広川町誌(下巻)


広川町誌 下巻(1) 宗教篇
目次<下巻>
宗教篇
   1、神社総説
   2、神社と寺院
   3、神社各説
    1広八幡神社
    2広八幡神社の社家
    3乙田天神社
    4前田八幡神社
    5津木老賀八幡神社
    6岩渕の三輪妙見社
    7わが町内の王子神社跡について
    8井関の稲荷明神社
    9名島の妙見社
    10三船の森とイタチの森
    11かみくさの滝の社
    12殿のオケチ大明神
    13合祀された神々
   4、寺院総説
   5、寺院各説
    1養源寺
    2覚円寺
    3円光寺
    4正覚寺
    5安楽寺
    6神宮寺
    7教専寺
    8子安地蔵堂
    9光明寺
    10庚申堂
    11法専寺
    12明王院
    13法蔵寺
    14法昌寺
    15手眼寺
    16西広道場
    17鷹島観音堂
    18善照寺
    19蓮開寺
    20能仁寺
    21霊巌寺
    22柳生寺
    23正法寺
    24雲光寺
    25円光寺
    26霊泉寺
    27白井原薬師堂
    28地蔵寺
    29鹿ケ瀬観音堂
    30萬福寺
    31神宮寺
    32猿川不動堂
    33広源寺
    34滝川原観音堂
    35観音寺
    36廢不動堂
    37極楽寺
    38安楽寺
    39阿弥陀堂
    40藤滝念仏堂
    41町内現在寺院宗派別1覧
  6、その他の宗教
   1キリスト教
   2天理教
   3その他
産業史篇
1、原始及び古代の産業
2、中世の産業
3、近世の産業
4、近代の産業
5、漁業史
文教篇
その1
その2
附録
民族資料篇 その1
1、伝説
2、民間信仰
3、俗信、俚諺、迷信など
4、民謡、俗謡など
民族資料篇
1、年中行事
2、子どもの遊び ―子どもの生活今はむかしー
3、講
4、方言の部
雑輯篇 その1 古歴回顧
雑輯篇 その2 今昔こぼれ話
雑輯篇 その3 産業落穂集
雑輯篇 その4 町内今昔の碑文
雑輯篇 その5 広川町に関する詩歌
戦争とわが郷土
人物誌目録
文化財および資料目録
年表
あとがき
 広川町誌 上巻(1) 地理篇
 広川町誌 上巻(2) 考古篇
 広川町誌 上巻(3) 中世史
 広川町誌 上巻(4) 近世史
 広川町誌 上巻(5) 近代史
広川町誌 下巻(1) 宗教篇
 広川町誌 下巻(2) 産業史篇
 広川町誌 下巻(3) 文教篇
 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
 広川町誌 下巻(5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表

宗教篇    神社の部


1、神社総説


現在、広川地方に祭祀されている神社は、かなり多い。しかもその祭神が雑多である。明治末年の神社合併までは、いま、われわれの予想を越える程多数に上っていた。各大字毎に2社ないし3社は必ずあった。処によっては、それ以上に存在していたのも稀でなかった。
いちいちの神社については、神社各論で記述が行なわれるから、この総論では、どうして、雑多な神社が各処に祭祀されていたのか、この点について推測の及ぶ範囲で、しかも、極めて簡略に述べて見たい。
神社は寺院と異り、その創建は一層不明なのを普通とする。特に、氏神、里神、産生神などと呼ばれて、小さな森や林の中に祀られている小社の多くは、祭神さえ明らかでない場合がある。だが、祭神が有名な何々命(尊)でないのが当り前であるかも知れない。古事記や日本書紀に名の現われる神々が、すべて、村落小社の祭神になっていること自体おかしなことであるといえよう。村落毎に神を祀った、われわれの遠い祖先は、おそらく、記紀に見える神々の名を知らなかったであろうし、名を知らなかった神々には縁りもなかった筈である。
有名な記紀の神々が、地方村落神社の祭神に納まったのは、けだし、外部からの智恵が働いた結果であろう。

地方でも名のある神社は別として、たいていの小社小祠は、本居国学が波及してからであるまいか。
それでは、記紀にも見えない神々を祀っていたとすれば、いったい、何を祀っていたのであろう。われわれの遠い祖先は、いったい、何を信仰していたのであろうかという疑問が当然湧いてくる。
だが、記紀の神々をいちいち、よく考えて見れば判るとおり、ある氏族の祖先であったり、水や火、山や海、土や金など自然界の事物を神格化したものが多い。云わんや、太陽や月や星、雨・風・雷など天界の事物事象を神の権身と観るのは当然であった。この天界・地界の森羅万象を神格化して、それぞれに神名を与えたのが、記紀の神々中に存在している。われわれの祖先は、記紀の如く、むつかしい名神を与えこそしなかったが、やはり、自然界のそうした事物や現象を神と崇め、神として祀ったのである。さきに、地方村落の古代人は、記紀の神々と係わりがなかったといったが、その神名と関係がなかったという意味である。神名と関係が生じたのは、余程後世に属し、神学が地方の神職にまで及んだ江戸時代末期であるまいか。
ところで、何故、われわれの遠い祖先は、この自然界の事物や現象を、神とまで崇拝したのであろうか。これが、神社の起源となるものであるから、左にそれを若干述べよう。
原始宗教は呪術的なものからはじまることは、周知の事実とされている。この呪術的なものは、早く縄文時代から行なわれていた。狩猟・漁撈・採集の所謂自然採取経済を主軸とした縄文社会は、呪術をもって、その収穫の増大を祈った。鷹島の縄文人は漁撈・採集を主とした原始生活を送ったことは間違いあるまいが、彼等も呪術をもって、日々の収穫物の多からんことを願ったであろう。しかし、それを立証する資料の出土を見ていないので、他地方の出土例から推測していい得るに過ぎない。
次の弥生式時代、この広川地方も鷹島以外に遺跡が現われる。この弥生式時代稲作がはじまるのであるが、昔も今も、稲作には水が最も重要である。まして、古代の灌漑技術未発達な時代にあっては、天与の水が最大の頼りであった。そこで水を与えてくれる水の神信仰が、当然生れてくる。 水は山から流れ出てくるものであり、雨は山からさきに降り出すものである。山もまた水や雨と縁あるものとして水神信仰に結び付く。古墳時代になれば、一層耕地も拡大され、稲作やその他の農作物栽培が進むが、水の必要性は益々増加していったことはいうまでもない。このような次第で、弥生式時代から古墳時代にかけて、一般的に水神信仰が村落社会を覆うに至ったものと思う。広川町と日高郡由良町を境する明神山の頂上に大厳石がそびえる。これを里人は、いまも雨司明神と崇めて、年1度夏期に祭を行なう。旱魃が続くと必ずこの雨司明神に大火を燃して雨乞いをする。これは何時からの習慣か知る確証はないが、おそらく、古代からの伝承であろう。
池ノ上の小字下代に、いまも大池と称されるかなりの水田地がある。往古、大池のあったところからこの名が遺った。その一角に、今は森も消え失せたが、森さんと呼ばれ、弁財天を祀っていた。これも、明治末期の神社合併で広八幡に移されたが、今その旧社地が僅に小高く残っている。昔の大池のほとりに当っていたものと思う。
弁財天はもともと、仏教の天部で、辯舌才智を司どる天女である。それが転じて福神とされ、七福神中唯一の女神として知られている。だが、この女神の本名は、印度の川の名からきていることから水の神とも考えられた。
なおまた、民俗信仰では、蛇が水神の化身と見られていることから、この民俗信仰と、水神としての弁財天信仰が習合して、蛇が弁財天女の化身だとも云い出されるに至った。昔の池ノ上大池の岸辺に祀られていた弁財天社は、おそらく、水神としてであったろう。なお、昔の民俗信仰からでは、大池に大蛇が住んでいると考え、これが池の主であり、水の神と信じ、何時頃からか弁財天信仰と融合して弁財天社と称して祀った。とにかく、池の岸辺に祀られていた弁財天社は水神信仰に基づいたものであることは間違いあるまい。

南金屋にも弁財天社がある。石灰岩質の丘陵に祭祀されているが、石灰岩の山には洞穴が多い。この洞穴には、古来大蛇が棲んでいるとの伝説があり、この伝説がもととなって、此処に弁財天社が祀られたものと思う。この弁財天社は水神的な意味からであるや否や、明らかでないが、動物も神格化され、仏教の天部と習合して、附近住民の信仰を集めていた1例である。
水神信仰の例を挙げれば切りがないが、その顕著な事例を1・2示すと、津木岩渕の牛滝、同中村の藤滝や上くさ滝がある。古代からの水神信仰習俗が、何時の時代からかここにも伝承されてきたのである。特に牛滝という名称は、古の農神祭祀儀礼に起源しているのであるまいか。
山に対する信仰も、前記した如く水神信仰に起源していると見られるが、山は山として、また、別な意味の信仰が集まった。山に関係の仕事をする人達は山神を祀ってこれを信仰した。例えば、猟師や杣人などが祀った山の神が、即ち、それである。「紀伊続風土記』や『有田郡神名帳』でも明らかな如く、わが広川地方津木地区には多くの山神社が祭祀されていた。それも明治の神社合併で、今はその跡も忘れ去られようとしている。さらに、津木岩渕に三輪明神社がある。大和の三輪神社を勧請したと伝えるが、周知の如く、大和大三輪神社は、山そのものが御神体である。山神信仰から生れた大社というべきであろう。津木岩渕の三輪明神社も、この地方の山神信仰に基づいて、有名な大和の大社から勧請に及んだと思われる。
以上の事例は、水神信仰と山神信仰の実例を、若干挙げたに過ぎない。他の小社にはまた別の民俗信仰から生れたものがあったと思う。例えば、里神社・産土神社と称される各村落の小社は、特別有名な何々尊を祭神としていた訳であるまいが、総て村落毎の鎮守神として祀った社である。社、即ち杜(森)であって、森の大樹は神の依代であった、大樹を祀って社殿のない神社もあった。この広川町には、かって楠の大樹を楠神と称し祀っていた処も2―3にとどまらずあった。自然信仰の姿を伝えていたものであるが、今はその大樹も伐り払われ、跡地も畑地などに形を変えている。
山本に氏神社がある。この小社も明治末葉に広八幡神社に合祀されたが、その後再び元の地で祭祀が行なわれている。山本の氏神の森がそれで、森の姿を留めている数少い例である。氏神とは、本来、或る特定氏族が自分達一族の神として祀ったものをいうのであるが、それが、やがて、村落全体の神社として、広く一般から信仰されるに至る。山本の氏神社も、おそらくその例であろう。
本章の冒頭で記した如く、広川町には神社が大小とりまぜてかなり多い。そのいちいちは、神社各論で説明が行なわれるので、ここにそれをあえてする必要はないが、神社の数が多いと共に、その種類もまた多い。だが、その多くは、前述した如く、一般集落民の民俗信仰に基づくもの、祖先崇拝から生れたもの、それらに仏教信仰が習合したものがあり、なお、また八幡神社や天神社の如く、最初から有名神社を勧請して祭祀した神社もある訳で、その祭祀の経路は皆一様でない。
わが広川町には、かって、神社が多数に上っていたが、そのうち特に大きいのは、いうまでもなく八幡神社である。即ち、広八幡・津木八幡・老賀八幡神社がそれである。次に大きいのは天神社である。この3つの八幡神社については、歴史篇においてやや詳しくその創建に関する所見を述べたので、、ここに重複を避けるが、他の小社小祠と異り、村落民衆の民俗信仰から創建された神社でない。この神社の創建には、それぞれ、その当時の土豪が関与していたことは間違いない。 天神社も或はそれであったかも知れない。しかし、後に、その土豪が衰え、或は亡び、時代の推移や変化を経て、一般村落民の神社となった。
以上、はなはだ粗雑であったが、神社の成立過程ともいうべきものを述べた。今は忘れられかけているささやかな神社でも、如何に小さな森の社でも、かって、われわれの祖先が、血縁的共同体または地縁的共同体の村落生活の中で祭祀を行ってきた神聖な場所であった。そして、そこに祀られていた神は、血縁的共同体の氏神、地緑的共同体の里神・産土神として、村落生活の精神的支えとなって来たのである。定められた祭の日、相集い晴れやかに神祭りを行なうことによって一層集落民の連繋が緊密に保たれたのである。
神社には上記の如く、血縁的・地縁的共同体の祭祀による以外に、同一職業集団によって祭祀された場合もあった。しかし、氏神が血緑的共同体の祭祀から地縁的村落体の祭祀に拡大されていったと同様、職業神も職業集団の祭祀から地域一般人のそれに拡大を見るに至るのである。例えば、海岸の恵比須神社がそれである。
まだ外に逸することのできないのは、祖先崇拝に起源する神社や崇神、即ち、御霊信仰から生れた神社などである。祖先祭祀は、氏神祭祀と無縁のものでないが、全く同一視するのも間違いであろう。例えば、源氏の氏神は八幡神であるが、決して祖先神でない。平氏の氏神は厳島神であるが、これも祖先神でない。だが、祖先を氏神することが、より自然的であり、より一般的に行なわれたであろう。
ところで、祟り神、御霊信仰の例としては、まず、天神社がある。広八幡境内に鎮座の乙田天神社も同一系譜。
同天神社は、古くは荘の天神と称されたが、室町初期のころ、山本光明寺境内へ移されて、山本・池ノ上・西広・唐尾4ヶ村の鎮守社となる。その後江戸時代初期、山本乙田へ遷座し、明治末期の神社合併までその地に鎮座した。乙田天神社の称はこれによって起きたが、神社合併で再び緑の広八幡境内に500年振りに還ったのであった。祭神は謂うまでもなく菅原道真である。御霊信仰に基づく神社として菅公を祀る天神社は最もよく人の知るところ。また祟り神を祀っている例としては、伝説に残る津木滝原の椎木明神がある。祭祀起源については、既に歴史痛で述べ、また、神社各論でも述べられるので重複を避けるが、怨霊の祟りを鎮めるため、大蛇の霊を祀ったと伝えられる。
さきにも言及したことであるが、神社成立過程は様々である。だが、現在主要な神社は、たいてい名神大社を勧請祭祀したものであった。それはさておき、昔は、現代人が想像もつかない程、村落生活は神社と密着したものであり、神祭りの行事は敬虔な気持で執行されてきた。祭を中心に村落住民の連繋や家の交際が保たれてきた。
昔の人は神と共に生活し、神の見守る中で社会生活を営んできたのであった。娯楽の種類の少なかった時代は、年に幾度かの祭りは、この上もないリクレーションでもあったのである。
かって神社の祭りに際して、宮座組織をもって行なわれた例も窺われる。現在なおその片鱗を留めているのは名島の妙見社の祭りであり、史料の上で知り得るのは、津木中村での例である。宮座については、これも歴史篇で若干触れているのでここでは極めて簡単にいうと、つまり宮仲間、宮衆、宮構などと呼ばれた祭祀を行なう特権集団である。構成員は、その村落または集落の草わけ的な階層であった。これを宮株ともいった。主として中世に多く見られたが、その末期、小農民の成長とともに宮座の有した封鎖性・特権性がくずされ、新たな加入者を拒否し得なくなり、やがて、村落全体で祭祀を行なう形に変化する。そして、古い宮座組織が崩壊し近世的な地域氏子制が一般的となる。だが、なかには、この宮座制度が近世にも引き継がれ、名島妙見社の如くさらに近代まで及んだ例もある。
宮座制度によって神社の祭祀が行なわれた時代といえども、その地縁的一般住民は地元の祭りとして参拝し、1種のリクレェーションとして楽しんだのであった。宮座制度が崩壊し、村落住民が等しく氏子として祭りに参加の時代となってからは、さらに、神社と村落一般住民の連繋が密度を高めたであろう。そして、村の祭りは年中で最も賑わいの日となったのである。

されど、今は神社といえば、名神大社とまではゆかないまでも、かなり大きいそれでないと注目を惹かなくなっている。だが、前記したことによってもおよその察しがつくように、村落共同体の精神的支柱がその地域の鎮守社であった。村民生活の連帯性を固めてきた村々の鎮守社が、明治政府の失政の1つとされる神社合併によって、あたかも邪魔物を整理するかの如く1町村1ヶ所に集めてしまったのである。まさに、村落住民の精神的支柱を引抜いたも同然であった。そして、やがてその旧社地は個人に売り払われ今は田や畑に開墾されているところも珍らしくない。
近代社会においては、一般的に連帯感が乏しいという事実が指摘されるとするなれば、そのよって来た原因の一半は、明治政府の行なった神社合併にあると云って過言でない。

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2、神社と寺院


はじめに
広川町の神社や寺院について記するまえに、一応わが国民の神や仏に対する考え方の変遷についてふれておく必要があると思う。もちろんこのことは、ごく簡単に常識程度の記述にとどめる。
わが国には大古から日本固有の神々を斉きまっていたのだが、1400年も昔の欽明天皇のころ、仏教が伝来してきた。これに伴なって新しい文化、進んだ学問がもたらされた。仏教は宗教であると同時に哲学であり、当時の科学でもあった。
わが国の神々は土俗的な、自然崇拝的なところが多く、それだけに素朴であり、民衆の生活や感情と密着しているし、そして、何よりも祖先崇拝の観念が強かった。そこで異国の仏とわが国の神に対する信仰や、まつりのありかたについていろいろなトラブルが起こってくるし、それがただちに当時の政治や社会問題にも及んできた。特に政治面では古来わが国は祭政一致の国柄である。それに、信仰のこととなると種々問題も複雑化してくるものである。それで、もともと神も仏もその実体本質は同じもので、わが国固有の神への信仰と、仏教信仰とは、おたがいに調和すべきものであり、もとをただせば仏や菩薩は衆生を済度するために迹(あと)を垂(た)れて我が国の神祇となって現われたものであるとの説が、奈良平安初期からとなえられ、この思想で国民を教化し、またそれが一般に支持された。このことを神仏混淆=神仏習合=本地垂迹説などといわれている。そのために追々日本の神社の境内に、「神宮寺」と称する仏を祭る寺院が建てられ、寺院ではその境内に地主の神を祠ることが行なわれるし、それから後、時代により所によっては、神社の祭礼や管理まで神宮寺の僧が(社僧といった)執り行なうといったことにもなってきた。(しかし国内の神社全部がそうなったというわけではなく、中には「仏」など寄せつけぬ神社もあって、それを唯一の神といい、神仏共に祭るのを両部の神といった)。
例えば、八幡大菩薩などいう八幡は神であり大菩薩は仏である。なかには仏像をもって御神体とした神社もあったほどである。このことは永い年月の間に、わが国民の信仰をささえる宗教感情となり、いわば、神も仏も共に栄えてきたのであった。

廃仏棄釈について
ところが、明治維新になって、祭政一致の大古にかえるのだと云って、維新政府は、神仏分離の政策をうち出した。そのため、神社にあった神宮寺の仏像などは取り除かれ、神につけた菩薩号や権現号なども仏語をもって神号を称えたりすることを禁じ、勢づいて排仏毀釈(廃仏棄釈)=仏教を排し釈尊を棄てる=といったところまで発展し、御門跡といった法親王は還俗せしめ、公卿の子弟が僧になることも禁じ、別当や社僧には転職を強制、やがて仏像、仏具、経典の類まで滅却排棄するといった破壊運動にまでエスカレートしてしまった。(しかしこの神仏分離の騒ぎは、実は明治政府の一大失政であって、このことの詳細な内容や事実は永らく秘匿されてきたものである)。
わが広川町でも、津木地区では老賀八幡社には安楽寺があって社僧の居ったこともあるし、前田の本山八幡社にも立派に神宮寺があり「法印」さんが坐っていた。広八幡社はこれまた仙光寺なる神宮寺があり、その1院である明王院や薬師院が永らく社僧として神社に奉仕していた。また、乙田天神社も一時山本の光明寺薬師堂の境内に移して、光明寺がこれを支配した。井関の稲荷明神社には、霊泉寺という寺があり、そこの住職は稲荷社僧を兼ねていたのである。これらの事実は、前述の如く明治になってから、ことごとく分離され、そのどさくさに什物や宝物なども散逸したものも多く、中には寺そのものも廃絶、そのあとかたもなくなってしまったことは現在見るが如くである。

神社合祀について
神仏分離がひとまず済んだところで今度は、神社そのものに政府の手が伸びてきて、一大暴挙が行なわれることになった。明治中期ごろからそろそろ手をつけて、明治42、3年ごろまでに断行された「神社合祀」である。わが和歌山県下も、神社を国家の管理下におき、住民の信仰などは無視して、一見もっともらしい種々の規準をもうけて、その規準に合致しない神祠はかたっぱしから整理統合するということになった。

このことは、もとより明治政府の神社行政により国家神道への政策にしたがったわけで、ひとりわが県だけのことではなく、全国的に行なわれたことではあったが、わが県では、どうも、他県にさきがけて強制実行したもようである。これでは、あまりにも民衆の信仰、古来からの風習や精神生活面を無視した、いはば無慈悲きわまるやり方であった。
当時、気骨もあり、見識もあって実施しなかった県もあったようであり、わが県内でも反対運動が起こり、(南方熊楠が有名)、うやむやにしてしまった地方もあった。合祀の表面の理由は、社殿もなく、あってもささやかなものであり、或は、朽ち果てかけていたり、神官もなく、祭神もはっきりしないといった小社祠は整理統合して、原則としては1村に1社とし、神官もきちんと置いて月給も出し、定期の祭りも修め、神社の尊厳を高めるといったはなはだ体裁のよい、もっともらしい理由であった。
しかし、こうした形式や外見面のみで、人々の信仰上の問題はそう簡単に決せられるものではなく、人間の心情を無視したやり方は感心出来ない。
たとえ社殿も拝殿も鳥居も社務所などもなく、山腹や路傍の片隅にささやかに祭られている小祠であっても、それはそれなりに由緒もあり、信仰者や世話人などがいて、必要費用なども皆で持ち寄り、年に1回の祭りでも、それを楽しみに、その日を生活の1つのくぎりにしたり、1村又は1字が業を休み、レクレーションや社交の場にもなったりして、人々の心をつなぐきずなにもなって来たことを全く無視したやり方であった。柿1つ、小餅1個、あるいは小銭1枚を献じて山仕事や漁撈の安全を祈り、農作物の無事成長を願った素朴な民衆の心などは踏みにじられて、祖先から敬い祀りきたった、ほんとうの住民の心の中に住みついてきた神々は、あっけなくし、定められた神社の片隅に押し込められてしまったのである。

小祠といえども、その場所はたいてい除地であったし、日本の神々の住まいとして、必ずといってもよいほど、そこには大木や古木が繁り、面積は僅かであっても1森林をなしていたもので、それだけに心を安らげる風致のある場所であった。「森さん」という言葉には「神さん」という意味がこもっていたのである。そして、人それぞれに心のささえともなっていたのであった。それが形式的な神社合祀の強行によって、主のいなくなった跡地は安価に払い下げられ、立木は惜しげもなく伐り倒れて公売にされ、一時はそれに便乗して、もうけた者があったかも知れない。
しかし、この有様を見せつけられた民衆の心の中には冷たいすきま風のようなものが通りすぎたことは否めまい。たいそうなことを言うようだが、人心の荒廃、思想の悪化を助長する風潮に拍車をかけたような結果になりはしなかったか。
合祀後、幾年か幾10年かを経てから、いったん合祀された神をまたもとの場所へもどして、祭りを復活した例も見られるのは、何を物語るものであろうか。人は物のみによって生きられるものでないのではなかろうか。なお、合祀のために失なわれ、忘れさられた神事、芸能、風習などの民俗、神社に伝えられた什物の数など有形無形の遺産、また人々の心をつないだ共同体意識など、物や金ではとりもどせない大切なものを失う結果となった。
また、このために由緒正しい、歴史の上からも貴重な神社や什物などもこのどさくさで、わけがわからなくなってしまったものもある。
参考として、昔からわが広川町にはどれだけの神社があったか、記録として残されているものをあげておく。
宝暦9年(1759)11月に、有田郡の5人の大庄屋が共同で調べあげた郡内の神社報告があるが、わが広川町関係では、津木地区に24社。南広地区が26社。広地区(和田を含む)で9社があげられている。その後約80年を経てから「紀伊続風土記」(1839年完成)に記載されているものは、津木で23社。南広で31社。広が9社となっている。それからまた約70年を経た明治42年の合祀の時の数は多少の出入はあるが、あまり大差はないようである。しかし肝心の神名が変ってしまったり、合祀の途中でわけのわからなくなってしまった神々もある。以下僅かに残る資料によって合祀された小社の神々を列挙して、われらの祖先の精神生活面の一端をしのぶことにする。
(備考)
@わが有田郡では、明治10年ごろまで800社以上あったと推定されている。それが明治39年末調では、県社1、郷社2、村社58、境外無格社391、境内無格社267、計719社あり、神職は24名であった。ところで、40年以降合祀の結果は、県社1、郷社2、村社20、合計23社となった。
A現在、全国にある神社数は約8万。和歌山県下は417社(合祀以前は約3千社)。他県の例をみると今でも兵庫県下では約4千、広島県は5千もあるほどである。なお、わが国では、神社に格式があって、昔は、天つ社(あまつやしろ)、 国つ社(くにつやしろ)大・中・小社。官社。式内社。式外社などいろいろの社格があった。
これらの神社の格式を、明治4年5月太政官布告によって、大・中・小の官幣社。別格官幣社。大・中・小の国幣社。府・県・郷・村社及び無格社と区別することに定めた。わが広川町の神社は、格式からいえば村社か無格社のみであった。神社合祀の対象となったのは主にこの無格社で、それらを1村1社にまとめるという基本原則で、無理な合祀をしたのである。しかし、昭和20年12月5日、連合国軍最高指令部の神道指令がでて、ここに政教は分離され、翌21年2月2日内務省神社局神社院は廃止、80年間にわたる明治政府の執った神社政策であった神社の国家管理は無くなり、全国約8万の神社は、一宗教法人として、新たに設立された神社本庁のもとに包括されることになったのである。

神社の神事(祭礼)について
神社は、もとより神霊の鎮座する場所であり古くから「ヤシロ」といい、社殿建物を「ミヤ」といい、ごく小さなささやかな建物は「ホコラ」と呼んできた。神社にはいろいろあるが自分たちの願望を願ったり、悪霊を静めたり、病気を払い除いたり、恐れたり、福寿を乞うたりする素朴な土俗信仰と結びついているけれど自分たちが氏神様とか、産土神(うぶすながみ)とか、鎮守さまとかいっている今ではこの3つの区別は混同してしまっている。
氏神は、氏の祖先の霊を神として祭ったもの、産土神は、生れた土地の守り神、鎮守は、それぞれの場所の守り神である。現在では、産土神も氏神も同じようにみているし、その土地で住んでいるからその土地の神社を氏神とするといったごくあっさりした考えになってしまっているわけである。神を祭るということは、神霊を呼びむかえて、鄭重な飲食をすすめ、これに侍坐して慰め和(なご)ませ、おわりにお供えしたものを自分たちもいただいて、神も人も共に和楽することである。祭礼の時期は、神社にはそれぞれ固有な由緒のあることが多いが、その神事や方式、時期もそれに伴なって違ってくるのが当然である。大体、わが国は農業国であったので、農業は季節がもっとも大切であるから、おおまかにいって早春の予祝祭、春の農耕開始祭、夏の除疫祭、秋の収穫祭といったところで、自然全国的な共通点がみられる。俗に春まつり、夏まつり、秋まつりと3大別して、祭礼の日どりもこの間に定着してきたものであろう。
宮によっては春まつりを主とする所、夏まつりを重んずるところ、秋まつりをもっとも盛大に行なうというふうにわかれてはくるが、やはり全体としては、収穫を祝い感謝する秋のまつりを盛大に行なうところが多い。一般に民衆にとって「祭り」は年間の行事のうちでも楽しいものであった。まつりを盛大に出来るということは、災害もなく、田畠のみのりもよく、村中平和で、一家も安泰であることを喜び、ことほぎ、感謝するのであるから。ところでその祭りは、わが有田郡内では、各宮ともその形式がだいたい似かよっていて、とくに騎馬の武者行列が美々しく、また「馬馳け」があって見物人の血を湧かせた。だからどの宮にも大小の差こそあるが、必ず馬場があった。馬が多く出るということは祭りが盛んであるということであった。郡内の祭礼に「馬」の出ない宮は例外であり、極くまれで1、2の神社のみであった。わが広川町の祭りも昔からこの例にもれずどの宮も「馬」を出し「武者」が出た。このことは他郷の人から見ると珍らしかったらしく、その有様を古く「紀伊名所図絵」にも特記されている。要領のよい説明をしているので引用すると、

郡中神事――郡中諸社の祭、総て8、9月両月の間にあり。皆、馬駈けるを祭式とす。氏子より出す処の馬数、社毎に大抵5、60騎より8、90騎に至る。毎年各社の祭日にあたれば、府下(わかやま)及4方より看客群衆す。郡中の一壮観なり。其式各甲冑を着し、母呂(ほろ)をかけ、駿馬にまたがり、旗をたて、鼓を鳴らし、軍装いかめしく、神輿を供奉して神幸所(おたびしよ)に至る。甲冑、母呂、陣羽織等、美麗をつくせり。渡御の後、軍装を脱ぎて馬を駈す。奔馬の雄健なる、一鞭千里を走すべし。按ずるに、神事に十列馬(とをつらうま)走馬、競馬、騎射など用いる事、古今例多けれども、一郡挙りて如此なるは、いまだ聞かす。此事いつの世より始まれるか詳ならざれども、中古より神事に流鏑馬(やぶさめ)を駈する事、御国に多ければ、当郡ももとは其類なりしが、次第にかく壮観にはなれるなるべし。土人或は古、湯浅氏の城なりし時、家内の兵器戎馬を試さんために、顕国社の祭日に軍装をなして、競馬をなさしめしに、其遺風遂に郡中民間に及べるなりといへり。

と記述している。
なお、祭礼の神輿は、(おみこしさん)と呼んで、これに神霊を移して、若者たちがかつぎ上げて行列をしたがえ、おたびしよ(神幸所、浜宮とも)へ向うのだが、この神輿がまた行儀よく真直に行くものではなく、走ってみたり止ってみたり、別の道へ切れこんだり、あとへもどったり、実にさまざまな運動をして見物人をハラハラさせる。(これも神意によるものだと信ぜられていた。)御輿かきに参加する若者は、このことによって1人前と認められ、男として1度は祭りに参加するのが、たてまえであった。そのほか宮によって特別な参加物があるが、やはり共通しているのは、「オニ」「ワニ」「シシ」これを3面という、この面をつけた神楽があり、笛や太鼓ではやしたてる「ダンジリ」も出る。これらの詳細は、民俗芸能と関連するのでその項に譲る。また広八幡社、前田の本山八幡社には特種神事があり、乙田天神には唐船(トオブネ)歌や「乙田獅子舞」。広八幡の「シッパラ」踊りなどこれらも別の項でふれることにするが、以下各神社の説明の所でも言及するところがあると思う。
ここでは「馬」の話 が主となったが、有田の民謡に、「盆にや踊ろら、正月は寝よら、祭りにや鮨(スシ)喰って馬見よら。」というのがあるが、よく有田の年間3大行事の楽しみを言い表わしている。

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3、神社各説


1 八幡神社    広川町上中野馬上鎮座




樹木の繁った小山を背景として西面している近郷での大社であり、広川町内で、旧広地区、南広地区(井関河瀬を除く)の産土神である。神仏分離までは両部の神で、神宮寺であった明王院と薬師院とが社僧を務めていた。(両院は仙光寺の諸坊のうち)。明治6年村社となり、後神社合祀により旧広、南広地区の神々35社が合祀された。

現在の祭神は、
本殿 誉田別命 足仲津彦命 気長足姫命 外に12柱
若宮神社本殿(境内社) 大鷦鷯命 外に8柱
高良神社本殿(境内社) 武内宿弥荒魂 外に8柱
天神社本殿(境内社)
となっている。
この宮の創建年代は明確なことは不詳である。それは天正13年3月21日の兵乱のため神庫などが焼失、旧記類なども散逸してしまったからだという。しかし安永7年(1778)に、広の人でもと湯浅広の大庄屋を勤めた湯川直敬(藤之右衛門)が、この宮や神宮寺であった仙光寺諸坊に残る旧記や伝承を調べあげて「八幡記録」1巻を編纂した。其後その子である湯川直好(小兵衛)が、父の記したもので、たらぬところやそれ以後の事柄などを追加整理して、これを広の地士栗山長右衛門入道喜道義直という当時81才の老翁に書写を依頼して、美濃形90枚で乾坤2冊の記録を作製した。寛政12年(1800)2月のことであった。(故に本筋には変りがないが2種類の記録ができたわけである。)この記録がこの神社の歴史を知る上で大いに便りになるわけであると同時に、幸い現在まで残されてきている古い社殿や遺物が真実を語りかけてくれている。もちろん永い歴史のなかで、興隆したり、衰微したりの幾多の変遷をたどりながら現在まできているのであるが、現に残る本殿、境内社、拝殿、楼門、神宮寺などの構成はすでに鎌倉時代には整っていたもようで、それらが室町期に入ってから修理されたり、再建されたり、整備されたりしたものが現存しているわけである。

さて、社伝によると、この宮の創建は古い時代に、河内国誉田八幡からの勧請であるという。それは、この地は、かって神功皇后が三韓からの帰途、誉田皇子らとしばらくここに留まられた旧地であるからとのことである。
しかしまた紀伊続風土記や、紀伊名所図絵などによると

「上略―当社は欽明天皇の御宇の創建にして古は広荘3箇1を以て社領とす 相伝ふ此神もとは前田村に鎮り坐せるを応永のころ此地の土豪梅本覚言といふ者あり、其領する地を神地となして社を遷し奉る 今拝殿の側に覚言の祠あるは旧の地主なるを以てこれを祀るといふ 今前田に八幡社あるはその旧地に跡を遺せしな因りて前田の社を本山旧八幡宮といい伝う本山は8月14日を祭日とし中野は15日を祭日とす14日には中野の競馬本山に至り祭事互に通する義あり又衣奈の八幡宮を勧請せりといふ然らば本山に祭るは衣奈よりの勧請にて此地の社は本山より遷し奉れるなるへし――下略」

とある。
また、神宮寺のことは、「古の別当を仙光寺といふ内6坊に分る今の明王院薬師院は6坊の内の2坊なり−下略」とある。天正の兵火の際、社殿や神宮寺など一応助かったが、神庫や坊舎など相当な被害を受け、社領も失い、社僧や神職らも有るが如き無きが如き有様でずいぶん衰退して神事も思うにまかせぬことが多かったという。(天正13年は1585年)其後慶長5年(1600)になって浅野幸長が当国を領してから、国内の諸寺社の荒廃したのを修理や復興した。
その時広八幡社へも神領10石を寄せた。浅野氏が広島へ転封の後、元和5年(1619)、徳川頼宣が紀伊藩主となって入国してからもまた社寺の整備復興に意を用いた。当八幡社へも寛永19年8月(1642)に、内内陣の御戸帳3流、内陣の御帳3流を寄附し、慶安元年8月(1648)には、殺生禁断の制札を建て、同3年には石燈篭2基を、万治2年12月(1659)には、大和守広信造の太刀一口を寄附している。寛文2年7月(1662)八幡社拝殿、末社等の屋根葺替えを命じ、寛文8年には弓2張、紺紙金泥「大般若経」13巻の箱を、また大般若経6百巻の箱を、同10年には金燈篭1対、翠簾3流、絵馬1枚などを寄附している。其後代々の藩主もそれぞれ保護を加えてきたので、益々興隆し当地方として有力な神社となり、その神事祭典も、はなやかに賑やかになった。続風土記の記載や、名所図絵の絵図をみても想像される立派な景観をととのえていた。

続風土記には
八幡宮  境内周5町半  禁殺生
本社 表行
3間余
末社若宮
多賀 社  熊野権現社
加茂    辯財天社
本社の南にあり

住吉    熱田
稲荷 社  高良明神社  浜宮社  梅宮本社の北にあり
祇園

拝殿 舞台 多宝塔 神染所 炊殿 神興舍 鐘楼 僧坐 庁 楼門 西門 鳥居 宝藏 觀音堂 覚言社
(拝殿の側にあり)


また名所図絵には、以上のほかに社僧である明王院、薬師院の光景が描かれていて、明治以前の神仏習合当時の有様が見える。もちろん現今では、仏教開係のものは神仏分離令によって漸次取払われてしまっているので建物は半減してしまっている。
またこの宮には特種神事として、

粥占(正月15日、小豆粥を炊きその中に細い青竹を入れて、その管の中に入った粥や小豆の数によってその年の5穀の豊凶を占う神事)。
火焚神事。有田田楽(しっぱら踊)。乙田舞(しし舞)がある。

これらは他の神社では例の少いものである。
現在の建造物のうち重要文化財に指定されているものは左の通りである。

本拝
楼門  3間1戸楼門 入母屋造本瓦韋 昭和22年2月26日指定
拝殿  単層入母屋造 妻入舞台造屋根互韋 昭和22年2月26日指定
本殿  3間社流造 屋根桧皮葺 昭和4年4月6日指定(旧国宝)

若宮本殿(境内社) 1間社春日造隅木入 屋根桧皮葺
高良本殿(境内社) 1間社春日造 屋根桧皮葺
右2社昭和4年4月6日指定(旧国宝)
天神本殿(境内社) 1間社隅木入春日造 屋根棕皮韋 昭和22年2月26日指定
附 棟札28枚 右同年月日指定

以上の外に絵馬堂。僧座(読経所)であった建物。拝殿の前にある舞台(しっぱら踊はこの建物内でする)。
御供所。昭和に入ってから建てられた本殿と拝殿との間にある建物(ここが参拝所になっている)などである。

以上のうち重要文化財に指定されている建物については、多少専問的になるが、県教育委員会発行の「和歌山県の文化財」の記述を転載して、これに天沼博士の「続成虫楼随筆」から及び本県文化財審議委員の考古学者巽三郎氏の解説文に、その他先人の研究より適宣抄出して主に各建物の見どころを略記することにする。その間に前記八幡記録にあるものは「社記」として挿入しておいておいた。棟札28枚については1々の文句は略して目録のようなかたちにして列記した。(附記、仙光寺、薬師院、明王院などのことは寺院の部で述べることにする。)

広八幡神社本殿(和歌山県の文化財より)
『八幡神社は広川町上中野にあって小山を背景に西面している。創建は詳らかでなく、河内の誉田八幡から勧請したといわれる。応永20年をはじめ文化4年に至るまで、28枚の棟札を社蔵するが、本殿関係は永禄12年の屋根葺替えのものか古い。現在の社殿は様式からみて吉野朝時代を降るものでなく、殊に蟇股の作は、延慶4年の造営と伝えられる長保寺多宝塔のものと甲乙を付け難い。しかし度々の修理を受けており、殊に向拝及び縁側廻りは大部分が安永ごろの修補である。
間口3間、6メートル余、奥行は向拝を合せて6・6メートル、3間社流造、野面石の上に円柱を建て、正側面3方に高欄付の縁側を廻らし、脇障子を構え、上下に長押を廻らし木鼻のない頭貫を納め、正面は3間とも揚蔀戸、側面の前の間は額ぶちを付け板扉を装置、その他は横板壁、斗供は和様3ッ斗、正面は中備に蟇股を飾り、2の繁性、妻飾は虹梁に板旨束大斗肘木、猪目懸魚を飾る。
外陣は畳敷、内法長押上に横連子を納め、板張りの格天井を張る。内陣前は3間とも上下に長押を納め額ぶちを付け板扉装置、内陣は拭板敷にして各間とも前から少し入って間仕切して立繁障子をたて、左右の間境は前方に片引の障子建、内法長押上に横連子を納め、小組入格天井を張り丁寧な取扱いをしている。
向拝は面取の角柱をたて頭貫を納め、和様3ッ斗の中備に蟇股を置き、両端は虹梁で身舎とつなぎ、中2ヶ所にはタバサミを飾って浜縁を設けている。屋根には箱棟、千木、葛緒木を納め、建物全体は丹塗にして一部に極彩色を施している。』

応永年間再建規模大なる3間社流造にして、木割大に蟇股の輪郭及び内部の透彫は頗る優秀である。
向拝及び主殿共斗拱何れも3斗、中拱間に蟇股を入れているが、向拝のは全部牡丹唐草主殿中の間のは「特種唐草」で忍冬紋を室町化した唐草とでも云うべく、特に類例のない珍らしいもの、両脇の間のは、向拝同様「牡丹唐草」である。
本殿内陣中の間蟇股、輪郭・両脚はしっかりしているし脚先の形も頗るよろしい。無理をいえば上の斗の両方は少し平すぎたか、もうほんの僅か上端が曲線形に膨んでいたらばと、内陣の下の接する部分をこれもほんの少し開いていたら、即ち外輪にならって削ったら一層尚よかったか。
脚内 曲線は滑らかである、洵に珍らしき文様で原形というべきは、飛鳥時代の忍冬文様ではあるまいか、一脈相通ずるものがあるように思える。
曲線は滑らかで、あちこちに完全な渦巻ができているにも係らず、どことなしに頸健なところがあり、元より左右相称である筈なのに其曲線は、脚内輪、両肩から少し下ったところから出て、其蔓の1を中央上部でからませ、これを中心飾とし、左右中央より少し下に、これもまた巻ひげの間に、忍冬式蕾の様なものを刻んでいる。忍冬系唐草とみえる。まれにみる優美流麗なる唐草である。

0本殿内陣左脇の間墓股
輪郭中央の忍冬のに比べて少し小さい、背は無論同じだが幅を少しつめている、脚内の牡丹唐草の骨線は脚内輪の両肩から、内輪の曲線とまことに馴染よく無理がなく中心で出遇い、反対向きに花をつけ基空隙は便化した蕾や葉や、巻ひげを以って巧に充填し、巻ひげの遊離端は殆んど総て完全な小孔を形成させている。(続成虫楼随筆)

南北朝時代神社建築の特色を濃厚に残しているもので、特に蟇股の様式が、長保寺多宝塔の延慶4年ごろのものと同形式であることは、本殿の建築年代の古さを充分物語っている。(巽氏)

広八幡神社楼門(和歌山県の文化財より)
当社の随神門で、建立年代は詳らかでないが、細部手法を見るに鎌倉時代の様式を示しており、数少ないこの時代の楼門の遺構として重要な位置にあって、当初材も多く瓦にも古いものを残している。

<写真を挿入 広八幡神社楼門(重文)>

隅木の下ばには、文明7乙未時
通肘木には、元禄13庚辰6月吉日

社記には、干時元禄13庚辰年林鐘中4日上棟などの修理記録が見られ、元禄年間には下層の正面柱、頭貫、礎盤、縁側、斗拱及び軒廻りも相当の大修理を加えたもののようである。
間口3間、7・16、奥行2間、4・17 、野面石の上に木製の礎盤を置いて円柱を建て、前方は吹放し、中央の間は通路、後方両脇の間は板壁で区画して随神を安置し、地、腰、飛貫及び簡素な木ばなのある頭貫を納め、和様2手先の斗拱の中備に間斗束を置き、通路両脇上には大虹梁を架け組入天井を張る。通路の親柱筋及び随神の間の前には扉を装置(現在欠失)、上層は4方高欄付の縁側を廻らし、台輪上に円柱を建て、内法長押を付け頭貫を納め、正背面とも中の間は扉装置、両脇の間は連子窓側面は板壁にして和様2手先組上斗供の中備に間斗束を置き、2軒の繁性。屋根は入母屋造本瓦葺、妻は破風に立板を張り懸魚を飾る。

当社の建物の建造物の中では、最も鎌倉時代の様式を残す細部手法のみられるものである。瓦にも細長く尾を引く巴文の瓦当に、連珠文の軒平瓦があり、鎌倉時代の建造物としては重要な位置を占めている(巽氏)。

(再建棟札に)干時元禄13庚申年林鐘中4日上棟広浜方氏子中 社僧明王院本義 薬師院源泉とある。また随神については左の記載がある。

祀神2座 豐磐間戸尊 櫛磐間戸尊
八幡宮随神両尊体繕彩色 貞享元年甲子
9月吉辰日 右随神基ニ座裏ニ在
干時天明3年癸卯8月
南紀有田郡八幡宮門守尊神両躰 修繕彩色
願主広卿士橋本喜次郎亮香
彩色師 広 阿波屋新八(以上社記)


広八幡神社拝殿(和歌山県の文化財より)
『本殿前の傾斜地に正面を舞台造にして石階段を設けた入母屋造り妻入の珍しい軽快な建物で、建立年代は詳らかでないが、細部様式及び先年修理の際この建物にあった黒書の書体などから、室町時代中期の造営であろうと推定される。
天文11年、元亀4年に屋根を葺替えた棟札があり、宝永元年、明和2年にも修理を受け、天明2年にはそれまでコケラ葺であった屋根を本瓦葺に改めている。

また柱は現在のものより大きかった(他に転用してある)のを後世に現在のものに取替え、肘木にも新旧2様のものがある。
間口3間、5・3、奥行2間、4・2叫余、角柱を建て舟肘木を置いて軒桁を受け、2軒の疎極に木舞を打ち以上何れも大面をとり4方に縁側を設け、上下長押、盲敷居鴨居、内法貫を納め拭板敷に鏡天井を張る。
正背面の中の間と両側面の後の間は吹放し、正面脇の間と側面前の間の腰貫下は板壁にして上部は吹放し、妻飾は破風に立板張、猪目懸魚を飾る。
この神社には古くから、田楽の行事があって、現在楼門と拝殿の間にある舞台で行なわれているが、もとはこの拝殿を舞台にしたのではないかと思われる。
室町中期の建物とされている。入母屋造り妻入のこじんまりとまとまった珍らしい建物で、県内では他に見られない拝殿である。(巽氏)

棟札
奉加伍貫文公文津守入道浄賢家内長久福寿門満

拝殿上葺
社務雲巣軒湯川忠次郎子息  大工藤原吉家并番匠衆中日数歓進天文16丁未6月朔日敬白
棟札
元亀22年癸酉7月5日筆者嘆口法師
拜殿上葺  社務湯川忠次郎孫池永宗介43才  大工藤原朝臣吉家孫兵衛尉并庄之番匠衆中

棟札
一切日皆善一切宿皆賢諸仏皆威コ明和2乙酉歳12月8日功終
バン奉再興拝殿一宇倍増威光国家太平庄内安全処
羅漢皆断漏以斯誠実言願我常吉祥  大工伊沼六右衛門藤原久吉
社僧明王院薬師院法印本宣代

天明2壬寅年ヨリ瓦葺ニ成
右棟札の外、国主より本社修覆有之節拝殿修覆有之本社棟札ニ其文有奥ニ記ス(以上社記より)


広八幡神社摂社
若宮神社本殿と高良神社本殿(和歌山県の文化財より)
『摂社若宮神社は本殿の南に、高良神社は北方に位し、応永廿年の棟札に左記がある。
紀伊国在田郡広庄八幡宮若宮武内2社造営応永廿年癸己2月下旬始之  下略

この社殿も度々の修理を受けて当初の部材は僅かに残るのみであるが、正面の蟇股の作は優れている。両棟とも略同大、同形式の1間社隅木入春日造、丹塗の小建築で、間口1間1・49メートル、奥行は向拝を合せて2・8メートル、円柱を建て3方に縁側を廻らし、高欄及び脇障子を付け、上下長押、頭貫を納め斗?は唐様3ツ斗にして2軒の繁?、正面は揚蔀戸、他は横板壁、内陣前は両脇に半柱をたて、上下長押付板扉を装置し、内外陣とも鏡天井を張る。
妻節は扨首束、猪目懸魚を飾る。向拝は面取の角柱に頭貫、繋虹梁をかけ、唐様3ツ斗の中備に蟇股を置き、浜縁を構え、階段に昇高欄を置く。屋根は桧皮葺に、箱棟千木、葛木を納めている。』

(上略)応永20年の建造であるが、度々の修理で当初の部材は、わずかに蟇股ぐらいなものであろう。(巽氏)

(上略)蟇股  中心部  笹龍膽
実質と空間との割合と配置 殊に中央上部花の上のところで、蔓、葉、花と囲まれた空隙は1種の格狭間の様である。其の他、此等は何れも鎌倉系であるが中心飾に花があり、左右に茎と便化葉をつけた何れも共通した方針は牡丹唐草である。蟇股 主殿3個 向拝3個 (続成虫楼随筆)
(附記)上記棟札に下略とあるが、その全文は、紀伊国在田郡広庄八幡宮若宮武内2社造営 応永廿年癸巳2月下旬始之 時奉行2位公殿僧宗長 番匠大工五郎助弘 時御政所 大宮殿 沙弥道宮とある。

広八幡神社境内社
天神社本殿 (和歌山県の文化財より)
『社記によれば、この神社はもと当神社の境内にあったのを応永18年正月同村薬師堂の境内に移し、寛文13年さらに山本村字大谷に移し、明治42年7月再び当所に移築したものといわれ、現在の社殿は形式より見て桃山時代に造り替えたものと推定される。1間社隅木入春日造、間口2・54メートル、奥行は向拝を合せて4・24メートル、円柱建に正側面の3方に宝殊高欄付の縁側を廻らし、脇障子を構え、上下に長押を付け、絵様木ばなのある頭貫を納め、斗?は和様3ツ斗の中備に彫刻入の蟇股を飾り、2軒の繁?にして妻飾は扨首束、破風に猪目懸魚を飾る。正面は小脇壁を付け、板扉を装置し、側、背面は横板壁、向拝は几帳面取の角柱に虹梁を架け、3ツ斗の中備に蟇股を置き、虹梁で身舎と繋ぐ。浜縁は現在長板張、7級の階段に昇高欄を置く。身舎正面の蟇股にある松竹梅の彫刻は、この種のもののうち古いものの1つであろう。

上略。建築様式は他社よりも時代は降り、桃山時代の建造物とされている。天面の蟇股の松竹梅の彫刻は見のがせないものである。(巽氏)

蟇股 松竹梅、1つの蟇股内の一面に特種の彫刻を入れたのは、滋賀甲賀雲井村「飯道神社」方3間入母屋造向拝付、桃山時代との2例しか知らない珍らしいものである。(統成虫楼随筆)

(附記 この天神社のことについては別記「乙田天社神」の項を参照)。




棟札  28枚(広川町教育委員会調査による)
1、若宮武内2社造営応永廿年癸己2月下旬始之記及び武内1社造営文亀2年壬戌11月上旬の記があるもの1。
2、明応2年8月13日若営再興上葺の記があるもの1。
3、天文10年辛丑6月吉日若宮再興の記あるもの1。
4、天文10年辛丑7月吉日武内造営の記があるもの1。
5、天文16年丁未6月1日拝殿上葺の記があるもの1。
6、八幡宮御上葺永禄12年己巳8月12日始同霜月2日午時棟上御祝言遷宮の記あるもの1。
7、元亀3稔壬申霜月9日若宮再興造営の記があるもの1。
8、元亀22年癸酉7月5日拝殿上葺の記があるもの1。
9、願主各々敬白幸長、慶長2年丁酉正月15日の記があるもの1。
10、慶長2年丁西11月23日若宮造営の記があるもの1。
11、慶長2年丁酉11月23日武内造営の記があるもの1。
12、慶長17年壬子8月12日武内上葺造営の記があるもの1。
13、寛永3丙寅年6月口日の記があるもの1。
14、寛永16年卯年6月3日若宮上葺の記があるもの1。
15、慶安元戌年暦7月吉祥日武内宮上葺の記があるもの1。
16、明暦2丙申卯月吉日若宮社上葺の記があるもの1。
17、延宝6戌午8月吉日再興の記があるもの1。
18、延宝6戊午8月吉日上葺の記があるもの1。
19、明和2乙酉歳12月8日拝殿再興の記があるもの1。
20、広八幡宮宝殿安永4乙未歳6月23日釿始同5丙申文月12日棟上遷宮8月9日の記があるもの1。
21、広八幡宮宝殿安永4乙未歳6月23日釿始同5丙申歳8月9日浄棟遷宮の記があるもの1。
22、広八幡宮宝殿上葺安永4乙未歳12月13日始同5年丙申3月15日成就の記があるもの1。
23、八幡宮再建安永5丙申8月9日浄棟遷宮の記があるもの1。
24、安永5丙申歳8月9日若宮修造の記があるもの1。
25、若宮造営安永5丙申歳8月9日上棟遷宮御祓の記があるもの1。
26、高良社造営安永5丙申歳8月9日上棟遷宮御祓の記があるもの1。
27、寛政3年亥2月朔日宝殿上葺の記があるもの1。
28、宝殿上葺文化4丁卯8月13日上棟遷宮の記があるもの1。


その他の文化財
短刀 銘 来 国光  (大正4年3月26日指定旧国宝)いわゆる「9寸5分」の細身の短刀である。貞享2年丑5月3日付本阿弥の折紙がついている。(1685)
木造狛犬  室町初期の作とされている。
陶製狛犬  明治初年ごろの有田郡宝物取調目録に「古麻狗 偕楽園 御庭焼」と報告されているが、男山焼の傑作である。尾の後側に銘がある。ア、ウンの2匹で色付き。
石灯篭(春日形)  社家佐々木邸の庭にある。室町前期のもので県内でも類例の少ない秀作であるが、竿以下は宝暦11年に補修されている。宝珠は蓮の蕾で花弁が1つだけたれ下げた珍らしい形にし、笠は波形重厚で軒の反りや蕨手は力強い手法である。中台の蓮弁も複弁で彫が深く、鎌倉期の名残りがみられる。高さ156センチ

無形文化財
広八幡の田楽(昭和39年5月28日県無形文化財指定)「しっぱら踊」について
「広八幡の田楽」であるが、土地では昔から「しっぱら踊り」といっている。ところがこの「しっぱら」の意味が誰にもわからない。紀伊名所図絵には種々の考察を加えて説明しているが、どうもすっきりしない。梵語のシッタン(吉祥成就)から来たのだという人。合理的な解釈としては「しっぱら」は「実ってほしい」という農民の祈願から起った古い言葉と説く人もある。田楽とは、もともと田植などの農村儀礼で、笛、ささら、鼓を鳴らし唄い舞った芸能で、その起源は古く平安時代から行なわれたという。この、しっぱらも、その所作は、田楽の古いかたちを受けついだいると思われるが、唄はなく、鳴物といえば、太鼓とささらの軽い音だけで、動作は実に単調で変化に乏しい静かなものである。それでいて見物していると、約50分位はかかる動作が、最後まで人を飽かせない。やはり踊りが古雅であり、象徴的であるからであろう。田楽に獅子舞が添う例は多く、珍らしいことではないが、この「しっぱら」もシシ、ワニ、オニが出てくる。そして時々ワニが列から離れて1人空模様を見上げる動作が特に印象的である。この踊りは昔から「雨乞祈願」として行なわれた。(雨乞踊りは別に他にもあるのだが)。近年になって伊勢神宮や明治神宮、全国芸能大会などに出演し、今度の「万博」でも出場した。今から5、6百年も昔から、上中野区の人たちの奉任によって、その技を伝え今日にまで及んでいるものであるという。この踊りの詳細な報告は、県の指定文化財調査報告書(昭和41年3月発行)があるのでそれから転載しておくことにする。(多少略したところがある)。

広八幡の田楽
委員 栗栖安一報告
1、芸能の名称  広八幡の田楽
2、所在地  有田郡広川町広八幡神社
3、時期  10月1日
4、場所  広八幡神社舞殿

5、構成  鬼1人、鰐1人、獅子2人、袖振2人、踊子6人、太鼓2人、計14人

6、保持者  氏名佐々木秀雄 生年明治34年 性別男 住所有田郡広川町広 経歴世襲神官

7、楽器
(1)太鼓2 径33センチ 厚さ約15センチ    ばち 長さ約24センチ 桐
(2)ささら6 長さ68センチ(長いのは80センチ)巾7センチ、握りの長さ12センチ

8、服装
(1)袖振  侍鳥帽子 白衣 紫袴 白足袋 藁草履
(2)中踊  桧笠(頂に白紙の蜻蛉形を取りつける)に垂れをつける。
白衣  白袴 白足袋 藁草履 手にささら。
(3)太鼓中踊と同じ姿 ささらの代りに腰に太鼓ばちを持つ。
(4)鬼面をつける。緋緞子の陣羽織、たつつけ袴、草鞋、左手鉾、右手災払、鬼面、高さ25センチ、巾20センチ、朱塗、鳥かぶと付鼻の高さ14センチ、
(5)鰐  衣装は鬼と同様、鰐面高さ27センチ、巾21センチ、朱塗、鳥かぶと付、顎は赤塗、鉾を持つ。
(6)獅子頭  前後各1人づつ入る。駒犬型、形式、垂れ耳、角房、まゆ、雲形、顎つきあご、母衣緋布、獅子面 長さ33センチ、巾 37センチ
額赤毛 狗犬形式 朱塗 角なし
つき顎 鈴2つ

9、採物
(1)ささら
(2)鉾  鬼の鉾は全長180センチ、  顎の鉾は全長196センチ。
(3)災払  長さ40センチ両端しで(白紙、図略)

10、踊り
(1)袖振、中踊、太鼓
踊り子たちは楼門に跳坐して待つ。1鼓で舞殿に馳せあがる。約20分間太鼓を合図に、ささらを振り鳴らし、左右前後に踊る。振袖は手を胸にあて、手と足と共に左右に動かして舞う。この踊りは、田の植付から、草取り、刈取りまでを表わし踊るのである。
(2)鬼、鰐、獅子の礼
拝殿から鬼が出てきて、舞殿を1周し、鰐を拝殿から迎え、ともに踊り子たちを中心にその周囲を1周する。鬼は更に獅子を拝殿から導き、舞殿でともに踊り子たちの周囲をまわりながら変化のある踊りを舞うこと2周。

11、歌詞なし
12、所要時間  約50分
13、役割  ササラ 梅本真次12才 梅本春夫 12才、荻原利明 12才 下出哲巳 13才 柿本正之 13才 萩平明 13才
太鼓  芝俊幸 14才 水野篤 14才
袖振 西岡耕一 11才 高橋嘉郁 10才
鬼  辻米一五 15才
鰐  亀太郎六 15才
備考 辻、芝さんたちの話では、鬼は猿田彦、鰐は神さまであると。


14、評価  地元では室町時代からの伝承だと云っているが、記録使用器具にそれを確証するものが無い。併し、「袖振、踊子、太鼓が2列に並んで太鼓に合せて、田植から収穫までの所作を踊るのが古雅であり、変化に乏しいが象徴的で、所伝の室町時代のままと云えないまでも古風なものである」と考えられる。(中略)

無形文化財
乙田の獅子舞(県無形文化財指定・地元では舞獅子という)
大字山本にあった乙田天神社に奉納されきたったものであるが、今は合祀により広八幡神社の境内神社となっているので、広八幡の秋祭りの10月1日に奉納される。これらのことのいきさつは「乙田天神社」の項で述べて

おいたので参照されたい。今回県の無形文化財に指定されるについて、その調査が県文化財保護審査委員の栗栖安1、松本保千代両氏によって行なわれ、やがて正式な報告書が出されることになっている。ここではこの獅子舞について大要の説明をしておくことにする。
1、名称  乙田の獅子舞(オトンダと発音)
2、所在地  有田郡広川町大字山本
3、保持代表者  山本地区の代々の区長。乙田獅子舞保存会長(広八幡神社宮司)

4、構成
(1)打込舞  頭持1人 幕張4人 笛吹4人 太鼓打1人
(2)中舞  頭持1人 幕張6人
(3)高舞  頭持1人 幕張3人
(4)お多福  1人
(5)控  8人 笛吹 太鼓打 お多福は各舞に出演。控は演技中適宜交替していく。


5、由来
由来について文書にかかれたものは無く、この地区の口碑として伝えられるところによると、昔よりこの地方から関東地面へ出稼に行った人々が多く、それらの人々が、東海道中で見た獅子舞に心ひかれ、これを乙田天神の神事舞として導入したものという。その芸風は当時から少しも変わることなく故老から若者へと、しかもかなりきびしい稽古を積ましてきたので古来からの型は、くずれることなく伝えられてきているのだという。従来は旧歴8朔から毎夜約1ヵ月きびしい訓練がつづけられ地区民全体で力を入れてきたのであった。この舞の「頭持」が勤まるまで5年の修練が必要とされたという。

6、奉納の日程  広八幡神社秋祭当日(10月1日)
午前中山本光明寺薬師堂前に集合、ここでまず第1回目を舞う。(この天神社の旧地であった故に)。
山本、中沢貞次郎家訪問、ここで2回目を舞う。(中沢家は先祖代々この舞の用具を保管されている故に)。
その他に篤志家が特に所望された時も舞う。それから八幡神社祭典へ。
午後 2時ごろから本番の神前奉納。所要時間1時間30分から40分ぐらい。つづいて神輿渡御に参列、お旅所浜の宮で舞う。

7、演技
(1)打込舞  約30分。明るいおだやかな調子で笛太鼓に合わせて初められる。笛の調子は「お江戸の道でお金をひろて、わしにくれよかヒヒフクヒーヒヒフクヒー」と聞きならわされて軽ろやかにはいってくる。
5色の御幣でお祓いをするしぐさで舞に入る。獅子の動作は「遊び」で笛に合わせて変化するその中に怒りの動作もあり、眠りの型に入って停止する。大体同じ動作を3回くり返す。

(2)中舞 約40分。(演技者は頭持の外は交替する)。打込舞の休止の状態から笛の調べが変化してくるところで中舞にうつる。この中舞は「修羅しゅら」といわれ、今までのおだやかさから烈しい荒れ狂う姿が中心となる。しかしその間にも遊びもあり戯れがあり、俗にノミトリといわれるしぐさもあって舞に変化の波をみせる。

(3)高舞 約30分。この舞のクライマックスに入り、笛太鼓の調子の変化にともない獅子は高い姿勢に伸び上がる。この演技は最も習熟を要するし、幕内の3人の呼吸がピッタリと合い、力量もいる動作で、見物人も思わず拍手をおくる。

以上3つの舞の進行中、お多福が幕のまわりをこまめに廻り歩きながら要所要所で幕のすそさばきや、幕内の者の動作を助けて舞のはこびをスムースにすすめていくいわば進行係の役割を果たすのだが、その動作を、ひょうきんに表現さすので見物人を笑わせて興を添える。(もとこのお多福の服装は真赤な腰巻き姿で腰のまわりに、レンゲやシャモジなどをぶらさげ、裾をちらつかせて、よけいに見物人を喜ばせたものだというが、明治期の官憲の不粋さから今のような袴姿に改めたのだという)。

8、用具
(1)獅子頭  乾漆製 雄獅子高さ27センチ
(2)獅子胴幕  木綿布8匹、浅黄色 渦巻模様 正面に牡丹の意匠化したのを描く。
(3)太鼓  大小1個宛 このあたりの地方一般に祭りに使用する型で、台にのせて移動するときは肩にかつぐ、ダンヂリという。
(4)笛  横笛(竹製)4本 長32センチ
(5)むしろ10枚 これを敷いて演技する。

9、衣装  白じゅばんに紺のハッピに股引着用。ハッピの衿に「広八幡乙田獅子舞」と白く染めぬく。太鼓打、笛吹は黄色の手拭で鉢巻をする。(もとは別に定まってはいなかったが、保存会で統一した)。お多福は水色の衣に緋の袴、頭部はおこそ頭巾で包み、顔にお多福の仮面をつける。

この獅子舞は山本地区民の奉任であり、人数も多数を要するし、その練習もきびしく、長期にわたる上、費用の負担も多く、近ごろの社会情勢から後継者の確保もむつかしく、一時中絶していたが、その技術は保存されてきた。かねてから復活を望む声もあり、やがて保存会も結成されて再開の機運が熟してきた。かくて昭和45年10月1日の祭礼から復活されることになったのである。この時参加出演された人々は左記のとおりである。

折込舞の出演者
頭持  山根 馨 昭和9年10月29日生(高舞心毛出演)
幕張  森 一郎 昭和8年2月28日生
〃   北又 忠 昭和14年7月6日生
〃  中況裕之 昭和13年6月8日生
〃  森 清   昭和8年10月15日生
笛吹  中沢 修 昭和12年1月4日生
〃   栗原 一 昭和16年3月28日生
〃  中山儀範 昭和18年2月4日生
〃  中山文男 昭和22年3月13日生
太鼓 松井正一 大正12年12月18日生

中舞の出演者
頭持  森 忠  大正4年8月16日生
幕張  中沢 尚 昭和4年9月8日生(高舞にも出演)
〃   北又良一 昭和5年8月25日生
〃   山下清一 大正11年11月5日生

〃   名原益雄 昭和10年4月16日生
〃   牛居正年 昭和15年1月15日生
〃   小世木茂 昭和26年2月19日生

高舞の出演者
頭持  石家武次 大正14年11月2日生
幕張  中山修良 昭和12年5月10日生
〃   北又和夫 昭和6年10月28日生
〃   牛居康之 昭和14年8月15日生
お多福  北又佐一 大正12年1月2日生

 控
湯川 昭 昭和2年6月8日生
森 利夫 昭和21年3月6日生
赤田豊治 昭和26年2月7日生
石家正純 昭和27年2月6日生
牛居寿  昭和19年2月11日生
森 一郎 昭和8年2月28日生
乙田 栫@昭和22年2月20日生
湯川数也 昭和16年12月6日生


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2 広八幡神社の社家


この宮の神主は現在佐々木氏であるが、佐々木家は代々竹中氏であり、古くからの社家である。系図によると宇田天皇を祖とする近江の佐々木源氏の出である。竹中姓を名乗り、この地(広)へ来てから記録としてはっきりしているのは、永正年中に竹中半弥明久という人からで(明久は永正2年2月2日付の感状を竹田永吉から受けている。1505年)。それまでの古記録類は天正の兵乱で焼失、その後のことも、宝永4年の津波(1707)のため流失してしまったので詳細は不明である。(系図には歴代の人名とその他のことは記載されている。)
この竹中家は代々現在の東町に住み、助太郎を襲名していた。この家から八幡社の神主を勤めていたのであった。神主としての名称は、釈迦神主と称之別家をなしていた。つまり、永正年中より代々釈迦神主と名乗って来たわけである。続風土記によると、社家野原別当、久保田大首、竹中伊織。社人竹中源助、惣市、道御前、荘司、宮内、右京、総下など記載されているが、この竹中伊織は釈迦神主竹中伊織秀薫という人のことである。野原別当とあるのは、これも代々八幡社の神職で殿村に住んでいたが、享保年中に家が焼けて家系神職古記等は焼亡してしまった。(1716〜1736)、そんなことで元和元年から(1615)宝永5年(1708)まで4代の間、殿村に居り安永3年(1774)に広村へ移っていることぐらいよりわからない。やはり代々野原別当と名乗っていた。久保田大首とあるのは、これも代々八幡社の社職であり、中村(東中)に住んでいたが大水のため家居流失したので古いことはわからない。寛永以前(1624〜1644)のことは全く不明で、寛永18年ごろから3代を中村で居り、元禄8年以降(1695)広に移り住んでいる。久保田は窪田で、神職としては代代窪田大首と名乗っていたのである。いずれも古い家柄であり、その流れをくむ家々は今も多いことと思われる。

竹中源助以下の人名は祭祀の奉任人で、竹中源助はその指図人であった。
以上、特に野原、久保田、竹中3家が神官を勤めてきたのだが、明治以後社家は佐々木家のみになってしまったのである。

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3 乙田天神社


   元広川町山本大谷鎮座 現同町上中野八幡社境内社
(附、鳥羽家、乙田家、官座の事など)




このお宮ほど方々へ移られたのも珍らしい。「紀伊統風土記」には

天神社  境内山林周12町
本社  遊觀所
末社4社  若宮社 山神社
疱瘡神社  八幡宮
拜殿 宝藏 祈願所
神供所 庁
村の乾、乙田山といふ所にあり山本、西広、唐尾、和田4箇村の産土神なり。4箇村往古八幡社空産土神とす。此時当社中野村八幡宮境内の側にありて荘の天神といふ。
応永18年氏下争論ありて4箇村別れて天神社を当村の薬師堂境内に移し氏神とし、光明寺より支配せり、寛永13年官許を得て更に今の地に遷し新に神主を置き光明寺の支配を離る。神主を乙田氏といふ。古き牛王の器を伝ふ、銘に『応永18年辛卯6月1日了意恭白とあり。』とある。

これによると、最初「荘の天神」といったとあるが、この意味は広荘全体の天神社のことか? 「八幡の境内の側にありて」とあるから、場所が八幡境内の側で、八幡宮の境内社でも、摂社でも、未社でもなく、八幡の支配を受けない独立した社であったと解釈したくなる。ところが、氏下論争のため4ヵ村が自分達の産土神としてこの天神社を、光明寺の薬師堂の境内に移したのが応永18年とあり(1411)、それから寛永13年まで(1636)2百年余りもここに居て、今度は乙田山へ移ったというのだが、その理由は不明である。おそらく光明寺の支配を離れて、唯一神になることを希望したのかも知れない。八幡から移る時、土地の名家であった鳥羽氏が、御神体を背負って遷坐されたのだという。それで乙田天神祭りの神事は、鳥羽家の当主が顔を出さなければ始められない習わしであったという。それはともかく、このことからこの4ヵ村は八幡宮の氏子ではなくなったわけで、自分達の産土神として、その祭礼も特種な「唐舟」(とうぶね)や、華麗な乙田獅子舞、だんじり、騎馬武者行列などと独特な祭りをし、かつ、天神が嫌うという古い伝承から「にわとり」を飼わぬ里ともなったことなどを思えば、この神社に対する敬虔な気持ちが現わされているし、氏子の信仰も尋常でなかったことと思われる。
また紀伊名所図絵には、

天神社  広村の乾、乙田山といふにあり。4箇村の産土神なり。又応永18年某寄附の神符印と印色池とを蔵む。共に木器にして古色あり。神主乙田某といふ。』

とある。そして神符印と印色池(にくち)の詳細な見取図と、銘文とを写している。それによると、

「敬白 天満宮御宝前寄進 応永18年辛卯6月1日 了意敬白」とある。続風土記にはあっさりと、牛王の器と書いているが、牛王本来の意味は、一口に云って寺社から出す厄除けの護符や、起請文を書く用紙とされたものである。

応永18年という古いものであり、この器は明治初年の「有田郡宝物取調」にも記載されているから、おそらく神社合祀の際に行方不明になったものか今は無い。また、この社には「乙田天神絵巻」もある筈だったが、これも今の所未見である。現在では神社合祀の結果社殿ともども広八幡社の境内社として祀られている次第である。
この社の旧地は今もほとんど元のまま保存されていて、小社を祀り、元の社殿の跡には、「天神社跡地之碑」と表面に刻し、裏面に「明治42年6月八幡社干合祀大正2年5月建碑」と彫刻した大きな石柱がある。側の道路(白木道)即ち、もと馬場にも使ったの両側には石燈篭も残されている。この神の神事であった氏下唐尾村から出た「唐船」は廃絶し、ダンジリや騎馬武者の甲冑も無くなり、ただ獅子舞だけがその技術を保存して八幡の祭りに出演したが、近年一時とだえていたのを最近復活され、無形文化財として県指定が内定している。神殿は重要文化財に指定。このことは便宜上、獅子舞のことと共に、広八幡社の項で説明する。唐船の行事は無くなり、それに伴う歌謡があったが、今は歌える人も数無く、その歌詞だけを別の項で記述しておくことにした。
独立していた時の祭りは旧9月8日で、この日渡御は、乙田から白木坂を越えて白木の浜へ向った。騎馬、御興、唐船、だんじり、獅子舞と賑やかな行列であった。特に獅子舞と唐船は最高の見もの、聞きもので、近郷からの見物人も大勢だったという。

鳥羽家。乙田家。宮座のことなど。
鳥羽家は樋口氏であった。姓氏家系大辞典(太田亮著)によると「紀伊国有田郡の名族に在りて「藤原北家中関白道隆の後裔、山城鳥羽より起こる」と伝えらる。氏人は太田水責記に「有田郡西広鳥羽掃部正信居」を載せ、士姓旧事記に「有田郡西広城主鳥羽掃部助正信と見え、子孫紀州家に任う」と見える。(これは正信より8代目の子孫、正次で紀州3浦家に任官と系図にある)。
鳥羽家の伝書によると、正信の代、建仁4年(元久元年1204)後鳥羽院が熊野御幸の際、湯浅や由良興国寺などにおとどまりのとき色々と御世話申上げ、父祖のことなども聞召されたりして、そのため鳥羽の2字を下された。以後樋口を鳥羽と改めたが、しかしトバと呼ぶのは恐れありとてトリバと名乗ることにしたのだという。
代々この地方の有力な土豪であり、湯浅の白樫氏、日高小松原の湯川氏、鳥屋城の神保氏、宮崎荘の宮崎氏などと縁組みなどもしている。乙田天神社との関係は、宮座に関する文書「天神鳥羽家法式の事」というのが伝えられているので左に転記しておくことにする。

天神
鳥羽之家法式之事
1、天神祭礼之節9月7日拝殿中程に薦1重神主敷鳥羽請待湯立相済御湯神主持参鳥羽頂載ス弁神酒神主持参
頂載之事

1、正月元日
御鏡  1膳
御酒  1升
花ひら
白米1升  神主礼米
右之通神主鳥羽之家江持参ニ而年始之礼相勤申候左白張着致し参候
9月9日
御鏡  1膳
御酒  1升
花ひら
白米1升  神主礼米
右之通鳥羽之家江神主持参昨日者祭礼首尾能相済珍重奉存候御礼ニ伺上任此節白張着致し参候
1、天神御社宮遷之節鳥羽罷出御幣振申候
夫より神主振祝言相済候其外ニ振申度と申者有之候得バ鳥羽江願振を申候此節銀子等持参是ハ神主方へ遣シ候之事
1、鳥羽之家ニ差合等有之節者薦之上ニ榊建置御酒榊に遣事
1、白木御旅所ニ而茂御酒鳥羽頂載夫より神主頂載段々氏下へ頂載任候
1、庄米ニ廻候節も前日鳥羽3家へ神主参明日庄米ニ廻由候と断申参苦候
1、祭礼之節御酒頂載之土器へぎ年々改かへ候事
1、天神山すかし切願の節松木等粗末に不仕尤境目等下苅念入可申事
1、少々儀ニ而茂鳥羽江承可申候神主替り候儀も鳥羽之差図を以かへ可申候諸事住古之通天神並神主共支配任候様と従寺社御奉行衆被為仰付候以上
名代  鳥羽伝九郎
享保5年(1720)子5月7日
鳥羽忠三郎
鳥羽次郎石衛門
在田郡 西広
天神  神主
以上


乙田家について
前述のように乙田天神社は寛永13年(1636)官許を得て乙田山に遷して、光明寺よりの支配を離れて新たに神主をおいた、乙田氏である。この家も当地方きっての旧家で、同家系図の巻首に
平姓  神保氏 安井氏 乙田氏 右3家同姓也
衣紋丸之内上下龍引替紋8重菊丸懸 桓武天皇10代苗裔 神保大郎忠将15代 安井越中守長治後胤 乙田P十郎滿誠後胤とあって、連綿今日に至っている。寛永13年子4月8日天神社神主を仰付かったのは、光長という人で、この人のころから住居も乙田の地に移し、苗字も乙田としたという。それ以後明治維新の際には、主馬という人が神主であったが、「王政御一新に付官名禁止」となったので、政雄と改名。その子節という人が跡目をついで神主になったが、明治40年に死去、同42年には合祀によって社殿も広八幡境内に移されたのであった。この乙田氏の系図は、鳥屋城の神保家、垣倉の安井家の初期のことを知るための好資料でもある。なお、乙田、鳥羽両家ともわが町に現存されている。

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4 前田の八幡神社(津木八幡社)  広川町大字前田宮前鎮座


紀伊続風土記に
八幡宮  境内森山周4町
本社  方1間  拝殿  舞台
末社3社  若宮  地主神社  門主神社

露谷の西北日高往還の側にあり前田 河瀬 鹿瀬 井関 殿村 金屋の氏神なり、当社は広八幡の旧地にして本山とも、上の宮とも称して今彼社の摂社とす詳に広八幡条下に出つ、広八幡寛文記に欽明天皇の御宇の創建とあるは此地に鎮まり坐るをいふなるべし社領豊臣氏の時没収せらるといふ。

境内にあり真言宗古義中野村明王院末なり鐘楼、庫裡あり。


と記載されている。小高い山林にある社で、高い石段を登り、森中にある宮であった。一般に本山八幡宮と称していた。津木中村の老賀八幡社の縁起によると、前田の「六本木」という所へ移られたとあるのはこの地を指すかとも思われる。この宮について古い資料は見当らないので詳しいことは不明であるが、幸い棟札の写しが残されているので(現物は無い)今はそれを記して参考に資することにする。

嘉元2年(1304)甲辰3月9日  本山八幡宮棟上
大願主散位藤原朝臣
大工津守為清

文明7(1475)乙未正月25日  本社八幡宮棟上
大願主 木氏朝臣
大工  吉行

天文10年(1541)辛丑8月11日 藤原朝臣
大願 主盛堅
大工 吉家

天正10年(1582)壬午4月吉日  願奉八幡宮御社上葺

願主社務 湯川民部卿
池永清宗介
番匠大工 藤原太郎兵衛
河P六郎兵衛

慶長16年(162)辛亥8月吉日  奉八幡宮御社上葺
奉勸鹿鞭六郎太大成就

慶安3年(1650)庚寅9月吉日良辰  奉八幡宮御再興
銀93匁 鹿P六郎太夫
前田河瀬井関殿ソレ・・米5斗
本願人  鹿P六良太夫
社僧 良順

延宝甲寅(1674)7月吉日 八幡宮上葺并拜殿新造
本願  鹿P宗安
同六郎太夫
遷宮僧権大僧都法印明王院快円

元7甲戌年(1694)8月5日八幡宮本社上葺

大工藤原六右衛門
遷宮仙光寺明王院快円法印
元文3戊午(1738)霜月8日 奉八幡宮本社上葺
社僧 直暁
野原別当
窪田大学
棟札筆者鹿P六良太夫

元和3丁巳(1617)8月吉日 奉八幡宮御社上葺
伊都野前田河P而邑
大工藤原六右衛門
干時奉加高5石御地頭溝口権右衛門殿寄進


棟札の写しの文句は上記のようであるが、これによっておよそのことを想像するだけである。なお、石燈篭に、奉献本山八幡宮御神前、前田河瀬鹿瀬惣中、というのがあるが、紀年銘が元禄か元文かはっきりしない。おまけに干支の巳年は、どちらも同じであるので判断に迷う。元口2年巳8月14日とある。
神社合祀の際に、津木村は3つも村社があるとて3社ともこの場へ合併合祀してしまった。現在になって老賀八幡、岩渕の妙見三輪はそれぞれ元の場所へもどってしまったので心なしかよけいに淋しい想もする。この宮にも特種神事として、年占。火焚。雨乞。虫祈橋。神楽。田楽舞などが行なわれたと伝えられているが、今ではこれらに関することは不明であるのが残念に思われる。現在、この社地の山肌を削って地ならしをして、広川町「若者広場」を造成した。このために神域の景観は一変してしまったが、社頭には若い歓声がこだまして、神々を勇めることであろう。
また特記すべきことは、明治以来今回の大戦まで、この神社の氏子で戦病死や戦死をされた方々の英霊を祀って「平和神社」を創建している。昭和25年1月鎮座である。この英霊名簿に記載されている人々は59名にのぼっている。

5 津木の老賀八幡神社


広川町上津木中村石塚鎮座
現在、上津木中村石塚に鎮座している老賀八幡神社は、例の合祀の際、前田の本山八幡社と合併移転して「村社 津木八幡神社」となった(明治42年4月8日)のであるが、昭和22年8月30日、もとの氏子一同に迎えられて、再び旧地(現在地)へ帰ってきたのである。紀伊風土記によると、

老賀八幡宮  境内周42間
本社  方3尺9寸
末社5社  山神社  門神社
熊野?現社5扉  6尺2寸
2尺5寸

若宮八幡宮  相殿  7尺6寸
天神社  6尺5寸
藏王?現
愛徳権現  相殿  8尺6寸
4尺3寸
三輪明神



村中にあり上下津木谷の中岩渕を除きて6箇村の産土神なり勤請の時代詳ならず老賀の義も解し難し祭礼に流鏑馬田楽踊あり昔は管弦もありしという其古器12残れり神庫に鬼鰐獅子頭あり裏に享禄5壬辰8月吉日奉寄進津木宮藤原朝臣大家吉家作之とあり

神主  友岡兵庫
社人  寺杣孫九郎
川西甚右衛門


安楽寺  八幡宮境内にあり旧は老賀八幡宮の社僧なり後浄土宗の末寺となる。とある。この宮の「老賀」という名称は、何か曰くありげにきこえるが、その意味は不明であり、現在残っている古記録や縁起の類、また土地の口碑にも、このことについて何も語っていない。この宮の縁起伝承によると、神功皇后が皇子、後の応神天皇と三韓からの帰途、都では他の皇子たちが反乱するきざしがあり、まっすぐに都入りが出来ぬので、ひとまず日高郡衣奈浦に船を寄せられ様子をうかがっておられた。
やがて衣奈浦から陸路をとられ津木谷へ来られた。その地が今の寺杣である。昔は日高から小山越(おやまごえ)して津木谷へ来るのが本街道であったという。寺杣でしばらく宿られやがて、前田の「六本木」という所へ行かれたという。その後、寺杣では1宿された遺跡へ宮を建てて「御幸之宮」と称した。しかしここは景観があまりよくないので、清和天皇の御宇、上津木の今の地に遷して「老賀八幡宮」と名を改め、津木谷7ヵ村の氏神として奉仕されてきたのである。
その後、広高城の城主畠山尾張守持国から社領として、宮前通り、今の上津木石塚及的場で2町8反大40歩を寄進された。(持国及び家老丹下備後守堅盛、遊佐河内守長清の署名ある古文書〈写〉を伝えている。)天正15年(1587)になって、当時の氏下である中村、猪谷、落合、寺杣、猿川、滝原、岩渕7ヵ村はそれぞれ「宮座」があって、神社に奉仕をしてきていたのだが、この年の8月朔日、座論が起こり、岩渕はこの宮から離れて、独自に自分達の産土神として、三輪明神を勧請して分離した。



また大阪冬の陣のとき、土地の豪族権崎公門太夫正清、湯川大五郎、湯保孫次郎、浅間隼人、東太郎右衛門、岸 太夫、反田八郎、高権孫右衛門、芝亦五郎、松岡甚蔵らに、大阪方から加勢を依頼してきた。ところがこれに応じなかったところから、豊臣秀頼から社領、寄附状、墨付など取り上げられてしまった。そのため、宮も次第に零落するをまぬがれなかったという。
ところでこの宮の祭りは毎年8月14日で、神馬、立願馬も多く出て、流鏑馬(やぶさめ)や、かけ馬があり、田楽踊、3面の神楽や管弦などもあり、実に盛大であった。
以上の記述の大要は、享保21丙辰2月と推定される寺社改めの際の書上げによる伝承によったのである。
なお、当社の「神宝目録」に、文政8年のものその他が残されているが、明治になって整理した目録があるので、それを記載しておくことにする。(その宝物も現在、散逸してしまって何程も残されていないから、これも神社合祀のたたりと思い追懐のため煩をいとわず書留めることにした)。

老賀八幡神社宝物古器物古文書目録
1、古文書  3通  内1通散失
為当社領 紀伊国津木之荘公田免田不残令寄附畢村分4至傍示町段歩宗等之事以別帖具申渡者也仍状如件
8月3日持国
当郡津木之荘公田免田弐町8段大40?御年貢不残依御祈願当御社領被為御寄附之趣未代文書既 御別筆被参候事目出度長久之御析可為肝要旨堅盛長清被 仰之趣承候仍明暁如件

8月5日 丹下備後守  堅盛  花押 
遊佐河内守  長清  花押
老賀宮  上松神主

当郡津木之荘宮前通式町8段大40歩御年貢諸役共不残可被 遐御寄附旨康成承処候然者收納全於相違有間敷 御武運長久之御祈?弥無怠慢可為修行旨肝要仍請状如件
治田掃部助 康成  判
8月11日
上松神主人へ  (此壱通散失)
右畠山尾張守殿当国為知行之時同郡石垣鳥屋城御成之後当社江御神田被成御寄附候旨又昂山殿之後日高郡小松原門山城主湯川刑部大輔在日牟婁3郡被為領之砌御神田之儀者如本無相違旨

1、刀    式腰
無銘  白鞘錦袋入  壱尺5分  壱腰
仝  仝  壱尺4寸5分壱腰
此内壱腰ハ願主寺杣金7宝暦6丙子8月と箱に書附あり
1、短刀  壱振  無銘  9寸
1、棟札    3枚
(1)文字悉皆磨滅  7年  壱枚
(2)奉造立熊野大権現御社檀忘永拾伍年
余ハ磨滅字体不詳  壱枚
(3)奉建立藏王宮文明17年3月
余ハ同上  壱枚
往昔は未社の内蔵王宮を祭祀せしならん



1、鰐口  質唐金  1個
銘日 紀有田郡広庄津木村八幡宮
干時 弘治2年12月吉日
重量700目  径6寸7分
1、祭典具
神興  1個
瓔珞  4枚  鏡
網  4筋  鈴
瞿雀  壱尾
獅子頭  壱頭

仮面  鬼鰐  2面
大江二郎藤原朝臣吉家作
金幣  2本
鉾  4本
金燈篭  真鍮  1個(1対?)
重量260目
(註、最後の金燈篭は明治29年4月に寄附されていることが別の調で判明しているから、この調査の時期はそれ以降のものであろう)。また明治初年の「有田郡宝物取調目録」には、
下津木村  老賀八幡社
仮面  木  享録4年大江二郎吉家作
仮面  木  右同
鰐口  鉄  弘治2年(註 鉄は誤 唐金)


と記されている。また、この宮がまだ「寺杣」にあった時から世話をしてきた椎崎公文太夫の家に、先祖から伝えてきたという「庚神絵」「三十万神」「16善神」の3幅の画像があったが、年を経て相当痛んでいたのを、寛文3年(1663)藩公より白銀2枚をたまわり、修理をしてその後社内に納めてあったのだが、宝蔵など無いままいつしか三十万神、16善神の2幅は紛失してしまい、庚神絵像のみ権崎公文の家に伝えている(現在は不詳)。(註、三十万神の万は番のこと)。
さきに記した面のことは、縁起「書出」には、オニの面、ワニの面、獅子之頭御座候裏面に享禄5壬辰8月吉日奉寄進津木八幡宮藤原之朝臣大江吉家作之とあり、「続風土記」にも之を採用しているが、今は現物がないので確めようもない。(鰐口は現存している。)
神主として上松弥三良国友の名が見えるがおそらく天和(1681)ごろからこの宮に奉仕した社家と想定される。「続風土記」には神主友岡兵庫、社人寺杣孫九郎、川西甚右衛門とあるが、上松弥三郎は、改めて友国兵で、友岡は友国の誤り、川西は川端の誤りと思われる。(享保21丙辰2月と推定される「書上」による。)
因に友国家の子孫は現在不明であり、明治16年6月12日付で、社祠掌友国直之進の名が見えるのが最後になっている。現在境内はよく整備され、八幡本社は鞘堂の中に鎮坐し、旧安楽寺の仏像など別の建物中に保存されている。また旧津木村の忠魂碑があり、境内一隅にこの地区の集会所もある。また、町内では珍らしいイスノキの大木がある。
老賀八幡神社の項を終るにあたって附記しておきたい。前記目録中に棟札3枚のことが出ているが、現存するのは2の分だけである。(どこかに在るのかも知れぬが。)この棟札は、文字が薄れて肝心なところが読めないのは残念であるが。それには

大工紀州在郡東広荘内以下不明
奉造立 熊野大権現御社檀 応永拾5年不明
□□不明


と読めるものである。もしこの棟札が真なりとすれば、現在知られている、また現存しているわが町での1番古い時代の物となる。(1408年)、広八幡神社28枚現存の棟札中でも1番古いものは応永20年のものであるから。ところで、この棟札は実はどのお宮のものだかはっきりしなかった。熊野信仰は古い時代からあるし、社殿も方々にあるから。しかし、今回の古記録調査によって、老賀八幡社宝物古器物古文書目録が見つかって、それに記載されていたので老賀社関係のものと判明したわけである。この熊野権現社は、老賀八幡社の境内社か摂社であったのであろう。もしこの社殿が残っていたら大変なものである。残念なことには今では何がどうなったのかさっぱり判明しない。ただこの古棟札が何かを語りたげに思われるだけである。文中に「在郡」とあって「田」を忘れているのも、おおらかで面白いではないか。もう少し解れば老賀八幡社の創建年代をとく鍵の1つにもなろうものを、今はせんかたなしである。
なお、神宝目録に記載なく、そう古いものではないが今1枚当社関係のものと推定される元禄3年の棟札が現存している。それには

元禄3庚午年 上遷宮之社安楽寺阿閣利快運  安穏快楽
梵字奉寄進妙見大菩薩当村氏子中皆造営霜月9祥日  守護析所
大工 藤原竹中弥右衛門敬白


とあり、その裏に「大工初ハ無神月廿5日酉之時より霜月8日迄ニ成就任候」と書かれていて、その日数がわかって面白い。ところで、この棟札にも場所が書いていないので、どの妙見社のものか確定出来ないが、しかし、社僧安楽寺阿闍利とあるから、おそらく老賀八幡社僧ではなかろうかと推定される。この社と社僧との関係、及び安楽寺とのいきさつは、友国神主家の一方的な記述しか残っていないので、この棟札もその謎を秘めているものかも知れない。(元禄3年は、1690年)。また、中村芝崎にも妙見社があったから、そこなのかも知れないし、いずれにしても合祀のための混乱である。

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6 岩渕の三輪妙見社


広川町下津木岩渕中村鎮座(附 岩渕の宮座のこと)

産土神社  境内周4町  三輪社妙見社相殿
末杜  午頭天皇杜  拝殿

村の中央にあり、津木谷の諸村皆八幡宮を氏神とす。天正15年8月朔日に当村と諸村と座論ありしより、別に当社を産土神とすという。(紀伊続風土記)。

岩渕社  岩渕村あり。此村津木谷の奥にて、人家50町許の間に散在して、人物尤質朴なり。産土神は即当社三輪明神を祀るといふ。社前に嘉吉の年号をしるせる鰐口あり、或説に、南朝に縁故あらんといへりとあり、絵図入りで記載されていて、その模様は現在の姿と大差はなく画かれている。(嘉吉元年は1441)(紀伊名所図絵)。




しかしこの宮も合祀のためか、古い記録は残っておらず、ただ土地の旧家に伝わる「宮寺記録写」がある。(寺院の部の岩渕観音寺の項参照)。
古い物で現存しているのは、享保2年(1717年)の棟札があり、それには、

享保2年  日高郡気佐藤村大工 重五郎
重太良
妙見大菩薩建立村  中社頭  小原仁左衛門
酉卯月吉日    神主  長三郎
庄屋  小原武兵衛
肝煎  彦兵衛


とあり、確証はないがまず岩渕社のものと断定してよいと思われるものである。ほかに社前石段に、

元文4未3月吉日  神主井久保惣十郎
村氏子中


の銘を刻んでいる。この宮は妙見社三輪社の相殿であり、その社殿は同じ大きさ同じ形式であり、おそらく享保2年に新築されたと推定される。しかし、三輪社の棟札は今の所、見えないが。名所図絵にある嘉吉年号の鰐口は、あれば相当なものと思われるが、今は影も形もなく、第一土地の人もこんなことを知る者が居ない。合祀はされたが、社殿も境内もそのまま残していて、毎年ささやかながら祭礼も営んできている。この宮の石垣に添って、わが町内としては珍らしく大きなナギの木がある。(雄株で種子は出来ない)。ここの神木としてふさわしいものである。さて昔、津木村一帯は老賀八幡社の氏子であって岩渕もそうであった。ところが座論のもつれで岩渕だけが離れて三輪明神をお祭りしたのだが、そのいきさつをみると、なぜ三輪神を産土神としたかとの解答にもなるので、要約して述べよう。
古い昔岩渕に小原主膳という人があり、大和国三輪明神と長谷寺の観音様に3ヵ年の月参りをした。ところで、三輪の里に井窪仙斉という人の家に毎度宿を頼んだのだが、仙斉に1人の娘あり、仙斉の頼みで主膳はこの娘と夫婦になり、仙斉ともども岩渕へ連れて帰った。今度は仙斉は主膳の宅から熊野三山権現に参詣を続けたが、一旦帰郷して大和から三輪明神をむかえ岩渕の明神谷へ「紫の庵」を結び、ここへこの神を祭った。ところが三輪神はここはいやだと神託あり、上津木老賀八幡の側にお祭りすることになった。 天治2年8月(1125)であった。
それから時を経て天正15年8月朔日になって座論が起ったのである。それまで椎崎氏、小原氏、井窪氏をはじめ16人の人々で宮座が出来ていたところ、この日、上津木の田中六兵衛という人が、座について争いを起こし、小原、井窪に手向いして、田中は手負って退散した。この騒ぎについて座中一同の挨拶よろしからずとて、井窪は三輪社の御神体を背負って岩渕に帰り妙見菩薩の社に遷し、やがて1社を建立したのだという。ここで三輪社と妙見社と相殿として、あらためて岩渕一村の産土神としたのである。それ以後この宮に奉仕する宮座が出来たのであるが、享保10年(1724)寺堂方、神社方、改帳之写というのを見ると、宮座のことがくわしく記されている。宮座の記録は現在では珍らしいものであるのでこの際これを転記しておくことにする。

寺堂方 神社方  改帳之写 享保10年巳10月  下津木村之内岩渕
南社  妙見大菩薩
毎月晦日朔日御供 社 上申義家々順番ニ御供 但 宮に参り神主に渡可申候
北社  三輪大明神
右当社毎年正月元日御供宮座之事古今より有之候処天正15年丁亥9月に改宮座13屋しき也
13屋敷之事
1、下がいと  1、おむかい  1、西がいと  1、いなや  1、くぼがいと
1、中屋  1、ふる屋  1、うゑ  1、竹のくぼ  1、うしろ
1、かいどち  1、すみや  1、がつがいと
此以宮座13屋敷也 内 番元、相番 1年に2人宛にて相勤但来る正月御供之番元相番前年正月よりくひの火不食筈 猪鹿 しても持申事不成筈 番元は極月に入候朔日より来る正月7日まて毎朝とりかかる筈相番13日より毎朝とりかかる筈来る正月朔日まで
毎正月両社御供之事
1、餅米2升  両当人より1升づつ出す
1、小豆2升3合 内1升3合は当元より出す1升は相当より出す
是はうはかさりにいたし候
御宮にてもち1重の上相置也
1、串柿3把  両当人より出す
1、半紙1帖  両当人より出す
1、くり 28  右同断
1、山いも28  右同断
1、ところ28  右同断
1、おふね大根28本  右同断
右御供米2斗毎極月13日より相当人当元は立合餅米をつき極月27日の夜両当立合当元にて御かさり餅御供につき申候 御供の数29に配る也 但餅を取に御かわとてわけ物あり此内をくぐらせとる也
1、神酒之事

村中家々に不残1軒に米5合宛出し合此内にて半分米を売りはなをかい当元にてから酒に造り申候
以上

(右は岩渕の旧家滝本家所蔵のものを昭和10年 寺杣懐徳氏の書写されたものによる。)
○尚祭礼は旧9月9日にきめていた。

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7 わが町内の王子神社趾について――4社に対して6つの名称――


古い記録や書物を見ると、わが井関、河瀬地区にあった王子神社の数と名称が混乱していることに気付く。実際には4つの王子社があった。そしてその名称が6つになっているのである。まず簡単に王子神社のことについて説明しておくことにする。ここでいう王子社とは、熊野九十九王子神社のことで、熊野参詣の道中にあった小社祠で、九十九は数の多いことを表わしたもので必しも実数ではなかったが、これに近い数はあったようである。本県内では74社あった。
法皇、上皇はじめ皇室関係の人々、それに供奉する者等の大挙しての熊野御幸は、史上でも明らかな如く、その回数といい、信仰の深さといい、その盛大なことはたいしたものであったし、そのまた道中の困難も大変なものであった。この参詣は、宇多上皇の延喜7年の御幸から(907)玄輝門院の嘉元元年(1303)の参詣まで396年の長い期間にわたり実に140回の参詣があった。こんなことからやがて一般庶民の熊野詣りも盛んになったのである。
王子神社は、行幸参詣の際の休憩所になったり、御宿所であったり、時には御歌の会など催されたりした所で、熊野道中の道傍近くに在り、ここではまず必ず潔斉して熊野三山への遙拝をされた社であった。したがって上記の如く長い年月の間に道が変更したり事情が変ったりするし、王子社も最初から一斉に出来たものではなく順次出来上っていったものであり、また反面同様理由からすたれてしまった社もあった筈である。
熊野三山はイザナギ、イザナミの命を祭ったところであるから、その子、アマテラス大神を王子と称え、王子神社はアマテラス即ち皇太神宮を祭ったものと考証されている。(井関の津兼王子社を故老はダイジゴまたダイジグさんと呼んだと伝えられているが、ダイジゴは即ち皇太神のことである。)
以上の如く王子社は熊野行幸参詣によって出来た社であり、現在実測すると大体平均、半里(2キロ)毎に1社あったことになる。九十九王子社の第1番は今の大阪市八軒屋の窪津王子(御幸記の胡沐新王子)で、それから順次紀州路へ入り、県下で最初の中山王子社(旧海草郡山口村大字滝畑)から路々の王子を経て、わが有田郡内に入ると、蕪坂王子、山口王子、有田川を渡って糸我王子、逆川王子(湯浅町吉川)とすぎ、ついお隣りの久米崎王子(国道42号線新広橋の東方山手浄水道所のあたり)を経て、これから広川町へ入ってくる。



広川町では、井関と河瀬地区に4つの王子社があった。(前述したように王子社は一時に一斉に出来たものではなく、主として道路の変遷や交錯によって変化している。このことは歴史篇でもふれるのでここでは詳論はさけておく)。
ここで、この項の表題にかかげた問題にうつるのであるが、表にすると、

1、津兼王子社
2、井関王子社  この2王子社が混乱している。
3、川瀬王子社  川を片仮名のツと読み違えてツノ瀬王子これを又漢字にして角瀬王子としている。
4、馬留王子社  これを沓掛王子ともしている。

となるのであるが、津兼王子社と井関王子社は同一の社と思ったか、またどちらか一方を忘れたかしている。
古い所では建仁元年の「御幸記」(1201)も、江戸末期の続風土記の記事もともに、津兼と井関とを1社に見なして井関王子としている。そして1番新しい所で、明治41年10月19日神社合祀の際の神名帳に、津兼があって井関が脱けている。これらは同じ井関地域内で、あまり遠くも離れていない所に2つの王子社があったからおきた混乱だろうが、その根元は道路の変遷からであろう。熊野への最初の路(俗に小栗街道という)に出来たのが津兼王子社で、その後熊野街道が出来てから井関王子が出来たものと思われる。井関王子社は字先開にあった(跡地は田になっていたが現在鶏舎が建っている)。津兼王子社は字津兼にあったのである。(その跡地は柵林などになって1寸所在が判明しがたい。なお、津兼王子社のことについては、井関の稲荷神社の項を参照されたい。
以上実際は2社あった神が、名称によって1社しかないかのように錯覚する例である。神社合祀までは2社とも存在していたことは地元の故老も知っている。
つぎに津兼王子社趾から約2キロ、河瀬字内垣内143番地とある所に川瀬王子社があった。河瀬の橋を渡り鹿瀬峠を目ざす道の右手小高い所にその趾があるが、大きな岩石があり石段も残り、小さい森になっている。北側は広川、南側は人家に接し西側は畑地になっている。川瀬は河瀬である。そこで川の字を片仮名のツと読んで、昔の書にはツノセ王子としている。一口に言ってしまえばツも川も津も同じで、津の瀬王子と書いたのもある。
今は河瀬(ゴノセ)に在るので、ゴノセ王子趾と呼んでいる。またツノセを漢字の角を使って角瀬としたらしいが、之は誤りだと続風土記にもことわっている。跡地は割合に判明しやすい所である。川瀬王子跡から河瀬部落の中を貫く道は、次第に上り路になっていく。約1キロばかり行くと鹿瀬峠の坂道にさしかかる手前、左側すなわち山手の竹藪や雑木林になった所に、馬留王子跡がある。現在ではほとんど判然しないほど植林や畑地開墾されている。地籍をいうと河瀬字奥丁399番地だが、今は昔より張げられた道路わきに、馬留王子社跡の石標が特志家の手によって建てられている。この王子の名は「御幸記」には見えていない。したがって建仁以後に設けられたものと推定されている。
ところで、馬留の名義であるが、これは読んで字の如く、このあたりからは馬の使用がむづかしいので、下馬して徒歩することである。この馬留の名がいつの間にやら沓掛王子の名になってしまっている。沓掛の意も、馬や輿から下りて、草沓をはくことである。したがって名義からすれば、馬留も沓掛も同じ意味になる。ところが峠を越した向う側に、ほんとの沓掛王子社があるので明らかに間違っているのであるが、江戸時代にはすでに沓掛王子と称えていたので、その証拠の1つはここにあった石燈篭の柱に

元禄拾参年沓掛王子権現元矩建之

と刻されているのを前田本山八幡社の1隅で発見した。石柱だけしか残っていないが。合祀の際、運んで来たのであろうが、淋しい姿で石柱だけが建っている。これによっても馬留王子は沓掛王子と呼ばれ、江戸時代には、かえってこの名の方が通用していたのであろう。(元禄13年は1700)
熊野道中記にも、沓掛王子 河瀬村はづれと記されている。

合祀のときの神名帳には「馬止王子神社」と留が止になっている。全般に熊野九十九王子社は、御幸のことが絶えてからでも、熊野参詣の人々や附近部落の人々から崇敬され護持されて、中には土地の産土神になったり、特別な神事や信仰が起こったものもあった。道や土地の変遷のため早く廃されたものや、最初の位置から場所替えしたものなど、さまざまであったが、明治の合祀までは、そのほとんどが存在していたのである。

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8 井関の稲荷明神社


広川町井関字宮前鎮座(附、霊泉寺及津兼王子社のこと)
紀伊続風土記に、井関の稲荷神社について
稲荷明神社  境内山周10町
祀神  稲荷社 祇園社 2社各4尺3寸
未社4社  金毘羅社 秋葉社 白狐神社 疱瘡神社
摂社  里神社 境内にあり
村中稲荷山にあり。と記載されている。


伝承によると、この神社は大治3年(1128)ごろに勧請されたとあり、その縁起によると左の如く述べられている。

大治2年10月、白河法皇が、熊野御幸のみかぎり、病のため、しばらくこの地で休息された時、しきりに水を求められた。しかし万一病にさわることがあってはと左右の者たちがためらっていた。そのおり、何処からか一老翁が現われて、1腕の水を献上した。法皇はその水を召されると、忽ち気分が爽快となり、ために病を忘れられた。法皇は、ことのほか喜ばれて、この水のことについて御下問されたところ、老翁は答えて、この水はこの地の霊泉であり、稲荷神の供水である。また、お供の洗米もこの水で洗うのである。と告げるやその姿を消した。ふと見ると、1匹の白狐が走り去って行くのが見られた。法皇は感激されて、しばしこの地で留まられたが、後日命じて1社を建立され、稲荷神、祇園社、加茂、春日、八幡の神々を勧請、その本地仏として十一面観世音菩薩も祭られた。また、御神体は上皇建立の神鏡であり、観音像は聖徳太子の御作とあがめられた。
これで社殿と本地仏を安置する堂舎とが完成することになったのだが、この建立の奉行は、湯浅五郎政宗というと伝えられている。観音を祭った堂は其後白井山宝厳院霊泉寺と称したが、この白井山は白井原の地名からきたもので、白井原は、稲荷供米の洗米のため白い水が流れるからきたのだという。

以上の様な縁起であるが、その後年を経て文和年中(1352)、熊野別当蜂起による兵火のため、この社も寺も焼失してしまった。それ以後仮の堂舎を建てて、衰微の中でも祭りは絶やさず続けてきたって長い年を経て来た。それでこの稲荷社も、霊泉寺もその創立の起源を同じくし、霊泉寺は社僧として稲荷社の奉仕をしたのである。社記によると、元和5年ごろ(1619)社殿は再建されたとあるが詳細は不明である。降って安永3年(1774)、霊泉寺の宝厳という僧が官許を得て堂舎を再興、このときから前記の如く寺号山院号を許されたのである。また、上記の縁起を書いた人は先祖が遠州の浪人であった人の子孫で、西島仁衛門という人であるが、昔この一帯を「中島村」といっていたのが、「井関」と地名を改めたとの記事がある。

さて、明治の世になって行なわれた神仏分離令によって、今まで稲荷社と境内を同じくし、その社僧でもあった霊泉寺は廃されてしまった。そして本地観音菩薩は堂とともに、井関円光寺境内に移され現存している。その堂舎は、一時、井関小学校の校舎として使用されたが、後に学校を新築するとき取り払われてしまった。現在の南広小学校井関分校の校地は、もと稲荷神社と霊泉寺との境内であったわけである。
さて、霊泉寺は分離されて無くなったが、稲成神社は、明治9年に井関村の住民全員が、当局へ願い出て、井関村の産土神とし、社格を「村社」にしてほしいと要望した。それまでは井関村は前田村本山八幡社の氏子であった。それで、稲荷社の祭礼のときは、まず本山八幡社へ出礼し、次に広八幡社にも出礼する例になっていたのであった。やがてこの願は許されて、井関村社稲荷神社として再発足した。(10年1月)。そして井関村だけの氏神として明治13年8月14日祭典を挙行することになった。後益々祭典を盛大にし、明治15年には、青木村(湯浅)から、武内熊太郎、新田栄蔵、児島春松、金丸徳蔵、河瀬文三郎の5人の方を招いて、オニ、ワニ、シシの3面の指南を受けて、本格的な祭礼を行なうようになった。そして渡御の御旅所を、津兼王子社とすることに定め、そのために津兼王子社の境内を拡張、これは村持の田2畝10歩を取り入れたのである。(津兼王子社のことは別項にも述べたが、この事実から井関王子社とは別であり、昔から津兼と井関の両王子社が混同されたり、どれか一方を無視されたりしてきたのであった。)
当時この世話人として、戸長であった長谷荘兵衛、筆生宮崎金兵衛、宮守であった小池大輔らの名が見える。
また、村社昇格の申請書には、田村(湯浅)の国主社祠掌の樫原方平、湯浅顕国社祠掌の下条半蔵、千田須佐社祠宮小賀安諦雄、津木村戸長の椎崎角兵衛、小区長の岡文一郎らが連署している。こうして出来た井関村社稲荷社も明治42年4月2日、神社合祀のため前田本山八幡社へ合祀されてしまった。津兼王子社も同様。(明治41年10月30日)
明治の初年ごろに「有田郡宝物取調目録」が出されているが、それには

井関村 稲荷社
古鏡 銅 白河法皇建立
刀 不詳  刀 不詳  短刀 仝


と報告されている。なお、合祀の時の神名帳には

祭神 応神天皇 宇賀魂命 武角身命 素盞鳴命 天児屋根命

とし、氏子は90戸と記載されている。現在では1且合祀された稲荷社も再びとり返してきて、井関分校運動場に面した高地に祭られている。
霊泉寺の跡は現在分校の校舎のあるあたりで、分校の出来たころまで、この寺の堂舎を利用してきたことはさきにも述べた。当時は、その庭に実に見事な「五葉松」の老木があったのだが、戦時中にこれも伐り倒され、今では何もかもその痕跡をとどめていない。歴代住僧の名もわからず、ただ古記録に見える宝厳と玄性という僧の名を知るのみである。またこの寺は京都勧修寺派であった。津兼王子社は江戸時代まで聖護院宮や三宝院宮が熊野参詣のときは必ず立寄ったのだが、合祀の後その趾地もはっきりそれとわかる何物もとどめていない。

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9 名島の妙見社


附  妙見信仰について

昔から広川町各地区には多数の妙見社が祀られていた。合祀によってほとんど忘れ去られた祠もあるが、今に至るまで、この祭祀を昔どおりの方式によって続けられているのは、名島地区の人々である。それは「宮座」とも「講」ともいえる。名島の妙見様は神社合祀を実施されてからも連綿として祭りを続けてきたのである。(現在の社殿は昭和24年9月13日の再建で、美しい小社である)。名島地区は上組と下組とに分れているが、妙見社の祭りは上組から初めて下組へ移っていくので、この祭りに奉仕する神主は3人のきまりである。3人が「くじびき」で1・2・3の序をきめて1にあたった者は「帳頭」といって、この祭りの講の宿をする。
まつりの当日は村中1軒に1人は必ず参加する。但しその年に死人の出た家は遠慮する。妙見様へのお供えは、4角の膳へ5皿の品を作る。1つは、「なます」と串柿。2つは「くるみ」。3つは白豆腐2切にセリの葉を添えたもの。4つは大根、人参、ごぼう、凍豆腐を「水引」で結えたもの、5つは洗米である。そしてやはり箸を添える。ただしその箸は必ず「ハコヤ」の木で作ったものでなければならない。太さは指ぐらいのもの。ところで、「ハコヤ」の木は、このあたりは少ないので探すのに骨が折れる。幸い折工の池の堤に1本だけ生えているのを大切にして、毎年この枝を使うのだそうである。お供物にも、特にこの箸などに何かいわれがあるのであろうが、それは現代ではもう、わからなくなっている。
その年あたった3人の神主は、各の名を半紙へ書いて次の年へまわす。この半紙をつぎあわせて巻物が出来ている。それを見ると現在残されているのは安政3年(1856)からのもので、最初に、安政3年辰正月13日改とあるから、それ以前のものもあったに違いないが残っていない。それでも安政3年といえば120年以上になる。そしてそれを納める古い箱があるが、それに天明6年丙午の墨書がある。(1786)こんなことから、天明以前からも続けられてきたものであろうと想像される。お祭りは昔から毎年旧の正月13日である。それから、これほどではないが、東中の妙見さんにも講があるそうである。
広川町内では妙見社の数が、他の神々にくらべてその数が多かったようである。特に旧津木地区では9社を数え、旧南広地区では4社が記載されている。 (旧広地区には1社もない。)ということは、農山村地区に一時妙見信仰が広く行なわれていたことを物語るのであろうが、これにはなにか理由もありそうに思えるのだが、今の所はっきりしない。もともと、妙見は北斗星を神格化したもので、インドで起こり仏教とともに中国に伝わり、やがて日本へも来た仏様の部に入る神である。それで妙見大菩薩と称える。この神は、天災地変の防除、延命長寿、とくに眼病を治療してくれると信ぜられている。この妙見を日本の神としたのが、国常立尊(くにとこたちのみこと)だとしている。そこで、妙見社は純日本の神として祭ったのか、仏教の神として祭ったのか判然としないが、そこは昔の人たちは、神も仏もともどもさしたる区別なしに祭り拝んでいたのであろう。それにはこんな例がある。
岩渕の産土神は三輪明神と妙見大菩薩の相殿であり、妙見を神社としているのであるが、これには以下のような伝承がある。今ある観音寺は、もと妙見寺といって、その本尊は妙見大菩薩であった。ところが弘仁元年9月、実慧僧正という僧がこの地に来て、この妙見を地下(ぢげ)の氏神としてまつり、寺の本尊は観世音菩薩とした。
それで妙見寺を改めて観音寺とし、山号は北斗山としたのだという。(北斗=妙見)。それから天正15年になって津木村内で宮座について座論が起こり、そのもつれで岩渕地区は、それまで氏神としていた老賀八幡社から離れて、別に大和の三輪明神を勧請してここで妙見と相殿として産土神にしたのだということである。この伝承によるとずいぶん古い話である。ところで、それではなぜに妙見社が数多く祭られてきたかの理由の説明にはならなかったが、徳川中期以降この神の信仰の高まったことは事実で、合祀されてしまった今日でも、妙見講が細々ながら伝わっているし、ここに述べた名島の妙見講の例もある。

たいてい、ほかの妙見社の祭りの行事は、特別なことはなかったらしく、その参詣人は、小さい「紙のぼり」を作って参詣道の両側へ立てる例も残されている。おおかたの妙見講は、大阪府下能勢町にある能勢の妙見さんの影響か、仏式で祭ったようである。ともかく神様としても仏さまとしてもどちらでからでも一般民衆の信仰をあつめたものであった。そして国土の安全、家内安全福寿多からんことを祈ったのである。妙見の功徳は上記の外、「外道つきもの」を除き、また、馬の守護神でもあったという。

10 三船の森とイタチの森


――行方不明の神々――
神仏分離さわぎと、神社合祀のどさくさで、その後の行方がわからなくなった神や仏も数あったであろうと想像されるが、ここにその1つの例として、三船森(井関)と、イタチ森(池上)をあげてみる。三船森は、続風土記にも「社地周28間村中稲荷山の南にあり」とだけ記載されている。霊泉寺や稲荷神社(井関)の古い記録によると、安永3年(1774)に霊泉寺を再建した時には、すでに祀られていて、稲荷社の摂社として霊泉寺から世話をしていたという。祭神は珍らしく「雷龍神」と記されている。たぶん雨にちなんだ神であったろうか?社殿は始めからなく「森」がその神の依代(よりしろ)であったのだろう。土地での伝承は、1本木という大木があって、そこに「巳さん」が居り、それを祀ったのだという。この祭りの日には、竹馬に乗ってお渡りをしたと伝えられている。
合祀の際には、忘れられていたのか神名帳には見あたらない。三船の森の名は、池の名となっている三船池と何か関係があったのだろうか。

今1つ池ノ上にイタチの森というのがあってこれも行方不明である。ここも森自体が神であったもようで、イタチの名義はわからない。まさか動物のイタチではあるまい。あるいはイタキソの森がなまって、いつか知らぬ間にイタチになったものかという人もある。イタキソであれば、木材の神である。いずれにしても昔の村々には、そこに住む人々によって祭られてきた神々は、外面的には何んの威厳もなく、社殿はあってもおそまつなものであり、うっかりすると祭神すら知る者もないというのが多かった。しかし人々はそれでよかったのである。よき風向きを祈り、ほどよい降雨を願い、人の身や地下(ちげ)から悪霊を除いてくれると信じてささやかな祭りを続けてきたのであった。この素朴な心理は科学万能といわれる今の世と云えども、じっと考えてみれば、あながちに笑えることではなかろうではないか。ところで、イタチの森は、池上下代の通称オイケにあった弁財天社の森と同じ所だとも、その附近だったともいう伝えもあるが、これもはっきりしたことはわからない。

11 かみくさの滝の社


津木中村の旧国道から右に切れて、猪谷に向かう道路わきにある小祠である。こぢんまりした社務所もあり石燈篭も立ち、近いころに建替えられたと思われる小社殿がある。社殿の前は岩盤が露出して細い滝水が流れ、その下が泉のようになっている。水は僅かである。いつのころからかこの水が「瘡」や「あせも」に効くとて竹筒をもってこの社に参りその水をいただいて帰る人が多く、一時は大いに盛えたらしく祭りの日には赤、青、黄など色とりどりの幟が立ち並び、その寄進者は遠く大阪、奈良方面にも及んでいるという。岩から伝い落ちる水になにか薬効があるらしく、皮膚病などに多少効果があることは事実らしい。「続風土記」には記載はないが、「名所図絵」には「上草滝、中村にあり。厳よりつたひ落つる泉なり、瘡を治すといふ。」とある。

12 殿のオケチ大明神


オケチ社、オケチ大明神、気鎮社と呼ばれている祭神不明の社がある。わが町の殿、中通りに今も鎮座する(いったんは合祀された)オケチまたはケチ明神は昔から土地では信仰あつい神である。ところでこの神の呼び名であるが、文献などでは「気鎮」としている。宝暦9年(1759)の「有田郡神社号覚」という当時有田郡5名の大庄屋が調べて書上げたものによると、気鎮社として湯浅組では殿村と田村、宮原組では道村の3社が報告されている。(その後宮原組畑村にもあったことがわかっている)。これで全部で郡内4社で、他の神々にくらべるとその数が少なく、広く県内全体をざっとみてもあまり見当らない神である。
紀伊続風土記には畑村のものは記載されていない。他には和佐荘弥宜村(現和歌山市)に産土神として記載されているが、やはり祭神が不明だし、気鎮という名についてもいろいろと考証してあるが、結論としてその解訳がはっきりしていない。さて他郡のことはいちいち詳細に調べるゆとりがないので郡内だけに限ってみて、宮原と田と殿の3ヵ所にしかなく、いずれも祭神は不明であるがそれぞれの土地では厚い信仰を受けていたもようで、畑村などでは101人で講を組み、講田もあって盛大な祭りをしたという。
ところで例の神社合祀で宮原も田も、宮原神社と国津神社とに合祀されてその後のことはさっぱりわからない。それで現に祭りを絶やさずに続けているのは殿だけということになる。
わが殿の気鎮社は土地ではケチ大明神と呼び、社殿はなく石積した台上に高き一定ぐらいの鋭3角形型の石を神体とし、浅い森中にあり、かたちばかりの拝殿がある。拝殿の傍にある石燈篭のに、明和8年(1771)辛卯8月、毛知大明神と彫られている。現在も3月7日にはお祭りをして、大量の神酒を寄進し、盛んな餅まきもあり、家々には祭り客も迎えて盛大に行っている。さきに述べた田や宮原の気鎮社も神体は石だと伝えられていて、祭神名は不明である。
殿ではこの神の本態は「巳さん」だと信じられている。この信仰はおそらく真だと思われる。巳さん即ち大蛇は古来神としておそれ尊うとんだもので、やがて農業神ともなったものであるからである。
続風土記の考証のなかに、ケチは弓を射る神事の名であり、それを気鎮又は弦鎮と書いたもので、悪魔を降伏する名義であるとの意味のことも記載されてはいるが、土地の人々の信仰とはぴったりとこないと思う。神名や祭神がはっきりせずともその土地を守る農業神と考えてよかろうと思われる。(この項については宮原神社より教示を受けたことを感謝する。)

13 合祀された神々


さきに述べたように明治42年ごろまでに、わが郷土の神々は1村1社の原則にしたがって、ごちゃごちゃと一緒にされてしまったのである。以下それらの神々についで現在判明していることについて説明しようと思うが、なんといっても資料不備で、肝心なところがわからぬことが多い。便宜上町村合併以前の行政区画で記述していくことにする。旧広地区、旧南広地区、旧津木地区として、あくまで便宜上、わかりやすくするためである。

旧広地区の部(和田を含む)
大神社(お伊勢さん)  南市場にあった。この社は早く明治12年7月に湊ノ丁にあった大将軍社に合併されて、後に今度は一緒に、広八幡社に合祀された。社記に「伊勢大神宮神鏡一面、干時文明7年乙未12月吉祥日、伊勢国渡会郡山田外宮内殿3神鏡、蒙勅許神主杉本光良供奉之、勧請千紀伊国有田郡広浦宝殿矣」とあり、再建の棟札に「紀伊国有田郡広之庄者、伊勢外宮御師権弥宜従4位上荒木田神主堤左衛門佐祈?也。往古より広浦に有旅館、天明寅年秋9月広之店内奉加、補破損宝殿、子丑之方ニ向ケ奉移者也、時之執事堤左衛門佐」とある。この社の跡地は今は宅地になっている。

午頭天王社(祇園さん)  南之丁にあった。祭神はスサノオノ命、由緒に「当社は往昔広荘繁盛之際にあたり、東広荘中人民の頭首たる荘司某、城州葛野郡八阪祇園社より勧請せしを、光陰流れつき広村漸々衰頽せるより祭祀もすたれしを宝永4年(1707)、疫疾流行の際、神夢に因て祭礼を再興し6月7日を以て祭典を行う。」とある。この跡地は、さわると崇るといわれていたが、後にキリスト教会の敷地になった。現耐久中学校門左側にあたる所。昔は大きな森で「モチノキ」があり、子供たちはそれで「鳥モチ」を造ったりして遊んだ場所だという。

国主明神社(鳥の森)  字森上にある。もとは大きな森であって、カラスの森といい、土地の人々になつかしいの名であった。口碑によると、田村(湯浅町)の社から勧請してきた大巳貴神で、建久7年丙辰6月、雪祭(あまごひ祭)のため此処に祀ったが、其後兵乱などのため廃滅したのを、永正4年丁卯9月16日、竹中久輝という人が神夢託宣によって再興したのだという。俗に「ナマズハゲ」(1種の皮膚病)を治す神という伝えがあった。毎年秋祭りをした。広八幡社へ合祀の後は、森は無くなったが、小祠を残し、今に祀り続けて毎年夏祭りを行なっている。

大将軍社(鳶の森)  字沼政にあった。トンビの森といって親しまれた。祭神は磐長比売命といい、嘉吉3年5月6日、吉見左近入道與竹斉という人が、豆州天城郡大将軍社より勧請したと伝えられる。この森とは当時樹齢4百年ともいわれた楠の木の大木が繁っていたという。 ここの祭りはカラスの森と同じ日に行なった。広八幡社に合祀後は、その跡かたも無くなってしまった。

恵比須社(西のえべっさん)  字大浜にあった。祭神は事代主神、畠山尚順入道下山が広海防堤を築造した時の護り神として勧請したのだという。毎年夏、夜宮といって祭礼をしたが広八幡に合祀、あと地は石灰製造工場となったが、今はその工場もない。

恵比須社(湊のえべっさん)  天州にあり。祭神は事代主神、蛭子神、大昔、広荘の漁夫紀ノ鳥養という者が、島で神の声を聞き、その夜、浜の巽隅に光るものがあるので近づいてみると、その形が釣魚している格好に似た石を見つけた。それを神体としたのだという。其後建徳2年6月仁木六郎という人が再興して蛭子命を合祀したものだと伝えられる。広八幡に合祀された後も毎年夏祭りを行ない社殿境内もそのまま残されている。合祀合併当時のこと浜口吉衛衛門氏が、これを惜しんで社殿も修理し、あやうく伐り倒されんとした老松も保護されたのだという。

大将軍社(だいとぐさん)  湊ノ丁にあった。祭神は磐長比売命、昔、曽我秀経という者がこの地に漂流してきたのを土地の人が助けた。その秀経が身につけていた伊豆国天城神社の神符を祭ったものという。また別の伝承では、広の石防波堤を築いた人が費用が多くかかりすぎたので割腹して果てたのをお祭りしたのだともいう。広八幡社へ合祀後跡地は宅地になっている。ここには当時樹齢3百年ともいわれた「イチョウ」の大木が繁っていたが、勿論伐り倒されてしまった。いつのころからか「カラスの森」の祭礼のとき子供御輿が出てここまでお渡りしたものだとのことである。

鎮々社(スズメの森)  字森下にあった。祭神は天照向津媛大神荒魂という。応永21年正月、畠山久友が祭ったものだという。

鎮々はチンチンでスズメの鳴き声になぞらえてスズメの森と呼んだのか。ゆかしい呼び名である。また1説にはこの神も浜の石垣防波堤の築造となにか関係があったとの伝承もある。

祇園社(午頭天王社)  大字和田天皇谷にあった。祭神は素盞鳴命、この社はもともと山本乙田天神社の扱いであった。それが、天神社ともども広八幡社に合祀してしまって由緒など一切不明になってしまっている。今ではその跡地もはっきりしない。寛永年間この地を開発した永井氏と関係あるやもと想像されるが一切は不明である。

藻苅社(はと神さん)  大字和田天皇谷、徳川頼宣(南龍公)を祭った小社で、寛文中に頼宣は天王の波戸を築いてくれて以来村民がその徳をたたえて祭った。後年、宝永4年10月4日の大風浪のため波戸は破壊、寛政5年再築した際、神前に海藻などをお供えしたところから藻苅社と称えるようになった。神体は頼宣の木像であったという。広八幡へ合祀後はその跡もしかとわかりかねるが、波戸のつけ根のあたりに木製の小鳥居のあったことなど記憶している人もある。ちなみに南龍公の徳をたたえ報恩のために建立した社は、有田では、ここと矢櫃との2ヵ所であったが、矢櫃では今も立派に祭っている。広地区では、上記9社の神々が合祀されたが、今も祭祀されているのは、鳥の森さんと天州の恵比須さんだけである。

旧南広地区の部
旧南広地区で合祀された神々は、山本地区では
乙田天神社(この神社のことは別項で記述する。)山本、西広、唐尾、和田の氏神であった。
高良明神社(白木道入口右手高地にあった。巨大な楠があったので楠神さんといっていた。)
弁財天社(元蓮池傍に在った。今は黒岩下に場所を変えて再び祀る。境内に崇る石あり)。
雨師明神社(明神山頂巨巌の側に今も祀る)。

氏神社(現在も森があり小祠を祀る。)
神明社(池上、再び祀られた。)
弁財天社(仝、田の岸に跡あり。)
里神社(仝)
以上の8社である。中野地区は
大将軍社(再び祀られた。)
住吉社(右仝)
庚申社
以上3社、いずれも森があった。このほかに、東南方南金屋近くに妙見社があり、大杉があったという。

西広地区
妙見社(もと西広尋常小学校〈後に分校〉の校庭のようになっていて、そのころまで森もあり、ズクノキ〈ホルトノキ〉の大木があったという。)
宇佐八幡社(鳥羽家の氏神であった。)
弁財天社
立神(小浦の小湾の岬厳石重畳したところ、再鎮座して祀る。)
以上4社。

唐尾地区
里神社

権現社(上宮と下宮とあった)権現森と呼んでいる。 (再び祀られた。)
以上2社。

金屋地区
庚神社
弁財天社(再び祀られた)
以上2社。

中村(東中)地区
妙見社

名島地区
妙見社(別項で記述、祀りは絶やさない)。

柳瀬地区
妙見社(再び祀る)広八幡境内に明和4亥正月吉日(1767)銘の柳瀬邑、妙見大士の石柱がある。
以上それぞれ1社。

殿地区
午頭天王社(村の南山手にあったという)
気鎮社(再び祀る。別項参照)
以上2社。

井関地区

稲荷明神社(一時は井関村の氏神であった。再び祀る。別項で記述する)。
井関王子社(どこへ合祀されたか不明。)
御船森(合祀の際不明となる。神名帳に無し。)
神明社
津兼王子社
以上5社。 (別項記事参照)

河瀬地区
川瀬王子社

鹿瀬地区
馬留王子社

以上それぞれ1社。(別項記事参照)なお、井関、河瀬(鹿瀬を含む)は、前田本山八幡社の氏子であった。したがって合祀された小社は「津木地区の部」でも述べる。
これら30社にのぼる神々が、中野の八幡神社(広八幡社)と、井関と河瀬とは前田本山八幡社へ合祀されてしまった。南広地区の小祠については、今の所資料不足で、その由緒や由来がはっきり判明しがたいのは残念である。明治42年ごろまでに合祀のことは終了したようである。しかし現在では、いったん合祀された神体を元の場所へとりもどしてきて、新たに社殿を造ったり、境内を整地したりして、それぞれの地区の人たちによって祭祀を行なっているものもある。しかし、もとより昔日の景観は見るべくも無い。

津木地区の部
旧津木村の小社についても、記録が不備で細かいことについては不明である。しかし、合祀された神々の所在地や合祀の年月日が判明しているのでこれを列挙し、その間に知り得たことを記入することにする。もと津木村には3つの氏神があった。
前田の八幡神社(もと広八幡社の旧地であったとて本山八幡社といった。)前田、河瀬、鹿瀬、井関、殿、金屋を氏子にもっていた。
上津木中村の老賀八幡社 猿川、寺杣、滝原、落合、中村、猪谷を氏子としていた。
岩渕の三輪、妙見社岩渕の産土神としていた。この3神社を1とまとめにして、津木村八幡神社として1社にしてしまったのである。それは、まず最初に上津木石塚に鎮座の、老賀八幡社を、大字前田宮前の八幡社(本山八幡社)へ移転してきたのである。明治42年4月8日である。これで老賀の名は消えてしまった。と同時に本山八幡社の名も消えた。そして津木村大字前田字宮前鎮座 村社 八幡神社となったのである。そして、

1、祭神  応神天皇 神功皇后 武角身命 宇賀魂命 素盞鳴命 天児屋根命 帯仲比古命 大物主命
1、社殿  本殿 祝詞屋 拝殿 舞台 神庫
1、境内  1624坪
1、氏子  390戸

として次に境内神社を、
1、境内神社

祭神  大物主命 国常立命 御食津神 猿田彦神 秋積神 金山彦神 王子神 
大山祇神 皇太神 不詳3座

邇々芸神社  祭神 邇々芸命 国常立命 金山彦命 奥津彦命 皇太神 不詳4座
早玉男神社  祭神 早玉男命 管原道真 国常立命 市杵島姫命 神武天皇 
大山祇命 金山彦命 武内宿称 櫛名窓命 豐名窓命 不詳1座
若宮神社  祭神 不詳3座


以上の4社とし、
このようにして津木村社ができあがった。そしてこの神社の本殿と、境内神社とへ旧津木村内の小祠と、もと本山八幡社の氏下であった井関、河瀬の小祠を、それぞれの社内に合祀したのであるから実にややこしいことになってしまっている。以下それらの神々を列挙すると、

稲荷神社(南広村大字井関宮前)  この宮は井関の地区民の総意で、明治初年に本山八幡社からいったん別れて、井関村だけの氏神としていたのを明治42年4月25日、本殿へ合祀。
八幡神社(津木村大字前田字宮前)  これは元の前田本山八幡社であるが、同年同月同日本殿へ合祀。
三輪、妙見社(津木村大字下津木字岩渕)  岩渕地区の産土神であったのを、明治40年6月25日、本殿へ合祀。
妙見神社(下津木字清水崎)  これは早くも明治35年8月8日に境内社大物主神社へ合祀。また下津木丸山中にあった妙見社も右と同様。
疱瘡神社。白狐神社。里神社。秋葉神社。金毘羅神社。  以上5社はもと井関稲荷神社の境内社であったのを1括、同42年4月25日、境内社大物主神社へ合祀。

津兼王子神社(南広村大字井関字北垣内)
川P王子神社(同村大字河瀬字内垣内)
馬止王子神社(同村大字河瀬奥ノ町)
山王神社(同村大字河瀬字峰)
明神社(津木村大字前田字葛?河)
三輪神社(津木村大字前田字露谷)
山神社(同村、大字前田字柳)
太神社(同村大字前田字串子口)
所主太神社(同村大字前田葛籠河)
山神社(右に同じ)
以上10社は明治41年10月30日、境内社大物主神社へ合祀。

権田神社(津木村大字下津木字権藏原)
妙見神社(右に同じく字東中)
以上2社は明治35年8月8日、境内社である禰々芸神社合祀。
妙見神社(津木村大字上津木字湯宝)
岸神社 (同村大字上津木字岸)
金毘羅神社(同村大字上津木字道通)
荒神社(同村大字上津木字下垣内)

八王子神社(同村大字上津木字高野)
以上5社は明治40年7月1日、境内社邇々芸神社へ合祀。同年6月25日に同社へ合祀されたのに、里神社、大神社ともに岩渕の三輪神社の境内神がある。

天神社(津木村大字下津木字公門原)
妙見神社(同村大字上津木字夏明)
この2社は明治35年10月5日に境内社早王神社へ合祀。

弁天神社(同村大字下津木字塚野原)
妙見神社(同村大字下津木字寺杣谷)
この2社は明治40年2月15日に同じく早玉神社へ合祀。

妙見神社(同村大字下津木字宮前)
これは明治40年6月24日に
栗宮神社(同村大字下津木字公門原)(この神名を栗野としたものもある、どちらとも判明しない。)
は明治40年7月1日に
山神社(同村大字下津木字高畑)
妙見神社(右に同じ)
この2社は明治40年6月24日に

山神社(同村大字下津木字垣立)
は同年6月25日に

金毘羅神社(同村大字前田字宮前八幡神社の境内社)
同じく
高良神社、地主神社の3社は明治42年4月25日に
門神社(同村大字上津木字石塚老賀八幡神社の境内社)
山神社(右に同じ)
この2社は明治42年4月25日に、いづれも境内社早玉神社へ合祀。
滝神社(同村上津木字沼田
明治40年7月1日に
若宮神社(同村前田八幡神社境内社)


これは明治42年4月25日に境内社若宮神社へ合祀。と実にややこしいことである。津木村では、どうやら他村よりもさきがけて合祀を行なったもようである。しかし、それから幾年、昭和22年8月30日、老賀八幡社は社殿ともども元の場所にもどされた。岩渕の三輪、妙見社は合祀後も社殿はもとのまま残して、村人はずっと祭りを続けている。井関の稲荷社も、もとへもどして新しく社殿を設けてお祭りしている。そのほかに公式ではないが、元の場所で、年1回2回ささやかな祭りを行なっている小社もある。(たいていは餅まきなどして)。以上津木地区における合祀と、その後と、現状とである。
さて、上記のことによって思うことは、「お上」の命令で、あっさり合祀してしまい、その跡地や立木などを公売、社殿什物などは滅却してしまったもの。おもてむきには反対せず、かたちだけはひとまず合祀しておいて、その実、御神体はここに留まりおわすのだと信じて、社殿も境内も残しておいてひそかに祭りを続けてきたもの。

せめてその跡地だけでも残したいと、目標になる石柱など建てたり、石燈篭など全部移してしまわないでひとつぐらいは残しておいたり。また禁忌の地として―例えば、そこをさわると崇りがあるなど−そっとそのままにしておいたもの。なかには幾年かたって公然と取り返してきて、再び社殿などを新築し、境内も整備してお祭りをしているもの。などと、実状はさまざまな結果となっているが、いずれにしてもはっきりと言えることは、合祀によって「得られた」ものは何ひとつなく、「失ったもの」は、精神面からも、物質面からも、はかり知れないことを知るのである。

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宗教篇  寺院の部

4、寺院総説


わが国に仏教が公伝されたのは6世紀、欽明天皇の時代といわれている。そして、最初は大和の中央豪族や大和朝廷に受容され、特定豪族の現当為楽、朝廷の鎮護国家のための仏教であった。そのような目的で、飛鳥時代から造寺造仏が行われたこと史上に明らかである。
この造寺造仏の風習が奈良時代となると、中央はいうまでもなく地方にも及び、有力な地方豪族の間においても自分達の居住地附近に氏寺を建立した。また、朝廷においては、鎮護国家、国土安穏のために幾多の官寺を建立したほか、諸国に詔して国分寺を建てさせた。和歌山県においても紀伊国国分寺、国分尼寺は、那賀郡岩出町の地にその遺跡を留めている。しかし、国分寺以前既に、この紀伊国にも寺院建立の事実があったこと、その遺跡や出土品によって立証されているところである。他の郡市のそれについては省略するが、有田郡においては、吉備町大字田口の上須谷田殿廃寺址出土の白鳳前期古瓦はその間の事情を物語っている。この奈良時代前期の古刹は、当時の郡家が建立した官寺に類するものか、はたまた、附近の古代豪族の氏寺であったか、いまにわかに判断するを得ないが、現在有田地方における最古の寺院址として注目を惹く。
前記寺院址に次いで古いのは、有田市宮原町滝の多喜寺、吉備町大谷廃寺址(築那院跡)の奈良朝後期。宮原町東の旧円満寺址も奈良朝末期か平安初期。以上若干の遺跡は明らかに奈良時代仏教文化の地方波及を物語るものであるが、当時の仏教の特色は、国家仏教若しくは貴族仏教であった。その奈良時代天平のころ、奈良の都では三論・成実・法相・但舎・華厳・律のいわゆる南都六宗が成立し、東大寺を中心にこの宗学が行われた。地方の奈良時代後期寺院もおそらく南都六宗の影響下にあったと思われる。この有田地方には古来、所々に行基伝説が流布されているが、庶民教化の地方行脚で高名な高僧行基であるが、果してこの地方まで足跡を印したか否か明らかでない。
次の平安時代初期、これまでの宗派と異った2つの宗派が出現する。中国唐から帰朝した最澄の天台宗と、空海の真言宗である。最澄は山城(京都)比叡山に延暦寺を開き、空海は紀伊高野山に金剛峰寺を草創した。この両山がその後日本仏教の2大根拠地となり、修学の道場となった。この両高峰から発する法脈は、全国各地に天台・真言、大小幾多の寺院を創建せしめた。

「しかもこれまでのように、民間習俗に便乗したものでなく天台・真言といった高度の教理と実践を前面に押し出した伝道であったことにおいて、画期的であった。かれらの提唱した一乗主義の旗じるしは、福音の開放をのぞむ地方民衆に対する伝道においていかんなく発揮された。平安仏教が貴族や地方豪族に受容された根底には、その教義(一乗主義)のもつ民衆性が与って力があったといわなくてはならない。かくて奈良時代には局部的に見られた地方豪族の仏教信仰ないし造寺造仏が、平安時代には全国いづれの地方にもみとめられる普遍的な現象となった。」

と、より一層明確に、家永三郎氏監修『日本仏教史』(第1巻古代編第4章「平安仏教の成立」)の中で薗田融香氏は述べている。

右引用文からその事情が察せられるが、平安時代には有田地方においても、各処に造寺造仏が行なわれた。特に高野山に近いという地理的関係からか、その影響下に真言寺院の建立が多かった模様である。
前代の寺院址は、主として有田川北岸の田殿・宮原方面であるが、平安時代の創建と目さされる寺院と寺院址を併せると、殆んど有田地方全域に及んでいる。(ここでは一いち列挙を避けて本章末尾に1覧表を載せる。)
わが広川地方においては、創建年代を明らかになし得ないが、平安期の造顕と見られる仏像が3ヶ寺に遺存する。即ち、山本光明寺・西広手眼寺・上中野明王院(仙光寺6院の1つ)などである。この古仏はすべて、最初から上記寺院のために造られた仏像であるか否か、疑問の余地の存在すること勿論であるが、そのなかにおいても、この広川地方仏教文化の始源を示唆するものなしとはいえない。例えば光明寺の薬師如来立像、手眼寺の十一面千手観音立像など、特にそれに当ると思われる。
平安仏教のはじめ頃、その中心であった天台・真言両宗は東西に別れて普及した。天台は主として東国、真言は主として西国というふうにである。だが平安時代も下るに伴いこの区別が次第になくなり、両宗平行して全国に浸透した。有田地方においても平安時代天台寺院の出現があったことと思う。しかし、地理的関係から依然として真言宗は有力であったこと疑いを入れない。わが広川町における古刹はすべてもと真言宗に属していたと伝えられるところである。
ところで、もう1つ記しておかなければならないのは、最澄や空海の地方伝道が如何に熱心でも、村落生活における民俗信仰、古来の神社信仰を無視しては、新仏教の拡大浸透は至難の業であった。そこで、神仏融合の教義を説いたのが本地垂迹説である。尤もその機運は早く奈良時代後期に萌芽を見せていたが、一層それを育成したのは最澄・空海およびその門流であった。わが広川町においては、おそらく、鎌倉時代に入ってと推測されるが、広・津木・老賀八幡宮などに神仏習合思想から生れた神宮寺・別当寺が現われる。
わが国における浄土信仰は、奈良時代既にその端初を見せているところであが、平安末期叡山の僧源信(恵心僧都)が『往生要集』を著し、浄土信仰の積極的な伝道に乗り出したことなどによって、この信仰が急激に拡まった。平安貴族の栄華の夢も武士勢力の指頭によって破られる平安末期、貴族社会に無常感が秋風の如く立ちはじめた。このような社会情勢下とその頃盛んとなった末法思想があいまって、一層弥陀の救を希求する浄土信仰が迎えられた。藤原氏の浄土教寺院の建立はその全盛時代から始まっているが、上記した時流は更に貴族の造寺造仏を促した。この時、特に定朝の如き優れた仏師が現われ、見事な藤原時代浄土教芸術を生むに至る。これが中央ばかりでなく地方にも及び、当地方に例を求めるなれば上中野明王院阿弥陀如来座像や隣接湯浅町別所の勝楽寺阿弥陀如来座像などその好例と云えるであろう。また、金屋町歓喜寺の歓喜寺は恵心僧都の開基という伝承があるが、その真疑はとにかくとして、台密による浄土信仰からはじまった寺院であると推測され、同寺の創建もおそらく平安末期に属すると想像されるのである。そして、有田地方における浄土信仰は歓喜寺などの伝えから恵心流台密によって開かれたと推測できる。
しかし、この時代の浄土信仰は、浄土教を摂取した天台・真言両宗の普及であり、独立した浄土宗はまだ生れていなかったこと周知のとおりである。浄土教を根本教義として、その宗派が異るのは次の鎌倉時代であること、いまさらいうまでもない。
平安末期源信の浄土教伝導以前既に、空也の称名念仏があり、市聖と呼ばれた彼の踊念仏は、社会の下層に及んだ庶民仏教であった。だが、浄土教が本格的に社会各層に浸透するのは、上記したように鎌倉時代に入ってからである。先づ法然の浄土宗である。法然は比叡山で天台教学を修め、西谷で念仏の教義を学んだ後、西山広谷に移ってもっぱら南無阿弥陀仏を唱える称名念仏を主張した。高遠な教義や困難な修行を経ずとも衆生が口にて念仏を唱え、ただ弥陀を礼拝することによって済度されるという浄土易行道を説いた。この法然開宗の浄土宗が、その後幾つかの教団に分かれて布教が行なわれた。有田地方には浄土宗西山派・同鎮西派が入っている。そのうち西山派に属する寺院が多く、室町時代明秀の優れた民衆教化によって建てられた寺院が主流をなした。わが広川地方においては特にそれが顕著で、彼の開基した法蔵寺が周辺寺院を末寺として、長く地方の本寺の地位を維持してきた。
次ぎに同じく浄土信仰を説き、法然の浄土宗よりなお一層他力本願を唱えたのは親鸞である。「念仏者は無礙の1道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず。諸善もおよぶことなきゆえに」(歎異抄)この言葉は如実に一向念仏の功徳を物語っている。
親鸞も初め比叡山に登って修行し、後ち法然の門に入って念仏に帰依し、師法然の弥陀信仰・称名念仏を一層徹底せしめ、悪人正機の思想にまで昇華したのである。この親鸞を宗祖として一向宗(明治以後浄土真宗と呼ぶ)が生れる。そしてやがて、法然の開いた浄土宗を凌駕する教勢を拡大するに至る。これには室町時代蓮如の精力的な本願寺教団の活動が特に与って力をなしたというべきであろう。
和歌山県下においても他宗を凌駕する真宗寺院数を数えるが、その殆んどは蓮如遊化以後の成立と見られ、しかも蓮如紀伊遊化によって生まれた寺院若しくは道場は、まだ極めて尠なかった。それも紀北(海草郡以北)であったであろうと見られている(『紀伊郷土』第4号所載、宮崎円遵博士「紀伊真宗の源流」)。 ところが、紀南の日高地方には、既に南北朝時代初期、真宗門徒が道場を開設して「名帳」に120余人の名前を列らねていること、その後、同博士によって詳細研究されている。だが、この門徒は、本願寺派と別系統であったと論証がなされており、紀州における本願寺派の波及は、室町時代文明8年(1476)、親鸞聖人蓮如上人2尊像を下附されて、了賢が冷水道場(現了賢寺、海南市冷水浦)を開いたのを嚆矢とする(宮崎博士「初期真宗における門徒名帳の1例」)。
歴史篇において略叙したので、多言を避けたいが、有田地方に真宗の及んだのは、けだし、蓮如時代が過ぎた後であったと解される。わが広川町にも、文明8年、或は同18年(1486)、蓮如の紀伊下向の砌り、師弟の関係を結んで、広浦に道場を創設したとする寺伝が1・2存在するが、信拠すべき史料による証左困難なる点よりすれば、もとより信憑性が認め難い。蓮如の紀南遊化や熊野参詣は、後世の誤伝であること、宮崎博士の「紀伊真宗の源流」で、既に明らかにされている。だが、当地方の真宗寺院も、そのもとをなした一向門徒の道場は、おそくとも室町時代後期、蓮如時代のすぐ後に生れていたことは間違いないであろう。ところで、わが広川地方においては、前述の如く、室町時代初期に浄土宗が、同後期には真宗が入った。だが、それ以前に、浄土宗や真宗と同じく鎌倉新仏教である臨済宗と日蓮宗が及んでいる。
わが国の禅宗には、栄西を祖とする臨済宗、道元を祖とする曹洞宗、後には隠元を祖とする黄檗宗おうばくしゅうが広く行われた。そのうち、この広川地方に寺院を有するに至ったのは、臨済宗である。南北朝時代正平6年(1351)由良興国寺(もと西方寺)開基覚心の高弟覚明(国済三光国師)によって開創された名島の能仁寺、即ちそれである。
興国寺の覚心は臨済の高僧であった。若い頃、高野山に登って修行し、後ち、栄西の上足行勇に禅を学び、さらに壮年時入宋して5年間、無門和尚等の門を叩いて禅の奥義を究めて帰国し、高野山以来の旧知願性の援助を得て、日高郡由良に禅林西方寺を開基した。そして、この門からは、優れた幾多の禅僧を送り出した。紀州における禅寺の殆んどは、興国寺覚心の法統を継ぐものである。有田地方においては、前記能仁寺、吉備町植野の長楽寺、有田市宮原の円満寺など、覚心やその法弟が開基した寺院である。覚明と能仁寺については、歴史篇において「中世高僧の足跡」と題して叙述したので参照されたい。
由良の法燈国師覚心と共に鎌倉時代紀州に直接関係の深い高僧は、栂尾高山寺の明恵房高弁である。明恵は有田の地に生れ、有田の地に多くの遺跡を残した、華厳密教の聖者として、この有田地方では、最注目されるところとなっている。しかし、彼は、他の高僧と異り、鎌倉新仏教の開祖とならず、専ら、華厳の復古に精進したので、彼の法統は広く世にゆきわたるに至らなかった。明恵については、当町鷹島と関係が深いので、歴史篇でやや詳しくしているから、これも参照を乞う。
さて、さきに臨済宗と共にかなり早くから、当地方に及んだのは、日蓮宗であると記した。それが意外に早い時期であったことが、若干の史料によって知ることができる。だが、この問題についても、歴史篇において「中世仏教の興隆と広川地方」の章で略述を試みたので、ここでは極めて簡単に触れるに止めたい。旧熊野街道の鹿背峠を少し南に降った日高郡原谷山中に、永享・嘉吉・寛正など、室町時代初期から同中期にわたる題目板碑の現存が数基を越える。この石造遺品は、いうまでもなく、その時代、当地方に日蓮宗信仰の弘通のあったことを物語るものである。鹿脊山を中心とした中世日高郡原谷および当広川地方の日蓮宗信仰は、一般に、元享釈書に載る骸骨法華経読誦譚が源流の如く謂われている。或はそれもあったかも知れない。南北朝時代、京都妙顕寺の妙実(大覚大僧正)が、紀州周遊の砌り円善(骸骨読経の主人公)の伝説地鹿背を訪ね、弟子朗妙を、この地に留めて草庵を結ばせた。それが、法華堂であり、後に当町広の地に移り法華寺となる。さらに、江戸中期、同寺の大黒天像(大蔵尉筆日蓮讃)が、当時の紀伊藩主徳川吉宗および母堂浄円院の信仰を得て、藩祖頼宣の広浜御殿の跡に1寺を建立し、寺号を養源寺と改めた。これが、いまの日蓮宗広養源寺である(『養源寺縁起』『紀伊続風土記』その他諸書)。ところが、右の縁起以外に、日高郡原谷や当広川地方に日蓮宗信仰を弘通し、やがて、それが養源寺の起原ともなったと思われる史実がある。それは、日蓮の孫弟子日像が、京都に布教して、比叡山に憎まれ、院宣をもって、鎌倉時代末期延慶3年(1310)から翌応長元年の1ヵ年間「紀ノ国師子ノセ」に配流となる(妙顕寺旧記『日像門家分散の由来記』中の「像師御留罪ノ地事」)。この紀伊国師ノセとは、当町河瀬の鹿背山(古くは肉背山とも書かれた)のことに外ならないと思う。
日蓮宗は、鎌倉仏教のなかで、最も多くの法難を乗り越えて布教した日蓮の法華1乗の教えをもって、彼の立宗したものである。日蓮も法然・親鸞同様比叡山で修学し、法華経こそが仏典中の最高であるとの精神に到達して、他の仏典を教義とする諸宗を厳しく攻撃した(「立正安国論」)。そして、法然・親鸞の他力本願の念仏の教と異り、自力による法華経の体得を強調した。日像は、この祖師死の直前の命を体して、京都に開教し、前記の如く、比叡山に憎まれ、徳治2年(1307)から元享元年(1321)の間に、3度追放の院宣をうけ、そのたびに許されて後に京都に妙顕寺を建立する(戸頃重基著『鎌倉仏教」)。この日像が3度追放を受けたうち、2度目のそれが、即ち、上記の延慶3年から翌応長元年までの紀ノ国師子ノセ配流であった。日像この配所においても、なお、布教に努めたこと想像に難くない。なお、また、南北朝時代延文の頃、京都妙顕寺の妙実が同寺開祖日像の配流地を訪ね、円善の供養を兼ねて、鹿背山に弟子を留め草庵を結ばせたのであろう。
以上で一応、中世末期までの叙述を終ることにする。そして、次ぎに近世仏教、特に当代寺院が、近世封建体制強化のために政治的な規制と利用が行なわれることなどを、簡単に述べておきたい。なお、近世仏教は庶民社会へ密着してゆく点や寺院の本末制の確立など重要な間題にも、若干、触れなければならないであろう。しかし、以上の諸点については、余り詳しく述べる余裕がないから簡略に済せることにしたい。

中世から近世への転換期である戦国時代、戦国大名は、仏教や寺院を分国支配のために、しばしば利用しているが、一方、庶民勢力結集の中心的役割を果した真宗・日蓮宗に対する弾圧も見逃せない。この抗争が即ち、一向一撥・法華一撥というような形で現われる。
戦国大名の寺院統制策としては、触頭制がある。大名が有力寺院を触頭に任命し、分国内の同宗寺院を支配させた。宗派に関係なく領内全寺院を対象とする場合もあった。
戦国大名は、領国支配の一方法として、触頭制を採用するが、寺領を多く所有する有力寺院や、庶民勢力を結集して、新時代を開らこうとする動きに対しては、手厳しい弾圧を加えたこと、さきにも言及したが、その代表的人物は、天下人となった織田信長と豊臣秀吉である。この両人物が天下人となった時代を、戦国時代と区別して織豊時代といい、近世への出発点とされている。
織田信長は、永禄12年(1569)キリスト教宣教師ルイス・フロイスに対して布教の自由と教会建立を許可している。当時、キリスト教のことを切支丹と呼んだ。その一方で、信長は、本願寺・比叡山・高野山・日蓮宗などを、天下統一の障害物として、当然、除去すべきものと考えた。そして、元亀2年(1571)まづ比叡山を焼打ちにし、次いで本願寺と日蓮宗の討伐に乗り出した。彼は、安土に浄土宗浄厳院を建て、近江・伊賀の同宗寺院八百八力寺の総本山とした。彼に靡く浄土宗を利用したのである。天正7年(1579)信長の日蓮宗弾圧策の1つ、この浄厳院における浄土宗対日蓮宗の討論は、所謂、安土宗論として世に知られている。元亀・天正の頃、大阪石山城に拠った本願寺一向衆は、織田信長と対決するが、その時、当町広安楽寺の第3世祐善が石山城に駆けつけ、宗門のために参戦している(安楽寺縁起)。
さらに、寺院弾圧の兵を動かしたのは、本書歴史篇でも言及した豊臣秀吉である。特に、彼は、紀伊国の有力寺院や神社の討伐を行った。根来寺・紀三井寺や雑賀党と連合した日前・国懸宮、熊野などの勢力が解体させられた。その他伝承では枚挙にいとまがない。当広川地方においても名島能仁寺、山本光明寺、広八幡別当仙光寺など数えられる。当時、有力社寺は神領・寺領を所有し、一大勢力を保持して、秀吉の領国支配の邪魔となったからである。この秀吉も一方では、信長によって痛打を蒙った比叡山・本願寺・日蓮宗などの再興を図っている。
そして、信長の許した切支丹を禁止した。彼の仏寺建立や復興は、天下統一に必要な人心収攪策であった。寺院焼打も、寺院復興も、秀吉が天下統一という目的のためにとった手段に外ならなかった。
豊臣秀吉の死後、間もなく、天下の実権が徳川家康に掌握される。江戸に新たな幕府を開いて、江戸時代2世紀半の基礎が作られた。この江戸幕府の切支丹禁止と信徒弾圧には残酷なものがあったこと、既に人のよく知るところである。一方では仏教寺院を巧に利用して、封建的人民支配に供した。
江戸幕府は寺院統制のために、まづ、寺院法度を制定発布した。それには、各宗門内の職制、座次、住職の資格、紫衣等の袈裟や上人号の勅許、授戒や血脈伝授の制限、出世の規定、本寺末寺の関係、法談の制限、勧進募財の取締、新寺建立の制限、邪教新興宗教の制禁等が規定された(家永三郎・赤松俊・圭室諦成監修『日本仏教史』近世篇所載千葉乗隆「政治と仏教」)。
しかし、慶長6年(1601)から元和2年(1616)の間に出された江戸初期の寺院法度は、真宗と日蓮宗には及んでいない。そこで、寛文5年(1665)各宗共通の総括的法度が発布された。この制度には出家手続、住職資格、本末関係、寺橙関係、伽藍寺領等について記し、真宗については妻帯の宗風を但し書をもって認めている。それから、さらに貞享4年(1687)切支丹禁制、宗門改、寺檀関係を主にした法度が出された。
その後、享保7年(1722)にも諸宗条目を定めて、供養の膳、葬式の禁酒、布施料物の処置等、8代将軍吉宗の諸事倹約政策を織込んだ。以上の外にも、寛永8年(1631)には新寺建立停止、元禄5年(1692)には新寺御免、寛保元年(1741)には本寺における公寺訴訟の処理、宝暦12年(1762)には田畑を寺へ寄進して引寺等を禁ずるなどを定めて、幕府は各本山を通じて末寺統制を行った。
右に挙げた寺院諸法度を以って、寺院を統制し、かつ、寺院に所属する檀家を統制した。まづ、その1つは、宗門改制と寺請制である。幕府は切支丹禁制に伴い、庶民に対して宗門改を行い、寺院をして、檀徒であってキリシタン信徒でないということを証明させた。そして、全国民を寺に所属させる檀家制度を確立した。この宗門改に関する史料は、当地方においても、上中野法蔵寺、広養源寺等に文書が遺る。以上においても若干触れたことであるが、江戸時代、寺院における本末制度が確立され、封建制的な秩序の枠が嵌められる。寛文5年の『諸宗寺院法度』における「本末の規式これを乱すべからず」がこれである。ただし、これには「本寺たりと雖も末寺に対して理不尽の沙汰あるべからざる事」が必要であった。
前記、上中野法蔵寺は、本書歴史篇において記した如く、室町時代中期以前、浄土宗西山派の高僧明秀によって開基されるが、その教風、次第にこの地方を風靡し、近世その末寺、郡内外において32力寺に及び、広川地方でも11ヵ寺を数えるに至っている。それらの末寺は、他宗からの転宗、新たな開基様々であること勿論、その年代も一様であるまいが、本寺末寺の関係が確立されたのは、おそらく、江戸時代であろう。それ以来、中野の本寺と称され、当地方仏教界に重きをなしてきた。同寺の縁起書末尾に「本末帳」写しが記録されている。
ところで、明治維新、諸般の制度に大改革が加えられたこと、いまさら述べる必要がない。幕藩的封建制度が打倒され、この絆から寺院も解放されるが、明治新政府の狂信的王政復古思想の煽りを受けて、大いなる痛打を蒙った。それは、神仏分離政策から出た廃仏毀釈である。このことについては、本書歴史篇において、簡単ながら叙述したので、ここでは省略するが、これが契機となって、仏教界の覚醒も現われた。しかし、時代は、西欧物質文明を追うに急なるため、精神文化形成の1要素とすべき仏教思想が忘れられがちになりかねなかった。有難いのは、仏の教えより、金の力であると考えるものが多くなったのも近代の1特色でもある。しかし、物質文明追求によって、本当に人間の幸福が得られないと悟る人々が多くなってきて、その心理を捉えた新興宗教が、雨後の筍の如く、指頭したのも近代の1特色といえる。だが、日本国民の大半は、旧来の仏教信者というか、旧仏教寺院の檀信徒である。この檀信徒に安心立命を与える任務があるのは、伝統ある仏教であるまいか。単に仏事、葬式に続経し、一部の善男善女の涙を誘うような法話を、仏像の前で行っても、この世の中を無明の闇から済度することはむつかしい。人間には生れながらの仏性がある筈である。この仏性を普く人間に呼び起させ、経済成長のためには、公害も何のそのというような、非常な拝金根性を放棄さすことこそ、現在仏教界に課せられた任務でなかろうか。

参考資料
有田地方上代寺院(址)所在地表
――伝説以外に拠るべきものない寺院は除くことにした――
名称  所在地  摘要
田殿廃寺址  有田郡吉備町上須谷  奈良時代前期(白鳳時代)の古瓦出土
多喜寺(滝寺)  有田市宮原町滝  奈良時代後期(天平時代)の古瓦出土
築那院址  有田郡吉備町大谷  奈良時代後期古瓦及び平安時代の仏像瓦出土

旧円満寺址  有田市宮原町東現円満寺附近  平安時代前期の古瓦出土(緑釉瓦も発見されている)
仮称明神山寺址(地福寺址説もある)  有田市下中島  平安時代後期の古瓦発見
浄妙寺  有田市宮崎町小豆島  平安時代の古瓦・仏像が発見されている
安養寺  有田市古江見
仁平寺  有田市系我町  平安時代の仏像遺存
勝楽寺  有田郡湯淺町別所  平安時代初期古瓦同後期似像遺存
満願寺  有田郡湯浅町湯浅
山田廃寺址  有田郡湯浅町山田南谷  平安時代後期古瓦出土
光明寺  有田郡広川町山本  平安時代後期の仏像遺存
手眼寺  有田郡広川町西広  平安時代の仏像遺存
廃仙光寺  有田郡広川町上中野  平安時代後期仏像遺存した
廃霊泉寺  有田郡広川町井閃
薬師寺  有田郡吉備町小島  平安時代後期(藤原時代)の薬師如来像遺存
南城寺  有田郡吉備町の旧藤並村  久安6年写経の奥書に南城寺の名現われる(現在所在地不明)
今城寺址  有田郡吉備町天満
最勝寺(神谷寺址)  有田郡吉備町出  久安6年写経の奥書に最勝寺の名現われる
善光寺址  有田郡吉備町徳田  善光寺跡と称する台地あり。近くの徳寺に仏像遺る
歓喜寺  有田郡金屋町歓喜寺  平安時代後期の仏像遺存
旧成道寺  有田郡金屋町糸野  養和年間の写経奥書に成道寺の名が見える
廃来蓮寺  有田郡金屋町小川  同所の小字地名に来蓮寺の名遺る
薬王寺  右に同じ  平安時代の仏像現存(来蓮寺の仏像でないかとの説もあるが)
法音寺  有田郡金屋町岩野川  平安時代初期及び同後期の仏像が遺存する
医王院薬師堂  有田郡清水町栗生  平安時代末期の仏像数体遺存する
安楽寺  有田郡清水町2川  平安時代後期の仏像遺存
法福寺  有田郡清水町楠本  平安時代後期の仏像遺存
雨錫寺  有田郡清水町杉野原  平安時代中期の仏像遺存
正善寺  有田市初島町  藤原時代の仏像遺存


5、寺院各説


緒言
わが郡内、わが町へ、いつの頃から仏教が入りきたり仏宇を建立したかは、もとより今では知るよしもない。しかし郡内に仏教寺院が創建されたであろうことは口碑や伝承や、出土する遺物などからみて既に奈良朝の前後からだと考えてよいようである。遺物としてはっきりしているのは、吉備町田殿から白鳳期(670頃)の古瓦が出土している(田殿廃寺)、伝説ではあるが同じく吉備町天満には今城寺という遠く斉明天皇の時代に(660頃)に創建されていたという寺院の話がある。これらに類したことは他の地域にも例があるが、それは今は略するが、相当早い時期に仏教が郡内各地にひろまっていたことはわかる、凡そはっきりしてくるのは、大同年間(806頃)あたりからで、僧空海が(弘法大師)入唐招来した真言密教がたちまち郡内を風靡したもようである。
それへわが郡の奥地は高野山領でもあった関係もあり、ひとくちに言って郡内の古寺はその多くは真言宗であり、後になって、それ以外の他の宗派に属した寺院も、もとは真言宗であったというのが多い。
また本地垂跡説による神仏習合(混淆とも)で、神社に寺院を建て神宮寺と称し、僧侶も神事にあずかったが、それら社僧は多く真言宗の僧侶で、神宮寺もこの宗派に属するものが主であった。わが広川町の昔も、これらの例にもれるものではなく、伝承ではあるが津木岩渕の観音寺は、町内では最も古い時代に建てられた真言寺院だったといわれている。
また現に町内に残っている仏像をみても、山本光明寺の薬師如来立像、西広手眼寺の十一面千手観音像、またもと井関の霊泉寺の観音像ら、いずれも相当な古仏であり、後世の補修が目立っているが藤原期のものと見られ また広八幡社は仙光寺(明王院、薬師院などその一坊である)がこの社僧であり、前田本山八幡社、津木老賀八幡社もそれぞれ社僧があり、その宗派は真言宗であった。
その後歴史の長い流れによって、幾多の変遷があり、もとより真言寺院だけではなしに他の諸宗派や僧侶も入ってきているのである、古い寺も宮もその創建年代や宗教活動の状態など、はっきりした事やその證拠になることも今となってはあやふやであるのは、天正13年(1585)に豊臣秀吉による紀州征伐のことがあり、この地方もこの兵火によって多くの神社寺院堂塔がほとんど焼失、同時に宝物や旧記なども失われ、神領や社領は没収され壊滅的な大打撃を受けてしまったからである。
わが町の昔も上記のように相当古くから仏教の影響を受けていたことであったろうが、この天正兵火のためと、それ以後は古代からの仏教はその勢力を失い、新興仏教が浸透してくるのである、それはそれとして、この兵火による災害で、貴重な文化財を失い、歴史的事実も煙滅してしまう結果となった。其後そのまま消滅してしまった寺院、権門や豪族など旧勢力の外護を得られなくなり次第に衰徴退転してしまったもの、また細々ながら再興したものなどいろいろあったことである。
天正以後浅野家、ついで徳川家がこの国を領して以来、ぼちぼち荒廃した寺社を復興したり、米銭を寄附したり、社領寺領を与えたりして社寺の興隆をはかり、また、新に社寺を創建したりして民心の収らんにも資したのであった。郡内唯一の日蓮宗寺院であるわが町の養源寺もこの時代から整備されてきたものである。
以上至極簡単にわが広川町の古代よりの仏教寺院の概観を述べたのであるが、つまりわが町も相当古い時代から仏教の影響を受けていたことの事実が知れるのである。
徳川封建の制が確立してから寺院もその1役を負され「寺送り」や「宗門改」などで人民監視の役割りをはたし、人民は必ずそれぞれの寺院の檀徒でなければならぬし、勝手な改宗は許されず、特にキリシタン取締りは過酷をきわめた。しかし一方では、僧侶は一般に学問もあり徳もあったので、村童や村民に読書習字や諸芸能なども教授し、一般庶民の教化にもつとめ世間の尊敬も厚かったものである。このことはやがて僧侶の生活を形式的堕性的にして安逸をむさぼり、仏教本来の使命を忘れ、所謂葬式仏事のみが僧侶の仕事になり、ただ習慣的な尊敬を受けて満足するようになってしまった点も見のがせない。
やがて明治に入って仏教界にも先覚者が現われて従来の弊風を改め、各宗派とも学徳修養の学校なども経営するなど、また布教にも力を入れ、仏教界のみでなく各立面へも多くの人材を送り出すようになっている。このことは明治に入ってから、徳川幕府の保護がなくなったこと。キリシタン禁令が解かれて、キリスト教の宣教が自由になったこと。宗派神道(天理教や金光教など)が盛んになって布教に活躍しだしたこと。などが仏教界の永い惰眠からめざめさせたことによるものであろう。
さて信教は自由であり、または宗教などに無関心であっても、現在われわれの家は、たいていいづれかの宗籍にあり、檀那寺をもっている。宗教心がうすれ信仰心が少くなってきていても、やはり葬式法事など仏式で営む家が多いことは事実である。われらの祖先の時代は、信仰もさることながら、政治、政策上からも、人民教化の面からも仏教が重要視されまた必要視された。したがっていたる所に寺院堂宇があり、それぞれ檀信徒をもち、一定の法要儀式がいとなまれ精神生活の上からも大きな役割をはたしてきたのである。現に広川町に残る寺院、廃退してしまった寺院の跡などを見て、人によっていろいろと感じ方にも相違はあろうが、郷土の歴史をしのぶ上からも現状を略記しておくことにする。なお最後に断っておきたいのは、各寺院の創建年代や開基についてである。記録にも見えず、またあっても不備で、確実に判明しているものは少いが、たいていの寺院にはそれぞれ縁起や伝承があり、今ではそれは真実であるかどうかを証拠だてるのもむづかしく、それらの年次まで判明していてそれを信頼してよいものは、ほんの3、4の僅かしかない。しかしその寺々に残された記録や縁起の類は、その内容の真疑はともかく、それはそれなりに信仰上重要でもあり、そうした縁起や伝承が何故に出来たかを考察することも別な面から意義があるし、一概にそれらを退けること無く記述するつもりである。

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1  養源寺  日蓮宗本山妙覚寺派


1、山号  長流山(長立山) 現住職菊本恵脩
1、所在地  広川町広1465番地

1、沿革  寺伝によると、天暦元年(947)2月16日、天台宗の僧円善上人が熊野参詣の途次鹿瀬山中で客死した。この僧かねてから法華経6万部読誦の誓願をたてていたが、これを果さぬうちこの地で果てたのである。そのため骸骨になってしまってからも、その舌だけは生きていて、法華経の読誦をつづけていたという。この奇瑞を発見したのが壱叡という上人で久安年間(1145〜51)のことと伝えらる。その後円善が果てた場所に塚を築いて供養したのが法華檀で(経王塚とも)あるが、養源寺ではこの壱叡上人を初祖としている。やがて歳月を経て応安年間(1368〜75)になって、大覚大僧正が法華弘法のため南海を遊化した際、この塚を拝して感歎のあまり徒弟の朗妙上人にこの地に庵を結ばせて妙法を唱導させた。これが鹿瀬法華寺である。其後この寺を田村(湯浅町)に移し、後また広へ移して、鹿瀬山法華寺と号したという。その旧地は広町田町の中程であったとも、1説には中町ともいわれている。その後紀州家の庇護を受けて現在の地に移ったのである。
この寺には有名な出世大黒天を祀っている。この大黒天は、寛永年間善信院日泉上人が住持の時、九州肥前国の廻船が南海沖で難風にあい、ようようのことに助かって広の浦まで流れついた。その助かったわけは、この船の乗組員の1人が、鎌倉時代の画師大蔵尉某の筆になるという大黒天画像に、日蓮上人が讃をされた1軸を持っていた。船が難風にほんろうされた時、船中の人々に語って「吾信ずる大黒天なり、ともどもに祈願せよ」と、1同は大黒天の名を唱え一心に祈ったので転覆をまぬがれたのだという。広の浜で助かった九州の船員たちは、郷里へ帰る旅費調達に困り、当村の崎山甚右ヱ門に頼んで金子を借り、その代りに大黒天を同人に預けて去って行った。崎山氏はこの軸を、日泉上人に見せ、上人より大黒天の功徳を聞き、このようになったのも大黒天がこの地に留り給はん意かと思い、この画軸を当村へ奉納した。其後紀伊5代藩主吉宗がこの地に猟遊の際、当地に立寄ったとき、家来富松喜兵衛より、この大黒天の由来を聞いて、深く信仰の心を寄せて拝した。やがて吉宗は享保元年甲子、将軍職を継いだが、いよいよ大黒天への信仰が厚く、またその生母浄円院も深くこれを崇敬した。出世大黒天のいわれである。宝永4年日寛上人に命じて国家の永昌を祈願させ、正徳元年、藩祖頼宣の御殿跡地を寄進して、長流山養源寺と改称し、石垣を築き地ならしをし、同3年寛徳院(吉宗室)の御殿を江戸から廻送し、今の本堂や座敷其他諸宇を建築した。同じく4年境内百余間の塀垣をつくり、5年浄円院の参拝の節には、修理川(金屋町)山林から松木を拝領、本堂天井普請、また翌享保元年には附近の海端荒地を拝領開墾した、養源寺の新田である。またこの年当寺を天下祈願所と定め、同3年8月殺生禁断の証文を受け、同じく16年よりは、毎年黄金66両を祈?料として下賜された。なお正徳2年から寺領9石余をゆるされている。かような大黒天のおかげが喧伝されて、年1回の開帳である正月初子の日には、遠近をとわず群集が殺倒した。現在では毎年4月の甲子の日に開帳する。
(附記、山号の長流山の流を、「立」とした記載は、紀伊続風土記、紀伊名所図絵、有田郡誌など。寛政5年(1793)の広村大指出張には、流としている。また前記3書とも宗派を日蓮宗不受不施派としているが、これは誤りである、おそらくこの寺の本寺であった京都妙覚寺が一時不受不施派に属していたからではあるまいか。)




1、堂宇
本堂  (単層屋根4注造本瓦葺) 6間半 6間
書院  5間 3間
方丈  切妻造本瓦葺 5間 8間半
僧坊  4注造本瓦葺 5間 5間
鏡楼  切妻造本瓦葺 1間半 1間半
門(表)  2間半 1間半
門(裏)  1間半 1間
大黒堂  入母屋造 3間
妙見堂  15坪
浴室  2坪
坊舍  4間 5間
表門は明治35年11月建立、
鐘は宝暦2年壬申に作ったが、戦時供出。現在のものは昭和40年の再鋳である。

1、宝物
本尊  釈迦如来 多宝如来
題目宝塔  金箔 2尺5寸5分
2尊座像  〃 各1尺
4士立像  〃 各1尺1寸
4天王立像  〃 各1尺1寸
普賢文珠座像  金箔 各1寸
両王座像  〃 各6寸5分
祖師像  木像 4寸8分
〃  〃 1尺1寸
鬼子母神立像  木像 8寸
妙見大菩薩立像  〃 1寸
大黒天立像  銅 2寸2分
大黒天立像  絹地墨画 表1尺7分、 巾6寸2分
(この長さは画像の大きさ)

養源寺縁起  1巻 筆者不詳
法華塚豪N  1巻 筆者不詳
十界曼陀羅  紙本帳 長1尺6寸5分 巾1尺2寸2分 日玄上人筆
釈迦涅槃図  紙本 5尺1寸4分 巾4尺9分 伝狩野雲信筆
これには延宝5丁巳26日願主修行
院蓮純同蓮花院妙乗の銘文あり。
法華経8帖  貞紹日修 写
金屏風1隻  着色公家風俗画 筆者不詳
安政聞録  稿本1冊 古田詠処著
安政元年の大津波の状況を描写したもので特にその図は当時の模様をよく写している。
殺生禁断の文書有田郡広村養源境内限
限4方之石垣此所江禁止殺生記不可有違犯者也仮偖如件
享保3戊戌年8月日3  浦遠江守   判
水野対馬守  判
尚、書院庭園には見事な老松がある。

1、歴代住職
開祖  円善上人
初祖  壱叡上人
第2世  朗妙上人
第3世  善信院日泉
第4世  詮寿院日通
第5世  淨正院日裕
第6世  正門院日宜
第7世  守玄院日意
第8世  円融院日起
第9世  三広院日ェ
第10世 本妙院日円
第11世  止静院日明
第12世  諦心院日元
第13世  貞紹院日修
第14世  慎治院日普
第15世  修耀院日殿
第16世  本城院日寿
第17世  本種院日成
第18世  本玄院日新
第19世  本特院日勇
第20世  本行院日布(恵運)
第21世  本浄院日学(礼運)
第22世  本法院日顕(恵備)
現住。


2  覚円寺


(今ナシ) 本派本願寺派
1、山号  光明山
1、所在地  広川町広中町
1、沿革  文明8年(1476)畠山氏家臣吉田喜兵衛実景という者、蓮如上人に帰依して弟子となり、釈了恵と改め、1宇の道場を建立したと寺伝にいう。本堂は7間4面、書院、僧坊、釣鐘堂もあった。旧記の類は宝永の津波に流失したと云い詳細は不明である。13代を経て、14代目の住職瑞亮は、明治38年還俗して大阪方面に去り無住となってしまった。明治41年8月15日、門徒1同の総意で同町安楽寺に併合した。本尊及び檀家は安楽寺へつき、一切の建物など売却し、現在寺跡は墓地の一部と宅地とになっている。安楽寺境内には合寺記念碑がある。

安樂寺  覚円寺  合寺之記
光明山覚門寺文明8年創始也爾来420余年然桑滄之変法運亦不能免焉於是乎檀越之徒・議併合之於安樂寺
其事遂成念乃銘石以為後世之紀念銘曰
緬想草創  法運隆昌  真光顯見
威力不転  星霜之移  香花退衰
三界如是  庶幾複起
明治戊申8月  楓皐、 雁、 熙伯績撰
大正癸丑6月  台山  大常義直  書
発起人之覚門寺檀中
雁仁右衛門
崎山房吉
崎山政助
浜野鶴藏
崎山卯兵衛
石富刀


3  円光寺  淨土真宗本願寺派


1、山号  鷹森山    現住職  板原顯示
1、所在地  広川町湊中町1401番地
1、沿革  寺伝によると、当寺はもと真言宗の小寺で鷹の森という所に在った。文明8年(1476)蓮如上人が熊野三山参詣の途次、この寺に休息、当時の住持の浄恵が上人の教化をうけ浄土真宗に改宗した。その時、堺の慈光寺円仁の子で板原外記新左ヱ門尉という者が、蓮如上人に侍していたので、浄恵はこの人を相続者とし、現在の地に移転した。それでこの浄恵を当寺の中興の祖としている。(この頃糸我の蓮光寺や山田の証大寺なども開かれたという。)蓮如上人真筆の6字名を賜り、現在「竹縁の名号」といって寺宝になっている。
鷹の森という地名は今の所不詳であるが、現に在る「鳥の森」の附近に、円光寺田という名が残っているという。円光寺はもとこのあたりにあったとの伝承もある。
現在の寺門を入った右側一帯に見事なソテツの古木があり広川町の天然記念物である。なお門の左、釣鐘堂の側にこれも相当大きな柏槇(イブキビヤクシン)の古木がある。

1、堂宇建物
本堂  6間半 6間半
庫裡  7間半 6間半
玄関  1間半 3尺5寸
書院  2間半 3間
門  1尺2寸 3尺8寸
鐘楼  1間半 1間半
鐘は第12代円證、享保3年4月8日に鋳造したもの。昭和18年戦時供出した。

1、宝物
本尊  阿弥陀如来
1、阿弥陀如来立像  木造 1尺7寸
延宝7年東6条大師康雲作

1、親驚上人画像  絹地彩色 長3尺5寸 巾1尺5寸5分
1、頭如上人画像
1、湛如上人画像
1、如上人画像
1、7高僧画像
1、6字名号  蓮如上人筆
1、歴代住職
初代  浄惠
2代  円浄(天文元年正月亡)
3代  浄慶
4代 了恵
5代 浄信
6代 浄玄
7代 浄喜
8代 了空
9代 了円
10代 宗
11代 宗信(元?9年11月亡)
12代 円澄(享保14年9月)
13代 円随(享保5年8月亡)
14代 円秋(享保12年6月亡)
15代 円了(享保17年7月亡)
16代 円達(明和元年8月亡)
17代 達賢(明和3年5月亡)
18代 智瑞(文政4年11月亡)
19代 慈雲(天保元年6月亡
20代 真教(万延元年正月亡)
21代 獅絃(明治43年5月亡)
22代 浄惠(昭和12年12月亡)
23代 顕示(現住職)


4  正覚寺 浄土真宗本願寺派


山号  白雲山  現住職 松下俊夫
1、所在地  広川町1631
1、沿革  大永4年(1524)僧教意が実如上人より、方便法身画像を下附され道場を建てたのに創る。その後天正年間火災で焼失したのを、寛永3年再建、同18年現在地に移った。それまでは「天王」の地に在ったのである。開基から凡そ170年、数代たって後に、松下嘉太夫という武士が嫡男を出家得度させて法燈を継がせた。貞順という。これが当寺の中興11世とする。元禄6年10月、本願寺14世寂如上人より本尊、寺号を受けて正覚寺と公称した。宝永4年の大津波に本堂庫裡流失したので本尊を奉じて山本村に避難し、その後、永順法師の代、元文4年に再建された。その時、本堂の用地を特に高く築き、用材もよく選び、内陣は全部ケヤキ材を用い、稼側は晒天井と海老紅梁とし、その他向拝、象鼻等当時建築の模範とされた。安政元年の津波で大破し、現在の本堂は、文久4年修復再建したものである。ちなみに広小学校の前身である広陵小学校は、明治8年に本寺において創められたのである。

1、堂宇建物
本堂  6間 6間
庫裡  4間半 2間半
1、歴代住職
開基 教意 2世より4世まで不詳。
中興 貞順 (享保6年6月亡)
2代 永順 (寛保3年10月 亡)
3代 恵空 (文化2年1月 亡)
4代 玄澄 (文政6年3月亡)
5代 宗遵 (慶応元年5月 亡)
6代 皆順 (明治34年6月亡)  順正 (昭和9年5月亡)
7代 俊夫 (現住職)


5  安楽寺


浄土真宗本願寺派

1、山号  松崎山 現住職 浜口大声
1、所在地  広川町広5411543
1、沿革  開基は正了法師。俗姓は平安忠、浜口左衛門太郎という。もと尾張の国に住し、父は浜口安網といい、管領斯波武衛義淳及右兵衛義卿に仕えた。安忠も斯波氏に任えたが、故あって高野山に登り、南谷宝憧院に住んだ。後、宝憧院の阿弥陀仏1?を供奉して当地に来り、蓮如上人に帰依して法名を正了と賜り、永正6年6月9日(1509)西の浜に松崎道場を建立し本願寺実如上人より、阿弥陀如来真向の画像をうけ教化につとめ、永正16年10月9日寂。其後17世善教の時、延宝6年5月4日上宮太子御影、並に7高僧の御影を、本願寺良如上人よりうけた。元禄9年9月20日、本尊阿弥陀如来木像(仏師康雲作)を申受け、本願寺寂如上人より親鸞上人画像をうけ安楽寺と公称した。同14年3月、7間4面の本堂を落慶し、宝永3年8世恵伝の時、梵鐘を鋳造したが翌4年10月4日の大津波のため、本堂庫裡とともに流失してしまった。享保元年2月9代玉龍の時に、本堂再建の志願を起し、元文4年12月7間4面の本堂を再建した。その間20余年の歳月を要した。玉龍は求古堂と号して書道の大家として有名であり、著書も多い。天明年間力11代堅亮は鐘楼を再建した。堅亮は松鬱と号し督学著書も多く、当寺に居幻舎を開いて多くの子弟に講義した。才12代伯梁は、文化3年庫裡を再建した。この人も学徳高く、諸国より教を受ける者常に百を越したといわれる。14代大凰の時、安政元年11月5日の大津波によって庫裡、居幻舎も流失し、本堂鐘楼は大破損したがそのまま十有余年を経て、15代大英の時、元治元年より再建を計り慶応2年3月現在の地に移転、本堂庫裡鐘楼等が再建されたのである。大英は松塘と号し、宗乗余乗を学び、明治3年6月寺内に耐久社が建てられた際、寺務の傍ら教鞭をとった。17代恵璋は、明治30年入寺、そのあとをつぎ、耐久社が耐久中学校となってからも長く教授した。 明治41年、中町にあった覚円寺を併合。明治43年表門を建立した。この門は大永7年(1527)創設された広八幡の西門を移した4脚門である。恵璋は学、和漢梵洋に通じ著書も多く、また蔵書の多いことは個人としては県下有数である。昭和40年和歌山文化賞第1回の賞を受け、同41年4月29日司法保護につくした功で勲5等瑞宝章を受け表彰された。また本願寺よりは幾度も表彰されている。10月7日93才でした。

< 写真を挿入する    広 安楽寺全景 >

1、堂宇建物
本堂  7間 7間半
庫裡  6間半 5間
書院  3間 4間
門  3間 2間
道場  3間 3間
鐘楼  2間 間2

梵鐘は口径2尺3寸5分 高3尺9寸5分のものであったが戦時供出。

1、宝物
本尊  阿弥陀如来立像 丈2尺5寸 元禄9年本願寺下附

〃  阿弥陀如来立像(元党円寺本尊)
親鸞聖人画像絹地着色 2尺6寸5分 2尺4寸8分 元禄9年9月本願寺下附

蓮如上人画像網地着色 2尺2寸 1尺3寸 嘉永2年8月本願寺下附
聖コ太子画像絹地着色 3尺6寸 1尺6寸5分 延宝6年9月本願寺下附
7高僧画像絹地着色 3尺6寸 1尺6寸5分 右に同じ
親鸞聖人御絵伝 4幅
良如上人御影
法如上人御影
光明本尊
開基仏(阿弥陀如来) 2尺6寸5分 1尺2分
宝徳3年8月 仏師理阿弥作
過去帳(安楽寺、覚円寺)
合寺記念碑

1、歴代住職
第1世 正了法師(永正16年10月9日亡)
第2世 正善(天文4年4月7日亡)
第3世 祐善(天正4年2月亡)
第4世 祐心(慶長2年1月2日亡)
第5世 定善(正保4年11月5日亡)
第6世 善良(貞享2年7月25日寂)
第7世 善教(元禄14年10月12日亡)
第8世 恵伝(正コ元年11月218日亡)
第9世 玉龍(号求古堂宝?6年8月卅9日亡)
第10世 映宗(天明5年8月7日亡)
第11世 堅亮(ェ政9年12月廿7日亡)
第12世 伯梁(嘉永5年2月14日亡)
第13世 湛浄(号松湾天保15年3月11日亡)
第14世 大鳳(明治24年3月13日亡77才)
第15世 大英(号松唐明治9年9月8日亡31才)
第16世 興教(明治27年7月退職)
第17世 恵璋(号梧陰昭和41年10月7日亡)
第18世 大聲(現住職)1世 


6  神宮寺(今ナシ 広川町広1266附近)


1、沿革  紀伊続風土記には「浜町中程にあり、当村古は那賀郡畑毛村8王寺社の別当寺なりしに宝暦4年名島村能仁寺弟子法入当所へ移すという境内に大師堂あり」と記載されている。また寛政5年の広村大指出帳には「神宮寺真言宗根来寺末寺」とだけ載せられている。いつの頃から退転したのか、どうなったのか一切が不明である。この寺の境内に大師堂がありコボッさんと俗称して、この方が町民に親まれ信仰もされていたもようである。この弘法大師堂は、広の人が四国詣りの途中さる僧と道連れになるうち、どちらも大いに親しみを感じ別れ際に、かの僧が、1幅の大師絵像をくれてよくお守りするようにといって別れた。その人弘法大師の絵像を広に持ち帰り神宮寺の境内に小堂を建てておまつりしたところ霊験あらたかで、方々から参拝者がたえなかったという。 ところでこの寺の堂守の娘に、庄助という者を養子にとり、子も出来たが、親子ともに出来が悪く、あげく堂舎を売り払ってしまった。その堂は施無畏寺に売ったのだといはれている。ところで弘法大師堂もとりはらわれてしまったので、湯浅の満願寺の住職が一時あずかってまつっていたが、律義な人で、やはりもとの広に置くべきだとて、自分も金を出し、人の寄附ももらって大師堂を再建したという。この時いろいろと世話をしたのが、大工の弥兵衛という人であったという。
ここまで伝承があるのだが、その時代がさっぱり判明しない。しかしこれはあまり遠い昔の話ではなさそうである。今ではその跡地が、わずかにそれと判る程度に残っているにすぎない。大正の頃までは大師堂もあり、子供の遊び場所にもなり、夏は盆踊りもしたという。 この大師絵像は現在広町の某氏の宅にあるともいう。

7  教専寺    浄土真宗本願寺派


1 、山号  仏光山 現住職 林教智
1、所在地  広川町広193
1、沿革  寺伝では開基は元和寛永の頃(1615より1644の間)と伝えられている。其後承応3年(1654)刑部太夫という人が、2間3間の道場を建立して6字名号を安置した。 「源太夫道場」ともいったという。寛保3年(1743)になって本山より、木仏の下附をうけ、教専寺と号した。5代住職教恵の時である。
安永2年(1773)智専が住職となって以来今日に至っている。弘化3年正月(1846)7間4面の本堂を再建した。このとき住職はもちろん檀信徒の労苦は大変なものであったが、今日見る如き立派な本堂を建てた。
門はその後の建立ときく。梵鐘は戦時供出されたが、この鐘は寛延3年(1750)8月19日に鋳造され、伊都郡山之郷庄丹生川村円通寺のものであったのを買求めたもので、近郷にない音色極上のものであった。高4尺直径2尺6寸厚2寸8分目方130貫という立派なものであった。現在の鐘は昭和22年5月の再鋳である。尚境内に1拘之以上もある槇の大木がある。

1、堂宇建物
本堂  7間 7間
庫裡  6間 5間
客殿  4間半 3間半
鐘楼  2間 2間
表門  3間 3間
裏門  1間半 1間
宝藏庫  1間半 1間半

1、宝物
本尊 阿弥陀如来立像 1?
親驚上人画像  1幅
蓮如上人画像  1幅
聖コ太子画像  1幅
4幅御影  4幅
――境内に室町末期ごろと推定される板碑1基がある。――

1、歴代住職
1世 刑部太夫
2世〜4世  不詳
5世  教恵
6世  智專
7世  教智
8世  教證
9世  教順
10世  義景
11世  教智(現住職)

附記

また昭和36年4月に建った「共栄之頌徳」碑がある。これは地区の人々が明治11年に共同出資して霊厳寺山を購入して、発展の基とした先見の明をたたえたものである。


8  子安地蔵堂  西ノ浜土堤にあり
耐久中学校々門の左側土堤に1座を構えて地蔵尊の小堂がある。この地蔵尊は、もと津波で流れ去った川端川の南方にあった広の小字寺村にあったものだといわれている。明治初年ごろにこの地へ移されてきたものらしい。
小堂の側には石仏の破片や、石塔のかけらや板碑の析れたものやら5輪塔の断片などを1とまとめにきちんと整理されて置かれている。おそらく方々にちらばっていたものや堀り出てきたものなどを、ここにあつめおかれたものであろう。この地蔵さんは、いつの頃からか子安地蔵尊と名づけられ、幼児の無事を願う親たちの参拝が絶えない。そしていつもきれいに掃き清められ香華も絶えたことがない。今のように整備されたのは昭和3年1月であるが、その後も世話人やおまいりの人々の奉仕によって、きれいにまつられている。

9  光明寺  西山浄土宗


1、山号  医王山薬師院  現住職 山本賢祥
1、所在地  広川町山本409
1、沿革  古は真言宗の伽藍地であったという。この寺の附近には、東北に薬師堂。東に堂垣内。南方に経塚などといった寺に関係ある地名が残っている。相当な規模と勢力もあったらしくうかがえるが、天正の兵火に焼かれ一切が不明である。境内の1隅へ乙田天神社を移し、一時之を支配したこともあった。(応永18年)
最近墓地の整地や整理をされたが、その時焼瓦の破片が出土している。古墓碑のなかには天正の銘のあるものもあり、火にかかった形跡も認められる。整理整頓された墓石群のなかに、1基の板碑があり、硬質の砂岩の厚手のもので、附近のものに比較してなかなか力強い感じがする。頂部の3角型が正3角形に近く、その下部にある鉢線も強く彫られている。
鎌倉期にまでさかのぼれるかと推定されている板碑である。しかしこれに「3界万霊等元禄拾4辛巳歳7月15日 延空大長代」と追刻して3界万霊塔に代用されてしまっている。今かすかに月輪に種子キリクの跡がうかがえて板碑であったことの証になっている。また境内入口の土壇になった上にクロガネモチの老木がある。
この土壇は築いたものではなくおそらくこの境内整地のための土地を切り下げたので相対的に高くなったものかと推定される。木は台風のため梢の方が折れている。幹の周囲は約3メートルもあり、根上りになって樹勢よく生育している。昔から樹枝を切ると崇りがあると恐れられている。県天然記念物である。本堂に並んで方3間の薬師堂があり、本尊薬師如来立像は堂々たる作で、後世の補修があるが藤原仏らしい容相である。像の腹部が大きくふくらんでいるので土地では昔から安産と授乳、厄除け薬師として信仰されている。信者に配布する厄除、安産の刷仏の古い板木もある。
この寺の向って右手後方にあたる田園の一角に1株の椿があり、その根方に幅広い大ぶりな板碑があり、薬師の種子バイを彫っている。土地ではこれを椿地蔵と呼んでこれへおまいりすると「ホロシ」(1種の瘡)が治るとの信仰がある。境内薬師堂の前に、じょう穴古墳の入口の蓋だったと伝えられる板石、相当大きかったであろうと想像される宝筐印塔の台石や、またよほど酒ずきだった人のものか酒樽のかたちをしたユーモアーな墓碑などがある。現在の堂庫裡5間4間半は、安政5年寂空上人が再建したもので痛みが甚だしく、檀信徒の熱意で近く新築されることになっている。また境内1隅に青年会場がある。




1、宝物
本尊  阿弥陀如来立像 木 1尺5寸3分
觀世音菩薩立像  木 1尺1寸6分
大勢至菩薩  〃  1尺1寸6分
善導大師座像  〃  1尺3分
元祖大師  〃  1尺2分
薬師如来立像  〃  5尺1寸8分
日光菩薩  〃  3尺7寸6分
月光菩薩  〃  3尺6寸5分
十二神将  〃  各9寸1分

鰐口  経5寸7分
銘・元和2丙辰年霜月吉日  時之大工石?之住39良
・紀州有田の庄山本村奉納薬師寄進願主釜屋村池永治兵と両面に刻されている。(元和2年は1616年)
棟札  貞享式乙丑年11月23日
棟梁大工九右ヱ門藤原吉久とある。(貞享2年は1685年)


10  庚申堂  光明寺兼務


1、所在地  広川町山本江上
1、沿革  続風土記に「本堂観音堂僧坊釣鐘堂村の乾山手にあり、寛文元年(1661)建立なり 享保12年 官許を得て境内除地となる」と記載されている。普通、庚申は路傍、それも村の境などに多く石像や文字で青面金剛童子などとしてまつられている。古来農民の信仰が厚く「百姓の神さん」といわれ、ほとんどの村には庚申講があり、庚申の夜、庚申待ちとし徹夜する習慣があった。中国の道教では守庚申。日本の神道では猿田彦神。仏教では青面金剛と、これらが習合して神様やら仏様やらわからなくなっているが、ここの庚申堂のように整った規模をもっている堂は郡内では珍らしく、現在山本、池ノ上地区の人々によって護持され、旧暦初庚申の日には盛大な餅まきをする。
江上橋を渡った右手すぐみえる小山中にある。庚申山とよんでいる。庚申縁起1巻が伝えられている。またここの庚申堂は、旧幕時代には、6里4方を自由に勧化できる特権をもっていた。普通寺社の勧化(寄附金募集)は、その都度、寺社奉行や大庄屋の許可が入用であった。(附記、庚申信仰などについては、別項で述べることにする。)

11  法専寺  西山浄土宗


1、山号  湧出山  現住職  小田宗示
1、所在地  広川町池ノ上916
1、沿革  寺にこれといった記録もなくはっきりしたことはわからない。この寺の開基である天王道栄大徳が、元禄16年に歿しているので、元禄初期頃にはこの寺があったと推定される。ところで他の地方文書中に、享和2年に、この寺の堂の破損が甚だしく、大修理をせねばならぬが、檀家だけの力ではおぼつかないので、住職自ら広、湯浅方面にまで勧化したいとの願書を庄屋を通して大庄屋え出していて、そのことを許された記事がある。
元禄初期から享和まで約百年以上を経過しているので、さこそと思われる。ところでこの感心な住職の名も判明していない。

1、宝物
1、阿弥陀如来  坐像  丈1尺2寸
観世音菩薩  坐像  丈1尺2寸
大勢至菩薩  坐像  丈1尺2寸
善導大師  坐像  丈1尺4寸
元祖大師  坐像  丈1尺4寸

雙盤鉦  経  9寸5分
宝暦10庚辰年3月  寄附者且徒中
その他の什物は略す。


12  明王院


1、所在地  広川町上中野末所58
1、沿革  もと仙光寺の1坊であり、本堂はじめその他附属の建物もそろっていたが、今はわずかに護摩堂だけが残りそれを明王院といっているのである。だから正しくは仙光寺明王院である。仙光寺は、むかし広八幡神社の別当寺であって12坊もあった寺院といわれ、そのうちの6坊は早く退転して今ではその名も不詳である。
のこる6坊は不動院、千光院、弁財天院、花王院、薬師院、明王院であるが、このうち4坊は、正保慶安の頃(1644〜1651)にはすでにすたれてしまい結局薬師院と明王院の2坊だけが残り、隔年交替で八幡宮の社僧を勤めてきたのである。
紀伊名所図絵に、広八幡宮の絵図がでているが、明王院薬師院も画かれているのを見ても相当な景観であったとうかがえる。有田郡誌に、別当寺、天文以前は此地門跡家などの所領なりしが、天文の頃(1532〜54)湯川氏この地を領し始て別当寺を置き、仙光寺と称せり。中略、明王院薬師院は明治の初年迄在したりき、とある。ところが薬師院は天保11年(1840)には、すでに無住になっていて明王院が兼帯しているから、其後、明王院が事実上社僧として明治始めの神仏分離までつづいていたのである。 今では明王院だけが人々の記憶にとどまっているのであるが、それも前記の護摩堂が残っていたのと、明王院跡地や庭の池や見事な這い松などが荒れるにまかせたままではあったが、大正初年ごろまで残り、それに財産として相当な田地があり山林もあったからである。明治維新の廃仏棄釈、神仏分離で、八幡宮とわかれてから後、明治13年3月に住職から当局へ左のような明細書を提出している。今の所これが明王院に関する最後の公文書であろうから掲げることにする。

明細書
紀伊国和歌山県有田郡上中野村字末所58
本寺  西京府 宇治郡山科勧修寺村



真言宗勸修寺末  明王院
1、本尊十一面観世音菩薩
1、由緒本尊十一面観世音菩薩ハ聖徳太子御作ナリ寛喜年間2明恵上人全郡唐尾村領継地ノ海面鷹島ニ於テ堂宇開基創立シ安置ス其后数百年ノ星霜ヲ経テ寛文2年ノ頃国主徳川頼宣公開地境内へ御引遷座アリテ御修繕ナシ玉也
1、建物  本堂  桁行6間半  梁7間
       4ツ足  桁行弐間  梁行壱間
1、境内仏堂  2宇
多宝塔  1宇  本尊大日如来

由緒  大日如来ノ尊像ハ往昔ヨリ伝聞ク行基菩薩ノ御作也堂宇永久破損ニ及ヒテ時天保6年中興法印恵実之再建願主ナリ
建物  桁行2間半  梁 弐式間半
護摩堂  1宇  本尊不動明王
由緒  高祖弘法大師ノ御作ナリ堂宇ハ承応年間ニ中興快円法印再建立ナリ
建物  桁行2間半  梁  弐間半
1、庫裏  桁行6間  梁6間半
1、門  桁行1間半  梁1間
1、土藏  桁行3間  梁2間
1、境内坪数  768歩
内351坪  無税地
498坪  有税地  明王院持
1、境内所有地 (明細略、合計して記す)
耕地7力所  4反23歩  同村未所
地価合計  156円32錢4厘
山林  1町4反3畝18歩  同村尾山
地仙  未定
1、信徒260人

1、該寺ヨリ和歌山県庁迄距離8里弐町也
右之通相違無御座候也
明治13年辰3月
紀伊国和歌山県下有田郡広中野村
明王院住職  中西直ェ

(附記、上記のように明王院の本寺は勧修寺であるが、もともと仙光寺には「本寺」がなく、真言宗古義学侶派の「客僧」であった。それが宝暦3年(1753)に藩主宗直(6代)の斡旋で勧修寺末になったという。ついでに、前田本山八幡宮の社僧神宮寺は明王院の末寺であった。)

其後建物も取はらわれ、跡地は全部開墾されて田畑となり、昔から残された仏像、仏具什物など、あのせまい護摩堂1杯に積みこまれていた。この明細書には本尊以外の仏像や仏具のことなどにはふれていない。其後能仁寺が兼務し管理していたが、昭和6年7月6日に辞任されたので、そのあとを湯浅町の満願寺が代って兼務された。明治維新以後種々の事情で散逸してしまったものも相当あったことは想像されるが、残った仏像や什物は満願寺と広川町(当時広村)とで管理している。
また昭和6年9月26日に有志の人たちによって仙光寺6坊の廃虚の跡を踏査して往時をしのび、先代追悼会を催したこともあった。それから後も荒れるまかせられ、おまけに敗戦後は農地改革によって残された土地も無くなってしまった。
明王院の仏像のうち、阿弥陀如来坐像と薬師如来坐像は昭和5年12月14日旧国宝に指定され、ながらく奈良博物館に寄託されていたが、いつのまにやら現在大阪四天王寺が保管している。その間如何なる事情があったのか。尚最近では聞くところによると満願寺の兼務ではなくなって、大阪四天王寺を本山とする「和宗」なるものに属しているとかいう。上記の如くこの寺については明治まで八幡宮と不離不則の関係にあり、寺の性格上定まった檀家もなく、八幡社の氏子即ち檀家ともいってよい漠然たるかたちであった――もちろん信徒はあったが――
今では残った遺物や文献によって隆盛だったであろう昔をしのぶのみである。しかし町民の間には、明王院護持の声もあがり、そのための会も組織されて、今後の解決にまたねばならぬ問題の処理にも気を配っている。
護摩堂の現状は今にも崩れんとする様相で堂内には、しょんぼりと、等身大の十一面観音立像がおわすばかり、時々、国西国巡拝の信者がお参りするだけである。国西国17番で「おんかみや仏とみるはかわれども ふたつあらじのちかいなりけり」の御詠歌がある。最後に記録に残されていた寺宝その他、暦代の住職も判明しおる方だけ記して後考をまつことにする。(くどいようだが、ここに記録されているもの全部の現物が今もあるということではない。もちろん所在不明になったものもあるわけである。)

旧明王院宝物
1、本尊十一面観世音立像  木  5尺1寸
1、弘法大師像  木  1尺1寸
1、賓頭盧尊者像  木  1尺1寸
1、唐銅修法器  護摩仏器  1器
1、持国天像  木  3尺9寸
1、多聞天像  木  3尺9寸
1、阿弥陀如来坐像  木  4尺6寸
1、薬師如来坐像  木  4尺8寸2分
1、大日如来坐像  木  3尺4寸2分
1、地蔵菩薩立像  木  1尺1寸
1、大日如来坐像  木  1尺1寸
1、弁財天坐像  木  5寸5分
1、十一面観世音立像  木  1尺5寸
1、昆沙門天立像  木  1尺4寸
1、僧形八幡坐像  木
1、涅槃釈迦図  紙本彩色 8尺7寸8分  6尺1寸7分
1、不動明天像  紙本着色
1、左方童子  〃  3尺3寸5分  1尺3寸6分
1、右方童子  〃  〃
1、大般若経  写本6百卷箱入
1、秘密3部経  巻子本14巻
1、最勝5経  折本10卷
1、華梵朝課暮課  折本2卷
1、鏡  台付9寸3分
1、鏡  台付7寸3分 
1、剣  不動明王用
1、真鑰銅?  不動明王用  口径6寸9分
1、仝  觀世音用  口径1尺3分

明王院歴代住職ェ永以前代々不詳
権大僧都阿闍梨 快盛 ェ永4年卯10月29日亡
法印権大僧都快岩 広中野村俗姓梅本氏也この間14年、住持の名不知。ェ永15年戊子9月29日亡
法印権大僧都快詠住職16年也、大和国磯野之産也貞享3年乙丑6月26日亡
藩主の命により和歌山栗林八幡宮の別当になり栗林明王院之開基となる。
中興 法印権大僧都快円住職44年也元禄13庚辰4月3日亡
広中野村の産、俗姓梅本氏。快岩はその叔父でありその弟子となる。八幡宮の諸殿並に什物等を修理修繕面目を一新する。明王院はこの代から年頭御礼御能拝見となる。
法印権大僧都隆雄住職22年也、享保5年庚子10月13日亡
広中野村之産俗姓梅本氏。快円法印之甥である。
法印権大僧都聖仙住職25年也、牟婁郡富村之産也、宝?13癸未6月17日亡
法印権大僧都観音坊本宣在職25年明和4年隠居。伊都郡菖蒲谷産也
法印権大僧都玉泉坊親順 中野村西川氏也
権大僧都法印光遍 天明6年薬師院より転住、同7年9月3日亡、
権大僧都法印明遍 天明7未12月明王院に入る、ェ政10年午12月隠居
権大僧都法印信(真)日 文化5辰10月入院海士郡升田村之産也
権大僧都法印智行 文化9申霜月入院同12亥3月手平邑興福寺に転住、高野寺領の産也
権大僧都法印真常 文化14丑10月薬師院より入院、観音堂北隅に金毘羅大権現勧請する。

外に慧雲の名見えるが詳細不明。龍栄という名が見える、この人多宝塔を再建の願主、天保丙申8月27日亡。

法印龍雲の名安政5年戊午正月の文書に見えるが、名だけで詳細不明、右以外のことは文献見えず不明である。

薬師院歴代住職文亀以前住不明。
実全  文亀元年辛酉3月15日亡
実栄  永禄3庚申10月5日亡
実秀  慶長11年丙午8月25日亡
21才より在住行年62才
実海  承応3年甲午9月8日亡
快籌  ェ永13年丙子3月朔日亡
18才より在住行年48才
快尊  ェ永19年壬午正月21日亡
行年25才
実応  ェ永21年甲申
弘秀  延宝8年庚申年5月12日亡
39才より在住行年69才
俗姓口口殿村之産杉本氏也
宣職房慶詠  享保2丁丙辛7月10日亡行年74才ェ文3子年9月高野山弥勤院執行延宝8在住元禄9当寺再建中興也在住39年当郡殿村産杉本氏也弘秀の甥也
文職房探奥  元文3年戊午9月25日高野山延寿院より住職4年、明王院の弟子の僧也
専願坊清弁  延享3丙子8月24日亡、慶詠の弟子27才より在住、殿村の産也。
竜海坊智芳  宝暦11辛己9月7日亡、延享より在住
隆仙房慈雲  宝暦11年辛巳12月25日上津木八幡宮社僧安楽寺より入院、山保田沼村岡氏也、天明2子6月25日亡。
玄教  天明2年8月入院幡川祥林寺弟子、西名草郡幡川村川崎氏也
覚賢  天明7未12月入院寛政11未4月より明王院寺務兼帯、大和国吉野郡5条産川合氏に生。


右以降のことは目下の所不明。総じて古いことが文献にあり、新しい所の文献がみあたらないのであるが、やはり明治維新の時の混乱とその後の明王院の不振と廃退が原因であると考える。新資料の出現を期待するばかりである。

13  法蔵寺  西山浄土宗


1、山号  地霊山 現住職  吉永仰哲
1、所在地  広川町上中野1181番地
1、沿革  この地方の大寺である。開基は明秀上人である。明秀上人の略伝は、寺から元禄8年亥11月6日付に藩に差出したものによると、

「明秀光雲者 仁王62代村上天皇第3王子具平親王6代苗裔、従3位秀房末孫、赤松次郎円心3男律師則祐、嫡子義則之末子也、後小松院、明徳3年義則領美作」

< 写真を挿入  法蔵寺全景 >

とある。上人は畠山氏庇護の下に紀州で1番最初に広に法蔵寺を建立した。永享8年(1436)37才の時と伝えられる。法蔵寺は初め広村小字寺村いう所にあったが、上人は人里をいとったので、土地の家族であった津守浄道、梅本覚言らが、寺地山林等を寄附して現在の所に移したと伝えられている。其後、湯浅に深専寺、梶取の総持寺、長田村の浄教寺、箕島の常楽寺、栖原の法寺、小原村の明秀寺、稲原村の西岸寺、印南村の東光寺、観音寺、下津野の阿弥陀寺等々、糸我村得生寺の中興をされるなど、祖宗の法門宜流と共に諸人勧化の道場とする目的で、多くの寺を建立して、念仏興行の基を築かれた。上人は85才で加茂の竹園社で遷化された。法蔵寺にはもと塔頭8坊あり、常修庵、西帰庵、直西庵、梅陽軒、財徳院、財聚軒、受陽軒、自性軒であるが、受陽、自性の両寺は残ったが、他の6坊は早く廃された。しかし慶応2年12月8日、24世雲空義竜上人の密葬の夜、火を失して本堂はじめ諸堂僧坊など全焼してしまった。翌年庫裡書院など新築、本堂は明治44年12月再建した。28世詳空上人代である。末寺25ヵ寺ありそのうち17ヵ寺は広川町内にあった。この寺の鐘楼は、重要文化財に指定されている室町期の建造物である。詳細な説明は、この項の末尾に記述することにする。相当痛んでいたのを、昭和40年に修復されて面目を一新した。鐘は後世錆直されたものとの伝承がある。銘は無い。
庫裡の後庭に、明秀上人手植と伝えられる老シンパクがある。昭和12年7月15日天然記念物に指定された。
周3メートルが、大きく3幹になっている。また「殿がくれの楓」というカエデの古木があって有名であったが、これは早く枯れてしまって名だけが残っている。
歴代の藩主の信仰も厚く、しばしば参詣している。またこの寺は、広八幡社とも深い関係があったらしい。八幡祭礼の時は馬場に特別「棧敷」を組んで見物したという。境内に俗に庚申さんといっている板碑がある。小堂の中にまつられているが、その種子梵字が、2重になっている。 (追彫して)なお、この寺にある十一面観音は、国西国18番で、「おく露は、むげの宝の玉なれや 光かがやく こののりの庭」の詠歌がある。
隣地に南広小学校の鉄筋コンクリートの校舎がそびえている。この学校の前身である中野尋常小学校は、このお寺の古い堂宇を借りて開校したのである。(受陽軒俗称奥の寺)
山門石段を上った右手に石碑があり梵字アの下に「月も日も西え西えと入相の かねて知らする極楽の道」と刻された形の面白い自然石で、これはもと観音山の登り口にあったものという。裏面に文化14年4月 俗名新助、とある。墓地には男山焼の創始者崎山利兵衛の墓があり、延空西翁寿仙禅定門とある。

堂宇建物

1、本堂  9間半
1、前堂  3間半  (釈迦堂)
1、書院  5間
1、方丈  5間半
1、僧坊  5間
1、骨堂  2間半
1、鐘楼  3間

宝物
1、本尊  弥陀3尊立像
1、16羅漢図 紙本墨画 16幅
1、釈迦文珠普賢図  3幅
1、釈迦槃涅像図  1幅
1、浄土曼陀羅図  1幅
1、明秀上人影像  絹本着色  1幅
1、?香枕  南龍公下賜  1個
1、弁財天像  (護摩の灰で作る)  一体
1、鷹の絵屏風  常則  1双
1、無為楽 篇額 1位老公筆  一面
1、観海楼日出  山本藤雲筆  1幅
1、大般若経6百卷  黄檗版折本
  正徳年間橋本家寄附


外に、明応10年3月15日石垣城主畠山康純、天文13年霜月5日津守直国、同年同月6日武内宮内少輔光春、同じく林進三郎春直尾崎宗五郎、慶長6年12月6日左京大夫幸長、慶長12年8月12日同人らの寄進状の写しがある。(寺領7石)

歴代住職
開山  光雲明秀
2世  珍岸
3世  白恒
4世  大安
5世  領月
6世  祖伝
7世  玉道惠林
8世  護空珠鎮
9世  順空恵秀
10世  忘治長感
11世  白空垣道
12世  一空政順
13世  洪空政三
14世  天空了運
16世  康空懷龍
17世  美空恵長
18世  天空法道
19世  鮮空素聞
20世  因空聞了
21世  切空千快
22世  専空一誠
23世  実空一道
24世  雲空義竜
25世  諦空大苑葩
26世  頓空潜道
27世  聴空諦龍
28世  評空光道
29世  ェ空宏瑞
30世  感空仰哲(現住職)


法蔵寺鐘楼 (和歌山県の文化財より)
(昭和22年2月26日重文指定)
寺記によれば、この鐘楼はもと湯浅の勝楽寺にあったのを、元禄8年広八幡神社の境内に移築し、さらに明治初年神仏分離の際現地に移したもので、建立年代は詳らかでないが室町時代中期を降るものでなく、唐様の形式に袴腰を付け、屋根が寄棟造であるのは類例が少い。切石積の基壇の上に野面石を据え、16角形の4本柱を4方転びに建て、下層、柱上真々間口2、86メートル 奥行2、73メートル 上下に貫して締固め、上部に木ばなのある頭貫を納め、長押を廻らし、中間に柱形を現し、堅板張の袴腰を付けている。腰組は唐様3手先に間斗束を納め、縁側に組高欄を置く。上層は正面3間、側面2間と円柱を台輪上に建て、隈柱には延を付け、長押及び木ばな付の頭貫を納め、周囲はまばらな連子窓。斗拱は唐様3手先であるが、移築の際に力梁を入れ多少形式が変っている。中備には上部に飾りのある間斗束を置き、小天井は板張りにして支輪を納め、実肘木は軒桁から造り出し、軒は2軒の繁抵、屋根は本瓦葺、棟に鯱を納めているが当初のものとは認め難い。以上の様に記載されている。
なお、寺記によると

棟板上書  維時明治5壬申11月中院上棟  奉鐘楼堂再建  当山廿6代頓空潜道上人代
世話人  柏角兵衛 池永平十郎 梅本伴助 辻源兵衛 白井仁兵衛

棟板裏書
仰当山鐘楼堂者  人皇40代天武天皇御宇白鳳7戊寅歳11月廿2日 別所村勝楽寺住職真悦法印上棟建立
夫より1017年後  元禄8己亥歳  広之荘八幡社ニ買請再建ス  然其後178年ヲ経過シ明治5壬申歳3月下浣御一新ニ付右堂宇取払之際当地霊山ニ買請再建候也 とある。


附記
多宝塔について
法蔵寺にはやはり広八幡神社から買受けた多宝塔があった。おそらく鐘楼が移されたころであったろうと想像されるが、このことについては記様は見つからない。土地の人のウロおぼえ程度のことしかわからない。この多宝塔は紀伊国名所図絵の広八幡宮の絵図中に画かれている。そして八幡社記にも記載がある。聞くところによるとなんでも寺に事情があって大正初年頃売却されてしまった。最初、泉州あたりの豪商が買いとって自宅の庭園に移建したが、その後その家が思わしく行かず他へ転売してしまった。そのさきが四国で(四国へは行かなかったという人もある)、それから広島県のある寺院に納ったというのだが、その場所や名を知る人がない。ところで幾年か以前に、その塔を所有している寺の住職が、わざわざわが町へ尋ねてきてこの塔のいきさつなど調査に来られ、浜口恵璋師についてくわしい話をきき満足して帰られた――ここまで知ることが出来たのだが今は恵璋師も亡く、法蔵寺の老僧もなく結局詳しいことは今の所知る由がない。移された塔はその地で文化財として大切に保存されているということであるが――。

なお、八幡社記には左の記載がある。
多宝塔  2重  本尊大日如来  2間1尺  4方棟札なし
塔の表柱に書付有之口と不見大永6年為道受禅門69才守丸
大永6戊戌2月8日為南無阿弥陀仏法界衆生也見腱50才
大永年中より寛政7年迄及275年大破損に付9輪を下し上の屋根仮葺に成。


14  法昌寺 西山浄土宗


1、山号  現住職  松尾雅龍
1、所在地  広川町西広628番地
1、沿革  もとは寺谷にあった真言宗の寺院がここへ移ってきたのだという。詳細は不明である。現在の本堂は、昭和39年11月再建新築されたものである。徳川時代末期まで、この地から西国や五島通いをした人が大勢あったが、その人の寄附になる半鐘が残っている。
本堂5間4方
庫裡5間6間
歴代の住職もよくわからない。現住職は21代目で、先住は佐々木光全という人で約20年程在院されていたという。この寺の隣地が、最初の西広小学校の地で、今そこに西広地区の公民館がある。尚手眼寺観音の縁起巻物1巻はこの寺に保管されている。

15  手眼寺  西山浄土宗


1、山号  独開山 法昌寺兼務
1、所在地  広川町西広寺谷
1、沿革  寺伝によると、天平年間、行基菩薩の開基といい、もとは真言宗であったが、明秀上人法蔵寺を創建して後に、その末寺となった。永らく無住であるが、土地の観音講の信者の手によって、よく管理されまつられている。本堂はなく方4間の観音堂と庫裡とがある。
国西国19番で「6つの道よも暗からじ大慈悲のみての光りをあおぐよなれば」と詠える。本尊十一面千手観音立像は、後世の補修が目立つが、古仏の容相を表わしている。
法量1・21メートル、広川町としては注目すべき仏像の1つであろう。
日光、月光の2脇士は、天和2年(1682)寺谷の栗原氏の寄附するところといわれる。またソトバ型の奉修札があり左の如く書かれている。

世話人有田郡邑飯沼仁右了門
奉修補本尊千手觀世音菩薩尊容所額円満
同所  五島屋藤兵了
裏面に  吉田屋新右ヱ門
文政(1819)卯月4日  手眼寺現住
再開眼畢  経心  敬白


外に菩薩型の面と素彫の阿弥陀如来坐像などがある。この菩薩面は佳作で、もと白木の浜に打上ったものだという。この堂に、遠州の人だという修行僧らしい者が、行脚の途次身を寄せて遂にここに居ついてしまった。ところがこの人、刻苦精励、質素倹約して庫裡を建替えたり、村人の相談相手になったりして、皆から親まれ尊敬もされていた。明治29年4月18日老衰のためここで亡くなった。小笠原文良という人で、どうやら正式な僧ではなかったようであるが、「遠州坊さま」という呼び名が今に伝えられている。境内1隅にこの人の墓碑がある。

遠州小笠原文良明治29年旧4月18日寂と刻まれている。
毎年初午には参拝人も多く盛大な餅まきをするし、篤志の人は前夜から詣ってお籠りをする。縁起1巻あり法昌寺に保管されている。

16  西広道場  (今はなし) 浄土真宗


1、所在地  広川町西広浜前
1、沿革  記録はなにも残っていないので詳細は不明であるが、真宗の道場があって、明治の初頃まで建物は存在し、子供の遊び場になっていたことを記憶している人もまだ居るが、どんないきさつでどうなったかなど一切不明。元和元年(1615)に創設されたと伝えられ、紀伊続風土記にも記載されている。方2間の小堂であった。建物は明治の中期ごろ、この道場の本寺であった広の安楽寺に移建されて現存している。跡地は某家の墓所になっている。

17  鷹島観音堂  (今はなし)


1、所在地  広川町唐尾鈴河西ノ内堂ノ浦
1、沿革  鷹島は明恵上人が弟子たちとしばしば渡島され修練されたという。この島の小石を拾われて終生坐右におき愛玩された話は有名である。

われさりて のちに 愛せん人なれば とびてかへりね たかしまの石

と詠まれている。上人なき後遺徳をしのんで観音堂が建立されたのでその地を堂ノ浦という。また別伝ではこの観音堂は上人が建られたともいう。いつの頃か、この堂は広八幡社境内に移され神社の本地堂となった。そして明治の終りごろまで存在していたのであるが、同43、4年中に、中野法蔵寺本堂再建の際、同寺に売却され解体してしまった。現在、遺物としては法蔵寺に保管されている古瓦2つ。1つは元応元年(1319)の陰刻ある雄瓦と、いま1つは神亀(寺伝ではヒイキ)像留蓋瓦であり、これが唯一の記念物になっている。
八幡社記によると
觀音堂  本尊十一面観音  安阿弥仏工

表6間南向  前立2天  多門天  持国天
裏6間2尺7寸  脇立2尊  薬師如来
阿弥陀如来
建立年代不詳
国主より修覆3棟札
有田郡広庄八幡宮之境内
観音堂  ェ文辛亥11月修
奉行  岡本五郎兵衛尉  平重時
中瀬八郎左ヱ門  平勝直
工頭  中村新平  平久光
中村藤七  平宗広
権大僧都法印明王院快円
阿闍梨  薬師院弘秀
とある(他に寄附の品々のこと等あるが略す。)


18  善照寺  浄土真宗西本願寺派


1、山号  龍尾山  現住職  雜賀正晃
1、所在地  広川町忘唐尾255番地
1、沿革  寺伝によると、開基は妙西尼。後奈良天王享禄元戊子年(1528)足利義晴の家臣祐善女子故あって尼となり当寺を開基した。恵心僧都の彫刻した千体仏の1仏を奉安したと伝えられるが現存しない。大永3年(153)4月4日、本山より開基仏を頂き、永祿7年11月唐尾道場を免許され、天和2年(1682)4月7日寺号を許された。
1、堂宇
本堂  4間  6間
庫裡  3間  10間
玄関  1間半  1間

1、宝物
本尊  阿弥陀如来  木  1尺2寸7分  天和2年4月下附。
1、親鸞聖人御影  宝永5年3月許可
1、聖徳太子御影  元禄15年10月許可
1、蓮如上人御影  大正12年4月許可
1、良如上人御影  貞亨4年9月許可
1、7高僧怎御影  元禄15年10月許可
1、実如上人御真筆御歌  1幅
1、花山院前内大臣常雅公御筆  1枚
1、鷹司開白公御筆歌短冊  1巾
1、冷泉中将御筆  1枚
1、探幽絵宝物  1枚
1、歴代住職
第1世  妙西尼(不詳)
第2世  玄珍(元禄7年11月亡)
第3世  玄秀(寛保3年10月亡)
第5世  活道(寛政元年7月亡)
第5世  映現(天明7年10月亡)
第6世  恵観(文政2年8月亡)
第7世  鳳山(元治3年11月亡)
第8世  関雪(明治7年1月亡)
第9世  大巌(明治18年6月亡)
第10世  徹成不詳
第11世  正善(昭和11年7月亡)
第12世  正晃  現住職

なおこの寺地はもと里神の境内地であるという。

19  蓮開寺  西山浄土宗


1、所在地  広川町南金屋357
現住職  立川巻応
1、沿革  「古くは名島村にあり、当村開発の時、此地に移すという」と続風土記に記載されている。しかしその年代や、詳しいことは不明である。別伝では、名島、能仁寺にもと蓮開寺という1坊があり、この寺号を移したとも、また建物も同時に移転されたものかともいう。本堂5間に観音堂、薬師堂がある。薬師堂は、柏木助右ヱ門匡朝が、難病回復の報恩のため1建立したものという。薬師堂と向い合って観音堂がある。十一面観音立像は3尺余なんとなく古色がある。この観音は「国西国16番」で、その詠歌に「観音のめぐみも深き此の寺の池のはちすの花ぞひらけり」とある。入口右側観音堂の傍に、寛文5乙巳年2月18日銘の「3界万霊等(塔)」が建っている。境内の1隅に集会場(青年会場)がある。

20  能仁寺  救世観音宗






1、山号  雁蕩山  現住職 平野晋咸
1、所在地  広川町名島182
1、沿革  当地方に昔から「何んにも名島の能仁寺」という「じぐち(地口)」が残っているが、それほど見るかげも無くなった有様と、その裏にはかって栄えた昔を偲ぶ意味あいが含まれている。現在では住職もここに居住せず、わずかに残っている1宇の薬師堂も庫裡も荒れるにまかせている。壇家も1、2軒しか残っていないという。続風土記によると

能仁寺 雁蕩山  真言宗古義名草郡紀三井寺末 禁殺生 村の美3町許にあり 御村上上皇勅願所なり 開山上人を三光国済国師覚明という 覚明は平氏奥州会津郡の人也 当寺旧は禅宗にて梵字も多かりしに天正13年3月豊臣氏南征の時 兵火に罹りて梵宇残らず焼失し後真言の僧住して真言宗となる、薬師堂1宇僧舎1宇あり 正保3年9月薬師堂再興の時薬師如来の胎中より出たる書附あり左に記す
大日本国南海道紀伊国在田郡東広山能仁寺
住寺覚明当寺開山大檀那
御村上天皇勒願所
奉行   湯浅八良右衛門入道明曉
掌作事  氏藤原宗永
正平6辛卯9月12日功了  とあり

廃禅林迦藍所
山門  仏殿  法堂  多宝塔
観音堂  禅堂  開山堂  経藏
食堂  鎮宇  方丈  庫裡
寮舍  浴室  鐘楼

廃僧坊
道念寺  龍花寺  明白庵  多宝寺  円明寺
妙光寺  蓮開寺  弥勤寺  性寿院  禅昌寺
実相院  三学院  証心院  宝光院  地藏院
中之坊  法輪院  真珠院
已上18坊と記載されている。


寺は広城または高城という畠山氏が築いた城のあった高域山の南麓にあたる高地にあるが、4周が畑地になり、かっての面影は勿論無い。時々焼瓦の破片を堀り出すことがあり、厚い敷瓦で禅寺であったことを物語り、屋根瓦の唐草模様がまた見るべきものがある。天保4年5月(1833)この寺から寺社奉行への指出之控によると、左の如く書き上げている。(雁蕩山能仁寺由来之記)



(上略)右ハ天正13年3月豊臣秀吉秀次卒10万騎根来寺攻並南紀退治当此ヲ時当山仏殿悉皆懸兵火廃焼畢
右之外縁起記録等焼失候由其後古義真言宗に取伝
1、本堂  4間ニ4間半 3方椽
1、仮堂  2間半  4面
1、愛宕堂  2間半 4面4方椽
1、鎮守  正八幡宮 1社
1、庫裏  4間半7間玄関付
1、蔵  2間3間
1、長屋  2間6間
1、境内  4丁
1、三浦長門守ヨリ御寄附山2丁半
右境内建物等クワシク相知ラべ絵図イタシ指出
申候
1、本尊  薬師如来 御長3尺6寸  座像
1、日光月光脇立何レモ1尺6寸  立像
1、12神将12体1尺6寸  立像
1、国済三光国師影像2尺7寸  座象
1、出山釈迦如来  一体
巳上兵火時相残尊像ナリ
1、不動尊  1、普賢延命尊  1、愛染明王  1、?空藏菩薩  
1、曼茶羅如来  1、摩利支天  1、大黒天
右5尊寄附  3浦長門守
1、十一面観世音  1、弘法大師影像  1、歓喜天

画像類
1、両界曼茶羅 2幅  1、愛染明王  1、不動明王  1、六字明王  
1、12天 2幅
1、高野明神 2幅  1、真言八祖 8幅  1、弘法大師像  1、理源大師影像

書類
1、大日経    1、守護国界陀羅尼経
1、最勝王経    1、請雨経
1、仁王般若経    1、孔雀明王?
1、木日経奥疏    1、法華経

宝物類

1、般若心経  弘法大師真筆
1、後醍醐天皇真翰写
1、後村上天皇御論旨
1、義持将軍守護不入証文
1、雲州雲樹寺添状
1、光春寄附状
1、三光国師行実
1、国師真跡写筺
巳上7通箱入之分三浦長門守ヨリ御修覆
1、勧修寺宮灌頂曼供執行御免令旨
1、殺生禁断御証文
1、万象之中偈京都大コ寺天祐和尚筆
1、都府楼古瓦硯
1、茶碗 三光国師唐土於天台山渡石橋五百羅漢茶器
1、帽子三光国師従唐土伝来
1、弗子同伝来
1、奧之院霊巌寺縁起
1、愛宕?現神形

1、大社明神垂跡  醫伯石
右宝暦4申年5月下総国海上郡飯海根浦
佐久間孫四郎ヨリ寄附ス


右のように書き上げられているが、現在、本尊薬師如来坐像と三光国済国師の椅坐像と他に2、3の小仏像が残っているぐらいで、あわれをとどめる。本堂は糸我得生寺へ、蓮開寺は南金屋へ、弥勒寺は湯浅吉川へ、どれか不明だが湯浅栖原施無畏寺へ移建されたと伝えられているが建物も移したのか、寺号だけを移したのか判然としない。現在の薬師堂は、境内山手にあった愛宕堂を下してきたものだという。この寺に伝えられていた古文書の類は早くから知られ、その内容は書写されているが、原本は今の所、所在不明瞭である。
ここの十一面観音は、国西国第10番になっていて「おちこちの もろ人ごとに たのめただ だいじのちかい むなしからまじ」の御詠歌がある。しかしこの観音像は見当らない。愛宕さんの会式には名島、東中、柳瀬から寄進して「餅まき」をする。ここから東方4キロ余の山中に奥院だった霊岸寺がある。

21  霊厳寺  真言宗


1、山号  補陀山
1、所在地  広川町前田
1、沿革  名称のように奇巌怪石の峨々たる霊巌寺山にあり、近年大勢の人々の参詣があるので路もよくなっている。能仁寺の奥の院であり、能仁寺が焼失した天正の兵火にここも焼亡したもようである。今も時々焼けた瓦の破片が出る。もともとここの本尊は観世音菩薩であったが、これは後世鹿瀬六郎太夫が、自宅附近に堂を建立しておまつりした。(鹿瀬観音堂の項参照)ただいまでは不動明王が本尊になっている。霊巌寺のお不動さんと呼んで毎月28日の縁日には大変な人出である。縁起によると、長慶天皇の文中3年(1373)正月、湯浅の白方に居た円勝という法師が、ここに草庵を結び勤行したのが始りであるという。霊夢の告げによったのである。その夢は、円勝がこの山の「からたち岩」に登ると異相の老僧が現われて、円勝、ここは兜率天(とそつてん)の内院である、汝これを知っているか、というほどに西方より大日輪が天地を照らすと見て、夢がさめた。このことは能仁寺の奥の院がすでに出来ていた頃である。




能仁寺の開山覚明法師の弟子の明超が、正平10年に(1355)大和国吉野川上の里、大迫という所に年久しくすんでいた異形の老翁を伴ひきたってこの「からたち岩」に棲はしたのである。この老翁は蛇身で、もとは役ノ行者の弟子縁覚という者であった。
嘉慶元年6月(1387)に大ひでりがあり百姓一同大いに苦しんだ。このとき性寿法師が肌身はなさず奉持していた仏舎利を、この岩に奉納して雨を祈ったところ、からたち岩から小蛇が出現したと見るまに大雨が降りこの地方をうるおおした。人々は大いに喜び、協力して小蛇庵という庵室を建てて性寿法師をこれに住わせた。この性寿は、六十谷の法賢という仏師に、本尊観世音像を彫らせて、堂も建て本格的な寺院となった。其後能仁寺は雰落し、したがって霊巌寺もおとろえてしまったが、やはり信仰は細々ながら続き修業僧や行者など、小庵をたてて住んだもようである。明治初年ごろまで、前田や猿川の人家に、霊岸寺にすむ行者が、托鉢にきたり、時にはもらい風呂などして土地の人々と親しんだという。
霊岸寺山は海抜450あり、一帯は禁猟区に指定され、鳥獣の楽園になっているが、野生の猿の1群が棲みついて時々姿を現わすことがある。かっこうのハイキングコースであり、西有田県立公園にも指定されている。(昭和31年11月1日) 現在は堂もあり、篤信者たちがお籠りする建物も出来ている。

22  柳生寺  西山浄土宗


1、山号  妙翠山  現住職 小出義信
1、所在地  広川町大字柳瀬238
1、沿革  寺の創建や沿革について、くわしいことがわかりかねる。門の入口右側に地蔵小堂があるが、この石地蔵が1番古いものだとの伝承がある。台坐に有田郡広庄柳照寺龍渕代享保3戊戌と読める記銘がある。1718年である。墓地を見てもこれ以上に古い年号をもつものがちょと見当らないようである。境内に、明和4亥正月吉日銘の(1767)「青面金剛童子」の石碑がある。現在鉄筋の堂宇が建っている。(なお柳生の生は昔は照を用いていた。)

23  正法寺  浄土真宗本願寺派


1、山号  光況山  現住職 雜賀貞信
1、所在地  広川町殿
1、沿革  続風土記に「村の東端にあり雑賀孫市の甥孫右衛門というもの浪人となり当所に来り建立すという」とある。寺伝によればそれは天正15年(1587)だという。又元禄7年(1694)「宝物寺地御改書」を寺社奉行宛提出しているのによれば和歌浦性応寺末寺であった。5間4面の本堂、3間4面の庫裡があったが、昭和8年4月全焼。現在のそれは昭和12年4月再建されたものである。
1、堂宇
1、本堂  5間半  5間
1、庫裡  4間半  5間
1、玄関  1間半  1間
1、書院  4間半  2間
1、納骨堂  1間半  1間半
1、門  1間  1間
1、宝物
1、本尊阿弥陀如来  木  2尺2寸
1、親鸞上人絵像
1、蓮如上人絵像
1、7高僧絵像
1、聖徳太子絵像
以上本願寺勝如上人より昭和12年4月下附されたものである。

1、歴代住職
開基  雑賀孫右衛門
第1世  了印 (貞享5年1月)
第2世  了恵 (正徳4年5月)
第3世  辨了 (元文4年正月)
第4世  智貞 (天明8年5月)
第5世  智辨 (天保2年4月)
第6世  不明
第7世  智浄 (大正4年10月)
第9世  貞浄 (昭和44年10月)
第10世  貞信(現住職)

墓地の1隅に、わが広川町としては珍らしく1基の句碑がある。文化元年(1804)甲子12月廿日の銘があり、正面に俳句を彫っている。句の右下に塊門互島とある。この句碑のことについては別項で記述する。また1個の手水鉢があるが、これに須原村施主北畑藤右ヱ門万延元庚申初冬の銘がある。(万延は1860年)

24  雲光寺 (今はなし)  西山浄土宗


1、所在地  広川町殿
続風土記には寺名だけが載っている。昭和11年1月5日夜全焼。現在何1つ判らない。焼失後再興されず、檀家はこの寺の本寺であった法蔵寺へついた。当時の住持は尼さんであったというが、その後のことも知られていない。但し墓地はそのまま残されて、もと檀家の人々によって整備されきれいにまつられている。尚昔の広八幡神社の社家であった野原別当家の墓地もここにある。寺境内地及墓地はそのまま残されている。

25  円光寺  西山浄土宗


1、山号  龍頭山    現住職  野村龍宏
1、所在地  広川町井関1057
1、沿革  古くは真言宗の寺院であったが、明秀上人が法蔵寺を開基されてから末寺となり浄土宗の寺になったと伝えらる。5間に4間の本堂の創建年代など不明であるが、須弥壇上弥陀3尊を安置した後の壁に、寛延4年辛未正月18日(1751)と、明和6年己丑8月6日(1769)の黒書が残っている。昔の熊野街道往還の西側にあたる高台にあり、景観のよい場所である。井関の平地につき出た丘稜が、広川の流れを曲げて、川口にせまっている姿が龍のようだというので龍頭山の号をつけたのだという。本堂の左側に観音堂がある。厨子内に十一面観音をまつり、法量は16メートル80右手に錫杖をもたれ作柄は優秀である。実はこの観音は、むかし井関稲荷社の神宮寺であった霊泉寺の本尊で、お堂とともにここに移されたものという。



堂内の天井及須弥檀上には彩色も残っている。堂前の石標に「いくとせを ここに稲荷の観世音 ちかいは四方にあまねかりけり」と刻している。おそらく観音をここへ迎えてからの記念の詠歌とおもわれる。この堂内に40センチほどの石仏があり、これも十一面観音とみられるが、円光背に「康応」と読める紀年銘がある。康応は北朝年号で康応2年とあるから相当古い石仏である。(1390)法量42センチ。ほかに半迦地蔵尊の小木仏もまつられ美しい作柄である。境内には楠、松の相当な大木があるが、むかしこれ以上の松の大木があり、京都のさる寺院の棟木に用いられたとの伝があるが、くわしいことは不明。歴代の住職についても詳しくわからないが、墓地には8基ほどの住職の墓がある。

見空恵龍  天明4年  (1784)
智党恵秀  明和3年  (1766)
天空智海  天保14年  (1843)
大空甄乗  安政元年  (1854)
文龍上人  明治43年  (1910)

などが判明している。


26  霊泉寺  (今はなし)  真言宗


1、山号  白井山宝厳院
1、所在地  広川町井関稲荷山
1、沿革  井関の稲荷神社とその成立の起原を同じくし、稲荷社の社僧を兼ねていた。その場所は現在井関分教場になっている。続風土記に
「観音堂 鐘楼 僧坊 稲荷社の境内にあり稲荷社僧をも兼たり、昔は磯の観音堂のみなりしに安永3年堂舎を建て寺号山院号を許さる」
とある。この寺のことについては、神社の部の「井関の稲荷神社」の項で併せ記しておいたので、そのところを参照願いたい。

27  白井原薬師堂


1、所在地  広川町井関白井原
続風土記の井関村の項に

旧家  後 平次先祖を栗山左京進という、当所白井原というを領し戸屋城に仕へ、落城の後農民となる、宝歴年中屋敷内に7抱余りの楠ありて、東照宮造営の材になしたという、又家地の側に薬師堂あり、先祖の建立する所という

と記事がある。先祖の建立する所という薬師堂及本尊薬師如来は、現在白井原薬師として小堂ながら立派にまつられ、土地の人々が輪番で管理し供養している。もとは僧も居ったらしく堂の側に廃屋が残り、堂前に墓碑も1つ2つ残っている。堂内に打鉦がある裏縁に「有田郡井関村白井原薬師堂什物 三界万霊 見空達道代 宝暦6丙子5月12日 西村和泉守作」と刻彫している。(1756)年代がはっきりわかる遺物はこれだけだが、すでに200年以上前からあったことはたしかである。ところでこの堂に縁起巻物1巻があって、この薬師の由来効験をしるしているが、勿論後世の作であるが、天正8年丑9月15日とある。(1580この年は辰年である。)縁起によると、畠山重忠が眼病のため苦しんだのをこの薬師に祈願して平癒したこと、子孫が高城落城のとき、白井三郎という家来が火中より取出してまつったとあり、後平次のことにふれてはいない。
この薬師は秘仏として一般には公開しないが、この堂の鍵持ち当番の人は確認して次の人に渡していくらしい。什物なども整いきれいにまつられている。今は使用されていないが、参拝者に頒ける刷仏の小板木もある。

28  地蔵寺  西山浄土宗


1、山号  延命山    代務住職 白倉宏之
1、所在地  広川町河瀬105
1、沿革  今のところ詳しい沿革のことはわからない。現在のところ記録として安永10年(1781)3月2日に本堂供養を2夜3日にわたり行ったというのが古いところである。また天保14年になって本堂が破損したので再建したもようである。歴代の住職もはっきりしない。現在は無住である。本堂はこじんまりした堂庫裡建で4間半に3間半、まだ新しいようである。土地の人が管理しているが常に清掃されている。毎月1日と24日に地蔵講を行っている。入口左側に別項で述べた徳本名号碑と餓死者の供養と道標とをかねた碑がある。本尊は木像地蔵菩薩立像で法量1・76メートル、相当な古仏と見受けられる。顔面右側に木の脂か、うるしが流れたようになっているので、俗に「あせかき地蔵」と呼ばれ、昔、鹿脊峠を越す旅人が弱ると後から押し上げてくれるので汗をかいて居られるのだとのゆかしい伝承が残っている。ほかに厨子入りの美しい千手観音像。ちょっと珍らしいのは5却思惟アミダ仏と見られる小坐像がある。
境内山手に墓地があり、よく整理されている。
「ありがたや汗かき子安地蔵尊、この世に利益あらわしにけり」
の御詠歌がある。文政8酉9月の銘ある鉦がある(1825)また別伝にこの汗かき子安地蔵尊は、弘法大師42才の作とのつたえもある。

29  鹿ヶ瀬観音堂  (今はなし)


1、所在地  広川町河瀬下鹿瀬町
紀伊続風土記に「村の西山手にあり、天正年間、名島村能仁寺の奥院霊巌寺を退転せるを、慶長年中鹿瀬六郎太夫の祖、此地に移し、1宇を建立す。花山院の明魏の作の、霊巌寺縁起の写1巻有り、六郎太夫が家に蔵む」とある。本尊十一面千手観音立像、法量2尺3寸は六十谷の直川仏師(法賢)の作といわれる。建物の小堂は代々鹿瀬家で護持してきたが今は堂も本尊も無くなってしまった。縁起書の巻物は、応永元戌年11月27日の書であると伝えられ、明魏は内大臣右近衛大将藤原長親公耕雲のことで、その筆になっているという。しかし本物は他家に移り、その写しであるともいわれている。仏像は現在某家の有になっている。


30  万福寺  西山浄土宗


1、山号  瑠理山    現住職  白倉宏之
1、所在地  広川町前田  天明年間200年ほど前に創立されたというが、薬師如来法量78センチをおまつりしていたので瑠理山といい堂の向きは西向きになっている。薬師瑠理光如来は東におわす故に。寺の本尊は今阿弥陀如来である。ほかに霊巌寺から伝来したという不動明王、法量45センチ昆舎門天像法量38センチいづれも小像がある。厨子入の阿弥陀、観音の小像もあり、これらの仏像はいづれも古色を帯びている。6間5間の本堂は昭和37年8月に新築され境内もよく整備されている。境内にクロガネモチの老木がある。なおこの寺は昔から寺小屋を営み村童に教え、明治になってからも前田小学校として利用され、津木小学校前田分校の前身であった。


31  神宮寺  (今はなし)  真言宗


1、所在地  広川町前田宮ノ前
1、沿革  前田八幡社(本山八幡社、津木八幡社)の社僧が居た寺であるが、現在ではその場所も不明である。
広八幡社の社僧明王院の末寺であった。もちろん明治初年の神仏分離で廃されたことであるが、現在の所記録ものこらず、伝承も聞かない、ただおそらく最後の社僧と思はれる人が明治の中頃まで居て、手習や茶道などを村娘たちにおしえた。しかし名を知る人とてなくただ「法印さん」といって親まれたという。寺の建物も仏像什物などどうなったか一切不明である。
八幡社の棟札のうちに、慶安3年(1650)のものに社僧良順とあり、延宝2年(1674)には社僧良賢、元禄7年(1694)のには、仙光寺明王院快円法印の名が見え、元文3年(1738)には社僧直暁とあり、これらの社僧の名のみが、わずかに棟札写しによって知られるのみである。また天明8年正月(1788)の護摩法の札に、本山現住法印法口というのも見える。明治初年の有田郡宝物取調目録に「前田村元神宮寺半身古像  阿弥陀仏像」と報告されているがこれらももちろん今はどこでどうなっているのか不明である。

32  猿川不動堂  広源寺附属佛堂


1、所在地  広川町大字下津木猿川
津木方面に通ずる県道にそって、猿川地区のほぼ中央左側の小高い土地にある。道から見上げると、タブノ木(オドグス)の大木が森のように繁っているのが見える。民家建の堂である。堂前の1寸した広場の右側石垣に「庚申」の石像が他の石仏などと並べられている。樫の木の小枝の片面を削づり供養した年月など書きつけたものが2つ3つたてられている。(庚申講〈おしめあげ〉のまつりをすると建てる)。堂内には「白滝不動明王」と称する石仏が厨子内に納められていると同時に、庚申の絵像も納められている。
今残っている棟札に「干時安正3丙辰2月廿日建之 猿川村想世話人」 裏面に、「不動堂再建 大工当村堂之前利 □□ 世話人組頭仙右ヱ門 同嘉七 肝煎 口口 兼帯庄屋 前田村定右ヱ門」とある。(1856)
尚 庚申掛図の箱書に、明治2年己巳3月仲内組(なかまうちぐみ)長三郎、栄蔵、久助、清蔵とあり、幸新様とあて字で書かれていて、紀州有田郡湯浅組下津木猿川とある。堂の片方は山肌で、今1の側は高い石垣になっていて、その石垣側に、おそらく広川町では最大とみられるタブノキがある。堂は地区の集会所もかねているらしい。不動尊、庚申さん共に立派にまつられている。
さきの庚申石像台坐に明和5口正月日 八右ヱ門 七郎右衛門 長右エ門 久左エ門 平太郎 源右ヱ門 伝吉 甚三郎の名が見える。

33  広源寺  西山浄土宗


1、山号  楽邦山    現住職  栗田信龍
1、所在地  広川町下津木962
1、沿革  明応2年(1493)玄幽上人の開基で、現在の所から乾の方(北西)川を隔てた権蔵原の山上にあった。今もその跡地に墓石が残っているという。宝歴4年正月(1754)火災にかかり、古文書、宝物など皆焼失してしまった。今に残されているものは、推崎新右ヱ門(角兵衛)が寄贈したという十一面観音立像と、もと本尊としていたという石仏を灰燼の中より収めて現在の所に移したといわれる。(この石仏は現在している。)
文久3年正月(1863)堂宇を再建して現在に至っている。本尊は阿弥陀如来、観音、勢至両菩薩。さきの十一面観音は小像であるが古仏である。尚文化9年(1812)土地の岩崎市右ヱ門、岩崎九祐、小畑紋右エ門らが釈迦涅槃図を寄進している。尚本堂東側の庭園に、寺伝では開基の墓だと伝えられる宝篋印塔がある。型の小さいものだが室町期のものと推定される美しい塔であるが、無銘である。現在、9輪が失われているのが惜しい。堂宇は7間、5間になっている、堂庫裡様式であるが、現在は本堂の北側に庫裡と書院が建増しされている。寺伝では、昔、平家の落人たちが30数名この里にかくれ、2軒にわかれ住んでいた家を、寄せてこの堂を建ったのだと。歴代の住職は1々は不詳であるが、現在の墓地には左の墓石がある。
真空大龍  明和2年(1765)
理空順達  安永年間(1772〜81)
権大僧都法印本然  寛政10年(1798)
香空積山  天保8年(1837)
広空寛随  弘化4年(1847)
実空  元治元年(1864)
この間年代不詳のもの
祥空慶道西堂、g空慈辨、温空登龍玉応、の3基がある。
真誠  明治21年(1888)
明治23年(1890)
登空安龍  昭和13年(1938) などである。


34  滝川原観音堂  広源寺附属佛堂


1、所在地  広川町下津木滝原
続風土記には「観音堂、村中山麓にあり」と記されている。岩渕へ通る道から少し上った所に山麓をならして1宇の堂がある。文字通り小堂である。堂の傍に地区の集会場が建っていたが今は民家になっている。滝原区民でおまつりしていて、毎年会式もする。この観音について今の所、何の話しも聞かぬが、昔からまつられ、大正の末期まで堂守が住んでいた。


35  観音寺  西山浄土宗


1、山号  北斗山  兼務住職  畑中光真
1、所在地  広川町下津木岩渕中村
1、沿革  現在産土神と岩渕分校とこの寺とが同一場所にある。もちろん学校の敷地は寺領にあとから整地したものである。紀伊名所図絵にも図入りで記載されていて、産土神である三輪妙見両社と寺の一角がみえる。ロ碑伝承によるとずいぶん昔からあったもようであるが、たしかな記録も遺物も無いので不明である。元禄9年の
寺社改めの節の書上げには、堂もなく退転したと報告したが、やがて妙見社内に旧記が発見され、それの記載によると、初め妙見寺といい後に観音寺と改め、南朝ゆかりの寺として存在していたことを、あらためて報告している。役行者の開基で、嘉慶元年2月1日焼失したとある。(1387)宮と寺との関係は別に神宮寺でもなく社僧でもなかったもようである。現在の堂は、昭和10年8月新築したので、古いことは一そうわからなくなってしまった。しかし岩渕地区は相当早くから開けていたことは事実らしく往古の高野街道、十津川や日高への間道筋になっていた。南朝との関係があった口碑もあり、現在寺の墓地に1基の宝筐印塔があり、様式は室町から南北朝へさかのぼれるかと思われる。土地では大塔宮熊野落ちの途中家臣小寺相模の1子16才が病をえて落伍、家来を伴い逃れきて自害して果てた、その墓碑だといっている。無銘である。

寺には何1つ記録もなく過去帳は代務住職が保管しており、現在は無住である。しかし昭和の初期までは住職がいた。徳川末期から明治の初めへかけて寺小屋も開き、「お茶講」という講もあった。

36  廢不動堂


1、所在地  広川町下津木岩渕
続風土記に「廃不動堂」とある。現在でも世話する人があって立派にまつりをつづけている。もとは観音寺にあったものと推定される。


37  極楽寺  西山浄土宗


1、山号  西方山    兼務住職  吉水仰哲
1、所在地  広川町上津木落合14

< 写真を挿入する  餓死会需墓落合極楽寺墓地内 >

1、沿革  寺杣公文原の広源寺の隠居寺であった。本堂は百5、60年以前に建てられた堂庫裡建である。県道に添うた高台にあり、寺へ登る石段の左上に大きなイチョウがある。墓地に「餓死会霊墓」という自然石の碑がある。もとからこの墓地にあったのではなく附近の山林から堀り出したものであるという。宝暦7丑年2月10日とあり、そのほかにはなんの記銘もない。宝暦6年(1756)飢饉のため米価高騰、幾人かの餓死者も出たことであったろう。おそらくそれらの人々の供養碑と思われる。寺宝として釈迦涅槃像の絵がある。小幅であるが優作とみられる。


38  安楽寺  (今はなし)  西山浄土宗


1、所在地  広川町上津木中村
1、沿革  老賀八幡社の社僧であり、宗旨も真言宗であったらしいが、詳しくは不明。
法蔵寺の末寺になって浄土宗になり広源寺に合併された。この寺の資料としては何もなく、老賀八幡社神主の書いた記録によってその大要を知れるのみである。それによると、上津木の猪谷、中村に、いつの頃からか、金龍坊、宝積院、安楽寺の3ヵ寺があって、ここの僧たちが老賀八幡社の社僧をつとめていたとの伝承がある。しかし後に2ヵ寺はおとろえて退転し、安楽寺だけが残って八幡の社僧であり猪谷、中村の檀那寺でもあった。ところで安楽寺の開基も、出来た時代も判然としない。いまのところ老賀八幡社の友国神主の書き残した文書があるが、それにもこれらの事には深くふれていない。それで古いことはわからないが、延宝年間に(1673〜81)本堂を再建している。ところで本堂再建の場所は、その時、老賀八幡社境内馬場尻の所であって、この事がどうやら八幡社神主の気に入らぬ様子がうかがわれ、社内に寺を建てることは神の祟りがあるような記述を残している。したがって安楽寺社僧と神主との間は、うまくいってなかったようである。また安楽寺の僧にも、これはといった人材もなかったようであり、経済的にもあまり豊かでもなかったらしく、しばしば又は久しく無住の時が多かった。しかしいつの頃からか広、中野法蔵寺の末寺になっていたらしく、貞享3年(1686)寅4月の「受陽山惣持寺定式 法蔵寺列号判形之帳」に上津木村安楽寺とあり、ちゃんと印形を押しているから、これ以前に末寺になっていたのであろう。それでいて元禄年中(1688〜1704)には安楽寺の檀家は、寺杣の広源寺あずけになっている。しかし久しく無住でおくことは、用心も悪く(当時この堂は草葺であった)、留守居に山伏が入りこんだり、真言の加治僧がきたりしたが、これらも正式なものではなく、寺社奉行所への届出は「無住」であった。寛政8年(1796)の記録に、当時この寺の留居僧の寛瑞という真言僧が、この年の八幡祭礼に、自分も社僧として祭りを執行すると主張して、神主と大争いもつれて、とうとう祭礼が3日間も延引するという騒ぎもおきている。その後寺もさびれお宮とはうまくいかず、荒れるにまかせたまま明治をむかえた。そして一時は小学校舎として使用されたが、建物も古く、新に小学校を建てる時に遂に取こわされてしまったのである。寺は廃退跡かたなくなってしまったが、仏像や仏具は、宮の建物の1つが村の集会所青年会場などに利用されていた所へ、雑然と置かれていたが、やがてここが公民館として新築されたので、仏像仏具等は別に小舎を建ててそこに納め保存されている。また中村西端に長寿院という修験者があって、これも何か安楽寺と関係あったようであるが詳しいことは何もわかっていない。


39  阿弥陀堂  (不明)


広川町上津木中村
続風土記に「村の坤西畑谷にあり」と記載されている。くわしいことは今は判らない。

40  藤滝念仏堂  (今はなし)


1、所在地  広川町上津木中村柳渕
上津木中村県道藤橋から左に登る、藤滝越という山路があり、昔はこの坂道を越えて日高郡中津川をへて道成寺へ通じる路で、毎日のように越す人が絶えなかったが、今では廃道同様で、山仕事に行く人が通るぐらいである。この藤滝越へかかる入口に、庚申さんがまつられていて、かたわらの石燈籠の竿に「かねまき」と彫されて道標にもなっている。ここの庚申さんは閏年のおしめあげに盛大に餅まきをするのだという。藤滝は高さ約15メートル、大きな滝ではないが、かなりの水量で幅広く落下し、周囲には山藤が木から木へとからみついて、初夏の頃は藤の花の中から水が落ちてくるようで実に見事である。上手から流れくる溪流に滝水が落ちこんで岩を噛んでいる。



紀伊名所図絵には「藤滝同村領(中村)道成寺道の傍にあり。壮観なり。飛泉の上、藤蔓多きを以て名とす。傍に近年小堂を建てたり、又道成寺道に傍へるかたに、小さき滝あり、女滝となづけたり」とある、野呂隆訓(松盧)の詩が載せてある。(別項広川町の詩歌の項参照)また滝や小堂の絵図ものせている。この小堂は明治前ごろまであったといわれ、僧も住んでいて一時は大いに栄えたこともあった。今その跡は竹藪になっているが、石垣や平地に切り開いたであろう段など、それとはっきりわかる。相当信者もあり、お参りの人も多かったようである。現在石仏や供養塔や僧の墓碑などが残っている。主として浄土宗系の僧の勧化によるもようがうかがえ徳本上人の遺跡ともいわれている。宝暦7年(1757)の銘もみられるからそれ以前から信仰されていたのであろう。なかに天保15年(1844)建立の僧の墓碑の台座には湯浅及び広の人たちの名が25人もつられている。天保11年に建てられた徳本上人6字名号碑もあり、弘化4年の(1847)の碑もみえる。現在も参りの人が絶えないとみえて、新しい奉納手拭がぶらさげられている。ここの僧と推定される人に、今も土地の人たちの記憶に残る「霊応」という坊様が相当活躍したらしい。天保の頃の人である。


41  町内現在寺院宗派別1覧 (順不同)


養源寺  日蓮宗本山妙覚寺末  広
法蔵寺  西山浄土宗  上中野
極楽寺  同右  上津木
光明寺  同右  山本
法専寺  同右  池ノ上

法昌寺  同右  西広
平眼寺  同右  西広
蓮開寺  同右  南金屋
柳照寺  同右  柳瀬
円光寺  同右  井関
地藏寺  同右  河瀬
萬福寺  同右  前田
広源寺  同右  下津木
観音寺  同右  下津木
円光寺  浄土真宗本願寺派  広
正覚寺  同右  広
安楽寺  同右  広
教専寺  同右  広
善照寺  同右  唐尾
正法寺  同右  殿
明王院  (和宗)  上中野
庚申堂  (天台宗)  山本
能仁寺  (救世観音宗)  名島
霊巌寺  (真言宗)  前田
子安地蔵堂    広
白井原薬師堂    井関
滝原観音堂    下津木
猿川不動堂    下津木



6、  その他の宗教


1  キリスト教




日本聖公会広基督教会広川町広1132
牧師  堀井治一郎
広にキリスト教の伝導をしたのは米国人JHロイドで、まず湯浅町でも始め、大正12年(1923)頃広へ来て、雁氏の宅で神の福音をといた。まだ紀勢線は開通せず、和歌山市から汽船で来て、広の角宇旅館で泊った。しだいに信者も出来たので教会堂を建てることになり、ロイドは自分の本国アメリカへ帰り寄附を集めてきたのである。
場所は今在るところだがここはもとは祇園社の跡地で夏柑畑になっていた所を買求めてそこへ建てた。当時内海紡積工場(今の日東紡広工場の前身)の出来た頃で各地から女工さんも来るし朝鮮からも来ていて、それらの人々も伝導の対象にして教線を張ったのである。その頃は当地としては外国人は珍らしかったし「ロイドさん」の名は今に年配の人々の記憶に残っている、人格高潔な神父さんであった。その後日本人の牧師が幾人か来広して現在は有田市初島の教会と兼務する堀井師に至っている。

【追加】 キリスト教の1つの派であるエホバの証人も70年代より当地でも布教がなされ、1990年に広に「王国会館」と呼ばれる集会所が建設された。
今は有田川町に新たな「王国会館」が建設され、そこで信者達が集会を開いている。

2  天理教


神道13派の1つで、1838年(天保9年)大和国山辺郡の中山美伎女の創始である。天理王尊を祀り(国常立尊ら10柱の神の総称)、罪悪の根源である欲を捨てて、真の平和の天地、即ち甘露台を現世に建設するのだという教義である。この地方へは明治23年ごろ湯浅町で布教がはじまりやがて近隣に及び、当時の広、南広、津木と布教伝導され現在次のような教会所が設立されている。

天理教広分教会
設立  明治42年3月6日
場所  広川町広1308
歴代会長
初代  田中増次郎  明治42年3月6日
2代  谷沢庄次郎  昭和3年6月5日
3代  西岡きくえ  昭和8年6月25日
4代  密浦ぬい  昭和36年5月26日

天理教有広分教会
設立  明治28年頃
場所  広川町山本890(池上)
歴代会長

初代  田中甚左ヱ門
2代  田中政太郎
3代  梅本清太郎
4代  竹中長太郎
5代  竹中夕ケ
6代  竹中満明

天理教紀伊津分教会
設立  明治43年6月15日
場所  広川町下津木870
歴代会長
初代  中谷虎吉
2代  中谷彦七

天理教和有分教会
場所  広川町井開328  その他不詳



3  その他の宗教


上記のほかに宗派神道関係では金光教がある。天地金乃神をまつり安政6年(1859)岡山県備中の赤沢国太郎、金光大陣と称する、が立教したものであるが、明治29年頃湯浅町に布教所を置いて布教したのがこの地方での最初であった。広川町にも相当信者が散在しているもようであるが教会は無い。また宗派神道の大本教は出口ナオとその養嗣王仁三郎の創設で、総本部は京都府綾部市に、道場を亀岡市においている。明治末年から信者をあつめ相当な教団に成長したが、時の政府の大弾圧を受け、敗戦まで表面上潰滅状態であったが、信者の深い信仰はこれに屈せず、戦後教団を再建「ミクロの世界」の実現を期して信仰を高めている。湯浅町に大本紀伊分苑があり、広川町内にも信者が散在している。
また「おどる神様」と俗称されている「天照皇太神宮教」は広川町山本に教会がある。このほか「生長の家」 「創価学会」など相当な信者会員を擁し活発な活動を展開しているもようである。
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