広川町史 下巻(5) 雑輯篇ざっしゅうへん
 

雑輯篇その1古歴回顧


    1 「覚言」は梅本氏か竹中氏か
    2 津守浄道とその子孫
    3 津木地区と玉置氏の関係
    4 わが町内に残る城塞
    5 紀州藩の「地士」制度
    6 崎山次郎右衛門のこと
    7 紀州の殿さん
    8 和歌山栗林八幡宮別当寺と広八幡宮別当寺明王院との関係
    9 男山小話
    10 津波祭りの始まり
    11 浦組について
 雑輯篇その2 今昔こぼれ話
    1 鹿瀬峠のこと
    2 大殿さんのユーモア
    3 皮肉な寄付人
    4 広八幡様の御利益
    5 白砂糖の元祖とその子孫
    6 広八幡社の「力石」
    7 96の銭と8合ます
    8 「お犬さま」の話
    9 おかげまいり(ぬけまいり)とええじゃないか踊り
    10 在夫のこと
    11 淡濃山
    12 西郷騒動とちょんまげ
    13 広川と広橋の今昔
    14 明治の話題から(その1)
    15 白木、小浦への道路改修談
 雑輯篇その3 産業落穂集
    1 4木3草のこと
    2 広の製墨
    3 湯浅湾内の魚釣り
    4 広川口の「シロウオ」とり
    5 広湾のノリ養殖
    6 牛談議あれこれ
    7 大正池について
    8 殿様下賜の鍬
 雑輯篇その4 町内今昔の碑文
 雑輯篇その5 広川町に関する詩歌
 戦争とわが郷土
 人物誌目録
 文化財および資料目録
    広川町文化財保護審議委員会規則
 年表
 あとがき

 広川町誌 上巻(1) 地理篇
 広川町誌 上巻(2) 考古篇
 広川町誌 上巻(3) 中世史
 広川町誌 上巻(4) 近世史
 広川町誌 上巻(5) 近代史
 広川町誌 下巻(1) 宗教篇
 広川町誌 下巻(2) 産業史篇
 広川町誌 下巻(3) 文教篇
 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
広川町誌 下巻(5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表

文化誌・雑輯(ざっしゅう)篇

雑輯篇  その1  古歴回顧


1  「覚言」は梅本氏か竹中氏か


わが郷土史をみていくうちに、当地方の大社である広八幡神社や、同じく大寺である上中野法蔵寺にとっては相当重要な存在と考えねばならない覚言という人名が出て来る。この覚言は梅本氏か竹中氏かとの疑問が早くからわが郷土史家の間で関心がよせられているのだが、ハッキリとした確認が、というより誰しもなっとくするキメ手がつかめない。ともかく覚言に関する現在手元にある文献から必要と思われる部分を引き出してみると左のとおりである。
(1) 紀伊続風土記ー寛文記に当社は欽明天皇の御宇の創建にして、古は広莊3箇1を以て社領とす相伝う此神旧は前田村に鎮り坐せるを、応永の頃この地の土豪梅本覚言という者あり、其領する地を神地となして社を遷し奉る。今拜殿の側に覚言の祠あるは、旧の地主なるを以てこれを祀るというー今應永の年癸巳2月造営の棟札あり、此時始めて此地に遷せるなるべしー
(2) 紀伊国名所図会―これに記載の文は右と同じ。

(3) 八幡宮記録―覚言社 拝殿北側に在、是八幡宮之境内地主たるよし。覚言は梅本氏にして中野村の住人也。宝徳、享徳の頃の人か、地主と祀る事甚不審尚追而可考。

(4) 八幡宮古記録(中にある明王院本宣代に書かれた記録中、法蔵寺に関する文中に)――開山上人(明秀のこと)当地へ初入之砌中野村竹中淨道覚言帰依信仰依之両人屋敷寄付致候事――(ここで竹中淨道覚言と出てくるが竹中云々は書写誤りか)
以上八幡宮についての記事である。次に法蔵寺に関するものは、

(5)紀伊続風土記―――当寺開基は総持寺開基明秀上人永享年中の創建なり――此時中野村に津守淨道、梅本覚言といふ2人の土家あり、上人を帰依し寺地並に山林を寄付すといふ――
(6)紀伊国名所図会――永享の頃此地に津守淨道、梅本覚言といふ2人の土豪ありて、総持寺の開祖明秀和尚に帰依す。――2人の土豪家地及山林若干を寄附すといふ――

(7)元禄7年戌閏5月 寺社御改ニ付差上候 写 竹中源助 なる文書に、池霊山法蔵寺 在田郡広 中野村 淨土宗西山派本寺者梶取惣持寺ニ而御座候 由来之事 人王103代御華薗院御宇水享年中明秀光雲上人御開基也 開山明秀当地初入之砌広寺村津守淨道、同中野村竹中覚言帰依信仰□テ他依之屋敷寄附仕候
――明秀より当住持覚應迄266年ニ成ル

(8)同竹中家過去帳――本空得応覚言禪定門 文明17巳正月 覚言 とあり。

(9)昭和9年3月13日竹中家450回忌法事修行につき、文明院本空得應覚言居士と諡号されている。


以上のようであるが、記載された記録の古さを年代順にすると、寛文記(1624〜1661)このころにあつめられた伝承などで、続風土記の編者は相当重視しているもようである。
竹中家蔵の文書  元禄7年の書上で(1694)のもので、はっきりと竹中覚言となっている。
明王院本宣の記録(八幡所蔵記録)に、書きぶりが混乱して前後しているが、ここに竹中という姓がでている。
本堂は明和4年に隠居しているが、このときとしても1767年である。
八幡記録  これは安永7年(1778年)に初本ができ、その後補充して寛政12年(1800)に乾坤2冊本にした広村湯川小兵衛の手記である。これは、覚言社なるものに対して批判的な文辞である。

こうして覚言は竹中氏か梅本氏かどちらかというキメ手がはっきりしないが、いやしくも当時の土豪であり、これだけの寄付をしている。だのにその他のことが一切不明で他に伝承もない。竹中家には過去帳もあり、年忌もつとめている。
第1、八幡神社につたわる棟札に、覚言の名のないのも不思議といえば言える。天沼博士の続成虫楼随筆にも、ちょっとこの点にふれている。どうも梅本覚言は竹中覚言であろうとの気がしてくるのだが、上記以外にたとえちょっとした傍証資料でも出してくれればと思われる。
なお当地方には覚言の子孫にあたると自称されている家もあるが、それらの家の過去帳には、どれも覚言なる名がみられないようである。

2  津守浄道とその子孫



法蔵寺建立  上中野にある法蔵寺は寺院の部でも述べたが、寺伝のごとく明秀を開基とする。
明秀は赤松義則の子で、応永10年(1403)播州広山で生れ、長享元年(1487)85才で、加茂會根田の竹園社で歿した浄土宗西山派の高僧であった。明秀が紀州へきてから受陽山総持寺(梶取かんどり)を創建。
その後各地を巡錫、教化を垂れ、紀州入国以来30余年間に十有8の寺院を創建または廃寺を中興したという。
お隣りの湯浅町深専寺も明秀の創建である。
ところで明秀が梶取からわが広へきて、最初広小名寺村にいたが、ここは人里に近くやかましいので、現在の法蔵寺の地へ移ったのだが、そのときこの地方の土豪であった津守浄道と梅本覚言の2人が、永享年間(1429〜41)に、所有地を寄付したのだと伝えらる。なお、梅本覚言は1説に竹中覚言ともいわれ、広八幡宮の社地も覚言の所有であったという。
さて浄道のことであるが、津守家は摂津住吉神社の社家、南朝の忠臣津守族で、いつのころ当地方へきたのか不明であるが、広八幡神社と深い関係があった。
浄道の本宅は今の広正覚寺の地であり、隠宅が現上中野本所1番地あたりで、この辺は、昔から浄道屋敷という名が残っている。だいたい応永から文明年間(1394〜1486)のころの人かと推定される。この人の墓といわれるものが、名島能仁寺山麓にあると伝えられるが詳細は不明である。もっとも現在では津守家一族の墓地として立派にまつられている一廓はある。

大阪の陣に参加した子孫  浄道の子孫で久太夫(九太夫とも)という人があり、この人が大阪の陣に参戦して、浅野のために破られ、津守家の本流はこの時滅亡した。しかし、津守家に生れた女子が斯波(後の栗山)小三郎という人に嫁していて、この家が津守家を名乗って家筋は続いた。

大阪の陣は慶長19年(1614)豊臣秀頼が兵を挙げ、徳川家康がこれを攻めて、豊臣家を滅亡させた有名な大阪冬の陣と夏の陣の2役である。
このとき紀州は浅野長晟が国守であったが、紀州には大阪方へ心を寄せていた土豪が各地にいて、長晟が大阪へむかう留守をねらって各地で蜂起して攪乱した。しかし、いずれも浅野のために鎮圧されてしまった。後にこれらを土寇とか一揆とかとさげすんで呼ばれているが、たんなる百姓一揆などとは性質もちがうし、同一視すべきものではなかった。
この騒動のときわが郷土も平穏ではありえなかった。大阪方へつくもの、徳川方へつくもの(浅野の命に従うもの)、じっとしていたものなどと。たとえば津木村の土豪たちのもとへも大阪からさそいがかかってきたが、彼らは従わなかった。そのため、老賀八幡の社領など秀頼の命で取り上げられてしまったと伝えられている。
おとなりの湯浅では、かねてから白樫氏は大阪方であったので白樫左衛門只光は出陣している。
わが広村は柳瀬村とともに、津村久太夫を中心として大阪方へはせ参じたものが相当あった。
この戦いが大阪方の敗北に終り、名実ともに徳川の天下になったが、残党狩りが実にきびしく行われた。その結果津守久太夫は浅野に捕えられ、ガマの渕で打首になるところ果されず、市場の波戸で切腹、そこで首を打たれ付近の石上にさらされた(首を打たれガマの渕で洗い、今の正覚寺付近の石上にさらされたともいう)。
湯浅の白樫兄弟も逃げ帰ってきたものの隠れおおせず、これは鷹島まで行ってそこで自刃したという。

その後の津守家  浅野家の記録(紀州一揆成敗村数覚書)から有田郡の部をとりだしてみると、

有田郡

1高314石5斗  湯浅村ノ内
1高85石5斗    広之内
1高35石       山保田内湯川村之?
1高114石8斗    柳瀬村
有田郡の分合544石8斗
有田郡成敗人48人


となっている。今これら48人の人々の氏名などつまびらかには知れないが、わが郷土も相当なショックを受けたことであったろう。津守家もその一族のうち、故郷を遠く関東下総国あたりまで落ちのびていった者もあったという。
しかし、浅野家が去り、徳川頼宣が入国したころからは、せんぎもゆるやかになり、名家保存懐柔の高等政策で、津守一族もその家名を名乗ることもおかまいなく、一族中には名島村に住んだ人もあり、広八幡宮との関係も続けられていたもようである。
八幡文書中に、8月祭礼の節、「5勝の馬」といって神馬3疋、津守馬1疋、地頭馬1疋が必ず出たが、そのうち津守馬については左のような記事がみえる。
往古津守氏為所願毎年馬をいだす、慶長年中津守家断絶のみぎり所持の尾山1ヵ所八幡に献ず依其切馬のおいへを氏下中より出す筈なり。
とあって津守の本家は断えたが、八幡宮では引続いて津守馬と称して出していたもようである。また子孫の中には湯浅にも住んで庄屋役をつとめた人もあったという。さきに述べた津守家の墓地は江戸期に整理されたものであろうと思われる。

3  津木地区と玉置氏の関係


天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州征伐をしたころまで、わが広や南広地域は湯川氏の、そして津木地域は玉置氏の領地になっていた。
当時すでに紀州の守護職であった畠山氏の勢力は次第におとろえ、紀州各郡とも、その地の土豪たちがお互いに勢力を競いあっていた。
湯川、玉置両家とも、日高郡の土豪であって、湯川氏は小松原にあって、日高郡土生村から下の浦里一円と、衣奈由良方面から有田郡広一帯あたりまでを領し、その高2万5、6千石をもち、玉置氏は和佐村にいて、同郡野口村から川上福井、本郡へ入って津木村を領し、高1万5、6千石あったという。
ところで湯川氏のこのことについては、広一帯に与えた影響はかなりのもので史実も残っているが、玉置氏は津木に対して如何なる影響をおよぼしたのか、今のところ、肝心の津木にもなんの記録も見出しえず、また伝承も残されていない。
豊臣の紀州征伐のときは、湯川氏は反抗し、玉置氏は内通帰順し、やがて両氏ともその命脈だけは保つことができたのだが、湯川氏は和州で3千石、関ヶ原戦後浪人し、やがて浅野氏に任えて7百石となり、玉置氏は秀吉に3千5百石の安堵をうけ、後には徳川氏に任えて尾張侯に属した。いずれも後の話である。
湯川氏は広でその町割をしたとの伝承もあり、付近の社寺などに寄進もするし、土地の土豪たちにもいろいろ影響をあたえたが、玉置氏と津木地区との関係については、何1つ伝えられるところのないのは不思議である。

ただ時代がうんとさかのぼるが、応永24年(1427)9月より約1ヶ月かけて、足利義満の側室北野殿が、義満の女である大慈院聖久らの1行が熊野三山参詣をしたもようを記した「熊野詣日記」(これはそのおりの先達をつとめた住心院実意が書いたもの)の文中に、9月23日の条に「御宿ひろ。御まうけ玉木。くたるおり済々まいる」との記事がある。この玉木が玉置のことであるとすると、広あたりまで「たまき」の勢力がのびていたと考えられるのだが、今のところこれ以外の資料が未見であるので、確信はもてないが一応参考までに記しておくことにする。

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4  わが町内に残る城塞


―高城、鹿ケ瀬、猿川城―
わが紀州には、現在で、その跡をたずねると、およそ4か8毎に城塞の跡が見られるという。わが広川町内にも3箇所の城塞が残っている。しかしそのうち高城(名島城または広城)と、鹿ヶ瀬の塞は、古文献にもみえるし、多少名も聞えているし、その跡も見ることができる。ただ猿川城と名が出ているのがしかとしたことは不明で、いわば、まぼろしの城である。高城と鹿ヶ瀬は他の項でも触れるところがあるが、ここで一括して簡単に上記3つの城塞のことを述べておくことにする。
広城=高城 広川町大字名島にある。広川の北側にあたり、その北半は湯浅町に面している。高さ約136』の丘陵性の山である。高城という名のほうが通りがよい。西方の最高処が天守台があったところ、ここに立つと広、湯浅の町並みや海上が1目で見わたせる。天守台の周囲に数個の段がある。ここを1の丸とし、東に深い横壕があって2の丸との境界を造り、その東方の3の丸との間にも横塚が造られていた。全体としてみた構造は、紀州での山城のなかでも規模の大きなものである。

南紀湯浅誌(文政6年ごろ、湯浅の玄珠という俳人、歌人であった人の著といわれ、異本もある)に、左記の通り相当くわしくこの城のことが記載されている。

畠山基国の築く処也。応永7年7月11日当国一円畠山殿へ下し賜る。大内義隆を討し褒美之賞也。京都将軍鹿苑院大政大臣義満公の御時也。畠山基国は四品少将にて左衛門督を兼る。南征討伐の旨を蒙り、足利将軍の一族として御三家と号す隋一也。今に京都に御三家町と云所あり。是は三管領舎館の跡なり。おさんけと唱う。
畠山殿紀州に入て則当城並に鳥屋城を築く、是当国に南朝へ心を寄る輩ある故也。其人々には先鬼ヶ城浅利山城守、湯川ノ城民部之丞泰業又は八庄司の者あり、依て非常の備えとして有田郡一先城を築城。当城は午未面にて名島は表門也。西は本丸東は2の丸その東は3の丸。
天守   南表にて  7間に4間
東表にて  7間に6間
北表にて  12間に6間
西表にて  5間に4間
2の台  南北    15間東西13間
3の台  南     7間に4間
西      8間に5間
東      14間に11間
4の台  北     18間に7間

西      8間に3間
南      10間に5間
5の台  南     14間に10間
本丸2の丸の間   東西50間  南北9   2の丸  6間に5間  切峯の巾2間深2間
東      19間に8間
西      12間に6間
同      9間に8間

右の外平地道路多し。

またこの城は畠山基国の兄南禅寺の大業和尚のなわ張りで築場したのだとの伝えがある。この城は畠山尚順(ト山)の代になって、日高の湯川氏に攻められて落城した。
現在では、ほとんどといってもよいほど開墾されて畠になっている。ときおり瓦の破片や土器破片などが出る。井戸の跡や戦死者供養の板碑や墓石が残っている。なお横濠は当時の山城の特色の1つであるという。

鹿ガ瀬の塞  有田日高の郡界にある。古代よりの交通の要路であり難所の1つでもあった鹿瀬峠の西北方に小城山という標高420mの山上に城塞の跡がある。いつのころ誰が築いたかは不明であるが「玉海(玉葉の別称)1164〜1200」の記事にこのところがでてくるので、山砦としての歴史はかなり古いものである。広川町大字河瀬に属している。東西2町半南北1町、3壇からなっているというが、今は草木生茂り、わずかに跡が認められる程度である。南朝の余類がここに立てこもり挽回をはかったとも、天文年間湯川直光らがここに拠り、畠山氏と戦ったとかの伝承がある。

「玉海」には、
治承4年9月3日。伝聞熊野権別当湛増謀判。略。人家数千宇。鹿瀬以南併掠領了。とか、同5年9月28日。略。伝聞熊野法師源一同反了。切塞鹿背山。

などとあるという。続風土記にも畠山記にある永享年間南朝の余類を討伐した記事をのせている。(1429〜40)

猿川城  前記「南紀湯浅誌」に猿川城の名がみえ、同書1本には、有田広の庄猿川城宮崎民部丞親好守之と記されている。ところが何時ごろできて何があったか、今のところはっきりわかっていないし、それらしい跡も不明である。ただ口碑として残っているのは霊巌寺にまつわるもので、猿川城というのは、この霊巌寺を中心とした山塞ではなかったろうかとの想像説である。悪党どもがたてこもって近辺を掠めたとか、落武者が30数名餓死していたなどの話だが、時代も場所もわからない。ただこのあたりは南朝の遺臣たちが分散してかくれていたとの根強い伝承があり、もともと南朝方であった能仁寺の奥の院とも称されていた霊巌寺のことでもあったし、地勢上からは、今の金屋、修理川、糸川、吉原方面へ、方向をかえて岩渕、十津川、日高方面への間道へむかうところでもあり、山塞があってもしかるべき土地とも考えられる。
宮崎民部丞親好なる人物がいつの時代いかなる人物であったかがわかれば解明の糸口がつかめようが、今のところ調べがつかない。依然として、まぼろしの猿川城である。
注)猿川城の跡地は不明とのことだが、地元の名士に尋ねると、猿川不動堂がその地であり、そこに砦があったとのことである。

5  紀州藩の「地士」制度



わが紀州藩は、徳川家康の第10子である頼宣が、さきに駿遠2州で50万石の領主であったのを、幕府のおもわくもありかつ大阪に対する要心の地でもあるので、親藩として国替えされてきたものである。領地は紀伊国で37万石、伊勢国の中から18万石余を併せ55万5千石の領主となって入国したのは元和5年8月(1619)のことである。
前の領主は浅野氏であったが、これはこのとき安芸の広島へ移った。浅野氏は、さきに信長や秀吉の紀州征伐の後、約十余年にわたって領主であったのであるが、この国は、まだまだ中世的な遺制のもとで各地に残存していた土着の土豪や在地の武士の勢力を完全に1掃することはできず、とくに大阪冬、夏の役では紀州のこれらの連中は大阪方からの策謀に組して、海草郡を除く各郡内各地で大一揆を起して、大阪へ向う浅野の背後をおびやかし騒がせて大いにてこずらせたのであった。しかし、これらの一揆は浅野の力でともかく一応は始末したもののその余燼は各地にくすぶり、おとろえたりとはいえまだ油断はならず、わが紀州は「難治の国」であった。(大阪陣のときわが広村、柳瀬村、となりの湯浅村も一揆を起している別項「津守浄道とその子孫―」を参照。)
そこで頼宣はまず父家康が差向けてきた戸田藤左衛門隆重を先遣させて、名草郡の土豪の神前、田所、金谷の3人を招いて民俗政情を知り、万事旧慣を尊重し一気に新政策をおしつけるようなことをさけた。例えば当時の為政者にとってもっとも重要であり、新領主ともなれば必ずといってよい検地なども行わず、浅野がしたものをそのまま踏襲したほどである。(紀伊藩の検地は元録10年〈1697〉始めて行っている。)
まず領内の旧族、土豪の名誉ある家柄を尊重し、彼等の土地での政治経済的な支配権を安堵しておいて、その実は、藩の地方行政の出先機関のごとくにして一般農民の統制をまかせるなど、土豪を懐柔し、やがてはこれを藩の機構の中に組入れることにしたのであった。かくして藩政確立の方策の1つとして生れたのが地士制度であった。そして元和8年には全面実施されている。
地士は領内の旧族を調査し、その中の主要な人物60人を選んで60人者地士と称して切米50石をあたえた。
このとき在田郡内では10名がえらばれ、そのうちわが地方では井関村の地士宮崎勘兵衛の名が見える。
しかし、60人者は実数ではなく、元和8年にはすでに64人あり、寛永初年(1624)には65人となり、在田郡内では16名を数えている。そのほか60人者でない地士もあったことはいうまでもない。
地士の資格を与えられると、旅行の際は紀州藩士の格式であり、祝儀、引見、藩主の送迎など公式の場合は藩士と同待遇であった。平素は人馬を蓄えて有事の際に備えしめ、またその在地の諸事取締りの役目をし、その邸宅、武具、調度、年中行事などまで武士的であり、従って相当な武力を保有していた。そのまま野に放っておいたのでは多少厄介な存在にもなりうる在地武士や土豪たちをかくすることによって懐柔し慰撫する藩の高等政策によって、生れた制度ともいえるであろう。
かくて従来の土豪勢力を完全に膝下におさめたが、其後地士の人数もその資格にも変転がみられ、時代がたつにつれてこの制度の精神も変化し、本来の意味が次第に失われていくのだが―すでに正保元年(1644)には60人者の扶持はすべて取り上げになっている、―しかし地士制度は廃藩までつづいていた。
地士はたいてい大地主であり、その中には大庄屋や庄屋にもなり、在地の行政組織の中での重要な役割を果たし、地方行政、農民支配への御用勢力となり、最初の土豪的な存在ではなくなってついには、名のある格式となり、勧農や土木民生等に功労があった者や、金品を献納した者、多年勤続の村役人等への褒賞に利用されたりするように変ってしまった。
したがって同じく地士といっても平地士、代官直支配、代々同断。年頭御目見之節熨斗目着用御免、同代々御免。勘定奉行直支配、代久同断。小十人格。独礼格などと階級も生じてきた。こんなことから天保12年(1841)ころになると588人の地士ができているが、このうち旧族郷士は182人しかなく、在田郡内では69人の地士のうち、旧族は18人である。金が物言う時代にもなってきたのである。
だいたい地士は世襲制であるが、病気や家運が傾いたとかでその任に堪えない者や、後継者がなかったり、世襲を望まぬときなどには「地士株お預け」を願いでて平百姓にもどることも、また条件がそろえば、もとの地士にもどることもできた。(われらの郷土での地士は能うかぎりその姓名格式などを「年表」に入れておいた。)
地士の存在はだいたい上記のようであったので藩命にしたがって忠勤をしている。例をあげれば島原の乱(1637)高野山で学侶方、行人方の争いで騒動を起したとき(1692)、また各地での百姓一揆、幕末の世情混乱の際や、黒船騒ぎの際などと、ことあるごとに警備や鎮圧慰撫にでむいている。
なお参考までに地士の資格と、献金額を示すと下記のとおりである。

資格献金額嘉永亥の年更正額安政6年12月更正額
平地士平民100両以上平民200両以上平民150両
御代官直支配20両以上40両30両
代々御代官直支配40両以上80両60両
年頭御見得節 慰斗着用御免20両以上40両30両
代々同断40両以上また20両以上80両また40両60両また30両
御勘定奉行直支配70両以上また50両以上140両また100両100両また70両
代々同断150両以上また70両以上300両また140両230両また100両

大庄屋、胡乱者改は勤功20年以上
杖突帳書は勤功25年以上
庄屋肝煎は勤功40年以上で平地士に。

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6  崎山次郎右衛門のこと


わが紀州人は早くから関東地方とくに銚子方面へ進出し、漁業や醸醤業、またこれにともない他のいろいろな商業上の関係などから、かなり多数の人々の往来やら移住者を送り出した。わが広地区からも1時は、それらの人々の中心にもなるほどの多数が出むいている。そのため今日も銚子市には紀州を祖先の故国とされている家々が多い。



すでに明治31年8月には銚子で「木国会」なる会組織もでき、会員一同が同一の故郷をもった祖先の末裔であることに誇りと自尊とを抱いて活躍している。
ところで関東方面への進出当時、その先鞭をつけ、外川浦を開発し、かの地の発展に大きな寄与をした人びとの中でも、ここに忘れられないひとりとして崎山次郎右衛門の事蹟がある。

この人のことについて、昭和27年5月8日に銚子木国会の人びとがわが広町を訪ねられたとき、わが町では歓迎の意をこめて、簡単な案内書「銚子と紀州」なる小冊子を、浜口恵璋師に依頼編さん、記念として配布した。そのなかの1章に「崎山次郎右衛門と外川」という文があるので、それをそのままここに再録する。

次郎右衛門と外川
第1代崎山次郎右衛門は名は安久、童名は助五郎といい広村仲町に住しておった。(浜口八十五氏宅はもと浜口儀兵衛氏の宅であって、その宅の西隣りにあったといい伝えられている)父は崎山助右衛門安長といい、その長男として生まれた。父安長は日高郡東光寺鞍ヶ嶽、長尾城主崎山飛憚入道西宝5代の孫に当るので広村に住することとなったのはいつのころからか明瞭ではないが、初代崎山次郎右衛門が外川で本浦の築港工事を初めたのは明暦2年(1656)で46才であるから、なおその数年以前から関東に行かれたと想像することができ、初代崎山治郎右衛門の外川開発によって紀州と外川、および銚子との関係が深くなった次第であるが、山川隔絶せる総州を目指したについていかなる関係があったかとたずねるに、湯浅村の隣村栖原の地に、角兵衛という人があって、その祖先は遠く八幡太郎源義家より出で、義家15世の孫を小紫掃部介信弘といい、世に摂津国川辺郡北村郷に食過したのが、天文5年(1536)1子信茂がなお幼なかりしかば、戦乱をさけて高野山に隠れたが、後乱の平ぐに至り本郡吉川に住し、農業に従事し旧村の名をとりて北村氏と称した。その孫俊元に至り栖原に至り通称を角兵衛といった。
これが初代角兵衛であって、性豪宕にして覇気があり、元和の末に漁船を艤して上総に航し館山、浜萩の間に漁業を試みて巨利を占め、ついで同国天羽郡萩生村に寓して近郷一円の漁場を創設、名声が大いに揚った。これに習ったのが次郎右衛門で、初代次郎右衛門が外川を開拓したのは明暦2年に築港の工事を初め、3年目の萬治元年(1658)に竣工、今宮から外川に移った。さらに寛文元年(1661)に新浦を築いて船を繋ぐに便にし漁場を整備し、また人家を整備する基礎をも築いた。そればかりでなく、了意という人を助けて西方寺を創め信仰生活の基礎を築いた。
初め明暦2年に外川の開発にかかったのは46才であったが、爾来20年間、けんめいの努力により大いに発展の域に達したので、その事業は2代にゆずり延宝3年(1675)65才のとき紀州に帰り、翌年4月剃髪して教甫と号した。教甫はわが家の前にある覚円寺の門徒であるので、同寺に上宮太子、7高祖の御影を西本願寺の本山から御受けして寄進した。その下付されたのが延宝3年正月9日となっているから、それより以前に願われたことはもちろんである。当時、覚円寺の住職は恵周といい、数年前の寛文10年8月に本山の命により京都から来た人であった。治郎右衛門が剃髪するまでにいたったのは恵周のあずかるところであろう。爾来毎朝かかさず覚円寺に参詣し、全く信仰生活にはいったということであるが、元祿元年78才をもって帰寂した。(1688) この覚円寺は、明治41年8月15日、浜口家の檀那寺である大道の安楽寺に合併されることとなり、治郎右衛門寄贈の太子7高僧の2幅の御影は今は安楽寺に保存されている。
2代治郎右衛門鑑了は正徳2年8月14日、3代治郎右衛門教心は享保19年5月24日、4代治郎右衛門教夢は延享元年正月29日、5代治郎右衛門教山は寛保元年2月13日、6代次郎右衛門は安永5年2月11日にそれぞれ帰寂されたが、その伝記については詳かなことは何もわからない。しかし、5代治郎右衛門のとき明和4年(1667)に、銚子高神村と干鰯場の論争があって関東を引きあげ、帰国することとなった。

このようにして崎山治郎右衛門の漁業は終末をつげたけれども、それより以前、崎山氏等の水子となり、梶取りとなり、網子となったものや、その他の業に従事していたものや、その他東海道53次の陸路を経て、江戸銚子等へ往復するものもようやく頻繁となり、千苦萬苦を経て土地を開拓し業務を拡張、それぞれの基礎を確立されたので、その労苦は並大低のものではなかったのである。
紀州は山岳が重畳し平坦の地に乏しい関係から資源は乏しく、他国へ出稼ぎに行き、西は日向、大隅、薩摩から天草五島列島におよび、東は房州銚子を初め、栖原氏のごときは遠く蝦夷、松前より遠くは樺太にもおよんだのである。
山川遠く相隔つといえども、広、湯浅などの地は、木国会々員の祖先の故郷である。私共は今日相接するの機を得て、互に血のつながりのある同胞兄弟であると思えば、なつかしく、心づよく、うれしく、いさましく、とくに感慨無量のものがあり、どうか時どき故郷を訪ねてくださいと手をとりあった。現に海上郡旭町の飯島氏のごときは、その世代のかわるたびごとに祖先へ報告のためと、はるばる当地までこられ明治32年以来昨年までに3度も参られている。祖先の故郷を偲ぶ旅行はまことに尊いものがあります。

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7  紀州の殿さん


歴代の藩主の事蹟
わが紀州藩は、幕府徳川将軍の御三家、すなわち水戸、尾張、紀州のうちの筆頭と称せられ将軍家との縁が深姻戚関係も密接でありそれだけに羽振りもよかった。藩主のうち将軍職についたもの2人、将軍の女との婚姻は2人、将軍の子を養子にむかえたこと2回。しかし、これらのための入費や、太平の世相の影響もあって一般に奢侈の風が強く、おまけに災害の多い土地であるなどから、藩の財政は苦しく破綻をつげた。これをつぐなうために、歴代の藩主はそれなりにいろいろの対策を講じ、なかには名君とたたえられたものもあることはあったが、しかし、結局は、封建経済をささえる底辺にある百姓に対しての重税となって現われた。そのため百姓一揆や騒動もしばしば起っているし、耕作を放棄して村から逃げだすものもあり、農山村は疲弊して、やがては捨子や間引(堕胎)の悪習も絶えなかったといわれる。百姓に対する取締りもきびしく「触書」がたびたびだされてしめつけを強めた。
ここに藩祖以来250年余、14代にわたる藩主のことを、わが郷土のことにふれつつ簡単に記述することにした。

歴代藩主(紀州徳川氏) 一覧
1代  頼宣 よりのぶ 徳川家康の第10子。2代将軍秀忠の命で、それまで駿遠2国、50萬石の大名であったが、紀州に入国、55萬5千石を領し、紀州徳川家の藩祖となる。元和5年8月(1619)年18才であった。
藩士、召使いすべて2千528人を連れて乗り込んできたのである。領地は紀州1国7郡と、伊勢国の1部である。治世実に50年間、寛文7年(1667)致職、同11年正月疲、年70才。南龍公と諡する。文教を重んじ、尚武をすすめ、殖産工業開墾灌漑などその土地に応じて開発をはかり、国防軍備政治制度、また民治産業におよぶ諸般の制度は、ほとんどこの期に完成され、藩政の基礎をかためた。
わが郡内では、みかん栽培を奨励し、山保田の製紙業をすすめ、矢櫃浦を開き、また広の天王の突堤を築造して広の海岸を護り、現在養源寺になっている地に観魚亭を建てて来遊し、また、神仏を崇敬する念も強く、広八幡社などもしばしば寄進を受けている。今に残る「院の馬場」など、わが広とは縁が深かった。

2代  光貞 みつさだ 頼宣の長子、寛文7年5月、42才で封をつぎ、元禄11年4月(1698)致職するまで治世32年間、宝永2年8月(1705)歿。年80才。清溪公と諡す。父の風をうけ、勇剛で武を尚び反面、また文学を好んだ。明律を訳して本藩刑法の基とし意を政治に用いた。しかし、世は元禄の驕奢の風俗に加えて、江戸屋敷の3回におよぶ炎上、綱吉将軍の妹鶴姫の入輿(綱教の室)、将軍の臨邸などに要する莫大な費用、また高野山騒動のための出兵などと財政的に無理が生じ、数度におよぶ借金の断延、銀札の発行などと台所は苦しかった。
高野山騒動は元祿5年(1692)に爆発した行人方(経済世事を司る僧)と学侶方(法務を司る僧)間の積年の内紛で、その警戒のための出兵で、口6郡の地士大庄屋らを橋本に集結した。わが地からは鹿瀬家なども出向している。(この騒ぎは幕府の裁定で行人千余人を追放した。)

3代  綱教 つなのり 光貞の長子、元祿11年4月34才で封をついだ。前代からの余勢に加えて公子公族が多いなどから財用不足勝であったので、常に冗費の節約につとめ経済の道に留意倹約につとめた。治世8年宝永2年5月歿(1750)、41才。高林公と諡す。

4代  頼職 よりもと 光貞の第3子。綱教に子なくその嗣となり宝永2年6月、26才で封をついだが同年9月歿。在職4ヵ月。26才。深覚公と諡す。

5代  吉宗 よしむね 光貞の第4子。元禄10年4月将軍綱吉が紀州邸に臨んだとき、とくに越前丹生3万石に封ぜられ松平頼方と称して御三家庶流の大名となった。その後紀州家では綱教、頼職と2兄の藩主が相次いで歿し、後嗣がなかったので宗家に入り、宝永2年10月22日で紀州藩5代の主となった。綱吉将軍の名の1字をもらって吉宗と改めた。治世12年正徳6年(享保元年)、33才で8代将軍職をついだ。寛延4年(宝暦元年)6月歿。68才。有徳公と諡した(1751)
吉宗は庶子として小禄に衣食し辛酸苦労を経てきたのでよく世情人情に通じていた。宗家を継いだときも、元祿驕奢の風が国内にながれ藩の士風もあがらず、代々積み重なっている財用の不足は多大なものであった。
そこで政を革新、勤倹殖産につとめ、自ら率先して倹約冗費をはぶき、同時に武芸学問を奨励した。学問所を設けたり、浦組(水軍)の制を定めたり、文武両道をはげました。わが身の衣服も常に綿服を着用し粗食にあまんじた。政道よろしきをえ、ために藩の面目は一新し、財政の立直しにも功をおさめ、将軍となって藩を去るときには金は14万887両、米は11万6千4百石を残していたという。藩政250余年中最も財政的余裕をもったときであった。実に紀伊藩中興の祖である。
わが郷土との関係は、広養源寺出世大黒天にまつわる話は有名である。また政治経済に対する意見を述べた「紀州政事草」「紀州政事鏡」の自著がある。

6代  宗直 むねなお 支藩伊豫西條松平頼純の第3子で南龍公の孫にあたる。正徳6年吉宗が将軍職をついだので、同年5月宗家紀州家をついだ。この時35才。宝暦7年まで治世42年間。同年7月歿。76才(1757)、大慧公と諡す。よく吉宗の善政を守り、節約につとめ、政治もゆきとどいたので、享保3年の大凶作の時などビクともしなかった。しかし、享保年中には数度の飢饉があり、かつ敬神崇仏の念強く、神社寺院等の修築や寄付が非常に多く、ために財政不足をつげ、享保17年の大虫害のため紀勢領内で31万5千510石という損耗があるなどして、寛保2年には御立用金32万200両余を断延する窮状に陥り、ついに国内の山林伐採、とくに松山を払い下げするなどしてその後長く患を残すこととなった。

7代  宗將 むねまさ 宗直の長子。宝暦7年8月封をつぎ、明和2年2月歿するまで、治世9年間38才より46才までであった。(1757〜65)菩提心公と諡す。当時の世情ますます驕奢になり、藩には公子公姫すこぶる多く、其婚嫁の費用も莫大なものがあった。また、深く仏道に帰依し、高野山諸寺院その他の寺院に対する寄付も多く、財政は非常に逼迫し、百姓から先納調達等をしたため、国中極度の疲弊におちいった。

8代  重倫 しげのり 宗將の次子、明和2年3月20才で封をつぎ、治世11年間。安永4年2月狂暴惨忍のため致職を命ぜらる(1765〜75。)隠居剃髪して大真と号し、文政12年6月歿。84才。観自在公と諡す。世上大殿様と称した(1829。)資性勇豪、躁暴狂人に近く、愛憎常なく家臣妃妾の手刃にかかるもの多く、江戸の邸にあったとき隣邸の高楼に戯笑する婦女に対し、自ら銃をとってこれを射ったりしたのが幕府に聞え、ついに国籠隠居を命ぜられた。隠居後はわが郷土にもしばしば狩猟や遊山にきている。

9代  治貞 はるさだ  宗直の第3子。宝暦3年出でて西條藩主となり、治世23年間大いに善政をあげた。重倫の致任によって紀州宗家をついだ。西條藩において実蹟をあげたように、資性賢明、政事の才に富み、民力の休養と綾撫の策を施し、自ら倹約、従来の悪風を矯正した。吉宗の人となりを慕い、公私ともに範としたという。また、殖産興業に力を致し、疲弊した藩財政を立て直し、しきりに民力の回復に努力した。しかし、天明4年から7年にわたる凶作のため意の如くにはならなかったが、その間の政治むきよろしく1人の餓死者をだすこともなく、領内の民心もおおむね平穏であったという。紀伊藩での治世15年。幾多の治績をあげたが、多病の人とて、十分の整理の効果をあげることなく寛政元年10月歿。62才。香駿公と諡す(1775〜89。)

10代  治宝 はるとみ  重倫の第2子。治貞に子なきためその嗣となった。寛政元年12月、19才で封をつぎ、文政7年6月致職(1789〜1824)治世35年間。しかし、その後もなお政をみ、11代斉順、12代斉疆、13代慶福の3代にわたり嘉永5年12月82才で歿するまで政事にあづかった。(1852。)舞恭公とする。一位老公と称された。
先代の藩政改革、財政立直しも十分な効果はあがっておらず、財政の実情は君臣ともに借金の山で破滅に瀕していたので、ついに文化3年一大改革をはかり、人材を抜擢してここに浮置き歩増、借金割済の法を実行した。浮置歩増は御家(藩)のため、借金割済は家中(家来)のためとて、ともに様米支給のとき、そのうちから幾分かを除米して1は公用に供し、2は家中の負債償却にあてた。詳細は略すが、この法の結果を1口にいえば、百石取りのものの実際の手取りは45石2斗しか受けられない勘定になる。結局藩をあげて、質素倹約せざるをえなくなるのだが、世をあげて天下泰平に馴れ、驕奢をきそう時節であり、将軍家との縁組や、江戸屋敷や紀州屋敷、また、天守閣の火災など、それに加えてうちでは大眞公(重倫)は相変らず喜怒常なく、勝手気ままな生活で、借財の整理は思うにまかせなかった。それでもたんなる質素倹約などの消極的なことのみではなく、積極的に大いに事業を経営し、歳入の増加をはかった。例えば、藩の営利事業として御仕入役所を増設し、国内の物産を蒐荷販売し、熊野三山貸付業を開始して金融をはかり、産業の発達、土木事業を起して灌漑に利し、荒地を田畑に変え窮民の救済にも意を用いるなど相当な功績をおさめた。しかし、時流には勝てず、万事江戸風になびく藩の典礼や格式、日常生活も江戸将軍家にならい、家臣や町家の屋敷家屋にまで田舎風を改めさせた。屋根の瓦葺、門や入口の引き戸を開き戸に改造させたりしたのもその現れである。
また、1方では大いに学芸を奨励し、文化面ではこのときほど盛んなことはなかった。本居宣長を聘して国学を講じ、藩学を拡張して学館を興し、医学館を開設し、紀伊続風土記の編さん、紀伊国名所図絵後編を撰したりしたのもその時期であった。
もともと治宝自身は文雅をよろこび趣味に生きる多能多芸の「お大名文化人」であった。茶道に書画に、音楽に、陶芸にと多趣多芸であった。わが郷土の男山焼も実に治宝の後援によるものである。書も巧みで、県下各地の神社や寺院に親筆の扁額が残されているが、わが上中野法蔵寺、湯浅顕国神社などにも贈られている。
(これは父重倫の狂暴のため手刃に倒れた人びとの供養の心が含まれていたとの説もある。)以上のように表面は華やかでも、どどのつまり百姓への負担が重くなってくるのは当然で、文政6年には大旱魃が起り、百姓は不安、日ごろの収斂に対する不平が勃発して紀北一帯に百姓一揆が起り、大いに手こずらせてている。(この一揆は郡内宮崎〈有田市〉まできたが、わが郷土は平穏であった。当地の地士帯刀人村役人たちも箕島まで出むいている)。

11代  斉順 なりゆき 11代将軍家斉の第7子。治宝の女豊姫の聟養子となり文政7年6月24日で封をついだ。治世23年間(1824〜46)弘化3年閏5月46才で歿。顕龍公と諡す。将軍の子であり、江戸より君臨し奢侈に流れること多く、治宝は政をゆずらず家臣等も党をくんで相争い、湊御殿に居て豪奢を極める日常であった。ために藩祖以来の質実惇朴の風は一変してしまった。このため百姓は相変らず収斂に苦しんだ。

12代  斉疆 なりかつ 将軍家斉の第20子。斉順の弟である。斉順の嗣となり、弘化3年閏5月27才で封をついだが、嘉永2年3月30才で歿。治世4年間。憲章公と諡す(1846〜49。)

13代  慶福 よしとみ 斉順の長子で斉疆の子となり、嘉永2年閏4月年4才で封をついだ。幕府は西條公松平頼学、水野忠英、安藤直祐らに命じて幼君を伝育して政をみさせた。治世9年間。このとき紀伊藩は、権臣等の勢力争いや派閥争いで、従来の権臣でしりぞけられるもの多く、藩内は動揺した。また水野土佐守の内存による知行替えで熊野一揆も起っている。安政5年6月(1858)14代将軍職をついで家茂という。在職10年。慶応2年7月歿。年21才。昭徳公と諡す。

14代  茂承 もちつぐ 伊豫西條藩主松平佐京太夫頼学の7男。安政5年慶福将軍職をついだため宗家に入って封をつぐ。年15才。明治2年2月版籍を奉還。知藩事に任ぜられ、明治4年7月廃藩置県により致職する。治
世13年間(1858〜71。) 紀州最後の藩主である。明治39年8月歿。年63才。慈承公と諡す。
明治維新前後の余沫をうけ藩政は多事多端。幾多の大問題に逢着したことであった。

8  和歌山栗林八幡宮別当寺と広八幡宮別当寺明王院との関係


和歌山市有本にある栗林八幡宮の夏祭り(7月15日)は賑やかで、1名シモヨケ祭りといって、凍傷にかかりやすい人はこの宮の小石をかりて家でまつり、その冬凍傷にかからなかったら、その御礼に別の小石をそえて2つにしてお返しするといった民俗がある。
それはともかくとして、この神社は縁起によると、永享11年(1439)足利将軍義教のとき、管領上杉持氏に関する鎌倉政めのさわぎで(永享の乱)、鶴岡八幡宮も兵火のまきぞえで焼失した。そのとき、別当僧が御神体を負うて各地にのがれ、やがてこの地へ落ちついて祀られたもの。このことは紀伊続風土記や紀伊国名所図絵にくわしく説明されている。
さて、この栗林八幡宮の位置が和歌山城のキモン(艮位)の方角にあたるので、城の守護神として初代藩主南龍公が厚い保護を加えた。ところで、この宮の別当寺は、鎌倉にあったときと同じ鶴岡山大道寺と称していた。
南龍公はわが広の御殿(養源寺の地)へこられたときは、しばしば広八幡の明王院の住持であった快詠という僧を召され、また自らも八幡宮明王院へ参詣して帰依が深かった。こんなことからやがて快詠は、上記栗林八幡宮の別当を命ぜられ、寺号、うつして、鶴岡山大道寺は明王院と称せられることになり、その開基となったわけである。(寛永20年以降の頃と推定)このことは広八幡や明王院に対する藩祖の深い信仰を物語るものであり、したがって、歴代の藩主も厚い保護を加えたゆえんでもある。また、明王院快詠の高徳を示すことでもあった。
広八幡神社にある八幡宮記録中に、「明王院什物鶴岡八幡宮絵像之記」があり、これらのことについて詳細に記録されている。

9  男山小話


男山焼陶器のことについて陶芸上の専門的なことは別項に記述がある。ここでは主として開始者利兵衛のことや、それにまつわる小話しを、順序もなく、あれこれと拾ってみることにした。

1、果せなかった開祖碑の建立
年を経るにつれて、ますます評価が高まってくるわが郷土の陶器、南紀男山焼の元祖である崎山利兵衛の偉業を伝える碑を、彼の菩提寺であり、その墓もある上中野法蔵寺へ建立することを計画、利兵衛の70回忌法要を期して実施される筈のところが、どうしたいきさつがあったのか今は知るよしもないが、とうとうそのことはならず、むなしくその文章だけが知られている。建碑発願者は、利兵衛の孫にあたる和歌山市に住む広井常次郎という人であった。建碑は出来なかったが、あまりにも惜しいので、ここにその原文を掲載して皆様にも知っていただき、郷土の記念としたいと思うのである。


南紀男山窯開祖、祖父崎山利兵衛(定長)儀ハ寛政9年有田郡南広村字井関ニ生ル。文政7年8月28歳ノ時、当時我紀州家第10代の英主徳川治宝公ノ御聴許ヲ得、且其ノ御支援ノ許二、高松ノ地即和歌浦愛宕山ノ北麓ニ陶窯ヲ開キ、所謂高松焼ヲ創始セルヲ初トシ、次イデ文政10年11月其31歳ノ時更ニ公ノ御推挙ノ許ニ、有田郡広村八幡ノ境内ニ隣り広大ナル土地実24町4方ヲ賜り、是レニ本窯12基ヲ構築、所謂南紀男山焼ヲ開始、爾後其歿年明治8年ニ至ル48年間ヲ男山焼ノ陶業ニ精進セリ。利兵衛当初ヨリ藩主治宝公ノ愛寵ヲ受ケルコト厚ク、男山開窯ノ最初ヨリ其完備セル設備ノ万般、製作品ノ向上、陶業ノ発展販路ノ拡張等ニ就テハ、便宜ハ元ヨリ経営上財政上ニモ絶大ナル公ノ庇護奨励ヲ受ケ、利兵衛亦公ノ勧業殖産ノ御主旨ヲ深ク体シ、桔据勉励画策経営ニ一身ヲ捧ゲ、遂ニ郷土陶業ニ一線ラ画シタルモノナリ。斯クテ利兵衛明治8年2月29日享年79ヲ以テ処シ、本年ハ其第70回忌ニ相当ス。仍テ孫不肖有田郡南広村字上中野菩提所法蔵寺ニ男山窯開祖碑ヲ建テ、法要ヲ為スニ当リ利兵衛生存中ノ小照ヲ撮リ記念トス。
昭和19年8月和歌山市坊主丁
崎山利兵衛  孫  廣井常三郎

無為にして祖父追越さん日の近き
幾重にもつくろう壺や男山
いしぶみに祖父の名書くや秋日和


右文中最後にある利兵衛の肖像写真の複製は、このとき有縁の人びとに配布されたものが今も残っていて利兵衛唯一の肖像であろう。

2
利兵衛の男山陶器場開始は、文政10年11月25日とあるが、実際の操業は11年からである。当時の地方文書によると「此程広八幡宮境内口に而瀬戸物焼方御試被為候」とあって「お試し」という言葉がつかわれている。しかしそれからまもなく本格的な事業に発展していったのであった。

3
陶器場は東西百間南北50間あり、そこに12基の窯を築いたのだが、それは表向きのことで、実際の土地は4町4方あり、その地内の田で約20石の米がとれたという。
この陶器場を土地では「お役所」と呼んでいた。藩公の御用窯であったからで、警護のため村役人が詰めていた。そのものには2人扶持を下され、広村地士橋本与十郎が最初に勤めている(文政11年6、7月頃)。後天保4年になって陶器山支配一切の権限は利兵衛に申付けられている。(文政10年は1827年。天保4年は1833年。)
さて上記のような特権をもっていたので、職人たちが手なぐさみのトバクなどするとき、「御用」のちょうちんをぶらさげておいたので検挙の手をまぬがれたという。
しかし利兵衛は窯場を、「けがす」ことに極度に意をつかい、女たちの立入りをいっさい禁じた。ときたま、窯に火を入れるとき、燃え付きが悪いと、すぐ隣りの八幡宮で御祈峰をして御幣をいただき、それを立てて火を入れるとすぐ火が回ったという。そんなとき調べてみると、きっと誰かが窯場をけがしていたという。
陶器場経営のいっさいの費用は、利兵衛が手形を書くと、いつどこでも両替えがきいたので金の不自由はなかった。
男山窯場は地籍でいうと上中野字尾山で、小山丘の1隅である。この尾山オヤマから男山オヤマこれが、オトコヤマと読まれたものかと考えられる。
この陶器の銘は「南紀男山」また「男山」で、それは染付書銘のもの、押銘のもの、彫銘もある。その書体は楷書もあり隷書のもある。たんにヒロと書かれたものもある。
また「仙馬」という銘があるが、これは利兵衛に拾われて名陶工となった光川亭仙馬で、本名は土屋政吉。または土をわけて十一屋トイチヤ政吉という人である。ほかに「梅亭」「吉祥」とあるものがあるが、これらは職人の銘である。
使用した陶土は、近くの庚申山の石を粉砕したもの、また上質のものは肥後の天草方面からも取り寄せたという。また近く湯浅町から出た「白亜土」や足元の男山の土も用いた。これらの陶石などは、殿村や名島村の水車で砕き、それを運搬する車が盛んに往復したという。男山焼の窯が出来てから後、天保のころに、山丘の頂上を開き、日ぐらしの芝、また日ぐらし山と名づけて遠望の場所とした。

4
利兵衛その人については色々の説がある。まずその生地は不明で、井関村の人だとなっているがそれは何の根拠もないという説。注追加)井関の名士ア山家(花友農園として蜜柑の直売をしておられる)の出であることは確かである。つぎに利兵衛には実子がなかったという説。いやそれは本妻には子がなかったので、他の女に3男2女を産ませているという説。その長男は36、7才で父より早く亡くなり、後養子をもらったが6度もかえたという話もある。金屋村から宇之助というものを養子にして利兵衛を襲名させたといい、この人は明治20年ころまで南広に住んでいたが、後大阪天王寺区へ移住したという。また1説に父に先き立って亡くなった男子は覚兵衛というもので、まじめな人であったとも伝えられている。開祖碑建立を発願した和歌山市の広井氏は利兵衛の女婿の子で、いわゆるそと孫にあたる人である。

利兵衛は藩公の保護のもとで、思うまま腕をふるい、業を進めてきたので気位も高く、気むずかしいところもあり、かけひきもうまく、土地では陶器場の御隠居とあがめられてきたが、その晩年は時勢も変り、明治政府になってから多少の保護もあったが、経営も思うようにいかず、金策にも骨がおれたもようである。そんなことで彼とともに事業に加わった人も、あまり好感を持たない人もあったようである。手形1枚で自由になった金銭も、通用しなくなったのか、左のような文書も残っている。

中野村  崎山利兵衛
金188円67錢7厘
男山陶器筋ニ付拝借、明治6年ヨリ35年マデニ20ヶ年賦。1ヶ年9円62銭2厘ヅツ。
右明治6年ヨリ8年、3ヶ年分返納済


今でいうところの融資であるが、彼はこの8年2月に歿しているから、あとはどうなったのかしら。

5、彼の心意気を示す銘文
利兵衛は治宝(第10代藩主一位様という)の後援で男山焼を成功させたのだが、治宝は彼を愛護し幾度となく刀剣や他の品物などを与えていたので、幕末ごろには、彼のもっていた葵の紋のついた長持にいっぱいそれらの拝領品がつまっていたという。彼もまたその厚い恩恵に深い感銘を抱いていたことであったろう。
彼の作になる花器に、男山窯場の全景を描きその下方に、

感荷君命男山開 40余年日々堆
名逐功成語萬歳 謹携拙製上瑤臺
陶山開基72翁 崎山利兵衛定長花押
慶應4辰立春


と銘せられたものがあるというが、彼の心意気の一端がうかがえると思う。

6、利兵衛死後の男山
彼は明治8年2月29日79才でなくなった。男山焼を始めて48年間をその経営に精励したのである。窯は慶応3年(1867)ころまでは12個あり、明治5年ころに火災のため9個に減じていたところへ、こんどは、大風のため7個になってしまっていた。利兵衛の晩年にはすでに藩の保護はなくなっていたし、明治になってから1時開物局(廃藩後わずかの期間置かれた勧業課)からの援助もあったけれど、すでに昔日の面影はなくなっていた。
その死後、尾山嘉平、土屋政吉(仙馬)、源兵衛、西島某外5人らで事業を続けた。さすがに技術面ではおとろえは見せなかったが、資金の調達や販路などで次第に行きつまってきたのであった。
男山焼として最後に天下に気を吐いたのは、明治10年8月21日第1回内国勧業博覧会が東京で開催され、本県の代表物産として男山の花瓶を出品したところ、左記のとおりの褒状をもらっている。ここにある利兵衛は2代目であろう。


褒状
和歌山県管下紀伊国有田郡中野村
花瓶       崎山 利兵衛
捏製ニシテ老松状ヲナシ猿若クハ亀子ヲ付
首ス巧致風致了アリ。尋常陶工ノ手技二非ス。
蓋シ此出品ハ廃窯ノ再興シタルモノニシテ
功労アリ嘉ス可シ。
右ノ事項ニ因リ褒賞アランコトヲ申請ス
主任  納富介次郎  印
列坐  塩田 眞  印
審査官  同      石田為武  印
同從6位  近藤眞琴  印
審査部長 從5位  町田久成  印
審査官長 正5位  前島 蜜  印
右審査官ノ薦告ヲ領シ之ヲ褒賞ス
明治10年11月20日
内務卿 從3位  大久保利通  印


このことによって、和歌山県も明治11年9月25日付で、県知事神山郡廉が同じく褒状を交付している。でもこのころは事実上廃業のやむなきにいたっておったと思われる。いよいよ閉鎖するにあたって、七福神像(染付、7体)を作って関係者に分配し、それを思い出の記念として窯の幕を閉じたのであった。

7
現在男山焼跡は、知っている人にそれと指摘してもらわなくては判明しかねるほど、開墾されて、みかん畑になってしまっている。しかし、注意すると畠の石垣などに焼いた窯の破片などが積みこまれていたり、畑土に混って陶器の破片などがみられる。窯跡だけでなく、男山全体がすっかり開墾されてしまっているが、これは窯場にさして関係なく、明治2、3年ごろから、ぼちぼち始められていたらしい。浜口梧陵の唯一の日記と称せられている「庚午之記」(明治3年)に利兵衛のこと、男山開墾のことがみえるのでこの機会に引用しておく。なお翁と利兵衛と如何なる関係があったのかはわからない。また当時の広の事業家渋谷伝八も、男山焼の最後のあたりでこれに関係、利兵衛死後もしばらく陶器業をしていたという。

庚午之記から(梧陵手記)
12日巳卯夜来雨雪日中に至雨頗密、陰寒透骨、午後雨舞雪不抜、夜月朦々、崎山利兵衛来、板原来、11字前出局、各郡参事会話、松坂参事疾に由不参、第5字散局、
24日辛卯、晴寒厳霜如雪、拂暁結髪、城涅廓を拜、神楽を奏、男山開墾を検し、法蔵寺に至家廟拜禮、帰而朝餉に就、海翁来暫話、去後出局……
(附記) 城涅廓は広八幡宮をさし、法蔵寺の家廟は、4代目浜口儀兵衛教表の墓をいう。


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10  津波祭りの始まり


1、毎年旧11月5日早朝海岸堤防上へ土持スルコト
但シ大人2荷 中人ハ3荷 出不足金3銭
1、土持ヲ監督スルタメ町委員ノ出頭ヲ頼ムコト
1、土持ヲ監督スル委員ニハ土持ヲ除クコト
右36年12月13日村内有志会ニ於テ取極候也
湯川小兵衛記ス


右36年とあるのは明治36年のことで、このとき広村では「津波50回忌」を営んだ。安政元年(嘉永7年1854)の大津波からちょうど50周年である。
この大災害に犠牲になった有縁無縁の人びとの霊をなぐさめ、かつ再びかかることの無いようにと大防浪堤を築いてくれた浜口梧陵らの遺業とその徳をしのび、広村の有志の人びとが会合してこの50回忌を記念して、上記のような取きめをしたのである。そしてこのことはもちろん毎年実行に移されたのであった。おそらくこれが今に続いて行われている津波祭りの始まりだと思われる。
さて築堤のとき植えられた黒松も、50年も経てば相当に成長していたことであろうし、土堤の上に植栽されたハゼの木も、毎年枝もたわわに実をつけたことであろう。
ところがこのハゼの木は土堤の崩れるのを守るほかに、毎年その実を売却した金子を広小学校の経費の1部として寄付したので、このことは、ハゼの実など売れなくなるころまでずいぶん永らく続けられたのであった。



さて毎年旧11月5日早朝堤防へ土持ちすることは今から思うと相当な作業である。その後変遷もあり、あるときには中絶したこともあった。現在の津波祭りにもこの土持ち作業は行っているがすでに形式化している。しかし、これは実際上ではさまで必要ないまでに堤が整備されているからで、しぜんとそうなったまでであるが、でもその精神はあくまで忘れてはならず、たとえひと握りの土でも全町民が心から実行するようそれに参加する指導とが大切であろう。ハゼの木は、ほとんどなくなってしまっているが、これは今ではさしたることではないとしても、1方黒松のほうは実に憂慮すべき現状である。
人も知るこの松樹は、苗から植えられたものではなく、早急に間にあわすべく、山ですでに10年20年と成長した丈夫なたしかな木を選んで植替えたもので、梧陵の細心の注意で、木の向きにまで気を使い、山で育っていたときと同じ方向にし、1枝も損することなく根付きも十分意を用いられたもので、その後すくすくと成育して一大松林になったのである。明治37年9月に、この松林は防潮防風保安林に編入されている。そのときの面積約4町歩。松の数は約1千本もあった。
また昭和18年には梧陵に対して、この松林の育成の功をたたえ、当時の挙国造林大会・大日本山林会から「有功章」をおくられ、曾孫の浜口彰太氏に授与されている。それでも年を経て自然環境も変化してくるし、木も老齢衰弱化してくるところへ「松喰虫」の大被害である。

この虫の被害には、町当局もほとほと手を焼いているが、毎年多額の費用を投じて薬剤散布などを行い駆除につとめている。また一方では特志家やある団体の好意で、若木も育てられている。いずれも結構なことであるが、もっとも大切なことは、まわりくどいようでも町民1人ひとりの愛護の精神の啓発であろう。その1株1枝にも心したいものである。
広は地形上津波と因縁が深く、それだけにわれらの祖先は幾度か手ひどい目にあってきているのである。しかし屈せずにその災害から守るために、幾多の先人達が努力を重ねてくれている。それらのことは別項で記述するし、昭和8年に建てられた「感恩碑」の由来を述べられた浜口惠璋師の文も再録しておいたからここでは触れないが、毎年行われる全国にもないといってよい津波祭りの意義をますます深めたいと思うものである。
冒頭に記した「取極」の記者湯川小兵衛は、その当時の広の村長さんである。またこの津波祭りは全国にも例がないので、ラジオやテレビで、さいさい報道された。

11  浦組について


―紀州藩の海防―
わが紀州藩は本州の南端にありその海岸線は長く、南海をひかえ紀淡海峡を扼して、大阪への要地であり、この海防のことは、藩祖南龍公以来留意するところが多く、すでに寛永年間(1624〜44)に、浦組の制度を定めてからもその後、万治(1658〜61)、正徳(1711〜16)、享保(1716〜36)、文化(1804〜18)、天保(1830〜44)、安政(1854〜60)などの年間に数度にわたった制度の改廃を行っている。その詳細は略するが、まず国内の諸要所にある岬には遠見番所や、のろし場を設け、見張人を置き、津々浦々には浦組なるものを組織して、万一外国船やあやしげな船影を発見したとき、遠見番所から「のろし」をあげて合図を送り、順次に各番所へ受け継がせて若山に通報する。また陸地では寺々で早鐘をついて合図した。
(その寺も指定され、受け継ぐ順番も定められていた、そして早鐘は3ツ重をついた。)
その情報は伝馬継ぎで道路1里毎に御印判(通印)および出合之印1本を備えておいて注進状に通の印をつけて次の宿駅に伝達し、そこで印判を改めて、さらにその次へリレーして、かみは、若山へ、しもは田辺などへと注進する。これによって各浦々では、あらかじめ組織してある浦組の人数を一定の場所に集結して警備にあたった。
そのために人数、船舟、武器など常に整備のことを年々調査点検して不慮の備えとしたのであった。
わが湯浅組(広・湯浅)にも浦組があり、遠見番所やのろし場は西広ナバエノ鼻の岬に置かれていたし、伝馬継ぎの宿駅は、湯浅と井関とに、設けられていた。とはいっても実際は、幸いに泰平久しく、以上のような制度はあったがその必要も起らずこの制度は空文に等しかった。
しかし泰平の世も幕末になってロシヤやイギリスの艦船が出没、わが近海をうかがうようになり、紀伊水道にもロシア艦が通航することも起り、海防のことは急を要するようになった。尊皇攘夷論も活発になってくるし、文化8年(1811)3月には浦組増補の定書が出され、本腰を入れるようになった。いよいよ嘉永3年(1850)にはわが湯浅組もキチンとした組織が整備、男子15才より60才までの健康者を動員していつでも外国船打ち払いの体制がととのえられたのであった。
参考のため万治3年子8月の「浦組江組覚事帳」と、嘉永3年の組織の実際を記しておくことにする。

万治3年子8月  在田郡  広組

浦組江組覚事帳(写)
(註。貞享(1684)年ころまでは「広組」であった。それ以後「湯浅組」になる。)

異国船又不審成舟参候時浦方庄屋内々覚悟之事
1、常々我々相心得罷在候ハ異国之船は勿論日本之船大小によらず不審成舟参候ハば先小舟を遣し船中を見届申筈に相心得申候 若其舟よりとがめ候て御用之儀御座候て可承を申其内にも船中を見不審成道具又は不審らしきもの乗居候ハバ大庄屋、郡御奉行様御代官様へ注意可申上候 其上唐舟参候時は陸地へ上げ不申候様
に可任候并□□□□□見及び候ハバ陸地へ上げ候様に才覚可任候 其御注意之?早々事付並御印通相添へ浦継迄遣申筈にて御座候 又替儀も御座候はば同?に御印通相添御注意可申候残御印通1数之儀ハ和歌山より郡御奉行様御代官様其外御侍宛御越被成候而人用之ため残し置申□夫にても御印通足り不申候はば近き浦之御印通取寄申筈にて御座候 浦組江組之のぼりは村々に御座候萬事合図のかため之儀は成丈早鐘太鼓貝吹申事に御座候 のろし之儀は御定之所々に用意任御座候   以上

異国之船並不審成舟参候砌江組覚悟之事
1、きりしたん船は不及申不審成船参候節は組よりもよりの在所へ注意任其内大鼓を打貝を吹、寺宮之早鐘をつき候へば庄屋年寄小百姓中、棒、熊手を持ち村々之のぼりを立浦方へ馳付け広清右衛門下知を受成程精を出しはたらき申筈若野山へ参違候百姓は聞付次第に追々其所へ早くかけ着右之通下知次第に可任内々之心得にて御座候
以上

湯淺村御怎馬繼党事
1、通し御印1数湯浅里方庄屋角兵衛所二預リ御座候 右之御印通熊野筋より御注意之心?に相添通り申時は成程急御傳馬継へ持参任湯浅村ニ預リ申御印通ハ井関村へ相渡湯浅へハ宮原之人印通取寄申様に奉存候 御伝馬継之者は1人も不残庄屋所へつめさせ人用承筈と奉存候但のぼりは無御座候  以上

井関村御伝馬継覚事
1、通之御印1数庄屋藤兵衛所に預り御座候 右之御印通熊野筋より御注意之御?に相添参候時は成程急御伝馬継へ持参任井関村ニ預リ申御通は原谷村へ相渡井関村へは湯浅より人印通取寄申様に奉存候人伝馬継江組ハ河瀬村、前田村、下津木村、上津木村5ヶ村ハ井関村へ無油断寄申万事人用達申様ニ内々相心得罷有候 (幟之雛形写但シ略ス――とあり。)


万治年間から2百年近くも経た嘉永3年には浦組もうかうかしておれない海内の風雲であったし、実際黒船の驚威は実際的になっていたし、1朝有事に備える体制をととのえねばならないことであった。当時、栖原の菊地海荘は有田日高の文武総裁を仰付けられていたし、民間にも国防思想は盛り上がっていて、浦々の主要な人びとが指導者となって浦組も大いに強化されることになった。
有田郡内での浦組の固場は北湊(宮原組)と湯浅の2ヵ所であって、郡内5組のうち、湯浅、藤並、石垣、山保田の4組から人数が出て湯浅固場を守ることとなった。
その編成は左の通りになっていた。

湯浅固場
顕国社境内陣所
浦組指揮  御代官
精兵地士  30人

湯浅組13人
広村浪人 吹田為藏    鹿ヶP地士 鹿ヶP六郎太夫
金屋村地士 柏木芳助    殿村地士 田端善次郎
寺仙村地士猪蔵倅 椎崎磯之助    和田村浪人惣七倅 永井八十助
広村代久帯刀人 六右衛門倅 飯沼貞助   広村地士茂左衛門倅 橋本忠次郎
中野村地士丈助倅 西川萬太楠    湯浅村地士 青石八兵衛
湯浅村帯刀人九郎次郎倅 橋本八兵衛    井関村帯刀人利兵衛倅 崎山角兵衛
小頭 広村地士 助太郎倅 竹中助太郎

藤並組10人
長田村60人地士 花光小十郎  野田村地士 野田佐平二
野田村地士  野田基輔  中村60人地士九郎右衛門倅 崎山七十郎
野田村地士喜右衛門倅 野田良右衛門  水尻村地士次太夫倅 谷 久次郎
上中島村地士伊兵衛倅  吉田伊太郎  野田村地士基輔倅  野田幸右衛門

土生村代々帯刀人理兵衛倅  野田多賀助
小頭 中野村地士  平林仲右衛門
石垣村7人
コ田村地士平八倅  星田十左衛門  庄村地士惣右衛門悴 松原惣助
吉原村地士庄之助倅  高垣平次郎  吉原村代々刀人中井良助  良助悴 中井丈三助
コ田村地士與兵倅  星田直七
小頭  垣倉村地士  神保市右衛門
小筒打編成
1、小筒打50人湯浅組大庄屋引纏
小頭 栖原村 源次郎
    〃   藤兵衛
栖原村30人  田村13人   吉川村7人
1、小筒打50人 石垣組大庄屋引纏
小頭  庄村庄屋   平八
     中野村肝煎  忠左衛門
吉見村2人  小川村7人  伏羊村9人  長谷川村4人 庄村6人  コ田村6人 吉原村7人  金屋村4人
市場村4人  中野村1人
1、軍貝役 西川丈助  永井惣七

1、太鼓役 木下良右衛門  次右衛門倅  著尾熊之助
  鐘役 飯沼六右衛門  滝西吉次郎
1、惣見役頭取 堀川儀右衛門  北村半藏  浜口儀右衛門
1、注進役頭取 栖原屋常右衛門  かさや喜兵衛 かさや嘉右衛門 京屋六兵衛 甚太郎ほかに早道の者25人
1、御代官手元付 手代    會根吉太郎
            同     淹万之永
           大庄屋湯浅組  数見清七
           石垣組    神保市右衛門
           湯淺杖突  虎藏
            司      右衛門太郎
           石垣組   庄之助
            同     為助
帳書  湯浅組常松   石垣組源之助
胡乱者改筋   小沢駒之助
1、小筒打頭取差添   北村貞助   湯川了祐
1、兵糧方元懸   森楠太夫   井上久之助
1、焚出方頭取   胡煎伊右衛門  八百屋權四郎   田中屋藤兵衛  外に坎手伝共8人
1、大砲3挺打人頭取  菊地豐次郎  北村久五郎   神谷慎助
打人  植木宗三  北村清左衛門   北村佐太六  千川伝七  千川政次郎   橋本仁左衛門   数見貞藏
    松原了祐   千川儀兵衛   北村熊三郎  垣内清四郎
1、長巻の者  小頭吉藏   善太郎   虎藏  三之助   コ兵衛  亀次郎  小頭共36人
1、力士組小頭  紋太郎   弥藏   儀兵衛   小頭共39人
右2組仕菊地孫輔へ付属之事
1、小筒打百人頭取  菊地孫輔
    小頭   右馬太郎  太郎右衛門  市太郎   伊右衛門
焚出方頭取   肝煎儀兵衛  松見や太兵衛  かさや甚吉  ほかに炊手伝共16人
1、小筒打百人頭取  浜口儀兵衛
         小頭  八百屋茂兵衛  黍屋重次郎  島屋文右衛門   質屋次兵衛
  山本村1人  池/上2人  西広村6人  唐尾村3人  中野村7人  金屋村4人  柳P村5人
  井関村7人   河P村4人   前田村5人  鹿ヶP2人 広村20人  青木村3人  別所村2人
  中村2人  殿村3人
焚出方頭取  肝煎惣七   いせや藤兵衛 ほかに炊手伝共8人
1、小筒打102人  石垣村  遊軍
頭取 星田與兵衛   松原惣右衛門
小頭  中峰村庄屋為次  尾上村庄屋喜兵衛  栗生村庄屋孝次郎

 糸川村8人  修理川村8人   川口村5人   宇井苔村7人   杉原村5人  岩野川村6人  栗生村12人
 谷村10人  有原村2人  沼田村3人  大西村1人  延坂村2人  大園村1人 尾上村7人  小原村3人
 冬村5人  本堂村2人  中村4人  瀬井村4人  彦ヶP村4人  中峰村3人
1、小筒打50人  湯浅組遊軍
 頭取  中村庄屋伴右衛門  寺仙肝煎市右衛門
 小頭   寺仙庄屋孫右衛門   猿川庄屋定右衛門
  猿川村5人  寺杣村15人   津木中村10人 落合村5人 滝ヶ原村5人 以上40人にして10人不足
1、小筒打人数不明 山保田村 遊軍
 頭取保田内膳  戸上源左衛門
 小頭   氏名不明
右遊軍焚出方頭取 網屋次助  栖原屋伊兵衛  山家屋三次郎  炊手伝共10人

右のような編成で黒船と1戦交える覚悟であったのだが、ことがなく幸なことであった。なおこれをみてもだ いたい分明することだが、百姓町人よりなる義勇兵のごとき性格のものであり、各地の村役人や地士帯刀人が指導者になっていた。各人は腰に「何組何村誰」と書いた名札をぶらさげ、「何にても得物を持可馳集」だった。
兵糧はにぎり飯で1人前7合宛焚出すこと。これらの費用は各自持ちであったようである。旗印しは大庄屋の纏印の大きさは横2尺幅、長さ6尺。各村の纏印は横2尺幅で長さは5尺で、村名の文字を染めぬいたものであった。 (村名の文字や呼称は、享和4年公儀御達しの村名帳によることに統一されていた。)

さてこの編成で、動員令が下された場合、湯浅固場への出動人数、鉄砲、その他の武器道具など持参するわけだが、わが広川関係のみ列記すると、
1、狼煙場 西広村なばえの峰のろし置、左右隣組への合図、西広村1人 唐尾村1人
1、広村人数310人 広村庄屋 2人
  内出人155人
  在村155人
 鉄砲53丁
  打人53人
   内12人所持筒 1人山田村より  7人中野村より  6人金屋村より  5人柳瀬村より  7人猿川村より
   5人落合村より  10人前田村より
船5艘在浦
1、西広村人数95人  西広村庄屋1人
   内出人47人
  在浦 48人ほかに 200人湯浅村より
 鉄砲19丁
 打人19人
  内14人所持筒5人 滝ヶ原より

 唐尾村 人数64人 唐尾村 庄屋1人
  内出人32人
  在・村 32人 外に湯浅村より200人
 鉄砲15丁
  打人 15人
 内1人浦組筒  3人所持筒 1人池/上より 10人津木中村より
  斧遣13人
  右浦方
船 14艘
1、山本村人数53人  山本村庄屋1人
  内出人25人
  在村28人
1、中野村人数70人 中野村庄屋1人
  内出人35人
  在村35人
1、池/上人数38人  山本村杖突池/上庄屋1人
  内出人15人
  在村15人

1、金屋村人数47人  金屋村庄屋1人
   内出人23人
   在村24人
1、殿村 人数30人   殿村庄屋1人
    内出人15人
    在村15人
1、柳P村人数22人  柳P村庄屋1人
    内出人11人
    在村11人
1、広中村人数39人  中村庄屋1人
   内出人19人
   在村20人
1、宇田村人数32人 広村之内杖突宇田村庄屋1人
   内出人16人
   在村16人
1、名島村人数35人 名島村庄屋1人
   内出人17人
   在村18人

  右里方

となっていた。


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雜輯篇  その2  今昔こぼれ話


1  鹿瀬峠のこと





本書の他の項や、とくに歴史編にはこの峠に関係ある記事が述べられているので、ここではこの山や峠にまつわるあれこれを、なるべく重複せぬよう思いつくまま述べておくことにする。
鹿瀬山は有田と日高との郡界をなす山の1部で、旧熊野街道にまたがり、わが町の河瀬地区に属している。河瀬から登り21町(2キロ強)ばかりで峠につく。ここを越えると日高郡原谷へ下りる。昔は峠に茶屋が3、4軒あって紀伊国名所図絵にもその絵がでていて、なかなかしゃれた茶店に画かれている。茶店のことではっきりしているのは、元和8年(1622)に山本村(現字山本)から出張してきた人たちで、鹿瀬六郎太夫とゆかり深い家で、「峠」という屋号が今も伝えられている。
この茶店は明治年間まで続いたもようで、店をやめてからも大正年間あたりまで、住居していたという。茶店から1町(百メートル)ほど下手に、和歌山から8里(31キロ余)を示す1里塚があり、1里松もあったのだがいつのまにやらそのあともさだかではない。
高い山ではないが峠への道は急坂で、昔から熊野街道の難所の1つで「御幸記、藤原定家の明月記の文」にも、「……次に又シシノセノ山をよじ昇る。崔鬼の嶮咀」とある。それだけにまた要害の地でもあった。したがって、シシガセまたはシシノセの地名は古くから文献にもよく出てくる。古いところでは庵主いほぬし、為房卿記、明月記、玉海、さては太平記、源平盛衰記、畠山記などの軍記物語から熊野詣日記(足利義満側室北野殿)をはじめ、いろんな人びとの熊野詣りの旅日記などに散見する。
法皇貴族たち、僧侶、修験者から一般庶民の熊野詣り、武士たちや商人たちの往来と、ずいぶん永い期間にわたる街道であった。
明治40年、別の地を通る道――河瀬へは入らず、広川にそって上津木落合、中村を通過――が整備され、この山にトンネルがぬけ、車道(県道)になってからもいまだしばらくは徒歩で越す人びともかなりあったが、現在は車時代で、もとの県道や新たに出来た国道42号線の水越トンネルを自動車でとばしてしまうので、鹿瀬峠道もいつしかすっかり廃道同様になってしまった。
鹿瀬はシシガセと読むが、シシは肉から転じて、けもの、いのしし(猪)かのしし(鹿)のシシで、もとよりライオンのシシではない。山容が鹿の背に似ているので鹿の背、それでシシノセ、シシガセとよび、鹿瀬と書くようになったのであろう。この地は史実と伝承が入りまじり、いろいろな話が伝えられている。ここの所を詠んだ詩や歌は別項に記しておいた。
昔から紀州に熊野八荘司という土豪のいたことが伝えられ、太平記などにもその名が出てきた。湯川(または湯浅)、玉置、音無、芋瀬、中津川、眞砂、蕪阪、鹿瀬などであるが、その伝記はどれもあまりはっきりわからない。もともと荘司というのは、荘園の管理を領主から命ぜられた職名である。荘園制度そのものが次第にごてついてややこしい沿革になってしまっているが――ともかくこの地に鹿瀬荘司なる土豪の家があったことはたしかであった。やがてその家も断絶したので、浅野侯が紀州を領したとき、名家のほろびるのを惜んで、慶長16年(1611)にそのころ殿村に住んで帰農していた名家脇田家の子孫の六郎太夫に命じて鹿瀬に居住せしめ、家名を鹿瀬と名乗らせた。これが今に続いている鹿瀬家である。
またこの地に古い山城の跡が峠の西方に残っている。おそらく鹿瀬莊司の居たころに築いていたものと、想像される。東西2町半、南北1町3壇になっていたというが、今わずかにその跡がみえる。ここでしばしば戦いがあったことが伝えられている。
玉海(玉葉とも、九条兼実の日記)に、治承4年9月3日(1180)――|傳聞熊野権別当湛増謀判、人家数千宇、鹿瀬以南併掠領了とか、また同じく5年9月28日、傳聞熊野法師源1同友了、切塞鹿背山――などとみえるから、この要塞でひと騒動あったことが知られるし、その後天授年間(1375〜80)には、野田四郎、楠二郎らが義有王を奉じて1時この山塞で南朝回復のため戦ったという。また畠山記によると永亨年間(1429〜41)の事件として左の記事がある。

永亨年間南朝の余類宇佐美新五郎、田辺六郎、田子太郎、園部太郎、新宮八郎兵衛等2千余人鹿瀬城に楯籠る。
畠山左衛門持国是を退治す。永享10戌午年9月畠山入道鹿瀬山の凶徒退治として同月3日河州より其勢3千余騎を率して出陣なし、紀州戸屋城に入1日休息し、気にて湯川民部少輔泰業、野上左衛門尉安経、浅里山城守時直
を以て鹿瀬山の案内を尋先手分を定、畠山右京亮定重、松倉主膳正満好を大将として平筑後守、菱木七郎左衛門尉、温井若狭太郎と2人を具し旗本勢を合2千8百余騎湯川兵部丞光業、野上左衛門、浅里太郎等5百余騎、追手揚手3千余騎1時に城へ寄かけたり。気に凶徒勢宇佐美、田辺の輩打ち出て双方不劣勇戦すれども、寄手は大軍城兵如何に戦といえども難叶、田辺六郎を初、田子太郎、園部、新宮も皆討死に及ければ惣勢たち敗走し終に落城に及びける。寄手思ままに打勝ち凶徒の首共鬼首して早々京都へ注進す。将軍義教公御感賞在て則御書を賜りける。

ついで名高い伝説として法華壇のことがある。法華壇は今も保存され、峠の艮(北東)すこし行くと畑地になっている一角にある。広、養源寺の源流とされ、郡内に法華宗が宣流された記念の地でもある。古碑や記念の碑も建て、もと茶店をしていた家の子孫が今も養源寺から管理を頼まれて、おりおりの香華をたむけている。法華壇のことは寺院の部養源寺の項にもふれておいたが、このドクロ誦経の伝説は元亨釈書(仏教伝来以後元亨2年〈1322>までの僧侶の伝記)に出ている。

釈円善遊熊野肉背山卒、其後有沙門壱睿云者行宿山中、夜々聞誦法華、其声微妙、睿以為先亦有人宿、1巻巳禮拜懺悔、又読1卷毎卷如是 天明無人 傍有骸骨 支躰全連 青苔遍領鎖似衣服 想久経歳月觸髏 口中有舌如紅蓮 睿見之感恠欲視所由 次日不去入夜誦経如昨 至曉睿起拜日 既誦経必有心語 願聴本事以傳霊感 骨人答曰我是台嶺東塔院某也 至此而死 生平起堅誓 誦法華6万部 存日纔半数而夭 願力不拔住之 尚誦経耳 今巳始終 居此不久去此 当生兜率円院 睿聞了禮骨人而去 翌年又来不見苔骨。

とあるが、この法華経の功徳伝説として他書にも似た話がある。いずれにしても気味の悪いしかし有難い伝説である。
なおさきに述べたとおり、熊野詣御幸への街道筋であった関係上、熊野九十九王寺社もこの峠への入口にあたる河瀬王子社、いよいよ急坂にさしかかり徒歩せねばならぬとて馬をすてた馬留王子社、峠を越えると沓掛王子社や鍵掛王子社と、それぞれ熊野大社への遙拝や旅程の安全を祈願した社もあったが、明治になって例の神社合祀の暴挙の結果失われて、今はわずかにその跡を指摘できる程度である。
昔は重要な峠であり、今はなつかしい歴史の古道である。

2  大殿さんのユーモア


大殿さんといえばだいたい藩主が職をゆずって隠居した人をさしたもようであるが、とくに8代重倫公は恐ろしい大殿さんとして有名で、紀州の大殿さんといえばこの人をさした。狂暴残忍のため致職を命ぜられたのだが、隠居してその84才の生涯を終るまで、喜怒常なく、ずいぶん厄介な殿さんであった。この地方へもしばしば遊猟や、祭礼などにもきている。
あるとき小浦の浜にこられ、乗船するのに五兵衛という人におんぶされてアブミ板を渡った。そのとき五兵衛になにか声をかけられたのだが、おそろしさいっぱいでかたくなっていたのでご返事もできなかった。そこで殿さん「お前はだんまりこくって、もくもくと牛のような男ぢゃ、これから牛と名乗れ」といわれた。それ以後姓を牛居と称することにした。小浦の旧家牛居家の先祖にあたる人であった。
またこれも姓の話であるが、広の家の先祖の1人で大変首の長い人がいた。それでこの殿さんお前の首は雁の首のようだといわれたので、それから姓を雁野と名乗った。雁野仁右衛門のことである。後には野をはぶいて雁だけになった。
この2つの話は、さきの方は伝承であるが、あとの話は家の旧記録に明記されている。
ところでこのこわい殿さんも時にはこんなユーモアもあったとみえる。ただ残念なことに年月日がはっきりしない。

3  皮肉な寄付人


―広八幡社の石燈籠のなぞー
現在広八幡神社の馬場(道路)から神主佐々木邸へ入る路の向って右側に、1基の石燈籠が立っている。ところでその竿の銘文に「八幡宮 某」とあり、台石に「願主姓名台内記之置」とある。享保13年戌申正月と刻されているから240年前の寄進である。寄付人の姓名は台石の内に記しておくと、わざわざことわっているのがどうも変な気がする。皮肉でそうしたのか、なにかはばかるところあって姓名を表面へ明記できなかったのか、それにしても思わせぶりなことである。別に姓名を書かなくとも神様ならご承知であろうし、売名行為ととられたくないのなら、なにもこんなことわり書きをしなくともよさそうなものである。今これを見るうちに、なんとかその台石の内にあるという姓名を知りたくなってくるのだが、相手は石燈籠のこととて、ちょっと簡単にはとりはずしができない。1人や2人の力では無理かも知れない。だいいちよほど「ひま」でもなければ、さあこれからやってみようというわけにもゆくまい。またこれが皮肉にわをかけたものだったら大骨おって、その台石には何も書いてなかったとなったらそれこそ大馬鹿をみるだけだ。しかし、ひょっと大切な人名でも書かれてあるかも知れないしとも思える。いずれにしても好寄心をそそる石燈籠である。
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4  広八幡様の御利益


天保の初めごろ、広村に「ササラヤ半助」という人がいたが、家が貧しく大阪辺にでて米搗きなどしていた。このころ、熊野三山から「富くじ」(今の宝くじ)が売り出されたので、半助、広八幡社に願をかけて、「何とぞこの富にあたらしめ給え、あたりますれば社殿などの修理もいたします……」と、くじ代1分で1枚買ったところ、八幡様の御利益かこれが1等当選。金千両也を手に入れた。
ところでこの男ふたたび八幡様にお願いして、今1度あてさせ給え、さすれば大般若経、法華経および、永代3月15日には毎年餅投げをいたしますと祈ると、ふたたび千両があたった。そこで合せて2千両を懐中にし、途中の安全をけねんして、乞食のような風体で広へもどってきた。
ところで彼の風体をみた親族の者はよりつかない。ここに黒津という人がいて、これをあわれみわが家へ入れてもてなした。半助その誠意にこたえて金50両也を仏前にお供えした。黒津家の人は腰をぬかさんばかりに驚いてしまった。さて半助は八幡様へいろいろのものを献上してお礼をしたが、またもや3度目の願をかけて、こんどは私の命を差上げます故にと祈って、これまた3度目の千両があたった。
ここで半助急に命が惜しくなり、命の代りにお宮の基本財産として田地を寄付し、手水鉢などを献上した。話はこれだけだが、実際にあったのやら、その後どうなったのやら、これでブツンときれていて今はとりつくしまもない。(「夏の夜がたり」より。)

5  白砂糖の元祖とその子孫


紀州藩内で白砂糖の製法をはじめたのは、箕島の田中善吉が寛保3年(1743)だったとの通説であるが、わが広川町の昔、南金屋に岩崎久重という人がおり、はやくから砂糖製法の研究を重ね、その精製に成功し、藩から海内始祖とのおほめを受けたという。寛政の始めのころである(1789)。今更ここで元祖争いをするつもりはないが、ともかく享保時代から(1716〜36)この時期にかけて各地で砂糖製造のことが盛んになったことは事実であり、農家の副業として甘蔗をつくり汁をしぼってー牛に大きな石臼を引かせて――黒砂糖を製したことは明治に入ってからも行われていたという。ところでこの岩崎久重の弟子になって白砂糖製法を修得し、帰って大いに国益をあげたというのが伊豫西條藩中の松原一政という人であった。この松原一政がわが師岩崎翁への報恩のため、翁の62才の時の肖像を画かした。そのまた写しを岩崎家へ贈ってきたというのが現存している。
話は一変して、明治大正のころ、始め広村で、後に湯浅町で医を業とした山田松玄という親切な医者がいた。この人は岩崎久重翁の子孫筋にあたる人で、少年のころ故あって中野法蔵寺の小僧をしていたのだが、大変なことをしでかしてしまった。法蔵寺がほとんど丸焼けになった大火事(慶応2年12月7日、1866)の原因は、この小僧さんが灯のついた「ちょうちん」を1室におき忘れたのであるといわれている。ローソクの灯は、昔から、その室に人がいなくなると、その炎が長く大きく伸び上り火事をひき起すとの俗信があったが、不幸なことにそのとおりの結果になってしまった。そこで法蔵寺を追われる身となったのだが、この人は意志の強い人であったらしく、さっそく上京して刻苦精励医術を学び、業を修めて郷里に帰り、人びとには文字通り仁術を施して世間からよろこばれ、また尊敬もされたということである。

6  広八幡社の「力石」


附、五島石について
ウエイトリフティングといえば、現代的だが、このスポーツにあたるものとして、昔からわが国では、重い石を持ち上げる競技があって、若者たちはその力量をきそいあったものである。その石を力石といった。




若者としての資格の条件のひとつに、その力量がどれだけあるか、いかほどの重量物がもてるかがあった。その標準は江戸時代に入ってから米1俵の目方で、米俵を軽がると持ち上げ、肩にのせて歩けるか、やっと持ち上る程度か。男の子が15、6才にもなれば米俵ぐらいは持ち上げなければならなかった。(目方60キロ、16貫)
ところがこれが力くらべとなると20貫、30貫、40貫もある重い石、それも丸型か小判型の、ひっかかり少ない滑らかな石をえらんで、おたがいにそれを持ち上げて力くらべをしたのである。下手に失敗すると大ケガのもととなるからみな真剣であり、場所も神聖な宮の境内で実施された。若者連中で誰ももち上げられなかった石を持ち上げた者は1種の英雄であり、他村に対してもひとつの誇りでもあった。その時はこのレコードを、その石に刻みつけて神社に奉納し記念とした。持ち上げた年月日、石の目方、氏名、年令、立会人や世話人の名もきざまれた。ここまでできなくとも、相当な目方の石はたいていの神社境内の隅によくころがっていたものだが、この競技もすたれてしまった明治の中期ごろから次第に石の姿も消え去りつつある。わが広の八幡神社にはその名残りをとどめる力石が今も2つ残っている。その1つには左のような銘がきざまれている。
「奉納 福石 明治25年閏6月7日 世話人 雁杜氏前田熊吉 参拾八貫 名島村 上田常松持之 弐拾壱歳」とある。いま1つの石は「五島石」といわれ、江戸期にわが村から遠く九州五島列島にまで出稼ぎに行った(主に漁業)人たちが、郷里にもち帰り、神社に奉納して青年たちへの土産にしたのだと伝えられているものである。先年当地を訪れた五島の奈良尾町の人たちがこの石を見て大変なつかしがっておられた。
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7  96の銭と8合ます


紀伊続風土記有田郡総論に「郡中舛(ます)に8合舛なく銭(ぜに)に96の通銭なし」とあり、他の箇所ではちょっとみあたらないから、わざわざことわっているような文意である。有田郡にはないが他郡ではあるのだとも受けとれる。
それはそれとして96の通銭とは、銭96文を百文として通用さすことで、詳細は略すがこの慣用は中古からあったようで、その後江戸時代になってからは金銭取引の常識となっていたようである。銭百文(1文銭百枚)を受けとるときも渡すときも96文ですむとなれば4文のピンハネとなるわけだが、どうしてこんなことになったか、そのことの起りは会計をあつかった役人どもの役得であった臭いが強いように思える。その理由や沿革には、時代により国によりまちまちで諸説があり、ここでは省略するが、100を2と3とで割りきれる最高の数が96であるからだと、もっともらしい理屈もつたえられている。寛永13年6月(1636)に、寛永通宝という銭を鋳て、そのときこの銭4貫文(4千枚)で金1両とすると定められた。鋳銭局(製造所)から売り渡すとき、百文について4文を局費としてとったのでこのときから96銭がまかり通ることになったのだとの説もある。
ところで常に多量の銭のみをあつかっているものはそれでもよかろうが、2文3文と僅かな銭を使う一般庶民にとってはとどのつまり4文の損になるのはわかりきったことである。反対に役人や大商人が多数の人びとから5文10文と集金して何百何千とあつめた銭を官へ納めたり、他へ支払ったりする場合相当な利を得ることになるわけである。
その96の通銭は、わが郡にはなかったというのだが、今しかとした証拠が見つからないので真疑のほどは不明である。
1文銭は「さし」といって、細いわら細などを銭の穴へ通して一括したのであるが、その「さし」へ通したままの姿で残っていたら100か96かはっきりするわけであるのだが。
次に「8合ます」なしとあるが、これも他郡にはあったから、ことさらことわったのかも知れない。8合ますの有無を論ずるのは、これを1升(10合)と同一にあつかったか否か、また別の用途があったかどうかにかかっている。ところで物の容量をはかる「ます」も、古来幾変転してきているし、そのときの支配者権力者によって実にさまざまな容積のますが使用されていた。
だいたい、米麦はじめ穀類のような粒状のもの、酒や油のような液状のもの、塩のような粉状のものと、その物の状態におかまいなく「ます」ではかったのだから、そのはかり方の如何によって大変な差が出てくる。そこへもってきて、規準になる「ます」がときとところによってまちまちでは、貢納の上でも、商売取引きの上でも、不便この上もないわけで、これも全国的な統一をはかったのは豊臣秀吉で、これが定着したのはやはり徳川期に入ってからである。
このとき定められた「ます」を「京ます」といってそれ以前のものを「古ます」といった。この京ますはメートル法が実施されるまで使用された何斗何升何合何勺という容量のますで、今日でも家庭内ではまだ生きていて、よく米1升とか大豆5合とか、酒5升飲んだとかとロにされる。この統一された京ますを実はわが紀州藩では使用されず、「紀州ます」という独得のますが用いられた。
紀州ますの1升には大小の2種類あって、大の1升ますには4角の対角線に細い鉄板があって、これを弦(つる)といった。つるがあるので、つるますと呼ばれた。大正期ごろまで、商家の店頭に、何々ありますという広告に、何々あり□と書いたものである。口の形がつるますを現わしていて、ありますのシャレであった。それはともかくこのつるますは、全国共通の京ますより少し容積が大きく、他国からは、紀州ますの「3句ぶとり」と称された。今1つのますは「小ます」といって、この紀州ます1升の12分の10にあたる容積であるから8・33余合になる。これを民間では8盤(はちばん)と呼んだ。このますを小ますというのだが、今もわが町内の古い家ではみつかっている。だから郡内8合ますなしはちょっとうなずけない。
大体玄米をはかるときはつるますを使い、精白米をはかるときは小ますを使ったので、小ますのことを「町ます」ともいった。そこで公定の京ますと紀州ますとの実積を比較すると、さしてびっくりするほどの相違はないが、なんといっても数(かず)のことだから馬鹿にはならない。米を売買するとき、つるますで買うとか売るとかの言葉も残っていた。
ことのついでに述べるが、ますで米など量るときほど上手下手の差がひどいものはなく、上手なものの手で量った米を家で量りなおすと、必ずといってよいほど不足していた。百姓たちが年貢米を量るとき役人の目の前でするのだが、上手なものは、ますの裏、すなわち底に米をならべるだけで、さっと手早くやるので目にもとまらなかったという。反対に村で、にくまれものの家の米を量るとき、わざと盛りたくさんに計られたという。俗説に、紀州は55万5千石の知行というが、実際は山国のこととて、とてもそれだけの高がなかった。それで「8ばん」のますで計算したのだという。

それはともかく、わざわざ「郡中96の通銭なく8合ますなし」の文句がどうもすなおに受けとれぬので後考をまつことにする。

8  「お犬さま」の話


紀州犬は、まず純粋な日本犬といってよく、中型で毛は白色、体質頑健、性勇猛でとくに猟犬として適当である。わが県と三重県の天然記念物に指定されているが、旧幕時代和歌山藩でも「お留犬」としていた。
お留、というのは藩主の命で、とくに保護され、勝手に処分はゆるされぬ動植物や鉱物などである。例えば近いところでは、湯浅町別所の勝楽寺にある「お留ビャクダンの老樹」、由良町白崎のあしか島に冬季にきて遊ぶアシカの群や、盆石として有名な古谷石などがそうであった。
さて、紀州犬には大別して2つの型があるといわれる。ひとつは走るのが早く、如何なる岩石るいるいたる場所でも快走をつづけついに相手を倒す「鹿犬型」と、猪や熊などの大物と格斗して勇猛果敢、相手を噛み殺すといったすごさを持つ「猪犬型」である。ここでは、旧幕時代のこの犬のことについて、わが郷土に関係した小話を申し上げることにする。
お留犬だから保護を加えると同時に、むやみに他国への流出を防がねばならぬ。とくに藩公の狩猟には、鷹狩りの「お鷹」とともになくてはかなわぬものだから大切に飼育や訓練をせねばならないので、県内各地で適当な場所や人物を見定めて、これに飼育を命じたものである。
殿様の犬だから「お犬様さま」といって、「お薬種畑役所」の係りで、ここの小役人が責任をもっているのであるが、形式として、こちらから願いでて、大切なお犬をお預り申して飼い奉る――といったたてまえであった。
もちろん只というわけではなく適当な飼育料が下げわたされた。当地方では鹿瀬家がお預りしている。環境といい、家柄といい申分ない預り主である。記録として、はっきり残っているのは、文化8年からで、同年4月1日よりお犬2匹。名前は「梅花」「花の露」といい、およそ猛犬にはふさわしくない名だが、他の例をみても、お犬さまには優雅な名をつけていたらしい。
このときの飼育料は1日に6分(銀)宛、犬小屋や囲いの入用金として3両くださっている。この2匹の犬はどうやら雌雄であったらしい。どちらが雌か雄かわからないが。ところで文化12年になって「梅花」が病気になり、薬石効なく介抱不叶、2月に入って「病死なされた」とある。こういう場合はただちに文書をもって報告するわけだが、別にたいしてお叱りもなく、3月6日には別の犬を引渡されている。そうこうしているうちに、仔犬が産れたらしく、同年10月「御犬之子御調有之云々」と記録されているが、何匹あってどんな仔だったかの記録はない。
鹿瀬家ではその後も、お犬預りをしていたらしく、文化14年(1817)、御犬の儀につき、御薬種畑へ罷りでたことを記してはいるが、何月何日でどんな内容であるかについては何も書きとめていない。
他に唐尾の善八網元(栗原家)でも、お犬をお預りしていたという伝承があり、その縁かどうかお薬種畑の御女中が、お泊りがけで遊びにおいでたことが伝えられている。ついでに話がそれるが、鹿瀬家へもお薬種畑御女中が、湯崎の湯へ行く途中立寄ったことが記録されているが、何かお犬にのつながりでもあったのか。
さて善八網元で預ったお犬のことだが、直接このことを記録にしたものはないが、これにまつわる裏話がある。
この網元の末子で辰次郎という少年が、この犬と大の仲よしで毎日この犬と遊んでいた。やがて御用があって、お犬は和歌山へつれもどされた。辰次郎少年は犬恋しさのあまり、ついそのあたりの野良犬とたわむれているうちに、その犬に噛まれ、それがもとで病死してしまった。網元ではこれをあわれんで、やがてこの子が成長のあかつきに、わけてやろうとのつもりをしていた田地を、この息子の菩提のためお寺へ寄付して少年の墓も建てた。
唐尾善照寺墓地には今もこの墓があるが、延享5戌辰4月26日(1748)俗名辰次郎生年13」とあり左側の面には「寄付田地」と刻されている。この少年墓碑銘によって、善八家に伝わるお犬の話の年代を推定しうるわけである。そして鹿瀬家よりずっと以前にすでにお犬預りをしていたこともわかる。
次に別の話だが文政8年(1825)に、前田村の権之丞という人の飼犬が「御山方御犬に成る」との記録があるが、これは個人の飼大でもよい犬があれば、お上のご用をつとめさせていたのであろう。
県郡下を通じて、紀州犬のことについては真疑とりまぜいろいろと面白い話が伝えられているが、わが郷土に直接関係あるものを書いてみたのである。

9  おかげまいり(ぬけまいり)とええじゃないか踊り


―熱狂的な民衆の集団行動―
おかげまいり  神仏を信仰して諸国の霊場などを巡拝することは、交通不便の昔の時代からも行われていた。しかしそれらを実行できるものは、身分のある人や僧侶や武士階級、土豪、豪農級の人たちで、一般民衆百姓ではちょっと実行不可能なことであった。やがてそれが一般民衆にまでいきわたってきたのは中世から近世へかけてで、百姓たちの旅行などにまで神経をとがらせていた徳川封建の世でも、四国巡礼や西国33番巡礼などは、願い出さえすれば大目にみてくれたものであった。とくに伊勢参宮や熊野詣などは、せめて生涯に1度はとの念願をもつ庶民が多かった。しかしかかる巡拝の旅も、多大の費用や日数を要することで、やっぱり思うにまかせない人が多かった。
おかげまいりは、1口にいって世間の人びとの情けにすがって、1宿1飯のめぐみをうけながらその目的を達することであるが、ここでいう、また一般におかげまいりといっているのはそのような個人的なものではなく、徳川期へ入ってから周期的に行われた一大巡礼運動とでもいうべきものをさすのである。それは、庶民階級下層農民、下男下女、商家の奉公人などで老若男女をとわず、集団的に爆発的にあっというまに幾百幾千の人たちが伊勢参宮を行ったのである。
この巡礼に参加した人たちの多くは、旅費や旅装も十分なものではなく、ときには着のみ着のままで家を飛び出すものも多く、主人や家長の許しを得ないで出かけるものもあり、それで「ぬけまいり」ともいわれたものである。職人や奉公人使用人たちがぬけまいりしたため、家業もなりたたない不都合さえおきてくる。それでも、このおかげまいりをとがめたり阻止したりすると、たちどころに神罰をうけるなどいいふらされていた。伊勢まいりの奇瑞や効験が喧伝されていたのでどうにもならぬ仕儀であった。
ところでこの集団的大巡礼行動は、ある日突然、神様のお札や御幣が天から舞い降りてきたと称して、それをきっかけとして人びとは動き出すのである。誰がしたのかわからないがそこは神意というものだと人びとは信んじて疑がわなかった。すぐに世話人などができて1集団が出来上るのである。
史上ではっきりしているのは慶安3年(1650)ごろから始まり、宝永2年(1705)、享保3年(1718)同8年(1723)と行われ、明和8年(1771)、文政13年すなわち天保元年(1830)とであった。このうち明和8年には、京都付近からはじまり関東以西九州までひろまり、約2百万の民衆が参加し、文政13年のそれは、全国ほとんどの地域にわたり参加人員5百万と称されている。封建の世であり、交通機関や道路もさほど発達していなかったし、一般民衆の旅行の自由など認められがたかった制度のもとで、これだけの人が動いたのだから実に大変な騒ぎで、昭和の「万博」どころの比ではなかったと思われる。これには幕府も諸藩の役人たちも手のほどこしようもなく黙許するよりほかなかった。というのも政治的な意図があったわけではなし、暴動でも一揆でもなかったからではあるが、なにかそこには不気味な民衆のエネルギーが感じられ、へたな禁止措置を構ずるより、伊勢信仰をたてまえとしているのだから、沿道の豪商や豪農、なかには藩主からさえ米や衣服、わらじ、手ぬぐい、はな紙、小使銭まで施行し、家々では1夜の宿をかしたり、湯茶の接待などして、この巡礼集団を送り迎えしたのであった。おかげまいりのゆえんである。ところでこれだけの人数への施行のために動いた物資や金銭は莫大なものであり、そのため物価の上昇も起っている。
かくして諸国から集まってきた巡礼集団は、道中いろいろな喜捨をうけながら、歌ったり、踊ったり、諸芸を被露したりしながら陽気にはしゃぎつつ旅をつづけた。面白いことに、人びとのさわぎにまじって、ノラ犬や飼犬までついてきて、いっしょに伊勢まいりをし、その犬の背には御幣や大麻などがくくりつけてあったという。犬のおかげまいりである。これら2百万、5百万といわれる大集団のおかげまいりは、おおまかにいって60年を周期として行われている。しかし、いかにおかげまいりといっても結構づくめばかりではない。
これだけ広範囲の地域から、莫大な人数の、それも当時の下層の身分の人たちが多かったとあるからには、おいおいガラも悪くなり、沿道の人たちに迷惑をかけたり、乞食根生にまでなり下ってしまうものもでてくるのはやむを得ないことでもあった。また病気やけが人、なかには死人もでる。わが地方でも、おかげまいりに参加したであろう人びとのあったことは想像されるが、これについての記録的なものは何1つ目につかない。ただ伊勢まいりの節行路病者などのために伊勢松坂に「せったい宿」(無料宿泊所)を設けるので応分の寄進を願いたい」といった意味の歓化がきている。それでわが土地の村々からそれぞれの寄付があった。これは文政8年(1825)のことである。
また伊勢の役人から(当時は紀州藩領)、おかげまいりをやめさせるようとの達しがみえるが、これは上記のような弊害を考慮してのものと想像される。わが地方からの行程は、鹿瀬を越えて南下するのでなく、和歌山へ出て、大和へ入り伊勢路へ向ったと思われる。

ええじゃないかおどり
おかげまいりの伝統をひくものとみられている大衆の異常な行動に、「ええじゃ
ないか」おどりがある。しかしこれは、おかげまいりのような信仰的、レクレーション的なものにかわり、考えようによってはある意図をもった隠れた指導者の煽動によるものともうけとれる、時代の背景は、幕末世相不安の高まっていた、慶応3年(1867)に突如として起った民衆の異状な興奮をともなった行動であった。これは集団的なおどりの群が、ある特定の家を目ざして、おどり込むのである。そのときのはやし言葉が、「なんでもええじゃないか」という。これもある日突然、天から神仏のお札や仏像など、ぶっそうなのは生きている少年や少女、ときには血もしたたる生首まで降ってきて、ある家に落ちると、それをきっかけにわっと群集が踊りだすのである。
踊りの群集は、なりふりかまわずおどり狂って次から次へと村々をまわる。だんだん人数も増してくる。こんな連中におどりこまれると大変な損害をうけるので、先手を打って家の前や路端に、めし、もち、菓子、酒などを山積して喰うにまかせ、飲むにまかせて歓迎する。腹ごしらえもできるし1杯きげんで「なんでもええじゃないか」と目標の家をめがけておどりあるく。かねて貧乏人泣かせの物持や気にくわぬ資産家がねらわれやすい。
この家へおどりこむと「これもろてもええじゃないか」「やってもええじゃないか」なかには婦女子に対して卑猥ないたずらなどしても「どうでもええじゃないか」と茶化してしまう。おどりこまれた家は大変な損害をうけることになる。これは、おかげまいり行動と違って、あきらかに不満の爆発であり、当時の社会不安を反映して、1種の平等思想、世直し思想などの気持が漠然とではあるが含まれている。しかしこの騒ぎも政治的には無目的であり為政者に対する反抗でもなく、一揆でもなく、ただおどりまわるだけで1時無政府的な状態になるが、役人たちも手のほどこしようがなかった。
この、ええじゃないかは年代も近く、全国的な規模で行われているし、古老からの言いつたえで年配の人たちの間では記憶されている。このことについても明確な記録も資料もないが口碑としてはまだ生々しいことである。
このさわぎがおさまったのは鳥羽伏見の戦で、敗残兵が紀州におちてきたりしてこの地方では早くやんだのだと伝えられている。
以上2つの民衆の大行動について、歴史家や社会学者たちは今日的な観点から、それぞれ研究し、その成果も発表されているが、ここでは理論的な面にはふれず、わが郷土もこのさわぎから無関係ではなかったことを述べたまでである。
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10  在夫のこと


ー虫のいい人あつめー
わが紀州藩は和歌山藩になってから全国にさきがけて徴兵制度を布いたことで有名である。この先駆をなすものは農兵や常備隊の組織であり、それはまた在夫から発展していったものと考えられる。
在夫ざいふというのは最初は、江戸詰めの藩士に従って荷物運びやら雑用に使われていたもの。20才から30才位の若者で、藩命によって各村々から駆りあつめられたのであった。ところが幕末になって長州征伐や維新の風雲が急を告げ多数の軍夫が必要になり、大阪や広島へ動員されたり、城下の屋敷で使われたり、鳥羽伏見の戦や、遠くは奥州征伐の軍にもつれて行かれたりするようになった。
在夫は多少の小使銭位はもらえたかも知れないが、その費用は「村しのぎ」すなわち各村の負担であった。つまり村に対して幾人の在夫をだせと命じてくるわけである。(およそ百石の高について3人) 思えば村も在夫に指名されたものも至極迷惑なことであった。当地では在夫のことについて記録も発見されず、語りつたえの話も絶えてしまっているようであるが、わが地域もこのことについて決して無縁ではなかったのである。
有田郡内の在夫のことについて、そのころ藤並組の杖突きをしていた野田保之助が、この徴収事務をしていたらしく「在夫日断并御付入替覚帳」なる当時のメモ帳が、吉備町野田家に残されている。時は慶応元年(1865)のものである。この帳面にわが地域から徴発された人びとの名がのっている。おそらくは自ら希望したのではなくお上の命でずいぶん御苦労なことであったろうと察っせられる。今その人びとは誰れであるか第3者からはわかりかねるが、関係あった家々では、ひょっとしたらうちの先祖筋にあたる人かもと思いあたるふしでもあればと記載しておくことにする。なかには病気や怪我をしたり、また亡くなった人もあるかも知れないが、くわしいことは不明である。

慶応元年閏5月調 在夫
広村平吉 同伊之助 同楠兵衛 同利兵衛 同善吉 同佐助 同久之助 同米吉 同甚四郎 同新八
西広村喜右衛門 同円左衛門


この人びとへ他村の人を加えた21名が、「小人目付へ渡サレ」ている。
また、
名島村勝右衛門 広中村平次郎 山本六兵衛 池上左兵衛 唐尾拾藏 上中野左藏金屋専太郎 殿村文次郎 井関文右衛門 寺杣助太夫 岩渕文次郎 瀧川原健太郎 落合茂兵衛 中村市右衛門
右15人長谷川大藏殿 佐々木兵之助殿 南条小右衛門殿 新 百兵衛殿 田中金吾殿 富島初三郎殿


11  淡濃山


耐久中学校および日東紡績広工場と江上川の小流をはさんで斜に相対する1連の小丘がある。橋を渡って右側が庚申堂のある庚申山であり、左側が淡濃山である。たんのやまと呼んでいる。
麓にほぼ方形をした小池がある。方形の池もちょっと珍らしいが、天明の昔(1781頃)広村に方池軒桃之という俳号をもった岩崎藤助(3代目)がいたが、おそらくこの方形池から軒号をとったものかと思われる。それはさておき池に架けられた小橋を渡ると淡濃山への路になる。その右手小高いところに岩崎明岳の山荘があっていろいろの竹や梅、楓などを栽え風雅な別荘であった。路を左にとると石を積んで登りやすくしたのを少し行くとすぐ頂上につく。そこに稲荷社の小祠がある。いつの頃からまつり始めたか不明であるが幕末ころからかと推定する。今のところこの社に関する文献など見当らないのだが、案外有名な稲荷さんで、この神の使いといわれる狐も、たんの山の狐とて畏敬されたものである。この稲荷さんには面白い伝承があって、この「ほこら」に「名馬の角」と称するものがあった。海が不漁のとき漁師たちは、そっとその名馬の角とやらをお借りしてくる――その角は形は小さいもので幾重にも布でくるんである――それを舟に載せて漁にでると必ず大漁がある。そのお礼にその角を返えし、どっさり魚をお供えする。ところが何かの事情があってその名馬の角なるものは箕島方面(有田市)のある人の手に渡ってしまっていまはない。そのためかどうか広はその後あまり漁がふるわなくなったとか。しかし、この稲荷さんにはその後もやはり信者は絶えず、近ごろでは誰いうともなくここへお詣りすると入学試験合格うたがいなし、また願ををかけて日参すると傾きかけた家もまたたちなおるとの評判もある。
お稲荷さんのことはこれぐらいにして、この小祠の下手にちょっとした広場があって、腐ちた木材や瓦の破片など散らばって空地になっているが、実はここは亭(あずまや)があった場所で、展望台になっていた跡である。
庚申山も淡濃山も永年木を伐らないので全山に雑木が繁茂してじゃましているが、ここに立つと広、湯浅の町並に海上にと実にすばらしい眺望である。この展望所の跡は、耐久中学校の歴史はもちろんわが広川町数育史上忘れることのできない1つの記念すべき場所である。明治40年3月9日から11日まで(1907)当時国賓として来朝中の米人ラッド博士夫妻が、かって米国エール大学での教え子であった宝山良雄が私立耐久中学校長として独得の教育方針で学校運営にあたっていたが、その切なる乞いを容れて、京都大学へ来たのをしおにわざわざ和歌山から人力車をつらねて来校、校主であった浜口容所邸に宿泊実に手厚い歓待をうけ、かつて小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の書いた「生ける神―浜口梧陵翁」の故郷と防浪堤および防風林とをまのあたりにみて非常な感動をした。耐久中学校では当時の郡長をはじめ各町村長教育関係者有志1同に教育に関する講演をしたが、その間にここ淡濃山に登りこの「あずま屋」で岩崎家夫人より茶菓の接待をうけつつ、あかず4周を遠望したのであった。余談だがその当時外国人が、しかも高名な碩学が夫人同伴で来郡したのはこれが最初であったという。なおこのときのラッド博士の印象は彼の著書の「日本に於けるたぐい稀れな日」の11編に「広村、生ける神の郷地」として記述している。
なお淡濃山の山麓には、いずれも広における名家である古田家、岩崎家、橋本家の墓地。東南方向の麓は西浜口家の墓地でそこは、国指定の史蹟となっている、浜口梧陵の墓がある。また北側には東浜口家の墓地で、そこに浜口容所の墓がある。
またこの丘陵一帯には小巻貝の化石があり、食虫植物のモウセンゴゲやイシモチソウなどもある。

12  西郷騒動とちょんまげ


ちょんまげ頭をたたいてみれば
因循姑息の音がする
ざんぎり頭をたたいてみたら
文明開化の音がする


などのうたがうたわれた明治の初期、人びとは今まで頭にのせていた「ちょんまげ」を落して散髪頭になるのには相当な抵抗を感じ勇気がいった。ちょんまげにはその型が身分によってそれぞれ違っていたのであるが、ともかく僧侶以外はちょんまげを結っていたのである。だからわが国も明治政府になって、明治4年に散髪廃刀を「許可」している。ちょんまげを切ってもよろしい、刀はささなくてもよいというわけだったのが、やがて断髪令、廃刀令と強制化されるようになったのである。そのくせ、明治5年には女子の断髪禁止令が出されている。いつの世にもアワテものがいて女の子も男のまねをして髪を切ったものもあったらしいことがうかがえて面白い。

それはともかく、たかが髪の毛1つでもなかなか簡単にまいらぬことは、話が飛躍するが 今日でも中学生や高校生の長髪か散髪かで目の色変える論議がくりかえされることでもわかるようである。
しかしちょんまげは諸外国に対しても、みっともない。西欧文明をうけいれることが、国是ともなっていた明治政府は、いよいよ断髪令にふみきって、男子はすべからず散髪にすべしということになって、わが和歌山県でも北島権令(知事の前名、明治5、6年)がきびしく断髪の布れをだしている。当時のわが村の戸長さんもこのお達しを村内にふれて回わった記録が残っているが、実際はなかなか実行されがたかった。泣きの涙で、まげを切った話がいまも語りつがれている。
ここで明治10年になり有名な西郷騒動(西南の役、わが国最後の国内戦)が起って、県下からも官兵や人夫を募集した。(すでに徴兵令もしかれていたが) その報酬は1金30円也であった。なにしろ米1斗が5、60銭余のときの30円である。30円の金につられて応募した連中を和歌山城内に収容したのだが、そこでまっさきにやられたのは散髪であった。これにはまだちょんまげをしていた連中は参ったらしい。敵地で首を落されるのは覚悟のうえできたのだが、それより先にちょんまげを落されるとは、首を落されるよりつらいと泣いたものもあったという。

13  広川と広橋の今昔


広川は全長わずかに20キロ、それでいて有田郡内第2番目の河川である。広川町内に源を発して町内だけを流れて海にそそぐ。その下流の北岸が湯浅町である。この流れも古来幾度か流路を変えているらしいことは地形の上から推察できるが、人工的に流路を変えたことは忘れがちになっている。

慶長の昔までの広川の下流は、今の院ノ馬場に小橋を架けている新田川という小流が、実は昔の広川であった。
それを宇田竹中氏のでである僧有伝(湯浅町深専寺第8世住職)が、当時残っていた高城跡の西麓の空壕などを利用して川の流れを転換、湯浅寄りに川の筋を変え、昔からの広川の河原を美田にしたのだという。慶長6年(1601)のころであった。有田郡誌には広川のことを左のように記載している。

「上津木、下津木の2溪流、津木村大字上津木の落合に至りて相会し、西北に流れて串子谷の水を併せ、南広村大字河瀬に至りて川幅広く、大字井関に入りて井関川、名嶋にては名嶋川と呼ばれ、それより以西広川の稱あり。湯浅町と広村の間を西に向って流れ、天洲浜の北に至りて湯浅湾に注ぐ。落合より川口に至るまで3里29町余、幅20間乃至40間あり。最深8尺にして水量多し。此川は灌漑の利極わめて多く、広、南広の平野の大部分は此川によりて養はる。又、沿岸に水車を業とするもの多し、膾残魚は其下流に産し香魚も亦豊富にして上流落合より更に1里許しの所まで逆るという。
井関川の支流に大瀧あり、高3丈、幅8尺。上の段山に発し大瀧谷に落つ。水量多からず。
上津木川は上津木の西、丸畑に発し、中村に至りて鹿瀬小峠の北より来る猪谷の水を合せ、東流して落合に至りて下津木川と会す。長さ1里3町余、水勢急なり。上流に藤龍、高1丈幅2尺、上草滝、高8尺幅1尺、あり。
下津木川は下津木字岩渕より発し、字滝原を経て上津木に入り西流して落合に至る。水量多く灌漑の利あり。長1里3町余、水勢急なり。」


とあって要をえている。しかし約60年以前の景観である。したがってもちろんその後の変化はある。護岸、砂防の工事はおおよそ完備されているし、水量は昔よりも減少した。したがって水深も浅くなっている。水車を業とする家は今は1軒もないし、膾残魚(しろうお)も香魚(あゆ)も年々減少している。
さて、有伝上人の当時にはまだ橋らしい橋もなかったことであろう、熊野街道も川の右岸に沿って井関まででて、そこで川を渡り鹿瀬峠に向って行ったらしい。江戸時代に入ってから熊野街道も広橋を渡り、すぐ左折して川の左岸を通過するようになる、またまっすぐに院の馬場道を通り養源寺の前を通って広の町への路も完備したことであろう。かくて広橋は重要な交通量の多い橋になった。
同じく有田郡誌に、

広橋、広川に架す。長さ30間、幅2間。湯浅町と広村を連結す。且つ熊野街道に当るを以て車馬の往来頻繁にして、士女絡緯として絶えず。東には高城の古城跡及勝楽寺満願寺等の古刹あり、生石3本松等の高峰及其山脈重畳して濃淡1様ならず。西は天州浜、広川口、辨財天の松林近く、又遙に阿洲の山を望むべし。北は湯浅の島の内にして旅館古碧楼其他の商家櫛比する所。南は直ちに広の平野に連なり、其盡くる所に明神山の蜘蜒たるあり。満潮の時には種々の魚族橋下に集り来るを以て、釣客の橋上より論を垂るるもの多し。

と表現している。
ところでこの広橋だが、この橋の架替や修理の費用は全部広村の負担であって、木造のこととてほぼ10年毎の架替え、その間、年1度の修理もせねばならない。広も栄えてばかりいたのではない。ずいぶん苦しい時期もあった。とくに幕末ごろは疲弊のどん底にあったもようである。梧陵翁が、村の財政の苦しさを見かねて、この橋の架替費用をいっさい自費でやられたこともあった。(このことはあまり知られていないようだが安政3年のことであった。)あたかもその頃耐久社で教えていた海上胤平は次のように詠嘆している。

世の人に情けをかけし君の名を
広の川橋広く知られん


現在の広橋は、昭和10年起工、11年6月にコンクリート橋になった。このほか、今の広川下流には、この広橋の上手に、紀勢本線の鉄橋や、東町から湯浅への近道になる鉄製歩道のつり橋や、また新国道42号線の新広橋(昭和34年11月)と、紀伊半島を縦断する橋が並んでいて、交通量の増加とともに賑やかなことである。現在では多くの建物が建っているので、前記、有田郡誌記述のとおりにはいかないが、それでも橋上から川口一帯湯浅湾への景観は、夕日が西海に沈むころとくに美しい眺望となる。なお広橋には歩道橋も付設されている。(古碧楼は広屋旅館の前身で、幕末から明治初期ごろ当地方の文人墨客のサロンになっていた。)
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14  明治の話題から  (その1)


松明騒動  明治時代の話題をあげれば、明治4年の太政官布告は別として、指を折れば、17年の霊岸寺山の購入、22年の山津波といわれた大洪水、そして28年の松明(たいまつ)騒動等がとくに古人の話題の中心になっていた。

当時農家にとっては米つくりは最も重要な作業で、非農家の人びともまた当然のことのようによく協力的であった。なかでも水利や害虫駆除の問題には、いっしょうけんめいに精進した。
7月14日の夜は、日照り続きの雨乞行事とともに例年虫送りの行事の日であった。非農家の人びとも当然のようにこれに参加するし、地区全体の行事になっていた。この行事は、稲の発育を害する「さし虫」等を退治することと、今ひとつは地区の人たちの演技を競うお祭りでもあり、「森の宮」さんを中心に、松明を振ってさまざまな演技を競うさまは、まことにみごとであり、夏の夜空に美しい景観を描きだしたものであった。
そのころわが国の官憲は、日清の役に勝ち誇り、その余勢をかるように自己の権力をほしいままにする時代であった。正当な理由もないのに「火の用心」のしめしがつかないと村の駐在(当時島本巡査)が、虎の威をかる狐よろしく、この行事を田の中の火遊びだと称して、中止命令をだした。このことを知った村の若者たちは、理由もなく自分たちの楽しい祭りの行事を止めさせるはもってのほかと、全員区長宅につめかけ、口ぐちにその非をなじり不満をぶちまけていた。ちょうどそのおり、巡視かたがた地区の様子をそれとなくみにきていた駐在は、靴音も高く区長宅に飛び込み、口ぐちにさけんでいる若者たちに向って頭から制圧にかかった。若者たちも負けずに「官憲の横暴」を叫び、その非をならし激しく応酬した。駐在は自分の主張のとおらないのに業(ごう)をにやし、ついにサーベル(洋刀)を引きぬき「静まれ!」と大喝した。このときつめかけていた群衆は、いっせいに「わっー」とときの声をあげるや駐在めがけておしつぶすように襲いかかった。
たちまちにして駐在の帽子は飛ぶ、服はひき破られる、サーベルはへし折られて、とうとう群衆の下敷きになりのびてしまった。これは実にあっといういっしゅんのできごとであった。このときい合わせた区長の長男は、日清役復員まもない働き盛り「駐在を殺したら大変」とばかり、おしかぶさっている若者たちを1人ひとり払い除け、かろうじて駐在を横抱きにし隣家まで逃げのびたのである。しかしそれからがうるさくなった。昼となく夜となく、刑事たちがうろつきまわり、その夜の主謀者をだせと、いれかわりたちかわりサーベルをガチャつかせながらやってくる。老区長はガンとして応ぜず「主謀者などいない」とはねつける。
かくてはますます警察との対立が深まるばかりである。そしてあわや第2の大騒動がもちあがりかねない緊迫した情勢になる直前、若中(今の青年団)の会長と副会長の2人がこの責任をとるといって自首してでた。そして3ヵ月の懲役という重刑に服した。なお永年庄屋であり区長をつとめた某氏もその職を辞した。
この事件を思えば、ただ人に親切に接することはあたりまえのことだと考えていた村民にとっては、時の駐在がいま少し思いやりのあるやり方をとってさえくれれば、このような事件も発生しなかったであろうし、今日でも夏の夜空を色どる松明を振る演技が楽しく続けられていたかも知れないとなげくのであった。常に圧迫されていた人びとが決然と時の権力者に屈せず起ち上る姿は、百姓一揆の例にも現われているように、つまるところ支配者と被支配者の関係からである。
今年の盆も近くなった。老いも若きも豊年おどりに楽しい輪をえがくことであろうが、もしあんな事件がなかったら若ものたちの松明おどりのすばらしい技が見られることであろう。惜しい文化遺産をひとつ失った淋びしさは実に残念なことと、毎年の盆がくるごとにしみじみと思いだすのである。

(その2)
霊巌寺山について清く美しく流れる広川の中流に大字柳瀬があり、そこから徒歩で登ること約4km、枳厳(からたちいわ)の中に、石造りの不動明王が安置されている。
海抜450メートル、霊気澄み、練行精進にはまったく申し分のない恰好の霊場である。その名を補陀山霊巌寺と称し、毎月28日の命日には護摩修行が執行され、近郷はもちろん遠くの善男善女たち多数が参拝している。この山は全山禁猟区の関係で、野生の猿がときどきその姿を現わし、参拝客に愛きょうをふりまく。昭和31年11月に西有田県立公園に指定されている。
霊巌寺発祥の由来は、南北朝のころ長慶天皇の御代(1374)、 湯浅の荘白方(勝楽寺付近)に住む円勝法師が夢の中で、補陀山の秋巌に登れば、容貌常の人と異なる老僧があらわれて曰く「円勝、ここは、とそつ天の内院なるど、汝これを知れりや」というほどに、西方より日輪輝きいで天地を照らすを見て夢さめたりと。円勝はこの奇瑞に感じて、ここにきたり住み、草庵を結んだのが始りといわれている。
御小松天皇の御代、嘉慶元年(1387)6月の大旱害の折、大覚禅師の遠孫にあたる性寿法師が随身せる舎利仏をこの秋巌に奉納して、雨を祈れば、その厳より蛇がでてくると、たちまち甘雨そそぎ、この地方を潤した。
よって近境の住民は同心協力して小蛇庵を建立し、性寿法師を住わしめた。その後明徳元年(1390)2月、性寿法師が別行を修し、本尊を勧請するため同年6月よりこの峰で御衣木をとり始め、同年11月名草郡六十田の法賢という仏師に請い、千手観音の像を彫刻、明コ3年に小堂を建立し、本尊として安置したのが由来記である。
しかし霊巌寺にはこうした奇瑞とは別に、人知れぬ苦労や血涙しぼる逸話が残っている。
明治4年の太政官布告による解放令が発布されると、広の荘で唯ひとつの同和地区である現東町の住民はもろ手をあげて、真に差別のない明るい社会が到来したものと互いによろこびあったのである。幸に当時戸長をしていた土佐屋の久保源右衛門氏と地区代表の元小庄屋某氏とは、お互いに心の許し合う親交があり、戸長自身日夜東町を訪問し、地区の将来のこと、職業の問題、交際の問題等を語り合い、その発展策を考えたのである。
県下に先がけて、氏子加入の問題をいち早く解決したのもここである。昔をふりかえれば、今日なお同対番や特別措置法等と叫ばれている現状を、当時の先覚者たちがみたなら、さぞおどろきびっくりすることであろう。
しかしながら、当時は広に3つの村があり、公有山としての持ち山があった。各住民は皆自由に松や杉のような用材を残して、雑木をきることが許されており、自家の薪に、また生活の糧として薪売り用に伐採していた。東町は解放令によって、それ以前、特権として従事していた職をなくしており、当然その大半が薪売り業を生活の糧としていた。
地区は広川の最下流に位置し、山はすべて上流にある関係上、自然道中は一般部落を通って帰らねばならなかった。もしまんがいち薪の中に、たとえ小さい松の小枝1本でもあったならば、たちまちすべての薪をそっくり掠奪されたもので、その日1日の労働は徒労に終り、食うことすらできない状態にしばしば追いこまれたのである。なんとか自由に行ける山がほしい。それには自分たちの山が心要だ、自分たちの山!古老たちは額をあつめて毎晩のように相談の会をもった。その結果みんなでお金を出し合うのだ、自分たちの力で、子孫のためにも山を購入しよう。ということになった。そして明治17年ついに実測50町歩といわれる霊巌寺山購入の運びとなったのである。もしその当時一般の人たちの意地悪なしうちがなかったら、ああまで苦労してまで山の購入はしなかったであろう。各家庭では山の購入に必要な負担金の割当額をだすために、鍋釜の類まで売った人もあったし、借金をしてその返済に長年苦労した人、田地を放した人さえもあったと聞く。ただお互いの励まし合いと努力によって、尊い宝の山をもとめたのである。
こうしたことを想い起せば、霊巌寺の縁起とは別に、永久に地区住民の忘れることのできない悲しい物語りは、同時に、「"自分たちの力で」という自力更生に富んだ尊い教訓を後世に伝えなお生きつづけねばならない強い性格を残したのである。
時代の流れ、経済の進展により、この血のにじむような努力も形をかえ、今は薪を糧とする人の姿はまったくみられないが、ただ月の28日には地区の世話人たち1同は、霊巌寺にお参りする。家業も忘れ、不動明王の権化のように、善男善女とともに、霊巌寺山は美しく清く流れる広川にその姿を映している。そして私は、じっと広川の水に目を注ぐとき、明治17年の当時をあれこれと想いめぐらすものである。(筆者は広川町議会議長畠中太助氏)

15  白木、小浦への道路改修談



わが広川町内でも旧南広村地区内の白木と小浦は、行けば景色のよい静かなところで、町内および他町村から小学校児童の遠足などもよくここへでかけたものだった。だがこの地域はわが町内の陸の孤島といわれ、いづれも海浜に面しているので小舟の便はあるが、海は静かな日ばかりではない。陸路をとって広、湯浅へ行くとなればその距離は短いが狭い山路でおまけに急坂を越さねばならず、不便この上ないところであった。両地域あわせて人家は20軒にすぎず、江戸期に開発されたところで田畑が多く、比較的富裕であり、人数も少なく、ことなきおりは別天地でもあった。しかし日常の買物にしても、物資を運ぶにしても不便と苦労がつきまとった。とくに病人などでた時には大変である。小舟をしたてて湯浅までこぎ、急ぎ医師に頼んで往診を乞い、また舟で送りとどけると夜が明けることもままあった。第1急場の間にあいかねる。
なんとか陸路が欲しいとの念願はここに住む人のだれの胸にもあった。だが何事もさあとなるとなかなかオイそれと運ぶものではなく、このことをいいだして実行にとりかかるまで十ヵ年の年月を要したのであった。

この道は山本小字大谷から小浦にいたる約1724メートルほどの改修工事である。いよいよ杭打ちをして、昭和9年1月4日に起工式をし、あくる年、10年4月7日には開通した。当時としては実に短期間で竣工したのである。人々の汗をしぼらせた白木坂にトンネルがぬけ、人が肩で物を運んだ山路に車が通るようになった。しかしここまでことを運んだ地域の人びと、および直接その世話をした有志の人たちの努力はなみたいていではなかった。
まず白木耕地整理組合を結成、組合長は杉原米吉(後に県会議員になった)、副組合長に湯川浅吉、事務を担当した牛居近之助、中山善一。これらの人たちが寝食を忘れて奔走した。なかにも湯川氏はいちばんの熱のいれようで、自分ひとりになってもやりとうすと心にちかいことにあたった。どこでも起りうる問題だが、路を拡げるために田畑がけずられると苦情をいうもの、何分家数が少いので負担金や労力奉仕にしりごみする人たちと切実な問題が起きてくる。これらの人たちを説きふせ、代替地を提供したり資金調達のため各家に掛金を実行させたり(昭和7年ごろから)、県から補助をうけるため県庁に日参したり、実に大変なそして面倒な仕事に活動された。今にして思えば、これらの努力もさることながら、湯川氏には先見の明があって、そのころとしてはかなり広い道幅をとっておいたことであった。

道路の延長は948間(約1、724メートル)幅9尺(約3メートル)弱
トンネルは28間(約51メートルが)、高さ13尺(約4メートル)幅12尺(約3、7メートル)
工費全額32960円60銭也
そのうちトンネル工費13916円60銭

竣功祝賀式に353円31銭と記録されている。
後日談だがこの金額の地元負担を皆済するのに昭和18年ごろまでかかったという。
トンネルの東入口に荒木大将筆の「昭明協和」に藤岡県知事の「白木墜道」の額が掲げられている。
今日にいたってこの道は産業に、またレジャーにと車の往復は絶えないまでに利用されているが、35年も前にこれを完成させた人びとの努力をかえりみたいものである。とくに湯川氏に対してはその顕彰が話題にのぼっているとのことを付記しておこう。
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雑輯篇  その3  産業落穂集


1  4木3草のこと


4木とは桑(クワ)格(コウゾ)漆(ウルシ)茶で、3草は藍(アイ)麻(アサ)紅花(コウカ)または木綿(モメン)をさしたもので、時代と場所とで1、2の相違があるが、大体上記のものであった。
紀州では紅花よりも木綿が主であった。古来から食料以外の実生活上必要重要植物で、江戸時代では換金作物として、また年貢上納作物として藩の奨励で農家で栽培されたものである。
桑は蚕の食餌で、まゆをつくらせ、それから絹糸やまわたをとった。格は製紙の原料であり、漆は塗料の原料であり、茶は飲料である。藍は紺染の染料で、麻は麻糸―おーといった、をとり、木綿はわたのことでこれから木綿糸や綿織物を織る。紅花はベニバナで、これから紅を製しまた薬用ともした。
これらのうちには今日では、輸入品、代用品もあるし、もっとよいものが発明製造されていて、日常生活上あまりピンとこないので、さまで深い注意をはらおうとしないものもある。しかし昔から百姓がこれらの物を栽培したのだが、彼らの生活上に、これらの製品からいかほどの恩恵をうけたのだろうか。
桑を栽培して蚕を飼い、蚕が作ったまゆから絹糸をとり、それで絹織物を織るのだが、絹の着物はぜいたく品として百姓町人には常用することは禁じられていた。椿はカミソとか、方言でカゴともいい、山間の田畑の畔に越えて、年に1回冬季葉が落ちてから根元から刈り取る。春になると株から芽が出るー。それを蒸して皮をはぎとり乾燥して製紙業者にわたす。この製紙もたいてい農家の副業でその作業はつらい水仕事である。これから上質な紙が製造される。わが有田郡では山保田(清水町) で行われ、保田紙として有名であった。ところで紙というものは、これも今日の概念と昔とは違う。一般農民は紙などまずまず必要品ではなかった。全然不用だというわけではないが、めったに使用するものではなかった。紙を粗末にするな、という言葉も残っているほどであり、これを使用するのは貴族や武家、僧侶、学者と、1部の大百姓や商人にかぎられていたといってよい。下がかった話で恐縮だが、便所で紙を使用するなど一般百姓町人ではもってのほかのことで、ワラを適当な長さに切ったのを箱に入れておいてこれで用を足した。
漆は漆の木を山畑の片隅みや山を開いて栽植し、適当な太さになるとその樹皮に傷をつけると白い樹液がでる。
それをかきあつめるのだが、これは貴重な塗料の原料で、これを塗った器が漆器で、美術工芸品から、よろいかぶと、刀剣のさやから弓矢、日用品の食器などの塗料としてなくてかなわぬものだが、これも直接農民、町人の日常生活には縁が遠かった。膳や椀や盆など漆器は貴重品で、日常茶飯に使用するものではなかった。
次に茶であるが、茶ぐらいは自由だったろうとは認識不足で、紀州は茶粥が名物だが、これは茶のうちで1番下等なものを小さい石臼でひいて粉にしたものを用いた。茶は土質や製法によっていろいろ質の変ったものが製造されるのだが、みんな上流人用で百姓町人は日常やたらに使用するものではなかった。お上からのお布れにも、あまり茶など飲むな、女房のくせに茶など飲むものは離縁してしまえと示されているほどである。
ちょっと話がそれるが、わが岩渕の観音寺に小さな手水鉢が据えられていて、それに、「お茶講」と刻ざまれている。お茶講とはその詳細が今のところ知るよしもないが、おそらく観音寺へ一定の日に集って僧から茶でもいただいて法話でも聞いたものだと考える。ともかく百姓は茶を栽培してわずかに自家用だけを残して年貢上納や換金としたのである。
こんどは3草だが、このうち紅花は郡内ではあまり作られなかったもようであるが、ベニバナのことで、源氏物語にある末摘花で、この花から紅を製するのだが、おもに口紅として用いられ、これも上流婦人や男でも殿様階級の使用品。百姓町人の女にはめったと使用されるものではなかった。別に薬用にもされた。紀州藩では木綿に重点がおかれこのほうの栽培が盛んであった。
百姓の夏毛には木綿種をまいて、秋から冬へかけてその実から綿をとった。その綿を糸縫車にかけて繊維をひきだし、よりをかけて糸にし、やがてそれで木綿布を織るのだが、この綿をつむぎ、はた(織機)をおることは農家はもとより町家でも女の最大の役目であった。それだけに綿をつむいで糸にすることは当時の内職ともなって生活費をかせいだものである。
この糸や布を染めるのが藍の染料である。藍を栽培してこれから紺色の染料をとるのだが、もともと綿や藍の使用は全国的のもので、これこそ一般百姓町人武家でも使用するものであるから、わが藩では商品としても重要視したものであった。
元来木綿は大昔からわが国にあったものではなく、それが入ってくるまでは麻が用いられ、綿同様重要な必需品であった。これも畑で栽培して、その茎の表皮をはぎとって麻糸にし、これを織って麻布とし衣料にもしたのである。麻の皮の繊維を細くさき長くつないでよりあわせて糸にする。これを、「お」を「うむ」といった。うむは績むである。これも農家の婦女子の手によったのである。麻は木綿より丈夫であり、さらさらしたさわりであったので特別な衣服や細などに製された。蚊を防ぐ蚊帳 かやもこれで製した。
ところでこれらの作物は、わが広川町の昔では4木のうち桑と茶、3草のうち綿と藍とが栽培され漆や格や麻は山地に多く、郡内では山保田が主産地であった。これらはいづれも藩にとっては商品価値の高いものであり大いに栽培を奨励し、きびしい年貢の対象にもしたのだが、作る方の百姓にはこの栽培を本田畑ですることは禁止されていた。年貢としての米、百姓の常食としての麦の生産に関係してくるからである。山畑をひらき田畑の隅やふちを利用して栽培したのである。綿や藍は田畑で作ることはときによって黙許されたこともあるが、あくまで米麦の年貢上納に差支えないことが条件である。藩の御用商人としてこれらをあつかった商人の1部は甘い汁もすえたが、百姓は相変らず苦しい生活であった。
因に藍の葉を発酵させて、それを染料とするのだが、それを藍玉といった。この藍玉の製法は、おとなりの湯浅が元祖であって、それを阿波国へ伝授した。阿波はそれ以後全国的な藍玉の産地となって湯浅はお株をとられてしまったのだという。

2  広の製墨


わが広の町に昔から、墨善、墨庄、墨重、墨長などの家号が残っているが、いずれも製墨業に関係あるお宅とうかがえる。そのうちで明治大正期までこの業を続けられた家もあった。広で製した墨は割合に評判がよく、一般家庭用に売りだされたほか、本場である奈良方面にまで多量に出荷されたという。由来紀州は製墨のことは古くからあり、「藤白墨」といわれたものなどは、後白河法皇熊野御幸のときお目にとまって以来、藤白(海南市)で製作されたものが都人士の愛用をうけたといわれている。だから紀州の製墨は古い伝統をもっていたといえる。
その後の盛衰のことはわからないが、江戸期に入って享保のころ(1716〜36)湯浅で橋本伴?(治右ヱ門)が柚葉形の墨を作った。柚はナギノ木で、むかし熊野詣りの人びとはこのナギの葉を頭にかざして道中した(毒虫や魔除けとして)とのことからその故事をとったのだという。また本藩の儒官であり 書画に巧みであった祇園南海が元文のころ(1736〜41)に、墨工を指導して作らしたという琴形墨もある。




さて湯浅の橋本治右ヱ門だが、6代藩主であった宗直の命によって、昔の「藤白墨」を復活再興、その製作をして名声を博したという。寛保年間(1741〜44)のことである。この橋本家は代々製墨を業とし、種類も多く作り、江戸方面にも積出し、文人墨客にもてはやされた。この家の職人として藤白墨を製作していた吐英という人が後に独立して、広で橘林堂又は永林堂と称していろいろの墨を作ったという。湯浅の橋本家は天保13年(1842)には製墨のことはやめているから、だいたいこの時代のころであったと想像される。
ところで広の製墨業もはっきりといつから始められたなどのことはわからないが、記憶されている古いつたえ話は、例の養源寺の出世大黒天にまつわる。この大黒天を最初に手に入れたという崎山甚右ヱ門はその家号を墨善といったという。さすればその当時墨善が製墨していたとしたら寛永年間(1624〜44)のことになるからそうとう古い話である。今は、鉛筆やインクまたはマジックなどの時代で、わざわざ硯で墨をすって毛筆でものを書くなど一般には縁遠くなってしまったが、書道などをたしなむ人たちは、やはり墨の香をなつかしむ。そして今も昔も書に親しむものは墨に対して特殊な感覚をもった。広では一般学童用の手習い墨から、相当高級なものまで製作されていたらしく、今も旧家に残された当時の品や、製作に用いた墨型などを見ると今昔の感にたえぬものがある。なお、余談だが墨型はビワの木の赤味で作るので、その型だけ見ても美しい。また製墨用にする松煙は、肥え松を燃してそのススを集めるので、松煙たきの仕事も、製墨の仕事も全身真黒けになるつらい仕事でもあった。


3  湯浅湾内の魚釣り


釣りが産業としてでなく、レジャーとして盛んな今日、北は宮崎から南は白崎にいたる湯浅湾――中紀の海の魚類を月別、ところ別にあげてみよう。今日大都市から休日などには多数の釣り客がきて賑っている。なおここにあげた4ヵ所は、初めの宮崎、矢櫃一円は湾口北部、下の湯浅―白崎一円は湾頭となる部分および湾口南部にかけて黒島の全周や白崎の大くらば之(礁)までをさし、まん中の2つのところは「せ」である。その、おばせ、そがみは湾内の礁である。

宮崎・矢櫃一円その・おばせそがみ湯浅・白崎一円
1イシダイ  ヒラアジ  サバタイ ハマチ イシダイタイ ハマチ イシダイアジ サバ
アジ アコ サンバソ ウ(コノシロ)ハゲ チャリコ グレ
ハゲ ガシラ チャリコ キス ガンガネ
2ナガハゲ イシダイ グレ アジ タイ イシダイアジグレ アジ
ガシラ チャリコ
3イシダイ チヌ チャリコ ハゲハマチ タイハマチ タイアジ キス ガシラ イシダイ
グレ タカノハ ガシラ 
ハエ キス アマダイ
4キス ベラ ガシラ アジアジ ハマチ イサギハマチ ガシラアジ ハマチ キスゴ イサギ
ハゲ チャリコ サビキ タチオメジロ ガシライシダイ タチオ キス
トツカアジ サワラ サゴシ
5トツカアジ ガシラ イサギ グレアジ チヌゴ アイアジイサギ タチオ マルアジ
キス マルアジ ハマチ ヒラアジイガミ ハゲ イシダイアコウ ガシラ タカノハ
ベラ ハゲ アジグレグレ キス アジ タコ サバ
6マルアジ サゴシ ヨコワ グレイサギ タチオ アジハマチ ヨコワグレ ガシラ ベラ 
キス オオサバ ハゲ イサギヨコワ チヌ カツオサンノジハゲ イシダイ
アイ子 アジ タチオ クエ サバ
トツカアジ
7バリコ アイ グレ メバル ガシラタチオ サバアジ サバ タチオイサギ アジ サバ ヨコワ
サバ 大サバ タチオ イサギイサギ カマス ヨコワバリコ メバル バラ タイ
グレ コアジ アイ タチオ カツオ キス カマス
ハマチ タイイイダコ マダコ
8イサギ タチオ カマス チヌアジ サバ タチオタチオ イサギ タイアジ イサギ グレ バリコ
タイ トツカアジ ハゲ アイ子タイ カツオ ハゲトツカアジ ハゲ ハマチチヌ タチオ カマス アイ
ボラ マルアジ アジハマチ ツバスツバス カマスタイ サバ マルハゲ
9トツカアジ タチオ アイ子 タイ マルアジ タチオタイ マルアジ タチオチヌ アイ イサギ グレ
イサギ カツオ タイ アジカマス アジ サバタイ チャリコ ガシラ
サバ イワシイサギカツオ コウベハゲ
10アジ サバ イシダイ タイハマチアイ タイ グレ アイゴ
ハマチ ハゲ イシガキダイコウベハゲ コダイ 
チャリコ
11グレ イシダイ ハマチ ハゲハマチ イシダイ タイアジ サバ ハマチ タイベラ キス ガシラ タイ
ガシラ アイ グレ イガミグレ ハゲ チヌ ボラ 
ヒラアジ サバ アジ
12イシダイ サンバソウ チャリコタイ アジ サバタイ アジ サバハマチ イサギ アコウ
ガシラ ベラ ハゲ アコウサンバソウ ハゲサンバソウ ハゲタイの大物 チヌ アジ
アジ サバ サワラ ヒラメ グレコダイ ハゲ メジロ


4  広川口の「シロウオ」とり



紀伊名所図会にも「広川、源津木谷の奥より流れ出で、諸村を経て、広湯浅2村の堺をなして海に入る。海口に白魚多し。」と載っているとおり、昔からここのシロウオとりは有名であり漁獲も多かった。長さ3〜5センチほどの可愛い小魚で、その味はとくに食通にはよろこばれる。産卵のため海から川をさかのぼってくるのだが、潮の満ちる朝夕2回が獲るときで、夕方暗くなると、かがり火を燃してとった。この小魚がとれだすと人びとは春の近づくことを知る。立春前後から始まるのだが、まだまだ肌寒く、川中の浅瀬に林立したやぐら台の上で器用に四つ手網をあやつって、すくいとるのだが、その素朴な漁法は、橋行く人びとの歩を止めさせた。近年は砂利の採取や農薬などの影響からか、めっきり減ってしまって、とる人も年々少くなるばかりだが「春を告げるシロウオとり」はのんびりとした風物詩であった。蛇足だが、白魚と書いて、シロウオとシラウオの両方の呼び方があるが、シロウオとシラウオは型はよく以ているが、全然別の種類である。シロウオはハゼ科の魚で、川口近くの小石の下面に卵をうみつける。シラウオはシラウオ科で、シロウオより少し大きく産卵は藻類に産みつける。広川口に来るのはシロウオである。それはともかく、毎年もっと多くのシロウオの来るきれいな広川であってほしいものである。

5  広湾のノリ養殖


一般にノリという名で片付けているアサクサノリは、アマノリ、クロノリなどの別名があり、古来から食用にされたノリである。体は暗紫色だが、体中に葉緑素のほか赤色のフイコエリスリン、あい色を呈するフイコシアン、赤色のカロチン、黄色のカロチノイドなどの色素を含んでいるので、漁場や時期天候によっていろいろの色沢をおびることがある。紅藻類ウシケノリ科アマノリ属の1種である。
昔から海岸の岩石や、流れついた枯木などに着生したものを、採取して食用とした。この自然発生のノリを人の手で養殖するようになった歴史は割合に古く、約3百年ほど以前徳川5代将軍網吉のころ、東京湾隅田川の川口付近で「ひび」をたてて養殖したのだという。しかしこれは将軍家の「お留」で、他国のものには絶対にその方法などもらしてはいけないことになっていたから、ここだけにしかなかった。
わが広湾も昔から「ノリ」はお国名産のひとつになっていたが、もちろん天然産のもので養殖などはしらなかった。明治になってやっと2、30年たち全国各地に水産試験場ができてから指導奨励したので全国的に養殖がひろまることになった。広では大正から昭和の初めへかけて、天王波戸の内側――以前は相当深いところで船舟の碇泊場であったのが次第に土砂の沈積で浅くなってしまった――へ養殖しだしたのである。
最初「和歌浦ノリ」養殖の経験者である島本という人がやりだして、その成績が良好であったところから、地元の堀勝之助、寺村久一氏らがこれに続き、昭和7、8年ころには同業者が約20名ほどになり、1時は30名位にまでなって「広海苔採集業組合」を結成し、竹ざさの「ひび」が3万株以上になり、水揚げも40万〜百万枚という産業に発展した。ところが其後次第におとろえをみせだし1時は絶滅寸前にまでなってしまった。昭和28年ころからのことである。
現在では唐尾西広で、漁業改善事業として海苔養殖に本腰をいれ、昭和39年10月、唐尾海苔生産組合を結成、西広も含めて組合員51名が近代的な養殖および加工をしている。最盛期には1回で7、8千枚程度の水揚げをみるように発展している。1方広では、養殖の歴史は古かったが、その後一向に振わなくなったので、唐尾と同じく昭和44年から組合員約20名で広海苔生産組合を結成し近代的な養殖事業にのり出すことになった。
今までノリの養殖といえば、海底にささ竹などをたてて(ひび)、それに付着させたので、潮の引いたときなど海中に林が出来たような光景を呈したが、今では大改良され「網」を用いるようになった。網ひびである。
ノリの生育は3月ごろ水温が13度に上ると生活が困難、15度以上になると老化して枯れてしまう。このとき有性生殖によって果胞子を出す、この胞子が貝殼につくとそのなかにもぐりこみ、そこで糸状体になって夏を越す。貝殼につけなかった果胞子は磯の石などについて「夏ノリ」になる。炎天にさらされ温度が上昇すると枯死するが、 なかには秋まで生き残るものもある。これらはその環境や水温など自然条件によって大きく左右されることはいうまでもない。
もともと湯浅湾一帯の水温は、1月、2月で13度ぐらいだが、海岸へ近づくと2度ほど低下する。したがっておおまかにいってノリ養殖に適しているのである。秋10月15度以上20度位になると、貝殼についていた糸状体の先から胞子が放出される。これが潮水にただよい、ひびに着き発芽し、水温15度以下になると胞子を出すことをやめてノリに発育していくのである。そこで養殖するには以上のことを利用して、夏季に「カキ」の貝殻へ胞子をつけさせ、それをひび網にぶらさげて10月水温20度ほどのとき種付けがなされるのである。現在ではこの作業を養殖場(プール)で水温調節をしてやっている。種付けをおわったひび網を海の養殖場に張るのであるが、その水位について最も注意をはらわねばならぬ。ノリの生育は潮干帯が適しているからである。発芽して肉眼でも認められるようになるころ元肥を施す。採取するにしたがい追肥もする。採取期は12月下旬からはじめられ、3月上旬には網をあげる。唐尾には組合で加工工場をもち、乾ノリにしている。
今養殖している品種は「スサビノリ」で、アサクサノリに近い品種であって、ほとんど見分けがつかない。アサクサノリは半鹹半淡水(水しお、といっている)のところが適するというから、広湾の養殖品種として最適であると考える。
しかしノリ養殖には、なんといっても潮流、水温、天候など自然条件に左右されることはまぬがれがたく、毎年同じように生産をあげることはなかなかむづかしいことである。それに、アオオ、アオノリの類のじやまものも入りこんでくる。こんごの絶えざる研究によってこれらの悪条件が克服されねばならない。なお肥料は今のところ、塩化アンモニウムを用いているということである。

6  牛談議あれこれ


ー広の牧畜事業ー
1、
今の人には牛乳というよりミルクといった方がとおりがよいが、わが国で牛乳をのむことや、牛乳より製するバターやチーズの類などを食用にしたのは、あんがい昔からのことであった。しかしこれは今日のわれらのもつ概念とは格段のひらきがあり、それらの利用は貴族階級のもので、それも主として栄養強壮剤として、つまり薬用として使用され、したがってその量もしれたもので、まず一般庶民のあずかり知らないことであった。したがって牛乳を飲んだり、それから製せられた物を食したりする習慣はなかったといってもよかった。
時代もずっと降って江戸末期から明治の初期にかけて外国の文物や知識が入ってきてからも、乳や乳製品の一般への普及は文字どおり牛のあゆみのように遅々としたものであった。まして牛を殺してその肉を喰うなどもってのほかで、かなり食肉が行われるようになった明治末期ごろまでも、牛肉は座敷では食うものではなく、神棚や仏檀の扉をしめて遠慮しながら食ったものである。

2、
百姓にとっては牛は大切な家畜であり、家族同様な感情をもって飼育したのであるが、わが郷土では自家で牛に仔を産ますといったことはあまり行われなかった。飼っている牛は、ほとんど牝であったが、それに仔を産すことはしなかったのである。牛を飼う目的は農耕であり、その糞尿の肥料としての利用であった。牛を飼わねば百姓が成りたたないといってもよいほどであったが、その労力としての利用期間は年間を通じてごくわずかな期間しかなかった。牡牛は俗にコッテ牛といって気もあらく、力も強かったので、主として運搬用の車を引かせたりしたが数は少なかった。
ところが時の流れで文明開化の欧米崇拝の感情が深まってきたところへ、牛乳や牛肉の栄養上の真価も理解されて次第にミルクをのみ乳製品や牛肉を喰うことも普及しだしたが、まだこれらを用いる人は、いわゆるハイカラな人であった。しかも百姓が自家の農耕用として飼っていた牛は家畜として、もうけになる勘定に合うものではなかった。仲買人である「ばくろう」がよそから仔牛をつれてきて農家に売り、農家ではそれを飼育して大きくなれば「ばくろう」がまた仔牛と交換にくる。その間のわずかな手間賃になるぐらいのものである。さきに述べたように時代がすすみ、牛の利用も増してくるにつれて、飼育奨励も行われ、百姓の小使銭もうけにだんだん牛の飼育が盛んになったわけである。こうなってくると自宅で仔を産ます人も出てくるようになるし、牛飼も多少勘定に合うようになってきた。しかしここまでくるまでには官の奨励もあり、先覚者の啓蒙もあり、その間失敗もあり、挫折もあった。
3,
わが郷土では、牛についての信仰として、津木岩渕に牛滝さんという小祠がある。今も土地では信仰厚い神であるが、明治から大正へかけて、牛の守り神として近郷から牛を連れて詣り、とくに「種付け」をすました牝牛の安産を祈り、かつ産れる仔が牝牛であることを祈った。(昔しから馬の仔は牡を、牛の仔は北をのぞむ風習があった。)

4、
また直接わが郷土のことではないが、牛乳飲用奨励の時代色がでていておもしろいものに左記のような文献がある。(明治2年野田村御用留による。)

牛乳汁の之儀は人生有益の品に候処、当地にて是まで売買等不致、都て不自由に付、功能も不相弁もの有之事候得共、此度輜重隊にて牧牛之儀且右乳汁を取、製薬為致候付人民生育之為、相応の代料にて売下け遺させ候筈ニ候間、生乳汁弁乳汁にて製し候品望の者は、湊紺屋町乳汁製薬所へ罷越、相対を以買受可申事6月廿7日

大変興味を引かれる文章で、どれだけの人が「まかりこして買受けた」か知らないが、まだこの時期ではミルクは薬用と同様に考えていたらしいこともわかる。
文中に輜重隊というのがあるが、輜重隊は兵制による特別隊で、その任務は軍需品の輸送運搬が主である。当時明治2年はまだ和歌山藩であったが、わが藩の兵制は全国的にその先端を行くもので、江戸の将軍家ではフランス式の軍事教練を実施し武器等もフランス式であった。その江戸の親藩であるわが藩はイギリス式のそれであったので、ことごとに行き違いがでて困ったことが多かった。ところへプロシヤ(ドイツ)軍人カッピンがまねかれ、わが藩はその兵制をプロシヤ式に統一した――それがわが国軍制の源である。それはともかくとして当時すでに輜重隊の組織が出来ていて、そこで牛を飼育し、それからミルクや食肉、運搬用にも牛も利用することが多く、その飼育も相当数に達っしたことが想像される。(百年以前の話)
ついで牛の飼育も流行してきたのか、明治8年にはわが津木村から牛買入金の拝借を官へ願いでている。今でいえば政府の融資である。これを見ると当時の牛の値段もわかり、融資返済の条件もわかっておもしろい。そして津木地区では牛の飼育に対する関心度も高かったように思われる。

金5円84銭9厘
明治8年より向5ヶ年賦無利足返納1ヶ年に1円16銭9厘8毛づつ
上津木村  芝崎 孫市
同      芝 九兵衛
同      中家 弥兵衛
下津木村  山口 清助
同      芝崎 孫左ヱ門
同      小山 六兵衛
(金屋町片畑家文書による96年前)


5、
さてわが広村にも牧牛事業に身命をかけて奔走した人がいる。明治19年6月に牧畜会社なるものを設立大いに牛の増産と牛乳飲用とをひろめようとしたのである。
この事業の中心となったのは渋谷善七という人で、五島常次郎、小瀬新兵衛、小原重助らが之に加わった。最初善七の兄伝八も(この人は事業家であった)、資本をだしてこれを助けた。この頃牛乳飲用や食用のことはかなり普及していたといっても、まだまだ主として病人用の薬喰い程度で販売量も少なく、第1牛の繁殖がうまくいかず、利益を上げるところまでにほど遠く、ついには、引き合う仕事ではないと見きりをつけかけたが、伝八はいままでの損失を償ってやり、自身もこの事業にうちこんで約4ヵ年ほどかかって50頭ばかりにまで殖すことができた。まずまずこれで前途も明るくなったので、ふたたび弟善七にいっさいをゆずって事業をつづけさせた。この時の牛舎は浜町にあった。善七はもとよりこのことに熱心であったのだからこんどこそはと、自己の利益を度外視して一般農家に呼びかけ、牛の増産をすすめてまわった。そしてその将来性のあることを強調して郡内はおろか和歌山、川上、日高、田辺、遠くは大和にまで足をのばして畜牛のことをすすめたという。
当時のことを伝八は「・・・・・・・百姓のみならず人民一般も伯楽(ばくろう)の奸策に陥り、自家において少しも牛を繁殖することを嫌い、この事をなせば、大いにわざわいにかかると思いたること数百年・・・・・・・固き習慣となりて中々如何に之を説き牛を飼養繁殖するの利益を語るといえども中々聞き入れず・・・・・・・」といった状態であった。また「・・・・・・・善七は自ら資本を投じて牛を購入し之を百姓に貸与すること50頭ばかりなりき。かかること5年ぐらいして漸く盛ならんとするにあたり、郡長野田四郎氏も大いに賛成せられて之を助けて共に郡の利益を増進せんとせられしが」ここまでなって、肝心の善七は急病で亡くなってしまった。人々は今更ながら善七の努力とそのあげた業績をたたえ、心からその急逝をいたんだ。後日のことになるが、郡内の牛に関係深い人びとは湯浅深専寺で、善七の盛大な大法要を営んだ。かくて牛飼育熱も高まり善七の遺志も生かされ、郡内相当な増産をみ、毎年2回畜牛大会を催し牛の品評が行われるようにもなった。力を入れてくれた野田郡長のあと、佐々木郡長もひきつづいて大いに畜牛を奨励し、ますます盛大になったのである。
野田四郎は明治16年12月2代目の有田郡長として37年5月まで約20年間在職。佐々木郡長はそのあと明治40年10月まで3代目郡長として在職した。なお、広の牧牛事業の記事は渋谷伝八自筆の「夏の夜がたり(明治42年)」によった。

また大正期には天王の永井家が牧牛を経営し、殿の石川家は近年まで牛乳業をしていたし、ほかに岩崎重次郎、馬所楠五郎氏なども多少飼育したこともあったもようである。津木前田でも乳牛飼育を行っていたが最近ではやめているようである。

6、
今日では時勢も変り、牛を飼う農家も少なくなり、すべての生産が大量を要求するようなしくみになって、わが町は牧牛に適した場所でもないようになった。今では牛のかわりに養鶏事業が盛んになりつつある。

7  大正池について


広の田圃は90町もあるといわれ、だいたい地味はよかったのだが、稲作の生命である灌漑用水についての苦労は絶えなかった。隣の湯浅とくらべて地味の点では相違はあまりなく、収獲もほとんど差はなかったのだが、水不足を理由に地価も安く評価されていた。それよりも第1困るのは農作である。広川の水は上の土地から順々にとるので広は最後になってしまう。上の方の在所から水をわけてもらうのに昔からいろいろのとりきめがあって、自分たちの思うようには行かなかった。それで早くから新池構築の話はもち上っていたのだが、さてその場所や費用で話もまとまりがたかった。広村は郡内では1つの池もない村であった。このままではどうにも仕方がないので、いよいよ新池を構築することになったのだが、いろいろ協議を重ねて、費用は受益者負担、場所は当時津木村前田の奥の谷をせき止めて造ることになり、県から技師を派遺してもらって、絶対心配のない堤を築いて前田地区の人びとにも安心してもらえる工事にとりかかり約1ヵ年で完成した。
水面積2・5ヘクタール。水量32万立方メートルの大池を作って、まずまず旱魃の被害をまぬがれることをえたのである。この工事には多くの人びとの協力はもちろん当時の広村長浜口八十五、篤農家であり水利組合長であった栗原長兵衛、名島の蔵本新太郎らが中心になって活躍し、とくに栗原と蔵本の両人は工事現場の監督までしたのであった。この工事で1名の痛ましい犠牲者をだしたが、そのほかは順調に進んでいまも満まんと水をたたえている。大正3年のことである。池の名を大正池と呼ぶことにした。

8  殿様下賜の鍬


まずなにより米作中心に力をそそいだ封建時代、百姓に対しての勧農は為政者のもっとも重視し力を入れたところであった。そのため各地での篤農家に対しては、それぞれ褒賞のことがあった。そのうちの1例として「殿さまから酬をもらった」話をあげておこう。
その人は、西広寺谷池拡張改修工事のときの功労と、常日頃よりの篤農によってあたえられたもので、もらった人は西広の山本長吉であったのに、残念なことにはその年月がはっきりしていない。書付けのようなものもないらしい。この家も代々襲名しているので何代目の長吉さんかもわかりかねる。この鍬をもらった長吉さんは、しんや(分家)を数軒も分けたといわれる勤勉律義な人であったという。この家筋は今もりっぱに残っているしその古鍬も伝えられている。

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雑輯篇  その4  今昔の碑文


1  町内に残る道標いろいろ
附、1里松のこと
道標――みちしるべ――ほど旅ゆく人びとに安心感と心強さをあたえていることは今も昔も変わりないであろう。
道路のもつ機能は古今変りはないが、今は昔と違って、道路が整備され、つけ変えられたものもあり、とくに自動車時代の今日にあっては、あえぎあえぎたどった坂道もあっというまに通り過ぎてしまう。その昔大きな役目を果した道標の大部分は、今の世には、もはやまにあわなくなってしまった。だが道標が不必要になったというのではなく、その表示の仕方や場所が変っただけのことであろう。
今は廃道同様になった古道で、その役目が終っている昔の道標を、改めて見なおしてみることもときによってはこの多忙な現代の目まぐるしさを、しばし忘れさせてくれ、ゆかしい古人の心根にふれる気がするものである。
だいいち、昔の道標には、信仰心にねざしたい い知れぬ人のなさけがこめられている。たとえ実用いってんばりの表現をしているものでも、なんとなくユーモアがあったり、書体そのものにも親しみがもてるものが多いようである。すでにその役目を果し、今は深い草むらに倒れて自然と煙滅してしまったり、心ない人の手にかかってどこかえとりすてられたりしたものもあろうが、置いておいてもたいしてじゃまになるものではないから、なるべくもとの場所かせめてその付近にのこしておきたいものである。別項で述べた「徳本上人と名号碑」もそのうちの2つは当時の大切な道標であったことを知るべきである。
また道標と多少意味あいが違うし、今では全く不必要ともなってしまった昔の里程を示した「1里塚の松」も旅路の目標となり、またその木蔭はかっこうの休み場所ともなり、そこで行き交う旅人たちには、お互いの前途の道中を知らせ合う交流の場でもあったことだろう。1里塚は古くから、重要な街道筋に造られたようであるが、それが制度化されたのは江戸期へ入ってからで、主な街道に1里毎に塚をきずいて、それえたいていはエノキを植えたが、紀州では松が多かったようである。
わが町内には2ヵ所あったが、今は全く忘れ去られてその跡さえ知る人は少ない。ところは井関と鹿瀬とであった。(1里は36町が原則であるが、40町のこともあり、ときには50町のこともあった。路の両側に作ったのだが、略されて片側だけで、しかも松の木だけですませたかと想像されるものもあったようである。)町内に旧熊野街道が通っていて、前記のように2ヵ所にあったのだが、その詳細はわかりかねる。井関のそれは現在田になっていて、その田を「1里松」と呼んでいるので、土地の人のなかにはその場所を知っている人もある。
鹿瀬にあったそれは、今その場所がはっきりみつけだせないが、正徳3年4月(1713)に松の植直しをしているし、天保7年(1836)に藩より取調べを命ぜられ復命した記録があるので実在していたことは確かである。その他当時の記録によると湯浅1里松(現火葬場付近)から井関1里松まで34町54間、井関1里松から鹿瀬1里松まで35町12間とあり、まあまあ正確に近いものであった。そして鹿瀬1里松から鹿瀬峠までは1町18間あって、そこに茶店があった。因に、和歌山より井関まで7里、したがって鹿瀬まで8里である。
次に道標のことにもどるが、全部を調べていないので今判明しているものを2つ3つ述べる。あとでもちょっと触れておいた河瀬の地蔵寺のものは、欲をいえばもとあった街道筋においてほしいが、現今の時節では保存のためにはこのほうがかえってよいかもしれない。

<写真を挿入> <旧熊野街道河P入口道標>

いま1つの鹿瀬峠道と藤滝念仏堂道へとを示す道標は2つながら堂々たるものである。もう1つ、高さ約1ぐらいの自然石のものが、やはり河瀬北入口川江の田の岸付近にころがっていて、うかとすれば、やがて行方不明になるかもしれないと心配されるが、これもやはりもとあった場所から移動されていると思われる。熊野街道の目につくところにあったに違いなく、それには上部に梵字のアの字を刻み、右はきみいてら、ならべて、大水にはひだり…その下が石がはがれて読めないが、道か、と想像される。文句は簡単だが、なんと親切なものではないか。鹿瀬谷から下りてきた谷川と広川との合流地点のところであるから、大水の際は左側を通れとのことである。アの字は諸仏の通種子でまさしく仏心のあらわれである。こんどは鹿瀬峠を越して、すでに郡外にすこしでているが、関係あるのでついでに記しておく。それは日高郡原谷から当方へ越しておる道傍の小墓石型の道標のこと。正面の片側にかわいらしい地蔵立像を半肉彫にうきださせ、別の片側に、神くさだきと刻まれている。上津木中村の「神くさ滝」の信仰をものがたるものであると同時に、原谷から上津木への間道を教えることにもなろう。
地蔵菩薩はいっさいの有情が極楽へ往生するまでわが身は堂内に入らないで、人はもちろん畜生の類にいたるまで、縁をむすぶため常に路傍にただずんでおわすのだとの信仰があり、亡き人の供養ばかりではなく、それをも兼ねて、峠や路の要所の目じるしに建てられることが多かった。それには何んの記銘がなくても、あの峠の上に、また、かの道のさきの分れるところに地蔵さんがあるから、その右側を行けとか、前を通って真すぐに行けとか、よその人に道を教えるめやすとなり、文字など読めないものの多かった時代には、かえってよい道しるべの役目をはたしたことであった。たとえば、岩渕の奥の、今はめったに人の通らない峠道や、山上に建てられている石地蔵もそうであった。
さてやはり津木落合へかかる道路の山手側に、俗に庚神さんとよんでいるところがある。そこに小さい庚神石像をまつっているが、そのそばに地蔵石仏がある。半肉彫りにした地蔵像の頭上に、この菩薩の種子である梵字「力」を刻んでいる(この力という梵字を刻んだ地蔵石仏はわが町内では珍らしい)。像を中心にして、右里口、左小や国とあり、割れているが台座の部分に、次村大坂みちと刻ざまれている。これもどうやら、もとからこの場所にあったのかどうかうたがわしい。おそらく道路改修のときここに置かれたのかと想像されるが、それはともかく津木村を次村と書いたおおらかさ、大坂みちは今の大阪府市への道なのか、それとも大きな坂道へかかかる意か、今あるこの場所からはちょっと判断に苦しむ。もし前記のものを左「小やま」と読むとすれば、津木村と旧日高郡早蘇村の郡境にある小山おやまをさすとも考えられ、ここには小山権現という蔵王権現をまつる社があって、この祭礼には津木はもとより広、南広からも参詣する信者が多く、大和の三上さんへ詣らぬものはせめて小山へでも詣れということばも残っているほどの場所である。この地蔵道標がそれを指すものとすればますます興味がわいてくるのだが、もとあった場所を知りたいものである。
つぎにこれも「藤滝念仏堂」の項で述べておいたが、津木中村の藤滝橋から左へ昔の藤滝越えの山路への上り口に庚神さんを祀っているが、その石灯篭の竿に、天保14卯年 講中とあり、場所がちょうど小高いところだから道標も下へすぐゆあさ道、上へすぐかねまき、ふど道とある。昔はこの山阪道をよくこえたのである。
かに今の津木中学校から50メートルほどのところで本街道になっている現在の道路と山手の方へ行く道を少し入ると人家の高い石垣を背に、三界万霊碑が台座石の上に立っている。正面上部に阿弥陀仏坐像を彫り、中央に三界万霊・・・・・・・とあり、右むろごう道 左・・・・・・・がちょっと読めない。建碑の年号などもあったのやらどうか判明しがたい。高さ1メートルに満たない標石である。むろごう越えは今も大切な日高へ越す峠で、現在もその改修が望まれている道路である。
次に、えたいの知れない道標がある。それは耐久中学校々門の左側土堤のはずれに、日本聖公会広基督教会がある。この教会の門前の草むらの中に1基の道標がころがっている。いつどこからこんなところへ運ばれてきたのかわからないが、これこそこの道標のあった位置がわからないとさっぱり価値が見出せないのである。
長さ1メートルに足らない石柱で、正面に、梵字サを刻し、是より法蔵寺庵山33処 3丁とあり、両側面にはそれぞれに、文化13年子5月、施主植田弥四郎とある。この文句の庵山の意味に考えおよばない。いろいろと想像してみて、33処とあるのと、梵字サは観音の種子として、年号が文化13年とあることなどから、たぶん上中野の観音山で、その頂上に33観音石仏を祀っているところをさすのかと思われる。この石仏は文化13年の造顕である。そしてこのことについては法蔵寺住職一誠が関係していることが他のことから判明しているので、まず間違いはないと考えるのだが、3丁とあるので、さてこの観音山から3丁のどの場所にこの道標があったのか、どうして今こんなところにあるのか、庵山とは本来何を意味するのかさっぱりわからない。
ある場所が極端に変っている今ひとつの例は、名島能仁寺境内に、かってそのあたりに散らばっていたらしい石仏を集めて立てならべてあるものの中に、高さ約1ほどの道標が坐っている。これは地蔵の坐像であり、その台石が道標となっている。台石の正面は供養のための経の1節らしいものを刻ざみ、側面に「右、紀三井寺道」と達筆で彫りこまれている。いまひとつの片側には、天保5年(1834)10月建立とある。これはもとは名島の小字大農手を通る旧熊野街道と十字路になるところにあって、今も「地蔵の辻」という名だけが残っている。
今はすっかり役目が終ったこの地蔵道標は、無事に能仁寺境内で静かに坐っておられるのである。以上のほかにまだあることが想像されるが、現在のところ未見である。

2  町内に残る徳本上人の名号碑
徳本上人の書かれた南無阿弥陀仏の名号は、一種独特の書体で、どこでみてもすぐにそれとわかる。それを石に刻んだいわゆる名号碑は郡内にもいたるところにあるが、わが広川町内にも5ヵ所ほどにその存在が知られている。この名号碑は最初、上人が日高郡千津川のほとりで念仏修業をされたころ、諸人の懇請で、上人自筆の名号をいただいてそれを石にきざみ建碑したところ、いろいろとめでたいしるしがおこった。それからというものは、この有難い名号碑を、各地で、なんとなく気味の悪い場所や、淋びしい峠道や、行手を教える道標や、自他のための供養や、または上人ゆかりの地などに建碑することが行われた。このことは上人在世中はもちろん、歿後幾十年を経てからもそうであった。そしてそこには必ずそれだけの霊験あるものと今も信ぜられているのである。
徳本上人(1758〜1818)は、徳本行者、親しんで徳本さん、また、生き仏といわれた。上人は宝暦8年寅の年に生まれ、文政元年の寅年になくなっているので、ちょうど還暦をむかえた61年の生涯であった。
2才のとき母の背で姉とともに仲秋の名月をながめて、合掌念仏を唱え、人びとをおどろかしたというが、早くから僧になることを願っておられたが、家の事情でやっと25才になってから剃髪して以来念仏専一、刻苦精励、道心堅固、各地を巡り、あるときは食を断ち、あるときは岩上に坐すこと幾年、出家以来法衣を脱がず、寝所に身を横たえることなく念仏業を修せられた。
あまり文字は習わず、義学をこととせず、つまりしちむずかしい理屈はこねず、ただひたすらに念仏一辺倒の行者であった。それでいて請われ、ば、独特な書風の名号を書き与え、ときには仏像を彫ざみ、自画像なども残していた。それらには言い知れない気品がただよっている。
ときの人はその貴賤を問わず、遠近を論ぜず、上人のいる所常に群集がとりまき、念仏唱和の声が天にこだました。なくなってから後もその遺跡や遺徳をしのび慕たい、念仏専一の行者はあとを絶たなかった。
日高郡志賀村久志(現日高町)に生れ、江戸小石川一行院で入寂した。
わが隣りの郡の人であり、有田郡では宮原の岩室山中(有田市) での千日の苦業や、その間、念力をもって豪猪を倒されたりする奇瑞を示したり、また広川町内では中野の法蔵寺へも巡錫され、諸人に教化を垂れ、(文化10年8月頃と推定される。)津木の藤滝もその練行の跡ではなかったかと伝えられ、ともかくわが郷土にも当時から上人の帰依者が多かった。ここでは上人の伝記が目的ではないのでこのへんでとめておくが、こんな縁故からか、今町内に上人の名号を刻んだ碑石が現存しているので、それについて略述することにする。

0 上津木中村藤滝念仏堂跡にあり
6角の石塔型、正面に徳本書の6字名号。
横側に天保11子7月吉日(1840)
台石に世話人名がある。上人歿後22年に建碑されたもの。

0 河瀬地蔵寺境内にあり。
これはもと道傍にあって道標を兼ねたもの。いつかこの境内に移されたものと思われる。そして道標と同時に飢饉のためあわれ餓死した人たちの7回忌の供養碑をも兼ねている。
正面に徳本書の名号。右くまの道、左むろご、とあり下部に酉年以来餓死者之霊7回忌為菩提 天保14卯 晩秋 霊応。側面に左りきみい寺道是より6里8丁。上津木中村ふじたき念仏堂建之。右いせかうやみち。

と盛りたくさんに彫りつけ、台坐石にはおもに河瀬地区の人びとの寄進者――十数人の名がきざまれている。天保14卯年は、1843年、酉年以来とあるから天保8年で1837年のことであろう。建碑は徳本歿後25年のことである。

0 鹿瀬峠道にあり。
いよいよこれから峠へかかるところ。左へきれると、津木中村のふじたき念仏堂への間道となる。正面に徳本書の名号、下方に右くまのみち、左ふじたき念仏堂とあり、右側面に徳本上人33回忌取越とあり、左側面に「きのふ(昨日)すぎけふぞ(今日ぞ)此世の名ごりにやあすをも知れぬ命なりけり」と仏教道歌をきざみ弘化2年己7月(1845)感空動誉敬白とある。
徳本歿後27年になるが、その33回忌の取越供養をした記念の道標である。

0 上中野観音山頂にあり。
ここには西国33番観世音の石仏を小堂内に祀り、由来を記した碑石その他があるが、それらは別記するとして、やはり徳本の名号碑が自然石に彫られ、年号はないが、裏面に1上人とあり、他に偶のような文句があるが、判然と読めない。一誠とは上中野法蔵寺第22世一誠で、文化13年7月25日に歿しているから、このころかそれ以前に建てられたものであろう。碑の高さ約1・20メートル。なお建碑の年がこのころのものとすると、徳本上人の在世の時のものである。

0 広防浪土堤。耐久中学校々門向って左側にあり。
この碑はもとから此処にあったのではなく、最初は土堤の西側にあり、今のところへおちつくまで2、3度置き替えられたようである。
当時広村が溺死者のために建てたものである。正面に大きく徳本の6字名号。側面に嘉永5年子3月、別の側面には、為溺死者供養 広村とある。(1852) かの安政元年(1854)の大津波以前のものであることに注意したい。

<写真を挿入> 徳本上人名号碑(道標)

<写真を挿入> 広村溺死者供養碑

3  荒れはてた仙光寺関係の墓地
仙光寺明王院薬師院、すなわち昔は広八幡宮の社僧であった仙光寺関係の墓地で、上中野南方山際(小字山口)に通称坊主池と呼んでいる小池の東側にある。久しく守る人もないままに荒廃していて、五輪塔の残片などあるが、すでに煙滅したものもあることが想像される。現在みられるものは左記の通りであり、墓石は江戸期のもので、元禄13年(1700)のものがいちばん古く、新しいものは安政3年(1856)で、他に年月のわからぬものが5、6基ある。今みるかぎりでは、この墓地の上限も下限も判定できない。

0板碑  高さ1杯に足らない。無銘。室町末期かと推定。
0法印 快円  元禄13庚辰4月3日 仙光寺明王院当寺中興とある。(1700)
0釈空良意信士  天明8申年 正月11日 裏面に大鳥氏とあり、どうやら僧侶ではないらしい。(1788)
0三界万霊  阿闍梨法印寂遍 寛政9丁巳2月廿7日(1797)
0大法印快遍霊  ェ政10戊午年2月廿8日 名草郡加茂谷市坪生(1798)
0法印覚賢  恭信 信月 建立 文化5辰9月3日 (1808)
0字龍栄房  天保丙申?8月廿7日示寂 広明王院1代広八幡宮境内多宝塔再建大願主古江見 安養寺惠海弟子  (1836)
0阿迪遮梨恵学不生位 伊都郡下志賀村産 安政3丙辰6月廿9日(1856)
0権大僧都法印恵実  (以下5基年月不明)

0阿闍梨栄聖
0法印聖仙本不生
0先祖代々一切精霊 これは自然石。
0不明のもの。


このほかに草に埋れ、土中したものもあるかもしれない。いつごろまで参詣したり、守られたも不明で、子供たちのイタズラで側の池に投げこまれたものもあるという人もある。栄枯盛衰というがそぞろあわれをもよおす墓地である。このままでは地形から考えても煙滅してしまうかも知れない。

4  玉龍法師筆の三界万霊碑
国道42号線新広橋詰を東南方へ入ると名島方面への道がある。橋詰から約百ほどを行くと片側の山際を少しきり開いて、無縁になった墓石や石仏や板碑やらを整理して安置しているところがある。これは新国道建設のとき、土中から堀り出されたもの、架橋工事中川底から拾い上げたもの、山裾や畠の中から出たものなどを寄せ集めたもので、特志家の善行為である。

さてこの場所に高さ1杯メートル50内外の大ぶりな自然石に刻ざまれた「三界万霊碑」が建っている。一切衆生が生死輪廻する3千大千世界の、もろもろの霊を供養する碑である。三界万霊碑はわが町内でも方々の寺内や墓地などにもあって珍らしいものではないが、ここの碑は旧熊野街道にそい、足元は広川の深渕であり、片方は古城跡であり、昔は淋びしい場所であったと想像される。実は今ある場所はもとのところではなく以前はもっと橋詰の方へ寄っていたのだが、前に記した無縁墓碑整理のさい、ついでに寄せられてしまったものと思われる。その碑の文字の彫りの深さ、雄渾な筆蹟は実にみごとなものである。しかし建碑に関しての記銘がなにもないので誰の筆かわからないまま年月を経てきたが、ある機会に広安楽寺にその下書きが発見され、その筆勢などから、同寺9代の住職であった玉龍師の書であることが判明したのであった。玉龍は聞えた学匠で、とくに書の大家であった。安楽寺には師の書や著書が残されている。同師は宝暦6年8月(1756)に歿しているから、この万霊碑の建立の年代もおよその見当がつくというものである。今から2百年以上のものである。またついでだが、広三味の正面阿弥陀石仏の台座にある「法界」の文字も同師の筆である。玉龍については別項人物誌の項を参照されたい。

5  法華経全部1字1石塔
――広八幡境内にあり――
昔から諸願成就、冥福供養、福寿等を祈るため経文を小石ひとつひとつに1字づつ書写して埋蔵することが行われた。これはその典型的なもので、法華経全文をおよそ69505個の小石に書写したものを埋めて、その上に2重台石上に亀型の台坐をおき、その背に立派な石碑を建てたものである。碑の正面に「法華経全部1字1石塔」と刻し、側面から裏面えかけてその由来を刻している。話がそれるが、当地に、この台坐の亀のまぶたのところえ洗米を供えると眼病に効くとの俗信があり、今もときには誰かが詣るとみえて米が散らばっている。
その銘文は左の通りである。


<写真を挿入する> <.法華經全部1字1石塔(八幡神社)>

南紀宏邑鄙人姓崎山名良房発願聚石手書大乘妙典1
部蓋石経写1字凡6万9千5百有五功已竣択地本邑
八幡大神廟傍埋秘塔之其意欲上酬仏コ神恩下薦先靈
冥福搨キ自己福寿原夫予先祖父江左城垣高法名教祐
?祖母妙祐共与尊信価乗奉行衆善尋予慈母妙然亦同
心与教祐歿後火化共為舍利矣所謂在家出家者乎祖父
延寿80有一祖母80有4尋常帰命本邑觀世音祈之
孕1女謂之崎山命湯室室生3男5女子乃其季子而継
外祖父垣高簀裘矣幼而従遊於父命清総州銚子鼻長而
寓千摂浪華嘗蒙大神加護実不以為少矣於是棄損所得自外祖父膏腴地属之明王院薬師院分送各所如左寄附 井閃邑
柳P邑広邑中野邑4箇所田地專修神事之備用費也又分3寺 雁湯山能仁寺吾母妙然分舍利置塔此境内且吾息秋惠
梭竓[之地?値忌辰献燈凡80夜 地靈山法藏寺亡父母法誉性山寂了妙然収骨之地而吾姉性法妙見遺骸之地也
松之下正覚寺祖父母釈教祐釈妙祐収骨之地也又妙然分舍利按之
喜捨 永代毎夜石燈燈2座 華厳経大集経大品般若経大宝積経大般涅槃経以上5大部
御被大麻 御湯神楽 献供餅投 神事祭靈3月14日夜起至同15日奉請和尚舍人楽師如法執行永勿怠慢者也
?宝暦8季戊寅歳8月穀旦
崎山半助良房誌 印印


とあり、宝暦8年(1758)建碑で現在、天神社の下方北側にある。「八幡社記」には、塔の前にあるとあるからこの付近に多宝塔があったのである。多宝塔のことについては、法蔵寺の項に別記する。
さてこの崎山良房とは如何なる人であるか詳細はわからないが、碑文から推して崎山次郎右衛門の2代か3代の子かと思われる。

6  正法寺の句碑
わが町内には句碑はこれひとつよりなく珍らしいものである。正法寺の墓地にあり、自然石に彫られているが、表面が剥離していて、
雪と消る00 たのみおく事0なし
としか読めない。側面に文化元年甲子12月廿日(1804年)とあり、句の下には塊門 互島とある。塊門とは、和歌山の有名な俳人松尾塊亭(1732〜1815)の門下という意であろう。塊亭には多くの門人があったことだし、わが地方にも俳諧が流行したことは確かであった。その門下生もかなりおったことと想像される。
互島は殿村の人で姓は久保田氏、天明のころには在世していたと思われる。おそらくこの句は辞世であったろうと考えられる。

7  観音山の碑
上中野観音山頂に1宇があり、中に西国33番観世音菩薩の石仏がならんでいる。徳本上人6字名号碑、および道標のところでもふれたが、ここにこの観音石仏を祀った由来などを刻した自然石の碑がある。それには和文で左の如く刻されている。

此山33所発端ハあしよわき老人且ハ月花の雅人折にふれて仏えんを結ばしめんとたねん志なれば微力に叶かたきに過し文化12の春橋本某等の口口きし折から其むしろに交り談此事に及しに此主随喜して若企なば十ヶ所程の施主にならんとす、みしにおこされ一誠上人へ申入しが雀躍して肯ひ程に取か、りしにもろく響の音におふずるがことくかくはなれしかるにもろき命のたのみなき橋本の主も其年霜月霜よはにきへ一誠上人こぞの初秋に身まかりたまひぬたれかれと云ふ中に又我もなき名のかずに入なん事実にすへのつゆもとの雫のよのありさまこれをなきあとのかたみにもと人の嘲もわすれてしるすのミ

と9行にかかれている。左面に文化14年丑2月柏木匡朝とあり右面に、

法の水きよきなかれを今愛に
うつせばうつるみの、谷くみ


とあり大要をつくしている。文化14年は1817年で150余年以前である。


8  浜口行易墓碑  亀田鵬斉撰井書
浜口行易翁之墓
翁諱教表称義兵衛号安六行易其法諡也姓浜口氏南紀有田郡邑人翁少孤養干母及其長遠離千里僑居干関東經當
貨殖稱載滋富往還凡40年其間聞老母有疾病則忙迫過掃自悉口省云翁為人淳朴寡欲謙遜不驕家中百事勤儉為先能守祖先之風格焉翁天資怯寒從来秋及季春之間焚帽拙坐干炉辺日夜曝背温腹之外無復它事客至炉辺酌酒相対?飲語家人曰吾苟得獲設理南嚮負喧之地而真吾屍矣翁謝家務之後将後園営1小室而退居干此工未竣而没時文化14年丁丑春3月25日也享年70歳矣別求地而葬干其娜法藏精舍後山自性軒西南庭隅蓋從生乎之恒言也翁娶某氏女生1男3女長女嫁干別族子敬2女皆先翁天男名恭善嗣其業不墜家声云鳴呼痛哉
文化14年丁丑冬10月
江戸亀田興撰并書


行易は4代浜口儀兵衛で、詳細は未詳だが、当時の法蔵寺住職と大変仲がよく、自分の死後その墓は法蔵寺に建てるようにとのことであったので、浜口家の菩提寺でもなく、墓所でもなかったのだが、法蔵寺受陽軒に建碑されたのだと伝えられている。このため浜口家では同寺に田地1段を寄付している。

9  淡濃山 岩崎家墓地の墓碑
岩崎両家累世墓碑 岩崎公健撰並書
岩崎両家累世墓
岩崎重次郎
同 吉兵衛
岩崎氏其先出於甲斐源氏新羅三郎義光6世孫岩崎九郎信基為紀州牟婁郡岩崎城主信基8世孫九郎左衛門大永年中移住于在田郡東忘莊瑞農為郷士以降世系詳於家譜而祖先累世墳墓在于安樂寺境内今移之合葬于淡濃山墓地

明治34年10月裔孫公健謹識並書

0岩崎教舍墓碑岩崎公健撰嚴谷16書
教舍岩崎君之墓
君本姓野原同郡殿邨新助子為吾教信君嗣宝永5年之秋開支店于下総国銚子港君単身勇往桔掘勉励計画得其宜致我家今日之盛業者集因君之功勞而然也其履歴之詳載在家譜配丸山氏日高郡藤井邨熊野8庄司後裔丸山十兵衛女也君宝暦元年12月2日病發享年73歳于安楽寺先瑩之次今移葬于淡濃山墓地
7世孫公健識嚴谷修書
明治34年10月

0岩崎黍邱墓碑岩崎公健撰 日下部鳴鶴書
黍邱岩崎君墓
君幼字伊助諱頭忠又名修献字子紹号黍丘又柱林取分家正意君次男母同郡宮原滴邨川口利右衛門女宗家崇貞君養為嗣子冠改名善五郎尋襲家名重次郎老後称太一君弱冠統家其於家業苦心焦慮終身不怠産業之攝B販売之旅張倍寇於旧時而昭良謀於子孫其功績之大可謂我家中興之祖矣君性好風流善臨池長排諧慶2年9月25日病歿于京都
亭年60有3配同族喜十郎女塵于安楽寺先塋3次今移葬于淡濃山墓地
明治34年10月不肖公健謹識
正5位日下部東作書

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10  梧陵翁の碑について
浜口梧陵翁の生涯の事蹟やその徳行をたたえて、その歿後建てられた碑は3基ある。ひとつは嗣子勤太氏によってその碑文を勝安房(海舟)に依頼し撰文と題額の揮毫をうけたもので、これは広八幡神社境内の山手の1隅に明治26年4月に建碑された。
いまひとつは銚子において有志の人びとによって明治30年1月に同地の妙見山の1角に建てられたもので、題額はやはり勝安房で撰文は重野安繹によるものである。文意は広のものは翁の生涯の事蹟一般について述べ、銚子のものは同地にてなされた翁の功積を主としている。
いずれも翁の生涯とその厚徳を称賛したものであることには変りはない。以上2基とも実に堂々たる美事な巨碑である。もうひとつのものは碑として独立したものではなく。大正4年11月10日大正天皇より翁に対して従5位の贈位があった。それを記念して同5年に和歌山県会議員42人が、木国同友会の中西光三郎、児玉仲児らが、かねがね翁の記念碑建設の志があったのを享けついで、この機会に銅像建設計画をたて実行にとりかかりいろいろ奔走の結果、同9年4月10日に銅像除幕式を盛大に行った。場所はもとの県会議事堂構内であったが、後に市区改正工事のため和歌山城内に移された。前の和歌山NHKへの入口のあたりにあたる。この銅像は惜しい事に戦時供出のため今ではなくなってしまったが、当時として銅像の建設は和歌山県下で初めてのものであった。
台座にあった題額は、かって翁の友人で、当時唯一の生存者であった松方正義の筆である。この台座の裏側に菊地三九郎の撰文の碑文があったのである。
それで以上3つの碑文を記すことにした。

梧陵浜口君碑
枢密顧問官正3位熟1等伯爵勝安房撰文並題額
濱口成則字公興俗称儀兵衛梧陵其号也和歌山縣紀州有田郡廣村産家世邑豪族為人宏度明達博?群書喜修祖練学网抱大志廣交4方知名之士而於宇内形勢頗有所見方幕府開外交之日君語人日方今之急務在外交外交之要不能以コ威接之則不若戰而後和嘗就所知12有司謀航海外以窺其情夫諸氏皆翼贊之而慕議遷廷不果其志於是概然投袂還郷里以教養子弟為事文以道コ経済為先武則專採洋法編制銃陣屡試練習1藩然士氣漸振會紀候釐革藩政擢任参政明治4年自和歌山藩權大参事歴任驛遞正及驛遞頭復補和歌山縣大参事未幾辞官後再任同縣参事尋罷初安政中在田郡地大震海嘯廣村聚落蕩然雖水退而流離荒壞之餘人心恟恟将瀕飢餓君百方慰撫或捐私財以眠之從来廣邨田畝厚税倍于他所民恒苦之君以謂海嘯之防在設提障固不可1無之雖然居民苦重斂急于水火亦不可以不速除也今若築堤防取田圓苦名移以為其敷地則民免重斂是一舉両得之計也乃與同族吉右衛門謀白諸宮請率先以投鉅費躬自董役不日竣工腿長凡15町廣8間永為租税不輸地圖邨1時獲免2害其他治橋梁勸産業不1而足民皆コ之及縣会之興興望推君為議長復舉于同友会会長丞論政党之弊抑其輕躁之行以就於著実之歩其言諄々?縣人士由此以得定自立之根基而成自治之計畫君雖己老英气鬱勃無異于前日19年5月決然欲航欧米以遂宿志蓋其意以国会開設之期已迫欲親詢異域政治風俗以碑益国家惜其足跡僅止北米1邦而病疫于新約客館美明治20年4月21日也享年66君之学以経世有用為主安政海嘯之変暮夜忽卒人民狼損不知所出逃君命連羌巨砲皆乃出走就高處路K歩艱君火田畔米程以取明架類以免死其長于機智亦此類也余少壮與君倶学劍技爾来殆40年恍乎如一夢而君不復可見頃者令嗣勤太价人請余録君生平履歴即叙其大略如此
明治25年3月

貴族院議員 從4位勲3等   嚴谷修書
宮亀年刻


さてこの文中にみられるように年次の誤が2ヵ所あるので、碑の裏面を見ると、その正誤が刻されている。また別に倉田績による建碑に関してのいきさつを兼ねて讃が刻ざまれている。次の通りである。
航来之歳19年者17年之誤
又病歿20年者18年之誤
とあり、倉田の銘文は左の通りである。
聲之美也其感人深且遠矣哉濱口梧陵君積学施惠頭著于世世人無不欣慕也伯爵勝君撰其碑文何榮加焉碑成于東京而向至和歌山縣有田郡有志之士請之於嗣子相與協力擇高做3地以建之蓋欲報其コ也鳴呼君之得人心可以觀矣詩曰鳳凰鳴矣于彼朝陽梧陵君有為余乃為之銘曰
廣浦之上松樹鬱蒼千歳美コ豈啻1郷
明治26年4月          倉田績撰
                  池永 直書

梧陵浜口君紀コ碑
從2位勲1等伯爵勝安房題額
銚子關東要港民衆貨聚臨利根河口河多水運之利然船用風帆往往祖滯怠程自汽船会社興懋遷通交之便大開而梧陵濱口君實與有力云君名成則字公興通称儀兵衛紀伊有田郡廣邨人為邑豪族其製醤鋪在銚子因屡来往常謂国之文明富強在開運輸交通此成於協同非独力所能致也明治56年之交利根河汽船初興而皆成於他郷人手君謂以銚子之殿庶而使他人專其利非計也至14年港人相謀設立汽船会社君大贊其學拮据襄事而嚮之業之者互相競遂得失不償資用窮遣将拉?倶斃君慨然曰吾社而蹉跌則人将懲創無復協同興利者乃自奮出資数千圓止紛争圓1和厄因以解彼此並便3其後謂運滋興物産随殖沿革岸各地爾享其利焉君樂善好施常喜恤孤眠窮救助災厄而謙虚白牧毫無得色好讀書居常以文墨自撰然邁往不群之气老而愈堅将視察海外諸邦政俗航赴米国以明治18年4月21日疫於新約客館年66墓在其郷廣村伯爵勝君夙與君相識撰文表之建于廣邨性行履歴詳具而銚港人追思不己将文功コ於石就予請之因??事関銚子者保以銘曰

幕府之末  通交西洋 審形察勢 志在外航  鵬翼末展 身帰故土  育才養英  維又與武 郷罹海嘯 聚落為墟
築防修堤 民免其災 参政紀藩 屡献嘉飲 遷官驛逓 為正為頭 舉為議長 発言侃侃  同支之会 政治定見
邁往不羣 宏廣明達  老而不衰 執志堅實 歴遊海外 詢政欺風 詮衡在我 参的折衷 天不假年 中道而亡
嗟國之雋 豈特邑望

明治30年1月 正4位文学博士重野安繹撰
    正5位日下部東作書
     宮亀年銹

浜口梧陵翁銅像裏碑文 菊地三九郎撰
濱口梧陵翁名成則稱儀兵衛南紀有田廣人志气雄偉以開國進取為本領興?学築海塘先?邑民明治初為和歌山藩大参事理財振文鎮武以行新政遂拜朝旨為驛遞頭釐革郵務治和歌山縣会議長因創木國同友会矯正士風後遊米國双年66朝延推其功列士族贈從5位



11  紀国人移住碑
     碑表
     紀州旧藩主 正2位候爵 
           コ川茂承君書
銚子港原海阪1僻地而致今日之繁盛者我紀國人開創之功為多蓋ェ永正保之間紀人崎山某等来此地開漁場経営多年其業大振爾来紀人移住日月揄チ郷閭多被其利於是商工輻湊戸口繁殖遂為東海1都会矣微諸旧聞稽諸遺蹟紀人率先之功昭乎不可誣也項我木國会員相議将立石記其由追想祖先創業之艱難欲恢弘遺業以報其コ也予因叙其概略勒之碑陰云
明治36年5月
銚子木國会長    岩崎明岳撰並書


右の銚子木国会というのは、銚子は古くから紀州人によって各方面で活躍がつづけられたので、銚子に住む人たちでその祖先が紀州の人であるものたちでつくられた団体であった。そして同じ紀州人を祖先とする子孫らの親睦をはかり、業をはげもうとする趣旨で、このことを最初にいいだした人が浜口慶次(10代儀兵衛) で、これを岩崎明岳に相談し、両氏が協力していろいろ奔走会員約300余名をえたので、いよいよ創立されたもの。ときは明治31年8月であった。(1898)明岳翁が会長、副会長に浜口慶次氏がなった。その後会はますます発展し、36年に前記「紀國人移住碑」の建立となったものである。この碑は最初その敷地を妙見道字砂良神に撰定した。この地は浜口儀兵衛所有であったのを借用したのである。その後銚子町(当時)に幼稚園設立のため碑の移転が要請されたので、町費で妙見山境内に移建されたのであった。昭和2年5月のことである。
ここで銚子とわが紀州、とくに広との関係を述べる順序となるのであるが、そのことについて岩崎明岳が要領よく「紀國人移住沿革誌」なる1文を草されているので、それをそのまま転記することにし、これを機に併せて明岳翁のことも偲びたいと思う。

紀国人移住沿革誌   岩崎明岳
1、本港開創年代得て知る可からず、蓋し徳川幕府以前に在りては刻々たる寒郷僻地戸口僅少にしてわずかの漁業と農耕に依りて生計を營みしなる可し。
1、寛永(明治32年を距る276年以下之に做ふ)正保(256年)のころ、紀州有田郡広村崎山次郎右衛門浦続き漁業をなして関東筋へ下り、明暦2年(244年) 飯沼村に来り後今宮村に移り任せ網と称ゆるを始め萬治元年(242年) 高神村字外川浦を開場し、寛文元年(239年前)外川浦に移住して盛に漁業を營み地形を相して波戸場を築き以て漁船の出入碇を便にし(此波戸場今尚依然として在存。)本国より多くの漁夫を招き漁業の盛なる前古無比且商工業も亦次第に輻輳し、当時外川浦戸数千戸以上に至り次郎右衛門邸宅の壮麗豪奢を極めたりと云ふ。今に至るまで外川大繁昌と称し人口に膾炙せり。
1、其当時本国よりの漁業者は漁獲ある毎に干鱧搾粕等多くは本国に回送したりと云ふ。
1、宝暦5年(145年) の項より次第に不漁に赴き、明和5年(132年)に至り皆無の大小漁にて浦方一般に因弊し外川浦の如きは50張余の網株次第に相減じ千余戸の漁場も遂に網方23人商人67戸を余すに至り已むを得ず安永3年(126年)5月次郎右衛門外川浦を引払帰国せりといふ。
1、初代崎山治郎右衛門此地に来り明暦2年外川浦漁業開場してより安永3年同所引払ひまで凡そ120年其間初代次郎右衛門晩年帰国元禄元年(210年)78才入寂とあれば外川浦引払ひは34代目次郎右衛門なるべし。
1、鰹船は創始詳ならず正保2年(254年) 本国栖原の漁人来り其明年広湯浅網代等の者来り鰹漁をなし1艘づつ釣職を致し春来り10月中帰れりといふ。
1、今宮村寛文(239年)延宝(227年)の頃、古記に広の漁人運上の書類数通あり、鰹船の数50余艘なり。
寛文13年(227年)丑10月21日今宮村運上書写
1、鰹船51艘 此金拾貮両3分 広西之町又左衛門
1、8手船38帖 此船76艘此金9両2分物左衛門此外数通あり、湊之町茂兵衛元禄4年(207年)7月22日鰹船颱風に遭ひ404人死せりと云ふ。当時此業既に盛なりし事を知る可し。
1、鰹節はもと本国人より伝へたるものなり。然れども従前其製法拙くして販路も狭隘なりしが、文政年(82年) 中再び熊野浦より製法を伝へて改良を加へ現時の製法になつてより販路も亦拡張すと云ふ。
1、前件記載の如く吾本国人此地に移住以来率先誘導して漁業を発展し之と伴ひ農商工も亦発達輻輳し其間漁業の盛衰は免れずと雖も諸般の営業相互に助力救援して以て本港1体今日の繁栄を致すに及べり。由之観之本港の今日あるは吾本国人当初漁業を開発誘導したるの効と謂ふ可きなり。
1、其当時本国より当港に移住者幾百千人なるを詳にせず、其間絶家する者不少して今尚継続し現存して即ち木国会員たる者3百余名あり、尚今後も加会者数多有る可きなり。
1、本国の出身にして当国の戸籍に帰する者多し、其内本人別を本藩に納め出稼人別を当国領主に差出す者、廃藩前凡そ百名あり、之を両郷人別と称し旅庄屋岩崎重次郎之を支配す。
1、本人別を本藩に置くと雖当国に本住居を定むる者多し、其中に本国より支店して往来する者従前より45名に過ぎず、現今は浜口儀兵衛、岩崎重次郎両名なり。 (明治32年記)


以上の如く実に簡にして要を得ている。
(注記)銚子と紀州またわが広との関係、崎山治郎右衛門のことなどについては別項にも記述あるので参照されたい。
(参考)寛永1624〜44。正保1644〜48。明暦1655〜58。萬治1658〜61。寛文1661〜73。延宝1673〜81。元禄1688〜1703。文政1818〜30。

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12  旧3ヵ村の忠魂碑
明治に入ってから、当時の国是であった富国強兵、一言にしていえば帝国主義、軍国主義の世界的な風潮にのって、わが国も侵略戦争を行ってきた。
今ここでそのことの可否を論じるのではないが、当時の国民として政府、軍部の命に従うよりほかなく是非ないことであった。ために1身や1家をかえりみることは許されず、あわれ命を落された軍人軍属たちのために、それぞれの出身の村では忠魂をまつるにふさわしい石材を選んで立派な碑を建立して毎年祭典を行い、その霊をなぐさめたのであった。

津木村忠魂碑
上津木中村老賀八幡神社境内にあり、大正2年5月建立。世話人、軍人中、古垣内安兵衛、土井藤楠とある。

南広村忠魂碑
上中野法蔵寺境内にあり、大正4年5月建立。書は神尾将軍の筆である。

広村忠魂碑
明治39年9月建立。岩崎公健(明岳)の筆。はじめ養源寺境内、当時の広小学校運動場として借地していたところにあったが、後現在西の浜防浪堤の1角に移された。

13  谷口又吉頌徳碑
津木滝原洞南入口の横にある。昭和3年9月の建碑で、このころ滝原地区の道路が改修され、やがてそれは岩渕地区また小鶴谷方面へとつながっていくのであるが、トンネルを抜くのに多額の費用を負担せねばならず困っていたのを、谷口氏は当時としては多額の寄付金を出してその工事を成就せしめたのである。トンネルは昭和2年8月10日に完成したが、区民1同の感謝の気持を石に刻んだのである。

谷口又吉君現代之偉人也当地谷口亀蔵氏4男明治8年生少歳之于大阪努力興産為人義恵愛郷念篤曇独資建役場今又灌原洞開鑿岩潤森林組合與龍原区工費分担巨額要資区艱之君出3千円援助之爰除干古之難途得萬世之坦路区民歓喜勤石永記其徳
  昭和3年9月瀧原区建之 森兵撰書研斉刻


と自然石高さ1余に7行に彫刻してある。この谷口氏は郷里のためにしばしば金品の寄付をされ、さきに津木村役場庁舎建築の費用を負担しているし、当時津木村は僻地であったため小学生などの社会見学も思うにまかせなかったが、氏はとくに修学旅行費を全額負担して、はじめて小学生の旅行を実施することができたことなど、今になつかしく語りつがれている。この旅行は昭和3年3月京都奈良方面で、そのときは御大典の年であったの
でよけいに印象が強かったという。

14  感恩碑
広村之地西北臨于海湾遙望阿州之山姿于水森渺之間東南與隴畝相
接遠見靈嚴明神之戀峰之屹立風光絶佳南紀之1要津也怎云山
氏領当国也築城於東玄之山上号広域又構邸宅於海濱築石堤4百
余間以防風濤之美矣ェ文年間藩祖南龍公築和田之石堤長120
間幅員十有7間以便繁舟也然而宝永4年10月4日有大海嘯閭村
漂没死者3百余和田之石堤崩壞矣安永10年里正飯沼若太夫等乞
官而修築之ェ政5年4月経始享和2年10月竣役矣其後安政元年
11月5日地大震海潮洶湧死者30余名聚落蕩然将瀕饑餓浜口
梧陵翁等焦慮慰撫捐私財以賑救之又與同族東江翁相諮建白於官
投巨費而築堤防長370間高2間半堤礎幅員11間也安政2
年2月起工同5年12月竣成矣又移植松樹数百株於堤脚以欲防
海嘯之禍也鳴呼何之世莫夫変地異乎先賢為子孫所企劃如斯誰不
感荷厥恩コ乎庶幾追憶愛護先賢之偉業以可不備将来不測之災禍
 哉昭和8年5月忘村民相諮建碑勒之云爾


と刻されている。碑の裏面には左記のごとく記されている。

陸軍大臣荒木貞夫閣下題額
浜口惠璋先生撰文
辻本勝己先生書
史蹟調査員
岩崎 勝 浜口惠璋 佐々木秀雄
発起人
広村長 戸田保太郎
岩崎楠二郎  畠中太郎兵衛 戸田コ太郎
大西太郎  大西義雄 奧喜義
永井徹  上田想助 上西清次郎
上西幸太郎 上田新太郎  K津万二郎
山本庄太郎  丸山 常太郎  玄後宇一郎
藤本 弥一郎  藤本 駒吉 福島作太郎
福 惣吉 寺村柳太郎 寺村 久一
住山 亀治郎

   碑陰岩崎 勝書
     川合?斉刻


この碑を建てるにいたった詳細および広と津波の歴史その他については別項「広と津波」を参照されたい。


15  岩渕道路改修記念碑
津木岩渕地区はわが広川町でもいちばん僻陬へきす(僻地の意味)の地といわれ、昔はおのずから別天地をなしていた。現今では道路橋梁も完備して、車で通ればなんでもない時間距離になっている。しかしここまでなるには幾多の苦難を味わっている。とくに山林事業の開発や製炭業など産業面にも大影響がある道路の問題は、日常生活上にも大変なかかわりがある。だれしも人の肩にのみ頼らねばならない物資の輪送問題、歩くほかに方法もない他町村との交通など第1に解決せねばならないのは道路の改修である。いよいよ道路を改修して車の通る路にしたい念願がみのるときがきた。
しかしそのためには地区の人びとの協力が必要であり、さきがけてその衝にあたる人びとの骨折りがあった。
今では笑い話にされているが、車が通れば、今まで物資運搬にあたって小使銭をえていた人びとの副業がなくなると姑息な反対をするものを説得、あれこれと5年の期日を要したのであった。当時の丸畑村長や地区の有志の人びとの苦労が察せられる。
現在岩渕分校へ行く橋の手前の道路わきに小さな自然石の記念碑があるが、それには左のような文字が刻ざまれている。

丸畑雄治郎君良村長也多年在職声与太顯旧岩湖道路甚狹隘村民欺之君唱以整与区民謀迸委員鋭意尽力經5年曰子竣成焉茲得交通之便産業の隆亦可期也区民大悦勤碑永記其コ謂
  昭和8年4月岩渕区民建之
               寺仙懐コ撰書



16  菅谷池搨z記念碑 (池堤東側下心内小。)
搨z記念
維時昭和10年1月30日菅谷池改修ノ功成ル顧レバ明治22年ノ大水害ニ山林崩潰シ爾来土砂ノ流失激シク為ニ灌漑水ノ不足ヲ来シ区民ノ困憊10年ノ久シキニ旦ル此処ニ於テ力昭和8年時ノ山本区長杉原米吉氏発起トナリ耕地整理組合ヲ組織シ土砂ノ浚渫堤防ノ築上流失入口ノ改造等ヲ完成シ以テ将来ノ憂ヲ絶タシムリヲ得タリ之レ組合員/協力一致ニ依ルハ勿論卜モニ当局/後援モ亦其効奏ス
 総工費8千320円也
     菅谷池耕地整理組合長 杉原 米吉
     副組合長 伊豆寅藏
     会計 伊豆角太郎
         中沢貞次郎
     設計人県技師 小川熊次郎
     評議員 池田好助 北又愛之助 中沢太一 3
          湯川浅吉 數 儀太郎 森虎雄
          松井熊衛 森峰右エ門 北原常次郎


17  防浪堤補修防潮林補植記念
西ノ浜土堤耐久中学校々門への右側にあり、自然石の碑で、昭和11年3月の建立である。昭和に入ってから遂次、広湯浅湾一帯は、地盤沈下などにより大々的に護岸工事がすすめられて広の浜も面目を一新している今では遠く畠山氏が築いたといわれる防浪石堤もコンクリートで包まれてしまって、往時の石垣積みも見られなくなり、浜口梧陵の築いた大土堤も海に面した側は全部コンクリートで固められている。
広の町民はいつも、梧陵翁の遺徳をしのび感謝の気持ちを失わず、この土堤の管理に意を用い、松林の補植もつづけてきた。この碑は、もう30余年にもなるが、そのころ土堤の補修や松林への補植をしたときの紀念碑である。そのころこのあたりに桜樹なども植えた。養源寺境内から移した忠魂碑もここにあり、近くに徳本上人の名号碑や子安地蔵堂などとちょっとした小名所のたたずまいをみせる1角となっている。
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雑輯篇  その5  


広川町に関する詩歌
わが広川町の風土景観を詩や歌に詠ぜられたものを集めてみたが、案外その数は少ない。そして作者の多くは他郷の人びとである。
わが郷土には学者や文化人もあり著述や詩文を数多くのこされていても、ずばり広川町そのものについての詩歌は管見のおよぶ範囲ではたいへんすくないようである。

万葉集
大葉山霞たなびきさ夜ふけて
わが船はてむとまり知らずも


(万葉集巻7、巻9に重出。巻9には基師の歌2首とある。そのひとつ)。さて大葉山は古来から所在不明とされ、和歌山県下にありとだけ注されている。しかしわが郷土史家の間では、西広海岸にある小山、ちょっと富士山を小型にしたような山がそれだとの考えをもっている。 (おおばという地名もある)

玉葉集
紀伊国鷹島といふ所の石を文机のあたりにおきて侍りけるに書き付ける
高辨上人

われさりて後に忍ばむ人なくば
飛びてかへりね鷹島の石


(高辨は明恵上人のこと。別項参照)
この石は長径1寸8分、今も高山寺の重宝となっている。それには、我ナクテ後ニ愛セヌ人ナクバトビテ帰レネ鷹島ノ石とある。

鷹島    長塚節
鮑とる鷹の島曲をゆきしかば
手折りて来たる浜木綿の花


(節は大正5年歿。根岸派の歌人。植物短歌辞典にこの歌出る。このころはまだ鷹島にはハマユウが自生していた。)

鷹島吟行    佐藤佐太郎
笹覆ふ低き鷹島曇日の

昼しずかなる海なかにして
鷹島のなぎさのさざれしづけきを
明恵がふみし石と思はん
鷹島に覆ふ笹生をのぼらねば
なぎさの石に居りて時過ぐ


(佐藤佐太郎はアララギ派の歌人。「歩道」の主宰。この歌は昭和32年4月5日鷹島に吟遊したときの歌10首の中より。題は編者がかりにつけたもの。)

広湾泛舟追憶溪琴山人    浜口容所
碧落雲開浅浦秋  城山明月照孤舟  漁翁拳網金鱗躍  仙客臨風玉笛遒
遺躅百年懷碧社  古謡1曲?紅楼  賞心此夕美人遠 驪酒中遊澆暗愁


(容所は10代吉右衛門。耐久学舎を中学校令による中学校としその校主となる。大実業家であり、衆議員、後貴族院議員となる。大正2年12月歿。年52。溪琴は菊地海荘のこと。)

広邨八勝    石田冷雲
博橋行旅
莫是三山ト勝遊  過橋行旅映長流

詩人昔日多題壁  指點中州古碧楼
天洲松濤
汀沙潮退動珠光  水面風来暮月涼
不翅松濤聞洗耳  半天重翠染衣香
宮崎春帆
春洋風定暮潮平  水底魚龍不復驚
極目残霞抹天末  1帆乍滅1帆明
和田新
夜来風雨入園林  難奈残紅委屐痕
青藜曳処晴光好  枝枝嫩緑満溪村
井開瀑布
飛泉石上砕琳琅  老樹垂藤6月涼
碧澗禽魚有佳趣  濠梁半日欲相忘
弦潭枯木
枯木寒霏落日中  葛蘿無葉帯残紅
小禽乍蹴漣?起  林影参差潭影空
鷹洲曉嵐
江漾残輝落月含  山凝翠黛水施藍

1行白鳥?如雪  閃閃沖空破曉嵐
生石初雪
黯澹回雲欲暮天  撲窓維霰響琅然
朝来突兀フ寒日  黄葉林間露雪巓

広村途上    石田冷雲
雲陰纔駁日将残  風怒稍平樹未安
究竟詩人難着向  山如島?野郊寒

耐久中学校八勝詩    宝山裁松
施無畏寺楼花
寺在青山碧海涯  桜雲畳々護仙家
遊人旁午皆如酔  不吊明公吊落花
宮崎春帆
宮崎岬接淡洲ー  縹渺烟波景不凡
莫是三山採勝客  斜風細雨掛春帆
延坂瀑布
延坂地幽有仙趣  撲人空翠懸崖樹

訝来帝女弄天機  雪白織成4尺布
那耆湾夕照
漁歌隔水宜風調  人立橋西天女廟
俄頃電光雷雨遇  阿山1角留残照
高城秋月
秋風冷々吹毛髮  独立高城感頻発
世相親来無古今  1輪千載真如月
浄妙寺晩鐘
浄妙寺前海日春  帰帆點綴影如縫
螺鈿壇古僧空在  千古遺音付?鐘
山田原柑園
安諦橋辺冬日暄  清香美果満山村
風流何蒼轟ケ洞  趣味却存柑橘園
生石暮雪
遙天漠々霏瓊屑  黄樹層巒風景別
最是斜陽掩映時  飛鴻影没生峰雪

(裁松は宝山良雄。  明治37年2月耐久学舎に来たり、独特の教育方針をもって学校の運営にあたり、中学校令による中学校とし、その校長となり大正2年3月去る。昭和3年歿。)

淡濃山    古田詠處
雉子啼くや朝月白き淡濃山
淡濃山近辺を散歩して
人声や山見上ぐれば初桜
広川堤にて
紅葉見や先づ我が村の出口より

(詠處、広村の人、通称荘右衛門、諱は古豊。書画詩文に長じ俳句もよくした。明治39年歿71才。)

広橋    海上胤平
世の人に情けをかけし君の名を
広の川橋広く知られん

(胤平は武芸者で歌人でもあり、1時耐久社で教えた。 この歌の意は別記「広川と広橋」の項を見られたい。)

広橋    石田冷雲
博橋行旅
莫是三山趁勝遊  過橋行旅映長流
詩人昔日多題壁  指點中州古碧楼

広川白魚  今川凍光
路上にて白魚網を組み急ぐ

(凍光は佛誌「岬」主宰。とき43年早春。ところ有田郡湯浅町広川川口付近、白魚がのぼり出したので大急ぎで4ツ手網を組立てている親子がいた。と作者の自注。)

罌栗  泉松山
紀南4月米襄花  十里花開帯晩霞
行客頻旅端午雪 不知他日沢千家

広浦  同
長堤抱水圧潮風  百砂青松列湾東
可痩ス辺開海客 遍舟1葉伍群鴎


(松山、通称平兵衛、広の人、明治44年より大正5年主耐久中学校教諭、昭和28年歿72才。罌粟、罌粟花はケシのこと。)

鷹城墟    宮井橘村
往事今日非  城墟掛落暉

只春松樹外  独鳥遠飛瑞帰

(鷹城は高城のこと、橘村は名は直良、湯浅の人、天保8年歿54才。)(1837)

秋日登薬師寺、畠山氏故趾也
菊地溪琴
偶過山氏趾  風日属荒涼  蔓草封遺壘  帰雲擁山房  樵歌雑鳥哢  牛笛送残陽  無限登臨感  范文入酒腹


(有田郡誌に、この山の北に勝楽寺あり、古い寺内の坊中に薬師院あり、またこの山の南に能仁寺あり、中略、本尊薬師如来を安置せり。翁の所謂薬師寺はこの両者の中の何れをさせるか、また薬師寺は畠山氏の故趾なりとあるは何によれるか。詳かにし難し、暫く疑を存す。但し詩は高城に登りて作れるものなることは疑を容れず。とある。なお溪琴は海荘の別号である。)

井関山    道命法師
ゐせきの山をこゆとて
流れ出づる涙ばかりをさき立てゝ
井関の山をけふ越ゆる哉


(紀伊国名所図会所載、今按名蹟考にこの人熊野へまゐりし人なれば、そのときよみけるならんといへり。井関山は鹿瀬山の1名なるべし、とある。)

夫本抄
るせきの山    光俊朝臣
天の河井関の山の高ねより
月のみふねの影ぞさしこす


(初句を河内天河と心得ひがめて、るせき山を夫木抄に河内とすれども、こは天上の銀河にて、井関は即、道命がよめると同所なり。紀伊国名所図会所載。)

井関阻雨    数見知豫
離家纔数日 便抱?旬情 山林秋容老 村烟暮色横
史事青山遠  病中白髮驚  雖非異郷客 畿度計帰程

(作者は紀伊藩士大御番を勤め禄30石。弘化ころの人(1848)

庵主(いほぬし)
しゝのせにねたる夜鹿の鳴くをきゝて
増基法師

うかれけむ妻のゆかりにせの山の
名を尋ねてや鹿も鳴くらん


(紀伊名所図会にある。此歌夫木抄に経信郷家歌合、よみ人しらずとありと。「庵主」は増基法師の熊野詣の記行文。平安中期のころ)

鹿脊山    小倉美考
霧わくる鹿の脊山のうす紅葉
かのこまだらにいつかそめけむ


(紀伊国名所図会所載。作者は紀伊藩士、加納諸平、本居内遠に歌を学ぶ。)

宿鹿背山下    祇園源瑜
昨夜雨蓬沿海煙  峰廻路転上青天
江山不許還家夢  才過波濤又石泉


(源瑜は南海(号)のこと。本藩の医官、詩および書をよくする。寛延4年歿。(1751)この詩、南海集にあり。)

鹿脊    長沢伴雄
きぎすこそ春は妻恋へ秋さらば
鹿なかむ山ぞ鹿谷の山


(伴雄は安政6年(1859)歿。この歌天保11年(1840)正月から湯峰温泉へ向った紀行文中にある。)

過鹿脊     野呂隆訓
夢入梅花憶舊遊  吟装更逐冷雲流
春風可笑客衣敞  狐劍又過鹿脊岡


(隆訓は松廬と号し、儒者で「典学のかたわら南画を善くす、天保14年(1843)歿。年53。文政9年より10年余湯浅で学塾を開きこの地方の文学を盛んにした。)

藤滝   石田冷雲
飛泉石上砕琳琅  老樹垂藤6月涼
碧澗禽魚有佳趣  濠梁半日共相忘


(冷雲は栖原極楽寺第13世の住職、家塾敬業塾を開き30年間多数の門人を数える。明治18年歿。年64。)

藤滝    真狙
かけ清き底つ岩根にさゝれ水
世を夏なからくみてゝしかな


(紀伊国名所図会所載。真狙は未考。)

藤龍    野呂隆訓
柴鉄如飛巌勢横  瀑光触石湿雲生
只看百尺寒泳立 中有奔雷劈岳聲

同    同
日暮秋溪聲益雄  急端逐石捲回風
板橋与水纔3尺  人過珠跳玉砕中

靈巖寺跡    1炉庵風香
山門はいつあとかたも夏小立


(風香は紀伊藩士、美濃風の俳人、明治15年。この句紀伊国名所区会所載)

養源寺    菊地海莊
百年蒼翠1林松  松籟寂寥朝暮鐘
白馬金鞍何処去   猶聞遺老説南龍


(海荘は栖原の人、文学武技に長ず、明治2年有田郡民政局副知事。明治14年東京にて歿。年82。大正6年10月、従5位を追贈さる。)

男山焼    広井常三郎
無為にして祖父追越さん日の近き
幾重にもつくろふ壺や男山
いしぶみに祖父の名書くや秋日和


(広井氏は男山焼元祖崎山利兵衛の孫、祖父利兵衛のため建碑せんとしたときの句であるが、ことの子細は別項「男山小話」を参照されたい。題はかりに編者のつけたものである。)

なお、町内各小中学校の校歌には多かれ少なかれ土地の景観がとり入れられている。校歌は各学校の部に記載しておいた。
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戦争とわが郷土


広川町における戦歿者名簿
「戦争は他の手段をもってする政治の継続である。」 という有名な言葉があるが、戦争という行為に対してそれを肯定するか否定するかによって戦争観が相違してくるが、いずれにしても戦争より平和のほうが好ましいに決っている。
今日までにわが国も戦争によって、近代国家として栄えもしたが、またこれによって、1度は国を占領されたし領土も失った。その結果平和国家として生れ変って現在では繁栄をつづけているが、これまでくるのに約百年の間、そのときにおける国家の要請によって、1身1家をかえりみず戦の場に生命を捨てた人びと、銃後の守りに労苦を重ねてつらい生活を強いられた一般国民、その上敗戦後の混乱と苦難のかずかずと、われわれは戦争の悲惨を身をもって経験してきたのである。
ここに明治以来今日までの戦争によって直接犠牲となった人たちを追憶して、その英霊に対して心から冥福を祈りたい。

<写真を挿入 (旧広町忠魂碑)>
<写真を挿入 (旧津木村忠魂碑)>
<写真を挿入 (旧南広村忠魂碑)>

1、西南戦争
わが同胞が敵味方に分れて死斗した国内戦争で当時、西郷騒動とよばれた。
維新の元勲の1人であった西郷降盛が「征韓論」にやぶれ、いっさいの公職を辞して故郷鹿児島に帰り、私学校を経営して郷党の青少年を鍛錬していたが、九州の不平士族に擁されてついにときの政府に反旗をひるがえす結果となってしまった。明治政府は百姓町人兵だとあざけられていた徴兵制度による常備軍で、薩摩軍を討ち破ったのであった。西郷は朝敵として賊軍の汚名の下に切腹し、ここにこの乱は平定した。明治10年(1877)2月17日の挙兵、9月24日に鎮圧されるまで7ヵ月あまり続いた内乱である。
この戦いにわが郷土からも召集をうけて出征した人びとのうち7名の戦病死者をだしている。また、軍夫として従軍した人もあったらしいが詳細は今のところ不明である。

2、日清戦争
明治27、8年戦役ともよばれた。
かねてからわが政府は朝鮮(韓国)を支配下におこうとしていたが、当時すでに清国がその勢力を朝鮮にのばしていたので、清国の勢力を朝鮮からおいだそうとするために起こった近代日本最初の対外戦争であった。
明治27年(1894)7月25日、わが方から豊島沖で清国艦隊に不意討ちをかけたのにはじまり、日本陸軍は平壤付近で、清国軍の主力を撃破し、海軍は黄海海戦で大勝するなど連戦連勝であった。ついに清国は和をもとめてきたので、明治28年4月17日、下関で、日清間の講和条約を結んだ。
この戦争にわが郷土の兵士のうち1名が戦死した。なおこの戦争の結果、わが郷土にとって、台湾の守備兵として勤務中戦没された人が1名ある。

3、日露戦争
明治37、8年戦役ともいった。わが国と帝政ロシアとの間でたたかわれた戦争であるが、その遠因は日清戦争の結果にあった。朝鮮を支配下におこうとするわが国にとっては満州は重要な地であった。さきに日清戦争の勝利によって獲得した遼東半島は、ロシア、フランス、ドイツの3国干渉で清国に返還させられた。ところがロシアは清国で起こった義和団の乱の後、満州を占領し、大連、旅順(いずれも遼当半島にある)を租借して軍事施設を強化し、さらに朝鮮への勢力拡大をはかってきた。ここで日本とロシアは満州と朝鮮との制覇を争うこととなり、武力によって結着をつけることになった。
明治37年(1904)2月国交の断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、38年3月の奉天大会戦、同5月の日本海々戦にわが国はいずれも大勝利を収めた。9月になりアメリカの大統領シオドア・ルーズベルトの斡旋で休戦講和したが、この戦争はわが国にとって未曾有の大戦争であり、わが国のその後の動きに強く影響しただけではなく、世界の動きにも大きな影響をあたえたものであった。
わが国としては表面は戦争に勝ったが、この戦いで国力は消耗しつくし、銃後の国民も相当な困難にあいながら挙国一致よくそれに堪えたのであった。この戦争でわが郷土からは13名の犠牲者を出している。

4、第1次世界大戦
1914年7月から18年11月にいたる4年半継続した世界大戦。交戦国は世界の30余国におよんだ。
当時世界は帝国主義時代に入っていたが、ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ロシアの3国協商と、ドイツ、オーストリア、イタリアの3国同盟との2大陣営に分かれおたがいに1触即発の状態におかれていた。1914年6月ボスニアを訪問したオーストリアの皇太子が、セルビアの1青年の銃弾に倒れるという事件が起こった。これがきっかけになって、オーストリアはセルビアに宣戦を布告した。このときロシアはセルビアを助けて動員をはじめた。するとドイツはオーストリアを支持してロシアに宣戦を布告した。そのことは同時にフランスと戦うということになる。イギリスはまた、ドイツが作戦途上ベルギーの中立を侵したといってドイツに宣戦を布告するといった具合で、ヨーロッパをたちまち戦乱の渦中にまきこむことになってしまった。
この時わが国では、この機会にシナ(今の中国)における諸権益を有利に確保することが真の目的であったが、表面の理由として日英同盟のよしみによって参戦するとドイツに宣戦布告し、シナおよび東洋におけるドイツ勢力を一掃するためチンタオ(青島)や膠州湾およびドイツ領であった南洋諸当を占領した。
この戦争のためわが郷土から3名の戦病死者を出した。
わが国はこの戦争によって漁夫の利を占めたかっこうになり、産業は急速に伸び、輸出は増大し、とくに船舶関係は最高に景気づき、いわゆる成金時代を現出した。
この戦いをはじめ日清日露の戦争はともにわが国外で戦かわれ、いずれも大勝利を収めたが、その結果、国民のなかに、ひいて戦争はもうかるもの、日本は戦えば必ず勝つものとの夢をその心底に焼きつかせ、これに加えて明治以来青少年に軍国主義的教育を行なったことも相まって、やがては後の満州事変―日華事変―第2次世界戦争―太平洋戦争へとついにぬきさしならない泥沼へ落ちこんでいくことになった。
第1次世界大戦後は各国とも世界的な不況時代にはいり、経済恐慌の波は各方面に打寄せた。とくにアメリカの不況は、たちまちわが国の経済を危機におとしこんだ。そのうえ資本家と労働者との対立、農村の疲弊、また地主と小作人の対立激化、共産主義運動の活発化と、国内の危機不安が高まってきた。これよりさきわが国では世界大戦 不景気のうえ、大正12年の関東大震災による大損害が重なり社会経済不安はいよいよ深刻化し、今までたくわえた富の蓄積もほとんど失っていた。そこへ前記のアメリカにはじまり全世界に波及した経済恐慌のあおりである。わが政府はこの経済危機と社会不安の増大を解消する手段として、シナ大陸への進出をより積極化する方針をうちたてたのであった。
やがて満州はわが国の生命線であると称し、昭和6年9月(1931)満州事変を起こして東北3省を占領したが、戦火はさらに上海にまで飛火するにおよんだ。
昭和7年3月には満州国を建国して、その皇帝には、かつて清朝最後の皇帝であった、溥儀を推してその位につけ国政の実権はわが国がにぎった。
この満州事変後わが国は、満州及び北シナの豊富な資源と広大な市場を独占することになり産業はひとまず不況を脱し、失業者も減少し、国民の生活不安を幾分か解消したが、国際的には、日本に対する非難がはげしくなり、国際連盟は満州の実情を調査し、日本の行動は侵略であると、我が国に対して勧告してきた。
昭和8年3月わが国は、この勧告を拒絶して国際連盟を脱退したから、世界に孤立してしまった。
この間主役を演じてきた軍部(日本陸海軍の上層部、主として陸軍の高級将校ら)は、その発言力を増し、政治に公然と介入し、その行動は過激となった。また軍部の指導や助成で、右翼団体、国家主義者ら、ファシズムの勢力が増大し「国体明徴」という錦のみ旗を振りかざし、天皇を神格化し、政党政治を否認し、天皇の絶対権にかくれて国体護持の旗印のもとに国内の与論を操従し、反対派を弾圧してしまったから、政治は軍部に独断専行されるまでになった。

さきの満州国の建国によって中国人民の抗日、排日運動は益々激化し、早晩わが国と中国との激突はさけがたい情勢となっていたが、昭和12年7月、ついに日中戦争に突入した。
このとき英米は中国の蒋介石政権を支持したので、戦争は持久化し、やがて実質的には、日本対英米の戦争になってしまった。
わが国は戦時体制をとることにより、政治、経済、社会生活などすべては軍の統治下におかれた。国民生活は次第に息苦しさを加え、不自由なものになった。
ヨーロッパでは、ドイツとイタリアが、さきの第1次大戦の結果として決められていたベルサイユ体制を破棄して、ヨーロッパ新秩序の建設を旗印として、おのおの侵略外交を強行しはじめていた。
ドイツではヒットラーのひきいるナチス、イタリアではムッソリーーのひきいるファッシスト党によって、ファッシズム体制を強化して、遂に独裁国家となり、ドイツはチェコスロバキアを占領し、イタリアはエチオピヤを併合し、スペイン内乱に干渉するなど次第に大胆な侵略を押しすすめた。
ドイツは、イタリアと軍事同盟を、ソ連とは不可侵条約を結び、1939年9月、ポーランドに侵入を敢行した。これらドイツの動きに対して、英仏両国はドイツに宣戦布告したから、ここに第2次世界大戦に突入することになった。
わが国はドイツ、イタリアと3国軍事同盟を締結して、軍隊を仏印に進駐した。このわが国の動きに対して米英はますます中国を支援し、経済的圧迫を強化し、いわゆるABCD(米国、英国、中国、オランダの勢力圏を結すぶ)ラインと称するわが国を包囲する体制をととのえてきた。
わが政府は米英諸国と、外交交渉による局面の打開に努力したが、軍部は政府の国交調整に服さず、政党を解消、労働組合を解散、経済を統制、言論と思想の弾圧を強め、軍の行動や戦争遂行に対して批判する言動は1律に非国民として弾圧し、憲兵と警察による恐怖政治を布いた。
昭和16年12月8日(1941)突如日本軍はハワイの真珠湾を空襲、マレー半島に上陸して、対米英宣戦布告をした。ついでドイツ、イタリアも米国に宣戦布告をしたから、世界は、民主主義の連合軍側とファシズム側との、2大陣営に分裂して戦火を交えることになった。
軍部の独走によって起されたといってもよい戦争であったが、一般国民は、天皇の名の下に、日ましに加わる物資の不足、毎日のように来る召集令状(赤紙)、食料の供出、軍需品の調達、軍需工場への徴用など戦争遂行への協力を強いられてきた。
やがて緒戦の勝利はどこへやら、拡げられた戦線は次第におされ、前線は敗北による後退に次ぐ後退のため、ついに本土は敵機の空襲にあい、原子爆弾の投下などもあり、焦土と化し、一般国民は家を焼かれ、肉親を失い、喰うものさえ事かくという悲惨な日々を送って敗戦の日を迎えたのである。

わが広川町は直接の戦火には見まわれなかったが、征って帰らなかった人々の尊い生命は386柱に達した。この戦歿者の背後には更に多くの犠牲者のあったことは忘れてはならない。
総じて戦争の記録は、その経過や指導者や戦斗の様子などは、実にくわしく伝えられているが、その戦争のあいだ、歯を喰いしばり、銃後の苦しみに耐えてきた民衆の生活の具体的な記録は、ほとんど残されていない。
今世紀のうち2度までも世界戦争を経験したが、戦争の悲惨さ、そのむなしさ、言語に絶する苦しい生活、子を、親を、夫をと1家の大切な人を、またわが身の青春を、失った悲しい思い出も、人々の心の底に沈んでしまって忘れ去られていくのか、いや、つとめて忘れようとさえするのか。しかし時には思い出を新たにし、再びかかることをくり返すことのないことを祈りたい。
昭和20年8月15日、わが国はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をしてやっと永い悪夢からさめたのであった。帝国主義日本は崩壊し、ここに民主日本として新しく立ち直ったのであった。
ここに謹んで英霊となられた人々の氏名を列挙して、深い追悼の心を捧げるものである。(記載の氏名その他は役場台帳による)
なお附記しておきたいことは、昭和25年1月、前田の本山八幡神社に平和神社を創立し、この神社の氏子中で犠牲になられた人々の英霊を奉祀している。
総じて世の変転によって今日では遺族の居所不明などで、詳細については手落ちもあることを恐れると同時に、名も知られずに眠っている英霊のあることも想像されるが、ここに深甚の弔意を表するものである。

<以降、表を挿入>

西南の役(明治10年)
氏名  種別  戦没年月日  戰没場所
入野愛之助陸軍明治D・2.0 熊本県
0
平野 豊松 同
上野 保吉 同 10.5 38 熊本県玖磨郡
鼻郡
河隅芳之助同 05.

大野 虎楠 同
熊本票ニ侯村高P
荒木 豐吉同
肥後岩村

同同同同,同
3 14 30 30
:同広
井関
広(戦病死)

<ここまで人名表を挿入 p822〜p844>
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人物誌目録


円善上人    天台東塔院の僧釈円善。天暦元年(947)2月16日、熊野参詣の途次鹿瀬山中で歿。円善かねてより法華経6万部読誦の誓願あり、果さぬうちに客死したので、骸骨になってからも経を誦していた。養源寺ではこの僧を開祖としている。

壱叡上人    円善上人歿後骸骨になっても法華経を読誦しているのを発見したのが、ここを通りかゝり鹿瀬山中で夜をあかした壱叡上人で、ともに経を誦してその願を果たさしめ、この地に法華壇を築いた。養源寺ではこの僧を初祖としている。久安年間(1145〜51)の頃であるという。

湯浅権守宗重    湯浅氏の出自については諸説があり、紀氏、源氏、橘氏、藤原氏などといわれているが、まず藤原氏だというのが定説になっている。宗重の祖父師重が紀伊守になってこの地方に下向し、湯浅に居住したころから後は湯浅氏を称するようになった。
源平争覇の頃には、すでに相当な勢力を持つていたもようで、軍記物語などにも名が出てくる。宗重の代になって一族血縁同族が強固な結合をして湯浅党なる武士団を形成していた。その所領する所は有田郡内のほとんどを占め(宮崎庄は除く)日高や紀北の1部にまで点在していた。
宗重は初めは平家方で平清盛に重用されていたが、やがて源氏が興ってくると鎌倉方になびき源頼朝の御家人となって忠誠を誓っている。源平の転換期に、在地領主として自家保身の術をうまく心得えていたといえる。かくて宗重は武士団湯浅党の統領として、その一族は諸所の有力な土豪との通婚などによって強固な連携をはかりその子孫にいたるまで永らくその勢力を維持することが出来たのであった。湯浅氏ははじめ康治、天養の頃(1142〜45)岩崎谷(湯浅町方寸峠東方)に城し、後、湯浅青木に湯浅城を築いた。
わが広庄もその勢力下にあり、宗重の子の宗正は広ノ弥太郎と称しているところをみると、広庄との関係もうかがえる。時代は下るが末裔の1人である湯浅八郎右ヱ門宗利(明暁)は、御村上天皇勅願所として名島の能仁寺建立のときの奉行をつとめている。正平6年(1351)である。かように、湯浅一族は鎌倉時代にはすでに中央に名を知られ、南北朝時代を経るまで勢力は失わなかった。畠山氏が紀伊の守護になってからもその配下にはつかず、一族ほとんど南朝方についていた。その後南朝の遺臣による湯浅城での戦(天授元年、北朝永和元年、1375)も、同じく天授4年の楠正勝の挙兵や、永享10年(1438)鹿瀬山城での戦、文安元年(1444)義有王の挙兵などの際、湯浅1党は常に宮方に組していたが、大勢はすでに宮方には不利で敗北におわったので、湯浅1党もその栄光は終りをつげたのである。郡内には湯浅一族の裔という家が多い。

明恵    有田郡の生んだあまりにも有名な高僧である。明恵坊高弁、晩年は主として栂尾に居たので梅尾上人といわれた。父は高倉院の武者所の武人、平ノ重国、母は湯浅権守の女で、承安3年(1173)正月8日、有田郡石垣庄吉原村(金屋町大字歓喜寺)の邸で生まれ、幼名薬師、後に一郎といった。8才の正月母に死なれ、同年9月には父が上総で戦死した。9才で神護寺に入り、16才東大寺で具足戒を受け、名を成弁といった。初め密教を修め、後南都の華厳の伝統を受けその興隆をはかりその宗風を発揚し、わが国華厳の中興といわれる。仏道の研讃は精苦絶倫で、修業の態度は実践的であり最も信を重んじた。遁世の聖(ひじり)の立場をとり、僧位僧官をうけず真の清僧であった。貞安元年(1232)高山寺で歿、60才。上人とわが広川町との開係は直接的ではないが、鷹島やカルモ島で修練したし、栖原施無畏寺を開基している。
(湯浅一族48人が建立4至を施入した。) それまでも修業のため若い時からしばしば来郡しているので、精神的な影響や感化は大いにあったと想像される。特に鷹島では上人の遺徳をしのんで観音堂が建てられ、堂の浦の地名が残っている。なお、上人が鷹島でひろわれた小石は、終生座右から離さず愛玩された話は有名である。
上人は自然風流に親しみ、書をよくし、その和歌は勅撰集にも入れられ、歌集も残されている。もとより仏教に関する著述は数多く、主要なものだけでも40余、60巻余に及ぶ。また茶の種を郡内にわか ち、上人の旧里の家を「茶の木屋」と称したという伝承もある。(別項広川町の詩歌参照)

三光国済国師    名島能仁寺の開基。名は覚明、孤峰と号した。国済は後醍醐天皇、三光は後村上天皇よりそれぞれ贈られた国師号である。文永8年奥州会津で生まれ、正平16年和泉国高石の大雄寺(浜寺)で歿、年91。(1271〜1361)日高郡由良の興国寺開山法燈国師覚心の晩年の弟子であった。能仁寺は後村上天皇の勅願所で、正平6年(1351)に建立された。

聖徒明麟禅師    三光国済国師覚明の弟子である。この人の弟子が明魏耕雲和尚で、霊巌寺縁起の筆者である。

明魏耕雲和尚    南朝の重臣藤原長親、右大臣従1位、文章博士で南朝唯一の国学者であった。南北朝合一の頃明麟禅師の弟子となり、三光国済国師歿後35年を経た応永元年(1394)ごろ「霊巌寺縁起」を書いたという。

円勝法師    湯浅白方のあたりに住んだ法師で、霊夢により霊巌寺に草庵を作る。文中3年正月(1374)の頃という。霊巌寺の開基とする。

霊巌性寿上人    霊巌寺の僧で千手観音像を名草郡六十谷の法賢仏師に作らしめて霊岸寺の本尊とした。明徳元年(1390)の頃という。ちなみに、霊巌寺はいつの頃からか能仁寺の奥の院といわれてきていた。

畠山基国    室町時代の初め近畿、西中国、北九州に広大な領地をもっていた大内氏は、足利3代将軍義満に攻められて和泉堺に敗死。義満はその時の功臣畠山基国に和泉と紀州を与えた。基国が紀州の領主となったのは応永7年(1400)であった。

満家    基国の子で父と共に大内氏を討った。

持国    満家の子、以上の間に畠山氏は、有田郡内に名島城(広の高城)、鳥屋城を築いたという。高城を築くと同時に居館を広に構え海岸には4百間余の防浪石垣を築き、広は町として大いに栄えた。持国は剃髪して徳本と称し甥の政長に跡をゆずり広に住んだ。

政長    持国の弟持富の子で、持国の養子となった。

尚順    政長の子、明応年中から広に居て、剃髪してト山と号した。大永2年(1522)湯川直光に攻められて敗れ、高城は落ち、身は淡路に逃れ、その地須本(州本)光明寺で客死した。以上5代約130年にわたって広との関係が深かった。

植長    尚順の子で畠山氏はこの人の代で紀伊での勢力を失った。家督をついで紀州へ下向中に弟長継が擁立されたので、植長は根来寺あたりに流浪し、畠山の紀伊守護職はこれで最後になった。天文2年(1533)の頃である。

玉置氏    中将資盛の子資平を祖とし、寿永年中熊野に来たり、承久乱以後北条氏に属し次女に繁栄した。護良親王の通路をさまたげたのもこの子孫である。後、応仁3年頃山名陸奥守に属し、日高郡和佐村に居て代々湯川氏と争ったが、畠山植長の調停で同盟した。わが津木地区は1時その采地であった。別項「津木と玉置氏の関係」参照。

浄恵   広円光寺中興の祖。もと真言僧であったが、蓮如上人の教化により浄土真宗に改宗して現在の円光寺とした。文明8年頃(1476)と伝えられる。

釈了恵    広覚円寺(今無し)の開基。文明8年(1476)畠山氏の家臣吉田喜兵衛実景が、蓮如上人に帰依し了恵と改め道場を建てた。

明秀上人    上中野法蔵寺の開基。赤松義則の子、応永10年播州広山で生まれ、長享元年85才で加茂曽根田竹園社で歿。(1403〜1487)浄土宗西山派の高僧。法蔵寺開基の年は、寺伝では永享8年(1436)となっている。なお、もと広八幡社にあった大般若経6百巻のうち381〜390巻は、明秀の署名があり、上人の筆写ではないかといわれている。

玄幽上人    下津木広源寺の開基と伝えられ、その当時は明応2年(1493)権蔵原の山中であったという。

正了法師   (安楽寺の人々)広安楽寺の開基、俗姓平安忠、浜口左衛門太郎、始め尾張管領斯波氏の家臣、故あって高野山に登り南谷宝憧院に住み、後同院の阿弥陀仏を供奉し当地に来て、蓮如上人に帰依、法名を正了と賜わり永正6年(1509)西の浜に松崎道場を建てた。広の浜口家はその遠祖は武蔵平家で、浜口の姓を名乗った浜口四郎二郎忠宗からこの法師まですでに12代を経ているのであるが、広へ来てからの浜口家はこの人からわかれているのである。この人の子の1人が帰農して浜口家を興し、別の1人が安楽寺の法燈をついだのである。

玉龍    広安楽寺9代住職。貞享4年生まる。字は単隆、恵光と称し、求古堂と号した。学僧であり張即之流の能書家として知られ、ワラ筆を使って大字を書くのに妙を得ていた。大小乗の仏学並びに天文外学にまで通じていた。著書として和字法(国文法やアクセントの研究)幾難鉤解(儒者に対して問いかけた疑難)、入木三密総説(書道に関する研究)これは続群書類従916巻に敬聞子の名で収められている。敬聞子は玉龍の別号である。その他、仏教に関する著述書幅など多数を残している。この間、宝永津浪のために流失した堂宇再建のため武蔵下総のあたりまで遊説して資を得、元文4年には本堂を再建している。宝暦6年8月29日歿年70才(1756)。この人のことについては別項にも記述あり。
参考。安楽寺17代恵璋師はかって「紀州文化」女2巻12号昭和31年12月に、「求古堂玉龍法師」なる1文を載せられ詳論されている。

映宗    広安楽寺第10世、玉龍の嗣である。説教の上手な僧であったと伝えらる。天明5年8月7日歿80才(1785)説法備忘録1巻を残している。

堅亮    広安楽寺第11世住職、松江松専寺智善の男で、明和4年(1767)に安楽寺に入り10代映宗の嗣となった。字は造真、松巒と号した。?舎3論、法相、華厳、天台等各宗性相の学に博通する大学匠であった。
安永4年(1775)の安居で京都本願寺学林で十不2門指要鈔を90日にわたって講じたという。著書30余部80数巻あり、また当寺に居幻舎なる学塾を開き、多くの子弟に講義した。寛政9年12月27日歿、57才。(別項教育誌を参照。)
伯梁    広安楽寺12代住職、雅郷と号した。新宮長徳寺恵仲の3男で、10代堅亮の嗣となり、寛政10年(1798)住職をついだ。居幻舎で講義し、かたわら俳句をたしなみ、晩年故郷を往復した紀行文「熊野道之記」を残している。嘉永5年2月14日歿、75才(1852)。

湛浄 松湾と号した。安楽寺第13世住職。12世伯梁の嗣であったが父に先だって歿した。居幻舎の伝統をついで父とともに村塾として子弟の教育にあたった。野呂松盧について学び詩を好くした。11世堅亮の遺稿を編し、また松盧の遺稿を編さんしている。天保15年3月11日歿、32才(1844)。
大英    広安楽寺15世住職、14世大鳳の男である。少年の頃より文才あり、また横仲祥について画を学び秀才を賞せられた。や、長じて下総銚子の宝満寺で宗余乗を学んだ。幼名秀麿、松一郎。松塘と号しまた一郷道人とも称した。耐久舎で教えること数年、また舎長も兼ねていた。明治8年11月始めて広小学校が出来た時、首座教員(校長)となったが、同9年9月8日31才で歿した。北総漫筆1巻。1塵含容録2巻、松塘遺稿1巻などを著わし、絵画も残されている。

恵璋    安楽寺17世住職。翠村、又は梧陰と称した。また、はなのみね、左南斉などの別号もある。大和国室生村法円寺に生れ明治30年入寺。耐久社、耐久中学校と長らく教授した。仏教大辞彙編さんの大事業に従事した。仏教に関する編著は多数にのぼる。また郷土史家として後進を指導し、広川町誌編さん委員長として委員1同の嚮導星であったが、昭和41年10月7日93才で歿。なお、寺院の部参照。

恵琳    恵璋の嗣であったが仏教大学在学中病歿、幼少より勤勉、人々からその才を惜しまれた。幻の蓮華1巻、泡沫集1巻を残している。絵も上手であった。大正12年6月13日歿。23才。

崎山飛弾守家正    崎山氏は湯浅氏の1門で、本家は田殿荘の地頭、分家が上中野方面を領してここに館した。この崎山飛弾守は畠山氏の家臣であり、日高郡萩原東光寺にも館があった。大永2年9月18日(1522)三好義長(永とも)が、日高由良荘横浜に上陸侵入したときこれと合戦した。後、湯川直春に属して、湯浅の白樫氏とも戦ったという。上中野には崎山氏居城跡という妙見森がある。なお、別項「地名が語る中世広荘土豪群像」を参照。

池永五郎右衛門  額田 某  石川 某    右3人をあげて、己下3人広浦畠山卜山の被官。と「ますほのすゝき」(南紀徳川史所収)に載せている。当地の伝承によると、池永氏はその子孫が現存。軍忠状の写しを所持されている由。また、石川氏の子孫も現存されている。額田某とあるのは甚三郎のことで、高城陥落の際ふみ止まり奮戦して死亡、高城東の丸のあたりを甚三郎の壇と伝えられている。

教意    広正覚寺の開基。本願寺実如上人より方便法身画像を授けられ、現在の天王辺に道場を建てた。大永4年(1524)の頃と伝えられる。

妙西尼    唐尾善照寺の開基。足利義晴の家臣祐善の女で、故あって尼となりこの寺を開基した。享禄元年(1528)という。

北股大右衛門    「ますほのすゝき」に、天文中(1532〜1554)湯川直光の勇士、有田広浦の人。とある。

湯川光春、直光、直春    日高郡地方を中心として南紀一帯にかけての有力な地方土豪で、その祖は甲斐源氏武田氏であるという。紀州へ来てから湯川姓を名乗り幾代か経て光春の代になって特に勇名がひびいた。世々日高亀山城に居た。光春は初め政春と名乗っていた。直光、直春となって小松原に館した。直光は永禄5年5月(1562)泉州久米田高屋城で畠山高政に味方して三好実休とたたかって討死し、その子直春は天正年中豊臣氏南征の際頑強に抗戦、後、和睦してから大和郡山に誘い出されてそこで毒殺された(天正14年1586)。
これよりさき直光は大永2年(1522)広に居た畠山尚順(ト山)の高城を攻め落とした。大永から天文にかけて広を併合領していたのである。広の町割をしたのは湯川氏だと伝えられ、広の御殿跡(今は堤防の下になっている浜田の北端のあたり)は、湯川居館であったといわれている。
能仁寺に水田を寄進したり(大永2年3月)、広八幡社とも関係があるし、釈迦神主(竹中氏)家には天文5年(1536)に直光から与えられた水利に関する古文書も残っている。また、西広鳥羽家には政春(光春)が与えた安堵状(写し)文明5年7月(1473)の文書もある。湯川氏と広及びその近隣との関係は相当深いものがあったことがうかがえる。現在も日高地方から広へかけて、湯川一族の末という家筋がかなりあるようである。

雑賀孫右衛門    雑賀孫市の甥であるという。浪人してこの地に来たり、現在の殿の正法寺を建立した。天正15年(1587)の頃であるという。

浅野左京大夫幸長    慶長5年(1600)紀伊国に封ぜらる。慶長18年。国中の検地をする。天正兵火による寺社等の復興をはかる。わが地方にては、広八幡社に社領10石を上中野法蔵寺に寺領7石を寄せ、また鹿瀬荘司の再興のため、鹿瀬六郎太夫家を創設せしめなどした。

浅野但馬守長晟    幸長の弟、慶長18年兄の歿後、封をついだ。元和5年(1619)封を安芸国に移された。このとき紀州の土豪でこれに従って行った者も多かったという。 (同年南龍公入国。以後紀伊国は徳川家の領となる。)

紀州徳川家のこと    徳川頼宣(南龍公)以来代々の藩主については別項「紀州の殿さん」参照。

有伝上人    その先は宇多源氏佐々木の分脈である竹中半弥の庶子という、広村宇田に生まれた。僧となり、湯浅深専寺8世の住職となる。現在の広川はもと名島から宇田の南方(広東町)をかすめて養源寺附近に流れていたのを、有伝は高城城趾の西麓に残る塹壕に流路をかえて湯浅寄りの川筋に変更した。かくて旧広川原を美田にかえたのである。院の馬場に残る小流は昔の広川であった。 この工事は慶長6年(1601)竣工。当時の国主浅野氏より深専寺に寺領として3石を寄進され、徳川氏が入国してからも寺領として再確認された。元和2年6月7日(1619)歿。

覚言    上中野法蔵寺及広八幡社の境内社地を寄進したとつたえられる当地方の土豪。別項「覚言は梅本氏か竹中氏か」を参照されたい。

津守浄道    この人も覚言と同じく法蔵寺や広八幡社と関係深い人物である。これも別項「津守浄道とその子採及びわが郷土の伝承」を参照されたい。

刑部太夫    広教専寺のもとである「源太夫道場」を建てた人と伝えらる。承応3年(1654)である。但し寺伝では開基は元和寛永の頃(1615?44)といわれている。


西浜口家    初代浜口儀兵衛 名は知直、元禄13年(1700)銚子に店を開き初代儀兵衛を称した。享保7年4月1日(1722)歿した。また別伝では正保2年(1645)すでに銚子方面に進出、荒野村で醤油醸造を始めたともいう。

2代浜口儀兵衛 名は盛房、橋本金十郎の子であるが、入って養子となり、2代をついだ。宝暦3年9月4日歿した。(1753)

3代浜口儀兵衛    名は寛命、幅彦三郎の子であるが入家し家をついだ。幕府御用商人となり、宝暦12年(1762)地士を仰付けられ郷士となった。明和9年7月18日歿(1772) (なお浜口家は以後代々地士相続を許されている。)

4代浜口儀兵衛    名は教表、安六と号した。家をついで40年。その間関東を往来して家業に精励した。文化14年3月25日70才で歿した。(1817) この人の墓碑が中野法蔵寺にあり、亀田鵬斉の撰文并書で、その文中によく人となりを記している。別項参照。

5代浜口儀兵衛    4代教表の長男、名は恭、灌圃と号した。文化3年9月家をつぎ関東と往来した。天保2年7月隠居して山平と称した。野呂介石について絵を学び南画をよくした。居室を建てて風信亭と云い、また庭に梧桐を植え泉石を築き碧梧亭と名づけた。人格高潔でかつ風流人であった。天保8年10月4日歿60才。(1837)梧陵の祖父で彼に大きな感化をあたえたという。

6代浜口儀兵衛    名は幹、保平と号した。嘉永6年4月13日歿、梧陵の叔父であり養父である。

7代浜口儀兵衛    名は成則、梧陵と号した。分家浜口七右衛門の長子であったが本家の嗣となった。梧陵は2才のとき父に逝かれ、12才で本家に入り、5才で元服。20才で結婚。幕末世情騒然たるとき自らを修め、ひろく天下の名士と交わり、宇内の大勢に通じて、家業を振興しつつ、憂国の志士として大活躍をするのである。梧陵のことは別項に幾度も登場するし、その1代の偉業は歿後建てられた碑文にも説かれているので参照されたい。ここでは重要事項と思わるものを覚書き風に列挙するにとどめる。
嘉永4年32才広村崇義団を起す。
嘉永5年33才田町稽古場を開き青年子弟を教育する(耐久社の創まり)。
嘉永6年34才3月儀兵衛と改名家督をつぐ。
安政元年35才11月広村に津浪来襲被害甚大。全力をあげて救済に従う。
安政2年36才津浪被害救済事業を継続。また浦組を組織し調練をする。
安政6年40才種痘館再興のため金3百両を寄附する。
明治元年49才正月29日藩政改革に際し抜擢せられて勘定奉行となる。
明治2年50才正月孔雀之間席並に参政。
2月大広間席学習館知事にそれぞれ仰付。
8月有田郡民政知局事を仰付。
10月名草郡民政知局事兼被仰付。
11月和歌山藩少参事に任ぜられる。
明治3年51才家業を嗣子幸三郎に譲り之より梧陵と通称する。
2月松坂民政局長となる。
12月和歌山藩権大参事となる。
明治4年52才7月駅逓正に任ず。8月駅逓頭に任ず。同月和歌山県大参事に任ず。
明治13年61才県会開設と共に最初の和歌山県会議長に当選する。
明治15年63才木国同友会を組織する。
明治17年65才5月30日横浜出帆渡米する。
明治18年66才4月21日米国ニューヨークで客死する。5月28日遺骸横浜に到着。3日の後広村に帰り、6月14日西の浜で葬儀執行。
大正4年11月10日贈従5位。
大正9年4月10日和歌山県会議事堂構内に梧陵銅像建設除幕。
昭和13年12月14日梧陵墓、国指定の史蹟となる。彼の築いた堤防も同様指定。
昭和42年1月31日広川町耐久中学校々庭に梧陵翁銅像を建設する。

8代浜口儀兵衛    山中善一の男を梧陵の子ミチに配し、8代儀兵衛とする。号を悟荘という。明治20年9月21日歿。

9代浜口儀兵衛名    名は勤太、梧圃と号した。梧陵の孫である。性来あまり健康ではなかった。昭和29年12月1日歿。年84才。

10代浜口儀兵衛    幼名慶次、梧洞と号した。銚子木国会の創立者の1人。大正14年より昭和7年貴族院議員に7年より14年再度当選、国政につくす。晩年絵を学びこれを好くした。回顧7年、再回顧7年の著あり、9代の弟であり同じく梧陵の孫にあたる。昭和37年1月31日89才で歿。

浜口檐    梧陵の末子である。英国ケンブリッヂ大学を卒業、衆議院議員。キリンビール重役。ケンブリッヂ在学中ロンドン日本協会で行なった「日本歴史上の顕著なる婦人」と題する講演は多大な感銘をあたえた。この時のエピソードとして起った梧陵と櫓の関係が父子であることを知った英人聴講者に予想外な爆発的感情をもたらしたことも有名である。(別項津浪に関する記事参照。)また常に郷里のために物心両面の配慮を忘れなかった。富有柿の苗木数千本を無償で配布したり、農家にビール麦の栽培をすゝめたりしたことも語り草となっている。昭和14年。年68才。

浜口梧舟    名は彰太、9代儀兵衛(梧圃)の子。8才のとき広の本邸の火災にあい(明治42年9月9日)銚子にうつり、そこで修学、後、日本勧業銀行に勤務、家業ヤマサ醤油会社取締役。かたわら文筆に親しみまた絵を好くした。梧舟遺稿がある。昭和19年、41才歿。

東浜口家    初代流口吉右衛門  幼名忠豊、安太夫と名乗る。法号は教清。正保2年(1645)江戸日本橋小網町に進出「屋号、広屋」なる店を開き、海産物醤油などの問屋を始めた。また延宝の頃(1673〜1680)銚子荒野村で醤油作りもした。宝永大地震津波の際、広の家は一切を流失其後広仲町に新築、東浜口家の本宅である。宝永5年(1708)6月27日歿。

2代浜口吉右衛門    名は忠泰、家業に専念、妻を亡くして独身で終り、上野山十太夫正重の子正勝を養子とする。享保16年(1731)6月3日歿。

3代浜口吉右衛門    養父忠泰に従って銚子で醤油作りをすると同時に、江戸の「広屋」を経営した。宝暦10年(1760)幕府御用商人となる。同12年地士を仰付けられ郷士となった。天明元年(1871)9月13日歿、86才。正勝はまた性詣の法号をもち、若くより参禅して大悟するところがあったという。「夜暁烏」2巻を遺している。(この人以後代々地士相続を許されている。)

4代浜口吉右衛門    名は肥矩。鹿瀬六郎太夫源正矩の子であるが、正勝の養子となって4代目をつぐ。広屋を隆盛に導くため、実に寝食を忘れて精励した。天明7年(1787)4月18日70才で歿。

5代浜口吉右衛門    名は吉慈、辻堂村御前源五郎光重の子で、先代肥矩の弟分となり、5代目を継いだ。享和3年(1803)8月9日歿、年56才。

6代浜口吉右衛門    名は矩美、4代目肥矩の実子で、5代目吉慈の死後6代目をついだ。広仲町の家の本座敷を建てた。文化12年(1815)に御勘定奉行直支配となり、年頭御目見え節熨目着用御免となる。嘉永4年(1851)1月4日87才で歿。

7代浜口吉右衛門    (東江)幼名友次郎、茂助といい、号して東江。宮原村滝川喜太夫吉寛の3男、養子に入り7代目を継いだ。例の安政大地震津浪(1855)の際、西浜口7代儀兵衛(梧陵)と力をあわせその復旧に努力した。嘉永5年(1852)梧陵、明岳(岩崎)と3人が中心となって耐久舎のもとを起したのは有名である。余暇に俳句をたしなんだ。明治7年(1874)9月29日74才で歿。

8代浜口吉右衛門    名は吉兵衛、熊岳と号した。大橋兵次郎の2男で養子となり8代目を継いだ。幕末から明治へかけての変動期に広屋の経営に大活躍した人である。明治31年(1898)8月4日歿。64才。

9代浜口吉右衛門(容所)    名は貞之助。幼名は勝之助といった。容所は号である。文久2年5月16日父熊岳の2男として広で生れたが、長子は1才に満たず亡くなったので、長男として育てられた。9才で江戸に出、漢学塾にて学び、後、慶応義塾で洋学を修め、家業に従事、大いに商才を発揮した。その関係、また経営した会社銀行など十指にあまり、各々隆昌発展せしめた。政治家としても大いに活躍し、衆議員議員となり、晩年は貴族院議員に選出された。その間、欧米満鮮を視察し、また余暇に詩、書、画に親しんだがいずれも専問家に比肩する技能を発揮した。また明治以来の山林の濫伐を憂えて模範林を造成して地方民を啓発し、津木、南広に大植林を経営した。現在の東浜植林K・K・の基をきずいた。加えて耐久学舎の経営には父祖の遺業を継承して自ら舎長となり、巨費を投じて学舎の組織を変更して中学校令による私立耐久中学校とし新進の宝山校長を聘し、自ら校主となり真美健の校訓を定め全国まれに見る特色ある学舎とした。大正2年(1913)12月11日歿。52才。・従6位。著書、書画を多く遺した。「容所遺韻」は歿後編さんされたもの。時の人「其業則商、其志則士、蓋非誤言也」と評した。辞世として 「夏すぎてわが身の秋は来たりけり また来ん春は花の浄土で」 と伝えられている。

10代浜口吉右衛門    名は乾太郎、無悶と号した。容所の長男で10代目を継いだ。早稲田専門学校からアメリカへ留学した。日頃あまり健康に恵まれず家業も消極的な経営になったが、青年教育には熱心であった。大正9年時勢を考え私立耐久中学校の敷地校舎附属一切に多額の金額を寄附して県に移管、県立耐久中学校とした。昭和20年3月3日63で歿。

中浜口家    6代浜口儀兵衛の男であった貞三は生来病弱であったので、家を継がずに隠居した。(それで分家の3代七右衛門家から入家して7代儀兵衛となったのが梧陵である)。隠居したといっても別に1家をなして中浜口家の初代となったわけである。

浜口八五    貞三、要助、寿と3代を経てその子にあたる。明治16年生。当時の東京高等商業(東京商科大学)を卒えて、鐘紡に入社した。しかしやがて父、寿の懇請で帰郷して家政をみた。その間耐久社でも教え、また推されて広村長をつとめて治積をあげた。大正池を造ったのもその1つである。村長を辞してから、大阪で大いに商業を営んだ。晩年はあまり表面には出なかったが土地の名士として重きをなしていた。昭和34年7月29日歿。77才。なお父君寿は当時の広の俳人であった。

後 平次    続風土記に記載されている旧家。このことに関連したことは寺院部の白井原薬師堂の項を参照されたい。

不動院弁昌    (附良宥のこと)もと宇田(広東町)に居た山伏といわれ、その頃荒廃してしまっていた湯浅満願寺跡に1宇を建立して満願寺号を継承した。(寛文12年1672頃)この人の弟子で良宥というのが高野山に登り、ついに金剛峰寺の管長276代検校法印大和尚位にまでなった。そして正徳4年9月16日(1714)に広八幡宮に白銀3貫目を祠堂のため寄附している。良宥は吉原村の人で辨昌の弟子であったのである。

崎山次郎右衛門(初代)  名は安久、日高郡東光寺長尾城主崎山飛弾入道西宝の末である。父安長の長男として広仲町で生まれた。銚子外川浦開発者。郷国から多くの漁夫をよび漁業海運を営み巨富を積んだ。延宝3年(1675)65才で広に帰り、覚円寺で念仏を修し、剃髪して教甫といった。元禄元年(1688)78オで歿。(この人に関しては、別項でも述べる。)

日寛    広養深寺19世。有名な出世大黒天に帰依した吉宗(将軍)の命で国家の永昌を祈願。正徳元年(1711)現在の地を賜わり、養源寺を興した僧である。(養源寺の項参照。)

天王道栄大徳    池ノ上法専寺の開基。元禄16年歿(1703)。

初代岩崎重次郎    岩崎家は広村の名家、世々醸醤を家業とし屋号を「きびわら」といった。宝永5年秋(1708)銚子の荒野村に支店を開き、ヤマジュウ醤油として有名であった。銚子に於ての初代を重次郎とする。教舎と号した。宝暦元年12月2日(1751)73才で歿。なお、銚子で岩崎家は明治維新まで、紀州と銚子とに籍をもち両方の藩主に納税する「両郷人別」の旅庄屋をつとめた。

岩崎黍丘    分家である岩崎正意の次男で、宗家をつぎ重次郎を襲名した。幕末頃の当主であった。家業を振興する余暇に俳句をたしなんだ。慶応2年(1866)9月15日京都で歿。63才。黍丘(邸とも)は号で、名は修猷、幼名伊助、太一と称した。交友多く文化人であり、書を善くした。広八幡神社舞台に掲げている広浦社中奉納の4季混題発句集は彼の筆である。歿後、追悼句集桂剣集が編集されている。

岩崎明岳    幼名伝五郎、湯浅赤桐家より入り岩崎家をつぎ重次郎を襲名した。明岳は号であるが公健とも称した。商才に長じ家業を振興した。また漢学の造詣深く且つ武技に長じ、浜口東江、浜口梧陵と耐久社のもとになる広村田町稽古場を開き、安政の津波後、梧陵の防浪堤築造を東江ともども援助した。また一方では文化趣味人で、茶道に親しみ、書を好くし、書画の鑑識眼高く、刀剣とともにその蔵することも多く、有名であった。大正3年3月5日歿、85。

岩崎静斉    明岳の長子、安政6年(1859)広で生まれ、上京して学に励み慶応義塾卒業後家業につとめ醤油醸造を改良し、また商業全般について進運をはかり、銚子町の公共事業にも尽瘁した。第1回衆議院議員にも当選したが、年歯僅かに33才で東京の客舎で歿した。明治23年8月5日であった。静斉は号。名は含章といったが重次郎と称していた。父明岳とともに耐久社のために尽したようであるが、若くて亡くなった。(附言、岩崎家の祖のことなどについては、淡濃山にある同家の墓地に「岩崎両家累世墓に詳しく刻されている。別項参照)。

伊藤只八    正徳年間広村で医を開業(1711〜16)。もと須谷村の人であるという。詳細不明。(広八幡文書御用御達旨に名が出ている。)

法印権大僧都快詠    明王院の僧、広八幡社僧、大和国の人、藩主南龍公の請によって和歌山有本栗林八幡社の別当になり、明王院の名をうつしてそこの開基となった。貞享2年(1685)歿。

法印大僧都快円    広上中野梅本氏の出で、明王院及広八幡社 の修復や復旧に力をそそいだ。藩主の帰依も深かった。明王院中興の僧である。元禄13年(1700)歿。

宣職房慶詠    仙光寺薬師院中興の僧。殿村杉本氏の出。在住39年に及び寺の再建に力をつくした。享保2年歿。年74。(1717)薬師院は明王院とならんで広八幡社僧であった。

玄秀    唐尾善照寺第3世住職。学僧であった。阿弥陀経疏鈔引文2巻(元禄2年5月)を残している。寛保3年(1743)10月19日歿。

法入    広神宮寺(今無し)を那賀郡畑毛村より移した僧。能仁寺の弟子であった。宝暦4年(1754)の頃である。

長混    広の人、俗姓松永宗弼、北溟子と号した。9才で江戸に出て儒を学び英才で聞えた。山城越智氏に仕えて250石を給せられたが、やがて仏門に入り修業、?年下総国香取根本寺に行った。安永9年(1780)9月21日83才で歿。北溟集2巻を残した。

岩崎久重    南金屋の人。寛政の始め頃(1789)砂糖製法を研究し、その精製に成功した。(別項「白砂糖の元祖とその子孫」を参照。)

華鏡井燕志    広の俳人、天明8年3月10日より25日にかけて熊野旅行の記である「浜ゆふの記」を残している。この人の詳細今未考。
此葉女    桂花園此葉という広の俳人、天明8年3月和歌山の宗匠松尾槐亭の口添えで、萍左坊という俳人と共に花の芳野に遊び、その紀行俳句集「市女笠」を残している。その外今の所不明。(広は天明年間(1781〜89)頃から俳句が盛んであった。)

方池軒桃之    岩崎武矩、幼名徳之助、後、新助、天明2年、4代藤助と称した。俳人で広中町に住む。朝倉桃華庵(紀伊藩士で俳人、和歌山の宗匠)の門人であった。自らも門人を相当もっていたようである。天明8年8年6月19日歿(1788)寛政2年6月、3回忌にあたり彼の門人中の長老十善庵素考が編した追善句集「窓の明」を残している。また、妻は、里葉ひでと云い、桃之の嗣は岩崎東洞と云い、ともども当時広においての俳人であった。

湯川直敬    名は良助、通称藤之右衛門。父の直方は湯浅組(広湯浅)の大庄屋になったが、(広から大庄屋が出たのは貞享の年に板原彦太夫がなってから69年振りで、広へまわってきた。)直敬は父の?年代役をつとめていたがその死後明和7年12月まで大庄屋をつとめた。役目御免の後、広八幡記録を調製した。寛政7年8月27日歿60才(1795)。

湯川直好    湯川良助(直敬)の養子で、岩崎藤助武矩の2男である。通称小兵衛といった。養父の編した八幡記録を増補して乾坤2冊本として神庫に納入した。文化4年5月27日歿50才。(1807)
(八幡記録はあらゆる古文書、古記録を整理したもので、よく整頓完備した神社史である。実に湯川父子の労作である。)

吐英    橘林堂ともいう、製墨家である。どこの人かいつ歿したか不明。湯浅で藤白墨を製作して有名であった橋本家の職人であったが、独立して広で製墨をはじめたという。彼の残した製品を見るとその形や墨色は美事なものである。(別項広の製墨を参照されたい。天保末期の頃と推定される。(1843頃)また相当学識もあり俳句をよくした。)

霊応    上津木中村藤滝にあった念仏堂の僧。天保年間の人と推定。別項、「町内に残る徳本上人名号碑」参照。

板原万寿    広村の医者であり、漢詩人として名があった。万寿は名で、字は忠美、赤水と号した。本姓は竹中氏である。地方文書に「竹中万寿医業出精難渋人二施薬奇特成取斗御代官御支配申付」と文政5年(1822)の記載があり、また同11年に「医師竹中万寿養家ノ姓板原ト改名ス」とも出ている。
当時湯浅にあった漢詩人の集団「古碧吟社(も広久旅館の雅名)」の同人で、古碧吟社小稿や。統南紀風雅集などにその詩が載っている。嘉永5年(1852)沒78才。

小谷政信    広村の人、通称一郎。安政2年正月に築浪忘れ草1巻を著している。其の他のことは未考。

海上六郎    名は胤平、千葉県の人。北辰1刀流武者修業の途、嘉永6年(1853)1月当地方に来て耐久舎初期の頃の剣道指南役をして広に住む。加納諸平に学び歌学を修め1家をなしていた。歌集推園詠草3冊がある。紀州に関する歌が多い。書も上手であった。安政4年(1857)1月ごろ再び武者修業のためとて九州方面へ去った。(この間の事情については別項「旧制耐久中学校沿革中の浜口梧洞の講演参照)

橋本柑園    名は秀、字は君実、通称忠次郎柑園は号。広の名家。漢詩をよくし古碧吟社の同人である。万延元年6月8日(1860)歿57才。かって長崎で購ったという明版21史は梧陵文庫におさまっている。この人の遺稿は甚だ少なく現在のところ「江南竹枝」(漢詩集弘化3年刊)の序文の1紙と安楽寺に蔵する7絶書蹟1幅ぐらいだという。

小野石斉    長州の人であるが、梧陵が田町稽古場を開いたとき、緒方洪庵に依頼して教師を求めたとき洪庵のすすめで広へ来た人である。医者であり蘭学者であった。広で医業の傍教育のことに従事した。文久3年(1863)広を去り明治42年東京で80有余で歿したという。

土屋政吉    光川亭、仙馬の別名がある。南紀男山焼の陶工絵付師で優れた作品を残している。もと日高郡の人、本姓は塩谷といったという。家すこぶる貧しく、6、7才頃から路傍で画をかき母を養ったと伝えられる。
崎山利兵衛に救われてやがて男山焼第1の名工となった。土屋をわけて十一屋(といちゃ)と称していた。男山の窯が廃して後、所々で陶器を製したりしたが晩年湯浅で住み明治20年9月19日歿78才。

黄仲祥    山陰出雲の人、横山仲祥が本名、広川町の人ではないが、安政5、6年頃から明治4年頃まで浜口家に居て梧陵翁に敬愛せられた。耐久中学校に掲げられている広川町山水園は鳥瞰的に画かれている記念すべきものを残している。この絵は辛未(明治4年)孟春、雪晴園と題している。明治13年東京にて歿68才。なお、安楽寺松塘(大英)もこの人に画を学んだ。

吉田瑞廉    今は無い広覚円寺第11世住職、第10世瑞成の嗣であった。明治33年7月19日歿69才。暗夜燈炬3巻を残している。 (説教材料集である。)

堀端審瑞    名は年明、大正期のころ山本光明寺の住職であった。布教に力を入れ、「光明」という雑誌を刊行、また善恵房証空1巻、戯曲西山上人1巻を大正15年に出版している。

佐々木光全    西広法昌寺住職、蘆葉と号した。大正から昭和の初期へかけて20年間ばかり在院していた。生の泉1巻、菩薩のつどい1巻。6道を超ゆるもの1巻など昭和7年に出版。また観経特異論1巻。5重相伝勤誠・1巻を昭和9年に出版している。

崎山利兵衛    南紀男山焼創始者、井関の人。製陶に独特の技術を発揮、男山焼の名は大いに世に知られた。寛政9年(1797)に生まれ、明治8年3月29日歿、79才。(ことの詳細は別項「男山小話」を参照。)

久保源右衛門    屋号を土佐屋と云い広の大商家であった。明治13年より広村の戸長をつとめ町の発展に力をそそぎ、当時広は船付き場で商品の集散地であったのでその方面で活躍した。なお彼は社会教化や奉仕事業に対し意を用い、特に当時の東町の還境改善や教化に協力を惜しまなかった。晩年実子も養子も相ついで歿したので、全財産をあげて上記の事業に専念した。
今彼が造った下河原旧墓地に遺徳をしのぶ頌徳碑が建てられ常に香華が絶えない。昭和12年の盂蘭盆に地区の人々が建碑したものである。(別項「明治の話題から」参照)

細谷養安    津木村の医家。明治初年から15、6年頃まで医療に従事、その傍ら、寺小屋を開いていたともいう。他国の人だったというが詳細不明。(教育誌参照)

佐々木雪崖    広八幡神社々掌之弟也。名載綱とあるが、今の所詳細は未考。明治中期頃までの人と思われる。栖原の医家で漢詩人であった垣内己山の遺稿7巻を編集している。

古田信堂    名は致貞、通称庄右衛門、古田味処の嗣である。文人画を好み又詩文を好くした。明治32年3月より35年10月まで広村々長を勤めた。晩年和歌山市ついで大阪天王寺区に居を移し、大正11年9月10日歿62才。詩文稿、雑記1巻を残している。

山田松玄    広で開業したが明治34年湯浅へ移った。この人のことは別項「白砂糖の元祖とその子孫」を参照。

古田咏処    広の名家、屋号を井関屋といった。代々庄右衛門。諱は古豊、味処は号、又自適斉ともいう。家は世々醸醤。咏処は栖原垣内己山の3男で、長じて古田家の嗣となる。家業の余暇書画詩文俳句をたしなんだ。
広湯浅に門人が多かった。明治39年10月25日歿71才。還暦記念の自適集1巻。自叙伝の咏処山人夢物語り。安政の津波の実況を書いた安政聞録。歿後門人等が編した「おもいで草」などある。安政聞録中にある津波の実況を画いた絵は真を写していて有名である。この本は稿本で広養源寺に納められている。

渋谷伝八    明治初年から末期ごろへかけての広の事業家で、時代の移り変りのはげしい最中に種々な事業を手がけた人で、しかもそれは自己の利益のみではなく、ひろく地域の発展に心がけた人であった。渋谷家は屋号をナゴヤといったので、名古屋伝八と称していた。父の吉兵衛は梧陵翁の友人(寺朋輩)であった関係で、伝八は梧陵翁から庇護を受け、また常に激励されていた。彼が中心となりまたは関係した事業は、広商会を設立し頼母子金融から銀行事業。広浦へ定期汽船をつけた運動、崎山利兵衛晩年から死後へかけての男山焼の復興。道路の新設改修。この主なものは広から殿へかけての道路(それまで広の市場へ着いた人も荷物も広橋まで行って旧熊野街道柳瀬から殿へ出た。)このとき井関橋をかけて通行税を徴集、俗に1銭橋といった。ただし南広村住民からは取らなかった。現清水町の5村や粟生で水車で製材業をし、また緞通織を初めたり、弟善七がした牧牛事業を援け、旅人宿を経営したり、市場の破戸の破損を独力で完成。この時梧陵翁から当時としては珍らしかった霜降りの毛布をもらった。また特記すべきことは、彼はわが国で始めてミカン水(ジュース)を製造して大阪方面にまで売り出したが、その頃としては無理はなかったが、防腐の方法と容器の問題で結果としては不成功だった。しかし、時代にさきがけた事業としてミカン加工事業史上その道の専間家から重視されている。(明治27、8年日清戦後のこと)ともかく新しいことに着眼した人であった。彼はまた明治42年に、公表はしなかったが、「夏の夜がたり」と題する「広村郷土史」を書いている。(なお彼の母は眼医者をしていたという)。明治43年10月24日歿70才。(別項牛談議あれこれ参照)

橘 良庵  雷庵    広村の医家。先は田辺安藤家の医師で良龍と云い後広村へ来た。良龍の娘に迎えた婿が良庵。長崎で種痘接種を学び帰郷して種痘をひろめた。紀伊藩の医師松本燐庵に招かれその代診登城もした。子がなく養子雷庵が業をついだ。雷庵は大正4年7月67才で歿し、医業はこの人で終った。この娘マツ工は産婆を開業。昭和43年3月76才で歿した。雷庵は明治33年湯浅でペスト流行の時大活躍、当時の湯浅町長池永右馬太郎から特別な感謝状をおくられている。明治32年広小学校増築の際その費を援け、日露戦争の時は従軍家族を慰問し、また他郷であっても災害などを聞けば金品を送ったり慈善家としても聞えた人で、時の知事からも表彰された。

吉村英徴    和歌山菅沼家の第2子、17才で吉村家を継いだ。広の人ではないが、梧陵翁のすすめで広村で明治14年病院を開いた。当時の郡医を命ぜられ治療防疫に活躍した。32年湯浅に移った。郡医師会長。明治36年には衆議院議員。医のかたわら絵をよくし、鉄幹と号して梅の絵を得意とした。大正5年歿64才。

鈴木明信    通称は佐右衛門、津木村仲氏の子で、幼少より和歌山に出た。資性温順仏教を信仰し、報恩謝徳の念の厚い人格者であった。歌道のたしなみ深く、世の風教の向上につくした。大正9年2月歿70才。

池永柳潭    名は直、幼名伴蔵通称右馬太郎。柳澤は号。その祖は畠山氏の家臣で柳瀬村に住み、柳堂より12代前に湯浅に移ったという。家は江戸時代からの醸醤業であった。柳澤晩年は広で住み、昭和2年6月3日歿75才。幼少から学を好み書画をよくし風流韻事に晩年を送った。明治15〜18年まで和歌山県会議員。明治37年湯浅町長に推されたが2年足らずで辞し悠々自適、広で生涯をとじた。絵は山水花鳥に巧みであった。

狩野光雅    名は政次郎、芳龍とも号した。父広崖は耐久舎耐久中学校教師として広で住んだので、ここで生まれた。東京美術学校日本画科を卒えた。曽祖父晴皐祖父芳崖もすぐれた画家であり、母は橋本雅邦の女である。
新興大和絵会を創立し、画技ますく進んだ。昭和28年歿56才。

宝山良雄    加賀に生れ、幼にして父母をうしない、徒弟として仏寺に入り、同志社、東京大学選科、米国工ール大学に学び、欧米を周遊教育事情を視察し、明治37年3月耐久学舎の長として広に来たり、私立耐久中学校を育て大正2年去る。この間東西浜口両家の経済的負担と信任によるところ大であった。裁松と号し、漢詩もよくした。昭和3年5月歿。

渡辺越山    名は織衛、画家、越後坂井輪の人、明治25年7月東京美術学校を出て各県の中学校を歴任、大正2年4月耐久中学校に来任後広に永住した。昭和6年12月5日歿68才。その画筆は繊細である。

杉原米吉    湯川浅吉 牛居近之助 中山善一 昭和10年4月白木、小浦への道路改修をし、今日の便利をはかられた人々で、別項「白木小浦への道路改修談」を参照。

栗原長兵衛    広の篤農家。農事にくわしくその方面で活躍した。大正池構築に力をそそいだのも、広村農業会を設立初代会長に推されたのも、そのあらわれである。また特記すべきことは、かっては全国生産の9割まで占めたわが地方のケシ栽培についての研究と指導をした、小冊子ではあるが「実験ケシ栽培とアヘン採取法」なる著述もしている。 後、推されて昭和元年から5年まで広村長もつとめた。同13年3月4日歿67才。

岩崎 勝    広の人。父英孝は、わが町小学校開設当時から旧南広、広小学校などで教鞭をとり、校長も勤め永らく当地方の初等教育に尽した人であった。勝はその長男として明治13年生れ、師範学校を卒業して有田郡内の湯浅、広、鳥屋城、宮原などの諸校の教員及び校長を歴任したが、晩年、文検国漢科試験に合格、小学校を退職後、日高郡常盤商業学校に奉職したが、昭和16年6月24日出勤途上急逝した。また氏は歌人であり、俳句もよくし、平素から思慮深い人格者として聞えていた。61才。

戸田保太郎    広の事業家であり、政治家であった。広村会議員、有田郡会議員、和歌山県会議員となってそれぞれ活躍した。後広村長として治積をあげた。また広信用組合を設立し、その初代理事長もした。戸田家は広の旧家で、徳川期に西国五島方面で活躍した家筋である。氏の代になり家業としては製網業を営み、製網工場を経営したが、希望者には機械を貸与して、各家庭の内職として、特に家を出ぬくかった婦女子に喜ばれた。また除虫菊線香工場を湯浅町に設立経営した。事業ばかりではなく学校教育に多大の援助をおしまず、広小学校の校舎改築や設備費、教員の研修費なども助けられ、特にもと養源寺前にあった旧校舎から現在地へ移転新築。旧耐久中学校の県営移管などと、その世話役の中心となった。かつまた、非常に義狭心に富んだ人で逸話も多かった。昭和16年8月29日77才で歿。

湯川良祐  良渕    広村の医家と伝えられているが年代その他不詳、あるいは橘家と関係ありともいわれる。

坂 昌碩   同玄道   同玄願  同玄昌    右の人名が医者として残っているが、年代その他不詳、第1、右4つの名が同1人か別人かそれも不明。参考として挙げておく。

雁 主一    広の歯科医。旧家雁家の最後の人である。開業年月は不明だが、昭和25年1月歿。

泉 松山    幼名嘉一郎、通称平兵衛、松山は号、明治15年3月27日広で生れた。京都府立中学校、上海東亜同文書院を卒業、明治44年4月より大正5年3月まで耐久中学校で教鞭をとる。詩歌諷詠を趣味とする、昭和28年8月17日歿。72才。松山遺稿がある。

谷口又吉    津木滝原トンネル南入口にこの人の頌徳碑が建っている。別項に碑文を載せておいたから参照されたい。立志伝中の人であり、郷里を忘れず事毎に援助をおしまれなかった人である。昭和30年85才で歿。

寺杣徳之助    下津木寺杣の人、父伊左衛門4男。明治32年医師を開業一般診療に従事した。明治43年4月湯浅町有志の協力もあって、同町大宮通に有田病院を開設。約5ヵ年間経営したが後を雇医員であった堤清彦に譲り、津木に帰り村医として昭和11年末まで診療をつけた。津木小学校々医もした。医に従事すること約38年間。昭和31年7月8日86才で歿。

浦 清兵衛    広の実業家。旧耐久中学校卒業後、家業をつぎ山林、肥料、石灰製造、戦時中には海運業も手がけた。昭和29年中央工業株式会社を設立、社長として事業に精励、隆昌に導いた。この外浦繊維KK社長、金英除虫菊KK取締役、有田納税協会理事、簡裁調停委員なども兼務した。温厚篤実、各方面から信望厚く、また広川町教育関係方面にもかくれた功績を残し、出身校広小学校同窓会長として、地味な仕事にも労をいとわなかった。昭和43年12月24日歿。70才。

雜質貞浄    殿、正法寺第9世住職。竹堂と号した。本願寺布教師となり各地方で法話活動をつづけた。法話布教に関する著述が多い。昭和44年10月歿。87才。

吉水宏瑞    上中野法蔵寺29世の住職。学識の深い僧であった。観経宗旨論1巻の著がある。権大僧正であった。昭和46年3月14日歿。 92才。

椎崎角兵衛    もともと椎崎家は下津木寺杣の旧家で代々角兵衛を襲名したもようである。紀伊続風土記にも記載されている。昔この地方の公文職を勤めていたのでその家敷のあった地を公文原(くもんばら)という。ここにあげる角兵衛は明治から大正にかけての人で旧津木地区のために、また代々広源寺の筆頭総代(寺院の総代を公文くもん>さんと土地の人々が呼んだ)としてその護持に当った。また在郷軍人会のために力を尽した功により叙勲せられた。大正6年5月9日、これを記念した、頌徳碑が旧国道、現在の津木中学校よりすこし先の道端に建てられている。大正2年歿、73才。

直山政吉    西広の人、大正6年4月より昭和16年3月まで旧南広村長を24年間勤めて功績をあげた。またその間、南広農業組合長、有田郡農会副会長、有田郡畜産組合長などの要職に就いた。昭和41年5月歿、89才。

柳渕幸太郎    上津木中村の人、明治41年から44年まで津木村長をつとめた、43銀行(3和銀行と合併した)湯浅支店長、その後は紀陽銀行箕島支店長などをつとめた、昭和36年歿、88才。

栗田安龍    上中野栗田家に生る、3才のとき仏門に入り、13才で広源寺の住職となる。耐久舎、本勝寺妻木師らにつき、後に京都の文学寮(竜谷大学の前身)に学ぶ。寺務の側ら、畑を開墾して桑を植え養蚕を行い、蚕卵紙(栄進館製)を製造した。また柑橘(主としてネーブル)を生産出荷した。牛、馬、緬羊を飼育し、畜産の普及に尽した。僧侶としては、布教師として、大正年間には珍らしかった幻灯、活動写真機を携行して、愛知県下、九州方面にまで足を伸した。また大正元年から同6年まで津木村長として部落有山林の整理、木炭製法の改善、大正池の築造などに尽力した。昭和13年、福岡県下を布教巡回中病に倒れ、九大病院にて遷化す、63才。

丸畑雄次郎    前記椎崎角兵衛の子で、上津木中村の丸畑家をついだ。旧津木村長を大正6年から昭和22年まで約40年間もつとめて、山村開発のため種々の治績をあげた。昭和32年歿、78才。

久保岩楠    下津木寺杣の人、大正年間、木醋工場を経営した。現在津木中学校の下手の道端に庚申像がある。その附近の水田がそのときの工場跡である。木醋は木材を乾溜して得られる酢酸で、1時製炭者もその煙を利用して採取したこともある。この工場では媒染剤として酢酸石炭を製造した。昭和5年歿、54才。

管沢市楠    上津木中村の人、大正年間楊皮エキス工場を自宅近くの地に建てて製造した。これはタンニンによる媒染剤としてである。久保の木醋と管沢の楊皮エキスの製造はいづれも小規模であり、常時従業員は5、6人であったが、その原木の伐採、加工や運搬などによって数十家族が相当期間生活できた山村の1事業であった。昭和4年歿、57才。

森兵四郎    明治44年から大正元年まで津木村長を勤めた。報徳信用組合(後に津木村農業協同組合に発展的に解消した)を興して、農家に貯蓄を奨励した。漢学の素養あり書をよくした。晩年には前田本社八幡宮々司となる。昭和11年歿、68才。

大橋弥三郎    下津木寺杣の人、建設業界に身を投じ、西松建設の配下として、本土および大陸で多くの大工事を手がけた。中鮮国境の日本窒素工場、釜山港桟橋建設工事などが代表的なものであるが、敗戦後は三沢の飛行基地、熊本の新日本窒素の工場の建設工事を最後に帰郷して自適した、前記森兵四郎の実弟である。昭和37年歿、81才。

中田克巳知    下津木岩渕の出身、旧姓小原氏、郷里を出て刻苦精励、司法試験に合格、弁護士となり法曹界で活躍したが、昭和36年4月札幌市で歿した、72才。

鳥羽氏  乙田氏    右2家のことは「神社部、乙田天神社」の項に記しておいたので参照ありたい。「ますほのすき」には鳥羽正信とでていて「掃部と称す、西広の人」とある。また鳥羽氏のことは、「地名が語る中世広荘土豪群像」も参照。

旧家5家(広村)    紀伊続風土記に載せられているものをあげておく。

梶原源兵衛    名島村梶原熊之助の別家なりといい小田原北条家の感状数通を蔵む文書の部に載すとある。

地士 梅野長次郎    近江国佐々木社神主万名五郎太夫の孫奥野源次定時の後といふとあり。

地士 湯川了祐    湯川直光の弟安芸守の後なり。天正中小松原落城の後島村に蟄居し、又当所に来る其裔藤之右衛門宝暦年中地士并に大荘屋となる代々地士を相続すとあり。

地士 竹中助太郎    先祖は宇多源氏近江国の住人竹中半弥明久といふ文正応仁の頃明久当国に来り所々の合戦に功あり永正年中城州竹ヵ崎合戦の時抜群の高名ありて竹田永吉より感状を送る今に所持す其裔湯川氏直光に属して代々竹中釈迦神主といひて広八幡宮の神職なり湯川家没落の時古記武具焼失す天文5年神領の田地用水の事にて直光よりの免許状あり文書部に載す享保年中荘屋役を勤め後神職は同家竹中氏に譲るというとある。

吹田荘蔵    先祖は畠山尚順の弟吹田玄番久俊といふ其子弥四郎久長久米田合戦に討死す其曾孫作兵衛朝久といふ天正12年小牧合戦の時関東より本多平八紀州に下り地士を催す吹田親子召に応ず元和元年泉州樫井合戦に作兵衛騎馬武者を討取る其冑今に家に伝へたり作兵衛は加賀侯に仕ふ其子作太夫病身にて跡を吹田忠左衛門といふ者に譲り糸我荘須谷に蟄居す樫井感状は忠左衛門の家にあり作太夫子孫広に移り代々浪人となる作兵衛の鎗を所持すとある。

地士5人
      浜口吉右衛門
      浜口儀兵衛
      橋本与十郎
      橋本新平
      橋本忠次郎

広八幡宮
      社家  野原 別当
      久保田大首
      竹中伊織
      社人  竹中 源助
      惣市
      道御前
      荘司
      宮内
      右京
      総下
      社僧  明王院
      
      薬師院
右のことについては別項「広八幡神社の社家」を参照されたい。

旧家(和田村)    永井惣七  其家伝にいふ先祖永井兵庫河州志貴山の城主松永某に従ひ同国狭山にて千石を領す其子利兵衛政好浪人す寛永5年当国に来り郡令望月太左衛門に因りて仕官を望みしに命ありて湯浅に居らしむ寛永10年内命あり山本村の内天王谷本田高35石7斗余の地を賜ひ別に1村とし和田村とす今に至る迄子孫相続す古の記録御証文等悉く承応3年に焼失すとある。

旧家(金屋村) 柏木彦四郎    柏木彦四郎の子助左衛門といふ者当村に住居し其子善右衛門元和年中荘屋役を勤め其後地士となる河州若江城主遊佐河内守房家より彦四郎に送る書簡1通文亀より以来の田券等数十通を蔵む文書部に出すとある。

旧家(名島村) 梶原熊之助    先祖梶原吉左衛門後備前守といふ広村の郷士なり天正年間豊臣氏の小田原を征する時北条氏政より伊勢国神主某を以て加勢を乞ひしにより一族を召連れ小田原に至り戦功ありて感状数通を賜はる今別家なりといふ広村源兵衛といふもの所持す北条氏の敗るゝ時氏直と共に高野山に遁れ氏直卒去せしより広村に帰り浪士となる其裔南龍公の時地士となる宝永の高浪の時居を当所に移し代々居住す、とある。

旧家(井関村) 後 平次    先祖を栗山左京進といふ当所白井原といふを領し戸屋城に仕へ落城の後農民となる宝暦年中屋敷内に7抱余りの楠ありて東照宮造営の材になししといふ又家地の側に薬師堂あり先祖の建立する所といふ、とある。

地士60人の内 宮崎勘兵衛    元和7年(1621)のころ紀州国内の名家旧家の末裔に各々切米60石を与えて在郷せしめた。この時60名であったので60人地士という。地士制度の始めである。有田郡内では10名あったが、宮崎勘兵衛は井関の人である。勘兵衛自身のことについては今の所詳細がわからない後考にまつことにする。地士制度は其後変遷があったが別項で述べる。

旧家(鹿瀬)地士 鹿瀬六郎太夫    其家伝へいふ脇田蔵人俊継の後隼人助俊次といふもの出家となり根来寺に住し杉本坊と号す小牧に出陣し後豊太閣根来征伐の時より還俗し六郎太夫と号し当荘に来り殿村に住す浅野氏の時鹿瀬荘司の家断絶するを惜みて慶長11年六郎太夫に命し鹿瀬に居住せしめ姓を鹿瀬と改む元和の後地士に命せらる寛文元年11月南龍公日高御鷹野の時4町4方竹木諸役免許せらる。とある。

旧家(寺杣) 推崎氏    先祖詳ならす昔は数世此地の公文職を勤めし故に地の字を公文原といふ、門前に榎木の大樹あり大さ3囲なり大抵5百年許を経しものならん、とある。

老賀八幡宮  (中村)
   神主 友岡 兵庫
   社人 寺仙孫九郎
   川西甚右衛門
とあるが、友岡は友国の誤りである。
以上、続風土記所載のものをあげたが、個々の人のことについては別記したものもあり、未詳の者もあり、他の項と重複することもあるが、便宜上 一括して揚げておいたのである。

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文化財および資料目録


建造物
大字上中野  広八幡神社
八幡神社本殿  1棟(室町初期)
八幡神社境内社若宮神社本殿  1棟(室町初期)
八幡神社境内社高良神社本殿  1棟(室町初期)
(以上昭和4年4月6日重文指定)
八幡神社境?社天神社本殿  1棟(桃山時代)
八幡神社拝殿  1棟(桃山時代)
八幡神社境内社楼門  1棟(鎌倉時代)
 附棟礼28枚
(以上昭和22年2月26日重文指定)
大字上中野  法藏寺
鐘楼  1棟(鎌倉時代)

(昭和22年2月26日重文指定)
大字広 養源寺
書院  1棟(江戸時代)
大字広  安楽寺
4脚門  1棟(江戸時代)
大字上中野明王院
棟(江?時代)
護摩堂  1棟(室町時代)
大字井関
藥師堂  1棟(桃山時代)
大字山本  光明寺
光明寺藥師堂棟札  1枚(江戸時代)
大字上津木
熊野椎現社棟札(建物ナシ)  1枚(室町時代)
雕刻
大字上中野  明王院
木造阿弥陀如来坐像(5尺) 1? (平安後期)
木造薬師如来坐像 1?(5尺) (平安後期)(以上昭和6年12月14日重文指定)

木造11面觀世音菩薩立像 1?(5尺1寸) (室町時代)
木造大日如来坐像 1? (3尺5寸) (鎌倉時代)
木造持国天王立像 1? (3尺9寸) (鎌倉時代)
木造多聞天王立像 1? (3尺9寸) (鎌倉時代)
木造11面觀世音菩薩立像 1? (1尺5寸)
木造大日如来坐像 1? (1尺1寸)
木造毘沙門天立像 1? (1尺2寸1分)
木造弁財天坐像 1? (5寸5分)
木造弘法大師坐像 1? (1尺1寸)
大字広  安楽寺
木造阿弥陀如来立像 1?
木造阿弥陀如来立像 1?
大字名島  能仁寺
木造藥師如来坐像 1? (南北朝時代)
木造日光月光両菩薩像 2? (南北朝時代)
木造三光国済国師倚像 1? (室町時代)
大字山本   光明寺薬師堂
木造薬師如来立像 1? (5尺2寸2分) (平安後期)

木造日光月光菩薩像 2? (3尺5寸5分) (平安後期)
木造12神将立像 12? (各9寸1分) (鎌倉時代)
大字河P  地藏寺
木造地藏菩薩立像 1?
木造5劫思惟如来座像 1?
木造觀世音菩薩立像 1?
大字南金屋  蓮開寺
木造觀世音菩薩立像 1?
大字西広  手眼寺
木造11面千手観世音立像 1? (平安後期)
菩薩面 (行道面) 1面
大字前田  万福寺
木造薬師如来立像 1?
木造不動明王立像 1?
大字井関 円光寺
木像11面観世音菩薩立像 1?
石像観世音坐像 1? (南北朝時代)
大字上津木  老賀八幡神社

木像阿弥陀如来坐像 1?
上中野八幡神社
木像狗犬 1対(鎌倉期)
上中野  法藏寺
木像狗犬 1対(室町期)
給画
大字広  安楽寺
光明本尊 布本着色 1幅
親鸞聖人絵伝 絹本着色 4幅
蓮如上人影像 絹本墨画 1幅
良如上人影像 絹本着色 1幅
法如上人影像 絹本着色 1幅
唐土本邦聖賢像 紙本着色 2巻
環翠筆悟桐図 紙本墨画 1幅
大字上中野  明王院
涅槃像 1幅(江戸時代)
不動明王並ニ童子 紙本着色
3幅(江戸時代)

大字上中野 法藏寺
18羅漢像紙本墨画 16枚
1空政順上人倚像 絹本着色 1幅
雲空義龍上人影像 絹本着色 1幅
屏風 鷹の絵  1双
大字広円光寺
顕如上人影像 像絹本墨画 1幅
大字広  養源寺
1幅
金屏風着色御殿図 1双
釈迦涅槃図 1幅

大字唐尾  善照寺
親鸞聖人影像 絹本淡彩 1幅
良如上人影像 絹本淡彩 1幅
太子7高僧影像 絹本淡彩 1幅
大字広浜口惠璋
霍?
潅圃筆 山水図 紙本淡彩 1幅
咏処筆 山水図 絹本淡彩 1幅
越山筆 16羅漢図 絹本淡彩 1幅

柳潭筆 山水図 絹本墨画 1幅
光雅筆 清韻 紙本墨画 1幅
黄仲祥筆 山水図 絹本青緑 1幅
大字広 渋谷吉孝
浄土曼陀羅図 絹本着色 1幅
上中野 広八幡神社
給馬  2面

書蹟
大字広 安楽寺
蓮如上人筆6字名号 紙本墨書 1幅
玉龍法師筆大字4字 紙本墨書 2幅
玉龍法師筆短冊5枚 紙本墨書 1幅
大字広 円光寺
蓮如上人筆竹椽6字名号 1幅
大字上中野  法藏寺
1幅
山本藤雲筆 観海楼日出 1幅
大字上中野  広八幡神社

奉納俳句額面

典籍
大字上中野 八幡神社
紺紙金泥法華経 巻子本8軸
八幡社?起 方冊 2冊
広浦大波止再築記録 1冊
天満宮御?起 1巻
大字上中野 明王院
大般若経写本 6箱
秘密3部経 巻子本12巻
金剛峯楼閣一切瑜伽 1巻
金光明最勝王経 10帖
大字広 安楽寺
紺紙金泥大般若経 巻子本 6巻
阿弥陀経疏鈔 2冊
鳥羽玉集鳳朗集入木鈔
夜鶴集 墨法要訳 1冊

筆法摘要抄、大師書写、尊円親王真蹟
船中影向聞持集、臨池集、筆法和歌  1冊
幾難鉤解 1冊
阿弥陀経疏鈔私記 6冊
阿弥陀経講録 4冊
観経玄義分講録 3冊
選択集講述 3冊
正信念仏偈講録 3冊
文類聚鈔講録 2冊
愚鈔鈔講録 2冊
入出2門偈講録 2冊
光明摂取義 1冊
入伽心玄義講録 1冊
法界無差別論講録 4冊
華厳旨帰講録 3冊
十不2門指要鈔講録 6冊
略述法相義講録 3冊
松巒遺稿 1冊

松廬詩稿 1冊
松盧先生詩集 1冊
抵髀1笑 1冊
築浪忘れ草 1冊
江南竹枝 1冊
字下津  観音寺
岩渕北斗山観音寺記録
妙見社三輪神社記録  1冊
大字西広  手眼寺
手眼寺縁起 巻子本  1巻
津木八幡縁起  1冊
井関稲荷明神縁起  1冊
(右2冊目下所在不明)
大字広  養源寺
養源寺縁起書  1巻
法華塚縁起書  1巻
法華経  8帖
広養源寺御建立御寄附物  1巻

春山新組切組送状  1冊
安政聞録  1冊
浜口惠璋
浜ゆうの記  1冊
市女笠  1冊
桂剣集  1冊
思いで草  1冊
岩崎 功
桃のむかし  1冊
窓のあかし  1冊
岩崎氏
岩崎久重翁肖像  1幅
石川 氏
石川家ェ永由諸書  1冊
源姓石川略系譜
譲証文の事
石川家享保由諸書
額田 氏

額田家由諸書  1冊
池永 氏
池永家由諸書
鹿P六郎太夫
古歴枢要  2冊
石川義助
郡奉行春迴節読聞書附  1冊
推崎 氏
熊御用両熊野日記
五島久五郎
湯川白樫取合  1冊
外川浦網方商人御宗門御改印形帳  1冊
飯沼 家
手鑑  1冊
ェ政5年3月大指出帳  1冊
湯川章治
広浦往吉より成行覚  1冊
浦組江組覚事帳  1冊

文化5年風土記  1冊
長良教法願い上願書  1冊
明細取調御達書  1冊
湯川 良武
宝永亥年津波并大変扣  1冊
山下竹三郎
広浦和田崎波戸営繕覚  1冊
広浦波戸場修築付諸達書  1冊
広浦竹次郎
天王波戸築立付褒美申請書付  1冊
嘉永元年大波戸御普請御用品  1冊
湯川 良武
嘉永2年御立用金荒方控  1冊
湯川 良裕
安政2年忘村高浪荒諸控  1冊
浜口儀兵衛
安政海嘯状況
浜口吉右衛門

夜暁鳥  1冊
財政と国力  1冊
欧米日本商工政策  1冊
満清遊草  1冊
梯雲取月集  1冊
第2編
 〃   1冊
容所遺韻  1冊
征露聯句  1冊
東山露唱和集
東山余韻帖  1帖
東園12勝詩画冊  1帖
和中金助
咏如詩稿  1冊
夢物がたり  1冊
阿P卯兵衛
夢物がたり  1冊
浜口幸子
梧舟遺稿  1冊

続  〃  1冊
泉麟之助
松山遺稿  1冊
雁 昭夫
淡山初集  1冊
雁の音つ  1冊
忘吾斉記
文書
能仁寺関係  大字名島   能仁寺
6年11月左少将題奉 能仁寺禅師御馬宛
大永2年3月湯川光春 能仁寺衆徒宛
右同
明暦2年6月及万治3年3月書上写 名島村 彦兵衛
享保17年4月27日雲樹寺口上書  右各1通
雁蕩山能仁寺清涼院古図  1枚
関東漫遊日記  1冊
上中野  法藏寺

明応10年3月15日石垣城主畑山康純  法藏寺宛
天文13年霜月5日津守直国寄進状
天文13年霜月6日武内宮内少輔光春寄進状
天文13年霜月6日林進三郎春直
慶長6年12月6日左京大夫幸長寄進状
慶長12年8月12日左京大夫幸長 法藏寺 初行3浦遠江守 法藏寺宛
享保9年閏4月3浦遠江寺水野大炊頭 右各1通
梶原氏
永禄5年8月2日北条氏康  梶原吉右衛門尉宛
永祿6年7月1日  右同
永禄11年7月14日遠山左衛門  梶原吉右衛門尉宛
永禄11年11月9日氏康 梶原吉右衛門 愛河兵部少輔 橋本四郎左衛門 安宅紀伊守 武田又太郎宛
天正元年11月20日 癸西?給扶持配符梶原吉兵衛宛
5月3日氏康  梶原吉衛門
天正3年3月25日安藤豐前入道  梶原吉右衛門宛
天正3年11月9日  江雲 安藤豐前入道宛
天正4年5月2日  氏政 梶原備前守宛
天正4年9月23日  梶原備前守宛

天正7年11月17日  海保 同宛
天正8年7月23日  氏政 同宛
天正8年11月14日  安藤豊前 同宛 正月15日 氏直 同宛 7月朔日 氏直 梶原備前入道宛
天正12年正月20日 安藤豊前 倉地源太左衛門安藤氏大久保殿宛
天正14年3月23日  安藤 梶原備前守宛
天正15年霜月19日  梶原源吉宛
天正11年12月26日 内藤主水正 梶原備前守宛
天正7年2月23日 大筆丹後守 依田下総寺 内藤彦太郎宛 以上20通
竹中助太郎
永正2年3月2日  竹田永吉 竹中明久宛
柏木氏
6月2日  房家 柏木彦四郎宛
東浜口文政3年書上帳  1冊
竹中氏文書  1巻
奥喜義
河原者殊勳文文書  1通
池永大氏
湯川直春感状 天文2年2月17日 1通

湯川直光 天文3年5月6日
工芸
磁製法花人物文釘(重文)1個浜口吉右衛門
雕刻猿田彦命面1面 忘八幡神社
男山焼 高麗犬  1対
  〃  5具足  1組  山本庚申堂
偕樂園  茶碗  1個  円光寺
鰐口  1個  光明寺
 〃  〃  老賀八幡神社
男山燒  花器  安楽寺
 〃  仙馬  花器 1  〃
 〃  ョ朝像(素燒) 1  〃
ベッ甲如意  1握  法藏寺
花器         〃
幾難釣解板木  安楽寺
多宝塔再建歓化帳板木  佐々木秀雄
短刀 銘 国光(重文)  広八幡神社

無形文化財
広八幡神社田楽(シッパラ踊)
乙田獅子舞
上中野雨乞踊
石造物(墓碑を含む)
岩渕観音寺の宝篋印塔  1基 (南北朝期)
津木花折りの宝篋印塔   1基 (室町期)
名島高城山麓の宝篋印塔残欠  2基 (南北朝期)
下津木広源寺の宝篋印塔  1基 (室町期)
広養源寺の大5輪塔  1基 (江戸期)
光明寺板碑(三界万霊碑に転用)  1基
同  板碑(薬師種子)  1基 (鎌倉期)
上中野法蔵寺の板碑(追刻アリ)  1期 (室町期)
広教専寺の板碑  1基 (室町期)
河P地蔵寺コ本名号碑餓死者供養道標  1基
観音山33観音石仏群  33基

観音山由来記石碑  1基
観音山コ本名号碑  1基
広堤防西端コ本名号碑(溺死者供養碑)  1基
広八幡神社の法華経1字1石塔  1基
鹿P峰登口コ本名号碑道標  1基
広八幡社家庭園石塔篭  1基
落合極楽寺餓死会霊碑  1基
井関正法寺の句碑  1基
河P地蔵寺鹿P六郎太夫墓  1基
鹿ヶ瀬峠法華壇の石塔  1基
上中野法蔵寺崎山利兵衛墓  1基
浜口梧陵墓(史跡)(淡濃山)  1基
浜口梧陵碑(広八幡神社)  1基
浜口容所墓(淡濃山)  1基
広養源寺土屋政吉(仙馬)墓  1基
同   塩谷南柯墓  1基
広市場堤防感恩碑  1基
名島山麓津守浄道墓

岩崎明岳墓(淡濃山)
湯川家墓(淡濃山)
古田詠処墓(淡濃山)
広村堤防(史跡)

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広川町文化財保護審議委員会規則


(昭和44年10月19日 教委規則第7号)
(目的)
第1条 この規則は、広川町文化財保護条例(昭和35年広川町条例第7号)第9条および第10条の規定に基づき広川町文化財保護審議会(以下「審議会」という。)について必要な事項を規定することを目的とする。
(審議会の職務)
第2条 審議会は、教育委員会の諮問に応じ次の事項を審議しおよびこれらの事項に関し必要と認める事項を建議する。
(1)広川町文化財保護条例(昭和35年広川町条例第7号)の規定する広川町指定文化財の指定および解除に関する事項
(2)文化財の保存および活用に関する専門的又は技術的な事項
(審議会委員の定数)
第3条 審議会の委員の定数は、15人とする。
(委員の任命および委嘱)

第4条 審議会委員は、学識経験者のうちから教育委員会が任命又は委嘱する。
(任期)
第5条 審議会委員の任期は、2年とする。ただし、再任することができる。
2 補欠審議会委員の任期は、前任者の残任期間とする。
(委員の勤務)
第6条 審議会委員は、非常勤とする。
(委員長および副委員長)
第7条 審議会は、委員の互選により委員長および副委員長をおく。
委員長は、会務を総理する。
副委員長は、委員長を補佐し委員長事故あるときは、その職務を代理する。
(招集)
第8条 審議会は、教育長が招集する
(補則)
第9条 この規則に定めるもののほか、審議会について必要の事項は、教育長が定める。
附則
1 この規則は、公布の日より施行する。
2 この規則の施行の際、現に委嘱されている委員については、この規則により委嘱された委員とみなす。
3 広川町文化財保護審議委員会規則(昭和34年広川町教育委員会規則第1号)は、廃止する。

広川町文化財保護条例(昭和35年8月30日 条例第7号)
(目的)
第1条 この条例は、文化財保護法(昭和25年法律第214号。以下「法」という。)第98条第2項の規定に基づき、広川町(以下「町」という。)の区域内にある文化財のうち町にとって重要なものについてその保存および活用のため必要な措置を講じ、もって町民の文化的向上に資することを目的とする。
(定義)
第2条 この条例で「文化財」とは、次に掲げるものをいう。
(1)建造物、絵画、工芸品、書跡、典籍、古文書その他の有形の文化的所産で町にとって歴史上又は芸術上価値の高いものおよび考古資料(以下「有形文化財」という。)
(2)演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で町にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形文化財」という。)
(3)衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗、慣習およびこれに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で町民の生活の推移の理解の為欠く事のできないもの(以下「民族資料」という。)
(4)貝塚、古墳、都、城跡、旧宅その他の遺跡で町にとって歴史上または学術上価値の高いもの、庭園、橋梁、峡谷、海溪、山岳その他の名勝地で町にとって学術上又は観賞上価値の高いものならびに動物(生息地、繁殖地、渡来地を含む。)、植物(自生地を含む)および地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で町にとって学術上価値の高いもの(以下「記念物」という。)

(指定)
第3条 広川町教育委員会(以下「委員会」という。)は、前条各号に掲げるもののうち町にとって特に重要と認めるものを広川町指定文化財(以下「指定文化財」という。)として指定することができる。
2 前項の指定は、次に掲げる者の申請に基づき又は同意を得てするものとする。
(1)有形文化財民俗資料および記念物については、所有者および権原に基づく占有者(以下「所有者等」という。)
(2)無形文化財については、その保存にあたっている者(以下「保持者」という。)
(解除)
第4条 委員会は、次の各号の1に該当する場合は、指定文化財の指定を解除することができる。
(1)指定文化財が滅失したとき。
(2)指定文化財が著しくその価値を失ったとき。
(3)指定文化財が町の区域外に移ったとき。
(4)指定文化財が法および和歌山県文化財保護条例の規定により指定されたとき。
(5)前各号に掲げるもののほか、委員会において適当と認める理由があるとき。
(標識等の設置)
第5条 指定記念物は、委員会規則の定めるところによりその管理に必要な標識、説明板、境界標、囲さくその他の施設を設置するものとする。
(届出事項)
第6条 指定文化財の所持者等保持者又は管理責任者は、次の各号の1に該当する場合は、速かに届出なければならない。
(1)指定文化財について権限の移動が生じたとき。
(2)指定文化財が滅失し若しくは棄損し又はこれを亡失し若しくは盗みとられたとき。
(3)指定文化財保存のために他に著しい影響を及ぼすとき。
(4)指定文化財の所在地が変更されたとき。
(5)所有者等保持者又は管理責任者の氏名、名称又は住所を変更したとき。
(6)指定文化財の保存の方法を変更したとき。
(7)指定文化財を修理し又は復旧しようとするとき。
(許可事項)
第7条 指定文化財の現状を変更しようとするときは、指定文化財の所有者等又は管理責任者は、あらかじめ委員会の許可を受けなければならない。
(経費の負担)
第8条 指定文化財の管理、修理又は復旧(以下「管理等」という。)に要する経費は、所有者等又は保持者の負担とする。ただし、保存修理又は復旧のために所有者等又は保持者がその全額を負担するに堪えない場合その他特別の事情がある
場合には、町は所有者等又は保持者に対し予算の範囲内でその経費の1部を負担することがある。
2 前項ただし書により町が経費を負担する場合には、委員会は、その条件として管理等に関しあらかじめ所有者等又は保持者に対し必要な事項を指示すると共にこれを指揮監督することができる。

3 委員会は、第1項ただし書により町が経費を負担した指定文化財の所有者等又は保持者が次の各号の1に該当する場合は、経費負担を中止し又は既に負担した経費の全部若しくは1部を返還させることができる。
(1)この条例ならびにこれに基づいて発する委員会規則および委員会の指示に違反したとき。
(2)経費負担の条件に違反したとき。
(3)詐偽その他不正の方法により経費の交付を受けたとき。
第9条 地方自治法第202条の3の規定による附属機関として文化財保護審議委員会を設置する。
第10条 この条例の施行について必要な事項は、委員会規則で定める。
附則
この条例は、公布の日から施行する。



年表


<「年表」は別ファイル(Excel)による>
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あとがき


あとがき
昭和30年4月1日、町村合併によって広川町という新町が成立した。
この町名での歴史は、いまだ日なお浅いが、本町は古来、広庄と呼ばれて長い歴史の歩みを経てきた地方である。さらにそれ以前、これに幾倍かする長い人間生活の歴史を有している。現時点の知見からすると、当地方におけるそれは、およそ、縄文式前期の時代から始まるといってよい。爾来、幾千年の歩みを続けてきた祖先の長い営みの蓄積が、今日の広川町を作り上げたのである。
この長い営みの跡を一応辿ってみたのが本書である。祖先の営みには、その時代的背景や環境を無視し得ないので、それにもかなり言及することにした。そのため幾分広川地方史の域を越える結果となったが、この点御了解願いたい。
本書は、この郷土の人間生活の歩みを顧るのが主眼であった。それなれば、当然、書名を広川町史とすべきところだが、あえて広川町誌としたのは、歴史以外の事柄をも盛り込んだ綜合的内容の書を意図したからである。
ところで、この書は、1口にいえば間口ばかりで奥行きのない建物に似て、何にか見掛け倒しに終ったことは否定し得ない。これは偏にわたくしらの浅学の致すところ。甚だ慚愧に堪えない次第である。だが、本書は当広川地方史(誌)研究の端緒を開き、後日立派なものを世に送る1種の呼び水ともなることを期待してやまない。
顧みると、今から約6年前、わたくしらは、町当局からこの仕事を委嘱され、早速、町誌編集委員会を組織し発足した。その時、今は故人の学僧浜口恵璋師を編集委員長に就任を願った。同師は人も知る博覧強記、最適任の委員長を得て関係資料の蒐集に着手したのであった。だが、まことに残念なことには、間もなく浜口老師が病床の人となられたのである。
しかし、老師は病床にあっても編集委員長として、われわれ委員に対し何にかと指導を与えられると共に、老師が永年辛苦して蒐集された史料を提供して下さった。特に近世史料の主なるものや神社・寺院関係のものは、同師の写本に負うところ甚だ多い。その他においてもその恩恵を蒙ったこと計り知れないものがあった。殊にわたくしは、度たび病床に老師を訪づれ史料の所在等について教示を仰ぎ、曲りなりにも広川地方史の稿を草し得た学恩は筆舌に尽し難いものがある。
この浜口老師が、昭和41年10月7日、この事業なかばにして他界されたのである。享年93歳、稀なる長寿であったが、この町誌の完成を見ることなく遷化されたことは、関係者1同返すがえすも残念に堪えないところである。まづ、本書を初代編集委員長浜口恵璋師の霊前に供え、完成報告を兼ねて、厚き学恩に深く感謝の意を捧げる次第である。
同師が今日まで在世され、最後までわれわれを指導下さっていたならば、もっとよりよい編集が行われていたことであろう。それを想うにつけても浜口老師の長逝は惜まれてならない。
なお、この書成った機会に1言御礼の詞を述べておきたいのは、いろいろ資料を提示下さった方々や、種々な質問に心よく回答下さった諸氏、その他何にかと協力下さった多方の御厚情に対してである。さらに有難く思ったのは、約束の期限が若干過ぎたにも拘らず、常に寛大であった町当局の態度であった。とにかく、ささやかなできばえであるにしても、多方面の御厚意を得て、ここに一応上梓の運びを見たことは、編集の任に当ったわたくしら委員一同悦びこれに過ぎるものがない。

さて、非才ながらも全力を注いでの事業であったが、何分未熟の致すところ、資料(史料)探求に、その整理に不十分な点多々あり、かつ、浅学不敏の私輩、折角の資料も研究不行き届きのため、解釈に誤りなきにしもあらずである。この誤りは後日何方かによって正して戴けるものと期待すると共に、わたくしらもさらに努力を続けて機会あれば補正したいと願っている次第である。
さきにも記したことであるが、わが広川 地方の歴史も、現在の知見では数千年の歩みを経ている。その長い生活の足跡も今は既に地上から消滅して探求にも思うにまかせないものが多い。その1部が地下深く埋没していて偶然の機会に発見となったというのが主であって、発掘調査の成果から論及し得たのは、ただ、鷹島遣跡あるのみであった。しかして、これまでにわれわれの触目し得た所謂埋蔵文化財は、極めて1部分に過ぎなかったであろう。これと同様のことが、文献史料についても言い得ることである。僅に遺った史料もわれわれの眼にし得たのは、これまた、その1部分に過ぎなかったことあらためていうまでもない。
また、伝説・口碑・年中行事・民俗芸能・その他様々な民俗資料も及ぶ限り蒐集に努めたつもりであるが、既に手の届かない彼方に姿を隠したものが多く、かつまた、見落したものも少くないかも知れない。
さらに、自然誌においては、その対象物が余りにも多きにわたるため、拾捨撰択に頭を悩ましたのであった。特に動植物については、主として当地方の人間生活史の上に深い係りあったもの、現にあるものに重点を置いた。
地質や化石は、広川町の自然を特徴づけるという観点からなるべく拾捨撰択の方法を取らない方針であったが、なお、不明な点や調査漏れの点も少からず、今後の研究に俟つべきところ多い。
とにかく、ここに『広川町誌』と銘打って、わが郷土の文化と歴史、そして自然のあらましを叙述して1書を世に送り出すことになった。幾らかでも温故知新に役立てば、われわれの労は報いられるというべきである。

繰り返し云うと、本書は決して満足な出来ばえでない。解釈の誤り、叙述の不行き届き、重要資料の見落し、その他種々欠点があるであろう。特に広川地方史の域を越えた叙述には、当然、かなりの批判もあるであろう。
しかし、これらの不備が却って後日より完壁な広川地方史刊行を促す起因となれば、わたくしら望外の喜びであり、救われる思いである。
本書を編むに当ってわたくしらの知見し得た資料は、その9牛の1毛にも及ばなかったこと確である。将来地下から、また、地上から、幾多の新資料が発見されるに相違ない。そして、本書の至らなかった点や誤っていた解釈を補正される日が必ず来るであろう。その日のためにも、若い有能な諸氏の御研鑽を希望してやまない次第である。
最後に1言しておきたいのは、本書の執筆に当って何処からも掣肘を受けることなく、執筆担当者が草稿をなしたことである。従って内容面については、いうまでもなく執筆担当者の責任といって然るべきである。その意味からも、あえて執筆者とその執筆分担を明らかにしておくのが至当であろう。それを執筆者毎に挙げると左記の如くである。

巽三郎 考古篇 同氏の了解を得て発掘調査報告書『鷹島』から抜粋
山本文次郎 地理篇(但し地質の部を除く)、災異篇の災異1覧表、産業史篇中の漁業史は田中と共同執筆
赤桐釣月庵(栄一) 地理篇のうち地質の部、生物篇、広川町内地名考、宗教篇のうち神社と寺院、神社各説、
その他の宗教、文教篇、民俗資料篇、雑集篇、人物篇 、年表、
浜口しきぶ 宗教篇のうち寺院各説を赤桐釣月庵と共同執筆

野原茂八  文教篇のうち耐久中学の項1部執筆
田中重雄 歴史篇、行政史篇、宗教篇の神社総説および寺院総説、産業史篇


右の外に故浜口恵璋氏の旧著からの転載および、五島奈良尾町津田豊水氏の玉稿を登載させて頂いたことを付記しておきたい。
最初にも記した如く、数千年に及ぶ広川地方の文化と歴史及びその背景や環境を辿ったのが本書であるが、その叙述は末熟さの故に極めて粗雑なものとなった点、いまここに読者諸賢の御寛怒を乞うてやまない。なお、特に末筆ながら竜谷大学教授宮崎円遵博士と金屋町誌編集委員長松本保千代氏に1方ならぬ御協力を戴いたことを記して感謝の意を表したい。
本書は貧弱な内容にも拘らず、意外に大部なものとなったが、温故知新に幾分かでも役立ち得るところあれかしと願って、このあとがきの筆を櫚く。
昭和47年3月
    広川町誌編集委員会
      代表  田中重雄

 広川町誌 上巻(1) 地理篇
 広川町誌 上巻(2) 考古篇
 広川町誌 上巻(3) 中世史
 広川町誌 上巻(4) 近世史
 広川町誌 上巻(5) 近代史
 広川町誌 下巻(1) 宗教篇
 広川町誌 下巻(2) 産業史篇
 広川町誌 下巻(3) 文教篇
 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
広川町誌 下巻(5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表