は、ここに一応完成を見たのであった。
天正13年3月、和泉から紀伊に兵を進めた羽柴秀吉は、直ちに、根来を焼打し、次いで太田城を水攻めして陥れた。
当広庄湯川氏か秀吉方に攻められたのは、同月20日と史料に見える。この史料というのは、さきにも云ったが、日高郡日高町萩原の旧家に伝えられるものである。この旧家は苗字を崎山氏と称し、室町時代広庄中野城に居住した崎山家正の後裔という。天正の兵乱を記した文書の日付は元和元年乙卯(1615)4月、日高萩原村崎山弥左衛門時忠が崎山頼時、同亀千代、楠弥右衛門3名に宛てた書状である。秀吉の南征から30年の歳月しか経ていない。かなり信用の置ける史料と観てよいであろう。
右文書は極めて詳細にこの時の模様を述べている。その総てについて紹介することができないので、簡単に要点を記すことにしよう。
天正のころ、有田・日高・牟婁の地に最も勢力のあったのは、日高郡小松原城の湯川直春であった。その勢力下に同郡和佐村の玉置、有田郡湯浅の白樫などがあり、石垣の神保、下津野の片田なども日高の湯川氏を盟主と仰いでいた。そして、広庄は既に言及した如く日高湯川氏の支族が占居するところであった。広庄中野村から高家庄萩原に移った崎山も湯川に属していた。そのころ、有田では宮原に畠山、保田に貴志、宮崎に宮崎諸氏があった。
ところで、天正13年3月、羽柴秀吉が紀州平定に乗り出したとき、逸早く、これに内応したのは玉置、白樫、神保の3氏であった。そして、天正13年3月20日一斉に旗上げした。同日湯浅の白樫は相当な軍勢を率いて広浦の湯川を攻撃し、広と湯浅の境、広川原において攻防戦が展開された。その時、湯川方は崎山の侍ら30人ばかりで、衆寡敵せず、遂に広へ打入られ、火を掛けられるという始末。止む得ず湯川方は一時、日高小松原の本城へ退いたという。
小松原城においても、湯川の本家は、いまだ戦備整える暇もなく、玉置の叛逆に遇い苦戦に陥っていた。それやこれやのうちに秀吉の大軍は水陸から逼り、湯川直春は城を焼いて熊野に難を避け、そこで日高・熊野方面の諸勢力を糾合して戦力を整え、熊野の要塞に拠って応戦した。この湯川勢と連合して善戦したのは、さきに記した山本主膳や真砂次郎七郎・田上五郎太夫など紀南の強豪であった。
ところで、当広庄における白樫と湯川方の戦闘は、緒戦において兵力の差から広勢の日高への退却となったが、翌3月21日、日高湯川の配下湯川左太夫・池田帯刀、高家次郎太夫など3百余の軍勢は、広勢を援けて出陣を決行した。そして、鹿瀬坂を筋違いに越えて広庄に兵を進め、広八幡神社附近台地に陣して、広に進攻の白樫勢と対戦した。湯川勢中の岩崎甚助の1隊は名島表に打って出て、白樫の大軍と合戦に及ぶ。そのうち崎山飛弾守家正の孫崎山弥五郎、その嫡子弥左衛門が手勢を率いて援軍に駆け付けた。さらに日高方面からの加勢を頼み、明22日、湯浅白樫城を一挙に攻め立て、雌雄を決せんと軍議が纏まった。だが、その時、秀吉軍の部将仙石権兵衛・中村孫平次は大軍を率いて白樫城に入ったため、白樫城攻略は、とうてい不可能と諦めざるを得なくなる。

そこへ、日高の小松原城から使がきて、秀吉方に内応した玉置勢は意外に強く、湯川方苦戦のため、至急日高に帰陣すべしとの知らせがきた。そこで、広の陣地を引上げ日高へ帰ったのは、天正13年3月22日であった。
小松原城では、広庄から引上げた4百騎、また、熊野勢3百騎、併せて7百騎の増援を得てようやく危機を脱するかに見えたとき、秀吉方の大軍が水陸両方から逼ってきたのであった。前記の如く、最早やこの城では防戦なり難しと湯川直春は小松原城に火を掛け総勢熊野に退く。そして、熊野において日高・牟婁連合軍を組織し、この地方要害の利を得て抗戦。湯川連合軍は容易に屈する色がないばかりか、秀吉方軍勢の消耗が増大する有様これではならじと羽柴秀吉、奸計をめぐらして講和を装い、翌天正14年、湯川直春・山本主膳を大和に誘い出して毒殺したのである。謀られた湯川・山本方及び反羽柴方は悉く所領を取り上げられ、やむなく浪人してその殆んどが帰農したと云う。
前記萩原の崎山家文書には、右に関する事柄を事細かに認められている。当時の模様を窺う上に極めて貴重な史料というべきである。右文書の中で、特に注目を惹いたのは、湯浅の白樫勢が広浦に打ち入り、焼き払いを行ったということである。当地の史料「広浦往古ヨリ成行覚」(江戸時代寛政6年1794記)にも天正の兵火に広浦灰燼し、そのため当地疲弊すとある。だが、従来、成行覚の説には若干疑問点があるのでないかと見られていた。
それは、天正13年11月に畿内・南海その他の沿岸は、大津浪のため甚大な被害を蒙っており、広もこの時の津浪で罹災したのでなかろうか。それがたまたま豊臣秀吉の紀州征伐と年次を同じくしたために、後世、天正兵火説1色に塗り替えられて伝承されたのではあるまいかと。しかし広浦の古伝に称えることも、或る程度根拠の有することで、前記崎山文書には、「天正13年3月20日、白樫勢が打ち入り焼き払う」という記載が見える。
だが、ただそれだけの表現では、湯川屋形を指すのか、広く一般民家にまで及んだのか明らかでない。明治6年中には何かの理由で衰微、或は廃絶した神社・仏閣が、一口に天正の兵火によりと誤伝されるに至った例も絶無とは言い得ない。
さて、当地方の前記3例はどうであろうか。光明寺のことについては詳らかでないが、能仁寺は、当時、40町の田地を寺領としていたことは既に記した、湯川光春の寄進状によって明らかである。南北朝時代正平6年(1351)、後村上天皇の勅願所として創建され、綸旨によって広庄内で田地40町を与えられた能仁寺であるが、室町時代、畠山氏の圧力によって衰微していたことは間違いない。大永2年(1522)、この地方における畠山勢力を打破して広庄を所領した湯川光春は、直ちに同寺に対し広庄内で田地40町を安堵している。それによって、再び寺運興隆を見たであろうことは想像に難くない。この能仁寺が、天正13年3月、湯浅の白樫が広に湯川を攻めたとき、おそらく、傍観的態度で済まし得なかったであろう。何等かの形で湯川方に応援したのでなかろうかと想像される。そのために秀吉方に火を掛けられ、寺領も没収されたと云うことも考えられる。同寺の旧寺域と称される畑の中に焼けた古瓦片が散布しているのは、その間の事情を物語るものであろうか。里言に「何んにも名島の能仁寺」と謳われるのも、天正の兵火で伽藍や塔頭が焼失し、里言どおりの姿に変わり果ててしまったということも、あながち否定はでき得ないであろう。
光明寺については、さきに「古寺追想」の章で、若干、推想を述べた如く、中世かって相当な寺領を有した古刹であったらしい。秀吉の南征のころ、まだその勢力が維持されていたや否や明らかでないが、前掲『紀伊続風土記』に

 村中にあり往古は伽藍地なりしに天正の兵火に焚燼すといふ

(1873)7月の広村「明細取調御達帳」に、旧跡として次の記事が載る。
湯川氏之第宅跡東西1町、南北1町当時新田是在広村北この湯川氏邸宅跡というのは、天正13年3月、白樫勢に焼き打ちに会いその後廃墟となって、何時ごろからか開墾され新田と呼ばれるに至っていた。明治初期のころは、まだ記録に載せられる程で、その位地も明らかであったらしいが、現在それを尋ねても知る者は誰1人としていなくなっている。約1世紀を経れば、この広大な湯川氏旧館址も地元民の記憶から消滅してしまった次第である。まして、一般庶民の事となると、なお一層その運命にあったであろう。地方史の研究に際して、庶民史の難しさは、誰でも経験するところであるが、近世初期の広浦の衰微は、以上の事柄から観ても、戦禍が重大な原因か大津浪がそれであったのか。今ここでは、戦禍と津浪の災害2重奏がもたらしたものと、一応妥協的な解釈を採っておくことにしよう。

2 天正の兵火と広庄内社寺


秀吉の紀州征伐は、広く社寺にまで及んだことは、文献や伝承で知られている。根来寺が最初に鏡玉にあげられたことは有名だが、高野山もあやうくその運命を背負うところであった。だが、木食応其上人のとりなしで難を免がれた。さきに触れた日前・国懸両宮もその難に遇い、紀三井寺もまた然りであることは、人のよく知るところである。『紀伊続風土記』によると、その例、実に多数をきわめている。当広川地方でも広八幡神社・名島能仁寺・山本光明寺などが数えられている。
当時、有力社寺はそれぞれ相当な神領・寺領を有し、社民・衆徒を擁して勢力があった。秀吉の紀州征伐にあたって、この社寺の勢力を見逃す筈がなかった。とはいっても伝承の悉くを信じることもできないかも知れない。とあり、近年境内墓地を整地の際、それを立証するかの如く、火に罹った古互片が相当出土した。*鎧夏や宇夏は発見されていないが、*夏片の布目から推定して室町時代中期以前と思料されるものを主とした。これをもって必ずしも天正の兵火説を立証し得たとは断言できないが、その可能性を全く否定し得ないであろう。
能仁寺・光明寺と共に天正の兵火に罹ったと伝えられる広八幡神社について『紀伊続風土記』には、神宝・旧記・文書の類、皆灰燼し、社領もまた没収せらる、と載せられている。同神社が、事実、兵火に焼かれたとすれば、それは別当寺であった仙光寺のこととすべきであろう。現存する本社殿及び摂社殿、楼門などは、室町初期およびそれ以前の建造物である。それに引き較べて、仙光寺は相当早くに廃退している。仙光寺は塔頭6院を有したと伝えがあるが、続風土記編纂当時薬師院・明王院の2院を残すのみであったという。この仙光寺とその塔頭寺院の廃退が、天正の兵火や神領没収が原因であったと見るのが、案外当っているかも知れない。広八幡の実権を握っていたのは別当仙光寺であったから。前記した如く、同神社の神宝・旧記・文書の類皆灰燼という伝えは、これらのものは、別当仙光寺の保管となっていたからであろう。天正兵火説には、半信半疑の念を抱かないでもなかったが、上来述べてきたような諸条件に照して、広八幡神社の場合、仙光寺とその塔頭が兵火にかけられたのが本当であると思う。
なお、ここで津木老賀八幡神社に関することを付記しておこう。同神社も秀吉のために神領を没収されたことは、同社の旧記に見える。
とにかく、秀吉は天下統一のために、地領占有する旧勢力打倒を考えたのである。この政策に反抗的な勢力は、大名であれ、土豪であれ、社寺であれ、容赦なく打倒したのであった。そして、これを遂行した後、太閤検地を行ったのである。秀吉の天下統一とは土地支配の統一であった。これの障害となる諸勢力排除の1つとして紀州征伐が行なわれたと考えられるのである。広庄において、この秀吉の土地支配準備工作の犠牲となった中には、前記社寺なども含んでいたのではなかろうか。
さきにも言及した如く、古社寺などの衰微や廃退を悉く天正の兵火に帰したのでないかと思われる程、この伝承が多い。その総てを史実といい得ないまでも、全く否定できない事実であったと思われる。中世的な旧勢力打倒には容赦のなかった豊臣秀吉である。その意を受けた戦国荒くれ武者どもは、例え神社であろうと仏閣であろうと、障害となるものには容赦なく火を掛けたであろう。とにかく、この天正の兵火によって焼失した古文化財は程知れぬ多数に上ったことであろう。この戦禍がもしなかりせば、当地方の古文化財、否、和歌山県のそれは、なお、見事な様相を示したであろうと、想うことがある。
なお、当地方の土豪中にもこの紀州征伐に際会して滅亡したのは、単に湯川氏ばかりでなく、他に西広城主と呼ばれた鳥羽氏なども数えられるのでないかと思われる。鳥羽伝書の記載からはそのように受取れるのである。
以上、若干の資料と想像によって、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄の回顧を試みた。


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19、伝承・史料等に現われた広庄土家群像


1  伝承・史料に遺る土豪達


さきに、1章を設けて、地名から見た中世広庄豪族群像の素描を試みた。そこでは触れる機会を得なかった若干の土豪が残っている。これらの土豪は、頻度に多少の差があるにしても、当地方中世史の舞台に登場する。従って、看過し得ないこと勿論であるが、これもまた、来歴が甚だ不明である。伝承や史料に、若干、それを求め得るが、その伝承や史料たるや、何処まで信をおき得るや、これまた疑問の余地なしとしない点があろう。
ところで、現在、この地方の旧家として知られている中には、中世豪族の後裔と称する家が幾軒か存在する。
その旧家の伝承や記録が、その家に取っては、豪も冒すべからざる神聖なものに外ならない。だが、本章においては、時にはそれを疑問視しなければならない場合があることを重ねて了解を得ておきたい。
世間には随分辻褄の合わない系図や記録、さらに伝承が遺されている模様である。しかし、それにはそれだけの謂われがあったに相違ない。それらを含めた諸資料から、これまでに描き得なかった中世広庄土豪群像素描を試みて見たい。
それでは、本章において、以下どのような土豪の登場を予定しているか。まず、その土豪達を挙げると、およそ、次のとおりであるが、既に、これまで顔を出した人物も含んでいる。
津守浄道とその子孫、梅本覚言、竹中氏と佐々木氏、湯川氏と池永氏、梶原氏その他若干が念頭に浮かぶ。

2  中世広庄土豪群像


上記した土豪達は、その多くは来歴が詳らかでない。僅かな輪郭さえも捕捉し得ないものもあり、単なる素描も誤りない姿を復原し得るや否や、まことに疑懼するところが多い。特に、現在もなおその子孫が当地方に居住する場合は、その家が障壁となって、真の姿が容易に見定め難いこともあろう。
さて、障壁の向こうの土豪像を描いて見る。
津守浄道と梅本覚言、この両者は、大体同年代に活躍した人物であるらしい。既に記した如く両人は、室町時代も比較的早いころ、明秀に帰依し、広の寺村より上中野に法蔵寺を移建したと伝える。『紀伊続風土記』の記すところでは、「中野村に津守浄道、梅本覚言という2人の土豪あり、上人(明秀上人のこと)に帰依、寺地井に山林(山林は今の寺山といふこれなり周7町ばかり)を寄附すといふ(以下略)」と。そして、 同寺を最初の建立地寺村から、彼等が寄附した今の地に移したという伝承を割註している。
寺地や寺領を寄進して、そこに法蔵寺を移建したというからには、浄道・覚言ともにかなりの地方豪族であったに相違ない。ところで、続風土記は、この両人を共に中野村の住人としている。覚言は上中野の住人であったとの伝承は広く、人口に膾炙するところであり、その屋敷跡が、広八幡神社の南方にあったとの伝えもある。だが、浄道の方は、上中野の住人であったという伝承のあることを聞かない。津守家の墓は名島にあることだけは判明している以外に、その旧跡はいまだ伝聞するに至っていないのである。従って、何処に屋敷を構えていたか知る由もないが、室町末期天文のころ(1532〜57)、津守氏は広八幡神社の公文となったことを、前記『紀伊続風土記」が記している。なお、同書にいう「社地の東小山周7町半余宮付なり。その地公文の家津守氏の地なりしに慶長年間故ありてその家を亡し其地を八幡宮に寄すという」。前出の周7町ばかりの寺山とは、多分、南金屋の観音山であろうし、周7町半余の宮付小山とは、その北側の丘陵尾山を指すのであろう。
因に記すと、現在、耐久中学校東隣りのキリスト教会門前傍に放置されている道標石がある。文化13年(1816)5月に造られたものであるが「是より南法蔵寺庵山33処へ3丁」と刻まれている。もと広八幡鳥居の附近に建てられていたものとの説がある。この法蔵寺庵山とは、即ち、前記観音山のことであろう。この丘上に33番各観音像を石彫して、小堂内に安置している。石彫はやはり文化ごろであるが、そこへの道案内のために建てられた道標であったに相違ない。法蔵寺庵山とは同寺々領を意味しているものと思う。同丘陵が、津守浄道か梅本覚言かが、法蔵寺に寄進して以来、江戸時代後期文化ごろ、まだ、法蔵寺領であったことを物語っているようである。
さきに引用の続風土記の記事に、津守氏は慶長年間故あって家を亡したとある。これについて広八幡記録によると、津守氏は大阪方に味方して亡びると見えるから、豊臣方について敗れたのであろう。慶長19年(1614)10月、大阪冬の陣が起るが、この冬、大和・紀伊の土豪、大阪方に呼応して一揆を起している。津守氏もこれに加わったのか。とにかく反関東方(反徳川方)を貫いて、遂に家運の衰微を招いたのであるらしい。
ところで、この津守氏、浄道の事蹟が続風土記や法蔵寺縁起に載せられ、かなり人の知るところである。津守氏は、恐らく、摂津住吉神社津守氏の分れであろうが、何時のころから当地方に住することとなったのであろうか。直接その点に触れていないが、郷土史家故星田義量氏は、その著『法蔵寺開山明秀上人御略伝』に、室町幕府(足利氏)の管領畠山氏の治下となった有田地方に、なお、南朝方の湯浅氏残党がいて辛苦を舐めていた。これを見るに忍びず、明秀上人は民衆教化のため、南朝の忠臣摂津住吉神社津守氏の族、津守浄道を大檀那として法蔵寺を創建したと述べている。同氏も住吉神社津守氏の族と断言しているが、当地方の住人となった時期について明言していない。
ところで、江戸時代安永9年(1780)書写の津木本山八幡宮棟札写、既に引用の嘉元2年(1304)の分に、大願主散位藤原朝臣、大工津守為清とある。嘉元2年は鎌倉末期、このころ既に、津守為清なる人物が本山八幡造営に大工を勤めている。ここにいう大工とは、単なる建築技術者ということでなく、その棟梁,即ち統卒者を意味する。この津守為清は津守浄道の祖先に結び付くや否や、なお、不明とせざるを得ないが、津守氏を唱える家柄の来住は少なくとも嘉元以前ということになる。津守氏の宗家は古代からの名族である。摂津にあっては住吉社を祭祀し、一族の勢力盛んなものがあった(太田亮氏著『姓氏家系大辞典』)。その分脈が当広荘に来住し、名族としてこの地方に重きをなしたことは想像に難くない。そして、当地方諸土豪中でも特にその事蹟、伝承や史料に遺る活躍があったと推想されるのである。先記の如く、天文ごろに広八幡神社公文職となった津守氏は、その左京進の世代に同神社のために随分骨折った模様である (『広八幡宮記録』)。天正9年(1581)、広八幡神社梵鐘が鋳造された。その事業の中心的活動者も津守左京進であった。同銅鐘は元録7年(1694)ごろに改鋳され、現在実見する術もないが、その時書写した古鐘銘は遺っている。天正9年壬辰7月28日、広釜屋西正惣中の工人によって鋳造が成った時のものである。広釜屋は、現在大字南金屋と呼ばれているが、かって、金屋(釜屋)村と称され、鋳物師の村であった。天正のころ、まだその仕事が行なわれていたらしい。前記広八幡神社の梵鐘鋳造には、津守左京進が中心となった外、本衆13人とあり、合力した者113名の名前が並んでいる。その合力者は郡内は勿論、郡外にも広く及んでいることは、銘文写に徴し得るところである。
中世広荘における津守氏の事蹟を詳細に挙げれば、以上の外まだ若干あるが、この辺で止めておく、この津守氏も近世初頭、大阪方に味方して敗れ、一族11名処刑され、所領(広の内80石5斗・柳瀬村114石8斗か)も没収に会い、家門1時断絶。しかるところ、後に、保田庄の貴志家から養子を迎えてこの家名を再興し、広庄名島村に住したと伝えられる(『広八幡宮記録』)。
建守浄道と共に、法蔵寺建立あるいは移建時の大檀那と伝える梅本覚言は、また、現在の広八幡神社創建者と、『紀伊続風土記』の記すところである。次にその記事を参考に挙げて見よう。

「寛文記に当社は、欽明天皇の御宇の創建にして古は広荘3箇1を以て社領とす、相伝ふ此神旧は前田村に鎮り坐せるを応永のころ此地の土豪梅本覚言といふ者あり其領する地を神地となして社を遷し奉る今拝殿の側に覚言の祠あるは旧の地主なるを以てこれを祠るといふ(中略)今応永20年癸巳2月造営の棟札あり此時始めて此地に遷せるなるへし」(以下略)

右に引用の続風土記の記事によると、応永20年(1413)の棟札を以て、この時始めて津木前田から現在の地に遷宮した時のものとしている。しかし、これは同書の誤解に外ならない。応永20年の棟札は、広八幡神社本殿のものでなく、摂社である若宮社・高良社造営時のそれである。因に同棟札銘を左記すると、



紀伊国 在田郡 広庄八幡宮 若宮 武内 2社造営
  応永2年癸巳
  2月下旬 始之

時奉行僧宗長2位公殿 番匠大工助弘五郎 時御政所沙弥道宮大宮殿


上記棟札では、梅本覚言の氏名が見えない。しかし、彼が広八幡神社造営の願主であったという伝えがあったらしいが、現在それを徴証すべきものがない。広荘八幡宮記録・縁起の部にも覚言の名は載せられていないのである。
ところで、この梅本覚言、1説では竹中覚言なりと唱える。その説の依拠する史料として、大体2種を数えている。1つは、かって、当町山本の旧家竹中氏の過去帳である。その過去帳の中に、本空徳応覚言禅定門、文明17年正月13日歿と見えるという。これがまぎれもなく覚言の法名であり、歿年代を明示するものとして、昭和9年(1934)、同家では450回忌の法要を営んだとのことである。その時、法蔵寺から文明院なる院号と居士の称号が追贈され、文明院本空徳応覚言居士というのが、現在彼の法名となっている。もう1つは、広八幡神社神職家佐々木氏が所蔵する文書および記録である。この文書・記録は主に、佐々木・竹中(両氏同族)一族祖先に関するものであるが、その中に覚言と関係あると見られる人物の名が現れる。即ち、竹中氏第15代と伝える久義の兄久正、入道して浄正である。佐々木家記録に「紀伊有田郡鈴屋城主トナル、後中野ニ住ス、中野村法蔵寺開基」と見える。
ところで、上記引用文中、紀伊有田郡鈴屋城というのは、何処がその所在地か不明である。因に同家の記録に、鈴寄城・鈴形城など鈴の字を冠した名詞が多い。しかし、いずれも所在不明でわれわれに取っては幻の城と云う外はない。だが、後、中野に住し中野村法蔵寺を開基するという記事は、どう見ても、覚言を指していると解せられる。時代も大体覚言の時代と合致させている。浄正の弟久義は、明応5年(1496)7月、河州正覚寺合戦に大功ありとの記載から、そのことが窺われる。だが、河内正覚寺合戦というのは、明応5年でない。同2年(1493)閏4月、この合戦に畠山政長は自害し、その子尚順が紀伊に走ることは、日置昌一氏の『国史大年表』等に見えるところである。
上引記録には誤謬や不可解の点が少なくない。従って、当時を語る史料としては、信憑性に聊か疑念無きを得ないであろう。前記過去帳の史料的価値については、実見の上でないと、ここでとやかく云える筋合いでないが、上記佐々木家記録からは、覚言が竹中氏であるとの確証は得るに至らない。さりとて、彼は梅本氏であるとの証明は更に至難といわざるを得ない。 それを徴証する当時の史料は、何んら遺存しないからである。法蔵寺縁起に梅本覚言と記されているが、これも所詮、後世成立の縁起書であるから、全幅の信頼は置き得ないといって過言でない。
しかし、室町時代、上中野に法蔵寺が建立されたころには、この地の土豪として、覚言なる人物は確かに実在したことは間違いないであろう。そして、津守浄道と共に、同寺の大檀那となったこと、また、疑問の要ない事実であったと想う。
広八幡宮記録によると、別当寺であった仙光寺6坊の1つ、明王院歴代住職中に、中野村梅本氏から出た社僧が多い。そして、仙光寺6坊中で最後まで残ったのが、この明王院であった。尤も明治初年の神仏分離のころまでは薬師院も残ってないが、その他は早くに退廃し、近世初期ごろから、広八幡神社別当として、最も重きをなしてきたのが、即ち、明王院歴代住職であった。
この明王院も神仏分離によって急激に衰微するが、いまだその隆盛のころ、梅本氏から幾代か住職が出ている。
そして、広八幡社僧として活動したことは、多言を要しない。
右の如き事情から、案外、梅本覚言説が生れたのでないかとも考えられる。
覚言は梅本氏なるや、将又竹中氏なるや、その結論を得ないまま次に進まざるを得ない。現在までに知見し得た史料からは、俄かに断定し難いからである。もし、竹中氏の過去帳が動かし得ない史料という事実が判明した場合、当然、覚言は竹中氏となるであろうが、それまでは結論を差しひかえておきたい。
次に、竹中・佐々木両氏について若干触れるとしよう。 この両氏は、もともと同族にして、近江源氏の系統であるという。そして、広八幡神社佐々木家所蔵記録の伝えるところでは、この一族の祖は佐々木三郎右衛門信久と称し、鎌倉末期永仁3年(1295)、紀伊守に補せられ、当国に来る。そして、「紀伊日高郡横浜庄由良湊宇佐明神社ヲ創立ス」と記している。だが、この記事にも疑問点が多い。第1、郡名庄名がそれ。古くは日高郡横浜庄由良などと書かなかった。かの地は古来海部郡由良庄であり、その庄内に湊とか横浜の地名があった。それが上記の如き書き方では、聊不条理といわざるを得ない。次に、由良八幡神社創建に関することである。
現在知り得る最古の棟札は永仁4年のもので、上引記事より見た年代とほぼ一致する模様だが、この時の造営奉行は左衛門 源佐能、神主は坂上実綱であった(『紀伊続風土記』)。佐々木三郎右衛門信久の名は見当らない。願主であれば、当然、その氏名が記される筈である。
以上の如き次第で、佐々木所蔵の文書・記録は、もともと史実を語る史料としての価値に疑問がある。従って、佐々木・竹中両氏の祖が、当地方に来住した年代については、なお、不明と見える外はないであろう。だが、室町中期に至ると、竹中氏と推測できる人物が、広八幡神社史料に現われる。それは、明応2年(1493)八幡神社の若宮社修理の棟札においてである。同年8月13日の棟札に、社務掃部と見える。前記佐々木氏記録に、永正12年(1515)9月12日有田郡広那野八幡宮修造に奉行すとして、竹中掃部介輝久が挙げられている。棟札と記録とに22年の差があるが、この掃部または掃部介を称した人物は、恐らく、同1人であった
であろう。その後、竹中氏は釈迦神主として、広八幡神社に奉仕したことは、それ以後の諸史料に明らかである。
ところで、『紀伊続風土記』は、当町宇田の旧家竹中助太郎氏(旧藩時代地士の家柄)のことを叙して、「先祖は宇多源氏近江国の住人竹中半弥明久という文正応仁のころ明久当国に来り所々の合戦に功あり永正年中城州竹ヶ崎合戦の時抜群の高名ありて竹田永吉より感状を送らる今に所持す其裔湯川直光に属して代々竹中釈迦神主といひて広八幡宮の神職なり湯川家没落の時古記武具焼失す天文5年神領の田地用水の事にて直光より免許状あり文書部に載す享保年中荘屋役を勤め後神職は分家竹中氏に譲るといふ」とある。因に天文5年(1536)湯川直光からの免許状、即ち、竹中文書を左に挙げよう。


去大水二湯前」奈田溝損田畑」、成二付而1書之」通名島村谷」渕新湯二立度」旨則湯免溝」代弁湯山之儀」
名島上之明見」神より南原三」町面望法度」申付右之新」湯水関上口」 申者也
    湯川
      天文6年
         6月 直光印
           釈迦神主
           二郎神主
           吉田六郎兵衛


右の古文書は、その前々年、即ち、天文4年2・3・8・9月の4度大洪水。次の年、即ち前年の天文5年6月にも大水のあったことが、小鹿島果編『日本災異志』に見えるが、このようなことで、広八幡神社領田地の用水堰が欠壊して使用不能になったので、新たに構築許可出願に対する許可書であろう。それが、現在も竹中助太郎家に所伝されている。この竹中氏が、続風土記の記すところによると、室町中期文正(1466)・応仁(1467〜68)のころ、その祖明久が当国に来り広荘住人となったとしている。けだし、信頼すべき見解であるまいか。そして、同家は程なく、広八幡神社神主となり、明応以後の棟札、その他史料に現われる如く、累代同神社に奉仕することになるのであろう。現在佐々木氏を名乗る同八幡神社神職家もその一族であり、もと山本の旧家竹中氏も同族であると見られる。現在の神職家が遠祖佐々木氏の苗字に復したのは、確かに近代に至ってである。


因に、広八幡宮記録によって、歴代竹中釈迦神主を挙げると、大体次の如くである。
竹中半弥明久(永正年中) 同半之丞輝久(永正9年神役相続) 同源助久澄(天文年中) 同式部浄久(天文5年神役相続) 同助太郎久通(永禄社役相続) 同弥次郎久綱(天正5年社役相続) 同助太夫(慶長7年相続) 竹中釈迦神主も助太夫の代に神職を分家(中野村住)に譲る。
この分家というのは、現在の神職家佐々木氏の先祖のことであった。そのころはこの分家も本家同様に竹中苗字を名乗っていたことはいうまでもない。そして、近世初期から広八幡神社に奉仕して来た同家は、近世末期ごろにか竹中氏から佐々木氏に改姓したと云う。
竹中氏・佐々木は同族であり、当地方の旧家として、今なお知る人が多い。竹中氏の祖先は、現在の広東町の開拓者として名が知られている。
大永初年、畠山氏を広城に破った日高の湯川氏は、その跡を襲って当広荘領主となることは既に述べた。
この湯川氏の一族が間もなく当地へ入郷し、当荘土豪として、その事蹟が諸種の史料に現われる。それについて悉く挙げる繁を避けたいが、湯川氏の支流である池永氏も、天文のころから広八幡神社社務となり、社殿や拝殿の修復に関与している。1・2その事例を挙げると、天文16年(1547)、同神社拝殿上葺の棟札に社務雲巣軒とあるが、これに湯川忠次郎子息と註記がなされている。永禄12年(1569)、八幡本殿屋根葺替の棟札に「社務池永宗助39才」と見え、それから4年後の元亀4年(1573)、前記拝殿がまた葺替を行っているが、その棟札には「社務湯川忠次郎孫池永宗助43才」とあり、永禄の本殿屋根葺替と同一人物である。
拝殿は22年目に葺替が行なわれ、天文の時は湯川忠次郎の子、元亀の時は同人の孫ということである。つまり、前者と後者は親子の関係と推測できる。そして、宗助が初めて池永を苗字としたのであろうか。それ以前については、いまだ明らかでないが、彼の先代と見られる雲巣軒あたりがその始祖であったかも知れない。
さて、右の雲巣軒の父であり、池永宗助の祖父である湯川忠次郎とは、いったい、如何なる人物であろうか。
日高地方の豪族湯川氏の一族であることには間違いないが、何処に住したか不明である。述べ遅れたが、前記池永氏は、広庄釜屋(金屋)村に住して、その後裔池永大氏が現住する。だが、その祖湯川忠次郎については、広八幡神社棟札以外に、その名の現れた資料が知見に入らない。しかし、想像であるが、この湯川忠次郎こそ、広城の畠山氏が敗れた後、広庄を領して広の地に屋形を構えた広庄湯川氏の初代でなかろうか。この広告湯川氏も、天正13年3月、豊臣(当時羽柴)秀吉の紀州征伐に所領を失ない、一時広の地を離れるに至る。このことについては、既に前章で述べたので此処に繰り返す必要はないであろう。当時の広湯川氏屋形跡1町四方(3600、坪11、988平方米) と記録に見える。しかし、明治初年のころは、その旧跡も新田と称される耕地に化していた。(広村明細帳)
やがて、江戸期に入ると再び広に湯川氏が住み、同家は当地方に重きをなした。そして、その中期のころ、2代にわたって湯浅組大庄屋を勤めている。近世地方史料に名の現われる湯川藤之右衛門2代である。そのころの邸宅は、旧湯川屋形と異り、今の町なかにあった。
『紀伊続風土記』は、広荘の地士湯川了祐を載せて左の如く述べている。
「湯川直光の弟安芸守の後なり、天正中小松原落城の後島村(現在御坊市島)に蟄居し又当所に来る、其裔藤之右衛門宝暦年中地士弁に大荘屋となる、代々地士相続す」湯川直光の弟安芸守とは湯川直信であり、その子直次が日高郡島村に住すと、湯川氏系図(湯浅町湯川章治氏所伝)に見える。それより2代後直章の時、故あって有田郡広村に移るとある。

ところで、前記の湯川忠次郎は、同氏系図の上では誰に当るのか明確でない。しかし、さきにもちょっと言及した如く、中世末期の広庄領主湯川氏その人であったであろう。続風土記編纂当時、なお、その屋形跡は、地元の人々に御殿跡と呼ばれていたらしいが、今は全く知る人もなくなった。ちなみに、湯川氏が広庄を所領するに至ったころからの日高亀山城、後、小松原城主湯川氏を挙げると左の通りである。
湯川光春(初政春、宮内少輔)|直光(民部少輔、又号宮内少輔)―直春(中務少輔)広庄が湯川氏の所領となっていたのは、大体、右3代の期間であったことは間違いない。そして広に湯川屋形を構えていたことも、若干の史料によって明らかである。だが、湯川氏一族中の誰が広に住したか、いまこれを明らかにし得ない。湯川忠次郎なる人物は、その1人であったかも知れない。畠山氏の勢力下から湯川氏のそれに移ってからも、広の繁栄はなお千数百軒を唱えた程であった。
次に梶原氏について簡単に述べるとしよう。同氏の支流は近世前期から飯沼氏を称し、同後期に至り、この広浦大波戸を再築し、湯浅組大庄屋を勤め、その事蹟諸種の史料に現われる外、近世地方史料として殊に重要な覚え書を遺している。名付けて『手鑑』という。
ところで、本家の梶原氏は、その祖先梶原吉左衛門尉ということは『紀伊続風土記』所載の「梶原文書」に見える。はじめ、広に住し、寛永4年の大津波に罹災して、名島に移るという(『紀伊続風土記』)例によって、続風土記を見ると、名島の旧家梶原熊之助のことを叙して、次の記事がある。
「先祖梶原吉左衛門後備前守という広村の郷土なり天正年間豊臣氏の小田原を征する時北条氏政より伊勢国主某を以て加勢を乞ひしより一族を召連れ小田原に至り戦功ありて感状数通を賜はる今別家なりという広村源兵衛というもの所持す、北条氏の敗るる時氏直と共に高野山に遁れ氏直卒去せしより広村に帰り浪士となる其裔南龍公の時地士となる」

広の飯沼家所伝「梶原系図写」によると、梶原吉右衛門尉晴景は、その本国を相州と記し、そして、天正11年(1583)広村において地面を求め居住すとある。彼は文禄2年(1593)5月5日卒、その前年、広八幡神社梵鐘鋳造銘に名を列らねている。父梶原一窓とあるのはそれである(上記系図写にも見える)。
彼は永禄5年・同6年(1562〜63)に、北条氏康から、相州三浦郡小坪郷・同郡岩戸村その他で合わせて3百4捨8貫余の知行を与えられている(梶原文書)。これが、もしや彼の本国を相州とした原因でなかろうか。
もともと、この紀州に関係あった土豪かも知れない。鎌倉時代、既に、湯浅党に連らなる土豪に梶原氏があった(『きのくに文化財』第4輯松本保千代氏「湯浅党雑記」)。湯浅党は南北朝時代天授5年(北朝年号康暦元年)に壊滅したが、なお、その残党は紀州各地にひそんでいた。梶原氏もその類でなかったであろうか。それが、室町末期戦国乱世に、勢力挽回を図って小田原に馳せ参じ、北条氏に加って所々に戦功をたてたが、遂に小田原合戦で北条氏敗北と共に、再び故国に帰来したと想像できる。広に居住の地を求めたのも、何等かの縁故があったからに外ならないであろう。前掲続風土記の記事にも、「広村に帰り浪士となる」とあるは、若干、右の如き事情を示唆していると思われる。梶原吉右衛門尉の子は源吉、後勘右衛門尉公景天正18年(1590)卒、その子源右衛門尉実景は、慶長20年(1615)5月、大阪夏の陣に討死。同月大阪城落城、豊臣秀頼その母淀君ら自殺する。この滅びる豊臣方に、紀伊の土豪達は多く味方するのであるが、梶原源右衛門もその1人であったのかも知れない。

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