広川町誌 上巻(4) 近世史

近世史


 20、近世への出発
   1近世初期の大名と広庄
   2近世初期の広浦の消長
   3近世初期の農民
   4部落差別の発生
   5村の行政
 21、近世の社会と村の生活
   1生かさぬよう殺さぬよう
   2本銀返証文の事その他
   3百姓心得
   4郡奉行春廻り之節読聞書付
   5旧家の記録から
 22、広浦往古より成行覚
   1「広浦往古より成行覚」
   2近世初期の漁村広浦
   3近世中期以降の漁村広浦附大指出帳
 23、津木谷柴草山論争のこと
   1当地方山論資料
   2津木谷柴草山論の顛末
 24、広浦波止場と近世広浦町人の盛衰
   1広浦町人の発生と活動
   2和田波止場と広浦
   3安政の津波と広浦町人
 25、熊野街道宿場の盛衰
 26、南紀男山焼
 27、昔の交流
   1交通の変遷
   2広川地方周辺の古道
 28、近世広町人の文化的活動
   
広川町誌上巻 (1) 地理篇
広川町誌上巻 (2) 考古篇
広川町誌上巻 (3) 中世史
広川町誌上巻 (4) 近世史
広川町誌上巻 (5) 近代史
広川町誌下巻 (1) 宗教篇
広川町誌下巻 (2) 産業史篇
広川町誌下巻 (3) 文教篇
広川町誌下巻 (4) 民族資料篇
広川町誌下巻 (5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表
近世史

20、近世への出発


1  近世初期の大名と広庄


天正13年(1585)豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)が南紀征伐を行ない、各地における旧勢力を悉く打破した。
そして、当国支配の実権を掌握すると若山 (和歌山) 吹上の丘に築城して、異父弟羽柴秀長に与え紀伊国の領主とした。ところが、秀長は既に大和を領し郡山城にあったので、家臣桑山重晴は城代として若山城に入り当国の政治を執った。しかし、慶長元年(1596)重晴は泉州谷川に隠居し、同一晴が跡を継いだが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、河内布施に転封となるや、代って、浅野幸長が甲斐府中から入封した。幸長は入国の翌年から紀伊国の検地に着手し、それが、今も有名な検地帳として処々に遺存している。
幸長の検地に先立ち、秀長時代小堀新助を奉行として紀伊国の検地を実施した際、その石高24万と伝え、これが、近世当国の支配体制の基礎となったが、更に、幸長が石黒半兵衛を奉行として、慶長6年(1601)から実施した検地によって、13万石余を増加し総石高37万6552石となった。当広庄における石高は、5462石6斗2升2合、外に小物成(雑税の対象)21石4斗8升9合、計5484石1斗1升1合と見積られている。当時、広庄は1町14ヶ村から成り、現在の広は町と称され、在田郡内では湯浅と広郡と共に市街地を形成していたことが窺われる。庄内1町14ヶ村各々の石高については、本書産業史篇に記載を譲るが、とにかく、これが領主への年貢負担算出基礎とされたのである。
豊臣秀吉によって、殆んど決定的と見られるまでに中世的封建制度が打破されたが、彼の指令にはじまる検地によって、従来以上に農民は土地に緊縛され自由を奪われる事態が創始された。年貢負担者としての農民には、かつて比類ない程、全く自由というものが認められなかった。
太閤ほど不思議と人気のある歴史上の人物は少ないが、彼ほど巧妙に農民を封建制の鉄鎖に、身動きもできない程堅く繋いで自由を奪った例も少ない。まず、農民の抵抗を排除するために、彼等から刀狩を行ない、武力的に完全な去勢を図った。中世の百姓達は土餌と呼ぶにふさわしい粗暴性と気骨で、惨虐をほしいままにした征服者に立ち向ったが、太閤に去勢された近世初期の百姓には、最早やその力が無かった。そして、絞れば絞る程出る胡麻油に等しいとされた農奴的百姓に零落した。
この農奴的百姓から胡麻の油の如く、年貢を搾取する目的で行なったのが検地である。太閤検地は、近世封建制への途を開いたものであり、その検地帳は、胡麻油的農民登録台帳であった。それをなお一層整備強化したのが、徳川氏の天下になって行なった慶長検地である。
ところで、秀長時代の紀伊国石高24万石から13万石余も打ち出し、37万6千5百52石(慶長検地石高)に増加した幸長も、反面では人心の収攪には相当意を注いでいる。入府した翌年、早速有名社寺に対して年貢地寄進を行なった。当広庄について見ても、広八幡神社には10石の土地を、中野法蔵寺には7石のそれを各々寄進している。ついでに、隣りの湯浅庄の例をとって見ると、深専寺は3石、福蔵寺は1石8斗の寺領を与えられた。
幸長は、特に神仏に信仰が篤かったところから有名社寺に神領や寺領を寄進したと見るより、むしろ、目的は人心の収攪にあったと推測されるのである。
この幸長も慶長18年(1613)死没し、その弟長炭が封を継いだが、元和5年(1619)安芸国広島に移封され、徳川家康の第10子頼宣が駿河国府中から入国し紀伊藩主となった。そして、徳川親藩の中でも特に御3家と称され、尾張藩(61万石)は家康の第9子義直、紀伊藩(紀伊国に伊勢松坂を併せて55万5千石)は頼宣、水戸藩(35万石)は同第11子頼房を祖とし、共に長く諸大名を越える徳川幕府の殊遇を受けた。
藩祖頼宣は南龍院と号し、南龍公の名で今もなおよく人口に膾炙されている。紀州徳川家15代の中で、この広川地方に最も関係の深かったのは、なんといっても初代藩主頼宣と第10代治宝であった。
頼宣は広の海浜にあった畠山氏の屋館の跡に、新たな御殿を建て別業の地とされた。現在養源寺の寺域はそれである。世に広浜御殿の称があった。その近傍に馬場を拵らえ、今も「院の馬場」の名が遺っている。さらに、公共的な事業としては、和田(天王) の出崎に石堤を築いたことである。『紀伊続風土記』巻59和田村の項に
波塘。広村の西出崎にあり、長百20間、巾根敷20間、南龍公広村の御殿御造営の時初めて築せらる。宝永年中高浪の為破却す、御修覆ありて船繋り能き湊となる。
なお、また『南紀徳川史』巻5には
在田郡広浦、かつてしばしば風浪の患あり。寛文中、公命じて馬頭百余間を築く、これにおいて始めてその患を免る、民その徳を思い、祠を建てこれを祀る。(原漢文)

と誌されている。明治22年以前の文献と想像される『在田郡宝物取調帳』に、和田村に藻苅社を記して、南龍公の木像を祀るとある。上掲『南紀徳川史』の民思其徳、建祠祀之とあるのは、おそらく、この藻刈社を指すのであろう。広浦の住民毎年12月某日、海中に藻を刈ってこの社に供納することから藻苅社の名がおこったとの伝えがある。同祠を波戸神さんと称して広浦漁民の尊崇するところであったが、明治末葉の神社合併に際し広八幡神社境内に遷祀されたという。
ところで、広の和田に波戸築堤に際して、人柱が立てられ、その犠牲者の墓があったと所伝がある。寛文年中(1661〜72)頼宣が築堤した時のことか、その後修復に際してのことか、その辺の事情は何等知る由もないが、近年まで墓碑が遺っていたという。この墓碑が現存していればそれを窺い得る可能性もあったが、いまは残念ながら総てが歴史の彼方に消失してしまった。
寛文の頃頼宣の命によって築造された和田波止石堤が、その後宝永4年(1707)の大津浪で大破し、後に寛政5年(1793)から享和2年(1802)まで、およそ10ヶ年の歳月を掛けて復旧工事が行なわれたことは、『広浦大波戸再築記録』に詳しい。(後章で詳述)
とにかく、藩主頼宣によって築造された和田(天王ともいう。牛頭天王を祀っていたから天王の地名がおこった。)の波止場は、その後幾度かの波浪に荒されながらも修覆を繰り返されて、長く広浦住民の利用に大いに役立ってきたのである。
広浦漁民は近世初頭の頃から、西国や関東沿海に出漁したと旧記の所伝であるが、この波戸場ができてからは、専ら此処から出帆したのである。和田海岸に臨む山を「おかた山」と呼ばれたそうであるが、関東や西国に出漁するとき、漁民の妻たちが、この山頂に登って見送ったという。船団が次第に遠く船影が見えなくなるまで手を振って別を惜んだのがこの山頂であったと伝えいう。おかた(御方)という言葉にはいろいろ意味があるが、貴人の妻妾を御方と呼んだ。それが一般庶民の妻にも転用されるに至ったのであろう。和田の海岸に臨む山を「おかた山」と云ったのは、広浦漁民の妻達がこの山頂に登って出港の船団を見送ったことからおこった名称である。
(近世広庄漁民の関東や西国の海洋に出漁したことについては、本書産業史篇漁業史で詳述するから参照されたい。)
ところで、頼宣と広川地方の関係は上述の外、広八幡神社においても知ることができる。それは、寛永19年(1642)8月、同神社本殿内々陣戸張三流、同内陣の戸張三流を寄進。6年後の慶安元年(1648)8月、八幡神社に殺生禁断の制札を建てられた。なお、同3年には石燈籠1対、万治2年(1659)には大和守広道作の太刀1振を寄進され、寛文2年(1662)7月、同神社拝殿および末社等の屋根葺替などを行なわれている。さらに寛文8年(1668)には、弓2張ならびに紺紙金泥大般若経13巻の経函、その他大般若経6百巻の経函、同10年には金燈籠1対・翠簾3流・絵馬1枚等、随分頼宣は広八幡神社のために種々寄進を重ねている。
なお、彼は中世土豪の裔に対する所遇についても特別の配慮をめぐらされた。他藩に余りその例を見ない地士の制度である。入国間もない元和8年(1622)、中世豪族やその有力遺臣の中から、被官や地士を選び、そのとき選んだ地士60人には在地において新知行50石を与えた。これが60人者と称され、それぞれ在地における有力者としての面目がようやく回復がなる。一方、これによって紀伊藩の安全性は如何に高められたことであろう。大名として一国統治上の方便として甚だ適切な措置という外はない。この地士の制度が元和8年以降紀州藩では一層広く行なわれている。本郡においてはこの60人地士が最初10名であった。そして、当広庄では井関村の宮崎安右衛門が60人者の1人として選ばれている(『紀伊続風土記』)。 かつまた、この頼宣時代、広の住人(後に名島村に移る)梶原熊之助家が60人者以外の地士を仰せ付けられた。(右同書)
その後当庄においては地士に取り立てられた者が少なくない。なお、寛永10年(1633)永井惣七の祖先がもと山本村領天王谷において本田高35石7斗を与えられ、別に1村として和田村としたこと、これまた続風土記に記載がある。
以上極めて概観的であるが、近世社会への出発が始まった頃、その時代の封建大名がどのような態度で臨んだか。年貢の増収を図る反面では人心の収攪に極力意を注いでいることを見てきた。特に当広川地方における近世初期の事例を幾つか挙げて略述したが、この限りでは当時の社寺や旧土豪、それに一般民衆まで広くその時代の大名から、むしろ、様々な恩恵を蒙り、比較的平穏に生活を送り得たかに見える。社寺や旧土豪はとにかくとして、一般民衆までそうであったであろうか。
特にその大半を占めた農民はどうであったか。近世封建制度下における農民生活の実態は、今のわれわれの想像を絶した辛苦の連続であった。その辛苦のよって来る原因については、既に一言したが、追って若干具体的に述べたいと思っている。だが、その前に、近世初期を中心に広浦の消長を略叙しておきたい。

2 近世初期広浦の消長


中世末期から近世初期、広庄は意外に繁栄の地であった。庄内でも特に広浦がそれであったのである。湯浅千軒、広千軒、同じ千軒なら広がよい。この理言はその頃の広浦の繁栄を謳ったものである。最盛期には広浦千数百軒と伝承が遺る。もっとはっきりと、千7百軒と記した文献もあるが、後世の記録であるので、疑問の余地なしとは言えない。後章で若干詳しく紹介する予定の地方史料広浦往古ヨリ成行覚』に、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州征伐の頃、広浦千3百軒としている。江戸時代中期宝永4年(1707)の大津浪直前、同年9月改の「広浦家並判帳面」には千86軒と明記。この頃は最早広浦の繁栄も大分下火となっていた。それでも上記史料(湯川小兵衛家旧蔵)のとおり、なお、千軒を超える郡内枢要の地であった。この事実から推測するならば、広浦の最盛期には、確かに千3百軒位は数え得たであろう。
既に述べたことであるが、広浦の繁栄は、室町時代、紀伊国を分国とした畠山氏の一城下町的性格を帯びて発展したことに始まる。その頃からこの地に市場も開設され、海運の業も興った。いまに湊の地名が遺り、南市場北市場の地名が遺るのも、かって商業的中枢の地であった昔日の名残を留めるものである。
室町末期大永の頃(1521〜7)日高の家族湯川氏が、この地方から畠山勢力を駆逐して広庄を所領するが、畠山時代に引続いて、広浦はなお郡内屈指の市場、商品流通の関門であった。ところが、先章でも述べた如く、天正13年、不測の災厄によって、広浦人家の大半が消滅した。後世の史料には天正の兵火説を強調しているが、同年の大津浪も大いに原因していたのでないかと推測される。
それからおよそ十数年後の慶長の初め頃、広浦は千軒余に復旧していたという(「広浦往古ヨリ成行覚」)。その頃、思いの外復旧が早かったのは、西国や東海・関東に広浦漁民が出漁して当時かなりの稼高があったからで、なお、いまだ郡内枢要の商業地たるの地位を保っていたからであったと思う。ところで、いま、記録や文書の上から、近世初期の広浦繁栄を窺うとき、もっとも強調しているのは、当時の広浦漁民の諸国への旅網である。前記 『広浦往古ヨリ成行覚』(寛政6年記)はその点をかなり詳しく述べている。この史料に基づく広浦盛衰史は、後に1章を設けて略述するつもりであるので、若干重複を招くかと思うが、近世初期の広浦漁民の諸国出漁地を記すと、西は日向、肥前、大隅、薩摩。(南は熊野灘。北は和泉。東は駿河、遠江、伊豆、さらに遠く常陸にまで船団を繰り出して、その沿海で漁業を行なったとある。これは漁群を追って次第に九州の果、関東の果てまで及んだのであった。近世初期出漁最盛時には、その網数80帖を数えたと伝えている。そして、その人員、およそ2千数百を越え、3千人にも及んだらしいことが窺える。網1帖につき水主人数3・40人を要したと、前記史料が物語る。
成行覚では、広浦漁民の諸国旅網の始まりを、天正の兵火による地元の疲弊にあったとしている。然し、これは真を伝えたものといい難い。だいたいその頃から、広浦漁民ばかりでなく、畿内・南海の先進地漁民は、西は九州、東は関東方面まで新しい漁場を求めて進出したのであった。その理由については、後章で若干触れる機会があるのでそれに譲るとして、広浦漁民の諸国出漁の動機を天正の兵火に帰しているのは、後世の誤伝であると観てよいであろう。
近世初期の広浦繁栄には、この地方の漁民と商人の活動が相俟って作用したこと、上述でもおよその推測はつであろう。然し、以上の叙述だけでは余りにも粗略に過ぎると思う。他の章との重複や繰り返しとなる恐れもあるが、もう少し述べ足しておきたい。漁業のことについては、一応上記において略叙したので、一方の商業に視点を移すことにしよう。
広の小字地名に湊・南市場・北市場がある。さきにも述べた如く、室町時代、畠山氏の1城下町的性格を有して形成された邑町広は、この地名の残る一帯が、最初に経済活動の中心地として発展した。今その地名の所在する位置を地図によって窺うと、湊は養源寺附近の広海岸東北部一帯であり、北市場はその西南に続き、更に同方向に南市場が所在する。湊は勿論のこと、北市場も南市場も海岸に面して位置している。湊・南北両市場の地名の遺るところは、現在広町並みの中になっている。この辺が中世末期から近世初期にわたるこの地方の商品流通の玄関口であったかと、回顧すると、現在ひっそりとした町並には、最早その頃の面影を想像することもむつかしい。時代の推移の縮図を見るようである。かっては広浦の心臓部であった右の場所も、江戸時代寛文年間(1661〜72)同浦和田に大波戸が築かれ、そこが主要舞台として脚光を浴びるに至ると、いつしか歴史の彼方に身を引く結果となったのであろう。それに代って和田の大波戸場とその周辺は、宝永の大津浪まで諸国廻船の出入に伴い、この地方商品流通の拠点であり、商人活動の檜舞台となった。
寛永大津浪後も和田の波戸場とその周辺は、広浦商業にとって、やはり重要な場所であったが、津浪を境に次第に衰微に向った模様である。ところで、広浦商人は、同浦漁民に劣らない進取の気性に富んでいた。近世早くから江戸や総州銚子などに進出して、その富みが郷里広浦にもたらされた。これが広浦繁栄を助けたところ少くない。隣りの湯浅は、豊臣秀吉が天下人となった時代、既に大阪方面に醤油の出荷を始めたという古い歴史を持つ醤油の産地として有名であるが、この醤油の醸造を銚子に移して銚子醤油の創始者となったのは、広浦の名家浜口儀兵衛(梧陵の先祖)である。浜口家に続いて岩崎重次郎家、その他2・3の事業家があった。(産業史篇を参照されたい)これが湯浅醤油の本場からでなく、その隣地広からであることが注意に値する。近世初期から関東方面に出漁していた関係から、次いで商工業者の関東進出となったのであろうか。
因に記すと近世中期以後であろうが、広浦商人は、随分多く江戸に出店を構えて国元と往来し、広商人の才能を発揮している。なお、大阪・京都などにも店を持っていた広商人も稀でなかった。この広商人のことについては後章において、若干、史料を示して叙述を試みたいと思っているが、とにかく、江戸・大阪・京都と日本経済の中心地に進出したことが、既述の如く広浦の繁栄をかなり支えた。
近世初期の広浦の消長を概観するつもりが、近世後期まで筆が及んだが、広浦が有田郡屈指の商業地として繁栄したのは、さきにも述べた如く、中世末期から近世中期までである。その中で、近世初期の繁栄は最も注目に値するものがあった。湯浅千軒、広千軒、同じ千軒なら広がよい。この俚言は近世初期広浦の繁栄を謳ったものとして、もう1度ここにあげておく。

3 近世初期の農民


近世初期、広庄の農民はどれ程あったのか、また、どのような生活をしたのか、それを直接窺い得る史料は、全くない。その頃の広浦漁民のことなれば、西国や東国に出漁し、その網数80張を数えたという。この網1張に漁夫3・40人が乗り込んだと、前記『広浦往古ヨリ成行覚』に記すところである。しかし、近世初期の農民に関する限り、1言も語るところがない。
ところが、その当時、わが広庄においても、漁民や商人よりも遙かに多数を占めていたのは、外ならぬ農民であったに相違ない。
児玉幸多博士著『近世農民生活史』自序の冒頭に、次の如く記している。
江戸時代において我が国民の8割以上は農民であったから、その生活を正しく理解することは、同時に当時の社会全般を理解するに近いものであり、明治維新の意義をどう見るかについても、この理解が前提となるものである。
近世のわが広庄は、中世末期からの邑町広を中心として歴史の歯車が廻転したと思われるので、他の地方に比較して、やや農業人口が少なかったかも知れないが、前引児玉博士の説との間に、さほど大きな開きがなかったであろう。なお、同氏が述べている如く、その農民の生活を正しく理解することは、同時に社会全般の理解に近づくものであるから、ここに、若干、近世初期の農民について、外部の史料から窺って見たい。
江戸時代の農民といえば、支配層からは、「生かさぬように、死なさぬように」扱われ、「胡麻の油と百姓は搾れば搾る程出るものなり」と搾取され続けて生活した。この時代の農民には自由というものはなかった。為政者は、胡麻の油の如く百姓を搾るために、百姓の生活を規制し、為政者の搾取にあえいだ百姓は、貧故に自ら生活を規制せざるを得なかった。この内外2面から、生活に不自由の枠を強いられた農民にとって、その枠から抜け出す望みが殆んどなかった。農奴といえば少し云い過ぎかも知れないが、でもそれにあまり遠くはなかった。
さて、江戸時代初期、外部から農民生活に規制を加えた実例を「徳川禁令考』によって2〜3示すことにしよう。
寛永19年(1642)5月24日、江戸幕府が発令した覚書 (御触書)を、まず挙げると、

1、祭礼仏事等結構に仕間敷事
1、男女衣類の事、此以前より如御法度、庄屋は絹・紬・布・木綿を着すべし、わき百姓は布・もめんたるへ
し、右の外は、るり・帯等にも仕間敷事、
1、嫁とりなど乗物無用事、
1、不似合家作、自今以後仕間敷事、
1、御料・私領共に、本田にたばこ不作様に可申付事、
1、荷鞍に毛氈をかけ、乗申敷事、
1、来春より、在々所々におるて、地頭・代官木苗を植置、林を仕立候様可申付事、
(註、布とは麻布のことである)
なお、同年5月26日
   覚

1、此以前被仰付候諸法度之儀、弥不相背様に堅可被申付之事、
1、当年より在々にも酒造り申間敷候、但通之町は各別、併通之者計酒売候て、在々百姓ニ売申間敷候、若売申ニおいては、酒道具不残取申事、
1、当年は温飩・切麦・蕎麦きり・麦麺・饅頭等買仕間敷事、
1、当年田畑耕作之儀、念を入仕付候様に、面々御代官之内1村切に堅く可被申付候事、
1、当年は大切之年ニ候、弥百姓むさと遣候ハぬやう可被申付候、不叶御用之儀於在之は、手形を出し遣、早々将明、百姓迷惑不致候様ニ、物毎可被申付候事、
1、在々百姓食物之事、雑穀を用、米おほくたへ候ハぬ様に可被申付候事、
1、跡々申触候通、御年貢納候御米、江戸米ニ納候時分能々致穿鑿、米入用多懸候ハぬ様ニ、名主・組頭ニ堅く可申付、才料不作法成儀仕、小百姓迷惑致候事有之ニおろては、穿鑿之上名主・組頭曲事可申付候、不検儀におゐては、御代官衆可為越度事
1、御年貢米跡々より始申触候、粗糠砕無之様ニ能々念を入、可申付候事
1、跡々も申渡通、郷中ニて諸役入用之儀、小百姓帳を作り品を書付、名主・組頭判を仕、帳面ニ手代押切いたし、渡置可申候、以来小百姓非分仕、出入も於在之は、穿鑿之上曲事可申付事
1、諸勧進弁育売在々堅入申間敷事
右之趣、面々御法度之所、此外にも被寄存候儀は、世間くつろぎのために候間、可申付候


寛永18年(1641)には、全国的な米の凶作、翌19年には麦凶作と打続き、全国的に飢饉の色が濃くなったという事情もあって、右に掲載した如き諸事倹約令が発せられたのであろうが、これは、できる限り農民の米麦消費を抑制して、年貢徴収に支障を来たすことないよう図るのが本意であった。さればこそ、在々百姓雑穀用い、米多く食うてはいけない。百姓は酒を造ってはいけない、百姓に売ってはいけない。たばこは本田に植えてはいけない。温飩その他加工食品を買ってはいけない。その他衣類等も麻布・木綿以外はいけないなどと、随分細部にわたって農民生活に規制を設けている。
百姓は、封建制領主にとっては、年貢生産の道具であったから、土地に縛り付けておく必要があった。*寛永2 10年3月11日、土民仕置覚が出され、衣食住その他に規制が加えられると共に「田畑永代之売買仕まじき事」が定められた。
だが、右の土民仕置覚の中に「地頭・代官之仕置悪候て、百姓堪忍難成と存候ハは、年貢皆済致し、其上は近郷成共居住可仕、末進無之候ハば、地頭・代官構有間敷事」と、甚だ注意すべき1項がある。百姓は年貢さえ済ませば、嫌な土地を離れて、近郷へなりと移住は勝手。その時は地頭・代官たりとも文句はいうまいと述べている。後に掲げる慶安の御触書にも、その末尾のところに「年貢さえ済まし候得ハ、百姓程心易きものハ無之」という有名な1句がある。近世封建社会の為政者は、百姓に対して年貢完納以外に期待するところはなかった。その反面、百姓が年貢減免のためにする行動は厳しく規制された。上記土民仕置覚の中に「百姓年貢方為訴訟所をあけ、欠落仕者之宿を致ましく候、若相背は、穿鑿之上曲事ニおこなふへき事」と、巧に側面からも農民の年貢減免運動を抑制している。
ところで、この近世農民搾取の基礎作りをしたのは、豊臣秀吉である。即ち、太閤の検地であった。彼の検地については、既に触れたが、天正10年(1582) 農民支配の基礎を強化するため、全国統一的に行なったに始まる。1枚1枚の田畑・屋敷など土地を測量し、面積・等級(上・中・下・下々)・生産高(分米)を公定して、年貢微収の基礎とした。この検地を記録したのが検地帳で、1筆毎に地名・等級・面積・石高・作人などを記している。江戸時代慶長~元和年間(1596〜1623)にも改めて行なわれ、紀伊国では、浅野幸長の時、慶長6年(1601)から実施された検地が慶長検地として有名である。その検地帳が残っている村も処々に見掛けるが、当広川地方では、遂に発見に至らなかった。
検地は農民支配の体制強化であったから、当然、農民の反抗があった。これを封じるため行なったのは、豊臣秀吉の刀狩りである。天正16年(1588)の刀狩令は有名。農民の武器を没収して武力反抗を未然に防ぎ、従順な年貢負担者に仕立て上げることを目的とした。
中世的封建支配体制を打破して、近世的封建支配の基礎を樹立した秀吉のことを述べたついでに、彼の農民土着策を挙げよう。それは、農民の身分的制限と、転出・転業の禁止である。天正14年(1586)正月、秀吉は百姓が年貢や夫役などを遁れるために隣国他郷への逃亡者を隠匿した場合は本人は勿論、その在所中曲事たるべき旨を規定した。同19年(1591)8月、同じく秀吉は、百姓が田畑を打ちすて、商売あるいは賃仕事に出る者があれば、本人は勿論、地下中成敗を加うべしと規定している。
松好貞夫氏はその著書『村の記録』(岩波新書)の中で、この秀吉の農民政策を次の如く述べている。

「中世の百姓達には、まことに土匪とよぶにふさわしい、粗暴であるが、気骨にみちた性格があった。征服者はもとより惨虐をほしいままにして省みなかったが、百姓達もまた殺伐に立ち廻って、彼ら自身の生活と世界とを守った。信長の天下統一の事業をうけついだ秀吉は、周知のように百姓どもの武装を解き、検地を施して百姓を土地に縛りつけ、これをそのまま徳川の手に渡した。百姓達はいつのまにか『農奴』に再編成されていた。

いま農民と呼ぶ、当時の百姓は、どのように観られていたか、それを、参考までに記すと、先記の如く「百姓は活かさず殺さず」(「経国本義』)。 「百姓は財の余らぬ様に不足なき様に」(『日佐録』) 「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」(『西域物語』)。「牛馬にひとしく」(『民間省要』)。など、農民の人格を尊重したものは無い。だが、西川求林斉(如見、1648〜1724)の如く、百姓とは、「士農工商の四民総ての名」なりと正当に意味を説いた学者もいた(『百姓竃』)。
さて、再び江戸時代初期に舞台を移して、徳川幕府は、農民生活規制をどのように演出しているか、さらに前記「徳川禁令考』の中から選んで観ることにしよう。この場合、最も有名な「慶安の御触書」を見逃す訳にはゆかないであろう。
慶安2年(1649)2月26日、諸国郷村へ被仰出た触書である。全32箇条からなっており、相当長文にわたるので、到底、全文を掲載する訳にゆかないから、重点的に抄録するに止めたい。

1、公儀御法度を怠り、地頭・代官之事をおろそかに不存、扱又名主・組頭をハ真の親とおもふへき事、
1、ゆ耕作に精を入、田畑之植様同拵に念を入、草はへさる様に可仕、草を能取、切々作之間江鍬入仕候得ハ、
作も能出来、取実も多有之、付、田畑之堺ニ大豆・小豆なと植、少々たりとも可仕事
1、同朝おきを致し、朝草を刈、昼ハ田畑耕作にか、り、晩には縄をない、たわらをあみ、何にてもそれくの仕事無油断可仕事、
1、酒・茶を買のみ申間敷候、妻子同前之事、
1、の里方ハ居屋敷之廻りに竹木を植、下葉共取薪を置候ハぬ様に可仕事、
1、8万種物秋初ニ念を入、るり候て能種を置可申候、悪種を蒔候ハ、作毛悪敷候事、
1、の正月11日前ニ毎年鍬のさきかけ、かまを打直し、能きれ候様ニ可仕、悪きくわにてハ田畑おこし候に、はかゆき候いす、かまもきれかね候得ハ、同前之事、
1、耐百姓ハ、こへ、はい調置候儀専一ニ候間、せっちんをひろく作り、雨降り時分水不入様に仕へし、それニ付夫婦かけむかいのものニ而、馬を持事ならず、こへため申候もならざるものハ、庭之内3尺に二間程にほり候而、其中へはきため又ハ道之芝草をけつり入、水をながし入、作りこを致し、耕作へ入可申事、
1、耐百姓ハ、分別もなく末の考もなきものニ候故、秋ニ成候得ハ、米・雑穀をむさと妻子ニもくハせ候、いつも正月2月3月時分の心をもち、食物を大切ニ可仕候ニ付、雑穀専一に候間、麦・粟・稗・菜・大根、其外に而も雑穀を作り、米を多く喰つぶし候ハぬ様に可仕候、飢饉之時を存出し候得ハ、大豆の葉・あつきの葉・ささげの葉・いもの葉など、むさとすて候儀ハ、もったいない事に候、
1、4家主・子供・下人等迄、ふだんは成程疎飯をくふへし、但、田畑おこし田をうへいね刈、又ほねをり申時分ハ、ふだんより少喰物を能仕、たくさんにくハせつかひ可申候、其心付あれは、精を出すものに候事、
1、4男ハ作をかせき、女房/おはたをかせぎ、夕なへを仕、夫婦ともにかせき可申、然ハみめかたちよき女房成共、夫の事をおろそかに存、大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すへし、乍去子供多く有之て、前廉恩をも得たる女房ならハ各別なり、又みめさま悪候共、夫の所帯を大切にいたす女房をハ、いかにも悪可仕事、
1、(23)たは粉のみ申間敷候、是ハ食にも不成、結句以来煩ニ成ものニ候、其上隙もかけ、代物も入、火の用心も悪候、万事ニ損成ものニ候事、


以上繁明を厭わず引いたが、右の外年貢等に関する心得、百姓の処世術、百姓の保健に至るまで事細に指示している。一見非常に親切に見える点もあるが、江戸幕府の農民政策は、できるだけ米麦を多く生産させ、その反面百姓にできるだけ雑穀類を喰わせて米の消費を抑えることであった。そして、百姓から完全に年貢を取り立てることであった。たばこを呑むな、酒呑むな。美貌の妻でも派出好の女は離縁せよ。子供が多くて暮しに困るものは人にやるなり奉公に出せ。などと随分立ち入った干渉の仕方である。そして、「男は作を稼ぎ、女房はおはた(機)を稼ぎ、夕なべ(夜業)を仕り、夫婦とも稼ぎ申すべし」と百姓夫婦は夜まで労働しなければならないものとしている。これが習慣となって、農家の夜業は、つい近代まで続いてきた。さらに、その上、農家の嫁は地味でよく働き、絶対服従を美徳とし、少しでも派出気味な女性は農家の嫁として失格とされてきた。
慶安の御触書は、完全に守られたか、否か、詳らかでないが、少なくともこの精神は、近世封建制農村社会を経て、近代農村社会にも、かなりの影響力を及ぼしていたのは事実である。近世封建制領主の亡霊が、長く近代農村社会の中においてでも、なお、蠢いていたといえるのでなかろうか。
なお、紀州藩でも大体同じような御触を出している。『南紀徳川史』服制第2によって、藩政時代初期、百姓衣類の制限が窺える。当地方の農民も、この掟に従わざるを得なかったであろうから、左に引くことにしよう。

御領分百姓共へ可申付覚
1、大庄屋着類之儀絹紬は不苦候、附女房可為同前事
1、小百姓之分は木綿布かみこ外不可着事
附女房可為同前事

1、大庄屋総百姓之女房娘嫁之帯はさやちりめんはふたへくるしからす候巻物之類ぬいはくの帯堅く可為無用事右之外何にても為奢儀仕候は可為曲事者也
  寛永18巳5月廿6日
     後藤弥2兵衛
     海野兵左衛門


右の両名は、当時の紀州藩勘定奉行。さらに、次の如き細目を示した条文が見える。
1、もめんかつぱにびろうどり無用の事
1、びろうどの袖つき無用の事


右に引用の条文について、特に説明の必要はないであろうが、衣料の中に「かみこ」という聞き馴れない言葉が出て来る。若い人達には馴染のない品名であろうから、これだけは説明しておこう。
紙子または紙衣と書く。紙製の衣服のことで、『広辞苑』には、厚紙に柿渋を塗り、乾かしたものを揉みやわらげ、露にさらして渋の臭みを去ってつくった衣服。もとは僧が用いたが、後には一般民用となり、元禄の頃には遊里などでも流行した。と詳しく述べられている。
ところで、一般農民は木綿・布・紙子などの衣服より許されなかったが、同じ庶民でも、町人の場合は多少事情を異にした。比較のために前掲『南紀徳川史』から引くとしよう。

下衣類之御定
1、町人衣類年寄頭立候者は着候はて不叶時は、御公儀御定の通さやちりめん平縞はふたへ常は絹紬可着用なみの町人は絹紬着用可仕事
1、町人召使仕候者繃布木綿帶同前之事公儀御定之党
1、庄屋は絹紬女房共に帯同前
1、小百姓は布木綿女房共に帯同前
如此御領分へ弥堅可有御申付候将又庄屋の娘たりとも小百姓の女房に成候はおつと同前にて可有候間左様御心得御申付可有候
1、町人りんす巻物之類御法度但さや平島ちりめんはふたへ不苦
如此御定にて候へ共町人の内にても年寄頭立候者は此通なみの町人は絹紬可然候年寄之者も常はきぬつむぎにて可然何とも着候はて不叶時御定之通尤に候兎角結構に無之様に御相談候て御申付可有候
1、町人召遣之者は絹紬木綿布同断
如此御定にて候へ共町人召遣候者は布木綿にて可然候加様の段は公儀の御定より御領分などにて弥うち (ば)に物こと軽く有之様にと思召候左様御心得可有候


江戸時代、士農工商と、百姓は武士に次ぐ身分に格付されているとはいえ、その実、工商、即ち、町人に及ばなかった。上に引いた衣類の掟においてもそれが窺える。百姓は年貢負担者として、身分だけは町人より上におかれた。却ってそのために、質素な生活を強制されたのであった。絹物は一般百姓が身に着けるものでなく、米はむやみに食うものでなかった。それが封建制時代の農民の姿であった。凶作が続けば、すぐ飢えて死ぬのが、百姓であり、年貢未進となれば娘を売るのも百姓であった。
さきにも述べた如く、中世の農民には土旺に似た粗暴さと気魄があった。しかし、近世の農民は太閤秀吉に去勢され、徳川幕府の百姓農奴化政策に全く浮ぶ瀬もない底辺社会に緊縛されてしまった。そして、娘を売ってでも、封建領主のために年貢米上納を義務としたのが、農民の負わされた運命であった。

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4 部落差別の発生  ―農民対策の一方便としてー


上に見た如く、近世封建制社会における農民は、当時の支配層からは、単に年貢生産の生きた道具にしか視られていなかった。
この農民達に不満を抱かせないために、身分を士農工商の順に置いたが、実質的には工商以下で農奴に等しかったこと前述のとおり。農奴同様の封建制時代の農民達に、この不平から眼をそらさす方便として、士農工商の次に穢多・非人なる身分を置いた。
苛酷なまでに農民から年貢を取り立てたために、江戸時代には、全国各地において、幾多の百姓一揆が蜂起したことが、従来の研究書にも明らかである。
江戸時代百姓一揆があるたびに、その主謀者が捕えられて、たいていは処刑された。この人命を犠牲にして農民の得たのは、いくばくかの年貢減免であった。そして、その時、為政者が農民達を諭告して云うことは、およそ、想像がつく。そちらは、この御政道に背いて百姓一揆を起すとは、もっての外である。本来なれば、その方ども悉く罪科申し付ける筈のところ、このたびは、お上特別の御慈悲により許しつかわすであろう。有難く思え。そして、以後決して、かかるふるまいをするでないぞ。そちらが毎日田畑を耕し安穏な暮しを送り得るのは、御 上御政道のお蔭であることを肝に銘じよ。この御上の御恩に報いるため年貢を納めるのは当然である。心得違いするでないぞ。
なお、よく存じおろうが、士農工商、といって、武士の次ぎにそちらがある。この士農工商の下には、まだ、穢多・非人という低い身分がある筈。それを思えば年貢減免など訴え出ることなど不心得も甚しい限りである。

と、大体このような意味のことをいって、百姓達の年貢過重に対する不平不満を押えたのであった。
農民対策の一方便として、封建制支配者は、社会構成の中に穢多・非人なる身分をつくり、それを利用したのである。この人達は、たいてい農耕者でなく、業者が多かった。そのため、年貢負担の責任を免除されていたのを普通とした。その代償に身分を低く格付けされたのであったともいえる。同じ民族でありながら、封建制支配体制の中で、支配階級の政策の犠牲者となったのは、穢多・非人と呼ばれた人達であり、これを利用して封建制支配者のあくなき搾取に喘いだのは農民であった。この不条理が、近世幕藩体制のもとで、公然と行なわれてきたのである。共に封建社会下における悲惨な庶民階層として、一方は年貢生産の生ける道具たる役割を果し、他の一方は、この農民達の不平不満をそらす道具に利用されてきたに外ならない。両者相共に封建制の被害者であるにもかかわらず、社会的身分を異にしたため、互に反目しあい、反感を抱きあってきたのである。そして、農民は実質的に半農奴的であっても、一応、士農工商という四民の内側に位置を占めていた。片方はその外側に存在したかの印象を与えられていたのである。そのため、自づと差別意識が持たれるようになったのでないかと想像される。この差別意識は、ひとり農民ばかりでなく、四民が等しく抱いたものである。
支配階級は、この身分制度維持のために、職業選択・居住地選択などに規制を設けて自由を許さなかった。牛馬の屠殺、皮革の製造などを穢多の仕事とし、芸能は非人の業として河原者と称した。大体、身分差別は職業によって行なったというのが本当であったと思われる。しかも職業の自由選択を奪われ、その差別から抜け出そうにも途が塞がれていて至難想像に絶するものがあった。
ところで、身分差別というものは、ひとえに近世の所産でない。その起原は遠く古代に遡り、一般人の下に奴婢と称する階層があり、奴隷として人身売買の対象とさえされた。奈良朝の初め大化の改新に際しても、人民を良賤に区別して、班田収授法による口分田の班給に差を付けたことは、さきに古代史のところで略叙したのであった。だが、その場合は、近世封建時代と異なり、農民搾取の苛酷性から眼を逸さすためのものでなかった。一口にいうなれば、弱者が強者に隷属させられたのである。
既に略述したことで判明していると思われるが、近世における身分差別は、封建制支配体制から生まれた政策の悪辣性の一面であった。この旧悪習は、明治4年(1871)の四民平等、差別解消令(穢多・非人の称廃止)によって社会から姿を消すべきものであった。しかるにそれが完全に消滅することなく、今日に至っても、なお、この封建制の残滓を留めて大きな社会問題となっていることは、甚だ遺憾に堪えない。
この差別の由因を追究して、その封建的悪辣性を深く認識するならば、この社会問題も自ずと解決される性格のものである。現代人は皆相当高い知性の保有者である筈。この現代人が過去の残滓を洗い流し、正しい人間関係を創造してゆくにさほど躊躇する必要はあるまい。それが、容易に進まないところが、過去の封建制の亡霊が人心の深奥に巣を作っている証拠に外ならない。同胞差別は人道に背くこと自明の道理である。
さて、少し結論を急ぎ過ぎたため、非道な差別政策から蒙った彼等の生活実態に言及する暇がなかったが、その窮乏は、おそらく、小作農民以上であったと思われる。自由が剥奪され、貧苦に苛まれた彼等の近世社会生活においては、鷹揚な気風の育成される余地がなかったのは当然である。そこがまた、四民に警戒心を抱かせる原因ともなった。このようなことが、必要以上に人間関係に摩擦を起させたのでないかと想像される。

とにかく、現在は制度的に万民平等である。この原則に立脚して、過去の残滓を完全に払拭すべきことはいうまでもない。そして、単に制度の上ばかりでなく、実質的にも万民平等の正しい社会関係を創造して行かなければならないことは、さらに多言を要すまい。
それが容易に進まないとすれば、過去の封建制の亡霊に憑かれた病める魂の人か、この封建的社会構造を残しそれを利用し、低賃金社会を維持せんとする間違った考えの者がいるからに外ならない。
この近世史叙述において、各種の資料を引用することになろうが、その中に差別的言辞のものも混在するかも知れない。だが、前述の如き見解によって、殊更、過去の事実を隠蔽することなく、過去の事実は事実として虚心に取り上げてゆく方針である。過去の正邪を見きわめることこそ、真に歴史研究の使命であると思うからである。
部落差別の問題を、近世初期農民生活と対置してここに述べたのは、この問題の原点が近世初期から封建的支配体制の一環として生れたとの解釈に立つからである。農民搾取の道具として、近世封建制支配層に利用され、それが今日まで別な形で問題を残して来たのである。

5 村の行政制度


前記の如く、近世封建制社会の農民は、衣食住その他冠婚葬祭に至るまで、総て生活面に規制を設けられ、その枠内で暮らすことを強要された。
ところで、為政者の意志が、どのような経路で末端農民に伝えられたか。即ち、村の行政はどのような組織で、どのような方法で行なわれたか。村の行政制度について、左に簡単な説明を試みることにしよう。
幕府では、直轄領を支配するために、勘定奉行の管轄下に郡代、または、代官をおいた。紀州藩の場合では、各郡に郡奉行が置かれた。なお、代官も併置されていたことが、諸種の史料に現われている。だが、寛政11年(1799)5月からは、ただ、代官のみが置かれるようになったらしい。有田郡における郡役所は、最初、当広庄広であった。郡奉行・代官の職務は、一般民政で年貢の収納・河川堤防の修理および農業や農民生活の状況把握など。そのため折々支配地を巡視して民情査察を行なった。
江戸時代、庄(荘)は、ただ、名のみで行政の単位でなくなり、それに代って組が置かれていた。本郡においては5つの組が編成され、広庄は湯浅庄と併せて、最初、広組と称した。後、湯浅組と改称される。因に、郡内他の4組を挙げると、藤並・田殿の2庄を藤並組、宮崎・保田・宮原・糸我の4庄を宮原組、石垣庄は石垣組、山保田庄は山保田組と称した。そして、組の下に幾つかの村が所属していた。
さて、組には大庄屋が置かれ、村には庄屋が置かれた。
大庄屋  たいていの場合、地元の名家か地士が任ぜられて、世襲が多かった。そして、大方名字帯刀を許され、郡奉行や代官の命を受けて、組中の村々を統治したのである。その職務内容は村政の総てに関係し、村方における威勢頗る高いものがあった。さらに、大庄屋の職分を少し具体的に記すと、郡奉行(代官)からの布達(口達や御触書など)を組内各村庄屋を通じて村民に諭告し、また、庄屋を経た諸願出・諸届出類を進達すること。年々組内の切支丹改、年貢諸運上等の公納取立、毛見・減免、貸渡等の一切の業務。郷普請の監視や世話、組割・村割の賦課徴収。組内の秩序維持や小事件の公事訴訟の吟味裁決。組内弱小百姓の救済。農事奨励と博奕の禁止。田畑山林の本銀返し並に質入の承認。毎年4月組内の治積耕作状況等の報告など、さきにも言及した如く、村治の総てにわたった。
この大庄屋の助役として、主に記録を受持つ杖突と呼ばれる役があった。郷普請の際などには、現場に出張して、工事監督を行なったり時には農耕の指導も行なうことのできる才幹のあるものが選ばれた。

庄屋  組下各村毎に1人づつ置かれ、大庄屋の指図を受けて村治に当った。これも世襲が多く、村民からは生屋殿と呼ばれて、その家は特別な尊敬を受けた。なお、庄屋の家は、役宅と称して、村政を取扱う所であり、村政一切の書類がそこに保管された。それが、引継の場合は厳重に行なわれたのである。
肝入(肝煎)  右の庄屋補佐役として、肝入という役が置かれていた。
当地方が広組、または湯浅組と呼ばれた当時、同組下には23箇村が所属していた。そのうち、16箇村は広庄、7箇村が湯浅庄に所在した。ここに広庄内の村名を掲げると、広・和田・山本・西広・唐尾・中野・金屋・中村・名島・柳瀬・殿・井関・河瀬・前田・下津木・上津木である。大体、現在の大字と一致している。(ただし、現在、和田は大字でなく広に含まれている)。
右村々の庄屋は、毎年の年貢のこと、百姓の土地売買や質入の証印、村普請や水利の指導監督、耕作や村民の生活全般にわたる指示。大庄屋から達しのあった御触書や定書は、必ず村民を集めて伝え、それを遵守するようよく申聞かせた。そして、特に庄屋の重大任務は、村内から年貢遅滞百姓を出さないことであった。庄屋は村の長として、百姓達の面倒を見ると同時に、村役人として、藩行政最末端出先機関も兼ねていたのである。
近世における村の統治運営は、上記庄屋、および、その補佐役肝入、後に年寄(本百姓代表)が加って行われた。
これらの役職にあるものを村役人と称し、一般百姓に許されなかった絹物の着用が、特に庄屋には許されたことは、さきに掲げた寛永年中、幕府から出された覚書にも明らかである。
なお、近世における村治の最末端組織としては、5人組制度があった。
5人組  領主が村の中につくった近隣5戸1組の治安・連帯組織である。 治安の維持・年貢の連帯責任・土地質入の場合の立合、その他、日常生活の重要面における5人組仲間の連帯責任組織として重要な役目をなした。

この5人組の頭を5人組頭と呼んだ。
さきにも述べた如く、領民の連帯責任制度を採用し、個人の自由を束縛する政策をとったのである。

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21、近世の社会と村の生活


1 生かさぬように殺さぬように


既に幾度か言及した如く、近世封建制領主の農民に対する考え方は、「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど取れるもの」であり、そして、農民からの搾取を永続さすためには、即ち、「生かさぬように、殺さぬように」であった。胡麻の油は1滴も残さないように絞れば、それが上手な絞り方であったかも知れないが、百姓からの年貢は、例え百姓と胡麻の油はと一口にいっても、そこにおのずから相違があり、限界を越えない程度にというのが年貢徴収上の金科玉条であった。その金科玉条というのが、外でもない「生さぬように殺さぬように」であったのだから、封建社会の農民は生きてゆくのにやっとという程度の保有を認められたに過ぎなかった。それも米を食わずに麦や雑穀、野菜類を食糧として、米は年貢米に取っておくものとした。
太閤検地の広庄石高はどれ程であったか、それを知る史料に接し得ないが、徳川幕府の時代となって、紀伊国が浅野幸長による慶長検地では、本途物成で5462石6斗2升2合、小物成は21石4斗8升9合(米換算)である。これが、年貢負担の基礎となる村高の合計であって、各村高については、産業史篇との重複を避けるために省略する。ところで、年貢には、本途物成と小物成の別があるので、ここに簡単な説明を加えると、本途物成は、田畑の耕地生産にかける年貢であって、本年貢を意味する。田の年貢は米で納め、畑の年貢は普通銀納であった。米石高で挙げられている畑作年貢を銀高に換算して納めた訳である。小物成は、山野河海の用益や地方の特産物に課せられた雑年貢であった。これも米石高で示されていたから、銀高に換算して納めた。この広川地方の検地帳が発見されていないので、小物成にはどのようなものが対象になっていたか不明であるが、上記した如く21石4斗8升9合が小物成の課税対象額と定められていた。
叙述が少し前後してややこしいが、太閤(豊臣秀吉)時代、収獲高の3分の2を年貢として徴収するよう定めが出されている。この時代は紀伊国領主は、秀吉の異父弟羽柴秀長であった。その家臣桑山重晴が城代として若山城にあって政事に携っていた。収獲高の3分の2が年貢、3分の1が百姓の分という定めが、おそらく、わが紀伊国でも適用されたであろうと推測して誤りないであろう。ところで、太閤検地による紀伊国石高は、24万3千550石(古島敏雄編『日本経済史大系』)であった。秀吉は諸国の大名に対して、郷の隅々まで見逃すことなく検地を行なうよう指令しているが、紀伊国では上記の如き石高で、その後10数年を経て行なわれた いわゆる慶長検地に比較して13万3千石少い。慶長検地における紀伊国石高は37万6千552石。この時こそ、村々の隅から隅までおよそ見残すことのない検地であったであろう。それが、わが広庄では本途物成と小物成を併せて5千484石強と見積られたのである。
太閤検地から慶長検地までの間およそ10数年。この短期間にそれ程開墾が進められたとは思われないし、収獲高にしてもさして増加していた訳であるまい。すると、やはり太閤検地にはかなりの見残しがあったと考えられ百姓側からすれば、ある程度の余田があったことになる。収獲高の3分の2を年貢といえば過重というより、むしろ苛酷そのものであるが、若干、余田があったとすれば幾分は救われたことであろう。

徳川時代初期、紀伊国は浅野幸長によって1挙に37万6552石と大幅に打ち出された。年貢徴収率は前代程過重でなかったかも知れないが、百姓の負担額は決して軽減された訳であるまい。13万石余の石高増加によって、むしろ、負担額の増加を見たと想像して差支えないであろう。この石高制は長く紀伊藩経済の基盤になったのであるから、この石盛りが百姓の肩に重くのしかかって、彼等の窮乏生活は宿命的なものとなった。
農民を土地に緊縛する政策は、豊臣秀吉によって検地という方法で始められたが、秀吉の跡を襲って天下の覇権を握った徳川家康、その子孫によって永く引き継がれた江戸幕府、その大名達によって、この制度が守り続けてきた。
近世農民は年貢生産者として、土地に緊縛され、耕地の所在する村から自由に離れて好きなところで住むということは、たいていのことではできなかった。年貢の過重に耐えかねて、この苦境から抜け出そうと、村からの逃亡を企てる者もしばしばあったが、それがどの程度に成功したか。非常に探索が厳しかったから、おそらく、逃げとうせた者は少なかったのでなかろうか。年貢末進となれば、牛を売り、娘を売り、田畑を低当に借金してでも、とにかく、年貢を完済せなければならない厳しい封建制社会であった。「年貢さへ済まし候ハバ百姓程心易きものなし」とは、江戸時代の為政者の言であるが、この年貢を済ますことが、当時の百姓にとって容易でなかった。場合によっては上記の如く、娘や田畑まで金に換えて年貢に充てなければならなかったのである。逃げ出したくなるのも無理はないといえる。
ところで、さきにたとえ村から逃亡を企てても、果してどれほど成功したであろうかと、その冒険的な行動の結果をあやぶんだが、享和年間(1801〜03)の庄屋御用留帳にも、逃亡者のあったことが散見する。それには逃亡者の村名、その名前、年令、人相および服装など事細に書き上げられている外、家族連れの場合が多かったからその妻子の特徴をもあげている。大庄屋からの通知を控えたものであるから、大庄屋が各村庄屋に対して同様に触れを出し、一般へも捜索に協力させたことが窺える。
当地ではたまたま享和年間の例しか知り得ないが、近世封建制時代には、過重な年貢に堪えかねて逃亡を企てた百姓が跡を絶たなかったであろう。とにかく、この時代の農民は農奴ともいうべき実態におかれ、生かさぬよう殺さぬようの農民政策のため、子々孫々、貧苦の生涯を余儀なくされたのである。
以上甚だ一般的な叙述に終始し、広川地方史の域を越えたが、この広川地方の農民も例外でなかったことをいっておきたい。

2 本銀返証文之事その他


近世地方文書で、最も多数を占めているのは、本銀返証文である。これに次いで多いのは売渡申田畑 (山林) 証文と質入証文である。この証文に貧しい農民の涙の跡を見る思いをする。
本歴史篇近世史の史料蒐集に際して、最も数多く触目したのは、右の如き証文類であって、その多量なることに一驚せざるを得なかった。近世地方文書は、殆んどそれであったといって過言でない。
多数触目の中から、2〜3例示してみよう。


本銀返し証文之事
 唐尾村藏谷
1、新田11ヶ所
  元禄6西改

  下々田6歩 高1升
   同改
  下々田6歩 高1升
   同改
  下々田6歩 高1升
   同政
  下々反田3歩 高5合
   同改
  下々田6歩 高1升
   同改
  下々田3歩 高5合
   同改
  下々田6歩 高1升
   同改
  下々反田3歩 高5合
   同改
  下々田6歩 高1升
   同改



  下々田6歩 高1升
   同改
  下々田6歩 高1升
   此代銀270目也
右新田私所持仕候得共要依有之銀270目当月上来申4月迄本銀返しニ相定候上ハ只今ヨリ左之新田并御年貢諸役等其方可為支配候右年符之内ニ本銀相済候ハバ田地無相違返し可被申候、この年符過候ハバ此証文ニ而弥支配可被致候、右新田ニ付何方占構妨無御座候罷障生儀出来候ハバ判形人罷出急度埒明可申候、為後日証文仍而如件
  本人有田郡唐尾村
        半九郎印
  元禄16年未4月
    証人同村 彦三郎 印
    同村庄屋 三郎太夫 印
    同村肝煎 与左ヱ門 印
    買主同村 太左ヱ門殿
右之通相違無之候段郡奉行所衆へ申達候已上
    湯浅組大庄屋
         橋本治右ヱ門
右御代官八障無之候已上

    田所平左ヱ門手代
         古屋七十良

 本銀返証文之事
西広村領かし長
  一新田7ヶ所
御帳三右ヱ門
50 12田5畝9合 高6斗3升6合
    東ハ藤介田限り、北ハ出限リ、西ハ利兵衛田限リ、南ハ山添限リ
  御帳同人
58  11田2畝12歩  高2斗6升4合
  御帳同人
59  10田2畝12歩  高2斗4升
  御帳同人
60  11田4畝12歩  高4斗9升5合
  御帳同人
61  10田2畝6歩  高2斗2升
  御帳同人
77  6田1畝3歩  高6升6合

  御帳同人
78  6田1畝歩  高6升
  右6ヶ所 傍示 東ハ道限り北ハ池限り
    西ハ  南ハ善兵衛田限り
新田高合1石9斗8升1合
    内8斗2升8合  定1  分
 右代銀貫也
右ハ要用依有之我等所持之新田其方人相渡右之銀子請取当巳正月より来午ノ正月迄2年之間本銀返しニ相定候上ハ只今ヨリ右新田并明年当諸役共其方可為支配候 右年賦之内本銀相済之新田無相違御返し可有之候、年賦過候之此証文ニ而其方亦支配可被致其節ハ申分有之間敷候ハ何方ヨリ構妨無之候、 若障儀出来候ハバ、此判形人罷出急度埒明可申候為後日御証文如件
  享保10年巳(1725)正月
      本人唐尾村三右衛門印
      同村5人組頭由右衛門印
      同村庄屋 藤九郎印
      西宏村庄屋六右衛門印
      同村肝煎 五郎太夫印
      唐尾村買主源次郎助殿
  右之通相改相違之候段郡奉行所申達候

  湯浅組大庄屋 藤新右衛門印
右 代官所入障無之候 以上
    片山吉兵衛手代  湯川善六 印

   本銀返し証文之事
  猿川領
1、本田畑合12ヶ所也
    東西ノ道限リ
  但し傍示南ハ源蔵田地岸限同伝蔵田地
      并用水溝限
    北ハ用水溝限り
  野中古新田
116  14見付畑27歩  高3升7合  利兵衛
  同所
117  18見付田18歩  高4升8合  同人
  同所
118  1下々田27歩  高8升8合  同人
  同所
126  1中ノ下田2畝3歩  高2斗5升2合
  同人

  同所
131  1中ノ下田27歩  高1斗8合  同人
  同所
132  1下ノ上田24歩  高8升8合  同人
  同所
135  16見付畑6歩  高1升2合  同人
  同所
136  1中ノ下田3畝24歩  高4斗5升6合 同人
209ノ内  1茶2斤90匁  高1斗4升7合 孫九郎
是ハ20斤高1石2斗之内
    東ハ道かぎり西ハ源蔵田地弁溝限り
  但し傍示
    北ハ源蔵田地かぎり南ハ伝蔵田地かぎり
  同所
112  1中ノ下田3畝11歩  高4斗4升4合  利兵衛
  同所
192  1中田氏11歩  高9升2合  同人
  同所

123  1中田3歩  高1升3合  同人
  田畑高合1石7斗7升6合
  内 田高1石7斗2升8合
    畑高4升8合
此代銀885匁也
右者要用依有之我等所持之田畑其方人相渡し代銀受取申処美正也、当西正月与来儿戌正月迄式今年之間本銀返し相定候上ハ只今五右田烟并御年貢諸役共其方支配可致候年賦之内本銀相済候無相違御返可有之候、年賦過候ハバ弥支配可被致候、其以後1言之申分有之間敷候、尤何方よりも構妨無之候若障儀出来候ハバ此判形人
罷出急度埒明可申候為後日仍征文如件
  天保8  西正月
      売主 猿川傳藏
      同所5人組
      御証人  要助
      同所庄屋甚右衛門
      同所肝煎 林兵衛
      同所買主長右ヱ門

  賣渡申山林證文之事
猿川領野中山
  山林1ヶ所也
    東湯浅村四良兵衛山林際目限

西十兵衛山林并井関村忠吉山林限
傍示 南峯山道かぎり
北用水溝并道かぎり
但し此傍示之内ニ在所通路之道有
代銀450目也
右者要用依有之我等所持之山林其方へ相渡右代金受取申候趣実正也、然上ハ右山林只今与其方支配可被致候、
尤右山林ニ付外与構妨無之候、若障儀老出来候バハ此判形人罷出急度姆明可申候、為後日之依而売渡證文如件
文政13年寅12月
売主井関村  茂四良 印
証人同村親類  甚吉 印
同村組頭    茂吉 印
猿川組頭   長左衛門 印
買主猿川   長右衛門殿
右致承知候己上
井関村庄屋 半次郎 印
猿川肝煎   源藏 印
同村庄屋 甚右衛門 印
讓證文之事
西廣村領

1本田畑21ケ所
寺谷
87  1 上〃田2反3畝21歩 高4石3斗8升4合5勺 右門太夫
   同
208  1 中畑1畝17歩 高2斗2升    市左之門内
   外ニ6歩 高3升溝床荒
     是ハ4畝歩 高5斗6升之内2人分地
本谷
207  1 下田1畝9歩 高1斗5升6合  市右ヱ門
かいと
596  1 屋敷2畝26歩 高4斗2升7合5勺 市右衛門
是ハ5畝21歩 高8斗5升5合之内2人分地
東谷
206  1下畑3畝9歩 高2斗9升7合    同人
森下
80  1上〃田4畝12歩 高7斗3升4合    八郎右ヱ門
外高4升83寺谷上〃畑返り5畝3歩高8斗6升7合越
高4升、199寺谷上畑返り1畝27歩高3斗4升ノ上へ越

    同
81  1中畑10歩  高4升6合7勺  同人
東谷
209  1上田1畝9歩  高2斗2升7合5勺  市右門
    同
210  1下畑2畝27歩  高2斗6升1合  同人
岩之谷
135  1下〃田1畝18歩高1斗4升4合  近右ヱ門内
外ニ6畝 高1升冬山成荒
是ハ2畝歩 高1斗8升9合ノ内2人分地
226  1中畑8歩 高3斗5合  吉郎兵衛
外1畝1歩 1斗4升7合成荒
寺谷
569  1屋敷2畝25歩 高4斗2升7合5勺 市右ヱ門
是ハ5畝2歩  高8斗5升5合ノ内2人分地
は里う
40式  1上〃田1反3畝15歩  高2石4斗9升7合5勺 二郎太夫
68  1上田1反6畝12歩  高2石8斗9升2合  平右ヱ門

  〃
    為5升8合2勺 563、は里う中田5畝14歩 高8斗7升2合ノ内方与入外ニ3升6
    19は里う上田1反1畝21歩 高2石4升7合6勺ノ上ノ越
はじ方
301  1中田6畝9歩  高1石8合  次郎兵衛
はじ方
305  1上田1畝14歩  高2斗5升5合  五郎大夫
  〃
302  1上田3畝3歩  高5斗4升2合5勺  孫六
  〃
304  1上田4畝歩  高7斗  八郎兵衛
  〃
305  1上田1畝4歩  高2斗  五郎大夫
是ハ5畝6歩  高9斗1升之内3人分地
    〃
322  1中田1反1畝21歩  高石8斗7升2合  次郎兵衛
  〃
312  1下田1反15歩  高1石2斗6升  平右ヱ門

高合18石5斗9升3合9勺
右ハ先年九左ヱ門茂助作太夫新三郎六右衛門并九右ヱ門上ケ村作地ニ而候処当卯極月与其方江讓申候処実正也
然上ハ右田畑并御年貢諸役とも其方支配可被致候其以後1言の申分之間敷候若障儀出来候ハハ此判形人罷出
急度埒明可申候為時日依而讓證文如件
文化4年卯極月
         西広村給代  甚兵衛 印
         同村証人  与右工門 印
         同村庄屋  与太夫 印
         同村肝煎  茂八 印
         同村讓渡主
         法昌寺
右令吟味候已上
         湯浅組大庄屋
         飯沼元右ヱ門 印
借用申銀子之事
1銀3百目
此質物
1、2間半家
5間

右者要用節之候ニ付我等所持之家質物ニ差入右之銀子借用申所実正也返済之儀ハ当申12月与来西6月迄2ケ
年之間元利共急度返済可申候若銀子滞候ハバ右質無相違相渡し可申候然上ハ此證文ニ而右之家其方へ支配可被
致候其已後1点之申分有之間敷候尤何方与構妨無之候若障儀出来候ハ、此證人罷出急度埒明可申候 為後日依
而證状如件
万延元年申2月
         本人池ノ上  太兵衛 印
         〃 證人  喜八 印
   イズ
     伊兵衛殿


右に掲載したのは、夥しいこの種證文の中から、その実例を示すためであって、特に珍らしいものを選んだのでない。このうち、飯沼家所蔵の讓證文之事は、当時、同家の祖先飯沼元右衛門が、湯浅組大庄屋を勤めていた関係で伝わったのであるが、その他は殆んど、債権者の家に所伝されたものである。借用した銀子の返済叶わずして、やむ得ず田畑等手放した百姓の多かったことを示唆している。尤も、飯沼家所蔵の讓證文は、西広村百姓中に、同村法昌寺へ田畑を譲渡する者達があった時の文書であるが、この田畑は、既に数人の村上げ地にして、村作地となっていた。おそらく、年貢負担に堪えかねて村上げ地としたものであろう。
さて、さきにも述べた如く、江戸時代には田畑永代売買禁止令が出されている。それにも拘らず「永代売渡田田地之事」という證文が遺ったり、実質的には売渡に等しい田畑抵当の本銀返し證文が夥しく触目するのは、如何にこの時代の農民は、年貢の重圧に貧苦をなめたかを物語る。田畑のみに止まらず、家屋まで質や抵当に借金しても、大抵、最初から返済の目処がついていない。1種の売渡であった。その覚悟は、金融を仰ぐとき、既にできていたといって過言でない。「1言之申分有之間敷候」と、債権者に対し覚悟の程を明確にして借金し、大方は貸主の有に帰した。
ところで、本銀返し期限中に利息を支払わなければならないが、その利息を下肥で支払を行なう契約の文書も見える(慶応元年=1865)。 当時、如何に下肥(人糞尿)が重要な肥料であったかが窺われる。
近世農業経営上、下肥が重要な肥料であったことに関連して、広庄農民と隣の湯浅庄農民の間に、しばしば争
が生じた。広庄内の百姓が肥車を引いて、隣町の湯浅の町家へ下肥汲みに行くのを常としていた。それを阻止せんとして、湯浅庄内百姓の若者達は、広と湯浅の境で待伏し、遂いには暴力沙汰に及ぶことさえあったという。
広川地方の農民が湯浅の町家の下肥を汲んだのは、近代昭和初期まで続いていた。これ程までにしなければならなかった過去の農業は、如何に辛苦の経営であったか、祖先の労苦が察せられる。
江戸時代から、干鰯や棉実粕のような金肥も使用されたが、なお、かつ、下肥や緑肥・堆肥厩など自給肥料の占める比重が大きかった。別章で述べる如く、当広庄において宝暦年間(1751〜63)、 肥料用の柴草刈山入会権をめぐる大山論が発生している。金肥が出る時代となっても、それを購入して施肥する余裕のなかった
のが、この時代の農民であった。
幕府や藩は、年貢さえ未進なければ百姓程心易きものなしといったが、この年貢完納のために、農民は如何に辛苦したことであろう。繰り返しいうと、本銀返し証文、永代田畑(山林)売渡証文、借用申銀子の証文、質物証文などの類、いま意外に多く触目するのは、当時の農民が背に腹替えられずに借金する者が多かったからに外ならない。

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3 百姓心得





前章において、江戸時代農民心得として、最も広く知られた慶安の御触書を抄録した。
同触書は、永く近世農民生活を規制したばかりでなく、その農民心得は、近代に至ってもなお、金科玉条の如く遵守するのが百姓の美徳とさえする人々がいた。
右の布令は、江戸時代初期幕府から、諸国郷村へ仰出されたものであるが、紀伊藩も江戸中期、郡奉行春廻りの節読聞かせた百姓心得がある。当時の農民生活を窺う上に重要な史料であるから、後に掲げたいと思っている。
ところで、当地の史料の中にも村民生活心得ともいうべき覚書が遺るので、それを左に掲げて参考に供したい。

   
1、御法度之儀5人組常々申合契相守可申事、
1、御年貢納候ハバ其場ニ而庄帳弁通帳へ附庄屋之判を取可申事
1、古米を有之者ハ通帳ニ米之高書付置米を納候通帳ニ付庄屋之判を取可申事

1、田畑屋敷山林等本銀返し之売買ハに質物ニ取候節大庄屋え之留帳ニ付候上證文念入取替し可申事
1、田畑屋敷山林等わけ讓候節ニハ早速 口口 留帳書可し且又ゆ津里渡致置候分ハ庄屋肝煎井5人組之内之判を取置可申事
1、小入用之割ニ成ル義をは通帳ニ付庄屋之判を取可申事
1、人々印判所持致ニ外も内も身をはなし申間敷惣而帳面書付等ニ印判致節其わけを能聞届判可仕候判を人に渡しをき被申間敷事
右之通常久能相守公事出入無之樣可仕者也
  宝永元年(1704)5月
      (唐尾舟瀬忠二郎家文書)


右覚書について、特に註釈の必要はないと思うが、印判の重要性を強調している点、この時代においては、文字の読み書きのできなかった農民も多かったであろうから、よく理由も質さず押印するなと教えている。

4 郡奉行春廻り之節読聞書附


さきに近世初期の農民生活を窺う資料として、慶安の御触書を掲げた。これは徳川幕府の農民統制令として最も有名なものである。例え天領(幕府直轄領) ならざる 当地方の農民と謂えども、この規制の枠を越えて自在な生活 は、とうてい許されなかったであろう。
ところで、近世中期この地方の農民生活を規制した資料の1つが、いま管見に入るので、それを挙げることにしたい。当時の農民はどのような生活を為政者から要求されたか、このことをつぶさに物語る史料として、甚だ参考となるであろう。
宝暦3年(1753)3月の奥付を有する『郡奉行春廻り之節読聞書附』である。文政6年(1823)2月、当庄中野村の西川義助が書写したものが伝えられ、これを左に掲載するにあたり、幾分読みやすくするため少し書き改めた箇所もある。

郡奉行春廻りの節読聞書付
1、兼て仰出され候御制禁能相守申べく候、御法度に背き、都て我意に任せ狼籍違乱仕間敷事
1、農業耕作を本として相応の諸稼油断無く御年貢を大切に心得倹約を相守り兼て御定の通り年内皆済仕るべき事
1、父母に孝行に親類したしみを欠くべからざる事
1、御法度の儀は5人組常々能申し合せ其身は勿論村中へも相示し前々より段々仰出され就中近比は追々仰出候条々御定書の儀村中寄合候節は勿論5人3人打寄候節も御書付をも読聞せ委細に申聞せ末々迄能順い相守り候様致べき事
1、銘々稼ぎを第1にいたし少々も奢費無之様ニ致すべき事
1、家職を疎にいたし国恩を忘れ御年貢の大切なる儀をも弁えず公事出入等をたくらみ奢費を致し或は博奕を致し親への孝をも忘れ所作宜しからず悪事をたくらみ進め廻る者有之に於ては互に吟味致し早々申出べく候村中難儀致しながらも見遁に致置隠置候儀有之品相知れ候は、其身は勿論村中別て庄屋肝煎5人組を吟味に及びその意を札し急度申付べく候間村役人共申に及ばず村中相互に常々改め吟味致し博奕致し其外不届なる者有之候は、隠置かず御定の通り早々申出べき事
1、諸事仰出され候申付を相背き申間敷候て何事にても害に成り妨げを致申間敷事
1、兼々村々申合相互ニ行義作法を冠し不義非道成る儀無之様礼義を以て差合公事出合等に及ばぬ様に銘々慎申可き事
1、公事出入訴訟願事下にて滞を申間敷候願訴訟有之ニ於ては早々申出べく候
  附り公事出入に及ばぬ様兼て相心得掟の通り相守申すべき事
1、火用心盗賊等の用心村中常々申合怠り無之様致すべく候、若手過等有之火事に逢い候ば人々難儀致す事に候へば9、10月の比より明2、3月の内村定書をも致し油断無く火の用心致すべく候、惣て不審げ間敷者入込候はば相改め暫くも所々差置申間敷候、庄屋肝煎平生気を付切々村中打廻り末々迄1眼油断致さぬ様と入念申付くべく候、尤村番太に兼て能申付置不審間敷者徘徊致候はば早々注進致すべく候事
 附り刀を持候者とても胡乱成る義有之に於ては遠慮致間敷事
1、在々若火事有之節人足とも右の場所へ其組により庄屋肝煎召れ参り庄屋肝煎は申すに及ばず大庄屋其外役人ども夫々働候義申付精出させ早く火を消鎮め候義を第1に致し猥成る義狼籍無之様致すべく候、右之趣常々心置申合精出し働候者ハ着到に附申べく候若心得違い見物の様と見え候者には勿論着到に附け申さず其様子相改め置き申出可く候急度吟味に及ぶべき事
1、松山制道の儀入念に申べく候夫々御制禁の義能く相守り御留木御制木は勿論たとひ悪木たりとも少しも鹿抹に致間敷候御指山鎌留山等制道入念に能く生立候様致すべく候、是迄御制木有之御指山も有之候得共山床代指山年々山手米相納め御制木御免自分稼山または新畑等に致候得とも助成にも成候義願上候筋吟味の上段々願の通り申付候事に候、此上存寄り次第願出べく候、吟味之上夫々申付べく都て野山空地等其儘指置申さず稼経営有之様願出べく候、何に依らず存寄の儀は遠慮無く願出べく候夫々吟味の上申付べく事
1、浦山方在々山林伐荒し浦方に別して伐荒し草野を山に致し諸木生立申さぬ所も有之趣に候、右之漁事にも障り或は稼にも相成申さぬ事に候、能々相心得此上随分諸木生立黒々に成り往々稼の指寄にも相成候様に山中筋に少々にても稼方等に相成候、山林猥に焼払申間敷候、自今已後能々吟味之上稼場無之猪鹿籠り候
筋斗是迄の通り願出候上焼野に致し申べき事
1、在中名寄帳面の儀地主入替り荒起又は新荒致し出来候はば細雑に吟味を詰め時々張紙にて直し大庄屋印形致べく候、且又株々入替り両帳面不分明之所は其品相違うべく候帳面改め直し申付可き事
1、田畑弁山林本銀返しにて売買亦々質物に指入候筋田畑持立入替り候分名寄帳面相改候へば紛無之筈に候、此上本銀返し売買質物に指入候田畑弁山林取上げ当人勿論庄屋肝煎5人組迄急度申付く可き段兼て申渡し有之趣に候弥入念に申すべき事
附り人は印判所持致し少之内も身をはなし申間敷候、惣て帳面書付等に印形致候節は其譯を能く聞届け承知の上印形致すべく候、印形を人手に渡し押させ申間敷候、殊に大切に致し申すべき事
1、在々百姓どもの儀は耕作精出し田畑毛付之義は其旬におくれ申さず仕付候様との儀は元禄年中より段々相触有之事に候弥おくれ申さず候様銘々作稼心懸け申べき事
1、村住人共之儀は両度の毛付時分は別て野末迄も相廻り作事鹿抹無之様に為すの義は村役人共々常之勤にて候、尤小前百姓共銘々心掛け疎成る義無之様作稼精出し申すべき事
1、在中の内所により有之候村作と申筋元来有之間敷事ニ候処近来村作筋多く成免合下り候村々も有之御納所も減じ候事至極大切成義に候、村作出来之儀は村役人手代大庄屋取扱宜からず心入悪敷き小百姓御年貢不納致し末進と成り年々重之候に付所持の田畑にては未進不足有之に付是非無く村方へ指出しあるいは取上げ村作と成し候事と相聞え候、御年貢取立の節に覧割帳并人別持行帳を吟味致不納候者は所持の田畑の内にて相応成筋を払せ高掛も立行候様に時々相片付未進重り申さぬ様に取扱候得は小百姓も取続申べく候得共未進重に或は稼疎に成る者をも其通に指置候故田畑残らず払候ても不足相定候に付百姓潰れ、村方は弱く候様に相成候道理に候、此已後能々心得相互の風儀よろしき人にもたれ実義を失ひ候事無之様に御定之通り友吟味に致べき事
1、在々当毛荒之出来候義は村役人共ハ申すに及ばず手代大庄屋共不吟味故と相聞候、当毛荒有義水吐宜しからず平生沼り亦は透汐招汐など有之場所に相当毛荒と成候儀も有之候其外旱損水損、不時の義の処近年当毛荒有之儀ハ作事不精にて旬も後れ毛付致候類実のり悪敷又は毛付致候迄とて指置筋を当手荒にも致候様に相聞候右之通に候得ば畢竟役人之の申譯に毛付いたし事を済め追ては当毛荒れ致候心得と相聞へ候甚不実成る儀不姓千万に候御納所減候儀は至極大切成る事に候得ば自今已後作方精出し申合不実成る義無之様に不義は誠に天之悪処自然と不作不幸出来其身を責め正道実儀を以致す時は巡気宜く豊作幸福自然と至り骨を折らず苦しまずして御年貢をも快く納め其身も安く候必悪を人に譲り非義成る事無之様相慎申べく候、此已後万1右申通心入悪敷く毛付等致し候ても修理をも致さず荒作等に致候様成る儀有之においては吟味の上急度申付田畑取上げ村役人相咎め其上御年貢は村中にて相弁させ上納為をさすべく候能々申合せ互に精出し申べき事
1、百姓共之肉親病死致し田畑讓り證文無之怪共出入と成り候筋の田畑作方は双方共に抹に致し不作の筋を若心得違い当毛荒の様取扱致ししかれば其不届に候此已後田畑出入の筋は出入許付候迄は村受込に致し下作を申付鹿抹無之様致すべき事
1、在々に有之候入作筋元来町人又は商人隣村等へ質物に指入銀子かり受け返済得ずに付売払候田地相聞へ候然処近き比は入作より本村へ右田地無代にて戻すべくと申筋も有之様に相聞候最初は多くの銀を出し候
田地を無代ニて戻可と申儀に有之間敷事候然るを戻可と申は前方買請候内銀と成候筋は売払銀と成り申さぬ筋を本村へ戻し申すべくとの意味と相聞候右之通に候えば入作の者共甚不届に付左様之筋請込候ては村方の傷と相成候入作之売払候筋惣て作徳有之能き田畑も有之べくに付然ずは戻し申間敷候左候得ば宜き筋は其通り悪敷筋を戻し申すべくとの儀は甚心入悪敷不届至極に候此已後右体之義堅く無之様相互に嗜申べく候様申聞せ候上にも不届不伝有之においては吟味の上急度申付べく候 実儀を旨と致すべき事
1、田畑弁山林跡々讓り候遣状證文に庄屋肝煎5人組の内證拠印取置申べき候 1判之遣状證文は證拠に相立ず義兼て申通し候趣能く相心得申べき事
1、飢人新非人杯有之申出候には
上之御苦労にも相成候と心得又は吟味むつかしく様に存隠置申間敷候故有無無拠右体之者有之節は早々申出べく候 御普請所人人足等に遣ひ賃米をも遣し右のも難成る者共へは御借麦を相渡させ申べく候相応の稼等致べく候兼て不稼または奢費、行作不伝にて飢人非人等に相成候筋は一向取上ず候紛之無之様致べく候 御借麦借方之義兼て申渡有之通り末々迄行渡致すべく候 右取扱候庄屋肝煎仕方宜からず贔屓贔屓に借渡或は取替物等に引取又は度々借り渡候義をむつかしく存じ何も吟味もなく借渡候様成儀有之においては庄屋肝煎遣吟味を急度申付べく候入念に相改め御救之儀は行渡候様仕るべく候 近歳仰出され疫病人有之病気重き者は御救米下され置候事右は至極有難く御憐惑にて候へば人々有難事を弁大切に相心得かりにも疎抹仕り間敷自分と難凌村凌にも成難き大病人弱人有之候は、申出べく候御救米下され置候
上之御憐感御慈悲にもたれ心得違い大病人弱人に事寄せ御救米を以御年貢未進を償候様成る不届之品有之においては急度吟味遣曲事申付べき事
1、早損所に新地又は重き上井水を仕掛け向に構等随分精出し池に水溜り候様致べく候水損所ハ水除け堤を致し水損等の仕方常に其利害を考御普請をも願申べく候洪水の節は庄屋肝煎頭百姓共罷出馳廻り池川橋破損致すべき体之所に精出し防ぎ破損無之様致べく候都て小破の内に精然べき所は常々相改申出べく候
池の水視り又は任せ溝等破損御普請役人行渡かたき所有之ば先づ田人の者共早速普請致掛り其段申出べく候役人吟味の上賃銀等の儀追て相渡し申べく候惣て御普請の儀に付指支候義有之は其品早々申出べく候近頃段々御願御普請所請屓申付所も有之候普請の儀は随分心を付小破の内に繕い近日之害難儀無之様に互に能々申合候此已後も御普請箇所請眞之義存寄次第願出べく候吟味の上申付べく候所請に相成候得共普請繕等之儀も心に致候間稼普請方の勝手にも成り出役人等も無之に付ては在中失却も減候事にへば所の為にも相成る義に候間勝手次第願出べく候早速吟味を遂夫々願の通り申付べく候、請屓に成候
所々には大庄屋肝煎5人組頭百姓にも能々相心得普請繕等疎抹無之諸事怠り無之様相互に吟味致べく若疎抹有之大破に及ぶ後は難有之候得共村々の傷銘になり難儀に相成候事に候間時節を参怠無く修理致べき事
1、池水井水とも田人に任せば庄屋肝煎立合依帖贔屓片落無之様水引番人に正道に水引を申すべく候、田人猥に水引我意に任候義有之に於ては曲事に為べく候水論其外にて異論多きは得手勝手我意より発り濡言の儀は曲無事を申し募り其身を果し大切成る親兄弟へも難を懸朋友の因を断ち実儀を失ひ候事共多々候互に和し礼儀を以て相煩信を違えず人々難儀ハ我難儀に引合せ万事万端我身に引競べ人々難義迷惑を為さぬ様に心掛け候得共人も又如斯自今已後互に慎み猥成る義非義無之様都て何年にても右之通心得我意我慢を先き立て狼籍悪事仕らぬ様相慎み申べき事
1、御鷹場之儀も前より仰出され候趣を能く相守申すべく候、近年別けて御用捨之儀共にて耕作快仕候事に候
得共心得違無之様致すべく候御用捨にもたれ心得違猥成る義有之於いては所の迷惑後々迄の難儀に及び御憐感相立たぬ事に候得ば能々相心へ申べく候、御鷹場之内にて殺生致候者有之ば兼て申聞有之通り相図之筒貝を吹立て其近辺之在々より早速名合於て名字承り届け其者の宿迄送り届其品早速任意改べく候、鳥追候義も猥成る儀無之様致すべき事
1、寺社之儀久敷無住にて指置申間敷事
1、享保7寅年同8卯年仰出され候、御倹約の儀并在中倹約之義前以て段々相達し申聞候趣就中去る午年以来追々相触申聞候趣一々能受用致し倹約を相守り風俗宜しく農業耕作諸稼を第1に心懸け*8木振に費申さず雑穀を用い衣類は布木綿を着し妻子共に至る迄稼を精出し御年貢を大切に致し候義国恩法義を仮にも疎に存間敷候実儀正道を本に致候得ば自然と幸至り悪事をなせば則苦難其身を責め候事を能々弁前々より仰出され候趣毎度申聞せ候趣猶又此度も申聞せ候趣能々相心得何事も真実も以て互に嗜申べく候、仰出された申聞せを能用候得共公役も少く村の費も無之村に栖み相応にて銘々暮し候得共事を巧み悪をなし通申聞せを用いず不届の品等出来候には吟味置、在中村々役人等も多く入込自然と所之費多く1人の悪事より村中郡中の難儀迷惑至り自然と困窮を招く基に候相互に慎申聞せ能く受用致得ば課役無之小入用も減り費を省き村栖も自然と宜く相成百姓相続致し子孫まで安穏に暮候事に候
神事仏事も誠を以て信心致候事は勝手次第の事に候得共右に事寄せ品々講を就或は勧進を以て金銀を集め当座を筋り美麗結構を好み酒食を飲食致し無益の費無之様相慎申べく候、家作之義前々より御定の通り弥以軽く致べく候、近き比ハ長押造の座敷を栄耀け間敷く普請等致し候趣相聞へ甚如何に候、自今塗縁唐紙張等に至迄不相応之義堅無用となすべく候、向後役人相廻し吟味申付候て有之べく候、滑取嫁取の節万事かろく致べく候結納遣之候節大庄屋は鳥目3百文庄屋以下百姓ハ2百文を過すべからず候引出物右同断猶又小百姓は弥軽く致べく候、地士大庄屋村庄屋惣百姓弁妻子共衣類の品兼て申聞之通り弥軽く致べく候平百姓は申に及ばず庄屋にても襟袖口も絹紬用い間敷候、都て木綿布に限べく候、婚礼の節地士大庄屋は木地長持1棹葛籠1ツ遣し候分は苦からず候、庄屋頭百姓は木地半櫃1ツ欺亦長持1棹遣遣候分は勝手次第随分軽く致すべく候互に申合物入無之様相心得縁をむすび坪取嫁取子孫相続を旨として当座を簡り世間の費に移らず自今堅ク掟を守申べく候婚礼の節仲人親類徒弟迄勝手次第出合申べく候験物随分軽く致料理ヶ間敷事致し間敷候酒も大酒長座に及ぶましく候3献を限申すべき事
1、端午の幟男子何人有之候ども家1軒に幟1本と兜1例鑓長刀之内1本に限べき事
  但職木綿にても紙にても小振に致べく候
  大幟は無用尤8歳已上は違ぬ事
1、雛の儀紙ひなを用ひ申すべく候 道具少々にてもうるしぬり箔置堅く無用の事
1、往還筋旅人宿休所並茶屋等之外耕作1ト通の村々にて小間物餅酒肴其外百姓に不相応の物売買堅く相禁じ候、勿論新規の義は猶以て相成ず候、先年より酒造り来り候者は唯今迄の通り新規酒造請酒等致候者有之候は、此節より早々相止め申べく候、役人相改め背の義有之候は 急度吟味に及べき事
1、辺打井見世物等在々之参候ども一切留置申す間敷候是又箱でく等の儀主願にも籠申間敷き事
1、都て小入用の儀前々より相違候通り費成る義は勿論随分万事心を附少の儀にても減じ候様大庄屋庄屋肝煎5人組頭百姓小前之者に至る迄互に細雑に吟味致紛しき儀無実無之様致べく候兼て御定にも有之就中去る午年以来追々相通し定法相定小入用減す事書付交々相渡候通り弥申合少なりとも入用減じ候様致すべく候、
手前にて減難き筋も有之候は、郡奉行所へ申出べく候吟味を給い何分入用減り候様致すべく候、何分百姓取続候儀にと上に甚御苦労思召なされ候御事支配之随分心を付取計候事候。願の儀有之ば弥吟味を詰候て申出べく候、小入用越銀等は弥遅滞無く遣り取り致すべく候 盈々候ては互に甚難渋に相成候随分時々早
く捌き申べく候6郡割随分手を詰め世話煎未申とも6歩余之減に相成候郡割組割村割御蔵下割井割等に至る迄都て小入用減方段々手を詰め候事に候減る事心付の儀は申出べくば手前にて減らせ候筋は成程べくは減候様致すべく候、先達て申聞せ候内猶又申聞せ候能々相心得申べき事
1、都て在中へ触れ通しの儀兼て申聞せ候通遅滞無く末々迄行届き候様早々相通し申べき事
1、願訴訟の儀前々より御定の通り堅く相守り申すべく候願訴訟の儀有之は寛延4未年2月猶又相触候通り能々相心得掟を背き申間敷候都御法度掟を背き申間敷は宜敷候都て御法度掟を背き候得ば其原理有之候儀にても御制道を背き候咎は遁れず候、理有るも法を背き或は御制禁之儀も心得えず候て誤て法を背き刑罰を蒙り候儀には不便成る事に候得共兼て御定法申触有之義存せず候て御法制掟を違候義は成ず事故是非無
く其答申付其儀を厭ひ事譯を申聞せ候事に候願訴訟取揚べき筋を取揚げぬ義は無之候、何事にても順を礼し法を背かぬ様願出べく候、寛延3年中之春公儀より仰出され候趣弁同4年末2月相触候趣猶亦申聞せ候相心得申べく候
1、寛延3年午春公儀より仰出され候国々私領の百姓年貢取固或は夫食種備等の願筋に付領主地頭城下陣屋又は門前へ大勢相集り訴訟致候義近年間々有之由相聞候、都て訴訟従党または逃散候儀は堅く信心に候成は不届至極に候自今以後右体之儀有之に於ては急度吟味を遂げ頭取并指続き事を巧み候もの夫々急度曲事申付らるべく候
右之通相触候間其趣存べく候
  午  正月
前々より在中之段々申聞せ有之通惣て百姓共願筋の義先づ庄屋大庄屋え相達し取次申さず候は、郡奉行へ願出若郡奉行取上無之候は、奉行所へ訴出るべく候吟味を遂ぐべく候 奉行所へ願出候ても名印無之節には取上ず候、右之通兼て御定有之義にて越訴致候者は夫々刑を申付候事に候、此上弥以御定を相守申べく候、若相背き越訴致候はば急度吟味の上曲事申付くべく候右之趣在中えも能々申付らるべく候
但右願等相違候節も兼て定之通34人に相図り若も群訴申上候譬理分之願にて有之候とも大勢申合候刑は急度申付べく候尤本文の通願訴訟之義次第を立申付有之上は越訴致すに於ては願の筋其理有之候とも越訴の咎
は急度申付べく候間其旨愈能相守次第を乱さぬ様に厳敷申付らるべく候
惣て願筋本文之通先づ庄屋へ願出若庄屋取次がず候は、其譯を申し大庄屋へ指出し大庄屋も取次がず候は、郡奉行所へ指出し郡奉行請取申ざず候は、奉行所へ訴出べく候右之通に致候は越訴には成ず候、右の順に背き庄屋大庄屋へ願出ず郡奉行へ願出候は、越訴にて候尤郡奉行へも願出ず奉行所へ願出候も越訴にて候此外に所々へ願出候ば猶又越訴にて願事には其理有とも越訴之咎を申付事
1、公事訴訟等を進め目安を認巧み成る儀を教出入取られる様致候者常々吟味致若有之に於ては其所に勝し置かぬ様との公儀御定候条油断無く吟味致し右等の品有之者は勿論似寄た義も有之には早速申出べく候、若隠置進て相知候は、村役人は申すに及はず其時急度曲事に為すべき事に候
1、在々小入用割之儀前々より御定之通り弥入念に申可く候、村々にて小入用帳面時々に記し1ヶ月切に庄屋
肝煎弁頭百姓之内利害相分り候者順番に相極置き両人づつ立会候者承知判仕置き申上べく其年の霜月中に小百姓入作迄得と読聞せ割賦致し右帳面へ残らず承知判取申べく候、小百姓入作より小入用出銀受取候節
右請払に庄屋印形之押切取替し申べく右の趣相背き帳面請取引合に相違の儀落判等有之候は、追ていと信味を吟味し村役人弁立合候頭百姓迄急度申付べく候、
但大庄屋も右帳面毎年割相済候以後見改め少々でも費がましき事有之様々有之候は、早速吟味を遂げ相止候由心得違候村役人へは急度利害申聞せ相改めさせ右帳面の奥には大庄屋承知判仕べく候
右小入用帳面之外小入用不時割等曽て無之筈に候右之趣在々小百姓入作迄得と申聞せ置くべき事
右の条々是迄段々相触申聞候儀に有之候
当年は別て奉行所よりも入念申聞の趣細雑に吟味の上唯今申聞セ候通に候間1々能く相心得少も疎に心得
申さず常々能く相守り末々迄申聞せ公事出入等無之様仕べき者也

  宝暦3年酉3月
  安永10年丑4月御触迴写
    鹿P六郎太夫  扣
      大庄屋宮井六郎兵衛5月朔日当村へ出張当所
      迄小前末々の者共呼出手間御取此書付写5月1

      4日役所より申され候
    御代官
    郡奉行
在中之儀前々より御定之通り怠慢無く取扱公事出入訴訟等滞無入念に吟味を遂げ百姓共耕作諸稼油断無精出御
納所第1に仕り万端倹約を相守り、小入用之儀随分相減百姓相続致候様にとの義に毎年御年寄衆仰度され候事
1、公事出入をこのみす、め廻者の儀弁博奕致もの制道の儀前々より申渡有之元禄13辰年にも別紙の通り申渡有之右以来も毎々申渡有之事
1、諸願筋取扱弁越訴之儀前々より御定有之宝暦元年未年にも別紙之通り申渡有之徒党企て或は強訴之儀に付ては公儀より仰出され御高札にも出有之事に候、右之通に候処今以徒党を企て越訴等いたし百姓共多人数を催し御城下近辺之罷出或は人数多く御城下近辺え罷出催等致かけ村内を騒がせなど致候者も有之趣、粗相聞え不届千万成る事に候、自今御定を背き候致方有之候得ば、たとえ理分有之候共願は取上ず急度咎められ、徒党を企て人数相催候義風聞之品にても召捕急度吟味を遂ぐべく候
1、公事出入をす、め廻り者の儀 随分気を付申出べく候、若隠置候に於て外より相知れ候へば村役人共不届と為すに依て越度相咎申べく候。
1、博奕致候者所々俳徊致候哉之趣猶又地士頭百姓など右体御座候、つらなりものも有之哉之趣粗相聞え、別て不埒千万成る事に候、自今風聞之品にても召捕急度紀明を遂ぐへく候
1、寺院医者或は浪人杯の内博奕之宿に致候者も又有之哉之趣風聞も有之候、是又自今風聞の品にても召捕急度吟味を遂候筈
右之趣地士弁大庄屋・村役人・頭百姓・小前末々に至迄洩さず候様 入念申渡さるべく候
地方手代共も兼て気を付風聞の品にても申出候様申付らるべく候
1、大庄屋共之内親類之外私用にて他郡他組 え罷越止宿いたし逗留をも致候者有之哉之趣風聞も有之候、役義
勤候者は右体之儀有之間敷候事以来件之品相聞へ候得ば急度申付べく候
  丑 4月
  元禄13年辰年申渡書之内
1、公事出入をこのみ色々の悪事を工みす、め廻候て惣百姓之心入を悪敷仕なし候者所々に有之由相聞之候、
左様のもの有之候は、常々心掛承合軽き内に相遣べく候
1、博奕禁制之義別て入念申付べく、表相知り御吟味有之候ては急度御仕置仰付られ、村々之費も多く有之事に候間軽き内より吟味致し他所より徒者杯入込申さぬ様致べく候
1、兼て申付候通り5人組常々楽と申合諸事吟味致候様に申付べく候
   辰  6月
宝暦元未年申渡者并同式申年申渡書共写
    郡奉行
惣て在中へ触通之義夫々支配は遅滞無早速相通され候義勿論之事 触通等之儀大庄屋承り早速其組之庄屋肝煎に相通し頭百姓は勿論末々小前之者共へ少も遅滞無早速具に申聞べく候事之処組より大庄屋庄屋手前に滞り小前末々へは行届申さず百姓共存じぬ儀共も有之候趣に相聞候、触通之義は別て大切成る事に候へ共左様に有之間舗(敷)事に候、右体重き触通さえ鹿末に心得候趣に付てはまして下々より願出之儀は猶以相滞申候て有之べく候、去により越訴投案有之ものと相見へ候、右等之儀共不届之至自今能相心得触通等之節少も遅滞無く早速行届候様略り有べく候此以後村役人共右之趣能相伝候哉否之儀吟味致し、若心得違之者も有之候は*用無く急度申付けらるべく候 猶亦去秋より相通候条之諸事相守候様大庄屋共へ能々申付られ庄屋肝煎共件の趣急度申聞候様取計られるべき事
    大庄屋共
      庄屋共江
願訴訟之儀兼て御定有之儀之処心得違い毎度右躾之儀有之候に付此度猶亦小前之者共之申聞させ候品有之候、
申すに及ばず候へ共惣て訴訟之儀庄屋共は勿論大庄屋共油断無取扱い滞せ申さぬ様にいたし候は、越訴にも及間敷処右役人共取扱差支延行に及候故無拠越訴におよび候品も有之様に相聞え候、尤左様には有之間敷事に候、自今弥以在中願訴訟之儀少も滞無く取扱候様急度相心得申べく候
    百姓共え
前々より在中へ段々申聞有之通惣て百姓ども願筋之儀は先づ庄屋大庄屋へ相達し取扱申さず候は、郡奉行へ願出、若郡奉行取扱無之候は、奉行所之訴出べく吟味を遂ぐべく、奉行所へ願出候ても名印無之筋は取上げず候
右之通り兼て御定も有之儀にて越訴致候ものは夫々刑を申付候事此上弥以御定も相守り申べく候、若相背き越訴等いたし候者は急度吟味之上曲事申付べく候
右之趣在中へ能々申付らるべく候
但右願等相違之節も兼て御定之通り3・4人に通べからず候、若し群訴候は、たとへ理分之願にて有之候共大勢申合候形を急度申付べく候、尤本文之通願訴訟之儀次第を立申付有之上致に於て越訴は願之筋其利有之候も越訴咎めは急度申付べく候間其旨多々能相守次第乱れぬ様厳敷申付べく候
右3通宝暦元未2月通る
郡中公事出入等之儀郡奉行御代官其子細も承届奉行所に相違其外は取扱仕らぬ御定に候処近き頃は諸向きえ内々相頼候様の粉敷義共有之候様に相聞え候之分御制禁之事に候得者左様には有之間敷候事此以後取継或は取持いたし紛敷風聞有之候は、急度御吟味仰せられ候有之べく候
本文之通に付在中住居のものは其身に有之義に候は、格別御年貢は勿論都て在中之掛候儀何事によらず郡奉行御代官在法之通取計頭支配へ届に及ばず候筈公事出入にても郡中附之諸願ひ等右同断大庄屋を以郡奉行相願ひ頭支配よりの取断は無之筈都て在中之様に有之べく候は相障之筈
 右1通宝暦2申6月通る
此度在中御定之儀に付別紙御触有之候 右は奉行衆より分て入られ 義相通られ候間各組在々は1村切にて小前末々迄洩れぬ様大庄屋元へ呼出し右御書付之趣得と申渡されべく候、尤右御書附之趣美人にても承申さず様と申者共も有之候へば各々越度為べく候間組町村々隔候村々は出張候て成共念を入れ末々迄1同行届候様申渡され度候
右3通差越候以上
  4月13日
    小浦惣内
    5組大庄屋中
尚々本文趣小前末々迄申渡1村切に申傳候て承知し印形取置申さるべく候 追て見届申べく候尚更別紙之通追て御通達有べく候
追て地士并帯刀人数医者寺社方其外には残さず候様各々役所には申聞べく候、尤6拾人者之儀は各役所御書
附之趣写取に参べく候 其段別に相通し候  以上
宝暦元未年通し写
惣て在方役人弁手代小役人に至迄支配下の金銀借用等之儀は勿論自分納物又は外によりて頼候とも調物等取
次之儀堅度間敷候且又手代小役人郡奉行物書大庄屋等往来籠縄に乗候者も有之候由粗相聞候、右等之義元より有間敷学に付自今右躾風俗宜からぬ義有之候は、急度吟味を遂ぐべく候、件之趣御代官郡奉行中會所役人下
役人とも急度相慎候様御申通有之べく候事
4月15日


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5 旧家の記録から


本歴史篇の近世史をものせんとして、様々な史料を渉猟していた際、浜口恵璋師の文庫から、同師の筆写になる「手鑑」6冊を発見した。これは当町広の旧家飯沼氏の所伝にかかる同名記録の写本である。その後、幸い原本にも接する機会を得たが、この地方の近世史料としては貴重な文献である。



飯沼家は近世後期2代にわたって湯浅組の大庄屋を勤めた家柄であり、今なお、元の居所に住居する当町有数の知名旧家である。
『手鑑』と名付ける1帳は、飯沼家の祖先が、書き遺した記録である。過去や当時に属する見聞をその折々に筆録した、所謂、備忘録。従って事諸般にわたり、地理的範囲は主として有田地方となっているが、時には紀伊国全体に及んでいることも稀ではない。
ところが、上来の叙述において、この史料引用の機会を逸したので、以下若干、同記録の中から近世当地方の様相を窺って見たい。だが、それに加えて他の史料からの援助も仰ぐことになるであろう。
さきに、近世における村の行政組織について略述し、その中で徳川氏の藩政が行なわれてから、中世的な荘が廃止され、組が村の上に置かれたことを記した。そして、わが広庄は湯浅庄と併せて、最初広組と称され、後湯浅組と改称されたことにも言及した。なおこの組には統治者として大庄屋が必ず配置されてきたことも前述のとおりである。

ところが、これを述べた際、初め広組、後湯浅組と云ったこの地方の大庄屋について、歴代の氏名を挙げることをしなかった。いまそれを、上記『手鑑』によって記載すると、大要次のとおりである。
広組大庄屋、津守九太夫四郎右衛門與惣兵衛 清右衛門 板原彦太夫の5代。そして、同書頭註には、「大庄屋帯刀仕候ハ板原彦太夫勤之内より御免、夫より前ハ大脇指斗、家名不名乗広彦太夫と申候由」と見える。
ところで、広組が湯浅組と改められたのは、次ぎの代からであったらしい。即ち、後湯浅組と成として、橋本次右衛門、同2代次右衛門、垣内太七郎、藤新右衛門、橋本次右衛門、湯川藤之右衛門、湯川藤九郎、北村久次郎、宮井六郎兵衛、津守小左衛門、飯沼五左衛門の11代が記載されている。そして、また頭註に「宝暦3酉年より湯川藤之右衛門勤ル、広村へ大庄屋渡り候儀板原彦太夫より69年目也」と見える。この註記を基に推算すると、広組から湯浅組に改称されたのは、およそ、江戸中期貞享頃かその前後であったということになる。
『手鑑』では飯沼五左衛門で終っているが、その後、飯沼元右衛門、数見清七、千川伝七などが、湯浅組の大庄屋を勤めている。以上19名が現在判明の当地方大庄屋であった。
紀州藩では藩祖頼宣の時代から地士制度を設け、以て藩の外壁となし、一層藩の安全性を図ったことは、既に述べたとおりである。いま、飯沼家の記録『手鑑』によって、湯浅組の地士を挙げると左のとおりである。

地士
 広村  濱口恒太郎
 仝   濱口吉右衛門
 仝   橋本 新助
 名島村 崎山次郎右衛門
 広村  梅野利右衛門
 河P村 鹿P六郎太夫
 栖原村 北村半平
 仝   北村 久次郎
 広村  湯川藤之右衛門
 仝   橋本小四郎
 湯浅村 池永コ右衛門
     崎山八郎左衛門
60人者地士 田村   森 勘八
 仝     湯浅村  池 永平七

右の家系と重複するものもあるが、『紀伊続風土記』および『湯浅町誌』に見える湯浅組地士を左に挙げておこう。但し、氏名が同一のものを省く。
(続風土記所載)
地士
 広村  竹中助太郎
 仝   濱口儀兵衛
 仝   橋本興十郎
 仝   橋本新平
 仝   橋本忠次郎

 殿村  田端喜次郎
(60人者地士)
 井関村 宮崎勘兵衛
 湯浅村 池永兵助
地士
 栖原村 北村 角兵衛
 仝   北村甚右衛門
 仝   垣内孫左衛門

(湯浅町誌所載)
地士
 金屋村 柏木芳助
 仝   柏木多嘉七
 寺杣村 椎崎 磯藏
 中野村 西川丈助
 仝   平林甚右衛門
 広村  植田弥七郎
 仝   飯沼六右衛門
 仝   板原想右衛門
(60人者)
 中村  崎山九郎右衛門
 湯浅村 青石八兵衛
 別所村 生駒孫左衛門


地士を挙げたついでに、旧家や帯刀人をも列記しておくことにする。

(続風土記所載)
旧家
 広村  梶原源兵衛
 仝   吹田莊藏
 和田村 永井惣七
 金屋村 柏木彦四郎
 名島村 棍原熊之助
 井関村 後 平次
 湯浅村 橋本九郎次郎

(湯淺町誌所載)
帯刀人
 井関村 崎山利兵衛
 金屋村 西岡種右衛門
 名島村 堀川儀右衛門
 井関村 伊藤万次郎
 中村  松本庄左衛門
 湯浅村 植本宗三
 仝村  橋本九郎四郎
 栖原村 周佐見直之進

 田村  濃添孫四郎


以上若干煩消にわたったが、地士・旧家・帯刀人を挙げた。これは、いまだ身分制度が厳存した近世社会においては、彼等の家筋がその村の指導者として重きをなしたという意味で看過し得ないからである。周知のとおり、江戸時代は士農工商という身分社会であった。一般農民より上位にあって、武士に次ぐ地位の地士・帯刀人は、公私にわたって常に村民の指導的立場に立ったことは至極当然というべきであろう。その具体的な事例については、後述において若干触れる機会があるであろう。
近世初頭慶長年間に行なわれた検地が、その後の検地の基礎となったと推測されるが、前記『手鑑』に「有田郡田畑高5組分ケ」の見出で、郡内組別田畑などの石高を挙げている。その内容が比較的詳しいので参考となるところが多い。しかし、その全部を転載する訳にゆかないから、左に適当な抄録を行なうこととする。(比較の便を考え郡内各組を載せる)

有田郡田畑高5組分ケ
  外24拾8石2斗2升2合   寺社領
  此計3町1反7畝4分
    右
    寺社領内分ヶ
  2石  宮原組東村  円満寺

  3石  星尾村    神光寺
  8斗4升9合 小豆島  浄明寺
  10石        湯浅組広    八幡宮
  7石           広    法藏寺
  免許3石         湯浅村  深專寺
  免許1石8斗6升     同村   福蔵寺
  7石        藤並組土生村  禅長寺
  引高除キ
  9石4斗3升3合  湯浅組広 養源寺
  社領
  4石8斗      同組   田村宮
   但修覆料2被為下候
  高4万3千112石5斗2升8合
   此町3千496町3反2畝16分5リ
    内
  9千79石7斗4升9合  宮原組
   此町6百22町5反1畝21歩
  9千171石1升1合  石垣組

   此町925町1反6畝14歩
  9千459石1斗7升1合    藤並組
   此町699町3反8畝18歩
  1万502石3斗9升5合      湯浅組
   此町736町3反9畝18歩
  4千900石1斗9升8合        山保田組
   此町612町8反6畝5分5り
   内209石1斗7升6合    無仕荒
    此町14町1反2畝12歩

右は一応郡内5組の石高とその面積を転記したが、以下、郡計と湯浅組に関する部分のみ抄録する。
                田方
  高3万5247石8斗4升9合9勺  (郡計)
   此町2439町5反9畝29分3り6毛
    内
  9千85石6斗5升2合4勺  湯浅組
   此町604町6反29歩1り
                荒
  2千66石8斗3升2合3勺  (郡計)

   此町130町4反9畝6歩6り
 内
335石4斗9升2合      湯浅組
此町24町7畝11分8り
                屋敷
千618石5斗2升9合4リ    (郡計)
  此町111町6反6畝拾7歩
 内
535石4斗1升1合        湯浅組
 此町35町1反9畝26歩3り
                茶桑紙木漆
610石7斗4升8合9勺       (郡計)
  内
54石8升5合          湯浅組
               田方毛付
残高3万950石7斗3升9合3勺  (郡計)
此町2千197町4反4畝5歩17毛
  内

8千160石6斗6升4合4勺    湯浅村
 此町545町3反3畝21歩
                畑方
高7千655石5斗2合1勺    (郡計)
 此町千44町6反1畝25歩1リ3毛
  内
干277石5斗7升6勺  湯浅組
此町百拾7町6反7畝廿6歩9り
               荒
千46石6斗式2升8合3勺  (郡計)
 此町百5拾2町7反2畝廿3歩5り
  内
125石2斗7升5合2勺  湯浅組
 此町拾6町3反1歩
               畑方毛付
残高6608石8斗7升3合8勺  (郡計)
 此町8百8拾9町8反9畝1歩6り3毛
  内
1082石2斗9升5合3勺  湯浅組
此町百1町6反4畝廿5歩9り
新田畑
高3915石3斗7升7合  (郡計)
此町557町9反9畝10歩
  内
517石9斗2升5合  湯浅組
此町75町7反8畝22歩
田方(新田)
高1907石2斗5升3合  (郡計)
此町223町4反12歩
  内
417石2斗9升5合  湯浅組
此町55町8反9畝27歩
畑方(新畑)
高2008石斗2升4合  (郡計)
  内
100石6斗3升       湯浅組
此町19町8反8畝25歩
屋舖(新)
55石7斗6升8合  (郡計)
此町4町6反4畝2歩
  内
7石4斗8升8合     湯淺組
此町6反2畝12歩


右の外、新田畑の荒や、毛付高も挙げられているが、余り長くなるので省略する。だが、以上挙げたところによって、当湯浅組と他の組との対比および郡全体に対する比率を知る上に資料となるであろう。
ところで、右に挙げた各組のうち、幸い湯浅組の石高が、各村別に左の如く記載されているので参考となるところが多い。

湯浅組
1、高1万502石3斗9升9合
   内
  2千608石5升  水主役
  800石  伝馬役
   内298石8斗4升7合  井関村

  36石3斗9合  河P村
    伝馬役9引
  120石  大工役
  90石3斗7升8合  施無畏寺
  200石  大庄屋杖付引高
  45石  穢多
  〆3千858石4斗3升8合
 残6千638石9斗6升1合  御普請役高
  此役米86石斗斗6合5勺  但高100石ニ1石3斗宛
   右村之割賦
1、高575石3斗5升2合  田村
   内
  425石3斗5升2合  水主役
 残高150石 此役米1石9斗5升
1、高752石1斗1升  栖原村
   内
  413石9斗4升6合  水主役
  10石  大工役
  90石3斗7升8合  施無畏寺
 〆514石3斗2升4合
 残高237石7斗8升5合 此役米3石9升1合2勺
1、高609石斗6升9合  吉川村
   此役米7石9斗1升9合2勺
1、高千530石6斗6合  湯浅村
   内
  752石2斗5升  水主役
  75石  大工役
  100石  杖突
  350石  御伝馬役
  40石  穢多
 〆千317石2斗5升
 残高214石3斗5升6合  此役米2石7斗8升6合6勺
1、高1394石3斗6升4合  広村
   内
  760石6斗2升  水主又
  35石  大工役
  5石  穢多
  100石  大庄屋
 〆900石6斗2升
 残高492石74升4合
1、高35石7升6合  和田村
  28石7斗4升6合  水主役
 残高6石3斗3升  此役米8升2合3勺
1、高366石4斗2合  山本村
   内
  99石6斗7升  水主役
 残高266石7斗3升2合  此役米3石4斗6升7合5勺
1、高167石4斗3升3合  池ノ上
   内
  2石6斗6合  水主役
 残164石8斗2升7合  此役米2石1斗4升2合8勺
1、高543石4斗6升7合  西広村
   此役米7石6斗5合3勺
1、高201石3斗8升4合  唐尾村
   此役米2石6斗1升8合
1、高495石6斗3升4合  中野村
   内
  25石4斗4升2合  水主役
 残高470石斗9升2合  此役米6石1斗1升2合5勺
1、高332石2斗4合  金屋村
   内
  26石3斗9升4合  水主役
 残高305石6斗3升  此役米3石9斗7升3合2勺
1、高180石9升8合  殿村
   此役米2石3斗5升4合3勺
1、高2拾8石8斗5升3合  鹿ケP
   此役米3斗7升5合1勺
1、高295石3升7合  前田村
   内
  114石8斗4升4合    井関村御伝馬役
 残高180石1斗9升3合  此役米2石34升2合5勺
1、高317石9斗5升9合  上津木村
   此役米4石1斗3升3合5勺
1、高410石3斗9升  下津木村
   此役米5石3斗3升5合
1、高114石2斗5升7合  柳P村
   此役米石4斗8升5合3勺
1、高250石8斗1升1合  中村
   内
  39石3斗6升1合  水主役
 残高211石4斗5升  此役米2石4斗8合9勺
1、高260石5斗9升1合  名島村
   内
  32石6斗9升5合  水主役
残高228石9斗9升6合  此役米2石9斗7升6合9勺
1、高197石5斗9升5合  別所
   此役米2石5斗5升8合7勺
1、高422石2斗9升6合  青木村
   此役米5石4斗8升9合9勺
1、高683石2斗3升7合  井関村

   此役米8石8斗8升2合1勺
1、高298石8斗4升7合  (伝馬役)
1、高36石3斗9合  河瀬(伝馬区)


右に挙げた石高は、必ずしもその年貢賦課の対象となる訳でなく、年毎検見役人が出向いてきて作柄を検見し、それによって実際の上納額が定められた。
この検見に関する1資料を参考に掲げておこう。享和2年(1802)の御用留帳(湯浅組湯浅村庄屋七郎兵衛)より抄録、

御毛見御衆中今夕郡役所御止宿明廿6日早朝同所御出立、広、山本、唐尾御毛見御済唐尾村に而御書夫5西広、池之上、中野、御済、中野村御泊之筈ニ有之候、尚野合入用もの、儀入念間違不申様御取斗且坪苅籾摺人足之儀麁末無之様御申付可有之候
1、村境ニ而御案内之面々坪掛り之場所坪中付共儀夫々御断申上候段入念御心得可口口仍之右等之段態々申越候以上
 9月廿3日
      飯沼元右衛門
    湯浅・広・和田・山本・池之上・西広
    唐尾・中野右村々役人中


右の飯沼元右衛門は当時の湯浅組大庄屋である。さて、9月下旬(旧暦)に検見が行われると、右同書には

当戌(享和2年)諸上納并御収納向取立御用ニ付支配分之通手代共近々各組へ入込せ候筈候ニ候間先達而被仰
出候通各取立候株之且手代共取立候筋共被申合出精被相勤来廿日迄ニ皆済目録我等政所〈差出候様御可被取斗
候仍之申越候 以上
    11月4日    木村平右衛門
尚々村々免割之儀免下ケち5日を限免割相済せ来9日比迄其順相断出候様村々役人共ニ入念可被申付候免割
割相後レ候而ハ小前百姓皆済取斗候手後(遅)にも相成候趣ニ付分而申越候且又御取立向ニ付若不埒之筋
も有之候ハゞ御定法之通厳重及取扱候段手代共ニ申付有之事ニ候へ共いづれにも手替等申付候場合ニ不及様
皆勘弁ヲ以可有申取斗
右之通仰来候付ニ付写差越候書面之趣被御出精御取斗之上書付不遅様御出し可有之候以上
  11月5日    飯沼若太夫
    組下各村
右の如く免制(年貢割付)が決り取立てが決ると、そこで百姓の年貢上納となる訳である。だが、この年貢米には指口米(入桝)を要した。『手鑑』によると、

1、指口米  取米1石2米4升5合宛  2升5合さし、
    内勢州3升5合2升口


同じ紀州藩領でも伊勢の方が量がやや少なくて済んだ。なお、次の如き定めがあった。
1、御納米は5里附之御定
  米1石和歌山迄此舟賃米1升5合
   内5合1ヶ4才上より被下 9合8勺6才百姓与可出


と、年貢米運搬に際しては、5里までは百姓の自弁で、それ以上の距離でも右に引用した如く、百姓負担の方が大きかったのである。
ところで、田年貢の場合は米で上納したのであるが、畑年貢、小物成、水主米(漁業年貢)など、米作でないものは銀納であった。その換算率を享和2年の例に取って見ると、

戌年米値段定  (御用留帳)
1、納米  石7拾4匁5分
1、小物成  〃7拾5分5分
右御證文之通写差越申候  以上
    11月4日
      御勘定所


さて、例の『手鑑』に元禄15年5(1702)改所束替覚というのが見える。この所束替とはいったい何であろうか。おそらく、村の小入用(費用)として徴収した米のことでないかと思う。それが稲束の数で定められていたのでないか。湯浅組各村のそれを挙げると左のとおりである。

元禄15丑年改 所束替覚

8東替  湯浅村  和田村  小浦(山本村の一部)
11東替  栖原村  田村  青木
12東替  吉川村  殿村  中野村  金屋村
9東替  別所村
10東かへ  柳P  山本  池ノ上  唐尾  西広
18東替  井関村
24東かへ  河P村
25東替  鹿P  前田


さらにまた『手鑑』は別項において有田郡内水主米を記している。湯浅組関係分のみ挙げると、広浦210石、湯浅浦270石、栖原浦88石、田村浦16石7斗である。これと先記湯浅組石高各村内訳の水主役との間に大きく差のあることに気付かれるであろう。因に対照表を示すと左のとおりとなる。

 地区別  湯浅組石高各村内訳水主役   有田郡御水主米   備考
広村761石1斗6升2合210石0斗
湯浅村752石2斗5升0合270石0斗
栖原村413石9斗4升6合88石0斗
田村425石3斗5升2合16石7斗

上の表は何を物語っているか多少疑問の向もあろうから、簡単に説明を加えることにしよう。
左欄の大きい数字は、水揚量を見積り米換算したものであり、右欄のそれは、実際の年貢高である。その比率に相違のあるのは、何にかそこに特別の事情が存在したのであろう。
なお、右同書は、有田郡水主米を挙げて、そのあとに「右ハ畑米直(値)段21匁増、小物成並を以相納申候」と付記している。例えば広浦の場合、石当銀75匁5分の210石分、即、銀15貫855匁の上納となった訳である。
ところで、年貢米上納に際して、江戸屋敷などに輸送の場合には、輸送人夫賃として2夫口米が徴収された。
『南紀徳川史』(第12冊)に詳細な記載があるが、『手鑑』にも見えるので、それを挙げると、

2夫米
1、高百石ニ付 米2石宛 石替60目
   但し家中江戸詰夫金ニ相渡し申候


とある。金納の場合は、1石60目という計算であったらしい。そして、この2夫口を徴収するためには、各地に2夫口役所なるものが置かれていた。湯浅組では、浦方2夫口役所が湯浅・栖原・広・唐尾に設けられていた。
なお、農民の負担に御役米というのがあった。前掲『手鑑』に

御役1分3厘米
1、高百石ニ付米1石3斗宛
   但し御役方在々池川御普請料ニ成ル、


右の外に、糠藁米その他各種の名目で雑税が賦課された。

糠藁1厘9毛
1、高百石ニ付米1斗9升宛
   御蔵本高へ
   絵所今高へ
 糠10俵此糠5石 石2升づゝ
   此米1斗
藁18策
   此米9升  1束5合づゝ
    御馬飼料ニ成ル


さらに、『手鑑』には、様々な事柄が書き留められている。大体、江戸時代中期を中心に、若干、その前後に及ぶ。引き続いて左に幾つか同記録から引用して、当時の模様を窺うことにしよう。
まづ、有田郡の家数であるが、1万5百井6軒(亥改、享保4年または、同16年か)。それを組別に挙げると、

2301軒  宮原組
2160軒  石垣組
1736軒  藤並組
2924軒  湯浅組
1415軒  山保田組


次に人口を見ると、有田郡人数56103人(亥改)。その男女別は、男30837人、女25266人で、(多分8才以上であったであろうから実人口はこれ以上)それを組別に挙げると、

12325人  宮原組
  内6649人  男
   5576人  女
12083人  石垣組
  内6547人  男
   5536人  女
9045人  藤並組
  内5009人  男
   4036人  女
15097人  湯浅組
  内8679人  男
   6520人  女
7553人  山保田組
  内3953人  男
   3598人  女


右の男女別人口を見ると、郡計で5670人も女性が少ない。湯浅組では2159人も女性が少ない。
ことが判る。その他の組においても総て同現象が見られるのである。男女ほぼ同数というのが現在の常識であり、これがまた、自然な状態であろう。それなのにどうして、江戸時代には右のような異常な現象となったであろうか。この異状な現象は、近世封建制時代における農民社会の一断面を露呈しているのであるまいか。
既に累説した如く、近世封建社会の農民は、領主のために年貢を稼ぐ生ける道具に過ぎなかった。年貢未進の場合は、5人組はじめ周囲にまで迷惑をかける結果を招く。それはいうまでもなく農民にとって堪えがたいことであった。従って、如何なる方法をもってしても、年貢だけは完済しなければならない。その1つの方法として、食糧消費の口を減らすことである。女の子が娘になると都市へ年期奉公に出した。この時代の年期奉公は、実質的に期限付きの人身売買であった。
なお、もう1つの方法は、もっと悲惨なものであった。貧しい農家にとって子供の多いことは、一層暮しを困難にすること必至である。そのため、子供をできるだけ制限する必要があった。堕胎も勿論行なわれたであろうが、この時代には、しばしば間引という方法がとられた。間引とは、生れたての赤児を殺して子供の人数を調節することである。
そして、この間引の方法は、多くの場合貧農の女児に用いられた。親として吾子が可愛くない者はない。にもかかわらず、それをあえてしたということは、よくよくのことである。女の子は男の子に比較して百姓の働き手として、一段需要性が低かった。なお、無理をおして育てた後、年期奉公に出しても、僅かの金銭しか受取ることができなかった。そのような女の子を、貧乏を押して育てるより、可哀そうだが、むしろ赤児のうちに始末する方がましだ、と、恐らく弱百姓家のロ減らしのため犠牲とされたに相違ない。
近世封建制領主は、間引禁止を行なったが、農民から年貢取立てを厳しくしたため、実際上嬰児殺の忌まわしい悪習が絶えなかった。世にこれ程悲惨な事実があるであろうか。
如上の事情、すなわち、農家の口減らしのため、年期奉公や間引きによって、農村の女性人口が目立って少ないという異状現象が起きたのであると推察できる。この一事によっても近世農村社会の悲惨な生活が想像されるであろう。
さて次ぎに、牛馬の頭数がどれほどあったのか、それを『手鑑』から転記することにしよう。これは産業史の資料でもあるが、

1、馬271疋、
内52疋宮原組、58定石垣組、47疋藤並組、111疋湯浅組、4疋山保田組、
1、牛数2308疋
内412疋宮原組、608疋石垣組、437疋藤並組、424疋湯浅組、427疋山保田組、


ところで、熊本藩の例を挙げると、農家は娘を身売りしてでも、農業生産のために牛馬を持たなければならないとされた。

封建領主への奉仕に終始した近世農村社会において、牛馬の多寡はその地域社会の貧富を計る1資料ともいえる。娘を売ってでも百姓は牛馬を所有することを奨励されながら、それを持つことが容易でなかった。しかし、紀伊藩では娘を売ってでも牛を買えとまではいっていないようである。
右に農業経営に関係ある資料を載せたついでに、もう1つ関連資料を挙げておこう。米の生産に極めて関係の深い用水池のことである。

1、池数491ケ所
内33ヶ所宮原組、215ヶ所石垣組、99ヶ所藤並組、123ヶ所湯浅組、23ヶ所山保田組、


米の生産、既ち、水稲栽培については、別に産業史篇で触れる問題であるから、ここでは省略するが、現在各地に所在する池は、殆んどこの時代には、はやくも既存していたということが判明する。現存の用水池には、勿論、近代の造成にかかるものも知られている。、上掲池数を見るとき、如何にわれわれの祖先が、米の生産に精 精根を傾むけてきたかを窺知することができる。宮原組・山保田組など池数の少ないのは、有田川とか天水の利用が可能であったからに外ならない。わが広川地方においては、広川の水を灌漑するところ以外は殆んど溜池を用意していたのである。この池の管理営繕などの費用や夫役は、いうまでもなく村民の負担であった。池の多いということは、当然、村民の負担が多いということでもあった。
次に、若干、方面が異るが、近世社会生活に密接な関係のあったのは、意外にも寺院であった事実から、『手鑑』によって寺院数を挙げることにする。(寺院と庶民生活の関係については、宗教篇仏教総説において、若干、言及する。)

1、寺数189軒、
内42軒宮原組、48軒石垣組、33軒藤並組、48軒湯浅組、22軒山保田組、


なお、当時既に退転していた寺院は、左のとおりとしている。

1、退転古跡22軒但寺塔頭坊とも
内4軒宮原組、4軒藤並組、14軒湯浅組、
(註、石垣組・山保田組については不明であったのか記載がない)
1、堂数157軒
内16軒宮原組、47軒石垣組、29軒藤並組、22軒湯浅組、43軒山保田組。


右の堂数というのは、辻堂や道場、その他寺号を有さない仏教関係建物を指しているのであろう。
寺院数を挙げたので、それと対照の意味において、神社数を挙げると左の如くである。

1、宮数、440社
内68社宮原組、110社石垣組、77社藤並組、133社湯浅組、52社山保田組


ここで、当時の寺院数および堂数の合計と、神社数を比較して見た場合、後者は遙に多い。民族信仰の趨勢を窺う資料として興味ある問題である。当時の寺院は、為政者の命によって、村民(檀家)を監視する役目を果たしたが、片や神社の方は、郷村民共同生活連繋の場であった。
右に見た如く、神社の数は意外に多い。小社小祠を含めてであること勿論であるが、当湯浅組の場合百33社に及んでいる。大社は大社なりに、小社小祠はそれなりに、それぞれの祭祀行事を通じて、地域の住民と結び付いていた。中世から近世にわたって、社祠の祭祀行事にはしばしば宮座制度のもとに執り行なわれた。宮座制度については、中世史の中で略述したので、ここに省略するが、その地域の開拓者の子孫や村里の中心的な家筋の者が座を組織し、その座が中心となって祭祀が行なわれた。なお、この宮座の構成員は、一般郷村民の日常生活における場合の指導者でもあった。とにかく、神社は現在社会生活からは想像も及ばない程、地域住民の社会生活に密着していた。右に引用した各組内の神社数の意外に多いのは、各村毎に幾つかの小社が祀られていたからである。そして、各々集落民の信仰を集め、その祭祀行事を通じて集落庶民共同生活の連結の役目を遺憾なく果したのであった。それが、明治政府の失政の1つ、明治初頭の神仏分離と明治末葉の神社合併、特に後者によって、集落民衆の地元から数多小社小祠を取り上げてしまった。その結果、村落共同体の生活が漸次崩壊の方向に進んでいったのである。
さて、神社と村民生活の関連性については、以上で一応筆を止めるとして、次に、郷村自衛のための銃器や狩猟用のそれについて、例の記録『手鑑』から窺って見よう。

1、鉄砲数381挺
内地士60人(者)山家同心、漁師筒、威筒とも、
44挺宮原組、135挺石垣組、外に11挺猟師筒留て、64挺藤並組、117挺湯浅組、21挺山保田組、


有田郡の海岸地方にも、江戸時代初期寛永年中(1624〜43)、海防のため浦組制度なるものが設けられた。この浦組制度について、『湯浅町誌』は、特に幕末の黒船騒動当時の湯浅浦固場編成を余すところなく詳記している。それによってみると、鉄砲組が警備隊の中心的存在であったことを知り得る。この時代ともなれば、湯浅浦固場所属4組(湯浅組・藤並組・石垣組・山保田組。宮原組は北湊固場に属していた)で鉄砲組隊員が450人を越えている。しかし、右に掲げた『手鑑」記載鉄砲数は、それ以前の数であり、幕末の黒船騒動当時には、もっと多くなっていたことが判る。
ところで、比較的平和な幕末以前の記録『手鑑』の中に、鉄砲数を記載しているということは、如何に太平の世と謂えども当時、郷村自衛のためには、鉄砲が極めて重要なものであり、その員数を調べておく必要のあったことを物語るものであろう。
幕末の黒船騒動に際する浦組警備組織については、本書巻尾の年表に詳細載せられているので、重複を避けてここに省略する。それに替えて、黒船騒動以前の浦組を知る1資料として、次の史料を挙げておこう。

浦方在夕所々論聞世書
郡春廻りの節
1、浦方の儀御高札御定法の通能く相守申すべき事、
1、御城米船は申すに及ばす諸巡船破損有之節浦之者共早速罷出精出し少しの物にても施抹に致さず荷物船具等取揚げ諸事肝煎候義段々仰出され候御書付之趣を相守沙汰無成る儀無之様に弥念入申べく候、難儀迷惑は人之上にてはなく我身にも有之事に候へば必ず人の難儀を見捨て不実なる義致さず実義を以て難を救ひ助け申べき事
1、御国并他国之漁師共泊り沖に参りいづれの浦にても居浦に致し漁事致候節大漁を得候得ば其所の賑ひにも成候事之処相応ずに浦手銀多取候得共外より稼に参候者迷惑重致候て其浦へ寄らぬ様に成候得ば自然と困窮招く品々候得共自今以後其所弁漁事相応に浦手金取申すべく候 外より稼に参り候者其浦を悦び順うの義を以って風を望み他所人も集り津々浦々の賑ひ候様致すべき事
1、御領分浦々之漁師共沖合にて諸漁盛り能仕合候得共其沖合へ他浦より船を寄せ得漁之事は処場所を論じまたは他浦より廻り候舟漁師どもへ何に角と障りを申かけ宿など借し申さず其場の漁にはづれ候様に致候へば迷惑致し候事に候御領分の者共は別けて相互に候得共中能く申合手を引漁師をも友稼に致候得共自然と浦々も賑ひ繁昌致すべき事
浦々申合御国漁師共は申すに及ばず他所の漁師ニても宿を借し居浦に致させ漁事指支えぬ様致べく候、右之通に致候得共網代銀弁宿賃等も納り所之潤に成候事に候得共向後能々申合必我慢無之様致べき事
1、沖合漁事盛之節網之1番2番を争ひ論じ喧嘩口論におよび大漁を仕損じ互に難儀迷惑に成る様之義無之様致べく候、我慢我意狼籍を慎み互に時宜会釈を致し実意を以て我人の為を致候得ば自然と相和し漁事も盛と銘々徳を得自然と天の助に逢候得共我意を以て得手勝手欲に致候得ば人是を悪む人の悪むは則天の悪みを蒙也能々互に慎み銘々家職稼を専一に精出し不漁之節行当り申さぬ様兼て覚悟致べき事
1、水主米納べき浦々兼て御定之通り遅滞無く相納申べく候何も国恩冥加に為し候得ば催促を請け遅滞に及ぶへき様は無之事に候都て困窮に及び候は身分不相応之儀を致し稼を怠り栄耀を構え奢費有之故次第に困窮に及び候銘々家職稼を専一として骨を折力を尽し候得ば日々の経営出来候今日之漁事其身分相相応之稼を快致し親妻子迄を育み若も濁命に及候式儀も止得ず御憐感を以て御救成下され飢を凌候義舟網等稼之諸道具拵候に至る迄難に及ぶ義候得ば設備等をも願い相応に御借成下され稼も相成候様に成下され候事此節、上々御勝手甚御難渋にて御時節に候へ共末々難儀迷惑致さぬ様との有難き思召にて上々御不自由を犯され末々御憐感成下され候儀恐入奉り勿体無き御事に候得ば冥加之程を相弁之人々稼を相励み上に御苦労に相成らぬ様に致し御年貢上納筋之儀随分遅滞無相納申べき事


右に掲げたのは、浜口恵璋氏写本の史料に拠った。年月と原本の所在が明らかでないが、おそらく、前掲読み聞かせ書と同じくするものであろう。
ところで、右の読み聞せ書は、浦方における平和時の漁業その他に関する浦方住民心得を諭したもので、幕末の黒船騒動の如き国家的有事に備えてのものでない。漁民として常時心得おくべき事柄を、郡奉行から読み聞かせ書という形で出されたものである。百姓には百姓としての心得、漁師には漁師としての心得、いづれも、その最後の締め括りは、家業に励み年貢未進なきよう心掛けるべしとの論しであった。
さて、次に、広川地方に最も関係の深い、船舶と漁網の数を『手鑑』から引くとしよう。

1、船数757艘
内166艘  廻舟小廻艀小艀舟漁舟とも  宮原組
590艘  廻舟小廻し漁舟其他関東西国稼漁舟とも 湯浅組
1、網数240張  まかせ網 8手あみ 地引あみ 立あみ 手繰網とも
内106張  宮原組

134張  湯浅組

なお、当地方に関係はないが、ついでに川舟について挙げると、
1、川舟87艘、川筋に舟庄屋申候有
内30艘宮原組、30艘石垣組、37艘藤並組


右舟数の項に註して船の種類を記しているが、廻舟とは海上運送のための船で廻船のこと。小廻幣とは 「はしけ」で本船と陸地との間を往来して用を足す小舟。小艀舟とは小さなもやい舟のことである。
さて、右記載の海洋船数を見ると、その大半は湯浅組である。またその中に、関東西国稼漁舟があることを、註記の中で明示している。このところが最も当広川地方に関係深い事項である。なお、これに関連して、関東(房総沿岸) や西国 (九州日向や五島沿岸) で使用された漁網も当然あったことはいうまでもない。しかし、船・網ともにその数が明記されていないから、他の資料から徴証する外ない。それについては、後述、「広浦往古より成 成行覚」の章で若干、明らかとなるであろう。なお、産業史篇漁業史においても当然触れることになろう。
ところで、ここに全体として見た場合のことであるが、湯浅組の船数が意外に多いこと、それに対して、網数が宮原組と余り大差ないことが注意を惹く。漁船以外の船が比較的多かった事実を物語り、海運業の盛んであったことを示唆しているものと解してよいのではなかろうか。(既に当庄広浦市場や波止のかつての繁栄について述べたので参照されたい。)
ところで、右に転記した各種漁網であるが、これの産地は、恐らくこの湯浅組内であったと推定可能の史料が遺る。それもやはり『手鑑』中の記事である。左にそれを引くと、

1、魚漁網漉出之事
第1湯浅組別而広湯浅ニ而多く出来仕候、関東国々へ捌ヶ申候
1、右網改役人有り此者家ニ而網之両方へ紙ヲ巻朱印ヲ押紀州湯浅村改広村改と仕候、
右網数先年ハ広湯浅之内に而百2拾万反も出来候由ニ而近年捌ヶ悪敷宝暦年中ニ至漸く2万端程ならでハ出来不申むかしの十分1ニ成申候。


この記録はおよそ宝暦頃(1751〜62)と見られるが、当時広・湯浅方面において漁網の製造が、なお相当盛んなものがあったことは明らかである。主にその製品は関東地方へ売捌いたと記しているが、当地方の漁民の関東への出漁とも関係があったと解せられる。村に網役人があって戸毎の製品を検査し、検査済証印押捺のものを販売し、商品化発展を図った。
この地方における手漉による漁網の家内工業は、かつて、一層盛んな時代があり、「網数先年、広湯浅之内ニ而百2拾万反も出来仕候共…」と、その隆盛を回顧している。だが、その先年とは、一体何時頃のことを指しているのであろうか。この年代について知る由もないが、藩政初期、藩主徳川頼宣が地方の産業の保護を奨励し、湯浅組(当時は広組)の製網に対しても、正保4年(1647)特に保護を加えられた結果、但馬・安芸の諸地方から純良な苧麻を移入して漁網の製造に便を得た(『湯浅町誌』)。これによって推測すると、江戸時代初期の正保4年以後、おそらく、同中期までの期間と見られるのである。それにしても、製網高120万反とは、年産と見る場合如何にも大き過ぎる。
ところで、その後に続いて「諸国浦々ニ而多く出来候由ニ而近年捌ケ悪敷宝暦年中ニ至漸く2万端程ならでハ出来不申むかしの十分1ニ成申候」とある。諸国浦々にも製網が行なわれるようになって、近年、広湯浅の製品が売れ行きが落ち宝暦年中には2万反程となったというのは判るが、それが昔の10分の1とすれば、昔は20万反であったことになる。これでも年産額としては、かなり大きな出来高である。
さきの120万反は年産高にしては、少し話が大き過ぎる。或は年産高のことでないのかも知れない。
120万反はとにかくとして、広・湯浅地方の製網の歴史は可成り古いようである。前記『湯浅町誌』はその産業史篇に『湯浅町郷土誌』 の記事を引いて、左の文を載せている。

降りて文保頃(1317)には己に結網の法を伝へたりしもの、如く、嘉暦の頃(1326〜8)は岩佐網と称して、附近の漁場に売り出したりと云ふ。

右郷土誌の典拠の所在は、管見にしていまだ知見を得ないが、年号を付しての記述であるから全然否定もし得ないものを感じる。すると、鎌倉時代末期既にこの地方には、製網の仕事があったと解されるのである。この中世からの伝統が、近世を経て近代まで続いたこと、広湯浅地方の手工業として最も長い歴史を有するものとして注意を惹く。
近代の当地方製網については、本書産業史篇において述べる機会があるであろう。
上来、甚だ雑多な事柄を取り上げてきた。そのため極めて断片的で、近世の社会と村の生活を正面から叙述ということには程遠い。しかし、これでも結構その側面を窺う糧となり得ていると思うので、あとを続けよう。
さて、江戸時代には、当地方にも御場村、即ち、藩主の鷹狩場があった。『手鑑』に左の記事が見える。

御場村覚
田村 栖原 吉川 別所 青木 湯浅 宇田 名島 中村 柳瀬 井関 殿村 金屋 中野 山本 池之上 西広 唐尾 和田。
右御場村之諸殺生堅可申付勿論鉄砲打申儀堅仕間數段可申付筈


鷹狩の歴史は古く古代に始まり、戦国時代には衰徴したが、近世初期からまた盛んとなる。幕府では江戸周辺に鷹場を設置。諸藩でもそれにならって鷹場を設けた。右に挙げたのは、勿論、紀州藩のそれであり、おそらく時の藩主がここで鷹狩(鷹を使って野鳥を捕獲する1種の遊戯)を催すためであった。そのため、右各村の村民は、例え農作物に害を与える野鳥類であっても、勝手に捕獲することが許されなかった。鉄砲を打つことも禁止であった。
ところで、当広川地方においては、河瀬から津木方面が鷹場となっていない。その理由を推測するに、この山間地域の集落では、狩猟を業とする者がおり、それを妨げる訳にゆかなかったからであるまいか。
河瀬は鷹場村でなかったが、鹿瀬六郎太夫から、郡奉行と鳥見役所に、それぞれ次ぎの如き書面を差出し、許可を願い出ている。

  覚
1、私儀4月朔日〜7月晦日迄其之内為鉄砲稽古鳶鷹勝手次第打申度奉願候尤右之段鳥見役所人名相断申候
    以上
卯 3月     鹿P六郎太夫

郡奉行衆宛
  覚
1、拙者儀4月朔日〜7月晦日迄之内御場構も無御座候ハ、為鉄砲稽古鳶鷹勝手次第打申度存候外之諸鳥殺生致間敷候間其1札如此御座候  己上
卯 3月
                  鹿P六郎太夫
  富山 八之右衛門 殿
  宮本 九右衛門 殿


『手鑑』には、上記湯浅組各村のみ御場村として記載している。郡内のことは、たいてい漏らさず共に掲げている同書であるが、この鷹場に限り、他の組下の記事がない。だが、そこには鷹場の設置がなかったと断定できない史料が、また、同書の中で発見する。
上記でも触れた如く、鷹場の地元民には、そのためにいろんな制約がもたらせられた。野鳥は勿論、諸生殺罷りならんとか、鉄砲打つこと厳禁とか。その外、鷹場の中に小屋(瓜小屋) を建てることも自由でなかったらしい。

瓜小屋杯建候儀ニ付而
口6郡在令御場之内《小屋等被建候節是迄当人又ハ村役人共方御烏見《聞合被建来候由尤候 建候家小屋等取崩候儀共有之候趣相聞候右ハ已後不取建候而叶不申家小屋等建候節、御鳥見中《不聞合村役人江願出大庄屋ヘ相達郡方ヘ願出取扱候上済口否之義可申通候右之趣間違無之樣御取斗可有事
申 10月

御場之内へ家小屋等建候節之儀ニ付別紙之通奉行衆御申渡候間在中夫々間違無之様相心得させ置可被申候
以上
10月17日
                真木六之右衛門
     下4組大庄屋宛


右文書の真木六之右衛門は、宝暦頃の有田郡奉行である。申10月は、おそらく、宝暦2年(1752)であろう。同年は壬申である。
藩の奉行所からの通達を、郡奉行が管内下4組(宮原・石垣・藤並・湯浅各組) 大庄屋に通知している。右の史料から推測するなれば、湯浅・宮原・藤並・石垣各組に鷹場村があり、山保田組には、それがなかったらしい。
さて、鷹場内において、かりに、諸鳥殺生や鉄砲打ちした場合どうなるか。それについては、左に引用の文書をもって判断できるであろう。

指上申1札之事
1、毎度被仰聞候通鷹遣網張り惣而諸鳥殺生仕候有之候ハバ札を改、御札無之者ハ村送り仕、其者宿追附届ヶ申々御注進可仕候井此度被仰付候通御鷹場之内ニ而鉄砲打候もの有之候ハゞ見付候村ち相図し筒貝を吹出し近在にて吹合急度相改其品早速御役所へ御注進いたし、尤鶉雲雀巣を取不申候様堅吟味可仕候
1、自今以後諸士鉄砲御免所にても8月朔日〜3月晦日迄鉄砲停止之儀被仰渡候 若不遠慮之方有之候ハゞ早々御注進可申候、
以上
宝暦8年午3月


宝暦8年(1758)は午でなく、干支は戌寅である。宝暦で午年は12年の壬午があるが、午12月に、左の如き鉄砲心得書が発られている。

地士60人大庄屋所持之鉄砲心得方
先頃御達候御鷹場在々に罷在候地土大庄屋所持之鉄砲之儀平百姓とハ品を違候義ニ付封印付候儀、無用ニ致
其中稽古4鳥杯打候節ハ其通8月朔日〜3月晦日迄之内若御免場へ鉄砲持出候儀も有之候由各へ相達し各々御
鳥見役へも心得させ御鷹場之内ハ鉄砲袋ニ入持込候様ニ仕事之座敷玄関向躾之所ニ飾置候義ハ勝手次第可相心
得旨御申聞可有之候
右之通候間御場ニ隙無沙汰無之候樣ニ入念御申附可有之候
以上
在々大庄屋地士60人所持之稽古鉄砲之儀此度別紙之通相極り候間口無之候様相心得可被申候尤地士60人
へも各々別紙之通相違可被申候
以上
午12月
       伊藤 又左衛門
       小笠原彦左衛門


飯沼家の記録『手鑑』から様々な事柄を紹介した。例え断片的であっても、近世社会の姿が、この記録によって窺えたと思う。だが、紹介が雑然となったので、筋目正しい近世史には程遠くなったが、これは筆者の不手際の故である。
次に、最も当広川地方に関係深い狼煙を『手鑑』によって挙げると左のとおりである。

1、狼煙2ヶ所
内1ヶ所  宮原組小豆島村宮崎山
1ヶ所  湯浅組西広村なばへ山
右狼煙揚候節ハ郡仕立尤揚之節郡奉行衆へ相違候へバ郡役所与郡中へ仕立候様ことの御通し出申候


当町西広海岸のなばえ山に狼煙場が設けられていたのである。小豆島の宮崎山・西広のなばえ山など、海上監視の利く場所に狼煙場を設け、海防に供えたのである。幕末の黒船騒動の時などには、重要な役割を果したので、いまもなお地元の人々に語り伝えられている。上記狼煙場は、それ以前から設けられていたことは、この「手鑑』によって明らかである。

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22、広浦往古より成行覚


1 「広浦往古より成行覚」


右の題名をもって書かれた近世地方史料が伝存する。寛政6年(1794)、 現在の広川町広が当時衰微甚だしく、年々の水主年貢の負担に堪えかねて、広浦庄屋・同肝煎連名で・大庄屋に差出した年貢減免歎願書の控えである。(広川町役場所蔵)
同文書は室町時代中頃から筆を起こし、江戸時代寛政年代までに至る漁村広浦を如実に物語っている。同文書の性質上、その内容若干誇張の点もあるであろうが、近世広浦の社会経済略史であり、特に漁民生活史である。

近世初期から同地の漁民は、日本各地の沿岸に出漁し、その盛衰の如何、その稼の如何によって当時広浦の盛衰が左右されたことが果説されている。尤も、同地の盛衰に大きく影響を与えたものに津浪その他の災害もあった。それも洩れなく述べられており、かって漁業盛んであった近世初期の頃に定められた同浦の水主年貢210石が、その後漁業の不振と災害等のために、この負担に堪え難く、次第に広浦村民が難渋に落入って行く有様をつぶさに述べ、そして、水主年貢高の減免を歎願している。それで、単に右の文書を転載するに止めても、少なくとも近世広浦漁民史を示し得る訳であるが、若干他にも資料が知見し得るので、それをも併せ参考としながら、左に近世広浦漁村史の略述を試みたい。




2 近世初期の漁村広浦


広浦の発展は、中世室町時代に始まる。応永7年(1400)、畠山基国が紀伊国守護職に任ぜられ、当国を分国とした畠山氏は、その後、当庄広浦の近傍名島山にその拠城を築いた。そして、やがて広浦海岸には居館をも構えらるに至って、その波打際に3百余間 (5百4、50余) の防浪石堤が築造された。このようにして、広浦とその近辺が城下として発展へ向った。同浦の旧湊 や旧市場もその頃から開かれたものであるらしい。
室町末期畠山氏に代って日高郡の豪族湯川氏が、この広川地方を所領するに至って、さらに、広浦の発展が続けられた。前記「広浦往古ヨリ成行覚』では、畠山時代広の町割が成り、追々家並が整って賑々しく繁昌したと記しているが、『紀伊続風土記』その他によると、広の町割は湯川氏によってなされたとしている。いずれにしても畠山時代から可成の繁栄があったことは、地元の伝承や古い記録に見える。広1千7百軒と伝えのあるのは、およそ、この時代を云うのであるらしいが、既に記した如く、この戸数には幾分過大伝承の匂いが感じられないでもない。然し、天正13年(1585) 豊臣秀吉の紀州征伐当時、広浦千3・4百軒を数えたと、前記『広浦ヨリ成行覚』その他の史料の伝えるところであり、同浦が既に衰微の方向にあった江戸中期宝永4年(1704)9月改めに際しても、なお、1千86軒を数えたことは、当時の確実な史料に判明するところである。これらの史料から推測する場合、中世末期から近世初期の広浦最盛時代、その戸数千数百軒の称、これは必ずしも虚伝と云い得ない。だが、この繁栄も天正の兵火に羅り、家数その大半を焼失したと前掲書の唱えるところである。
然しそのまま信用できるか否か、既記したことであるが、ここでもう1度考察してみたいと思う。
天正13年11月末から12月上旬に掛けて、殆んど連日にわたり大地震がありそのうち、 11月29日夜大地震、畿内及びその他の地方に地裂、家舎毀壊、圧死多数。また近国の浜海水溢れ溺死者数多と、小鹿島果編『日本災異志』に見える。畿内に津浪の発生した場合、たいていこの地方もその難を免れ得なかった。特に、広浦は元来津浪の受けやすい地理的条件を有している。これを考えるとき、上記同書の家屋毀壊・浜海水溢れ溺死者数多という、天正13年11月の大地震・大津浪が、広浦に、それこそ家屋その大半を失なわしめる結果を生んだのではなかろうか。それが、秀吉方の攻略と同年であったため、天正兵火説の方が大きく伝えられたのではないかとの推測もされる訳である。
いずれにしても、天正の災難で広の町は殊の外難渋に至り、渡世なり難く、思い思いに諸国へ漁稼に罷趣と、成行覚が広浦漁民の諸国沿岸への出漁原因を述べている。そして、その頃西国を専にし、薩摩・肥前・日向・大隅と九州各地の浦々に魚群を追い、稼を得てはその漁船で国へ帰るということを年々繰り返しているうちに、西国の海もやがて不漁となった。そこで出漁の場所を近国の泉州灘或は熊野灘に求めたが、これも不漁になるに及んでからは、駿州・遠州・豆州の浦々、即ち東海道沿岸に進出し、その後更に東進して関東常陸国陸原の浦をまず居浦となし、そこから相州・房州・上総・下総右国々の浦々へ罷越して漁稼を行ったと、これも成行覚の記すところである。
さて、上に見た如く、近世初頭、広浦漁民は遠く西国および東国各地沿海に漁場を求めて往来したのは、果たして、成行覚の伝える如く、天正の災厄が専ら原因であったであろうか。この所伝の当否に関しては、羽原又吉博士の大著『日本漁業経済史』によって窺うことができるので、後述において若干触れることにしたい。だが、その前にも少し次を進めよう。
成行覚によると、近世初期広浦漁民が右各地浦々に出漁して、8手組・まかせ網と云う鰯網を始めたと伝える。
そして、慶長の初め頃(1596〜1600)は、その網数80帖を数え、広浦戸数も漸く復旧して千軒ばかりとなったという。
右出漁80帖、網1帖につき乗子(漁夫)3・40人ずつを数え、総乗組員数夥しく多数に達したと記す。これによると、当時広浦から諸国沿海に出漁した漁民数は、実に2千数百を越え3千人に及んだ模様。そのため、広浦水主年貢(漁業年貢)210石と定められたという。それを銀納をもってしたから、毎年割符1人前小入用込(経費を含めて) 銀7~8分ずつ負担し、水主米210石分を慶長から凡そ7・80年間、右の割り振りで皆上納を済ませてきたとある。慶長からと謂うのは、浅野幸長の慶長検地の際に定められた水主年貢であったからである。
ところで、徳川時代天和・貞享頃迄(1681〜1687)は、関東へ出稼の者達は漁船で国元と往来するのを常としていた。船団を組んでそれを行なったのである。それが貞享年中、遠州灘で難船し、広浦漁民夥しく溺死し、そのうえ、網株が潰れ、水主人数と網数が著しく減少したとある。
これによって、貞享以後宝永初頃(1687〜1705〜6)迄は、210石の水主年貢を水主人数へ割当てたところ、本役1人前銀高で156欠となった。海難事件以前の倍額の負担となり、広浦もこのあたりから著しく生気を失った模様である。
さて、さきに後考を約した広浦漁民の他国出漁の原因について、左に1言してみたい。
近世初期の頃、産業文化の中心地畿内および、その周辺諸地方の漁民は、苦難を押して遠く西国や関東に出漁を開始した。紀州の漁民も例外でなかった。広浦漁民が天正13年の災厄に疲弊した郷土をあとに九州各地の沿海に出漁したのも、およそ、そのような時代であった。ひとり広浦漁民だけの壮挙でなく、まして、成行覚のいう如き天正の災厄が第1の原因でないことが判る。
このことについて、羽原又吉博士はその大著『日本漁業経済史』上巻の中で次の如く述べられている。

京阪を中心とする漁業は、この地域が古い文化の中枢であっただけに、その支配圏内の漁場は早くより開発され、殊に瀬戸内海の如きは徳川期に入っては全体として、既にその極限に達したと考えられる。殊に紀州・土佐・摂泉・阿波・讃岐等の漁民の一部は徳川期の初期頃から遠く九州西北沿海、或は遠く関東海へ向け年毎出漁及至移住し…

上の引用文で、畿内・南海の漁民が、遠く西国・東国沿海に新たな漁場を求めて出漁若しくは移住した理由が明らかにされている。その時期については徳川初期の頃からと見られているが、皆一様にそうでなく、広浦漁民の如きは、それよりもやや時期が早かった模様である。
現在当地方の記憶として、広浦漁民の出漁の地は、千葉県銚子外川浦と五島奈良尾浦のみ僅に残っているに過ぎない。それがおそらく、最後の地であったからであろう。古い時代のことから順々に記憶から消えてゆく。それを補って呉れるのは文字で現わした資料である。下総外川浦、五島奈良尾浦など広浦漁民や西広漁民(現広川町大字西広) が、そこに漁場を開拓し、居浦(根拠地)とするまでには、随分各地沿海において稼いでいる。いまそれを知り得るのは、前記成行覚1書や現地寺院の過去帳及び墓碑銘である。近世ある時期までの広浦繁栄の一半は、遠く他郷の海で稼いだ漁民の賜物であった。(産業史編 漁業史において詳述。)

3 近世中期以降の漁村広浦


広浦は古来しばしば津浪の災害を蒙った土地柄である。江戸時代中頃、宝永4年(1707)10月大地震大津浪があり、この時も同地は甚大な被害を蒙った。成行覚の記事によると、広浦家居4百軒余流失。残った家数6百軒ばかり。浪津に溺死した人数もまた少なくなかった。そのため水主(漁夫)人数が減少して、水主米割符は1人前本役で銀3拾匁上納しなければならない始末となった。貞享年中の遠州灘の難船、また宝永4年の津浪と両度の災難で、広浦の衰微甚しく、水主米の難渋もその頃から始まった。しかしながら、享保16年(1731)迄は毎年既定通りの水主米銀高は、ようやくながらも上納を済ませてきた。
宝永4年の津浪で人家に甚大な被害を与えたばかりでなく、寛文年間築造の広浦大波戸場(前述の紀州藩初代徳川頼宣築造の和田大波戸場)も崩壊して湊の形も台無となった。これもまた水主米難渋の原因の1つ。それと云うのも、この波戸場が完全であった当時は、諸国廻船の入津が多く、諸商戸も繁昌し問屋船宿その他船手掛け得る者、たとえ里方支配(浦方とは漁業・海運その他海上事業者を指し、里方とは農業・商業その他陸上事業者を云う)に属する者であっても、更にまた他村から入込んできた者であっても、それ相応の水主役銀(浦方年貢)を相勤めた。だが、波戸場が破壊され、港の機能が失ってからは、諸国廻船も入港しなくなり、自然と濱方・里方共に稼が減少した。
以上が、およそ、寛政6年に書いた『広浦往古ヨリ成行覚』による寛永4年の広浦津浪に関する被害顛末である。
ところが、当時の記録、もと広の旧家湯川藤之右衛門家に伝えられた『宝永4亥年津波并変扣』によると、広浦の被害はもっと大きかったことが知り得る。同記には被災軒数実に850軒、そのうち7百軒は流失、150軒は禿家 (壁など落ちて骨組ばかりとなった建物)に及んだという。
事のついでに、当時の被害状況を上記史料から挙げると、左の如くである。

広村
1、家数  850軒 内7百軒流失
            150軒売家
1、土蔵  90軒  内70軒流失
           20軒无家
1、船数  12艘  流失
1、橋   3ヶ所  右同
1、御蔵  2軒   納米2石4斗4升
           御納麦25石余  流失
1、御高札      流失
1、御代官所  1ヶ所  流失
1、郡寄合所家蔵共  流失  但し郡中先年よりの諸帳面諸手形共不残流失
1、牢屋  1ヶ所  大破損
1、死人男女192人  但し10月14日相知れ候分
1、牛 1頭  流失
1、右死人の内年比60斗の女金子5両銀百拾3匁、右懐中致し有之候、死がい土葬に致し、金銀は広村庄屋肝煎へ頂置候
右の外に出所相知れ不申いづ方之者共見知無之死人男女百人有之、死がい土葬に致し札建置候


広浦は右の如き惨害を蒙り、残った人家僅に236軒となった。同浦住の死者男女併せて192人。その他他郷の者、男女百人に及んだというから、その惨状や推して知るべしである。これでは、水主人数も減少し、水主銀上納にも難渋したのは当然である。
ところで、広浦周辺はどうであったか。それを右旧記によって見ることにしよう。先づ、当広川地方から記すと、左の如である。

西広村、被害家数68軒、内49軒流失・19軒大破損。船1艘・御蔵1ヶ所・牛2定流失
唐尾村、被害家数22軒、内19軒流失・3軒大破損。蔵2軒・船2艘・網12帖・御蔵1ヶ所各流失
和田村、家1軒流失
山本村、家1軒大破損。橋1ヶ所・船1艘各流失


広浦および上記各村の被害状況は、全く疑問の余地のない事実であると考えられる。その理由は、「湯浅町誌』に宝永4年の地震津浪を述べ、当時湯浅組書記であった平六手記を載せている。その中で広川地方に関する被害記録は、前記と完全に一致している。このことは両記録とも事実確認に基づく筆録であった証拠であることは云うまでもなかろう。
湯浅の被害については同町誌に詳細が掲げられているので、ここに省略するが、同月5日から14日迄、広・湯浅の被害者8百人ほどに対して、粥の施行があった。なお、住家を失った者のうち、広村で296人、湯浅村で213人を、同月19日から応急小屋に収容した。(『宝永4亥年津波并変扣』)
以上若干長くなり、本書災異篇と重複するかも知れないが、近世広浦の運命を決した程の大災害であるから、あえて右に記した。
その頃、広浦戸数は千軒余りであったことは、前記広浦成行覚からも読み取れる。湯浅千軒、広千軒とは古くから人口に膾炙された言葉である。この里言は、宝永の大津浪以前のことを謳ったものであり、その後、極めてを近代に至るまで、広はその繁栄を取り戻すことができなかった。
むしろ、それ以後の疲弊には甚しいものがあったことは、成行覚の記すところである。
宝永大津浪以前の広浦千軒は、単に古来の里言でなかった証拠がある。先記したが、大津浪の直前9月、『家並判帳面』 の記載に、千86軒とあり、広千軒はその概数を伝えたものに外ならない。そして、上記津浪並に変扣によると、およそ80%に及ぶ軒数が流失と破損の災厄に逢った。広の歴史において最大の災難と謂われる所以である。
この宝永4年(1707)の大津浪があってから、25年後、即ち、享保17年(1732)畿内以西の諸国は蝗害(いなごの害)のため大飢饉。そして餓死者多数を出した。そこで幕府および諸藩は、これの救済に拝借金・夫食米貸与・施米などの対策をたてた。だが各地で強訴や一揆がおこるなどあり、翌年には米価が著しく騰貴した。この災害は当地方をも襲い、非常な飢饉に陥ったことは、例の成行覚に見える。
その以前、宝永・正徳・享保とこの20年程の間に、諸国稼場所は不漁打続き、広浦住民が困窮に辛苦していた折柄、享保17年(1732)の大凶作は、一層広浦庶民を飢饉に追い込んだ。そして、同一7年冬から翌18年春までに夥しい飢餓人を出した。この地方の農民もまた同じであった。「所荒領之者助合仕候得共行届不申候而餓死仕者夥敷御座候、浜方里方とも絶人等御座候而里方は村上ヶ地夥敷出来仕、浜方水主人数減少仕候」
とこの時の惨状を記している。その結果水主人数減少のため、個人割当を増打したが、とうてい追い付かず、享保17年の水主銀から皆済すること、遂に困難に立ち至った。その旨願い出て、初めに内納となったところ、その後の取立厳しく、それを完納するためには、本役1人前銀50分ずつを要した。それが、時節柄至極困難なるため、享保17年から元文5年(1740)迄の9年間、余裕のある者に立替させ上納した銀高64貫987分5厘に達した。ここに至って、もはや借用する方途もなくなり、この日再び願い出たので吟味の上、元文5年水主米銀高の内8貫2百24匁上納し、残銀9貫百1匁を初めて猶予され、この時以来減免が認められた。
(皆済の場合は17貫325匁を要する)

寛保元年(1741)水主米210石この銀高15貫981分とされた。翌寛保2年は同石高に対して銀13貫923匁の上納と、さらに減額が認められた。寛保3年(1743)から宝暦10年(1760)迄の間、元来なれば年平均にして銀14貫弱を上納すべきところ、4貫68匁余りと、さらに減免となる。
近世初期広浦の諸国出漁網数80帖、その漁民3千に及んだことは「広浦往古ヨリ成行覚』によって先記した。
それが、近世中期宝暦の頃、どのように変化していたか左の記事によって知ることができる。右同書に

1、宝暦4戊年(1754)水主人数御改并網数御改ニ付右之通相改申上候
  覚
広浦御水主米210石之場所
水主人数合361人
  内
本役81人  但し1人小入用込銀5拾匁づつ
歩役161人但し押合1人4分5厘役、
 是ハ人別見取2分役ヨリ7歩役迄
 無役115人
是ハ関東西国所住居之者、病人・老人或い不身上之者とも水主役除ヶ置
網数36帖
  内
 27帖  関東行8手網
 2帖   関東行まかせ網
 6帖   西国行8手網
 1帖   所地引小網
右は宝暦戌年相改候水主人数網数如所ニ御座候


近世極く初期の慶長頃、広浦が西国や東国地方に向けて出漁した網数が80帖と称されている。それが1世紀半後、近世中期宝暦4年には、その半数以下になっていた。
その由因については、既述の面から窺知できるところである。だが、新たに注意を惹くのは、36帖中、29帖が関東行8手網とまかせ網であり、8割まで関東出漁のことである。その頃まだ西国出漁が僅か6帖に過ぎず、さらに、意外なのは、地元漁業は、なんと、1帖という極少さである。これらの理由についての証明は容易でないが、現在管見に入り得た資料からも、大体右の事実が首肯できる。関東は千葉県銚子と安房郡天津小湊で、西国は長崎県南松浦郡奈良尾(五島)で探訪の結果知見した資料によって、当広川地方漁民のうち現地において死亡し、その地に葬られた者たちの名前と年次が、一部分判明した。 (詳細については、本書産業篇漁業史に収録されるから参照されたい。)この資料を以て全体を律する訳にゆかないが、およその判断を助ける好箇の資料というべきである。
千葉県天津小湊善覚寺の過去帳によると、明暦初年(1655)から宝暦末年(1762)までの107年間に広浦漁民死亡者数250人を数える。
長崎県南松浦郡(五島)奈良尾町妙典墓地墓碑銘による広浦漁民死亡者数、初見は宝永2年(1705)で上記同様宝暦12年(1762)まで57年間に28人である。
上記以後の分については、他の分と共に後述で触れるとして、まず、右2例を比較すると、前掲の模様が反影されている。尤も、奈良尾の場合は、天津小湊の場合に比してその期間がおよそ半分であるが、それだけ広浦漁民の出漁が遅かったことを物語るものであろう。
なお、広浦漁民の関東、西国出漁に関しては、本書産業史篇漁業史の部において、かなり詳細に考察を加えているので参照されたい。それには、浜口恵璋師、五島奈良尾町助役津田豊水氏の玉稿も併せ登載しているので、一層参考となるところが多いであろう。
さらに付記するならば、房州天津小湊の善覚寺過去帳には、現在湯浅町栖原が126人・湯浅が38人・有田市宮原が19人。その外、現在の海草郡下津町方面の漁民も多数名前を連らねており、近世における紀州漁民の関東出漁の一端を知ることができる。荒井英次著『近世日本漁村史の研究』にも詳しい。
関東における広浦漁民の活動舞台として、最も人口に膾衣されているのは、銚子外川浦である。『銚子市史』によると享保15年(1730)当時、紀州から外川浦への出稼村数20村159人。そのうち広村77人、湯浅村39人と圧倒的多数を占めている。広・湯浅両村が特に多かったのは、明暦2年(1652)広村の崎山治郎右衛門が、外川浦の築港造成に着手し、干鯛場所を開き、郷里の漁民を往来させて漁事に従事せしめたに始まるであろう。
ところで、筆者らが銚子に、近世広川地方の先人達、そして彼地の開拓者となった人々の遺業・遺跡を探ねたが、第2次世界大戦時の戦災で焼上した寺院等もあって、十分の成果が得られなかった。特に期待した同市の宝満寺はそれで、古い過去帳が焼失し、同市妙福寺・浄国寺程の資料が得られなかった。宝満寺は特に、広浦出身有力者が墓所とした寺院であった。その外相当多くの当地方関係者の墓所であったという。
上記の如き事情もあって、現地踏査の成果には、若干、不十分な点があったが、『銚子木国会史」や『銚子市史』等の著書によって、それを補い得るので、左にそれを挙げると、
『銚子市史』所載の宝暦4年(1754)7月「外川浦網方商人御宗門御改印形帳」の紀州出身者250名。
そのうち有田郡が143名で、内訳、広村81唐尾村11人、津木村3(以上広川町)、湯浅村44(湯浅町)、水尻村2(吉備町)、糸野村1(金屋町)、中島村1(有田市と吉備町にあり、いずれの出身者なるや不明)となっている。当広川地方は最も多く95名を数え、特にその大半は広村である。
ところで、この当時、当地方西広村からも相当この方面への出稼者を出していた。銚子市妙福寺過去帳によると、同地での死亡者、元文5年(174O)から宝暦12年(1762)まで22年間に21人の名前を載せている。そのうち特に多いのは宝暦年間(1751〜62)の14人である。
なお、銚子方面と当広川地方の関係を述べて逸し得ないのは、漁業の外に醤油醸造業のことである。特に近世広村の出身者による創業は重視に値する。由来銚子醤油の名が高いが、その基を開いたのは、広出身の浜口儀兵衛である。近世初期正保2年(1645)儀兵衛が銚子に赴き醤油醸造の業を始めた。その後各地の者同地に至って、この業盛んとなるが、「宝暦3年(1753)8月醤油仲間殺仕入高改」(『銚子市史』所載)によると、広出身の同業者左の4名が判明する。

 広屋 重次郎 〔岩崎家、宝永5年(1708)銚子に醤油醸造開業]
 広屋 儀兵衛〔浜口家、正保2年銚子に創業、元禄13年(1700)ヤマサ銚子店開業]
 広屋庄右衛門
 広屋理右衛門

右の外にもあったかもしれないが、いま明確になし難い。なお、漁業・醤油業以外に商業のため銚子方面に移住した者もいたであろうことは疑いを入れないが、これも今は詳かにすることは困難である。因に記すと、銚子醤油も爾来幾多の変遷を得て、現在ヤマサ醤油のみが気勢をあげている。
さて、この辺で再び『広浦往古ヨリ成行覚』に眼を向けよう。前記した宝暦4年水主人数並に網数改めに、広浦水主人数合361人、内、本役83人、歩役165人、無役115人と記録し、慶長頃に比較して、随分漁業従事人数が減少していることを如実に物語っている。さらに注意を惹くのは、関東、西国等滞住者を水主役、即ち、漁業年貢負担の対象から除外しているという付記である。この記事によって、季節的出漁者ばかりでなく、出稼地に土着する者も既にいたことを物語る。当時の広浦漁民減少もこのような事情が与っていたであろうことを示唆するものである。
しかし、最も大きな原因は、この頃から次第に関東方面が不漁期に向ったことである。そのため、宝暦年中、郡代官所に願い出た結果、水主米難渋に立ち至った実情が認められ、高210石のうち3分の1に減免してやるがどうかと尋ねられた。だが、関東稼の者共は毎年々々崩し売りに活却してゆく情況下の村柄では、「たとえ3分の1に減免となし下されても、「急度(必ず) 年内皆済可仕との義は得御請合不申上候」と、答える以外になかったとある。
そして、次ぎの明和年中(1764〜71)に至って、益々窮状甚しくなり、潰れ網・潰れ家が年毎続出するという有様となった。そのため、漁業年貢の難渋極度に達した。明和3年(1766)の水主方改では、最早衰微の1語に尽きた。この実体をあらためて訴え出たところ、憐感をもって未進分は旅稼場所立ち直るまで猶予とされ、なお、年々の水主米は、残り人別で相応に上納するようとの有難い取り計らいであった。
だが、既に年久しい稼場不漁のため網株5組の年切小者養子(年切乗子)等まで見限りをつけて、船頭に暇乞いする始末。広浦浜方次第に零落し戸数が減少する一方なので、同年(明和3年)、種々方策を講じて、それが防止に努めた。それでようやく家数減少が喰い止め得たという。
それから数年後の「安永元年(1772)水主人数網数改の節左の通り」と、当時の模様が窺える。

広浦御水主米210石之場所
水主人数225人
 内
本役54人但し1人小入用込銀55匁
歩役124人但し1人小入用込押平2分5厘役是ハ人別6分役5見立迄
無役47人

  是ハ病人老人弱手之者故水主役ヲ除
網数17帖
  内
8帖 関東行8手網
8帖 西国行8手網
1帖 所地引 小網


右の如く関東旅網減少の結果、願出により、安永8年(1779)まで、水主米銀高毎年2貫4百匁ずつに用捨された。
次ぎの安永9年に至って下総国外川浦への旅網残らず休止し、漁夫達は長々の不漁に思い思いに諸縁を求めて立ち去った。そのため同年から水主銀1貫8百5分ずつに減額されたと記している。
さらに天明2年(1782)、広浦の関東方面出漁網、次第に潰れ網となって、水主人数のうち、少しは帰国したが、右稼場所に居着く者もあって、水主米銀取立て困難となり、この年からは毎年銀1貫4百匁の上納となった。
かつては広浦の関東旅網5・60帖も数えたのが、この頃1帖も残らず潰れ果て、同年(天明2年)水主人数網数改を行なったところ左の通りであった。

水主人数141人
  内

本役21人 但し1人小入用込銀55匁づつ
歩役85人但し善人押平し1匁5づつ無役35人
 是ハ病人弱手之者取定相成不申候2付役銀ヲ除ケ置
網数 6帖
  内
5帖  西国8手網
1帖  所地引網
外ニ西国日向行ハ手網ニ帖御座候得共去丑年(天明元年か)網株相休帰国仕候


この状態を成行覚は、「右之通ニ成行候哀至極之村柄ニ罷成申候」と述べている。そして、右難渋の実情御上へ申述べ、水主米銀の幾分かの用捨を願い出たが、代官所の取り上げるところとならなかった。よんどころなく2百匁余を村役人が立替えてようやく上納を済ませるという有様であった。以前はこのような事態となった場合、毎度願い出て上納銀御用捨を蒙っているのにと、いささか不満を漏らしている。
このような時節の折柄、西国出漁七兵衛・与左衛門網2帖が潰れ網と相成って、右2帖の網元と乗組家数20軒、この人数33人沽却し、益々広浦の衰微が甚だしくなった。そこで、やむなく水主米上納銀のうち2百匁ずつ、今年から「減少之儀奉願候、御慈悲之御了簡ヲ以比段御聞相済ニ為下候様奉願上候」と、この『広浦往古ヨリ成行覚』を認めて、湯浅組大庄屋へ差出した。時に寛政6年(1794)2月。差出人は、広浦庄屋小兵衛・同肝入嘉兵衛連名で、時の大庄屋は飯沼平左衛門であった。(註、広浦庄屋小兵衛とは、湯川小兵衛である。)

右の歎願書を受取った大庄屋は翌3月、郡奉行所と同代官所の両方へ差出したところ、同年5月、願出どおり復旧なるまで毎年2百匁ずつ用捨する旨の通知があった。
ところで、宝暦以後、関東や西国で当広川地方からの旅網稼人死亡者はどれ程判明しているか。それを記して、前記宝暦以後の水主人数并網数改と共にその時代の趨勢を窺う1参考資料に供したい。

                        天津小湊    銚子    千葉県計    五島奈良尾
宝暦末以前(1763以前)          250人    23人    273人       28人
自明和元(1764)至安永9(1780)      5      13      18         21       16年間
自天明元(1781)至寛政12(1800)     6       9      15         40       19年間
自享和元(1801)至慶応3(1867)      4     107     111         62       66年間
年代不詳                      1       8       9        18
合計                       266     160     426        169


右表の数字は、さきにも言及したとおり、本町誌編集に際して、関東は千葉県銚子市と同安房郡天津小湊を、西国は五島奈良尾町を訪ずれ、新たに知見した資料による広川地方出身現地死亡者数である。いうまでもないが、現地死亡者数の一部分を知り得たに過ぎなかったであろうし、当地方からの出稼者数は、おそらく、この幾十倍、或はそれ以上であったであろう。
だが、その概数把握も容易でないので、それはさておき、もう1度前掲表に眼を移そう。 房州天津小湊においては、その大半は宝暦以前であるに対して、下総銚子ではその逆である。
当広川地方に遺る口碑では、銚子外川浦が広浦漁民出漁の地として、もっともよく人の知るところである。関東方面における最後の出漁地であったことから、今もなお語り伝えられる結果となったものであろう。それに引きかえ天津小湊などは、全く記憶から消え去っていたと云ってよい。なお、さらにいうなれば、小湊と銚子を併せて見た場合、宝暦以前の方がかなり多い。「広浦住吉より成行覚」の語る事実をある程度裏書していると云えるのであるまいか。
一方、五島での場合は、天明寛政の間が最も密度が高く、それ以前と以後の期間はおよそ、その半分に当たる。
なお、さらに考えられることは、漁業の場合、年代が降る程季節的旅網ばかりでなく、現地に土着する者が多くなってきたことである。そのため、国元から往来する出漁者数が減少していったにもかかわらず、かえって現地死亡者数が増加という現象が当然あったに相違ない。右の表にもそれが現われているのでないかと思う。
以上若干繁雑にわたり過ぎたが、『広浦往古ヨリ成行覚』なる文書控を中心に、その他資料の助けをも借りて、近世広庄広浦盛衰記を叙述した。
だが、上述の中で引用した資料以外に1・2近世の広を物語る史料が知見するので、それによって若干補足しておきたい。
近世末期弘化(1844〜47)頃、広村百姓から年貢減免を願い出た文書控がある。湯川藤之右衛門家所伝のものを、故浜口恵璋師が書写され、同師の文庫所蔵となる『宅恐奉願上口上」2通と『御苦労奉願上口上」1通である。
成行覚は、おおむね浜方史料であるに対し、右3史料は、いわば里方史料である。弘化4年(1847)10月広村百姓惣代7名連判の「ヒ恐奉願上口上」書によると、往昔は人家千軒余、そして、他国出漁網株多く繁昌の村柄であったが、それが段々衰微して、当時、2百軒余となった。その上高張の田地(年貢米の高い田地)は個人耕作から離れて村上ヶ地(村共作地)が次第に増加する。広浦は浜方(漁家)ばかりでなく、里方(農家)の疲幣も著しくなるばかかりであった。そのため、村の小入用(費用)を削いて、貧農を救済したり、重立ったもの談合の上積立金を行ない、それに少しずつ余荷銀を添えて渡世なり難い者を助け、田地を手離さないよう図った。
それでも、元来悪田所持の者は段々年貢不納が重なり、よんどころなく村地株(村所有)とするものが多くなった。
しかし、徒らに村共作地の増加も困るので、個人耕作にしたいのだが、いずれもそれを敬遠しがちである。それというのも、広村は至って早損の土地柄故に、他村に較べ特に凶作打ち続き易すく、従って難儀降りかかり遂に沽却百姓が多かったからである。
そこで、恐れ乍らと願い出たのは、御上の御憐感を以ての救いであった。当年より20年間、御手入米(藩の収納米)何十石宛御下げくだされる様、その上家50軒御取立下さるようと、ひたすら懇願する以外なかったのである。そして、「左候ハゞ他国出稼之者共呼寄せ新百姓取立農業専一に一統申合精出相働候ハバ自然村柄取直し百姓相続仕候儀と莫大之御慈悲冥加至極難有仕合奉存候」云々と、御上(藩)の救済に縋って、村勢立て直しを願わなければならない窮状を訴えている。
もう1通の「乍恐奉願上口上」写には年号はなく、ただ未11月とあるのみ。弘化4年は丁未であるから、おそらくさきの文書と同年か。その後の未年は安政6年(1859)己未であるが、この文書には安政元年(1854)の大津浪の被害が謳われていない。
さて、右文書も前引のそれと大体相似た願出書であるが、上述に現われなかった点を1・2拾い上げてみたい。
広田圃は他村のそれに比して旱害を蒙りやすいのは、広川か天水にまたなければならないからである。日照り続きの年は広川の上流まで井落(堰水を落すこと)を行ない、その堰数8ヶ所にも及ぶ。井関・河瀬・前田・猿川・寺杣・落合と6ヶ村の残り水を貰わなければならない状態で、それによって漸く毛付(田植)し、その後の養い水を得るという有様であった。しかもこの井落には費用が掛った。水上の村々に対して井落料(依頼または謝礼のための金品)を必要としたからである。しかし、このようにして、折角作付しても元来水不足のため、半作となる年が多かった。
広村の出口(現在内海町と称さる附近)のうち、寺村(現在この地名残らず。しかし伝承遺る)と呼ぶ所に、昔は家数80軒余もあったが、享保(1716〜35)の頃から追いおい泣却して只今(弘化頃)では、それが1軒も残っていない。
享和年中(18013)から当年(1847)までに沽却したもの、およそ130軒余にも上った。広村々民沽却に伴い村作地が増加する一方であった。それ故、5人組に割当耕作させたが、営繕費や肥料代などさておいても、年貢米さえ穫れない状態であった。だから、その日稼の弱百姓たちには、この割当耕作も歎きの種であった。是非なくそのような弱百姓は免除としてきたが、しかし、近年の凶作、去る申年(天保7年)の大凶作等で多くの者が活却するという有様である。
百姓たちの難渋が益々つのり、家屋敷・農舎に至るまで売払って年貢上納に当てている折柄、年貢不納者共へ20年年賦として貰ったことは有難い仕合せである。しかし、そればかりに甘んじている訳にゆかない。よんどころなく、奉公に罷出て、その給金をもって上納に役立てる者もいた。また、後家・老人暮の者は入津船の荷揚げ日雇稼など様々な手段をもって渡世しなければならなかった。尤も老人や少女で江戸積の袋、醤油袋、糸とりなど手内職によってようやく暮らしを立てる者もいた。
また、壮年者は農業をしようにも資本がなく、仕方がないから棉打をなし、住居も借家で、手仕事をもって、辛くも糊口を凌ぐという有様であった。
当時、広村農家80軒余で、役牛わずかに20頭余。借牛してどうにか蒔付けを済ませるという始末であった。
このような貧しい村であるから、村上地惣高何百石は、当年から3分取り(3公7民)年貢に御用捨遣されたい。その上新百姓50軒ばかりに小屋を与えて載きたい。
なお、また、御上の格別の御了簡を以て、近村へ出稼ぎの者共を呼び寄せ、百姓できるよう御取計い下されば、家数も殖え、互に励みも出て、悪田も自然と良田となり、稔りも必ずよくなるであろう と陳情している。
以上の如く、広村百姓の衰微を述べ、窮状を訴え、そして、この儘なれば来春にはいよいよもって弱百姓は飢えるほかはない。何卒ぞ見分の上救済して載きたい、とひたすら歎願しているのがこの文書である。
ところで、右の文書の中で享和年中(1801〜3)から広村がおよそ130軒余沽却したと記しているが、いま1通の文書「御苦労奉願上口上」には、それが政年中(17891〜800)とし、大体年代が一致している。18世紀末から19世紀初期の間に上記の如き衰退があったことは間違いなかろう。そして、弘化当時に百姓もできない借家住まいの後家1人暮らしの者が20軒余もあったと記されている。
その他この当時における広村の状況を極めて簡単ながら記載している箇所があるので、左にそれを挙げ参考に供したい。

1、有田郡広村之儀八往古宝永年中迄ハ家数凡
千軒余御座候処
1、日向行網方  梅野小右衛門
1、豐後行網方  1、江戸出店  半左衛門

1、総州外川行網方  橋本武左衛門
右は宝永年中より享和年中迄進々沽却仕候
        長兵衛組
1、五島行網方  元中組
       若左衛門組
       権次郎組
       六郎兵衛組
     〆 7張
右之内百石上小4百石迄之船12艘有之、享和年中上口天保年中迄追久古却仕候
右之通沽却仕候付百姓方村上午地ニ相成申候
  当時百姓89軒
  同所家持107軒
  借家住50軒
   (以下省略)


右の如く、広浦の消長を上記2・3の史料によって叙述してきたのであるが、この稿了した後、寛政5年(1793)3月改の広村大指出帳1冊を知見することができた。この大指出帳によって大きく修正すべき点もないので、稿をそのままとした。しかし、極めて重要な史料であるので、左に全文を掲げておくことにする。

ェ政5丑3月改  大指出帳  広村
                 広村
  外に6石9斗4升7合 此反4反5畝24歩 御殿跡
    9石4斗3升3合 此反6反2畝6歩 養源寺領
      3斗     此畝2畝歩  牢屋敷
      6斗1升   此畝4畝2歩 御代官屋敷
町84丁8反4畝歩
1、高1393石7斗5升4合
  町75丁9反4畝26歩8厘、押左反1石6斗8升1合8勺、1344石5斗8升8合2勺 田方
   内
  町2丁4反3畝11歩1厘
    37石8斗7升1合  古荒
  畝5畝11歩2厘
    8斗8升1合  浜代
    1石8升1合  高下ゲ
  反1反8畝18歩2厘

    2石7斗9升1合  海成
  茶3斤
    1斗8升  石塚成
  反5反8畝12歩7厘
    7石2斗4升5合5勺  川成
  反2反8畝9歩  
    2石6斗4合  柳P村折?  池床
  畝3畝3歩
    3斗7合  3昧荒
  反9反4畝15歩
    反1反5畝3歩6厘  子畝下午
    2石7斗9升5合  寅畝下ケ
    7斗7升  未高下ケ
  畝3畝9歩3厘
    4斗5升5合  道成
  畝2畝18歩6厘
    4斗4升1合  森陰荒
  歩16歩6厘
    8升3合  崩成荒
  反10反2畝3歩6厘
    3石1斗3升2合5勺  新田成

  畝1畝10歩8厘
    2斗5合  高浪荒
  畝3畝22歩
    8斗4升  屋敷  無当手荒
     内3畝22歩高4斗7升  浜屋舖
  町9丁5反5畝26歩3厘
    146石5升  屋鋪
     内町5丁5反4厘
     82石1斗9升9合  浜屋舖
  反4反17歩7厘
    9石5升8合5勺  浜屋鋪
     是長海際ニ而高浪之節大堀ニ相成以銀先年賦
     御免地所仕永定免1ツ8分
  畝2畝8厘但畝なし本高入共
    5石3斗3升9合5勺  浜屋舖
     右同所永定免1ツ5分
  茶桑
    2石3升9合  小物成
  町67丁4反9畝8歩9厘
    1143石3斗9升2勺  毛附
   町14丁5反

    250石  早損所
  反8反6畝拾9歩
    14石3斗6升8合 3ツ9分免所かわの前
  町36丁2反8畝7歩9厘
    634石8斗1升6合5句  村上地
  町4丁8反9畝3歩2  押左反1石5合2勺
   49石1斗6升5合8勺  畑方
    内
   町1丁5反9畝3歩4厘
    12石4斗9升5合3勺  古荒
   内
  歩17歩8厘
     9升5合  浜代
   歩21歩4厘
    1斗  子畝下ケ
    3斗式升  高下ケ
  畝7畝16歩9厘
    1石5合
  歩18歩8厘  道成
    1斗
  反7反9畝拾歩  寅畝下ケ

   4石9升8合7勺  新田成
  反5反5畝11歩8厘
   5石8斗9升9合3勺  川成
  畝6畝6歩
   3斗1升  三昧荒
   畝226歩3厘
    2斗3升9合  森陰荒
   歩9歩4厘
    5升  崩成荒
   畝5畝15歩
    2斗7升8合3勺  高浪荒
  町3丁2反9畝29歩8里
    36石6斗7升5勺  毛附
    反9反1畝4厘
    内12石3斗4升1合5勺 村上地
  町5丁入畝歩
押左反8斗2升6合7勺内
1、高41石7斗4升1合  新田畑
    内
町2丁5反4畝15歩
押左9斗8升3合5勺入内

24石9斗7升9合  田方
    内
町1丁5反3畝21歩
16石斗6升4合  荒
畝1畝12歩
1斗1升2合  無当毛荒
是長宇田川際御普請ニ付内堀下ケ地床成ル
反9反9畝12歩  畝
8石7斗3合  毛附
町2丁5反3畝15歩
押左反6斗6升3合9勺
16石7斗6升2合  畑方
    内
町1丁8畝18歩
7石3斗  荒
町1丁4反4畝27歩
9石4斗6升2合  毛附
1、米11石6斗4升2合7勺  2夫米
1、本米55石  御種借
1、米7石5斗2合7勺  同役米
1、銀5分3厘  茶株

1、米210石  水主米
   内
惣人数141人
本役21人 本役1人銀50匁宛
歩役85人 見取♭7歩役迄押し2匁厘
無役35人
1、高1393石7斗5升4合
   内
761石6斗2升  水主役引高
50石         大工引高
5石          引高
570石1斗3升4合 御役高
1、高5斗1升5合 三船谷池床井関村ヘ置候高
外2高8斗9升6合 折杭池水漬畦谷新池床柳P村置高広村御高ニ而荒ニ御迄ヒ成候奉願上御座候
1、所出来物  広浦  石海雲
広川  青苔
同所  白魚
広村  網并
1、家数448軒  丑改
内1軒  大庄屋
4軒  庄屋

4軒  肝前
1軒  杖突
4軒  行司
3軒  木挽
1軒  鍛冶
303軒  本役
83軒  半役
35軒  無役
内6軒寺 1軒法花宗
4軒浄土真宗
1軒真言宗
外ニ48軒および46軒
8歳以上
1 人数1881人内1365人男 516人女  丑改
外ニ241人内137人男 104人女
1、牛数36疋  丑改
1、作間之稼無御座侯
1、御鷹御領指札 1枚 庄屋長兵衛預り
1、通之御印      庄屋小兵衛預り
1、池数6ツ

菱池  中野村ニ有掛高拾4石6斗
折杭池  柳P村ニ有  広名島
衣奈谷池 金屋村ニ有  柳P中村
此掛り高396石7斗5升    立合
  内
319石3斗  広村
56石6斗9升  名島村
14石6斗9升  中村
6石6斗  柳P村
三船谷池  井関村ニ有  広村名島村 立会
大滝谷池  同村ニ有   中村金屋村
右掛り
214石2斗2升  広村
169石3斗2升  名島村
232石3升  中村
72石9斗6升  金屋村
畔谷新池  柳P村ニ有
此掛り高83石5斗6升
1、船数16艘
6艘西国行漁船
10艘 所稼船

内2艘 地引網船
5艘 小廻り船
3艘 小てんま船
1、網数7張      丑改
内 6張西国行8手網
1張所稼地引網
長流山
1、養源寺 法花宗 京都妙覚寺末寺
屋鋪 東西46間半南並51間半
本堂 表6間半 裏5間
蓆架 長2間 横3間
書院 長6間 横3間
方丈 3間4方
庫裡 5間4方
玄関 長3間 2間
外ニ23屋2間4方
釣鐘堂1間半4方
表門 3間半
裏門 1間半
鎮守 30番神表2尺9寸裏2尺6寸
7面明神9尺4方

高9石4斗3升3合 御殿跡引高地寺屋敷ニ致下候正コニ辰方無貢地
殺生禁断御證文通
有田郡広村養源寺境内領
4方之石垣此所致禁止殺生
不可有達犯者也依仰如件
亨保3戌年8月日    三浦遠江守
水野対馬守
殺生禁断之御高札有

1、安楽寺 一向宗 湯浅村福藏寺末寺
1、覚門寺 一向宗 西本願寺 直参
1、正覚寺 一向宗 堺慈光寺 末寺
1、延光寺 一向宗 右同所
1、神宮寺 真言宗 根来寺 末寺
教専寺 一向宗 播州富田本勝寺 末寺
1、宮8社
1社 惠美須 表3尺5寸 裏4尺
1社 同   表2尺8寸 裏3尺5寸
1社 同   表2尺5寸 裏3尺
1社 大将軍 表1尺8寸 裏1尺2寸
1社 同   2尺4方
1社 国主大明神 表4尺2寸 裏3尺5寸
1社 牛頭天王  表1尺   裏1尺3寸
1社神 明    表1尺2寸 裏1尺
1、鉄砲 1挺 御封印付
1、御高札有り
1、鉄砲 3挺  地士湯川藤之右衛門
1、鉄砲 3挺  地士橋本忠次郎
1、鉄砲 1挺  地士勝山次郎右エ門
1、鉄砲 2挺  地士梅野長次郎
1、鉄砲 2挺  地士橋本新助
1、鉄砲 1挺  地士竹中助太郎
1、鉄砲 2挺  地士浜口專次郎 朱書 由左エ門
1、鉄砲 1挺  当時大庄屋相勤候 地士飯沼五郎右エ門 朱書 平右エ門
1、鉄砲 1挺  浪人吹田役吉 朱書 庄兵衛
1、*広村市場よ里
和田村中迄 8町半
池上中迄  16町半
山本村中迄 16町16間
名島村中迄 16町50間
中村 中迄 13町25間
金屋村中迄 17町38間
    中野村中迄 15町45間
    殿村 中迄 19町
    湯浅村中迄 12町
右之通何れ茂相違無御座候若隠地新田荒所有之候之訴人御座候ハゝ、御吟味之上如何様共可致依付候已上
    庄屋長右工門 印
    庄屋十左門  印
    庄屋 小兵衛 印
  宇田庄屋吉右ェ門印


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23、津木谷柴草山争論のこと


1  当地方山論資料



林野入会権の間題は、社会史・経済史その他の面において重要な研究テーマとして斯界の注目を惹てきた。その中世以前の資料は極めて少い模様であるが、近世以降になると、必ずしも少なくない。当広川地方においても、若干、それが知見に上るので、まず、この史料について1言しよう。
当地方に遺存の史料とは、江戸中期宝暦年間、津木谷山の入会権問題を読る史料で、現在3点が管見に入る。
その第1は 宝暦8戊寅4月
有田郡広之庄郡役所へ出候帳 ニハ湯浅組ト致
    津木谷山柴草苅取ニ付縺取扱1卷
  苅取候儀
  鹿P六郎太夫扣


と表記した1冊である。津木谷柴草刈山争論顛末書で、郡役所に差出した控である。椎崎吉太夫・鹿瀬六郎太夫・嶋藤左ェ門・湯川藤之右ェ門の4名連署となっている。(広川町河瀬鹿瀬家所蔵)。
次いで注意に上るのは、さきに引用の『手鑑』中の関連資料。「宝暦8寅春山論起り翌9卯春御裁許也」と標題の記事および文書写である。裁許書は有田郡奉行高野五左衛門・加納吉兵衛両名の名で湯川藤之右衛門・上野山十兵衛・鹿瀬六郎太夫・田中善吉に下したものである。
もう1つは、鹿瀬六郎太夫の編年体旧記『古歴枢要」に散見する記事である。右3史料のうち、もっとも委曲をつくしているのは、最初に挙げた宝暦8年(1757)4月、地元大庄屋および仲裁者が郡奉行所および代官所に差出した文書控である。


右2書を所持した鹿瀬六郎太夫は、先祖代々六郎太夫を襲名し、近世初期慶長の頃より河瀬の地に住して、近世中期元禄8年(1695)から、地士を仰付られた当地方有数の旧家である。今もその子孫は同地に住し右の史料の外様々な史料を伝えている。



なお、右の1書差出人4名中、湯川藤之右衛門は当時の湯浅組大庄屋にして地士。中世日高郡の豪族湯川氏の末裔である。長く広の地に住したが、その子孫近代に至り湯浅町に移った。椎崎吉太夫は下津木寺杣の旧家。この時より9年後明和4年(1767)地士を仰付けられている。前嶋藤左衛門は山保田組大庄屋で地士。鹿瀬六郎太夫は前記のとおりである。
さて、この津木谷柴草苅山争論の顛末を郡奉行所に報告し、その裁許を仰いだに対してその翌年、即ち宝暦9年(1759)春、宮原組大庄屋上野山十兵衛宅に郡奉行が止宿の際、裁許書が下された由である(「手鑑」の記事による)。その時の宛は湯川藤之右衛門・上野山十兵衛・鹿瀬六郎太夫・田中善吉の4名となっている。田中善吉は宮原組箕島の住で有田郡の山廻り役であった。これが即ち「宝暦8寅春山論起り翌9卯春御裁許也」と例の「手鑑」にその裁決文書を載せている。だが、その郡奉行所の裁許にも背く者があった。違反の1味は捕えられ、大庄屋の吟味を受けて処罰された時の関係文書写が、右『手鑑』に載せられている。
なお、もう1つの史料『古歴枢要』には、前記2史料に現われた事件を極めて簡単に筆録されているに過ぎなこのことに関する限り余り重要資料とはいい難い。
以上、大体、宝暦年間に発生した津木谷柴草苅山入会権争論を繞る関係史料の所在である。


(注 原文のまま 何か序文が欠如しているようです。後半も突如終了しているのでなにか欠如しているようです。)連れて、上郷へ入り込んできた。そしていうには、近年上郷は持山へ殖林したり地元用の焼山を拡張したりして、入会山が狭くなって下郷の小前百姓は薪や柴草に難儀している。それでこの際、入会山面積の立会調査を行ないたいと上郷の役人等に申し入れをして帰った。下郷16ヶ村のうち和田村・鹿瀬村は1村1軒であったから不参加。その他の村でも庄屋・肝前の中に不参加のものがあったと記している。
それにしても、間もなく下郷から調査団が出向いて来て調査が始まった。そこで上郷から異議の申立があり、大庄屋の許へ、「焼山肥草の儀は下郷へ苅せ不申筈に御座候」と訴が出た。時の大庄屋湯川藤之右衛門は早速仲裁に入り、上郷役人等をいろいろと申しなだめて、まず当年1ヶ年は以前のとおり、上郷下郷入会で肥草苅取するよう申聞かせた処、上郷庄屋肝煎等村役人は大方得心するまでになっていた。
ところが、3月26日、有田郡奉行高野五左門が津木谷筋巡視の切り、寺杣広源寺に立寄られたのであったが、その折節、下郷の百姓達は上郷焼山へ大勢で押し掛け肥草刈りを始めていたのである。すると早速、同寺にいた郡奉行の許へ上郷村役人等が訴え来っての口上に、いまだ柴草はとくと生立たないため、上郷百姓共と謂えども苅り初めないうちに、早ばやと下郷から遠りにこられては、我々の場所がなくなる。至急差留め願いたいと、ロ々に申し立て、はや喧嘩争論に及び兼ねない雰囲気が察しられた。
そこで、郡奉行高野五左衛門は、肥草のことは百姓どもにとって大切の事柄であるが、そのため、ここで喧嘩争論ともなれば、一層事が面倒となると考え、早速役人を遺して、まず、下郷百姓達の山入り差し留めを命じると共に仲裁策として、双方和談に至るまで、上郷下郷共に肥草刈取を禁止した。このことあって、大庄屋湯川藤之右衛門は、双方村々の役人等を呼び寄せ、農作に大切な肥草を1日も早く苅れるよう、即刻村々百姓一同に云い聞かせ和談するよう申し聞かせた。それが1度ならず数度に及んだにもかかわらず、小前百姓たちは一向に受


2  津木谷柴草山争論の顛末


前節に紹介の史料に基づいて、以下この事件の概要を述べることにしよう。山野入会権を繞る近世農民の確執が窺える。
有田郡広庄は当時18ヶ村に分れていた。いまそれを挙げると左のとおりである。

広庄18ヶ村
広、西広、山本(池ノ上)、和田、唐尾、中野、金屋、殿、井関、河瀬(鹿瀬)、前田、柳瀬、名島、中村、上津木、下津木

以上括弧書分も含めて18ケ村。なおそのうち、上津木・下津木はさらに別れて7ヶ村をなしていた。即ち、上津木は落合、中村・猪谷の3ヶ村。下津木は猿川・寺杣・滝・岩渕の4ヶ村。合せてこの7ヶ村を上郷と呼び、上津木・下津木以外の16ヶ村を下郷と称した。
問題の柴草刈入会山は、謂うまでもなく上郷の地にあった。そこは従前、下郷も入会権を有した山野であったが、山論の起きた宝暦頃には既にその不文律が行なわれ難くなっていた様子。そのため、柴草山の山焼に際しては、その頃、既にただ上郷だけが動員して実施するという風に変化していた。
註。山焼とは、良質の柴草を得るため、毎年早春、村人が動員して山焼を行なう。柴草刈山を1名焼山ともいう。
ところが、宝暦8年2月下旬の頃、下郷村役人等から上郷村役人等の許へ、近日焼山弁に古林の町間等立合改(面積の立会調査)に参上する旨の申し入れがあった。その後下郷16ヶ村の庄屋肝煎が小前の者を1両人ずつ召け入れようともしない。
そうしたことから、4月朔日 (1日) 椎崎吉太夫・鹿瀬六郎太夫の両名が役所に参り、何はともあれ肥草苅は大切のこと故、上郷下郷双方村役人に申し聞かせて和談にさせるから山入り指し留を解いて戴きたいと願い出た。この願い出が聞き届けられて、右両名が双方村々の役人などを呼び集め、このたびの山論で大切な肥草が刈れず時期を失して捨て置くならば大事な農作が出来ず、百姓ばかりか、御上に対しても迷惑を掛ける結果になる旨、理を説いて和談を促したので、ようやく、上郷下郷和談の話がついた。これでやっと、焼山鎌入れお許しも願えると、ひとまずほっとした処、上郷百姓等は、地元だけ刈取り、下郷へは刈らせないと依然云い募った。その上双方村役人立合の古証文というものを持ち出し、事の次第を大庄屋表に訴え出た。そこでまた大庄屋は上郷各村役人達に事の理非を篤と申し聞かせ、尤も上郷下郷入り混ぜて苅取を行なう場合においては、喧嘩口論も起り兼ねないから、山を区分するとか、日を異にするとか、適切な法方を講じて実施する案を指示した。それでやっと上郷百姓達も納得して、下郷は下郷 の近くの山で5~6日間苅り、その間上郷は7日間苅った後、下郷へ苅らせよう。 なお山を区分してとの案に対しては、今年1年限りのこととし、今後の例としないとの1札を入れてもらいたいと、上郷百姓から条件が持出された。
右のような次第では、なかなか事が円滑に運ばないので再度説諭。その上本年の柴草苅の儀はやむを得ず暫時双方指し留となった。
ここに至っては双方互譲の精神をもって、1日も早く和談し、双方より御上に対し刈取り許可を願い上げ、それを得なければどうにもならない仕儀となった。それで仲裁者達は上郷村役人に対し、下郷からよい返答あり次第当年は立合刈りの談合で裁許を得ること。なお、これをもって以後の障となる心配はないから、あえて下郷から1札を取るに及ばないことをも説いた。
それとともに、下郷各村役人に対しても、これまで下郷は上郷で柴草苅を行って来たとは云うものの、元来その焼山は上郷の領地である。だから何分今年は了簡の上相和すようにと諭したところ、下郷各村庄屋肝煎連名で願書が出された。参考のため左にそれを掲げると

  覚
1、津木谷焼山柴草此節苅取申筈ノ処双方及争論相申候故山へ入込候儀御差留被遊御尤奉存候
1、右ノ儀ニ付上郷下郷共和談仕候様御挨拶被仰聞候趣彼是相談仕候処左ノ通ニモ被為仰付被下柴草刈取候様奉願候
1、焼山柴草上郷下郷幾日ハ上郷幾日ハ下郷と仕候てハ如何と被仰付候。比儀重り候而ハ得心難仕候。1日替りニ苅取候様可被成下候哉
1、山を分ヶ候而ハ如何と被仰聞候。比儀ハ先年より大庄屋元御役所表ニ焼山町間相究り御座候間右町間夫々御改ノ上町間ノ内ハ津木谷中柴草刈取町間ノ外ハ下郷より刈取候様被為仰付可被下候
1、墨付ノ儀被仰聞候。此儀ハ一向得不仕候
右2ヶ条ノ趣御聞届先当年ハめがき柴草早々苅候様被為仰付被下候ハ、小百姓共如何斗難有可奉存候己上
  名嶋村庄屋 十兵エ 印   中村庄屋 新右エ門 印
  中村肝煎 平右エ門 印   柳P村肝煎 六郎左工門 印
  殿村肝煎 弥兵工 印   井関・前田村庄屋 藤右エ門 印

 寅 月4日
  井関村肝煎 与右エ門 印  前田村肝煎 四郎太夫 印
  河瀬村肝煎 市右エ門 印  金屋村庄屋 助左工門 印
  金屋村肝煎 勘兵衛 印  山本村肝煎 伝七 印
  池ノ上 庄屋 十三郎 印  西広村肝煎 甚兵工 印
  唐尾村肝煎 儀八 印  宇田村庄屋 助左工門 印
  宇田村肝煎 五右エ門 印  広村庄屋  太七 印
  広村庄屋 太右エ門 印  同村肝煎 長兵工 印
  同肝煎 源之右エ門 印  同  利兵工 印


右の願上書によれば、焼山柴草苅上郷幾日、下郷幾日と期間を定めて行うてはどうかという案に対しては、例となるようなれば得心致し難い。だから1日交替で苅取りできるようにして貰えないだろうか。なお、山を区分してはという案に対しては、先年から大庄屋役所で定められた焼山の面積があるから、それを調査し直して、上郷分、下郷分とそれぞれ持分を別けて貰いたい。それから、墨付の儀とは、さきに上郷から要求のあった約束書1札のことである。それについては承知致し兼ねるというのである。
右2ヶ条の趣旨を御聞届の上、先づ当年はめかき柴草を早々に凉れるよう御取り計らい下されば、小百姓共どのように有難く思うであろうか、というのである。
ところで、右の願書に「めかき」とあるのはいったい何のことだろうか。これが、後まで相当問題として、事件解決を一層困難にしている。単に推測であるが、「めかき」とは草木の若芽を妨り取って緑肥とすることでなかろうか。

当時、めかきは大庄屋の通告によって差し留めとなっていたことが、右願書の取扱いに関する1文の中に見える。それを左に引用すると、

右願書ニめかきノ事書加へ御座候ニ付此儀ハ近年大庄屋元与通も出有之候て取不申筈之由承候勿論此節我々取扱候儀、当時之柴草ノ儀2候間めかきハ除候様ニと申聞候得とも達而奉願度由申候ニ付其通リニ仕候。

なお、右引用文によれば、めかきは原則として行えないのだが、下郷からの強いての願であるのでそのとおりにした。というのである。勿論、これに対して上郷からは反対意見が上り、併せて左記の如き願書が出された。

  覚
1、津木谷焼山ノ儀ハ昔より御願申上年替リニ焼申候。右山焼人工1ヶ所ノ山ニも50工70工ヅツ人足出焼申
候而牛馬ノ養ひ并田畑ノ肥ニ仕来候処当年は下郷より人多苅ニ入込申候故御願申上候ハ上郷下郷とも1切苅
不申様被為仰聞奉承知候。然処当年ハ下郷上郷共致和談刈候儀御挨拶被成被下如何様ニも以為申上候儀ニと
令申被仰聞候故23ヶ条申上候処ニ下郷ノ衆得心不被成候由ニ付下郷ノ望書被
仰承知仕候得共柴草計って
も無之めかき草迄苅可申と申出候ニ付津木谷百姓共猶以得心不仕候。然共段々被仰聞被下候通柴草を得苅不
申事至極難儀奉存候間左様ノ古例ニハ無之候得とも御上ノ御意も重り御座候へバ当年ノ柴草ノ儀ハ下郷へも
少々ハ苅せ可申候間最早下郷ニは去月廿3日より初メ56日ツ、も取申候。津木谷ニハ今日迄柴草一切苅不
申候へは1昨夜は7日も上郷ニ苅候て下郷より苅ニ参候様にと申上候へ共至極難儀仕候故但しハ3日上郷ニ
苅候上ニて下郷5入込候様被為仰付被下候ハ、成程苅せ可申候。尤当年斗リ已後ノ例ニハ致し間敷との1札
御取被下候様奉願候。左候へハ津木谷中ニも柴草苅少々宛にても肥しニ仕度と小百姓共奉願上候間此段御伺

被下右ノ通被為仰付肥し苅申候様ニ被成可被下候已上
  寅4月
    上津木村庄屋 次郎太夫 印
    同村肝煎 長次郎 印
    下津木村庄屋 善吉 印
    同村肝煎  金六 印
    同断 太右衛門 印


さきに引用した下郷からの文書、また、上に引いた上郷からのそれ、いずれも宛名を欠いているが、おそらく、前記仲裁者宛に差出されたものと思われる。
ところで、右2通の文書からも明らかなとおり、上郷下郷の意見が一致しない。いまだ実質的な和談が成立を見るに至らない訳である。これでは如何に大切な肥草とはいえ、双方の焼山入込は許可なる筈がない。特に意見の食い違いは、双方山入の日程であった。下郷の希望は、上郷下郷1日交替であるに対して、上郷の主張は、上郷が先づ一定日数苅取を行なった後、下郷に凉らせるというのである。上郷が右の主張を曲げないのは。焼山は地元の山であること。下郷は上郷より既に早く3月23日から数日間山入込を行なったことなど原因となっているかに見える。しかし、最も重視せなければならないのは、古来の入会権慣習が、この頃には早くも崩れはじめていたということでなかろうか。
とにかく、右のような次第で、双方和談なり難く、それでは何時までも柴草刈取を許可する訳にいかないから、郡奉行は更に前嶋藤左工門に善処方を命じた。そこで、改めて椎崎吉太夫、鹿瀬六郎太夫、前嶋藤左衛門の3名がその任に当たることになった。
これによって、またまた右3名は上郷下郷各村役人を段々に呼び寄せ、郡奉行の心情を伝え、その理を説いた。
即ち、双方和談しない限り肥草刈りは認められない。然しこのままいたずらに日を延ばせば肥にならず、農作に支障が現われ、年貢にも事欠く結果を招く。これでは百姓も御上も難儀となる道理を申し聞かせたところ、上郷は、今年の決めを来年以後の先例としないとの書付が欲しいという。それが郡奉行や大庄屋の墨付では余り恐れ多いので、前記3名のでもよいという。一方、下郷は山入初日を籤で決め1日交替で柴草刈を行なうべきこと、なおその上、津木谷焼山の下郷上郷の領分別けを求めてやまなかった。
それで、またしても、前記3名は双方に対して説得に努めなければならなかった。隔日苅取のことは地元という関係で初日は上郷へ、領分別けのことは追って吟味の上沙汰するから、まずこの際、肥草刈取のため早く和談するよう篤と申し聞かせた。だが、双方一向に納得する気配を見せなかったのである。
右の如き次第でよんどころなく、この実情を郡奉行所へ報告したところ、今年1ヶ年はとにかく折合わせて刈取りを行わせること。これをもって後日の例としないが、強いて望むならば、その方達(前記3名)に書付を遺わすから、その方達から上郷へ知らせてやれと、郡奉行所から左の如き文書か下付された。

津木谷村山柴草刈取ノ儀上郷下郷及爭諍論候ニ付出入相片付候迄ハ柴草刈取ノ儀此節双方差留申付候。然処柴草
ノ儀旬を過候てハ肥ニ不成由ニ候得ハ無益ニ捨置候てハ作方不出来ニ相成為も欠ケ又ハ時節柄之末々作方不
出来ニ相成候てハ追て難儀可致候間致相和候上取候得ハ双方ノ為ニ候。勿論右山出入ノ儀ハ返答書出次第吟
味ノ上相片付申事に候得は双方致相和候上苅取候儀は利害ノ障りニ不相成候間其元方取扱相和致せ此節柴草無益ニ不捨置候様。尤当年1ヶ年斗柴草苅取候儀ハ曽て後日出入ノ障ニハ不相成候間取扱致し当時之柴草刈取ノ
儀不差支様取計可被申候以上
  寅4月4日
    加納吉兵衛
    高野五左衛門
  鹿潮 六郎太夫殿
  椎崎 吉太夫殿
  前鳴藤三右衛門殿


そこで鹿瀬・椎崎・前嶋3名の名をもって、右の文書と殆ど同様の文書を、上津木・下津木各村庄屋・肝煎に差し遣して、1日交替で焼山柴草刈取を行なうよう指図した。そして、特に申伝えたことは、此度のことで郡奉行の御両所は甚だ心労されているので。双方和談の上は不始末なきよう心得られよということであった。
しかるところ、またまた、下郷から願が出てきた。そのいうところは、下郷から苅取りに行っても、もし上郷の者たちが一致して、下郷の刈るべき口山を先苅りしていては困るから、上郷村々にはその自前分だけ刈るという1札が欲しいということであった。恐らくそのようなこともあるまいと、前記3名は下郷を宥めたが、たってとの願いにやむを得ず、上郷村役人に伝えた。村役人からそれを伝え聞いた上郷百姓達は甚だ立服。1度ならず再3の下郷からの種々要求、甚だ以て勝手千万と上郷百姓は益々硬化した。津木谷村々は1ヶ所の山にも50工、70工と山焼人足を出している。それが数ヶ所にわたって延べ数百人にも及ぶ。このようにして毎年折角育てたあたら柴草を、その労もせぬ下郷の百姓にむざむざ刈り取られてはたまったものでない。その上様々な要求とは以ての外。上郷村役人たち何しているのか。不甲斐ない人達よと散々である。そして、上郷百姓4・50人、村役人と共に大庄屋へ押掛け、百姓たちは口々に大要次ぎの如き申し立てを行った。
此度のような下郷からの申し入れなれば、最早や折角の1日交替案も承知できない。是まで種々曲折があったが、挨拶人衆(椎崎・鹿瀬・前嶋)の仲介で結局1日交替案が決った。この案にも下郷は初日を籤で決めよとか、めかきを許せとかその他勝手千万の注文。 その上今度のような身勝手な申し入れには、最早我慢がならないと。
さらに上郷百姓達は曰く、下郷がそのような態度であるなら、上郷としても改めて注文がある。それは、まず上郷が5日間苅取りを行った後、双方1日交替で行なうということである。それが認められない限りは、いっそ何時まででも焼山入込差し留めもやむを得ない。と、甚だ強硬態度を示す始末。これには、さすがの上郷村々役人たちも、有める術もなくほとほと困り果てたのであった。
そこで、前嶋藤左工門、鹿瀬六郎太夫の両人(椎崎吉太夫御用にて旅行不在)は、これの取り扱かいについて、大庄屋湯川藤之右ェ門に相談したところ、早速、さきの上郷百姓たちを呼び出し、とくと申し聞かせすることにした。その時の大庄屋の説諭は次ぎの如くであった。
近年村方小前殊の外困窮し、家業にも事欠く有様。飢人等が出たからと救助を願い出たこと度々である。今日所詮我意を立て、大切の日を費し、村中挙げての挙動、何んの手当があってのことか。かくしてはやがて父母妻子の養いにさえ事欠くであろう。猶又大切な年貢未進ともなればどうするつもりか。年貢に関する曽ての嘆願と今日の振舞い全く矛盾でないか。そして、此の度、殊の外挨拶人の尽力を無にしていること慮外千万である。それでも御上(郡奉行所)の御慈悲で御咎めもないのであるから、篤と分別いたし、大切の日を無駄にせずよく働き、御年貢の上納には事欠かさぬ不断の心掛けが肝要である。次には先祖伝来の家財田畑に少しでも貼付けまじきこと*十1。それを思えば今のような我意は立つものでない。こんな事で無益に日を費しては忽ち家族の者は暮らしに困ること必定。それを知りそれを不感と思えばこそ、かく申し聞かすのである。何時までも強情を張り双方間違いをした節は後悔してもせんないこと。今は大切の場合、よくよく分別して早急和談せよ。と言葉を尽しての教訓も、元来愚痴不弁の山野の小百姓達は一向に聞き分けもなく、ほとほと始末に困ってしまったと記している。
そこで、一まず旅宿へ帰し、委細を郡奉行加納吉兵衛・高野五左衛門に報告したところ、それでは仕方がないから、今までの取り扱いについて得心できない旨の1札を取り置くようにとの仰せであった。その時は夜も既に深更であったが、直ちに吟味を行うべく、使者を旅宿に遣した。すると上郷村々役人たちが参上していうに、私共も小前の者共に、先刻の御教訓を弁えるべく説得に努めたが、得心できぬと云い捨てて帰ったので、早速使いを走らすとのこと。そして、それを待つ間に彼等のために上申書の下書を行ない、上郷百姓達の参集の知らせがあった時は、最早今暁寅下刻にもなっていた。(註寅下刻は午前5時から6時)
一同揃ったところで、卯上刻上郷村役人同小前たち郡奉行の前に罷り出て、湯川藤之右ェ門が先程の下書を読み聴かせて相違の有無を確められた。その下書というのが、前記『津木谷山柴草苅取ニ付縺取扱1巻』控に収録されており長文のものである。内容は上郷百姓の立場から、このたびの山論の顛末と、その対策として今日まで提示された様々の案に対する不承服。結局は我意の主張であり、最後には、今年の取り決めを来年以後の先例としないという挨拶人衆の書付も返上する。と結んでいる。(註卯上刻は午前6時から7時)
右の通りに相違ないかと念をおされ、相違ない旨返答すると、今度は郡奉行加納吉兵衛・高野五左エ門が言葉を尽して誤謬の教訓であった。これには、さすが強情の上郷百姓達も我意を折り、早速和談する旨約束した。

左候ハ、今日帰り候てハ最早日端ニ候間明8日より山初致明後9日ハ下郷へ苅せ候様且猥成儀ハ勿論喧嘩口論等堅不可致惣で公事出入かましき儀出来候てハ其費難計候間以後を急度相慎候得

と、更に諭せば、上郷百姓達は返すがえすも有難いお言葉と感謝して退出した。
なおその後、下郷村役人たちを直ちに召し出し、上郷百姓たちになした説諭と同様、諄々と説いて聞かせ、それを下郷各村百姓たちに伝えることを申し付け、ここにようやく落着の方途を得たのであった。
以上、いささか長くなったが、折角史料に詳しいので、余り省略するに忍びず、できるだけ史料に即して叙述した。
ところで、これで前記「津木谷山柴草刈取ニ付健取扱1巻』の筆が殆んど終っている。だが、この問題は完全に解決がついた訳でなかった。津木谷柴草山に対する下郷各村の入会権に関してまだまだ未解決な問題が残っていた。その吟味の結果が、まる1ヶ年を経て、翌宝暦9年春、郡奉行所から裁許のあったこと、これが前記「手鑑」に見える。左にその概要を記すことにしよう。
とにかく宝暦8年(1758)、前述の如きいきさつで双方1日交替での焼山入りとしたが、これが先例とならぬよう、特に上郷から強い訴えがあった。そこで、間題解決のため郡奉行所において、上郷下郷双方対決の上吟味となる。
その節、上郷から持山に関する証文が提出された。それは先年上郷下郷申し合せによる双方連名の血判証文と称するものであった。ところが、その実、血判もなく無印の書付で、証拠となり得る物件でなかった。宝永元年(1704)在来野山(入会山のこと)の内へ新規に村持林を拵えた時の偽文書であった。従って、本来庄内18ヶ村入会山であり、それが、その後の宝暦4年(1754)の正式文書にも証明されている。この事訳を上郷に、申し渡し納得せしめた。

しかし、焼山については、上郷は人足を出して焼いて来た山故、下郷村々の者は苅取に立ち入らぬこと。ただし、それ以外の野山は差支ない。
なお、下郷から苦情のあった、上郷焼山の拡張云々は証拠不充分で、下郷の申立てが必ずしも確でないが、下郷からの願出もあることながら改めて調査を実施する。だから、焼山と元来の上郷持山へは、下郷の者は立入らず、右以外の野山においては、下郷からの肥草刈取りは自由であるべきこと。
宝暦9年(1759)3月27日、有田郡奉行高野五左エ門・加納吉兵衛両名は、津木谷山争論について、大要右のような裁許を下した上、更に、焼山の町間改(面積調査)については、次のような文書か発せられた。

上津木下津木山論此度裁許申渡ニ付焼山町間改申候間各立合双方村役人共被召連れ段先年焼山願出済来候ヶ所
所書付之通不出粉候様入念町間相改傍示杭打候樣可被申候依之申越候己上
    加納吉兵衛
    高野五左工門
  湯川藤之右衛門 殿
  上野山十兵衛 殿
  鹿P六郎太夫 殿
  田中善吉 殿


右通知書を受取った4名は、上津木・下津木両村の内、落合・中村・猪谷・寺杣・猿川 以上5ヶ所において、宝暦9年4月4日から同月17日まで、焼山の面積調査を実施した。尤も、その時上野山十兵衛は眼病で野田茂兵衛(藤並組)と前島藤左衛門が代って相勤め、このことが済んだのであった。
一応これで、津木谷山論が落着すべきところ、またしても事件が発生した。郡奉行所の裁許に違反する者が現われたことが『手鑑』に見える。宝暦9年5月、下津木猿川個人持山林へ下郷の柳瀬・井関・金屋・中野4ヶ村の者多勢で柴草刈りに入込んだのを、猿川百姓達が捕えて、大庄屋の許へ訴えた。
そこで投付2名が急行し、捕 え置かれた8人を連行して来て、大庄屋役所において取り調べが行なわれた。その結果を書面にして郡奉行所へ届けられ、同月11日手さの刑に処せられた。
ところで、当時柳瀬村は岡伊賀守の知行地であったので、同村5名の者に対する処罰について、大庄屋から、伊賀守の代官大林角之右エ門・山本茂右エ門両名に文書を差出し、報告と兼ねて諒解を求めている。

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24、広浦波戸場と近世広浦町人の盛衰


1 広浦町人の発生と活動


これまで、若干、広川地方の近世史を叙述してきたが、その中で主として取り扱ったのは、農民と漁民のそれであった。
しかし、近世の広庄を構成していたのは、単に農民と漁民にとどまらなかった。所謂、町人と総称された商工その他の人達がかなりいた。そして、広の町はその人達の本拠地であった。
さて、広商人の発生時期については、いま想像の域を出ないが、おそらく、室町時代と考えられる。畠山氏が名島の山に築城し、広海岸に居館を構えた室町時代をもって、広浦の地が発展の端初が開かされたと見られる。
さきに参考とした当地方の史料によると、室町末期から近世初期、広浦千数百軒を唱えている。中世後期の城下町的発展から始まった。そこには、当然、商人の活動が開始されたこと疑問の余地がないであろう。
室町時代の年貢は物納でなく、所謂、金納であった。銭何貫何文目でもって上納した。農民は、農作を市場に出して換金し、それを年貢に充てたのである。貨幣経済時代の出現であり、商品流通が本格的に行なわれる時代となっていた。この商品流通の仲立ちをするのは、いうまでもまく、商人である。領主から許可を得た商人が、市場に集まり、農民の出荷してきた米麦、雑穀、その他農産物を商った。手工業品その他の生活用品も勿論のことである。
広浦海岸に南市場、北市場、湊の小字地名が遺るのも、既に言及した如く、室町時代に始まるかっての商業活動の名残りを留めるものに外ならない。大永の初め頃畠山氏がこの地方に勢力を失い、代って湯川氏の登場となるが、なお広浦は郡内屈指の商業的邑町たるの地位は動かなかった。しかしその後天正13年、当地の湯川勢力失墜に伴い、その全盛期が終りを告げる。だが、既に、基礎を築いていた広浦商人の活動は、急激に衰えることなく、近世初期から中期にかけて、なお、相当盛んなものがあった模様である。広千軒の称は漁民ばかりの繁栄を謳ったものでない。尤も慶長の頃、広浦から他国沿海に出漁した網数80帳。その漁民、およそ、2千数百人から3千人と伝えのある程、漁業盛んな土地であった。だが、広浦の繁栄は商人の活動にも負うところ多かったことは、資料の端々に散見するところである。かっての広浦の繁栄は、漁業と商業の両々相俟ってなせるものであった。それが、あたかもひとり広浦漁民の遠国出漁に由来しているが如き伝承が、今もなお、この地方の人口に膾炙されているのは、先章に述べた『広浦往古ヨリ成行覚』などの史料に、大きく現れていること。遠国出漁という壮挙は、商人の活動よりも劇的であり、後世の語り草としても興味が幾倍かであることなどが 因してると思われる。
註、広浦湊の地名の遺るところは、現在の養源寺附近であり、同寺裏手海岸が旧湊であったらしい。北市場は、その西南海岸に、南市場はさらにその西南に続いて地名となって遺る。室町時代から江戸時代初・中期頃までの広浦商業の主要舞台は、およそ、広浦海岸の北東地域であったと推定される。
広は元来農村として発展する程の広衣の地でない。漁業と商業が、かつての広千軒を形成したのである。広の盛衰を顧る場合、当然、広浦商業の盛衰が問題となる。さらに謂うなれば、同浦は近世中期以降、漁業不振期に際会して、意外な苦境時代を迎えなければならなかった。そのとき、かろうじて同浦の商人の活動によって、邑町的存在を保ち得たのであった。後述でも触れることになるであろうが、近世中期以降、広浦商人の関東進出は、当時の広浦窮乏を多分に救ったことを見逃し得ないものがあった。
当広川地方においては、最も歴史が新しいが、最も盛衰の激しかったのは広浦地区である。その盛衰の中で、逞しい商魂を燃し続けてきた広浦商人の事績が意外と史料に遺されていない。従って、その事績の全般について叙述することは、とうてい不可能であるが、その一部分でも本章において試みたいと思う。
隣りの湯浅町は、古く熊野路の宿場として早くに発展の端初を得た。湯浅商業はその頃から長い歩みを続けてきたに比して、広の歴史は新しい。それと共に広商人の発生の事情も、湯浅と幾分事情を異にした点、これまでの叙述で大体了解を得たことと思う。
だが、ここで1言しておきたいのは、室町時代から広浦が郡内の中枢の地となるに及んで、湯浅商人は広商人と共に、前記同浦の市場や湊を利用し、その後においても両地商人相協力し、密接な関係を結んできたことは、後述の史料に明らかである。これが、広浦の歴史の中で見逃し得ない重要な点である。以下その様な事などをも紹介してゆきたい。

広浦の旧畠山屋形跡に別業を建てた徳川頼宣が、寛文年間(1661〜72)、新たに同浦和田の出崎に大波戸を築造したのは、この広浦商業を一層盛んならしめるためであり、諸国廻船や漁船の便に資したこと甚大であった。これによって同浦における諸船出入は、宝永4年(1707)10月の大津浪までは、なかなか盛んなものであったと伝える(『広浦往古ヨリ成行覚』・『広浦大波戸再築記録』等)。 特に諸国廻船、即ち貨物船が多かったと記しているところよりすれば、広浦は商品流通の1関門であった事実を物語る。これを取り扱ったのは主に広・湯浅商人であり、近世広浦繁栄時代は、この活動に負うところが多い。
広旧来の町並には、田町、元町、中町、浜町などがあり、大体海岸線に平行している。これと交差して大道がある。市場の浜に至る街路であって、いまその附近の地名にもなっている。往昔、広浦の市場盛んなりし頃、この道路が重要な交通路であった。そして、もと畠山氏時代、名島の高城とも結んでいた。それやこれやで大道の名が起ったが、和田に大波戸ができ、船着場がそこに変ってからは、大道も昔日の大道でなくなった。今地名として遺る南市場・北市場も船着場から隔たると自然廃れて、大道の機能が失なわれていった。
だが、右の如き変化があったにしても、宝永の大津浪までは、広浦は湯浅を凌ぐ郡内屈指の商業的邑町であった。
しかるに、宝永4年、広浦最大の災害と称せられる大津浪に見舞われ、それ以後は、かつての繁栄を取り戻す条件が生まれなかった。近年ようやく、それに近い戸数を数え得るが、周辺も共に発展しているので、特に広浦の発展が衆目を集めるという程顕著でない。紡績工場その他近代産業が、この地方を発展の方向に導いたことは、決して軽視でき得ないが、いまや、広は有田郡市内屈指の商業地でない。その点、昔日には及ばない。
ところで、その当時の史料は、全くといってよい程現存していないらしく、遂に管見に入らなかった。古いものは宝永の津浪で失われてしまったという説がある。いま知見に上るのは、近世後期に筆録した2~3の史料である。これまでたびたび引用の「広浦往古ヨリ成行覚」と享和2年(1802)成立の「広浦大波戸再築記録,等である。前者は広浦漁業の立場から、昔日の繁栄を述べ、宝永以前の広浦商業にも及んでいる。後者は主として商業者の立場からそれを謳って往昔の広浦を懐しんでいる。前記した如く近世中期以前の史料に接し得なかったが、右の史料に散見するところに、地名などからの推測も加えて以上の如く、近世中期以前の広浦商業の推移を略叙してきた。しかし、その順序などは、前後したり、繰り返しが多かったり、甚だ粗雑な内容となったが、これによって、広浦商人の発生と近世半ば頃までの歩みの一端を汲み取ってもらえれば、まことに有難い。
さて、この辺で近世半ば以後に視点を移して叙述を試みる機会としたい。それにつけても、前掲2史料には、宝永4年の大津浪で、和田の大波戸が大破し、広浦が一瞬にして船着場を失い、以前の繁栄が夢の如く消え去っていったことを嘆いている。
寛文年間、徳川頼宣の命によって築造された広浦和田の大波戸は、その後の広浦の生命を律する程の大きな役割を演じてきた。広浦周辺は、かつての城下町的存在から離れたが、なおかつ、甚しい衰微に見舞われることなく、商業的な活動が持続されたのは、この大波戸のお蔭であった。従って、前記2史料にはこの波戸の果たしてきた役割、それを今1度昔しに戻したいという顔が溢れている。

2 和田の波戸場と広浦


さて、諸国廻船や旅網漁船の入港が、広浦旧港から和田の波戸場に移ってからのことは、『広浦往古ヨリ成行
覚』(寛政6年2月)の文章に

波戸場有之節ハ諸国廻舟入津多く、諸商戸繁昌仕候故、問屋船宿其外舟手がかり合之稼仕候者たとへ里方支配之者ニ而も又他村ヨリ入込候者ニ而も其相応御水主役銀相勤させ候、……

と記している。諸国廻船の入港が多く、諸商家が繁昌し、問屋・船宿その他の町人達で、例之里方支配 (里方庄屋支配)のものでも、まだ、他村からの入込商人であっても、広浦の漁業年貢を分担したとある。
だが
宝永4亥10月4日高浪ニ而ェ文年中御普請ニ而相成仕候忘浦波戸場も打崩し湊形チモ無之様ニ相成申候是又水主米難渋之基ニ而御座候
(前掲文書から)


と、予期せぬ大災害に、広浦の繁栄は一瞬にして消失した。同浦千86軒、その大半は罹災し、波戸場を失った広浦には諸国廻船の入港が絶え、たちまち難民と失業者の町と化した。貨物船出入時荷役夫をしていた者達は勿論こと、商人も扱う商品が入らず、あたかも水を離れた魚の如く、全く仕様事なく、次第に広浦の疲弊が増大した。女や老人は手内職でようやく口糊をしのぎ、壮年の男達は綿打ちでかろうじて暮らしを立てた。




右の如く、広浦住民の困窮が著しく、このままでは、水主米難渋どころか、ますます貧民街化するばかり。そこで、安永10年(天明元年、1781)時の広浜方庄屋飯沼仁兵衛/(後に、五左衛門、平左衛門、若太夫等と改名。湯浅組大庄屋を勤め、地士となる)が、和田の大波戸再築を志し、郡役所に願い出た。そして、寛政5年(1792)、第1期工事に着手。以後10ヶ年を掛けて享和2年(1802)ようやく竣工を見た。その詳細については「広 浦大波戸再築記録』 (享和2年霜月作成。広八幡・広川町役場に写本所蔵)によって知ることができる。
同波戸再築の模様などについては、浜口恵璋師編述の別掲「津波略史と防災施設」で言及されているから、重複を避けるため、ここでは省略する。だが、この再築事業に資金拠出の主役は、いうまでもないが、広・湯浅の商人、同船元・網元など、所謂、地元町人であった事実に基づいて、以下補足的な叙述を試みたい。
寛文年間、徳川頼宣の命によって、和田海岸に大波戸か築造されたに件い、そこを専ら港とするようになったため、同浦の中心地は、自然と西寄りに移動した。現在の耐久中学校に近い一帯が、浜方問屋、宿屋、飲食店、その他商店が軒を並べてかなりの殷賑を見たという。夜は歌舞絃楽が聞こえ、嬌声が洩れ、現状からは想像も及ばぬ繁昌地であったとの伝えがある。
この繁栄を一瞬に荒廃の巷と化せしめたのは、宝永の大津浪であった。さきにも1言した如く、広浦商業は潰滅的打撃を蒙り、浜方稼は、諸国廻船の杜絶によって失業の嘆きをかこたざるを得なかった。
だが、案外立ち直りが早かったのは広浦商人であった。その理由を明記したものは少いが、その頃、既に地元商業にのみに依存せず、江戸や銚子、或は大阪などに店を持って活躍していた商人がかなり存在したからであろう。その代表格としては浜口・梅野・岩崎の諸家があげられる。 (鹿瀬六郎太夫記録『古歴枢要』)
ところで、如何に広浦商人が進取の気性に富み、才覚に長けていようとも、この浦に諸船繋留の場所を失っては、かつての広浦繁栄を望むことが、所詮無理であった。浜方庄屋飯沼仁兵衛は、このことをよく知っていたのである。それ故に広浦大波戸再築の発願となった。この大事業は、工事費銀高で63貫640匁余。外に無賃人足延4千673人。10年の歳月を掛けて完成を見たが、この事業は、藩の補助金もさることながら、同波戸場利用者や地元商人の拠出金が主であった。この明細が、前記『広浦大波戸再築記録』に見える。従って、寛政・享和期の広・湯浅の町人史料としても、はなはだ注目を惹く記録である。なおまた、この記録には、再築功労者に対して、紀州藩から表彰や褒美銀を下されていることが見える。第1の功労者飯沼仁兵衛をはじめ、広・湯浅の大口拠金者や同業組織や団体の代表者がそれを受けている。この記載などからも、その当時の広浦や湯浅浦にはどのような同業組織や団体が存在したか。その代表者や主要メンバーにどのような人々があったか。それを知り得ると共に、屋号等から、若干、商種も窺うことができるので、それを左に挙げると、広浦商問屋(米穀商問屋であった模様)、広浦木屋中間株、五島行船手網方、広浦船手弁に浜商人、広浦商人中、広浦仲買中、広浦商人仲買中、広浦網方船手中など、広浦商業者や廻船業者・漁業者による各種同業組織があった。
次に、右組合の代表者や主要メンバーを挙げると、五島屋藤兵衛(五島通船問屋)、商人年行司浜屋文助、同木下屋喜助、広問屋播磨屋源之右衛門、同江戸屋半七、商人行司橋本与太夫、同吉田屋五兵衛、船手行司船所栄助、同七兵衛、同辻屋永助、同阿波屋七兵衛、酒屋七右衛門、浜屋庄三郎、小間物屋源助、總屋藤蔵、五島屋長右衛門、酒屋茂右衛門、總屋藤助、などである。以上が地元広浦分であるが、多額の加勢銀があった湯浅関係分を挙げると、湯浅船手網方、湯浅問屋秋田屋長左衛門、同大阪屋三郎兵衛、湯浅船手行司藪五郎左衛門、同岡屋吉兵衛、同竹田屋兵助、船所兵太郎、同喜太郎、同喜右衛門、同喜兵衛、同源七、など、その主なものである。地元広浦および湯浅浦以外では、江戸干鰯問屋8軒、日高船手弁に近在商人などからも、それぞれ加勢銀があった。特に江戸干鰯問屋からのそれは多額である。当時、既に相当量の干鰯が広・湯浅の商人によって関東方面から仕入れられ、売捌かれていたことが察知できる。近世もこの頃になると、本郡は有田みかんの産地として、江戸・大阪・京都方面への出荷が、かなり盛んになっていたであろうし、藍の栽培、棉の栽培なども行なわれ、干鰯需要が増大しつつあったから、それに対応して干鰯販売が行なわれたのであろう。
享和年間の御用留帳にもそれに関する記事が見える。
ところで、右に挙げた資金拠出者の中に、五島行船手とか同網方などか見えるが、関東行網方というのが見えない。『広浦往古ヨリ成行覚』や『広浦大波戸再築記録』などにも述べている如く、延享(1744〜47)頃から関東沿海不漁期に向かい、宝暦年中(1751〜63)に至り、広浦からの出漁が著しく減少したという。さらに、波戸場再築の寛政・享和頃は一層不振となるとある。拠金のないのはこれを裏書していると見られる。
広浦の盛衰には、同浦漁民の旅網振不振が大きく影響することは幾たびか述べたが、宝永の津浪で殆んど荒廃に帰した同浦も、正徳年中(1711〜15)から、関東行網方豊漁打続き、西国行網方も同然で、追々分家等 増加して、人家6百軒余を数えるまでに復興を見た。だが、前記した如く、宝暦頃から関東出漁の不振で、飯沼仁兵衛が波戸再築を志した安永10年(1781)頃には4百2・30軒ばかりに衰微していたと「再築記録』にこの衰微から救うためには、諸国廻船の入港を盛んにし、広浦商業の隆盛を図るのが最上の途であることを、飯沼仁兵衛が考え、それが実現のために、波戸再築を実行に移したのであった。貨物船の出入港が盛んとなれば
商人ばかりでなく、荷役人夫の仕事も増え、その他浜方稼が繁昌することは間違いない。かくて、飯沼仁兵衛の事業に広浦商人は勿論のこと、総てのものが協力を惜しまなかったのである。無賃人足延4673人とあるのはその現われであろう。

広浦波戸再築功労者は、飯沼仁兵衛を筆頭に、それぞれ紀伊藩から褒美銀を授与され、地元関係者からは、広浦再興の大恩人と尊敬されたのはいうまでもない。 この大事業完成のお蔭で同波戸場は、再び郡内屈指の貨物集散所となり、広浦西部海岸一帯の繁栄が徐々に回復を見た。嘉永元年(1848)6月筆記の『大波戸御普請御用留』 (広川町役場所蔵)にもそれが窺われる。この史料から知見し得るところを若干述べることにしよう。
寛政5年から享和2年まで10ヶ年を掛けて、再築した和田の波戸場も、その後歳月を経て、自然修復を必要とするに至った。波戸の内側も土砂が堆積し、諸船入港にも支障が生じてきた。そのため、再3にわたり、藩に対し修復許可と補助を願い出た。前掲『大波戸御普請御用留」はその時の文書控ともいうべきものである。
右史料によると、近世末期弘化頃(1844〜47)、同右波戸場において取り扱った貨物は次の如くであった。

  覚
1、米麦而俵物凡20万俵 俵7り14貫目
1、塩同15万俵
俵2り 3貫目
1、枇杷蜜柑20万箱 箱2り 4貫目
1、醤油10万樽
樽2り 2貫目
1、葉煙草2万斤
斤2り
400目
1、刻煙草3万玉
玉3り
900目
合銀24貫300目也
右之通凡年久銀高ニ御座候


右に転載した貨物は、和田波戸場において積み降ろしを行なった貨物中の主要品目である。小口のものは省いているので不明だが、それはとにかくとして、主要貨物1箇当り何厘と課徴金を定めてその1カ年分が銀高で、24貫3百匁であった。尤も貨物毎に課徴単価を定めて徴収したものであるが、これは、波戸場修復資金に充てるためである。それにしても、右の箇数が意外に大きいことに、いささか驚きを感じる。しかし、嘘偽りを記す筈もあるまいから事実これだけの貨物が、年間に積み降ろしがあったのであろう。
俵物、即ち、米麦の20万俵もさることながら、塩15万俵は、如何にも大きな数量である。当時、湯浅および広は醤油の産地であり、年間10万樽の積出しが、和田の波戸場から行なわれているところから見ても、精塩の需要は多かったであろうし、田舎では各家庭が自家用味噌醤油をつくったから、いまよりも確かに塩の消費が多かった。それで15万俵という莫大な荷上げ量となったのであろう。
湯浅・広の特産物醤油の10万樽積出しは、その頃の斯業隆盛を物語るものである。『湯浅町誌』はその産業篇において、このことを詳述されている。弘化年代よりやや遡るが、文化12年(1815)、湯浅・広・栖原3カ村の醤油業者連名の史料が、同誌に載っている。それによると、湯浅村37名、広村7名、栖原村1名、他に大阪問屋として1名、計45人の名が見える。本書産業史篇と重複するが、その中から広村の業者を抜粋すると、

五島屋藤兵衛、橋本平助、飯沼仁兵衛、佐野屋庄三郎、片山甚太郎、松浦六兵衛、島屋長次郎、

枇杷と蜜柑併せて20万箱。これも意外に大量な積出しである。枇杷は現在も湯浅町大字田の特産物であるが、当時から既にそのとおりであったのであろう。蜜柑は近世中期から、有田地方の名産で江戸や大阪への出荷が盛んであった模様。この有田蜜柑は、箕島の湊と広の和田波止場が主要な出荷港であった。葉煙草、刻煙草も、おそらく当地方の産物であったと想像される。
ところで、これらの貨物移出入の波戸場には、波戸行司がいた。弘化・嘉永頃の広浦波戸行司は、浜屋林兵衛、八百屋茂兵衛、雁野仁右衛門の3名であった。それに、広浦沖文(物)、 問屋平助(橋本)、同藤十郎、同新七(井関屋)、同八右衛門(播磨屋)、その他湯浅の網仲間行司、蜜柑方行司、舟手行司、船仲間惣代などが協力して、同波止場の改修を図ったのであった。だが、その計画は実現に至らなかったらしい。その理由については、時節柄藩の許可が得られなかったと記している。
上記の中文問屋とは海産物問屋のことで、当時、広浦問屋と称した中には、この問屋が比較的多かった模様である。同浦商業の一端を物語っていると云い得る。
さきにも記した如く、広浦西部海岸は、それらの店舗が軒を並べた場所であったという。その繁栄も安政元年(嘉永7年、1854)11月の津波に壊滅し、いまは伝承として語り伝えられるのみ。
さて前記した如く、広浦波戸場も長い年月に、その内側が土砂の堆積で、大型船の繋留が不可能な状態となっていた。それに加えて、附近に適当な繋船地もなく、止むを得ず、鷹島の小浦に運んで、そこで本船に積み替えたという。それが非常に不便であるので、広浦波止場の浚渫を行い、もとの良港としたいというのが、せめてもの願いであった。それにつけて、所縁筋へ協力を依頼している。多分その1例であろうが、左記に宛てて依頼状を送っている。

尾州内海
戒講御船仲間御架中樣

同常滑 御船仲間御架中様
同沼御船仲間御架中様


常滑は古来陶器の産地であるが、右各地の廻船は、何を輸送し来ったか不明である。しかし、同地との交易の盛んであったことを如実に物語っている。
近世広浦商人の関東進出には目覚しいものがあった。江戸に出店を張るもの橋本・古田・岩崎・浜口・五忠(小林)の諸家、その他併せて20余家にのぼったという(渋谷伝八筆録 『夏の夜がたり』)。また、銚子等で醤油醸造を開業せるものは、既に前章で記したとおりである。一方、西国方面は九州五島に往来し商売するもの、また少なからずいた。かくの如く、近世広浦商人の逞しさは、同浦漁民に勝るとも決して劣らなかった。然し、広浦の繁栄は、昔日に遠く及ばなかったこと史料の端にも現われている。

3 安政の津波と広浦町人


近世広浦第2の受難は、安政の大津浪であった。同浦の運命は津浪によって左右されるところ多かった。その例を、個人だが雁仁右衛門家に取って見よう。同家は早く銚子に出店を持ち、本家は醤油袋の製造、店は米屋、また別の店は海産物問屋と3種の商売をしていた。後に醤油醸造業を始めるが、嘉永7年の大津浪以後であったらしい。 (嘉永7年は安政元年)家には、同家の今昔を記した旧記がある。上記したことおよび嘉永7年の大津浪の被害が記録されている。
嘉永7年(1854、同年11月27日、安政と改元)11月5日、大地震大津浪によって、またもや広浦は壊滅的な大災害を蒙った。その詳細については、別掲『感恩碑の由来』を参照されたい。ところで、雁家記録には同家の被害が詳しく記されている。左にそれを引くと

嘉永7年寅11月5日8ツ半時大地震津浪入来り申候
1、我ホ(等)家並貸家共都合14軒流失、蔵2ヶ所其外諸道具不残流失、家内にけがなし、其時之商売は本家ハ江戸行醤油袋織屋、店ハ米屋、同店ハ沖文問屋商売都合3軒商売致ニ付流物品
  覚
1、地米87俵
1、麦56俵
1、綿1500斤余
1、石ばい500俵
1、塩460俵
1、刻たばこ600玉余
1、籾米4石
1、御年貢米13石
   是ハ手作米也
外ニ色々売物数多筆ニつくしかたし、あらあら印し置候也
1、尤家財ハ不及申流失

1、諸道具不残流失
  凡損符銀20貫目余見積り


右はいうまでもなく家個人の被害である。広村全体となれば実に莫大な損害であったであろう。しかし。広浦商人は怯まず、難民救済と災害復旧に力を注いだ。その中で最も著名なのは云うまでもなく浜口梧陵(儀兵衛)である。次いで浜口東江 (吉右エ門)も知られている。 仁右エ門なども救助米や、被害跡片付人足賃米を拠出した。その他有力商人は殆んど、広の町復興にそれぞれ尽力を惜しまなかったが、特に梧陵の偉業は長く青史に残るであろう。
その頃、関東筋・西国筋出稼網も打続く不漁のため、宝暦頃4百2・30軒であった広村戸数が、津浪の直前3百40軒前後となっていた。それが殆んど罹災したのであるから、広村の疲幣言語に絶する有様であった。だが、広商人はその泥海から直ちに立ち上り、広浦の再興に尽力を惜まなかったが、疲幣が余りにも酷すぎた。
なお、ここでもう1つ付け加えるならば、商業利益や工業利益で富をなした広町人達は、殆んど例外なしに大小地主化してゆくことである。極めて近代は別として、常に農民は貧しかった。少し凶作でも続こうものなら、すぐ年貢未進となる。そのような際、農民は富有商人に田畑を抵当として借銭することがしばしばあった。所謂、本銀返しである。運悪く返済できないときは、当然、その田畑は債権者の所有に帰した。そして、次第に地主化してゆく例が多かった。生活に困った弱百姓の零細農地を次ぎ次ぎ買取ってゆくうちに、自然と地主階層に成長していったのが、たいていの広浦商人の一面であった。
上来累述した如く、幾たびの試練や受難を経た広浦町人であったが、彼等は不死鳥の如く生きぬいた。その活動を偲ぶかの如く、いまも、和田の出崎に波浪に堪えて波止場が残存している。

25、熊野街道宿場の盛衰


広川町は今も国道42号線往還の地であり、熊野街道の沿線である。かって旧熊野街道時代、当町井関・河瀬はその宿駅としてかなり繁盛した時代があった。
古代末期から皇族・貴族の熊野参詣が盛んになり、中世には武家や一般庶民にもその風習が及んだ。この参詣路として旧熊野街道が殷賑を極めたことは、既に「熊野路の昔」と題する1章を設けて述べたが、近世に至っては熊野街道宿場として、井関・河瀬集落は要衝の地であった。もっとも、同地は何時ごろから宿駅として利用され始めたが詳らかでないが、確かに近世においては宿屋など宿場営業した家が多かった。今もなおその当時の宿屋その他の屋号で呼称される農家が多いことからも、それが想像される。左にそれら屋号を列記して見よう。

竹屋 井関
藤屋  〃
松屋  〃
亀屋  〃
万屋  〃
森屋  〃
中屋 井関
山形屋 〃
紀の国屋  〃
桝屋  河瀬
車屋  〃
虎屋  〃
紺平(紺屋平兵衛) 井関
紺忠(紺屋忠兵衛) 井関
小路紺屋 井関
峠屋
綿屋
糀友(桃屋友蔵) 井関
椛喜(椛屋喜兵衛) 井関
鍛冶屋 井関
金具屋
店(酒屋)
養生場(牛馬の病気を扱う所) 井関
桶屋 井関
笠屋 井関


平安時代、皇族・貴族の熊野三山参詣路として開けた熊野路も、近世ではもはや、そのころと大分性質を異にしていた。熊野参詣路でもあったが、それ以上に、武士・商人・農民その他あらゆる職業人の所用交通路であった。
紀州徳川家の城下和歌山は、いうまでもなく、政治・経済・文化あらゆる面で、紀伊国の中心地となっていた。
田辺 の安藤、新宮の水野など、和歌山への登城には、船路でない限り、多くの伴待を従えてこの熊野街道を往復した。その際、安藤家の宿所として、当地では、井関の山形屋および河瀬の車屋が定められていたという。また藩の役向で、和歌山から紀南へ、その反対に紀南から和歌山への武士の往復は、たいてい、この熊野街道を往来した。
さらに、町人や百姓、その他あらゆる職業人が和歌山へ、或は日高・牟婁へ、それぞれ所用で旅する時も、この街道の土を踏んで通った。なお、当時唯一の通信機間であった飛脚は、おそらく、毎日この路上に健脚で土煙を巻き上げたことであろう。
当地の旧家河瀬の鹿瀬六郎太夫の記録『古歴枢要』には、遊行上人や聖護院宮、三宝院宮などの通行も見える。

その他道俗上下各界各層の人達が、紀南への旅には、必ず踏まなければならなかった街道であった。謂えば紀州交通の主要な動脈であった。その動脈が、まさに古来の嶮所鹿背山に掛からんとする手前に、井関・河瀬集落が所在した。そして、そこが何時のころからか主要な宿場になっていた。上掲屋号のうち、竹屋から虎屋までの12戸は、明治初年ごろまで営業していた宿屋であり、既に不明となっているが、以上の外にも、かって、宿屋稼業の家があった模様である。
なお、上に挙げた屋号や家の呼称に、宿屋以外のそれがある。明治以後、沿岸航路の発達に伴い、旧熊野街道が重要な役目を果たさなくなってから、井関・河瀬は宿場としての重要性はなくなり、宿屋と共に俄かに衰え、共に転業して農家となった。
この熊野街道には、1里毎に1里塚があり、塚の上に1里松もあった。井関の中央に、いまも1里松の地名が残るが、その跡方もない。そればかりか、熊野九十九王子のうち、井関の津兼王子、井関王子、白原王子(後に社地が移され河瀬王子となる)河瀬王子、馬留王子など、かっては、この地方に数ヶ所の王子社跡があった。それも、いまは僅かに河瀬王子のみ跡を留めるに過ぎない。時代の変遷はあらゆるものの姿を変えてゆく。昔の宿場井関、河瀬の面影は、いま何処にもない。
この地方の里言に「熊野街道の馬の屁を嗅いで大きなった」という言葉が残っている。現在、この地方は国道42号線の沿道と変った。「自動車の廃棄ガスを吸って頭が痛む」と云い替えなければならなくなっている。
ところで、この熊野路沿線の井関・河瀬および隣接の前田の旧3村は、江戸時代伝馬役負担の土地であった。
本来伝馬役といえば、逓送用の馬を提供し、それに伴う労役に従事する課役のことである。それを年貢米の形で負担したのか、或はその負担度を米換算で示したのか、近世地方史料には石高で挙げられている。

註 伝馬制度は、律令制時代、郡荷ごとに伝馬5匹を備えて連送用としたことに始まる。しかし、その後長くすたれていたが、戦国時代復活し、戦国大名達は主要線路に宿駅を設け、伝馬を常備して伝令・飛脚の逓送・軍需物資の輸送にあてた。江戸時代寛永年間(1624〜43)徳川幕府は、この伝馬を制度化し、近世公用逓送機関の主要な役割を果たさせた。紀州藩でもこの制度に習って、主要街道に伝馬制を設けた。
既に度々引用した、飯沼家の旧記「手鑑」によると、江戸時代中期、湯浅組伝馬役8百石。その内訳、井関村298石8斗4升7合、河瀬村36石3斗9合、前田村114石8斗4升4合、残り350石は湯浅村となっている。湯浅組内では、湯浅村と井関村が伝馬継ぎの場所と定められていた。上に掲げた石高は、勿論、実際に負担の石高でない。伝馬役負担基準となる石高である、なお、前田村の負担は助郷という意味のものであった。
右の記録に御伝馬継3ヶ所として、左の如き記事が見える。

1、御伝馬継 3ヶ所
内1ヶ所  宮原組
 引高450石、加茂より宮原迄1里半、駄賃96文
1ヶ所  湯浅組
 引高380石、宮原より湯浅へ1里半、駄賃95文
1ヶ所  井関村
 引高450石 湯浅より井関へ1里、 駄賃52文
   原谷へ2里ノ内井関より原谷へ、駄賃120文


なお、同書別の箇所に、若山より本宮駄定が記録されている。上記と重複する記事は省略して、その区間毎の人足賃のみを抄録すると、加茂谷から宮原まで人足1人48文、宮原から湯浅まで同48文、湯浅から井関26文、井関から原谷まで同64文。そして、軽尻は6分半の割合と但し書がついている。
最初、熊野信仰から始まったこの熊野街道も、江戸時代には、藩の公用逓送道路となり、武士の公務出張道路となった。さらに、近世商業の発展に伴い、商人往来の商用道路ともなった。これが、井関・河瀬宿場の繁栄期をもたらした。
熊野街道も貴族階級の信仰道路時代においては、まだ、井関・河瀬には民営の宿はなかった。一般庶民の通行が、特に、商業の発展に伴い商人などの往来が始まるころから、次第に旅籠屋が生れた。そして、近世には熊野街道の主要な宿場となり、伝馬継ぎ場所となり、人馬の往来絶えることない殷賑が続いた。
時代の変遷と共に、熊野街道が変化を見せたのは、単に利用する階層ばかりでなく、街道そのものの位置も移動した。古い時代のころは、名島・柳瀬・殿・井関と東部山脇を通っていたのが、漸次平地を通るように変っていった。そして、湯浅庄内は勿論のこと、この広庄内においても、現在の家並の中を通過したのである。湯浅と広
の境広橋を渡って、当地に入ると、現在の広東町集落の中央を通り、殿・井関も現在集落の真中を通過した。
今もその旧道が残存し、その両脇に民家が並んでいる。この民家は、そこに街道ができてから次第に家並を増加したことはいうまでもない。そして、井関が熊野街道の宿駅となり、宿屋ができ、隣接の河瀬にもそれが及んだ。旧熊野街道が、当地方において東部寄り山手から漸次西側平地に移動するが、その変遷と共にこの街道の果 果たす役割も次第に多様化し、既に述べた如く、近世においては、信仰の路、政治の路、経済の路、その他遊芸の路ともなった。この路を経て、当広川地方にあらゆる文化や影響がもたらされたことは、いまさらいうまでもない。そして、その関門となったのは、井関・河瀬の宿場であり、また、近くの湯浅の宿場であった。
中世末期から近世において、広庄内の商業は、広浦と井関・河瀬を舞台に盛衰を示した。だが、各々立地条件を異にしており、上述の如く、井関・河瀬は、熊野街道の宿場としてであった。そのため、近代初期、沿海航路が開け、熊野街道が交通的に重要性が薄らぐに伴って、同地の宿場的商業が衰退した。そして、明治以降、他の農村と何等異るところない、単なる農家集落にと変貌を余儀なくした。



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26、南紀男山焼


近世の広川地方に光彩を添えるものの1つとして、南紀男山焼がある。これは、むしろ産業史篇で大きく取り上げるべき性格のものとの意見もあるかも知れないが、ここでは、一般歴史篇の一齣ひとこまとして叙述を試みる。勿論、産業史篇においても取り扱わなければならないが、南紀男山焼の存在は産業史的な意義から見るより、文化史的(狭義の)意義から見る方がより適当といえるのではなかろうか。
もっとも、この窯業の保護者であった紀伊藩第10代徳川治宝の目指すところは地方産業の振興にあったことは確かである。しかし、男山の窯業はどれ程、当地方の産業として重要な地位を占めたであろうか。それよりも、むしろ、男山窯製品は文化遺産として高く評価さるべき性格のものと考えられるのである。その意味において、あえてここに1章を設けて叙述する所以である。
南紀男山焼の窯業が開始されたのは、文政10年(1827)11月である。場所は広八幡神社の森に東隣する陵「日暮らしの丘」南麓であった。今はすっかり柑橘畑となって、陶磁器の破片や窯具の一部が附近一帯に散在するのみで、窯場の趾も明らかでない。
この窯業の創始者は、紀伊陶磁史上有名な崎山利兵衛である。彼は寛政9年(1797)広庄井関村に生まれた。生家崎山氏はこの地方の旧家で、代々、利兵衛は襲名である。室町時代広庄の地頭崎山氏は、1門36戸があったという。この地方から日高郡にかけて崎山氏を名乗る家が可成りあるが、それは殆ど上記1門の後裔といわれている。利兵衛の生家もその伝に漏れない。山口華城氏が『紀州文化』第1巻第2号に「南紀男山焼について」を載せ、その中で、崎山利兵衛の家系を述べている。そこで同氏は、系図学者鈴木真平の説を引いて、有田・日高に在住する崎山氏は皆系統を同じくし、湯浅宗光の支流にあたる後裔と説明されている。これは、おそらく、中世田殿の豪族崎山氏の末流ということであろうか。田殿崎山氏は湯浅党の1員であったが、厳密に云うと湯浅宗光の支流でなく、湯浅氏とは姻戚関係にあった。広庄の崎山はその支流と解される点がある。




ところで、利兵衛は広八幡の森に近接する日暮らしの丘南麓に開窯する3年前、即ち文政7年(1824)8月彼28歳の時、前藩主治宝の聴許を得て、その援助のもとに高松の地(和歌山市、和歌浦街道愛宕山の北麓)に磁器窯を築き、窯業の第1歩を踏み出した。所謂、高松焼である。この窯場では絵付の名工高山を招来して専属絵付師とし、盛んに染付物を焼成した外、色絵物・青磁などの製品を焼き世の歓迎を受けた。その陶磁の原料たる陶土陶石の類は彼(利兵衛)の郷里附近から運んだという。それが3年後の文政10年、彼が郷里に近い中野村に開窯する素因をなしたと見られるのである。
勿論、利兵衛が広庄中野村に開窯するに至ったのは、紀伊藩の許可と援助があったからである。紀州藩が彼の陶磁窯開設を助けるため、広八幡の隣地におよそ4町4方の地土を給与している。利兵衛が高松窯経営当時から、広・湯浅近辺において陶土陶石が豊富に産出することを熟知し、既に記した如く、わざわざ高松まで運んで使用していた。その不便に鑑み、陶土、陶石産出 の地に開窯して、一層盛大なる窯業を希望したのであろう。藩公はその懇願を入れて認可と援助を与えたのである。因に言うと第10代治宝は文政7年6月6日、家督を第11代斉順に譲っている。
『紀伊国名所図会』は当時の模様を左の如く戴せている。

広八幡宮の境内に隣りて、東西百間南北50間の地を陶器場とす。此地当庄井関村の産、利兵衛という者発願し、文政10年11月25日官許ありて、陶器を製せしより年々隆んになれり。磁器の質は伊万利焼の陶に似たり。近郷庚申山の石を以て製すといふ。近頃山上を開きて遠望の地とし、日ぐらしの芝と名づく。

なお、同書には、男山製陶場の全景とその作業図が載せられているので、窯場の規模と操作の模様が窺われてまことに興味がある。


男山窯業の盛時には、その窯数12基があり、工人の数、時によって多少の増減があった様子であるが、その常備はたいてい30名を越えたと伝えがある。そして、紀伊藩からは陶器場役人3名が出張常駐して、製陶場門前に、紀伊藩御用の大堤灯が年中掲げられていた。附近の人々はこの窯場を御役所と呼んで尊敬したという。
ところで、この窯業場で焼成された製品は、染付を主とし、色絵物、青磁、白磁、交趾写など多彩であるが、中国明朝成化期の渋い染付を好んで模作し、南紀男山焼の本領はその染付にあると、今もなお大いに賞揚されているところである。最近、とみにその声価が上がり、骨董的価値高く評価されている。だが、われわれの願うところは、単に骨董的声価でなく、郷土の文化財として優品の保存に、地元関係機関や有識者の認識であり、その努力への期待である。
男山の窯業には、いうまでもなく、経営者崎山利兵衛の手腕と、前代紀伊藩主徳川治宝(紀伊家第10代)の文化的理解と殖産興業に対する熱意が、両々相まって力となった。さらに看過することができないのは、当時の名工が、この男山焼に関係していることである。その1例を挙げると、京都の名陶匠永楽保全(善五郎)が、紀伊藩主治宝の招きで、同藩御庭焼偕楽園製作に参与しているが、保全はまた、治宝の委嘱により、しばしば来って男山陶磁製作の指導に携っている。なおまた、直接関係したかどうか不明であるが、同じく京都の名工仁阿弥道八の名を逸し得ない。彼も保全同様、偕楽園焼の指導者であった際、高松焼および男山焼の指導に力を貸したことがあったという説もある(山口華城「南紀男山焼について」)。道八が直接、男山窯作品に指導を与えたかどうか、なお明らかでないが、彼が和歌山滞在中に高松窯・男山窯が開始された点を考慮する場合、何等かの影響を及ぼしていると見て差し支えないであろう。
後でも1言するが男山開窯当時京都出身の陶工が多かったとの説も上記との関連性から見て、あながち単なる伝説と言い得ないものを感じる。
さらに謂うなれば、利兵衛若年のころ京阪地方にあって、たまたま加集a平と知り合い、共に、当時、陶瓷製作の権威仁阿弥道八の弟で、特に染付の名手屋形周平の窯を訪ねて陶磁の法を学び、染付の技術を会得したという。この説の出所は淡路屋伊兵衛の書簡に基づくものであるらしいが、利兵衛とa平の交誼は単に架空の物語りではなく、後に利兵衛が高松窯を経営した際、緊平は来ってそれを援けたことがある。a平はその後、偕楽園において作陶に従事したことも知られており、淡路焼の名工であるが、近世末期の紀州陶磁との関係が深い。上記した如く、舐平と利兵衛はもともと同門の間柄であり、利兵衛の高松業に協力したa平は、その後も紀州に滞留しているので男山焼にも技術援助があったと見ても不当でない。高松焼の優れた染付、さらに、男山焼の本領たる染付には、師の尾形周平の脈博が通じてもいようし、利兵衛莫逆の友加集a平の技術も介在していると見られよう。
ところで、何といっても、この男山焼窯場で、直接、陶磁器成形・絵付などに従事した陶工達を逸することができない。
南紀男山焼で最も著名な陶工は、光川亭仙馬(土屋政吉)である。彼は特に絵付の名工として名が高い。いずこの産か、その出生の地が明らかでなく、幼少のころは、母に伴なわれて浮浪中、男山窯経営者崎山利兵衛にその画才を認められ、母子共救われて養われた。長ずるに従いその画技益々非凡の妙を見せて、陶磁の肌にその妙技を振ったのである。彼の絵付した作品には「光川亭仙馬」または「仙馬」と銘を印している。名は政吉、土屋は後に付けた苗字で、もともと苗字を持った生れでなかった。陶磁の仕事に携わったところから後年土屋を苗字に名乗ることにしたのである。彼の生地については、一般に日高説を取っている。それは、彼の母が語ったところ母がに由来したものでなく、号「光川亭仙馬」の光川亭は、彼の故郷の川名からきているのでないかとの憶測が基となっているのでないかと思う。 日高郡南部附近に光川と呼ぶ川があるという。
それはさておき、仙馬の最も得意としたのは絵付であったが、また、捻りものにも見事な技隅を示している。
男山の政吉か、政吉の男山かといわれる程、彼の名声は高く、今もなお、仙馬の名は人口に膾炙せられている。
利兵衛歿後も同志と共に男山窯に踏み留まり、窯業に従事したが、明治11年(1878) 廃案に伴い太田窯(現在和歌山市太田)に移りそこで暫時働いたが、同15年ごろ、再び当地方に帰来して湯浅に住し、明治20年(1887)9月19日同地にて病歿。享年78。彼の墓碑は広養源寺墓所にあり、それに政吉夫妻の法名を左の如く刻んでいる。

深空美如智海禅定門  善空根誉妙海禅定尼

南紀男山焼の陶工で、現在人口に膾炙されているのは、殆んど光川亭仙馬、即ち土屋政吉(後さらに塩谷政吉と名乗る)ただ1人である。しかし、彼の外に名のあった陶工が数人いた。それは主として天保・嘉永以後この窯場で腕を振った人達であるが、捻りものに妙を得た尾山嘉平に京屋源兵衛。轆轤をもって得意とした治兵衛。また、梅亭・可祥なども陶工として優れた技倆を見せたのであった。だが、この陶工達については、今は伝記も書くに由がない程、史料も遺らず口碑からも消えてしまっている。そのうち、尾山嘉平の子孫のみが、近年まで広八幡神社の近傍に住居していたが、その家もどこかへ移住して祖先のことを聴く術もなくなった。最近、山本庚申山に尾山嘉平の墓碑がある由伝え聞いたに過ぎない。
(男山窯跡出土焼物型に、柳国、大次郎などの名が見える。なお、出土品に「小猪口、古作之、文政10亥夏製」の銘を有するのがある)。
以上が大体現在までに判明している陶工達である。古は京焼の名工欽古堂亀祐であろう。男山窯創業時代にこの窯場に来て製陶の指導に当ったものと思われる。然し創業当時の工人達は、欽古以外は資料に徴し得ない。
だが、伝承では初期の頃京都出身者が多かったと言う。
先記した如く、崎山利兵衛が紀州藩から4町4方の土地を与えられ、そこに東西百間南北50間の窯場を構え、盛時には、窯12基を築いていたというが、崎山家に伝えられるところによると、その地域内工場外の土地からは、年々米20石の収穫があったという。それに加えて、窯業経営に藩から種々の配慮があったこと、紀伊藩の記録に見えるとして、山口華城は左の文を挙げている。 (前掲論文、筆者註、安政3年=1856=の記録)

男山陶器窯建物とも、開発人崎山利兵衛と申者依頼。式皆下ゲ遣し、向後仕入向同人手元にて取計候積りに有之、然共仕入銀同人手元而己にては可難行届に付、望之者へ銀主申越させ。焼方業合手広に取計せ器物出来次第、銀主方へ相送らせ候はば、御国産手広に相成、可然との御沙汰に有之、夫に付右銀主望之者も有之候はば可申出事。(筆者註、藩にかわっての出資者を募集し、その出資者には、製品出来次第相送らせば男山窯業益々盛になるとの意)。
本文窯元仕入等、追々出銀取斗、約大体20金位之事は可有之候得共、仕入次第にて手広に業出来可申哉に付、望之者も候はば、夫是申合候て、仕入向取斗候ても可然。猶委細之儀は、利兵衛より申談ぜし様可致事。


右に転載した史料からも如何に紀州藩が、男山窯に力を入れたかが窺える訳であるが。同藩の男山窯業に対する方針と期待は、偕楽園・瑞芝2窯の場合と異り、国内の殖産振興策に基づく、企業的窯業であった。従って、当時の紀州陶磁窯中最大の規模を有した。その陶磁の材料として、良質の陶土を湯浅近傍から採掘し、陶石は山本庚申山から採取した。陶石はさらに、殿・名島などに運び、そこに設けた水車場で粉砕して用いたのである。
男山焼は大衆向けの陶磁器を主にして焼成し、染付がその中心を占め、日用雑器の外に、やや高級な茶道具、花器、文房具、床置などがあり、日本古陶磁界でもその名が知れている。なお、染付製品の外に、青磁、交趾釉などの製品にも、また、見るべき作品が少なくない。
さらに、付け加えて謂うと、偕楽園製品の代作を、この男山窯が受持っていたことである。成形・素焼はもとより、施釉・色付した完成品にまで至っていた。同窯址附近には偕楽園製の銘を印した破片が数々散在していた事実が、それを物語って余りあるであろう。このことについて、山口華城氏は前記論文の中で次の如く述べている。
殊に此の窯は紀州における唯一の大規模のものであったがため、他窯で製造んど不可能視せられていた、高火度焼造の堅緻な磁質生地をば偕楽園等の諸窯のために、常に供給していたことである。元来男山窯に於ける御用製作は、意外に根拠あるものであって、偕楽園製磁器類の殆んど全部およびその素地焼品等は総て此の窯の提供品と見て宜いのである。この原因は主として、製作難に基いているのは勿論で、実際西浜御殿園中に設けられた偕楽園製作用に宛てた築窯は、今日想像するほど大規模のものでなかったことは、前後の事情と残存の記録によってほぼ察知し得られるのである。
右の如く、紀州藩御庭窯偕楽園の代作を承った男山窯は、如何に優れた技術を有していたかを示唆している。
だが、実際この地方産の陶土・陶石を使用した場合、鉄分の含有が多いため釉薬が切れを生じ、所謂釉切れ品となる。染付の器であれば、これも1種の味と言い得るが、御庭焼のような完壁品を特に要求される焼ものの場合、地元の材料のみによったのではなかったようである。崎山・広井(崎山家の縁族)両家の言い伝えでは、肥前伊万里港から黒髪山附近産の陶土を海路輸送し来って、適当に配合して使用したという。男山製品にも九州伊万里焼(有田焼)と一見鑑別のつかないものがあるのはその故であろう。(上中野通称念仏山墓碑に、九州肥前国小田次村藤吉、性応海玄信士。天保12 4月18日とあり。肥前から来た陶工であろうか)。
さて、利兵衛経営の男山陶磁場は、12基の窯で、徳川時代を順調に経過したが、明治5年(1872)のころ出火によって3基を失い9基となり、その後また2~3年を経て暴風雨のため2基大破したという。 結局、明治11年(1878)、閉窯の際は7基であったと伝えがある。利兵衛の男山窯業経営は、彼の歿年明治8年(1875)まで48年間にわたったが、その間、嘉永5年(1853)大庇護者であった紀伊藩第10代治宝の薨去に会い、大いなる打撃を蒙むったことはいうまでもないが、その後、幕末の動乱、明治維新時の改変に際会して彼の男山窯業は一層困難に陥入ったことは明らかである。その為かどうか、明治の初め諸制度の改革と共に一時開物局の経営に移ったことがあった。そのころ、加賀国出身の名工小川久右衛門を同局が山城国鹿背山 から招き 男山焼に協力を求めた。久右衛門は在来の製品に新鮮味を加えて同3年8月まで得意の製作を試みたが、開物局の廃止に伴い再び崎山利兵衛の経営に復帰したのであった。しかるに明治8年、利兵衛死歿に伴いその跡目を2代目利兵衛が続いたが故あって、同9年ころ、尾山嘉平、土屋政吉、京屋源兵衛、西島某以下若干の組合員に依って事業継承となった。だが、この共同事業を以てしても結局収支償わず、経営益々困難となって遂に明治11年廃業の止むなきに立ち至った。文政10年開窯以来50年間の男山窯業史はここに惜しくも幕を閉じたのである。
紀州陶磁史上に偉大なる足跡を遣した崎山利兵衛の墓は、上中野法蔵寺境内墓所にある。享年79歳。その法号は、延空西翁寿仙禅定門と刻まれている。
ところで、男山窯の製品販路について上来触れる機会を逸したので、いまそれを若干記すと、開窯の目的は、一般大衆向製品の焼成にあり、開窯当初から直接各地へ販路を求めていたこと勿論であるが、そのうちでも、大阪、四国、淡路方面へは最も多く積出されたという。特に大阪では西横堀瀬戸物町浜通りに立派な店を開き、諸国の商人と盛んに取り引を行ったと伝えがある。また、和歌山においても、大橋東詰南側河岸に広大な直売所を設け、利兵衛の娘さとが、そこで支配人の役を勤めた。
さて、右の如く、男山焼が隆盛を見た近世後期は、わが国における窯業の繁栄時代であった。近世初期ごろから西日本を中心に陶磁の窯が各地に起ったが、いまだ小規模の家内工業的なものが多く、その規模が大きくなり窯数も急激に増大したのは、近世後期の文化文政ごろからである。開窯も全国各地におよび、国民一般が日常陶磁器を使用する時世となった。小山富士夫氏がその著書『日本の陶磁』の中で、「文化文政から明治のはじめにかけて、わが国各地に夥しい数の窯が起った。まだ詳しい調べがついていないが、恐らく総数は2千を越すのではないかと想像している。(以下略)。」と述べていられる。
右の引用文からも理解されるとおり、文化文政ごろからわが国の陶磁窯が全国的に普及する気運が盛り上ったのである。この紀州においてもそれが見られる。瑞芝窯享和元年(1801)、 偕楽園窯文政2年(1819)、高松窯(文政7年(1824)、 南紀男山窯文政10年(1827)、 清寧軒窯天保5年ごろ(1834)、 香雪軒窯万延年間(1860)、 直川窯安政3年(1856)、 太田窯明治8年(1875)など数多い。もっとも、男山窯を除いては殆んど小規模のものである。如上の時代的背景を無視することができない。崎山利兵衛が藩主治宝の愛顧を受け、その庇護のもとに男山焼を開窯したことはいうまでもないが、それも時代的背景の然からしめるところであったであろう。
(註記 男山窯跡から出土の焼物型に、文政6年=1823、与吉。文政9年=1826、清兵衛。など発見されている。この年記を有する出土品の存在については、今後の研究にまつところ多い)。



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27、昔の交通


1 交通の変還


前述において、近世広川地方熊野路宿場の一端に触れた。熊野路は何といっても、平安時代以降、当地方における最重要交通路であった。そのために後代に至って、この沿道にあたった井関・河瀬が宿場として繁栄を見たこと前述のとおりである。
しかし、重要な道路は、熊野街道ただ1筋という訳ではなかった。尤も熊野街道は熊野信仰に基づく貴族の交通路として開らけ、由来、歴史の舞台で脚光を浴び、文献上にも現われること度々であったが、一方地方人によって熊野路以上に利用されてきた道路があった。
だが、いまだそれらの古道に触れる機会がなかったので、ここで簡単にその跡を辿って見たい。交通史という程のものになり得ないであろうが、過去の生活と密着した往昔の交通路はどのようであったか略叙を試みよう。

現在判明する古道は、何時開かれたか明らかでない。地方地方に人が住み、それが往来するようになると、必然的に道路が開ける。この道理を考えると、おそらく、原始時代から道路というものがあったことは間違いなかろうが、時代と共にそれが移動するので、現在知見する古道は、前記した如く何時の開通か不明という外はない。
その反面、何時のころまで盛んに使用されたか判明する古道が、必ずしも少なくない。一口に云えば、この地方に鉄道が開通するまで地方人の重要交通路であったものが、今始んど廃道同様の状態となっているのが普通である。最近は自動車の普及で、車の使えない山路や狭い道路は改修するか廃道とするか、時代の変化が道路の姿を変えた。
殊に山地における昔の路は、比較的直線に近かかった。だが、自動車時代となった現代においては、そのような道路は役に立たなくなった。過去の遺物として草木が生い茂っている。
旧熊野街道でさえ、今ではところどころ昔の面影を留めるに過ぎない。まして、他の古道は、人々の記憶からもまさに消え去ろうとしているが、かって、行商人の往来盛んな時代があった。勿論、それ以外の人々も利用したが、最も頻繁に往来したのは、様々な商品を肩にした商人達であったといって過言でない。昔は特権勢力の強制による被支配農民層の就役か、或はまた貢納物運搬のためか、それでなければ、ときたま、伊勢・熊野・高野山その他名のある社寺に参詣の旅に出る以外、一般農民は他郷に出向くということは滅多になかった。それに較べて町人は商用のため旅に出ること、行商人は商売のために町から村に通うこと、ときたま、他郷の土を踏むに過ぎない農民と訳が違った。商業者に取っては、他処に出向くことが、これまた仕事の1つであった。特に行商人に取っては、それが日常的活動であったことはいうまでもないであろう。謂わば古道は商人の路であった。
だが、誤解してはいけない。古代の交通路、中世の交通路、近世の交通路、それぞれ時代的特色があって、総てを一口に商人の路、即ち、商業道路といえる訳ではない。例えば、古代の律令制時代には租庸調の制に基づく貢納物輸納のための交通、庸役に徴されて都やその他就役地に赴く際の交通など時代性の反映といえるであろう
し、律令制崩潰後荘園制時代には、荘園領主の荘園経営に伴う交通、荘園の下司・荘官の往来、年貢の輸送など、これまた、時代の交通を特色付けるものであった。そして、中世も時代の進むに伴い次第に商品流通経済が一般化すると、商人の活動、商品の運送が活発となってくる。交通もこれに伴って様相が変化を見せたであろう。中世末期の戦国時代にはそれに対応した交通が生れたであろうし、近世武士と町人の時代が出現すると、交通もまたそれを反映したこというまでもない。近世は特に町人の興隆時代であったから、前記した如く商人の路が田舎の隅々まで延びるのである。即ち、本格的な商品流通経済時代の到来であった。
道路には、政治的・経済的事情によって生れるものと、信仰によって開けるものがある。例えば伊勢路・熊野路・高野路などは後者に属すると解されよう。
さて、この辺で当地方における古道の跡を辿って見よう。

2 広川地方周辺の古道


広川地方の古道といえば、熊野街道が第1番に念頭に上がる。しかし、これについては、既にしばしば触れたので省略する。それと、もう1つ断っておきたいのは、古道といっても何時開けたか判らないものが多く、余程古い時代はどうであったか知ることができない。なお、ここで取り上げる古道については、当地方内のみの往来に資したものは除外する。
さきに「万葉時代の広川地方とその周辺」を述べた中で、この広川地方には万葉時代、都人が利用するような陸上交通路が、いまだ開通していなかったと推測した。しかし、地方人が通行する程度の路はできていたことは間違いないが、それをいま探ることもできない。それのみか、旧熊野街道を除いては、中世の交通路も正確には判らない。近世盛んに利用された古道は、中世から始まったものか、将又、近世商業の発達に伴って行商の道として開けたものか明かでない。現在知見される古道のうちには、少なくとも中世以前から通じていたものがあるであろうが、次に挙げる古道の中にそれを証左する資料が発見されない。だからと云って総てが近世の開通と簡単に片付けられないので、この問題に触れないことにする。

衣奈街道  現在県道となっている衣奈・由良街道は、古くからの衣奈街道である。近代半ばごろまでは湯浅港や広浦市場の港から船で衣奈との往来があり、貨物は殆んど海上運送であったため、古い衣奈街道は人の往来程度であった模様である。だが、早くから広・湯浅の行商人は、この街道を通って衣奈・三尾川方面に商売を行なったのであった。
この街道も県道とされて改修が成ると、主要な貨物道路として利用され、そのため、海上交通は衰微した。

由良街道  西広で衣奈街道と別れて南し、海抜280mの由良坂を越え、由良畑村の奥地に下った。現在は殆んど廃道同様であるが、かって、広・湯浅の行商人が盛んに利用してきた古道である。古来広庄と由良庄は非常に関係が深かったから、この古道は相当古くから開かれていたものと想像される。昭和の初め紀勢西線が開通して以来急速に衰微し、今はただ山路として、僅かに地元民の利用あるのみ。

室河越街道  この古道は、日高郡奥地の早蘇に通じる。旧熊野街道と河瀬橋のたもとから別れ、広川上流に沿って上津木落合に至り、有田・日高の堺室河峠を越える。
この古道程、広・湯浅の商人が利用した道路は少ない。 紀勢西線が開通して次第に利用度が減少し、今は他の古道同様、殆んど廃道化したが、近世から近代昭和初期まで商業道路として、甚だ重要性が高かった。日高川上中流諸村への物資の供給、物資の買出しなど、主として広・湯浅の商人が、この室河越街道を利用してそれを行なってきたのである。
最近この街道改修を計画し、室河峠隧道開鑿問題が議題の焦点となっているが、実現には、なお、日時を要するであろう。

藤滝越  熊野街道の鹿瀬峠北麓河瀬の馬留王子社南辺から別れて、山越しに上津木中村に至り、さらに、山路を登って海抜約500mの峠(白馬山脈)を越え、日高郡旧矢田村方面へ降る。途中に藤滝と呼ぶ小さな滝があるので、藤滝越えという。この滝は『紀伊名所図絵』にも載せられ名が知られているが、この小さな滝が同書に載せられたのは、この古道も有田と日高を結ぶ道路として、近世かなり利用されたからに外ならない。やはり、最も多く利用したのは行商人であったであろう。今は単なる山路として山仕事の人達が上り下りするに過ぎない。

小山越  上津木落合から日高郡早蘇方面に向って通じている古道である。海抜約458mの高処、小山峠を越えるので小山越えと呼ぶ。有田と日高を結ぶ古道であった。この峠の近傍に小山権現社が祀られており、別当寺の高山寺も所在した。現在は廃道に等しいが、かって行商人が往来し、商業道路的存在を示した時代があった。広・湯浅の商人は日高川上中流諸村に足を伸ばして行商を営んだのも昔語りとなったが、その時の交通路も今は共に昔語りとして人口に上るに過ぎなくなった。

当広川町は南に白馬山脈系を境として、日高郡と接しているので、有田・日高間の連絡道路は、以上の如く広川町内を経て往還した。この広川町は北部で湯浅町と接し、東部は山を隔てて金屋町石垣方面と接している。従って、この両方面に向っても交通路が早くから開けていたこというまでもないが、特に北部の交通は熊野街道を主幹道路とした。前記衣奈街道も広橋南詰でこの熊野街道に連結して、すぐ橋の向うは湯浅である。熊野街道を北に進むと郡内では湯浅・吉川・糸我・宮原であり、和歌山・大阪・京都と上方へ上る時は、この街道を利用した。

近世および近代前期の広・湯浅の商人は、日高方面にまで活動範囲を拡げていたことは前述のとおりであるが、勿論、有田郡内いたるところ、その足跡及ばざる地はなかった程であった。そのために往来した古道をあげると、およそ、左記の如くである。

高野街道  湯浅市街地から顕国神社前を経て、現吉備町熊井・土生を通り、現、金屋町の糸野・上六川に向う古い高野街道があった。この古道は上六川を経て白髪畑峠を越え、貴志川渓谷を東にのぼると高野山西登山口花坂に至る。この高野街道が廃されて、吉備町水尻から同町の南寄りを金屋町に向い、お岩坂を越え、有田川上流に沿って遡る高野街道が後に開けた。現代の県道はさらに改修されて高野山に達する。
ところで、右の高野街道は、高野山参詣ばかりでなく、日常の交通路であったことはいうまでもないが、近世商業経済発展に伴って最も多く利用したのはやはり行商人であったと思う。広・湯浅商人はこの街道を往来して、有田川中・上流諸村に行商を行ったのであった。

千田箕島街道  熊野街道の西方に当る。湯浅の市街地を過ぎ、北橋を渡れば間もなく栖原坂である。この峠を越えて、現、湯浅町栖原に至る。さらに田村坂を経れば同町田、そしてまた野井坂を登って降りた処が、現、有田市千田である。千田には有田地方第1の大社須佐神社が鎮座している。有田地方民の尊崇篤く、広川地方からも参拝が多かった。「お千田さん」詣にはこの街道を利用した。この古道をさらに西北に進めば箕島に至った。
箕島は有田川下流における唯一の町であったから、湯浅・広との往来もかなりあったであろう。勿論、その途中村々への行商には、この古道が利用された。現代は堀割・トンネル・海岸線に沿う県道が開通し、古道は全く顧みられなくなった。

糸川往来  広川町柳瀬から湯浅町山田に越える道と、湯浅から同町青木を経て山田に行く道がある。山田からさらに山田川渓谷を深く北谷に入って3本松峰西側を横伝に進むと金屋町糸川に至る。これが昔の糸川往来であ峻嶮な山路であったが、脚力時代の昔の陸上交通路は、できるだけ近道を選んだので、糸川方面に行くには、この古道も随分利用されたという。だが、今は全く廃道と化した。

吉原往来  湯浅町山田から吉備町奥を経て、同町吉見に連絡する古道であった。吉見坂を越えての往還は楽な道程でなかったが、広・湯浅からは近道であったので利用された。この道はさらに吉見から山越しに金屋町吉原に達していた。

修理川往来  下津木岩渕の渓谷を遡り、山を越えれば、現金屋町修理川方面に達する山路があった。
この修理川往来の入口とも云うべき、岩渕へは、現、湯浅町山田南谷の渓谷を南東にはいり、垣内地小盆地を経て3本松峰の南側面を登る古道があった。瞬阻な山路であったが、湯浅・広商人の利用が多かった。然し、寺杣迂回の街道の開通に伴って、この古道はすっかり荒廃し、今は人跡も跡絶えて、昔の面影さえ留めぬ有様である。修理川往来、そこに達するまでの岩渕往来、共に徒歩時代の交通路であった関係で交通事情の変化から新時代に対応することが出来なくなり、他の古道と共に廃道化してしまったのである。

以上、広川地方周辺の古道を略叙した。そして、その中で商人の利用が主であったことを重視したが、勿論商人ばかりでなかったことは改めていうまでもない。だが、利用度においては、商人と百姓間に大きな差のあったことは、何と云っても否定することはできない。 さきにもちょっと言及した如く、近世封建時代、一般農民には自由な旅行は許されなかった。また、商人と違って仕事関係等で遠く村外に出向くという機会は滅多になかったのである。封建制時代と近代との大きな相違が、この辺にもよく現われている。

28、近世広町人の文化的活動


近世の広は、概括的にいうと、その前期は、商人と漁民の活動の時代であり、後期は主として商人活動の時代であった。
広浦商人の活動については、既に、若干叙述を行なったが、幾多の起伏を経ながらも、彼等は弛みない努力によって、徐々に経済力を蓄えた。そのうち財力豊な町人のなかには、藩の要謂に応えてか、藩財政援助を行っている。それともう1つは、文化的活動である。
そこで、ここに近世広町人の文化的活動について、その概略を述べておきたい。だが、その前に、彼等の財力の一端を窺うために、先づ、藩財政援助について略叙しよう。
上来、度たび引用した飯沼家の旧記『手鑑』に、永上金に関する記事がある。この永上金というのは、即ち、藩の財政を助けるための無期限御用立金。謂うなれば、1種の献上金であった。
年代は判然としないが、大体、宝暦ごろ(1751〜1762)と思われるが、右の旧記に次の如き記載がある。

有田郡中永上ゲ金名前
1、米内  北村半平

743
1、米1000石    広村橋本屋与市
  毎年60石被下候
1、米500石   小豆島伝十郎
  毎年30石被下候
1、米400石   忘村橋本屋小四郎
  毎年24石被下候
1、米250石 湯浅村大坂屋三右衛門
  毎年15石被下候
1、米300石   吉原村吉十郎
  毎年18石被下候
1、米500石   広村橋本屋与市
 右500石指上宝暦8寅11月4日7人扶持被為下候
1、米250石 広村一向宗 覚円寺
 毎年15石被下候

また別の箇所に左の如き記事がある。
水上名前
1、金干両   広村  与太夫
1、金400両  広村  小四郎

1、金250両北村氏取扱
1、金500両  小豆島村伝十郎
1、金300両  中村平藏取扱  吉原村 吉十郎
1、金250両        湯浅村 三右衛門
宝暦8子年(1758)
1金500両  広村  興市
右500両指上 人扶持被為下置候
1、300両  橋本小四郎
1、500両
1、250両  栖原屋紋右衛門
1、250両  藤代屋善十郎
宝暦13年未 (1763)2月永上ケ
1、250両  大阪屋三右衛門
         栖原屋忠五郎組合
1、250両  藤代屋善十郎
         栖原屋紋右衛門
1、250両  垣内太七
1、400両    組中組合永上

1、500両  組中10年賦  組中新田畑10年


右は参考までに郡内全体を揚げた。米石高で記したのと、金高で表したのと両方である。右引用の中で、広村とあるのは橋本屋与太夫・同与市・同小四郎と覚円寺である。この外に金250両広村梅野利右衛門、銀104貫目ヒロ与太夫など名が見える。銀何貫という比較的小口は省略するが当地方関係が若干ある。
ところで、この永上金(米)に対して、藩は毎年一定額の利息的なものを支払った。前掲記事にそれが見える。
毎年何石被下候とか、何人扶持被為下置候などがそれである。
とにかく、右に見た如く相当な金品を指上げ得る程の財力家が、近世後期の広村に存在したことの1証左となる。当時、同地には、永上げに名を連らねていないが、かなり財力家が多かった。彼等は町人として事業に手腕を発揮するかたわら、教養の向上にも意を注いだのである。そのため、近世後期から近代初期の間、広村におい
ては、かってない程、様々な文化的所産を遺した。これは独り広の地だけの現象でなく、隣の湯浅も同様であった。むしろ、全国的な現象であったともいい得る。
江戸時代中期以降、都市はもとより、地方においても文芸が庶民の間にも普及した。商業経済の発展に伴い、町人の実力が認められると共に、彼等自身も、それに相応しい教養を身に付けることに留意した。娯楽としての文芸と教養としての文芸が、両様相俟て町人文芸の開花を見た。近世後期における広・湯浅の町人文化の隆盛もそれであった。この時代、学問といえば、漢学と国学である。漢学からは漢詩の流行が生れ、国学からは和歌が詠まれるようになり、俳諧も盛んになった。また、趣味として南画を習い、書を能くする者も少くなかった。
さて、それでは広村における近世中期以降近代初期に至る、如上の詩歌・書画を能くした人々を挙げて見よう。

詩人
松戀堅亮(1741〜1797)
板原赤水 (1775〜1852)
橋本柑園(忠次郎1804〜186O)
浜口梧陵(儀兵衛182O〜1885)
古田咏処(庄右衛門1836〜19O6)
浜口容所 (吉右衛門1862〜1913)
古田信堂(庄右衛門186O〜193)
浜口松塘(大英1846〜1876)
安渠寺松湾(湛浄1827〜1845)松盧遺稿1卷
歌人
玉龍単隆 (1687〜1756)
古田咏処
海上胤平
佛人
岩崎桃之(コ之助1788没)
同妻里葉(天明ごろの人)
岩崎東洞
十善庵素孝
華鐘井円志 天明8年(1788)熊野参諸紀行「浜由ふの記」
淡笑庵許草
雪堆庵波丈
桂花園此葉女(生歿不詳、但し天明ころの人、著「市女笠」)
久保田互鳥
安楽寺伯梁(雅郷とも号す、1778〜1852)
岩崎黍丘(重次郎1804〜1866)句集桂剣集
古田咏処
古田錦坡
琴上女
巨舟
関為山
浜口寿
(以上の外10名ばかりあったという。)
画家
浜口灌圃(儀兵衛1778〜1814
古田咏処
植山雲安
松岡松翠
浜口松塘
浜口容所
中 緑亭
古田信堂
鈴木白芽
橋本柑園
書家
安樂寺玉龍
覚円寺瑞最
西川儀兵衛
岩崎黍丘
岩崎明岳(重次郎1830〜1914)
浜口能岳
古田咏起
浜口容所


右に列挙した文化人の総ては、必ずしも広浦町人のみでない。杉原赤水は医者、玉龍・松響・伯梁は安楽寺、瑞厳は覚円寺住職など僧侶もいる。しかし、上記人物の殆どは、商工業の経営者であった。
ところで、江戸時代湯浅・広川地方の儒学は、伊藤仁斉の学統を汲むもので、仁斉の子東涯・蘭嶋に学んだ栖原の垣内一門がその端初を開いたものである。詩文は野呂松盧・大窪詩仙・中島棕隠など有名人を師とし、湯浅栖原・広方面に多くの地方詩人を輩出せしめた。これらの人々が同人となって、文政10年(1827)前後、湯浅に古碧吟社を創立し、漢詩文学の隆盛をもたらした。この同人詩社については、『湯浅町誌』 中の文芸篇に詳記されているから、ここでは省略するが、同人18名中、湯浅10名、栖原6名、広2名である。広の2名は、橋本柑園・板原赤水であった。吟社同人詩集『古碧吟社小稿』の刊行されたのは、文政10年(1829)で、当時の隆盛が窺われる。さらに、その後、同地方の漢詩文学の隆盛期は続き、暫らく郷土詩人の跡を断たなかった。
その作品は、『南紀風雅集』 『続南紀風雅集』・『江南竹枝』などに収められている。なお、前記『古碧吟社小稿』に漏れた同人の詩を集めたものには、近代、菊池晩春(安政6〜大正12年 1859〜1923)編集の『紀海遺珠』がある。広には吟社同人は僅か2名だが、詩を能くしたものは少なくなかった。
江戸時代後期、国学の普及に伴い、和歌もまた、これを嗜む人士が多くなった。だが、湯浅・広川地方においては、特に取り立てていう程、郷土歌人の出現を見なかった。 若干、作品を遺しているが、漢詩・俳句に比すべくもない。 (国学や和歌は箕島附近を中心とした。)
和歌と異なり、驚くべき程の隆盛を見たのは、俳諧である。当地方に俳諧の隆盛をもたらしたのは、勿論、時代の風潮によるものであるが、和歌山の俳人松尾塊亭([桃亭とも書く」1732〜1815)の影響が特に大きかったと思う。塊亭の門人は和歌山を中心に幾百人を数え当広川地方でも、桂花園此葉女、久保田互鳥など、明らかに塊亭門下であった。いまもそうであるが、湯浅・広川両地方は1つの文化圏をなしていた。天明・寛政期(1781〜1800)における湯浅・広川の郷土俳人は、たいてい塊亭門下か、その影響下にあり、1俳諧グループをなしていたと思う。
広浦の女流俳人桂花園此葉女が、天明8年(1788)、吉野紀行『市女笠』を刊行している。そして、その至れり尽せりの跋文は、師匠塊亭の記せるものである。
ところで、この松尾塊亭が文化12年(1815)84才の高齢で没した。彼の門人は全紀州・堺・大阪・阿波辺まで及んだという。紀州俳壇の巨星がおちた後、代って桜井梅室が、蕉風俳句を紀州に広めた。有田の俳人もそれに風靡され一層俳諧が盛んになった。湯浅・広川文化圏では、吉峰露舟(湯浅深専寺住職善徴上人)を中心とする秋琴堂社が結成され、その社中に広・湯浅の俳人群が集った。嘉永6年 (1853)、 湯浅顕国神社に奉納の4季混題発句額2枚と、安政4年(1857) 広八幡神社に奉納の同じく4季混題発句額2枚は、この秋琴堂社中俳人の句作が収められていた。当時の隆盛を物語る1証左となるものであるが、広八幡神社のが遺るのみである。
幕末の文久2年(1862)、遂に露舟が逝去し、その5年後の慶応3年(1867)、秋琴堂社中同人は、その追悼集額2枚を深専寺に奉納した。相応軒淡節・古格堂黙池両宗匠の撰による入選俳人40人余、その殆どは湯浅・広の人々である。幕末時代におけるこの地方の俳諧の盛んなることが窺われる。
近世後期、湯浅・広・栖原の漢詩文学と俳諧の興隆、箕島を中心とした国学歌道の隆盛。有田地方は、この2文化圏に別れたかの感があったが、南画に至っては、広く郡内に地方画家を輩出せしめた。
広・湯浅の南画は、その師を野呂介石に求めたのである。介石(1747〜1828)は、祇園南海(1677〜1751)・桑山玉洲(1746〜99)と共に紀州3大画家として著名で、その画風を学んで、当地方の南画隆盛期がもたらされた。介石は儒者野呂松盧の伯父で、しばしば湯浅に往来したばかりか、暫時広に寄寓したこともあった。そして、この地方の門弟の指導にあたったのである。広では浜口灌圃、湯浅では平林無方・馬上清江などは、この巨匠の高弟として知られている。その後、この地方に幾多の郷土画家が続出したが、直接間接、介石の南画技法を学んだのであった。そのうちでも古田味処などは比較的名が知られているのでなかろうか。
近世広川地方には、さきに列挙した如く、書道を能くした人々がいたが、これについては、特に、その師と仰いだ書家が存在した訳でもなかった模様である。前記した如く、有名儒者・詩人・俳人・画家の往来があったから、書においてもそれらの人々の影響を受けているであろうことは、想像に難くないが、特に書道の師家として名を挙ぐべき人を知らない。幕末から明治初期においては、栖原の菊池海荘、石田冷雲など書道にも秀でた人物が出ているから、その時代には、海荘・冷雲の指導を仰いだものもあったかも知れない。
ところで、前記で挙げた漢詩・和歌・俳諧・書画以外に、紀行文や随筆など遣した文化人がいた。それを左に挙げると、

浜口性詣(吉右衛門1688〜1781) 著書、夜暁鳥2巻
松永長混(北溟1698〜1780) 北溟集2巻
浜口伯梁(前出)  熊野道の記1巻
小谷政信     築浪忘れ草1巻


などがある。本書人物篇にそれぞれ著作が挙げられているので、ここに省略したが、とにかく、近世後期から近代初期にかけて、広には文化人が多かった。もう1つ書き加えておいてよいと思うのは、今は全く衰亡してしまったが、広町人の間に浄瑠璃(義太夫)が盛んであり、それに伴って人形芝居も行なわれた。広の且那衆で浄瑠璃を趣味としないものがなかったと云って過言でない。
近世、特にその後半は日本歴史の上で町人文化の時代とされているが、わが広川地方においても、それが言い得るのであるまいか。
以上極めて簡単な叙述であり、文化的活動者の氏名もその一部分を挙げたに過ぎない。そして、さきにもちょっといったが、人物伝や著作については、人物篇において大要が説明されているので、参照していただければ有難い。
本章は近世後半におけ広町人文化の輪郭を描いて見ることであった。然し、それに程遠い杜撰となったが、近世史の一齣として、かなり注目されてよい問題であると思う。

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