広川町誌 上巻(5) 近代史

 近代史


 まえがき
 29、近代社会への発足
   1近代社会への発足と地方制度の改正
   2民衆近代化への第1歩
 30、近代社会の苦難と発展
   1神仏分離廃仏毀釈
   2地租改正
   3近代資本主義
   4国威伸長時代の村民生活
   5近世済世安民の先覚者浜口梧陵
 31、近代社会の変貌
   1第1次世界大戦と村民生活
   2米騒動と小作争議とその前後
   3寒村からの脱却
 32、近代の迷路と蘇生
   1暗黒時代回顧
   2迷路からの蘇生
   3南海大地震・津波と7・18水害・その他
   4農業転換と広川町
   

行政史篇
 1、藩政時代
 2、広川町以前近代の行政組織
 3、広川町の誕生から現在まで

広川町誌上巻(1)地理篇
広川町誌上巻(2)考古篇
広川町誌上巻(3)中世史
広川町誌上巻(4)近世史
広川町誌上巻(5)近代史
広川町誌下巻(1) 宗教篇
広川町誌下巻(2)産業史篇
広川町誌下巻(3)文教篇
広川町誌下巻(4)民族資料篇
広川町誌下巻(5)雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表

近代史

まえがき


近代史は、いうまでもなく最も身近な時代を対象とする。従って、様ざまな問題や事柄が最も身近なところに顔を出している。
それを丹念に1つ1つ採り上げて綴ってゆくのも、近代史の方法として重要なことである。しかし、ここでは、別の途を選ぶことにした。その理由は、本書巻尾の年表が、殆んどその役割を果たしているからである。同年表は、御覧になれば判るとおり、普通の年表よりも丁寧に説明を付し、これだけでも結構広川地方の歴史が分明する、1種の広川地方史である。
だが、如何に詳しい年表でも、時代の流れまで充分明らかにすることは容易でない。そこで、これに重点をおいたのが、本書歴史篇であり、特にこの近代史はそこに主眼点をおくことにした。だから、採り上げる問題は、極めて限られたものであり、総てにわたった広川地方近代史ではない。
より詳しく広川地方のことを望まれる方々は、本書の広川地方年表に拠られたい。同年表は、1種の広川地方史であること前記のとおりである。特に、当地方の出来事のみ知りたい読者には、本書歴史篇より年表が幾倍か便利である。
しかし、この近代史は、また、別の意味でそれなりに時代を物語るものとしたい。

29、近代社会への発足


1 近代社会への発足と地方制度の改正


幕末の動乱は、新しい時代を生むための激しい陣痛であった。かくて、明治維新が生まれ、ただちに、近代国家を指向して発足した。
およそ2世紀半にわたる近世幕藩体制を崩壊せしめ、王政復古謳歌の新時代をつくったのは、この明治維新である。そして、従来の士農工商という身分制度を廃止し、4民平等の近代社会の産声を揚げさせたのである。あたかも暗い山路から明るい平野に出たようなイメージを感じさせるのが、この明治維新という4文字の言葉である。
果たして、4民平等が文字どおり、真に実現可能な明治新政府樹立となったであろうか。慶応3年(1867)10月、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行ない、国家統治の実権は明治新政府の掌中に握られるが、この新政府は、謂うまでもなく、倒幕クーデター参加武士・同貴族の中心人物によって構成され、あたかも、その政権は、単に権力の担当者が更替したに過ぎなかったかの感を抱かせるものがある。明治維新の成果は大きいだけに、その跡を背負って立った明治新政府の隠険さに、いささか抵抗を感じざるを得ない。しかし、ここは、明治新政権批判の場でない。 だが、この政府の行なった明治初期の地租改正や神仏分離排仏毀釈、さらに、自由民権思想に対する弾圧など、農民はじめ一般民衆の物心両面に与えた打撃は、まことに大きい。 この問題について後に触れるであろうが、とにかく、近代国家への出発点には、専制政治的な暗影が各処に漂っていたことは否定できない。
それは、さておき、紀伊藩では、明治元年(1868)の戊辰戦争を通じて、天下の大勢を察知し、時流に抗し難く明治新政府支持に藩論の統一を行ない藩政改革に踏み切った。この藩政改革により郡政も改められた。旧藩時代の代官を廃し、各郡に民政局を設置して知局事・判局事などの役人を配置(間もなく知局事は少参事に、判局事は権少参事に職名が改められる)。それと同時に、各郡下の各組大庄屋が、郷長と改称され、杖突は組書記と改められた。
ところで、有田郡民政局は、湯浅道町南端に置かれ、初代知局事は、浜口儀兵衛(梧陵)であった。因に、その当時の同民政局の組織と役職員を挙げると次のとおりである。

有田郡民政知局事  浜口儀兵衛(梧陵)
同 副知局事    菊池孫輔(海荘)
同 判局事     高垣伊太夫
同 判局事     森直右衛門
同 判局事試補   江川庄兵衛
同         北村捨吉
同 元有田元締   板原兵作
同 元海士地方元締 露口甚助
同 有田郡吉原地士   高垣八右衛門
同 郡井関帯刀人    長谷孝之右衛門
同 書記 元海土地方手代 千賀一郎


ここで、有田郡民政局初代知局事浜口梧陵について、特に、この時代前後のことを付記しておこう。
梧陵は、明治元年の藩政改革に際して、紀伊藩勘定奉行に抜擢され、翌年正月、政事府参政、同2月学習館知局事。そして、同年8月有田郡民政知局事に、同10月名草郡民政知局事兼任となる。明治3年2月、松坂民政知局事、同12月、和歌山藩権大参事に就任。その翌年、即ち明治4年5月東京藩庁詰となり、同7月、明治政府の駅逓正に同8月さらに駅逓頭に任ぜられる。だが、間もなく、それを辞して、同月和歌山県大参事に、同年11月、和歌山県参事に任ぜられた。しかるに、翌5年2月、官職を辞している。彼程の偉人でも、その性格は官僚生活に適さなかったのかも知れない。彼の思想は、現代的にいえば民主主義的であったので、当時の官尊民卑思想と相容れないものがあったのでなかろうか。
さて、明治4年(1871)7月、全国の廃藩置県が行なわれた。この時、紀伊藩が廃され、新たに和歌山県が誕生した。それと同時に旧藩主知事に代って、新たに県令が置かれた。この県令は、中央集権主義に基づいて任命された官僚であったことはいうまでもない。
なお、廃藩置県に際して、従来、紀伊藩領であった伊勢国の一部と南北牟婁郡が、和歌山県から除かれた。
廃藩置県に伴い地方制度の改正が行なわれ区制が布かれた。本県は明治5年4月。県下に7大区67小区を設け、郡・組の制を廃した。本郡は第5大区と称され、さらに、5小区に区分されたのである。その時、大体、各組が各小区の単位と定められた模様で、湯浅組は第2小区と称されることになった。
因に、有田郡内の小区を挙げると、左の如くである。

第1小区  旧宮原組
第2小区  旧湯浅組
第3小区  旧藤並組
第4小区  旧石垣組
第5小区  旧山保田組


そして、各区毎に区戸長が置かれ、郷長・庄屋の制が廃された。区には戸長1人、1村または数村に副戸長1人分置の制となる。戸長の下には、筆生、村総代、村用係が置かれた。そして、戸籍は戸長の専任とした。旧幕藩時代の5人組にならって、5戸を単位に伍を組織し、伍には伍長を置いたこと、旧制の5人組頭と異ならない。
ところで、戸長・副戸長は官選であったが、戸長役場は戸長の私宅をもって充て、その職を辞任する毎に、戸長役場が替り、当時の役場は戸長に付いて廻るという奇現象を呈した。そのため一定を見ず、いま、当時の戸長、副戸長の氏名も不明となっているものも多い関係から戸長役場の所在地も明らかでない。そのうち1〜2判明した分は、本書巻尾の年表に記載されているから参照されたい。
右の戸長・副戸長の制も、1年後の明治6年3月、戸長を副区長に、副戸長を戸長に改めた。当時の第2小区長は岡文一郎であった。
前述の如く、明治5年県下に大小区制を布いたとき、―郡は実質的な行政区画名称でなくなった。第何大区がそれに代ったのである。しかし、明治11年(1878)7月、政府は郡区町村編成法を新たに制定して、是までの大区・小区制による地方行政組織を、旧来の郡町村制に改めた。大区・小区制によって、郡町村が、単に地域名称に過ぎないとされていたが、旧慣の町村の地位を否定し得ず明治政府は、この郡区町村編制法により、町村を自治体として復活させ郡を行政区画として郡長を置くことに改正したのである。その時、有田郡初代郡長に任命されたのは鈴木三郎であった。そして、郡役場は湯浅村深専寺山門西側の利生軒を仮庁舎として開始された。
右の法令によると各町村ごとに戸長1人を置くのを主旨としているが、事務の便と段別・戸数の多寡を計り123町5反5畝歩、279戸を以てその基準を定めていたので本郡は、41名の戸長の地となった。その戸長役場所在地と所属村名は「有田郡誌」に掲載されている。第2小区、 即ち当地方の分をそれから引用すると

旧小区名  役場位置  所属村名
2の小区  田
       栖原    栖原・吉川
       湯浅    湯浅
       広     広
       山本    和田・山本・西広・唐尾・上中野
       井関    南金屋・殿・柳瀬・井関・河瀬・東中
       下津木   下津木・上津木・前田
       山田    名島・山田・青木・別所


の8グループに編成されている。なお、同書に記しているところを引用すると、

役場の位置、聯合村は概略斯の如くなりしが、戸長は民撰なる為、実際其任に堪えずして職を辞するもの多く、而して役場は殆ど皆戸長其人の私宅なりしを以て、戸長の改選と共に役場も亦其所在を変改するの奇観を呈し、実際一定位置を記し難き場合少なからざりしなり。

と。この戸長の下には、筆生、村総代、村用係などがあったことは、さきにも言及した。
ところで、明治21年(1888)4月、政府は市制及び町村制法を公布し、翌年4月1日から施行となった。これに基づき、明治22年(1889)旧広庄の地域は3箇村に、旧湯浅庄の地は2箇村に編成され、従来の村は大字として、それぞれ、地域の新設村に所属した。左にそれを表示すると

新設村名 所属大字名(旧村名)
広村    広・和田
南広村   唐尾・西広・山本(池ノ上を含む)・上中野・南金屋・殿・井関・河瀬・柳瀬・東中・名島
津木村   前田・下津木・上津木
湯浅村   湯浅・山田・青木・別所
田栖川村  田・楢原・吉川


右の如く、旧各村は5箇村に分合されて、新しい自治体として発足を見たのである。
なお、付け加え記すと、湯浅村は明治29年(1896)6月町制を施行して湯浅町となり、広村は遅れて、昭和25年(1950) 10月、町制を布き広町となる。
右に略叙したのは、大体、当地方に関連する近代初期の地方行政組織である。この間の時代は、歴史の変革期として、当然様々な行政処置や事件があった。それらの1つ1つについては、本書の年表に、それこそ細大漏さずの例えの如く収録されているからそれによられたい。
さきに、この近代史のまえがきで言った如く、時代の流れについて見てゆくのが、本稿の主眼であり、それを幾分なりでも果たし得てあれば所期の目的は達し得たと思う次第である。順次叙述を試みるであろう各章も、およそ、同様なことになるであろう。

2 民衆近代化への第1歩


明治新政府が、貴重な文化財を破壊した排仏毀釈。農民を窮乏に追い込んだ地租改正。国民の自由民権を弾圧して恐怖を播き散らした専制政治。一いち挙げれば、明治という時代は、昭和45年、明治百年を記念して祝賀した程、国民ひとしく手放しで祝賀できる目出度いそれではなかった。真に心から祝賀の意を表し得たのは、明治新政府以来、厚い保護政策のもとに発展の一路を邁進してきた資本家階級や特権階級、また、それを背景とする保守的政治家達であった。或はまた、それに同調する結構な身分の人びとであった。長い間貧窮に苦しんできた農民の子孫は、過去を振り返って見たとき、果たして、心から明治百年を祝賀でき得たであろうか。これらのことについては、さらに、後章において明らかになるであろう。
だが、しかし、明治は確かに日本近代化への第1歩であった。一般民衆と謂えども明治政府の手によって、長い間の封建的絆から解放されたことは間違いない。この点、余り明治の悪口を論う訳にもゆくまい。 このへんで1つ、明治讃歌を唄って明治百年を祝さなければ申訳が立たないというものであろう。
さて、讃歌の第1章は何か。近代国家を指向して封建的身分制度を撤廃し、一般農市民に苗字の公称を許したことである。士族の特権であった苗字・帯刀について、帯刀はそれを禁止し、苗字は国民総てに開放する方針をとった。即ち、明治3年(187O)9月4日、佩刀禁止令に先立ち、太政官から苗字差許しの布告が出された

(豊田武『苗字の歴史』)。
自今平民苗字被差許事

この太政官布告によって、従来百姓や町人には許されなかった苗字が許され、これをもって氏とされた。
ここでは、あらためて史料を示さないが、本篇近世史「近代社会と村の生活」の章に田地譲渡証文、本銀返し証文など若干載せているのを見ても明らかなとおり、一般百姓は苗字を有さないのが普通であった。現在苗字を持たないのは天皇家のみである。百姓町人と呼ばれた一般庶民の殆んどは、明治3年の前記太政官布告によって、公然と苗字を称し、それを氏とすることになったのである。
前掲『苗字の歴史』の中で、豊田武教授は、一般国民に苗字公称を認めた理由について次の如く述べている。

「このように苗字公称の解禁が佩刀の禁止令の前に出されたのは、戸籍法の制定をいそぐ必要からであった。
明治政府は、その中央集権の完成である廃藩置県 (明治4年7月)に先立ち同年4月に戸籍法を制定してこれを全国の府藩県に公布した。その施行は壬申年 (5年)2月からであったのでこの戸籍を壬申戸籍という。」


いま壬申戸籍は一般に閲覧禁止の処置が執られているが、この戸籍薄が近代日本国家の人民登録台帳の第1巻となったのである。

以上のことは、ひとり当地方に限った事柄でなく、極めて一般的なことであり、殊更、広川町史の問題でないかも知れない。しかし、これ程対人関係、即ち社会生活に便益を受けたことはなかったであろうし、また、平等感を抱かせるに役立ったものはないであろう。
ところが、この苗字創出は容易なことでなく、種々な問題もあって、その届出が円滑に行なわれなかったらしく、明治8年2月、あらためて太政官布告をもって、それを強制し、「自今必ず苗字相唱うべく、もっとも祖先の苗字不明の向は新たに苗字を設くべし」といっている。(前掲書)
当地方の例でないが、新たに苗字を創出した時の届書控の如き文書が、海草郡下津町の旧家橋瓜家から発見されている。それによると、何兵衛の屋敷の前に石橋があるから苗字を石橋と名乗りたい。何右衛門の家の傍に小川があるから自今小川を苗字としたい。など苦心の有様が窺われてまことに興味深い史料といえる。当広川町には、職業をそのまま苗字としたのでないかと想像されるものがあるが、実例を示すのを差し控えたい。地名を苗字としている例は非常に多いが、これは古くからの慣習であり、近代初期苗字創出に際しての単なる思い付きでない。だが、明治初期にもその方法がとられたものが少なくなかったであろう。
明治初期苗字創出によって名乗られたものか、それ以前から名乗っていた苗字であるか、いま、にわかに詳らかになし得ない家もあるが、当広川町内で居住地と苗字の関係を物語る実例を左に示して参考に供したい。
ところで、地名にもいろいろある。明治22年までの村名、即ち、現在の大字名、その中の小字名、或は土地台帳に記載はないが、古来一般的に呼んできた地名など種類が多い。ここで地名というのは、その総てである。
なお、1言しておきたいのは、現在その地に住せないが、かって居住していた家等も含めることにした。便宜上、広・南広・津木と旧町村別に載せることにする。

広地区地名地名の区分苗字備考
寺村土地台帳に記載ないが、
近世史料に見える古来の地名
寺村
南広地区
大字名 地名地名の区分 苗字  備考
唐尾森下小字地名 森
鈴子谷 小字地名鈴子
久保小字地名 久保
尾崎小字地名 尾崎
城山小字地名 城 山
鈴河東 小字地名(鈴川西もあり)鈴川鈴川氏は現在西広に居住する
西広砂川小字地名 砂川
石原小字地名石原
大場小字地名 大場
森下小字地名 森
山本森崎小字地名 森
乙田乙田土地台帳に記載がないが、古来の地名。乙田土地台帳に記載がないが古くから地名 旧乙田天神社所在地
中山 小字地名中山
池ノ上北原土地台帳に記載がないが古くから地名として通用北原
上中野尾山 小字地名尾山昭和初期まで居住する。
上栗田 小字地名栗田
下栗田 小字地名栗田
大芝 小字地名
上萩平 小字地名萩平
下萩平 小字地名萩平
新古 小字地名新古
中ノ平 小字地名中平
南金屋西岡 小字地名西岡
(切畑もあり)
畑出 小字地名
浅良 小字地名浅井浅良からの転訛でなかろうか
殿楠ノ本 小字地名楠本
土井 小字地名土井現在名島に住す
井関門脇 小字地名門脇
白井原 小字地名白井原
河瀬片山 小字地名片山
鹿ケ瀬町 小字地名鹿瀬
東中久保 小字地名久保田殿村に多し
柳瀬
名島名島旧村名 現在大字名名島現在広に居住
津木地区
大字名地名の区分苗字備考
前田大江元小字地名大江
畑中小字地名畑中
芝田小字地名芝田・芝
地主小字地名地主
岡ん だ通称地名岡の方という意
下津木寺杣小字地名寺杣
赤堀小字地名赤堀
小字地名久保
丸畑小字地名丸畑
権保小字地名権保
鎌谷小字地名鎌谷
松本小字地名松本
落合字地名落合
柳渕小字地名柳渕
原坂小字地名原坂
久保小字地名久保
沼田小字地名沼田
垣内小字地名垣内・古垣内
高野小字地名高野
柿谷小字地名柿谷
猪谷中字地名猪谷
上奥通称地名
石塚小字地名石塚


以上の外に、まだまだ見落しがあるかも知れない。特にその地方の人々だけが古くから呼んできた地名が各所に存在したことであろうが、それも苗字とした家については、事情の究明が殆んど行届いていない。だが、ここでは、苗字についての研究でないので、判明した分で止めておく。
さて、所謂、百姓町人、その他庶民階級まで苗字の公称が許されたということは、さきにもいった如く、一応、平等な取り扱いを受ける権利が与えられたということに外ならない。これが、即ち、近代社会へ第1歩前進を物語る。しかし、もう1歩前進とまでは行かなかったのが、明治政府の保守的一面を想わしめるものがある。身分制度の完全撤廃どころか、新たな身分制度創設がそれである。即ち、明治5年(1872)1月29日、皇族・華族・士族・平民の制を設ける。前代封建制時代の士・農・工・商・穢多・非人の身分制度が撤廃され、一応、4民平等の基本路線が布かれたが、それに代って、皇族・華族・士族・平民と大きく4段階の身分制度が、近代国家の行手に立ち塞った。結婚その他の縁組も、この階級を越えることは、一般的に至難であり、余程の事情がない限り実施しなかった。このために、どれ程多くの悲劇が繰り返されたことであろう。
註。明治17年(1884)7月7日、華族令を公布して、公侯伯子男の5等爵を定める。これには幾多の特権が与えられた。
大正3年(1914)3月、新戸籍法を公布し身分登記制を廃したとき、士族・平民の区別がなくなり、士族という言葉は、単に武士の家系であったことを言い顕わすそれとなったが、それまでは、法的な意味が有されていた。華族制度は、第2次大戦後昭和22年(1947)、廃止となるまで、特権階級として存続した。
とにかく、明治初期、近代国家を指向して第1歩を踏み出したとき、一般庶民に苗字の公称が許された。これで完全に身分差別が撤廃されたとはいい得なかったが、誰れ憚ることなく、公然と苗字を名乗ることが許されたとき、一般民衆は、さぞ夜明を感じたことであろう。

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30、近代社会の苦難と発展


幕末の動乱という激しい陣痛を経て、近代日本が誕生し、政権は徳川幕府から明治新政府に移った。
この新政府の最初に手掛けたのが、日本文化史上稀に見る暴挙、「神仏分離排仏毀釈」である。人心に与えた影響、長い歴史の間に創造された文化財の消滅。いまこれを顧るとき、とうてい正気の沙汰で行なったものとは考え得ない異常性を強く感じる。おそらく、苦難の倒幕成って昂奮が頂点に達していた折から、一部の盲信者に唆かされての行政処置であったに相違ない。
もう1つ、明治新政府発足直後、これは近代日本史全体の上で看過できない地租改正を行なったことである。
これ程、直接的に農民を苦しめ、間接的には商工業者を益した事実は、稀である。 農民が血税を搾られ農村疲弊の原因となった。
日本歴史の歯車が、近代国家へ向って始動した時、このハンドルを握っていた明治新政権は、1つは主として文化面で、1つは主として産業面で、頗る重大な右2件を歯車にかけたのであった。当然のことながら、当広川地方にも大きな影響を及ぼしたことは、決して見逃がす訳にゆかない。それと自由民権思想に対する弾圧。
近代という新時代を迎えて、すべての人民は、旧封建制度の絆から解放されたかのように見えるが、事実は必ずしもそのとおりでなかった。右のような形で近代社会の幕開けが行なわれたことから入ってゆこう。

1 神仏分離排仏毀釈


このことに関しては、村上専精・辻善之助・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』に詳しいが、本県に関する史料は、高野山以外殆んど見当らない。しかし、明治初年に始まるこの暴挙は、県下各地の関係神社仏閣において行なわれた事実は、今なお、覆い得ない歴史の爪跡として残っている。他地方のことは、さておき、当広川地方においても、広八幡神社別当寺の仙光寺、津木八幡神社の神宮寺、老賀八幡神社別当寺の安楽寺など、その例と言い得よう。だが、それ以前、既に衰微していた関係寺院もあることはあったが、その遺構・遺物は、まだ、幾分保存されていた。現在見る影もないばかりに消滅してしまったのは、この排仏毀釈のなせる業が大きい。
しかし、当地方には、この時の詳細を伝えた史料が触目しない。そのため、総て具体的に例を挙げて述べる訳にゆかないが、広八幡神社の仙光寺などは、薬師院がこの時姿を消し、明王院も急速に衰退したことは事実である。
それでは、この文化史的にも、宗教史的にも、一大衝撃を与えた明治維新の神仏分離排仏毀釈のよってきたるところを、極めて簡単に述べておこう。
前掲『神仏分離史料』の中で、辻善之助博士は、神仏分離の由来を述べて、その冒頭に、次の如く記している。
王政復古は神武の昔に復すというを以て理想としたのである。これは岩倉具視の顧問となって居た玉松操等の考であって、(中略)太古に遡って神武の御創業を法とすべしというのであった。(中略)既に神武の昔に返すを以て理想とするが故に、自ら神道の復古も考えざるべからざるに至った、茲に於て神祇官の再興となり、神仏分離の計画が起さるるに至った。
右に引用の文によって、よく判るので、これ以上の説明は不要であろう。そして、政府は明治元年(1868)3月28日太政官の布告を以て、次の如くいっている。

中古以来某権現或ハ牛頭王之類其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早
早可申出候事(但書略ス)
1、仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ以来相改可申候事
附本地杯卜唱へ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具之類差置候分ハ早々取除き可申事


右の如く、神仏分離の太政官布告が発せられると、関係神社・同寺院において、狂気にも似た破壊が始まった。
それは、国粋家と称する壮士風の輩が押掛け無謀な行動を以てしたのが多い。即ち、排仏毀釈である。少しでも仏教的なものは、見境もなく打壊したり、焼払ったりした。その実例は数多、前掲書に挙げられている。

狂気じみている例として、佐渡での1例を右の同書から引用すると、
「佐渡における廃寺もまた他の諸国に勝れて最も激烈な1例である。判事奥平謙甫の命を以て、5百有余の寺院を80ヶ寺に合寺せしめたのである。真宗寺院においては京都行の幸便を得て、本山へ願書を出し、今度合寺の命令で13ヶ寺だけ立置になり、其余は廃寺となった事情をのべて、越後の御坊なり又本山へ訴へたいにも、出国ができず、脱走するものは鉄砲で打殺す、との御触があり、強て出国の願を出せば、国境追放せられるというので出られない」(明治維新神仏分離史料より抄録)

右はその1例に過ぎないが、単に別当寺・神宮寺・その他関係寺院に止まらず、一般寺院をも廃寺、または合寺した例が、全国的に多かった。王政復古思想から発した偏向が、かくも、人智を狂わせ、排仏毀釈、廃寺・合寺に駆り立てる結果を生んだのである。そのために失われた文化財は実に夥しいものであったという。わが紀州においては、他国程の激烈さはなかったかも知れないが、熊野那智山で発掘される仏教関係出土品の中には、経塚遺品でなく、明治維新の排仏毀釈に際して埋められたものがある模様。その他においても、いろいろの難を蒙ったことであろう。わが広川地方においても、決して例外でなかったことは、特に広八幡神社別当寺であった仙光寺(当時、明王院と薬師院)に見るところである。

2 地租改正


さきに記した如く、明治新政府は、地租改正を行なって、農民の血税を搾った。そのために、どれほど、当時の農民は苦しんだことであろう。 この地方の農民も、その当時の苦しみを、いまに語り伝えているところである。
本書産業篇近代史の叙述と若干重複するが、以下略叙を試みることにしたい。
明治政府が、廃藩置県を断行すると、その後、ただちに着手したのが、この地租改正であった。近世封建領主や武士階級の知行から解放した土地に対する新しい租税法として、維新政府の行なった改革である。政府は明治5年(1873)、土地永代売買の禁止を解き、その翌年、地租改正条例を制定。直にその実施に乗り出した。
そして、農民保有地への私的土地所有権付与の証拠として、農民に地券を交付した。旧来の年貢負担登録台帳である検地帳から解放された農民は、新しい時代への門出がここから始まったということができる。しかし、その門出は、必ずしも祝福された門出と言い得ないものがあった。そのことについては、後述で段々明らかにしてゆきたいと思うが、和歌山県では、この改正を何時から、如何にして着手したか、それを述べよう。
本県では、明治政府の方針に基づいて、明治8年(1875)3月、「地租改正ニ付人民心得書」・「地価検査告示心得」・「地租改正官心得」を公布して、これの施行に乗り出した。県はこれが実施のために組織を整え、地租改正委員を置き、20組の推進隊を編成して、これを各大区(当時郡に相当)に派遣し、各小区から2名ずつの立会人を選定して行なった。
県は地租改正の実施に当って、政府の趣意を十分理解して行なったことは、いうまでもないが、それは、地価の百分の3を地租とする。しかし、諸物品税が増加するに従い、地価の百分の1に率下げを行ない得るものとする。従来の年貢の不均衡を是正し、土地からの1年間の収穫金額(但し、本作1毛) を見積り、その金額から、改正地租と、この地租の3分の1までの村費を除き、それ以外の諸経費をいっさい差引かない原型を作成。その時、年により豊凶の差があるので、平年作を基準とした。それと同時に各村毎に地番と面積の調査を行ない、同9年9月、おおむね終った結果、4万9千3百15町歩の田畑と宅地が確認され、江戸時代よりも37パーセントの増加となったという。(安藤精一博士「和歌山県の歴史」参照)
地価の査定は最も重要であるので、村から代表者を選び、区長・戸長と共に平年作による地力の決定に参画させた。そして、村毎に5等級から10等級に土地を格付けさせ、これをさらに、郡毎に20等級以内に組直しを行ない、それをまた県下全体の等級に整理すると、田地では33等級、畑地では30等級、宅地では18等級の格付となった。
地価の決定は、米麦価を基準にとり、明治3年から同7年に至る5ヶ年平均のそれを採用した。この米麦価は、和歌山、新宮、田辺の3地の平均価で、米価は1石5円54銭、麦価は1石3円とした。しかし、新宮、田辺の如き移入地と、紀ノ川地方の移出地との間にその差が著しいとの批判轟然たるものがあって、さらに、和歌山、粉河、橋本、湯浅、御坊、南部、田辺、日置、串本、新宮の10箇所の平均相場をもってした。その価格、米で5円27銭、麦で3円13銭と定めた。それでも、なお、紀北地方の農民は承服せず、一大騒擾に至らんとしたため、米麦価から、種子肥料代等を控除し、また、一方その土地から生ずる利子を考慮し、その結果を以て地価評価とした(本節の末尾に明治9年の広村 「改正免割法」を載せるから参照されたい。)
ここに至るまでには、県下各地で反対一揆が惹起している。特に、紀北地方にその例が多かった。米価の低い同地方では、猛烈な反対運動が起きるのは当然であった。それについては、前掲「和歌山県の歴史」に詳細述べられているが、ここには省略しておきたい。
ところで、地価評定基準とした米価が、近畿諸府県のそれと比較すれば、本県はどうであったか。本県は最初5円54銭、それを改めたとき5円27銭であったことは前記のとおりである。では、近畿諸府県は何程であったかというと、5円21銭であった。最初のと比較すれば、1石に33銭高、改定分についても、なお、6銭高となっている。本県は、近畿諸府県に比して地価が割高となり、引いては、地租が重くなってくることは明白である。基準米価に改訂を加えた結果の地価決定に対しても、なお、不承服の村々があった。その村々は、旧租より、地租改正による新租の方が重くなる。そればかりか、荒地その他、従来無年貢の土地まで、高率租税が課せられるという理由からである。
「和歌山県誌」では、本県は地租改正によって、旧租に比し1割5分7厘6毛の減額となったという。しかし、上記の如く、旧租よりも新租の方が重くなったと不服を鳴らした村々が、当時県下千2百4箇村中33箇村に及んだ。名草郡で1箇村、伊都郡で4箇村、日高郡で22箇村、牟婁郡で6箇村であった(県誌には33の各村名を列記している)。そのため、明治10年(1877)7月検査更正を行なったが、なお、承服しなかった村が8箇村もあったという。
さて、本県の地租改正は、山林を除いて、明治12年(1879)10月、一応整備が成った。そして、県誌のいう如く、租税が16パーセント近く軽減されたことは間違いないであろう。だが、これをもって、農民は祝福された明るい近代社会に発足し得たと、果たして言い得るであろうか。成る程、土地所有権が確立され、貢租が軽減されたとはいうものの、もともと、旧幕藩時代は、苛酷なまでの重租であった。それが、旧弊を破ると称して行なった明治政府の地租改正で、僅か20パーセントに満たない地租軽減では、長い冬から春を迎えた如く、双手を挙げて喜べたであろうか。
更に謂うなれば、この改正による検地によって、前記の如く、37パーセント(県誌では44パーセント)の面積増を打出している。新旧比較した場合、全体的には、必ずしも、農民の負担軽減とはなっていない。変ったのは、旧幕藩時代田租は、年貢米と称して米で上納したのが、総て金納に改められただけ位いである。
本県に関する詳しい資料は知見に入らないが、税率2.5%に引下げられた明治10年ごろ、なお、全国平均で、地租および附加税(村費)併せて、年間収穫高の34パーセントに相当の高額課税であったという。これでは農民の生活が依然として苦しかったのは、今更いうまでもない。
明治維新を謳って、菊は盛える葵は枯れる、という言葉がある。だが、この地租改正によって、町人盛える百姓枯れる、という現象が生まれた。これについては、後述で簡単に触れることにしたい。
前記した如く、年間収穫量の34パーセント、或はそれ以上租税に取られ、しかも、改正前、多少の余田などもあったのが総て課税対象となり、農家に取っては、立ち行く術もなかった。自作農家はまだしも、小作農家は34パーセント相当の税金分と、それに地主の利益分(地代)を併せた小作料を、地主に納入せなければならなかったのであるから、全く塗炭の苦しみに外ならなかった。そのため、農業を放棄して、日雇い労働者に転業するものも現われるという状態であった。自作農家にしても、田畑を放棄する者さえ珍しくなく、当広川地方においても、その実例が、かなりある。その氏名をいちいち挙げることを省略するが、今もなお、当時の祖先の苦難を忘れずにいる家々が多い。産業史にも記したところであるが、筆者の祖父も、捨値同然で、水田の半分近いものを手放した1人である。
明治時代、他の産業が急速に近代化が進んだにも拘らず、ひとり農業だけが旧態依然として、進歩発達の無かったのは、単に農民の保守性にばかり、その原因を帰せられないのではあるまいか。高率地租の重圧にあえいだ農民に取っては、食って行くだけが精いっぱいであった。
当地方の農村は、柑橘栽培の上でも、有田川沿岸地方に比較して、かなり後進地であった。米麦を中心とした農業経営が、当地方をして、大正初期ごろまで惨な寒村たらしめたことは、誰しも否定し得ないであろう。その理由は、在地地主、不在地主の田地を耕作していた小作人が多かったからであるが、小作料の高額であった原因の第1は、重課の地租が含んでいたからに外ならない。
広川地方が、近代前半の寒村から、漸く、脱却し得たのは、大正年代に入って罌粟栽培が盛んとなるに及んでからである。昭和初年ごろから大平洋戦争がはじまるころまでは、その栽培、日本一を誇ったのであるが、これが、当地方農村に、初めて春の訪れをもたらしたといって過言でない。前記した如く、それまでは、誰の眼からも経済的に恵まれた村とは、決して映らなかった筈である。繰り返し言うと、明治初期に行った地租改正のもたらした農村困窮が、諸種の条件を伴って、長く、当地方農村文化の発展を妨たげた。近代文化の芽生える余地もない程、農民の困窮は旧態依然であった。
この農民から搾り上げた地租と小作料が、近代資本主義産業育成の資金となり、近代商工業の急速な発展を促したのである。

明治9年第6月  改正免割薄広屯
元收穫米1296石4斗8升1合
          (朱書)7升4合卜直し来候
改收穫米1600石6斗7升9合
 右小ニ而大ヲ割
  此掛免123466(朱書)402ナヲス
  御値段5円27銭がへ
  利子5分3厘8毛え4ヲカクル是百分ノ4ナリ
  938以割ハ此価金出ルナリ
       左のゴトシ
1、1等田1反歩
  元収穫米2石5升
  改收穫米2石5斗3升1合5才3
   内3斗7升9合6勺5才79種肥15引
  残而2石1斗5升1合3勺9才5
  5円27銭がへ利子5分3厘8毛
  代金11円33銭7厘8毛52

  9382割
  地価金120円87銭2厘6毛2
1、2等田1反歩
  元収穫米2石也
  改収穫米2石4斗6升9合3勺2才
    内3斗7升3勺9才8  15引
  残而2石9升8合9勺22
  代金11円O6銭1厘3毛
  地価金117円92銭4厘3毛
  
1、3等田1反歩
  元収穫米1石9斗5升
  改収穫米2石4斗O7合5勺8才7
  内3斗6升1合1勺3才8  15引
  残而2石4升6合4勺4才9
  代金1円78銭4厘7毛86
  地価金114円97銭6厘3毛97
  
1、4等田1反歩
  元収穫米1石8斗5升
  改収穫米2石2斗8升4合1勺2才2
  内3斗4升2合6勺1才915  15引
  残而1石9斗4升1合5勺1才9
  代金10円23銭1厘8毛O5
  地価金109円08銭1厘077
  
1、5等田1反歩
  元収穫米1石7斗5升
  改収穫米2石1斗6升6勺5才5
  内3斗2升4合O9才825    15引
  残而1石8斗3升6合5勺5才775
  代金9円67銭8厘6毛593425
  地価金103円18銭4厘
  
1、6等田1反歩
  元収穫米1石6斗5升
  改収穫米2石3升7合1勺8才9
  内3斗5合5勺5才7835   15引
  残而1石7斗3升1合6勺3才1165
  代金9円12銭5厘6毛962395
  地価金97円28銭8厘8毛725
  
1、7等田1反歩
  元収穫米1石4斗5升
  改収穫米1石7斗9升2勺5才7
  内2斗6升8合5勺3才855   15引
  残而1石5斗2升1合7勺1才845
  代金8円O1銭9厘4毛562315
  地価金85円44銭5厘2毛7
  
1、8等田1反歩
  元収穫米1石2斗5升
  改収穫米1石5斗4升3合3勺2才5
  内2斗3升1合4勺9才875   15引
  残而1石3斗1升1合7勺5才125
  代金6円91銭2厘9毛29
  地価金73円69銭8厘6毛
  
1、9等田1反歩
  元収穫米1石5升
  改収穫米1石2斗9升6合3勺9才3
  内1斗9升4合4勺5才895   15引
  残而1石1斗01合9勺3才4
  代金5円80銭7厘1毛9218
  地価金61円99厘4毛1558
  
1、10等田1反歩
  元収穫米9斗5升
  改収穫米1石1斗7升2合9勺2才7
  内1斗7升5合9勺3才9    15引
  残而9斗9升6合9勺8才8
  代金5円25銭4厘1毛2676
  地価金56円01銭4厘1毛44
  
  畑方  御直段3円13銭がへ
  利子5分8厘4毛エ4ヲ加ヘ
   984ニ割地価金出ルナリ
  元収穫麦48石6斗8升8合
        (朱書)9升9合ト直リ来リ候
  改収穫麦100石9斗1升4合
  指引52石2斗2升6合増
     右高麦ヲ元収穫麦48石6斗8升8合ヲ以割
  此掛免107267
     (朱書)107424485卜ナ
     ヲス左之コトシ

1、1等畑1反歩
  元収穫麦1石4斗1升
  増収穫麦1石5斗1升2合4勺6才47
  内4斗3升8合3勺6才97      15引
  残而2石4斗8升4合O6才5
  代金7円77銭5厘1毛2345
  地価金79円1銭5厘4毛8221
  
1、2等畑1反歩
  元収穫麦1石2斗9升
  増収穫麦1石3斗8升3合7勺4才43
  内4斗1合6才1645     15引
  残而2石2斗7升2合6勺8才2655
  代金7円1銭3厘4毛9671
  地価金72円29銭1厘6毛
  
1、3等畑1反歩
  元収穫麦1石1斗7升
  増収穫麦1石2斗5升5合2才39
  内3斗6升3合7勺5才3585
  残而2石06升1合1勺7才03
  代金60円45銭1厘7毛76
  地価金65円56銭6厘8毛3
  
1、4等畑1反歩
  元収穫麦1石9升
  増収穫麦1石1斗6升9合2勺1才
  内3斗3升8合8勺8才15   15引
  残1石9斗2升3勺2才85
  代金6円1銭06毛282
  地価金61円08銭3厘6毛2
  
1、5等畑1反歩
  元収穫麦1石1升
  増収穫麦1石8斗3合3勺9才67
  内3斗1升4合09才500   15引
  残而1石7斗7升9合3勺017
  代金5円56銭9厘2毛142
  地価金56円59銭7厘7毛
  
1、6等畑1反歩
  元収穫麦8斗7升
  増収穫麦9斗3升3合2勺2才29
  内2斗7升4勺8才3435    15引
  残而1石5斗3升2合7勺3才9465
  代金4円79銭7厘4毛74525
  地価金48円75銭4厘8毛23
  
1、7等畑1反歩
  元収穫麦7斗3升
  増収穫麦7斗8升3合1勺7才
  内2斗2升6合9勺7才55
  残而1石2斗8升6合1勺9才45
  代金4円02銭5厘7毛888
  地価金40円91銭2厘4毛878
  
1、8等畑1反歩
  元収穫麦6斗3升
  増収穫麦6斗7升5合7勺8才22
  内1斗9升5合8勺6才7335    15引
  残而1石1斗09合7勺9才4785
  代金3円47銭3厘6毛586
  地価金35円30銭1厘4毛08
  
1、9等畑1反歩
  元収穫麦4斗8升
  増収穫麦5斗1升4合8勺8才16
  内1斗4升9合2勺3才2334 15引
  残而8斗4升5合6勺4才936
  代金2円64銭6厘8毛825
  地価金26円89銭9厘2毛124
  
1、10等畑1反歩
  元収穫麦4斗6升
  増収穫麦4斗9升3合4勺2才82
  内1斗4升3合1才423   15引
  残而8斗1升4勺1才397
  代金2円53銭5厘7毛96726
  地価金25円77銭02毛91
  
1、尾鋪8町8反4畝14歩
      反金84円
  地価金7429円51銭4厘
  法 元地価金7702円3銭2厘
  上ヨリ此価金7429円51銭4厘
  是ヲ大ニ而小ヲ割免96461739トナル
  是ヲ元地価金エカケルナリ
  
1、1等屋敷1反歩
  地価金92円1銭5厘
  
1、2等屋敷1反歩
  地価金88円34銭也
  
1、3等屋敷1反歩
  地価金84円59銭7厘
  
1、4等屋敷1反歩
  地価金79円99銭6厘
  
1、5等屋敷1反歩
  地価金75円30銭9厘


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3 近代資本主義社会の発展と農民の没落


前述において地租改正による農村の停滞性、というよりむしろ、窮乏性を取り上げた。その中で、同改正の結果、町人盛える百姓枯れると、一見、不穏当に聞える言葉を使った。これが、果して事実無根の暴言であるや否や。 この問題について、当地方の事例を後に挙げて、以下、若干、叙述を進めたい。
処で、さきに、近代初期の農民窮乏を述べたので、ここでは主として、近代資本主義社会に参加して、それなりの活動をなし、この社会の発展に伴って、より富裕階級にのし上った階層に、まず眼を注ぎたい。
明治4年の廃藩置県による全国的な統治組織が一新すると共に、近世封建性の枠が除かれ、全国的市場の発展が促進された。職業の自由、居住の自由、封建秩禄の公債化から資本化への転化、下級士族のプロレタリア化、貧農階級の離農化など、総てが近代資本主義育成の好条件とならないものはなかった。
なお、前述した地租改正による国家と地主の農民搾取は、資本主義育成の主要な資本蓄積源となった。金納による地租が循環して、日本資本主義産業の資本源となり、地主の懐に入る小作米は貨幣化されて、これまた、近代資本主義産業資本に投入された。貨幣経済の中で貧苦にあえぎながら没落してゆく、多くの貧農は、資本家階級に取って都合よい産業予備軍であった。低賃金制維持のために申分ない条件として、資本家達はほくそ笑み、資本主義発達を図る国家も、没落農家の救済に手を差し延べようとはしなかった。
明治政府の富国強兵政策も、農民から収奪した税金と、農村の若い働手を徴兵して行ったのである。軍備の資金は大半地租で賄なったことは、かくれもない事実であった。明治時代の国家財政を支えたのは、外ならぬ地租であったからである。
徴兵制度(明治6年=1873)による軍備の強化、教育制度の樹立(明治5年=1872、同12年=1879)鉄道・船舶・郵便・電信など交通と通信機関も、農民収奪の血税によって、着々整備されていった。これら、近代資本主義社会形成に必要な条件も一応揃ったのであるから、明治時代、割合早くから、この土台の上で資本主義産業が発展を遂げた。
右の如き時代背景の中で、広川地方の、特に旧広村の地主層は、この資本主義産業経営に加わった。広村の地主は早くから商人として活動していたのであるが、地租改正などによって、没落してゆく農家の所有地を買取り、急激に中型地主となったものも少なくない。また、漁業の網元として、江戸時代九州五島に於て活躍した家で明治時代地主となったものもいた。本歴史篇近世史や産業篇近世史で述べている如く、広商人の中には、江戸時代において、江戸や銚子、或は大阪方面に店を持ち、その利益をもって徐々に地主化していた階層もあれば、明治初期の変革期に地主化した、所謂、新興地主階層もあった。それらのいちいちについては家名を省略するが、いずれも、昭和22年(1947)の農地改革までは、当地方の地主として、附近農村に君臨していたことは事実である。即ち、広の旦那衆と称され、一般民衆と社会を異にした。
彼等は、近代初期の資本主義発達期に、以前からの商魂を奮起させて、資本主義的商業または工業を自営した。
或は大企業の資本家となるもの、中小企業の資本家となるもの、各々その分に応じて、近代社会における資本家階級の列に加わったことは、まぎれもない事実であった。当時いずれの地方の地主層も、近代資本主義産業経営陣に参加し、その中枢を占めた者も稀でなかった。
繰り返しいうが、且那衆の繁栄の陰には、幾多の農民が汗水流した結晶が捧げられ、農民自ら貧苦をなめた。
彼らはただ小作米によって資本家化したばかりでなく1例を挙げれば、肥料を農家に売って、秋に収穫する米で代金支払の契約を結び、一般相場より安価に米を収得した如きであり、金に困った農家にはかなりの高利で金を貸し、出来秋の米で返済させるという方法もあった。筆者は決して嘘言を述べているのではない。この青田買いに類する商法は、ひとり、広川地方のみでなく、当時は日本全国的に行なわれたことである。
大江志乃夫氏は、その著『日本の産業革命』の中で、農民の没落を述べ、明治18年(1885)ごろの農民の惨状を、東京で開かれた綿糸集談会席上における栗原正信の言を引いている。少し長いが、当時の模様をこれ程切実に訴えた言を、紹介しない訳にはゆかない。
「明治15年以来の不景気は、客年後半より甚しく自今に至り殆んど其の極点に達したるものの如く、滔々たる世上の衰弊実に名状すべからざるものあり。就中、其の最も惨状を極むるものは、(中略)実に農民社会とす。
朝に家を破り夕に産を傾くるものは農民にあらずや。妻は寒えたりと呼ぶも之に衣するの布帛なく、児は飢えたりと啼けども之に食せむの米粟なきもの、亦農民に非ずや。債主督責の苛なる裁判公法の厳なる、祖先以来吾生の依て以って立つ所の宅地を公売せられ、吾膝を容れ、吾妻子を厳う所の家屋を取上げられ、為めに或は親戚朋友に寄食してわずかに飢餓を免かるるもの亦農民にあらずや。妻は故郷に還元し、幾久く住み馴れし家郷を辞して遠く他境に流離するのも亦農民にあらずや。既に其計尽き其生を保つ能わざるに至れば遂に不良の徒となり、竹槍席旗を飜し、法を破り国を乱る等屡不穏の状を現出せしものも亦農民にあらずや。農民の惨状是に至りて極まれりと謂べし。斯く憐むべき悲境に沈淪したる農民は抑も如何なる民ぞ。農民は実に吾々工業者製品を購求する所の最敬愛すべき第1の顧主ならずや。此顧主にして其困弊を極むる事巳に斯の如し。吾々工業者唯盛ならんと欲するも亦安ぞ得べけんや」
   「綿糸集談会記事」栗原正信。
      山梨県立川紡績の経営者、豪農の出身で第十国立銀行の頭取)
右引用の記事は、明治中期の農民惨状を訴たものである。しかし、此方の事でないと、うそぶく読者がいるかも知れないが、当地方でも、この時代に家郷を離れて他郷に移住した家が多かった。筆者の附近にもその屋敷跡が、名のみ残って幾つか存在する。池ノ上の伊豆寅蔵氏所蔵文書中、明治中期までのものには、その家々の氏名印の見えるのが、かなりある。没落して離村した時期が、ほぼ、右引用文にいうころと一致しているらしいのである。

4 国威伸長時代の村民生活


江戸時代の2世紀間に余る(寛永16年=1639〜嘉永6年=1853)鎖国政策も、黒船が日本の沿岸を冒すに至って、遂に開港せざるを得なくなったのは幕末である。やがて、徳川幕府が倒れ、明治新政権の時代となった。そして、この日本も、国際社会の桧舞台に、急いでチョン髷を断髪して仲間入りしたのである。
だが、新参にはそうたやすく1人前に演技の出来る国際舞台でなかった。急速に演技を身に着けるべく、近代資本主義の発展に邁進しなければならなかった。そのための犠牲となったのは、前記の如く農民であったというべきであろう。
明治も20年代までは、国威伸長の準備期間の如きものであり、日清戦争(明治27・8年=1894〜5)で大国清を破り、さらに10年後、日露戦争(明治37〜8年=1904〜5)において、強大国ロシアを破るに及んで、国威を内外に示すことになった。
さて、この国威伸長時代、即ち、日本帝国主義形成時代下における国民生活はどうであったか。広川地方は農山漁村であったから、特にこの社会の生活はどうであったか、それを振り返り、われわれの最も近い父祖達の体験した生活を知ることも、その子として、その孫として、重要な意義があると思う。
当時の広川地方は、上記した如く農山漁村であったが、旧広村には商人も少なからず、職業的人口構成は多彩的であった。しかし、広川地方全体としては農民が最多数を占めていた。 この農民社会の実体は、明治時代どのようなものであったか。この問題に焦点をおいて惹干見てゆきたい。
前掲の『日本の産業革命』のまえがきで、著者大江志乃夫氏は、「明治」の日本の人口の大部分をしめたのは、小作農民を中心とする耕作農民であり、これら農民のあいだから生みだされた労働者であった。かれらにとって、「明治」は決して栄光の時代でなく、逆に悲惨の時代であった。と述べている。おそらく、この広川地方も、この範疇外ではあり得なかった。
敗戦後の農地改革を経た今日と異り、右の文章はよく当時の農村を物語っている。後述において、若干、その資料を示すが、当地方農民も、所謂、小作農民と小作兼自作農民で大部分を占めていた。自作農民でさえ安楽な生活が望み得なかった近代前半には、まして小作農民の生活は困窮そのものであった。

さきに、明治初期の地租改正について述べたが、この改正をめぐって、明治10年(1877)前後、日本全国各地で農民一揆が惹起している。和歌山県においては、明治9年日高・那賀両郡において、それが、最も顕著であった。両地方は、県下で最も水田の多い地帯であったからであろう。
ところで、当時、広川地方全体の耕地面積がどれ程であったのか、それを知る資料がないが、明治6年(1873)における広地区、同20年(1887)における南広地区の分が判明する。参考にそれを挙げると、

明治6年7月『明細所調御達帳』記載の広村耕地面積は下の如くである。
 田面積84町0反4畝17歩  (本田反別80町5反2歩  新田反別2町5反4畝15歩)
 畑面積 7町0反6畝21歩  (本畑反別4町5反3畝6歩  新畑反別2町5反3畝15歩)
 田畑合計91町1反1畝8歩


南広地区の分は、役場台帳によって知ることができる。田・畑以外に山林・宅地も判明するので共に挙げると、

明治20年南広地区面積概要
   田 面積 3539反3畝9歩
   畑 面積 528反6畝15歩
  山林面積 9549反5畝17歩
  宅地面積 224反5畝24歩

 合 計 13842反1畝5歩


である。その合計地価および地租も参考のため挙げておこう。

地価  26万2千417円42銭
地租  6千427円14銭


現代人の感覚からすれば、問題にならない 地価・地租に思えるであろうが、これが、米1石5円27銭、麦1石3円11銭を基準価格として決定したものである。現在の感覚からすれば、いささか隔世の感がする。しかし、この地租が、小作料に転課されて小作農民の生活を強く圧迫したのであった。
さて、明治前半、自・小作の比率はどれ程であったであろうか。これも、実のところ、当地方のことは詳らかでない。だが、全国平均については、学者の研究があるので、それを、まず、参考に挙げると左表の如くである。

小作地反別の全耕地に対する割合(体系日本史叢書『生活史』)
年次  下山氏の算出    平野氏の算出
明治 5年128・93%(推定)    30・63%
明治16年135・53%(推定)    37%または36・75%
明治17年136・95%(推定)
明治20年139・50%(実数)    39・34%
明治25年140・14%(実数)   39・99%

註 下山三郎氏の「明治10年代の土地所有関係をめぐって」(「歴史学研究」第176号)、平野義太郎氏の「日本資本主義社会の
機構」での説を右表にしたものである。(筆者註記)

右の表で見ると、地租改正前の明治5年(1872)には、小作地の比率は29〜30%前後、改正後の同16・7年(1883〜84)ごろでは36%〜37%前後、同20年から25年(1887〜92)ごろでは、39%〜40%前後と次第に比率が増加している。この現象については、自作農民が小作農民に転落していったことを物語るであろうし、さきに、引用した明治18年の「綿糸集談会記事」と想い合せれば、なお、理解が容易となるであろう。
前掲小作地割合表は、全国平均であって、個々地方、若干の差異が当然あろう。そこで明治末期に属するが、『有田郡誌』によって、有田郡の状況を見ると左表のとおりである。

有田郡自作小作段別 (年次は明治44年か)
   自作    小作    合計
田 1626町4反1畝08歩1735町6反3畝25歩3362町0反5畝03歩
畑  1994町8反5畝O2歩 122町反6畝01歩2106町9反1畝03歩
合計  3621町2反6畝10歩1847町6反9畝26歩5468町9反6畝06歩

右表によると、小作地は田地に多く、51、62%。畑地で少く5、32%。平均33、79%となる。(本郡は畑地の自作が多い関係で、前掲全国平均の小作地率に比較して、その率が若干低いことを示している模様である。)

なお、同書から、左の表を引用して参考に供したい。

  畑  計
明治15年度  3745町2反 1983町0反 5733町8反
明治44年度 3582町0反 2200町7反 5782町7反
増減      減163町2反  増217町7反 増48町9反

それでは、広川地方ではどうであったか。南広地区では明治41年(1908)、津木地区では同44年(1911)の資料で知見し得るので、それを挙げよう。

南広村田畑自作小作別面積(南広村是」による)

地目区分   総面積   自作面積   小作面積   自作小作別比率
田面積 3507反9畝14歩  1766反0畝05歩 1741反9畝09歩 自作 50.34% 小作49.66%
畑面積 633反4畝28歩 542反5畝24歩 90反9畝04歩  自作 98.56% 小作1.44%
合計 4141反4畝12歩 2308反5畝29歩  1832反8畝13歩  自作55.75% 小作44.25%


津木村田畑自作小作別面積(津木村郷土誌」による)
区分・地目  総面積  自作面積  小作面積  自作小作別比率
田面積  1429反5畝20歩 748反5畝15歩 681反0畝05歩 自作52・36% 小作47.64% 
畑面積  150反4畝25歩 135反8畝00歩 14反6畝25歩 自作 90.24% 小作,9.76%
合計  1580反0畝15歩 1884反3畝15歩 695反7畝00歩  自作55.98% 小作44.02%


明治末期、広川地方においては、大体、小作地は耕地の44〜5パーセントを占めていたことが判る。もっとも、広地区が不明であるが、これより決して低い比率でなかったことは想像に難くない。
ところで、明治時代におけるこの地方の小作料は、いったいどれ程であったのであろうか。幸い明治3・40年代の資料が、若干、知見し得るので、それを挙げると、

地区名反当小作料史料記載事項史料年次
南広村 殿1石3斗1升0合田地4反5畝O1歩  5石8斗9升6合明治33年
広村及び南広村山本で1石4斗9升8合田地8反2畝16歩  10石8斗6升0合明治38年
広村広1石2斗O升1合田地8反O畝13歩  9石6斗6升0合明治38年
広村広及び山本一部1石4斗9升8合田地2反8畝23歩  4石3斗1升5合
南広村井関1石2斗5升9合田地1反4畝O5歩  1石8斗0升O合明治44年
南金屋1石1斗6升2合田地1反9畝24歩   2石3斗O升O合
河P 1石3斗2升2合田地5反3畝15歩   7石0斗7升3合
山本8斗5升1合田地1反4畝O3歩   1石2斗0升0合
山本6斗9升0合畑地 5畝24歩   4斗0升O合
唐尾8斗6升9合田地5反1畝O6歩   4石4斗5升0合
名島1石3斗2升3合田地11反9畝16歩   15石8斗1升4合
平均田地1石2斗1升1合 (岩崎重次郎家文書から抄録)


さて、それでは、当時、反当収穫量がどれ程であったであろうか。これも『有田郡誌』によって見ると左表の如くである。

米作累年比較表 (郡誌には、粳・糯・陸米別にあれども、略す)
年次作付反別收穫 高平均反当
明治 40年度35762反57、54O石1石6斗0升9合  注追加 約4.0俵 
明治41年度354O7反8O、487石2石2斗7升3合  約5.7俵
明治42年度35364反76、357石2石1斗5升9合  約5.4俵
明治43年度35523反66、451石1石8斗7升1合  約4.7俵
明治44年度35462反63、638石1石7斗9升5合  約4.5俵
5ヶ年平均1石9斗4升1合   約4.9俵

麦は水田裏作として、また畠作として米に次ぐ、主要農作物であったから、右同書の麦作累年比較表を5ヶ年平均して載せると、
40年〜44年5ヶ年平均 3麦合計作付反別
20071反
同上収穫高 
21462石
 同上平均段当 
1石0斗6升9合
註 郡誌には大麦・裸麦・小麦別に記載


右に引用の郡誌所載統計表は、有田郡のそれであり、従って、この反当収量を以て、直に広川地方を律する訳にゆかないことは、勿論である。しかし、広・南広・津木旧3ヶ村を綜合すれば大体、郡平均に近い数値となるであろう。 とすれば前掲反当小作料と対比した場合、如何に小作料が重かったかを察することができるであろう。
以上の資料から、明治時代後半の農村を、ほぼ、推察できようが、参考のため、前掲の体系日本史叢書「生活史』から、次の表を引用しておこう。但し抄録。資料は明治前半。

反当収穫米代金中の国家・地主・小作人の取分
反当収穫米代金中の国家取分
 地主  小作人
明治8・9年25・4%42・6%32%
明治12年18・7%49・3%32%
明治13年10・9%57・1%32%
明治16年19・2%48・8%32%
明治17年22・2%45・8%32%
明治20年20・9%47・1%32%
(下山三郎「明治10年代の土地所有関係をめぐって」「歴史学研究」176号による)

右の表では、明治前半期における、米代金中の国家・地主・小作人の取分が示されている。小作農民は汗水を流して、結果は3分の1の収入に過ぎなかった。
以上、各種の資料によって窺知し得ることは、明治年代の農民は、経済的に非常な窮状に立たされていたということである。
明治5年(1872)政府は国民皆学の教育制度を制定し、続いて同13年(1879)教育令で4年間に最低16ヶ月の普通教育義務制を布いた。さらに、同19年(1886) 小学校令で尋常小学校4ヶ年の義務制を布き、その後、大正2年(1908)6年制に延長した。だが、折角のこの国民皆学の義務教育制度も、村の小作農民の子弟や山村漁村民の子弟にとっては、家貧しさの故に、単なる絵に書いた餅といわざるを得なかった。
その子供達は、早くから家業の手伝 いか、女の子であれば子守りに雇われ、懐しい父母の膝下から離れて、他郷に奉公人としてひとかどの苦労を嘗めたのであった。どうにか、ようやく小学校を卒業させてもらえた農山漁村の少年少女達も、長男以外、早速男子は都会へ出て丁稚奉公か職人の徒弟奉公。女子の場合は同じく町へ出て、女中奉公か、工場の女工。それぞれ生きる道を求めて、父母の家を後にした。見送る者も見送られる者も、共に断腸の涙でしばし声もない有様であったのではなかろうか。

これ以上多くを語る必要もないであろうが、これが、明治時代、否、大正時代まで続いた当地方の姿であった。
筆者の少年時代、村の百姓達は、朝星夕星を戴いて田畑の働きを終えて帰れば、夜は暗い燈火の下で縄をない、草履を作り、主婦は、古着を出して家族の衣料の繕いに余念がなかった。筆者は大正生れであるが、父や母その他村の人達の生活を、この眼で眺めて大きくなったのである。日暮後、各農家の庭から一斉に藁を打つ槌音が闇の中を流れたのも、いまなお記憶に残る。その絢い貯めた縄(すべ繩といって藁の芯ばかりで綯った漁網用細縄)は、町から網屋が集めに来て、いくばくかの代金を置いて帰った。祖母もまた、楮を積み、糸を撚って網を漉いたのを憶えている。母の手織り木綿の着物に、父の作った草覆を覆いて小学校へ通ったのも、まだ筆者らが経験したことであった。それが、大正生れであってさえ、かくの如くである。明治時代は推して知るべきであろう。
村で白壁の土蔵があるのは、地主か地主兼自作農家に外ならなかった。単に極端な表現でなく、一般農家は、屋根にペンペン草が生えていなければ良い方であった。
衣食住、総てにおいて、村の生活は、窮乏そのものであったのである。特に明治10年代、インフレ・デフレ政策に翻弄された農民生活は、それこそ、惨状いうに術なしであった。明治10年代の前半期は、インフレーションで物価高騰。売るに物ない一般農民は、当然生活に困窮した。後半期のデフレーションもまた、農民生活を破綻させた。第1、物価が下って、税金下らず、税金を支払う金さえ得られなかったのである。如何にもがいても、貧しい農家には金銭の入ってくる途はなかった。インフレ・デフレ共に村の生活を破壊したことはいうまでもない。弱きもの汝の名は百姓なりであった。
農民窮乏の反対側には、次の如く演歌に諷刺された結構な階層が存在した。

華族の妾のかんざしに
ピカピカ光るは何ですえ
ダイヤモンドか違います
可愛い百姓の汗トコトットット
(添田知道『演歌の明治大正史』から。以下同じ)
当世紳士の盃に
ピカピカ光るは何ですえ
シャーンペーンか違います
可愛い工女の血の涙トコトットット


前記した如く、工女の多くは貧農の娘達であった。こんな農民からでも税金は容赦なく搾ったであろう。

待合茶屋に夜明しで
お酒がきめる税の事
人が泣こうが困ろうが
委細かまわず取立てる トコトットット


石川啄木の歌でないが、働けど働けど楽にならざり、じっと手を見た小作百姓は

お天道さんは目がないか
たまにや小作もしてごらん
なんぼ地道に稼いでも
ピーピードンドン風車 トコトットット


と嘆かざるを得なかった。
右に挙げた演歌は、日露戦争ごろからの世相を諷刺して唄った唖蝉坊作詞のそれであるが、明治・大正の演歌程、時代をうまく表現したものは、他にない。次の演歌は明治末期に唄われた、やはり坊作詞のものである。

つまらないああつまらないつまらない
小作のつらさ待ってた秋となって見りゃ
米は地主に皆取られ
可愛妻子は飢に泣くチョイトネ


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5 近代済世安民の先覚者浜口梧陵


明治10年代のインフレ・デフレ政策に翻弄されて、塗炭の苦に喘ぎながら、ようやく、この地方も明治20年代を迎えることになった。
その最初のころ、即ち、明治22年(1889)日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令などの公布。
その前年、市制及び町村制の公布と、新時代に即応すべく、時の政府が、国民の強い要望に応え、新しい政治的局面展開の姿勢を明らかにした。そして、明治23(1890)6月、第1回貴族院多額納税議員選挙、その翌月、第1回衆議院議員選挙、同年11月国会開設となった。だが、貴族院議員の選挙には、多額納税者でない一般民衆にとって無縁であったばかりか、衆議員議員選挙も、貧乏人は選挙権が与えられなかった。選挙権は15円以上の直接国税納付する25歳以上の男子。被選挙権は同様の30歳以上の男子と制限が設けられていた。因に記すと、明治33年(1900)の改正で直接国税10円以上に、さらに、大正8年(1919)3円以上にと有資格を引下げられたが、それでもなお、一般大衆のものでなかった。
明治政府は、如何に無産階級を冷遇したか。折角の国会も、多くの小作農民や下級市民には、何の役にも立たない機関であった。そこで決められることは、どうせ、有産階級に都合のよい政治の基本線であったことは、いうまでもないであろう。
なお、ついでに記すと、明治時代の府県会議員選挙にも、衆議院議員選挙に似た資格の制限があった。明治11年(1878) 郡区町村編成法・地方税規則と共に府県会規則の所謂3新法が制定されたが、その時、議員は満25歳以上の男子で3年間居住、地租10円以上納付の者から選ばれ、選挙権は満20歳以上の男子で地租5円以上の者とした。当然、地主階級に有利な府県会であったこと、多言を要すまい。
明治12年(1876)5月、府県会規制に基づき、本県最初の公選県会が開かれた。その時選ばれて、初の和歌山県会議長の席についたのは、浜口梧陵である。県会議員の中には、かって、地租改正の不当性を鳴らして、是正運動の指導者となった児玉仲児や、後の木国同友会軒事和田誉終・並木弘、その他副議長の中西光三郎など論客がいた。因に、有田郡選出議員を記すと、浜口梧陵の外に山本弥太郎・海瀬亀太郎・片畑源左衛門・井爪孝四郎などがいた。
県議会の衆望を担って議長の席についた浜口梧陵も、人格識見、余りにも高潔過ぎてか、1期1ヶ年でその席を固く辞さんとしたが、周囲はそれを許さず、再び翌年その職についた。だが、同年の県会を終えると、直ちに議長を辞職すると共に議員の職をも辞したのである。当時の書翰が杉村楚人冠著『浜口梧陵伝』に載せられているので、翁の心境が窺える。この広川町の誇るべき先覚者浜口梧陵の活動時代を素描しておきたい。
梧陵は県会議長と共に議員も辞し、そのあと、明治14年(1882)、木国同友会を組織した。そして、彼の政治理念である済世安民思想を、広く県下、否、天下に普及せんと志したのであった。
時あたかも、国中に自由民権運動が盛んとなっていた。その中心的人物は、刺客に襲われ傷つき倒れた時「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で有名な板垣退助や、彼と共に明治政府の要職(参議)から下野した後藤象二郎であった。明治専制政府の非を正すため、民選議院設立建白書を提出し、愛国党を結成(明治8年)して、民主義運動を展開したことに始まる。地租改正の強行に刺激されて農民の政治意議が高まりつつあった折柄、急速に自由民権運動が、全国的に拡大されていった。明治10年土佐の立志社、明治11年福島県の石陽社など有名である。地方において初めこの運動の最も盛んであったのは四国・九州であるが、福島県の如く東北地方その他各地に波及、時代の1潮流となった。そして、天下の情勢は、国会開設を促して、さすがの専制政府もこれに応ぜざるを得なくなる。その反面、この自由民権運動弾圧に血道を上げた。これに憤激して、明治17年(1884)の群馬事件・加波山事件・秩父事件など、日本近代政治思想斗争史上特記すべき武力抗争が展開された。
浜口梧陵が、木国同友会を組織して、済世安民の政治思想普及に志したのは、ちょうどこのような時代の最中であった。まだ、前記の如き武力抗争事件が惹起されていなかったが、木国同友会創立の年、即ち、明治14年(1882)福島事件(福島県令三島通庸によって、同地の自由党員・農民が弾圧された事件)があり、専制政権と民権思想派との対立が激化していた時であった。
梧陵の組織した木国同友会は、当時盛んであった自由民権運動の結社と同一のものでないが、政治を正道に導くための同志糾合の組織であった。梧陵はその前、自由党主板垣退助、改進党主大隈重信の両者から頻りに入党の勧誘を受けた。特に大隈は熱心にそれを説いた。だが、県民の政治思想未熟なるいま、政党政派に属し一県の人心を分裂せしめるを恐れて入党を断った。そして、県民の政治思想育生のため創設したのが木国同友会である。
明治時代本県政治運動の先覚者として、長く県政史上に名が輝くであろう浜口梧陵は、江戸時代文政3年(182O)当時広庄広村に生まれ、われわれの鑑とすべき社会奉仕に生涯を貫いた。
梧陵の創立した木国同友会規則には、左の3綱領が示されている。

第1、吾人の自由を伸張し天与の幸福を全うすべし。
第2、富強の実力を養成して、国権の拡張を謀るべし。
第3、立憲の政体を賛立して、君民の安寧を図るべし。


右の綱領は、いまから見れば、何等事新しいことはない。しかし、明治10年代の専制政治横行の時代にこれだけの政治理念をもって、その実践に努力せんとしたのは偉大なことである。第1、当時の明治政府や地方官僚は、人民の自由などは少しも念頭になかった時である。政府自らは立憲の政体などは考えていなかった。君民の安寧も、君と特権階級の安寧のみで、大多数の一般民の安寧は何処を探しても見当らない政策の時代であった。
木国同友会が自由民権運動結社と同一でないことはさきに述べたが、根本に流れる民主主義的精神には相通ずるものがあった。
浜口梧陵は、政治・経済・社会事業など、あらゆる方面において、不滅の功績を遺した外、郷党子弟の教育にも不朽の業績を遺したことは、逸することができない。即ち、広の耐久社創設である。これについては、本書教育篇に詳述されているので、ここに重複を避けるが、その濫觴らんしょう(注 もののはじまり)は、江戸時代末期嘉永5年(1852)、広村に郷党子弟武道鍛錬のための稽古場を開設したことにある。それを慶応2年(1866) 耐久社と命名して、武道のみならず学業をも授ける文武両道の学舎とした。そのころ、現在の広安楽寺隣地に耐久社があった。明治2年、(1869)梧陵は、藩立学校学習館知局事となり、和歌山藩中子弟の教育を総裁すると共に、和歌山に共立学社を開校して英学の普及に努め、かたわら、郷里広における教育事業振興のため翌3年。耐久社を改築した。明治18年(1885)梧陵は米国ニューヨークにおいて客死するが、その後、彼の遺志を継承する人々によって維持された。そして、明治25年(1892)、梧陵の孫にして浜口家の当主容所(儀兵衛)並に梧陵の息子浜口擔が中心となり、同族にして同地の有力者浜口吉右衛門や岩崎重次郎(明岳)などは、これを援け、学舎としての充実を図り、耐久学舎と改称して、漢文・英語・数学・国文などの教育を実施した。越えて、明治39年(1906)広海浜西辺、即ち、現在位置に新築し、ここに移った。その翌々年の明治41年(1908)中学校令により、私立耐久中学校とする。大正12年(1923)和歌山県立耐久中学校、昭和22年(1947)学制改革により、湯浅町所在の同県立有田高等女学校と合併して、耐久高等学校となる。但し、その時、校舎を残して、広町南広村2箇町村連合新制中学校とし、もとの耐久中学校の校名を残した。梧陵が教育のモットーとした「真美健」の精神は、今もなお耐久高校・耐久中学校に底流となって流れているであろうし、将来も長く流れ続くであろう。流れ続かさなければならない。
ところで、わが郷土の生んだ偉人・先覚浜口梧陵の死後、数年足らずして、明治21年(1888)町村制の公布あり、その翌年、有田郡第2小区のうち、旧広庄内の各村々が、3地域に分合され、広村、南広村、津木村の新3箇村が生れたことは、既に述べた如くである。そして、その後、昭和30年(1955)の町村合併まで、この3箇村は、それぞれの歴史の途を歩んできた。しかし、この広川地方の村民は等しく、梧陵の遺徳を忘れることなく、折に触れて語り伝えてきたのである。
梧陵の功績については、なお、述べるべきものが多い。安政元年(1854) 大津浪被災民の救済事業、同年の大津浪後、広海岸における大防波堤築造のこと、さらに官界時代および生涯を通じての窮民救済の社会事業など、彼の最も本領発輝ともいうべき業績は幾多数えるにいとまない。これらについては、いうまでもなく、彼の済世救民精神の発露であり、本節の主題に最も関係深い事柄であるが、本書人物篇、その他に記載があるので、ここには省略する。

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31、近代社会の変貌


1 第1次世界大戦と村民生活


明治時代は農民生活にとって、幕藩封建時代に劣らぬ苦難の時代であった。外に向っては帝国主義の鎧に身を固め、内においては近代資本主義の座を温めた日本近代国家は、世界の桧舞台でかなりの新進役者振りを発揮し得たのも、その裏方には、拍手の1つも送られない農民と労働者があったればこそである。
明治時代はこのようにして、国勢が伸長し、日清・日露の両戦役には、世界注視の中で見事に勝利を収め、一廉の名優振りを演出した。戦死者の遺族は忠君愛国の家として名誉を讃えられた。しかし、この両度の戦争で、より祝福されたのは、外ならぬ「死の商人」達であった。戦争があるたび軍需産業が発展し、これに関係する資本家階級は、しみじみと戦争の有難さを悦んだ。そして、歴史の歯車が明治から大正へと廻ったのである。
大正時代に入ると、間もなく第1次世界大戦が勃発。是が大正3年(1914)7月28日戦端が切られ、同7年(1918)11月11日ようやく戦火が鎮まったが、世界の強国のすべてが参加した最初の世界戦争であった。強国の植民地政策から端を発した戦争であって、特にイギリスの世界的な植民地支配確立の意向に対するドイツの抗戦が中核となっていた。日本は日英同盟を理由に、中国における利権拡大をめざして逸早く大正3年8月23日ドイツに戦宣布告して中国に出兵、ドイツの東洋における根拠地膠州湾・青島を陥落させた。なかなか日本も抜け目がない。そして、日本は世界挙げての戦争のお陰で軍需産業が大きな利益を占め、他の産業も輸出が増加して、所謂、戦争景気に1時は酔ったのである。
しかし、この好景気は長くは続かなかった。世界戦争が終結して、軍需物資の輸出が止まると、たちまち生産過剰に落ち入り、各方面に破綻が生じた。第1、貿易は入超に転じ、日本は一大不況に見舞われたのである。
右の如き戦中戦後の経済界の急激な変動は、当然、農村にも大影響をもたらさずにおかなかった。大戦景気は資本家に幸いし、船成金・鉄成金その他大小成金をいたるところに輩出せしめたが、その反面、物価暴騰で生活苦に追いつめられたのは労働者・農民・漁民・小市民であった。賃金は上昇しても物価の急騰で実質賃金は下る一方。小作米を納めればあとに売るものが残らない小作農民、町にも、村にも生活困窮者が続出した。大正7年の米価急騰には、町や村の消費者から悲鳴が上った。それが、やがて、後述の米騒動となるのである。
そして、大正9年(1920) 戦争景気が転じて、大不況が現われる。この不況が慢性的経済恐慌となって、益々農村生活を苦境に追い込んだ。諸物価も下ったが、米価の値下りは特に激しかった。農業収入だけで生活困難な中小農民層は、農外収入を求めようにも、巷に失業者が溢れていて、働き口はなかった。社会全体が不景気のどん底に沈んでは、何を栽培しても利益になるものはある筈がない。有田の特産柑橘類も暴落で、果樹栽培農家も悲鳴を上げざるを得なかった。この恐慌に窮乏化したのは、農民ばかりでなく、漁民も山林就労者もまた然りであり、市街地の労働者は低賃金ばかりか、何時失業するかも知れなかった。前記した如く、既に失業した者は巷に溢れていたのである。これが、大正末期から昭和初期まで続いた。このような経済恐慌、特に、農村不況の激化によって、大正時代は各地に農民組合が結成され、小作料引下げ運動が盛り上がった。
体系日本史叢書「生活史」に、かって、社会主義者幸徳秋水の指導をうけたことのある演歌師添田唖蝉坊の青島節を載せている。青島節の流行した時代は、筆者も子供心に記憶に残っているが、唖蝉坊の歌に

《親も妻子もふり捨てて
わたしや兵士になりました
泣き泣き3年つとめあげ
帰りや、わが家に雨が漏る
ナッチョラン


と、当時の下層社会を唄っている。
日露戦争後、負傷兵が",廃兵" と呼ばれて、巷や村に哀れな姿を現わした時代が続いた。当地方にもしばしば見掛けたものである。前掲書には「さらに彼は日露戦争における負傷兵が、"廃兵"とよばれて、国家から十分の救済も得られず、街頭で乞食のように金をもらって歩いている姿に、世人の関心を集めさせ、軍国主義への激しい怒りをたたきつけた。」と記して、唖蝉坊の歌を掲げている。

どこいとやカマヤセヌ節
み国のためならどこまでも、兄弟や老いたる親に別れても
ナニいとやせぬカマヤセヌ
新妻すてるはまだおろか、練兵場右へ向け右の号令も
ナニいとやせぬカマヤセヌ


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2 米騒動と小作争議とその前後


明治43年(1910)幸徳秋水1派の大逆事件と称されるものがあった。和歌山県にも関係者が出ており、その後、本県も注意県の1つとされた。新宮地方の大石誠之助・成石平四郎が死刑、高木顕明・峰尾節堂・崎久保誓一が無期懲役に処せられ、社会運動の犠牲者としていまも記憶されている。
大逆事件は、幸徳一派の社会主義者に、天皇暗殺の企てあるとして検挙され、確かな証拠もないままに、秘密裁判において、幸徳秋水ら24人は死刑、2人は11年と8年の懲役刑の宣告を受けた。だが、ただちに死刑宣告者の中から12人を無期懲役に減刑し、秋水ら12人が判決後僅か5日後に死刑執行された。何故このように死刑執行を急いだのであるか。敗戦後、明治政府のでっちあげの事件であった事実が判然と証明されていることと思い合せば、死刑執行を急いだ理由が解るであろう。
ところで、社会主義運動は、明治30年代前半からやや盛んになりつつあった。社会主義運動と結合して労働運動も撞頭期に入った。政府はこの2つの運動に、あくなき弾圧を加えることを忘れなかった。明治33年(1900) 治安警察法を公布して、これらの運動を抑圧した。この法律は、昭和20年(1945)の敗戦まで、日本の民主主義運動弾圧の道具となって、真の近代化に歯止の役をなした。
大逆事件後、社会主義運動や労働組合運動は、1時、全くなりをひそめたかに見えた。だが、民生安定のない政治下社会では、この運動の根は枯れていなかったのである。
農村においては、明治末期から小作争議が頻発する。都市における社会運動・労働運動の農村版といえる。大正7年の米騒動は、以上の運動と質を異にするが、生活を脅かされた民衆の怒りの爆発であった。当広川地方にも関係があったが、まづ著名な米騒動から述べてゆくことにしよう。
大正7年(1918)米騒動は、富山県下新川郡漁津町の1漁民部落から火の手が上がった。それが、たちまち全国的に燃えひろがり、軍隊までもその鎮圧に繰り出される騒動にと発展した。
さきに述べた如く、同年米価は急騰した。その前後の模様を見ると、大正1〜2年1石20円前後、同3年11円台、それが、同6年ごろから高騰に向い、同7年9月に至り54円65銭と暴騰した。それが翌年3月には25円52銭と半額以下に急落して、世人を唖然たらしめたのであった。(新井睦治著『米の統制是か非か」)。
米騒動の起きたのは、米価最高の前月、即ち、大正7年8月3日、所謂、「越中女房一揆」である。その前の7月、前記漁津の漁家の主婦達数10名が海岸に集合して、米積出し中止を願おうとしたが、制止退散させられた。
それから数日、この種の行動が続いた後、「越中女房一揆」となったのである。そして、青森・岩手・秋田・栃木・沖縄以外の各都道府県に波及して、36市129町145村、参加人員70万以上にひろがったという。
(井上清『米騒動の研究』)

ところで、和歌山県の米騒動は、8月9日、湯浅町を皮切りに、同月26日までの間、各所で勃発している。
そして、わが広川地方では、当時広村において、同月15日それがあった。因に、和歌山県下米騒動発生地表を研究資料から引用掲載し、参考に供したい(後掲)。
湯浅町の米騒動は、その早かったこと、そして、比較的規模の大きかった点で、有名である。湯浅の米騒動は、県下におけるその導火線となったばかりでなく、大阪・神戸その他近畿各地への口火となったと見られている。
当時、湯浅町では米1升47銭に値上りしていた。そのため、町民が苦しみ、外米によって、ようやく生活をつなぐ有様であった。町当局は町農会に委託して、外米 (上外米で1升21銭、次米で20銭5厘、小売価格)350袋を神戸から購入し、町内米穀店に小売を託した。しかるに、そのうち2百袋を町民の知らぬ間に指定商たちは、隣村藤並・金屋方面に販売して、残り150袋を町民に売ったところ、2日間で全部売り切れとなった。しかも町外へは1升3銭の口銭を取って売却している事実を知った町民は激昂した。8日午后2時ごろ6百名程が役場前の福蔵寺に集合、代表3名が町長と交渉した。町長は、詳細は知らぬが他村へ売却した事は聞き及んでいる。町としては、その対策に、人を遣して更に4百袋購入に努力していると釈明。しかし、いまだ入荷の確定を見ない時点にあっては、決着を得ず、そのうち、群衆は役場前に群り始め、夜には3千4、5百人に及んだという(『和歌山県の米騒動』池田孝雄)。福蔵寺の吊鐘が打ち鳴らされ、怒号が町内を覆うという事態が10日にも起こり、遂に石合戦に及んだとある。その間、湯浅警察署も署員総動員で鎮撫に当たり、署長は調停案を示し、町会議員や役場吏員も必死で説得したが、その功なく双方投石の暴挙となった。最初に投石したのは、某米屋側であったという。
湯浅署は非常召集し、一方町内の顔役梶野徳松らが鎮撫に努め、事態が高潮に達しようとする前、検挙が始まったので、群衆は自然に解散。その時とらえられたもの50名と伝えられる。
広と湯浅は広川1つで隣り合っている。橋を渡ればすぐ湯浅の町である。湯浅の事件には、広からも応援に駆け付けたかも知れない。とにかく、このような事件は、近代史上特筆すべき出来事である。他町のことながら、ここに概略を紹介した次第である。
この湯浅が発端となって、次ぎ次ぎと県下各地へひろまってゆくが、有田郡では、まず箕島町、石垣村、広村鳥屋城村と波及していった。広村では、前記の如く、8月15日に起こり、民家(米穀商か)が襲われたとあるが、詳しいことは記録に見えない。
ついでに記すと、同月13・4両日の和歌山市における米騒動には、80名の警察署員に加えて、歩兵61連隊の兵士7百名の出動があり、これによって鎮圧されたという。細川嘉六「大正7年米騒動資料和歌山県の部」(大原社会問題研究雑誌所載)では、14・5日の2日間は、最も激しかったと記している。
ところで、このような米騒動が、全国的に起こった原因は、勿論、米価暴騰である。それでは、前年の5倍も暴騰する程、米が不足していたかというと、それほどでもなかった。確かにその前年は、台風などで凶作ではあったが、大騒動を惹起せしめた米価暴騰は、寺内内閣のシベリア出兵の動きによる、大商人の米買しめが大きな原因となっている。事実、シベリア出兵は、大正7年8月2日に行なわれた。既に、その年1月、在留日本人保護を名目にウラジオストックに軍艦派遣を行っていたのである。
この寺内内閣(寺内首相は陸軍大将)は、8月14日、米騒動に関する新聞記事差止命令を発し、同年9月21日内閣総辞職を行なっている。

井上清・渡辺徹編「米騷動研究」2)
第1表 米騷動発生地表
    
  日     地点  程度  対象  出兵  備考
  8.9〜10  有田郡湯浅町   A  役場、米商    
  10   海草郡雜賀崎村  B      
  10前後  〃 内海村   A  役場    
  11  〃  紀三井寺村  B      
  12  伊都郡高野口町   B      
  12   有田郡箕島町   A  米商    
  13  海草郡塩津村   A  米商    (第2卷になし) 
  13〜14   和歌山市   A   造業者、巡査派出所 米商、富豪  8.14
  14   海草郡和歌浦町   A  役場、米商、富豪   8.14  
  14   宮前村   A      
  14   加太町  A  米商 8.14   
  14  巽 村  A   富豪
    
  14   安原村  A   富豪
    
  14   日方町   A   米商、家主 8.14   
  14   那賀郡岩出町   A      
  14〜15  海草郡黒江町  A  家主 8.14   
  14〜15]  那賀郡狩宿村   A   米商
  8.14-16  
  14-15   名手町   A   米商 8.14-16   
  14-15  粉河町  A  米商
  8.14-15  
  15   有田郡石垣村   A  民家(米商か)    
  15  〃 広村  A  民家(米商か)    
  15  伊都郡端場村  A   富豪  8.16  
  15〜16  〃 岸上村  A  米商、富豪   8.16-17  
  16  海草郡東山東村  A      
  16〜17  東牟婁郡新宮町   A   米商    
  17   西牟婁郡田辺町   A  街頭示威    
  21   海草郡大崎村   A   富豪    
  26   西牟婁郡栗栖川村  A  役場    (第1卷になし)
  8.3  西牟婁郡串本町  B  役場    
  13   那賀郡東野上町  B
      
  15   日高郡御坊町  C
      
  16   那賀郡丸栖村  B
      
  16   伊都郡笠田村  C
      
  16   伊都郡九度山村  C
      
  16   伊都郡見好村  C
      
  16   有田郡島屋城村  C
      
  16   伊都郡高野口町  A
      
  16   那賀郡麻生津村  C
      
  17(?)   伊都郡妙寺町  A
      
  18   日高郡塩尾村  B      
  17(?)   西牟婁郡朝来村  A  米商
    
  17(?)   西牟婁郡下芳養村  C
    
  23   西牟婁郡鮎川村  
B
    
  26   有田郡湯浅町  A  役場
    
程度 A 群衆の暴動、暴動に至らないが示威のあったもの
   B 社寺等へ集合したが、その段階で解散、鎮静したもの
   C 貼紙や、流言など不隠の形配のあったもの
第3表
和歌山市米価 (1升に付)
  7月5日ごろ   34.0銭 8月7日ごろ 48.0銭 8月12日ごろ 45.0銭
  8月1日ごろ 42.0銭 8月8日ごろ 48.5銭 8月13日ごろ 42.0銭
  8月5日ごろ 42.5銭 8月9日ごろ 52.0銭 10月3日ごろ
52.0銭
  8月6日ごろ 47.0銭 8月10日ごろ 54.0銭
  


次に、小作争議に関して、若干、述べておきたい。米騒動は、米の消費者が不満を行動に移したものであるが、小作争議は、反対に、米の生産者が窮状を訴え、小作米の引下げ要求の行動を起したものである。前者は、何等の準備なしに突発的に惹起されたが、後者は、かなりの準備のもとに行なわれていることに両者の相違点がある。
さきに、国威伸長時代の村民生活を述べた中で、 明治前半期における国家・地主・小作人の反当収穫米代金中取得分表を『生活史』(体系日本史叢書)から引用掲示した。それを見ても判る如く明治初期の地租改正以後、同20年ごろまでは国家は大体20%前後・地主はおよそ47〜8%・小作人は32%であった。その後、漸次減税された分だけ地主の取分が増加した。ここに地主対小作人の関係は従来以上に不調が現われ、地主に対する不満が盛上ってきた。生活難に苦しむ小作農民は、当然小作料引下げを強く要求した。その運動の組織として農民組合が結成される地方が次第に多くなった。都市労働者の労働組合運動に刺激されてであることはいうまでもない。
安藤精一博士の『和歌山県の歴史』では、本県の農民組合は、明治38年(1905)海草郡亀川村岡田で、57名によって岡田小作人組合が組織されたことにはじまる。と述べている。その後、大正期に入って、紀の川周辺の紀北地方に、やや遅れて日高地方にも農民組合結成のあった村々が、同書によって知り得る。有田郡においても、旧御霊村に農民組合がそのころ結成されたかに伝聞したことがある。
この農民組合運動に呼応して、この時代に小作争議が盛んであった。前掲書によって当時の模様を見ることにしよう。
「まず、大正6年(1917)に紀北地方で争議が発生し、昭和3年ころまでは、主として海草・那賀・伊都・有田郡および和歌山市など紀北地方にみられ、昭和4年秋には日高地方でもあったが、その後は和歌山市と海草郡が中心になった。小作争議は大正10年に爆発的に増大して101件におよび、関係小作人は8千人にものぼった。

その後、件数の多い年は大正11年の70件、昭和8年の101件、同9年の84件などである。」(以下略)なお、昭和2年から昭和6年ごろまでは海草・和歌山市・有田郡・日高郡などかなりはげしい小作争議が展開されたと説明している。
右引用だけでは明らかでないが、有田郡の中で、この広川地方も例外でなかった。小作人連判状を作成して、結束を固め、小作料の引下げを要求した。地主の結束も固く、なかなか応じなかったが、もし引下げを行なわない場合には、こぞって、小作地を返還すると申出でた。返還した土地は絶対小作しないという堅い申し合せが、小作農民同志の間に成立していた。地主との交渉は小作料の3割減を以て臨んだというが、どの程度で妥結したか土地土地によって多少の差異があったらしいが、2割程度の軽減を最高とした模様である。

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3 寒村からの脱脚


白い花の女神 第1次世界大戦の後に訪づれた経済恐慌に、都市も農村も全く生気を失い、人心は退廃的にさえなった。失業者の群は、都市ばかりでなく、田舎町にまで氾濫の輪を拡げていった。
退廃的・刹那的人心に乗じて、カフェーが都市ばかりでなく田舎町にも繁栄を極めた。そこには、白いエプロン姿の女給が、愛嬌をふりまいて、世の中の男子に、一時の安息を味わせた。歌にも「女給の唄」が流行し、女給との恋愛が家庭問題の種を増加させた。
大正期の人心の退廃は、「枯れすすき」の歌を流行させ、また、「酒は涙か溜息か」と、酒を飲んでも涙か溜息でしかなかった。やるせなく、沈滞した社会は、大正・昭和の経済不況が生んだ虚弱児に外ならなかった。
割合安価で、一時の慰安を得る場所は、前記したカフェーであり、白いエプロン姿の女給の笑顔は、当時のやるせない男性の心に、慈雨の如き味わいを感じさせた。
ところで、この冒頭に掲げた白い花の女神とは、当時の白いエプロン姿の女給のことでない。それでは、いったい何のことであろうか。
それは、人でなかった。白い花咲く罌粟(けし)のことである。初夏5月初旬、田圃一面真白に、あたかも雪景色の如く、広川地方始め、やがて、有田郡内各地を装うに至った罌粟の花こそ、経済的不況に喘いだこの地方農村を救った女神に外ならなかった。
大正12年(1923)9月、関東大震災があった。頽廃と絶望の社会や人心に、一大警告の鉄槌が打ち下されたかの如くであった。
そのころ、最も流行していたのは、前記した「枯すすき」の歌である。

わたしや河原の枯すすき
同じお前も枯すすき
どうせ2人は此の世では
花の咲かない枯すすき


だが当地方の農民は、この白い花の女神の来訪で枯れすすきになる1歩手前で救われたのである。罌粟は、いうまでもなく麻酔薬の原料阿片採取用の薬用植物である。誰でも勝手に栽培できる作物でない、所管省の許可が必要であった。この罌粟栽培 (阿片採取)が広川地方に始まったのは大正4年(1915)であったという。 日高郡から種子を得たと伝えられる。最初南広村の井関で試作されたとのこと。だが、この罌粟栽培には技術を要し、阿片採取にはさらに、面倒な技術を必要とした。しかも、阿片特有の異臭があって採取作業も容易でなかった。
右の如き事情があって、大正時代は、さほど、栽培面積が増加しなかったが、その末期から昭和時代大平洋戦争末期までの間、この地方に罌粟栽培最盛期を出現せしめたのである。
罌粟栽培は、その先進地大阪府三島郡を追い越して、当地方南広村は日本第1位を謳われた。勿論、広でも津木でも盛んに栽培され、現在の広川町は、有田郡内で最も盛んであった。この罌粟栽培については、本書産業史篇で、若干、数字的な資料を示して叙述するので、それに譲ることにするが、当時、阿片納付に対する賠償金は、まさに、従来の寒村を甦生させるに十分であった。罌粟栽培農家は、生れて初めて百円紙弊というものを手にしたのもこの時代であった。
罌粟はまた有難いことに、水田裏作として栽培されたのである。さらに、有難いことには、阿片採取の終った罌粟の種子は菓子の原料に、葉茎は耕土中に敷込み、水田稲作に好個の基肥となった。この外に、若い農村青年に取って嬉しいことは、近くの町から、遠くの村から、若い娘達が、多勢、阿片採取に雇われて村に来た。勿論、雇われて来たのは若い娘達ばかりでなかったが、手先の仕事であった関係から、若い女性が多かった。白い花の終った後、再び、広川地方の田圃には美しい花が咲き満ちた如くであった。
罌粟の栽培が盛んとなるまでは、家の壁は剥げ落ち、壁板は破れ、屋根にペンペン草さえ生えていた。柑橘作りも引合わない不況時代であったから、米・麦・みかんで、ようやく生活が精一ぱいという状態では、家の雨漏れさえ、修理の金に頭を痛める有様であった。それが、罌粟栽培のお蔭で、古い家屋は新築され、剥げ落ちた壁は塗り替えられ、壁板は張り替えられて、村の様子は一変した。
裏作は麦・菜種・除虫菊などであったのが、殆んど罌粟1色と変わった関係で、昔からの麦食は、すっかり、米食に取って代わった。まさに、農民生活の革命であった。
白い花の女神は、この地方に恵みを垂て、寒村から富裕村に格上げされたと悦んだとたん、大平洋戦争となり、食料増産に追われ、次第に麦栽培に浸食された。そして、敗戦の結果、遂にこの罌粟栽培も禁止となる。
終戦後、再び、白い花の女神の来訪があったが、この再来の時は、かっての有難い恵みを十分与えて呉れなかった。だが、そのころには、また、別の白い花の女神が、この地方の村民生活を援けはじめていた。殆んど、罌粟の花と季節を同じくして咲く密柑の花である。白い花が馥郁とあたり一面に咲き誇った後、黄金色の密柑が熟れて、この地方の農村生活を豊かにした。家屋も以前以上に立派な建築物に建て替えられる様になった。各農家に自家用車が、荷物車と乗用車と2台持つのを普通とした。然るに、昨今、佐藤政府の貿易自由化政策により、アメリカのグレープフルーツが無制限に輸入される日を目前に迎えることになった。さらにオレンジの輸入自由化も遠くあるまい。果たして、日本産の柑橘が、何時までも、米国産輸入柑橘の脅威を受けずに済むであろうか。
日本の白い花の女神も、黙してそれを語らず、政府も、勿論、言明を避けている。当地方ばかりでなく、有田郡市全体、水田が柑橘園に姿 を変えた現在、晩春・初夏は白い花が馨り、晩秋・初冬は黄金色に染める有田みかんの楽園は、何時までも楽園であることを願うばかりである。
広川地方の田圃に罌粟の花が雪景色の如く、あたり一面真白に咲く時代に、国鉄紀勢線(当時紀勢西線と称した)が、この地方に開通した。昭和4年のことである。駅は、隣りの湯浅町であったが、それでも、船便か、徒歩より以外に方法がなかった従来の当地交通事情に、大きな変化をもたらせた。
明治初期、湯浅に汽船会社ができ、熊野街道が廃ったが、昭和初期、紀勢西線の開通によって汽船会社が閉鎖された。天候の如何にかかわりなく、しかも、1日に幾回も上り下りする汽車が走るようになったことは、和歌山市・大阪市など都市が近くなった如くであり、これもまさに、当地方にとっては近代の変貌に外ならなかった。
この国鉄紀勢線開通に先き立ち、広に内海紡績広工場が建設され大正13年から操業を見た。これも、当地方最初の大工場であり、広の町発展の端緒がつくられたという訳である。現在、日東紡績和歌山工場として、なお、盛んに操業しておる。国鉄の開通、紡績工場の誘致、いずれも当地方に大きな発展をもたらした近代の変貌として、記念すべき事柄であった。さきに近世史のところで、「広浦往古より成行覚」と題して江戸時代における広の盛衰を述べたが、その中に、広の寺村の地、往古百姓80軒ばかりあり、いま1軒も残らずとあった。この寺村の地が、現在紡績工場の所在地の一部分として繁栄を取り戻している。

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32、近代の迷路と蘇生


1 暗黒時代回顧


前章の中で、寒村広川地方に富裕をもたらしたのは、罌粟栽培であったと述べた。そして、この罌粟栽培も敗戦の結果、遂に禁止の憂き目を見た。これはまだ打撃としては軽い方であった。
戦争、そして、敗戦、近代におけるこの最大の歴史事実は、当然のことながら諸般の事情を大きく変化せしめた。敗戦による罌粟栽培禁止などは、その一部分に過ぎない。戦争は、一家の大黒柱である父や夫、可愛い息子や兄弟達をも、戦場の露と消えさせ、家には、食うに食なく、着るに衣なく、言葉さえ自由を失い、息もつまりそうな時代を招いた。

近代最大の悲劇時代、即ち、第2次世界大戦時代の町と村の生活を振り返って見たい。
昭和史の暗黒時代は、かなり早くから忍び寄っていた。それは、昭和6年(1931)柳条溝事件によって開始された満州事変ごろからであった。昭和12年(1937)7月7日、芦溝橋事件によって火蓋が切られた日華戦争(支那事変)で、一層エスカレートした。そして、遂に、昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃・マレー沖海戦などによって、いよいよ抜き差しならぬ迷路に踏み込んでしまったのである。
日華戦争、日本側では戦宣布告していないのを理由に支那事変と呼んだ。前記の如く、昭和12年7月7日この戦争の火蓋が切られて間もなく、最初の大きな召集があった。その日は夜、南広小学校の校庭において映画会が催されていた。筆者もそれを見物していた1人である。(日時は応召した人に聞けば判るかも知れない)、 見物に集まった群衆に向って、相当多数の呼び出しがあった。それが、即ち、支那事変最初の召集であった。
たちまち、会場が緊張に包まれ、映画は続行されたが、最早や見物する気持も消え失せ、召集と支那事変の拡大に対する不安が語り合われ、群衆は急いで家路に向った。それから後は、次ぎ次ぎと召集があり、出征軍人を送る万歳の声が日毎に繰り返される有様となった。広・津木両村においても異なることはなかった。
翌年(昭和13年1938)4月1日国家総動員法が公布され、全く戦時色1色に塗り上げられた。国民服とモンペの生活が始まる。物資総動員計画基本原則が発表され、総て国民は、「欲しがりません勝つまでは」と、遂に敗戦の日まで、皇軍の勝利を信じて頑張り続け、昭和20年(1945)8月15日、突如としてラジオが天皇の「終戦」詔勅放送を流して、初めて皇軍の完敗を知らされた。日本の無条件降伏に、国民は忽ち呆然とした。そして、次の瞬間、絶望と不安、そして終戦の安堵感。この嘗てない複雑な感情と共に、名状し難い虚脱の谷間に墜落していた。それからやっと気が付いた時には、欲しくても、何1つまともな価格で品物は手に入らず、長らくの配給制度下の耐乏生活に飽ていた国民は、ヤミ物資を漁り、ヤミ市に殺到した。食糧増産と供出に精根尽きた農家があるかと思えばその反面、食糧のヤミ販売でひそかに懐の脹れていた農家もあった。しかし、戦中戦後の厳しい物資・物価統制下でヤミ物資で儲けをなしたのは、ただヤミ農家ばかりではなかった。戦争ほど不公平なものはない。 それ以上に死の商人(軍需産業経営者)は莫大な利益を占め、一般国民は栄養失調に陥っていた。
「勝って来るぞと勇ましく誓って国を出た」兵も、「歓呼の声に送られて今ぞ出で立つ父母の国」も、戦いに敗れ、戦いに疲れ、漸く、懐しの故郷に帰って見れば、爆撃で国土は焼土化し住むに家のないものが多かった。
その中で、この広川地方は戦災から免れたのが仕合せであった。生還し得た者はまだよい。遺骨となって故国に迎えられた英霊は、遂に生きた眼で故里の山河さえ見ることが叶わなかった。
父を失い、夫を失い、息子を失い、兄弟を失った遺族家庭は多数に上った。戦争末亡人は遺児や老父母を抱えて、混乱した社会を生き抜く覚悟は、死に勝る辛さであった。跡取り息子を戦死させた父や母は、英霊の位牌と写真の前で、我家の今後を考え暗然とした。夫や恋人を戦場の土と化せしめた多くの妻や娘達は、日毎、涙の乾く暇がなかった。
戦時中に組織され、共に戦争に協力してきた隣保班も、戦時中は国防婦人会として活動した婦人会も、大政翼賛会も、翼賛壮年団も、また、最も羽振りをきかせた在郷軍人会も、或は解体、或は追放。僅かに残った隣り組は、乏しい配給物資のトンネル機関として利用されたに過ぎなかった。
右は大体、戦中戦後の最も深刻な時代の一般的な一面である。左に、若干、当時の模様をより具体的に示す事例を拾って見よう。
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争に突入したその翌年、即ち、昭和17年2月、食糧管理法が公布された。そして、食糧の国家全面管理がはじまる。農家には供出割当制度、消費者には配給制度の実施となった。その初年度のことである。いま思い出してもぞっとする程、厳しい県出先機関と警察署の態度が示された。
昭和17年7月、県下各郡へは新たに県の出先機関地方事務所が設置されていた。総て地方の行政面は、その機関を経て各町村に指示された。同年産の米穀供出割り当ても例外でない。
ところで、事局は緒戦の勝利に引替え、南方における戦局は、もはや、わが方には有利に展開していない時であった。猪突猛進も蹉跌をきたし、一般国民こそ大本営発表の皇軍戦勝を疑う者はなかったが、事実は甚だ危機に落ち入っていた。なお、過去数年間の日華戦争で、食糧も非常に不足していた折からであった。当然のことながら、その年の米穀供出割当は苛酷な程重かった。各町村役場や各町村食糧対策委員会は、各農家への割り当てに苦慮した。各部落でも、連日連夜の如く農民が集会して協議した。それこそ血を絞る程の過重さに混乱した。
農民も戦争に勝つためには、相当の覚悟はできているものの、自家保有米にも食い込む供出割り当てには、少なからず難色を示した。町村当局もその実情はよく承知していたので、その事情を地方事務所へ訴えた。
当時、南広村は、有田郡第1位の米産地であり、郡内では、藤並村・五西月村を越える注目村であった。村内が混乱し、役場も各部落役員も、その収拾に頭を痛めた。しかし、これはひとり、南広村のみの現象ではなかった。郡内総てのことであって、減額要望の声が各町村に起きた。
有田郡地方事務所においてはそれを跳ね返し、目的完遂のために、連日首脳会議が持たれるという有様であった。勿論、その会議には警察署長も参加した。初代の有田地方事務所長は、和歌山県翼賛会事務局長から転任してきた人物である。民意など聴く耳は毛頭持ち合せていなかった。常に所員を叱咤して、苛斂誅求の線までゆけと奴鳴っていた。

或る日のこの会議に、1技手(注 筆者の田中氏と思われる)が参考人の形で末席に連らなった。その若い技手は、たまたま、南広村出身であり、日常の仕事が食糧関係に携わっていた。意見を徴されて、彼は素直に、専門的知識と現地検見(立毛調査)による所見を述べた。それが、勿論、割り当ては限界を超えていることを指摘したものであった。すると、早速退席を命じられ、この若い技手は殆ど敵視の眼で見送られて、事務所の自席に帰った。
それから数日後、南広小学校講堂において、村民を集め、大集会が地方事務所の指示によって開催された。役場からは村長・助役以下事務担当者が出席し、地方事務所からは事務所長・経済課長・主任属など、それに湯浅警察署長が出席した。勿論、例の若い技手も村民の席で事態を注目していた。
大変な村民集合の中から発散される緊張感の中で、村長の開会挨拶に引続いて、次ぎつぎと出張役人のお偉ら方や、いかめしい警察署長の演説が行なわれた。その中で、警察署長は、「あえて1技術員に挑戦する訳ではないが、当村の農家は、まだ十分の申告でない。従って、割当は重いというが、決してそれは認められない。例えそれは重くとも、かしこくも、お上からの命令である。1升たりとも未完遂は許されない」と大声を張りあげ、冒頭から村民集合の頭上に威嚇を浴びせた。両肩に無気味な光りを放つ金色の肩章と、それにも劣らぬ鋭い眼光に恐れをなしてか、会場はしんと静まり返って音1つない。地方事務所所長の演説も大同小異であり、戦時中でなければとうてい聴けないそれであった。多くの村民に混って、これを聴取した、かの若い技手は、先日の自分の発言は、余程、お偉方の心象を害したのであったかを再認識させられたのである。
ところで、署長の話の中に出てくる申告とは、当時、米作農家は、その年の収穫面積・収穫量を役場へ申告する制度であった。役場はこの申告を基礎に「米穀処分計画書」を作成し、農家保有量と供出可能量を算定することになっている。天下ってくる供出割り当て量に達しない場合は、止む得ず反当収穫量(10アール当り収穫量)を引き上げて、計算のやり替えを行なうのである。正直に申告している農家に取っては、実際に保有量に食い込む供出割当となる。
さて、村民大集会で申し付けられたのは、産米の再申告であった。それと同時に、農家の倉・納屋・住宅に至るまで、地方事務所長の命によって臨検が行なわれた。戸毎という訳にゆかないから、各部落で2戸乃至3戸が槍玉に挙げられた。1種の威嚇であり、心理作戦であった。そして、再申告の結果、例の若い技手が見積りした予想収穫高を僅に上廻った。そして、その年の供出米もどうにか出荷完了を見るに至ったころ、第2次追加割当がきたのである。今度こそは、各農家出血出荷であったことはいうまでもない。彼は内心農家に同情を寄せながら、郡内を駆け廻って供出督励に明け暮れたのであった。郡内1位の供出割り当てを受けた南広村は、その供出完遂に、役場および関係者は、非常な苦労をなめたのである。広・津木両村においても、ほぼ同じことがいえるが、特に有田郡の穀倉地と目されていた南広村の負担は重かった。
右は、若干、冗長に過ぎたが、戦中戦後の米穀供出には、その過重さのために農民は如何に苦汁をなめたか。
上記旧南広村の実例を紹介して説明に代えた次第である。
前記の如き緊迫した村風景が戦中戦後繰り返され、農民は米の供出という言葉にさえ1種の暗い気持に誘われる始末であった。敗戦後の昭和21年2月、金融緊急措置令と共に食糧緊急措置令が施行され、極度の食糧不足の危機を打開するため、未利用資源の利用奨励と併せて、強権発動による穀類収容が行なわれた。これが生産者と消費者との感情的な対立を1時激化させたのである。
この年は、全国的な大凶作に見舞われ、一層食糧不足が甚しくなり、米麦の遅配が続き、消費者は何日も空腹に堪えねばならなかった。米1升(1、8リットル)ヤミ価格180円及至200円に急騰し、俸給生活者は1ヵ月の賃金で僅か米1升買えない欠乏インフレが出現した。農家は甘藷や、馬鈴薯の供出の余りや、南瓜を喰べて、保有米を残し、ヤミ販売を行ない、金を得た。或は、消費者の持参する衣類その他の品物と交換するなどして、1時農家は、「ヤミ成金」を騒がれた。その反面、町の消費者は、所謂、インフレで金に欠乏し、衣類をはじめあらゆる物資を食糧に代えて、それこそ「筍生活」で身も世も細った。各地で「米よこせ大会」が発生し、社会不安が、ますます色を濃くした。ようやく、連合軍司令部の食糧緊急輸入により危機を脱するが、国民はトウモロコシを食して命を繋いだのである。
この食糧難の時代を象徴する一事を付記すると、飯米獲得人民大会が、5月19日、皇居前広場において開催、東京各区に「米よこせ大会」が連日行なわれて、この事態に憂慮された天皇は、5月24日、ラヂオを通じて「祖国の再建は食生活の安定にある。全国民は乏しきを分ち苦みを共にせよ」という趣旨の放送がなされた。
飯米闘争は、連合軍司令部の「暴民デモを許さず」との声明によって、一斉停止となったが、食糧遅配は更に深刻化した。
この戦後の食糧危機は、最早や現在では、遠い昔の如く、人々の記憶から消え去ろうとしている。政府さえ然りである。いま、米の減反政策が農政の中心課題となっているが、永久平和日本が保証されてこそ、米の減反もまたよしである。これがなければ危険な政策といわざるを得ない。
なお、さらに付言すると、当地方を含め有田地方全般的に米作を畑作に乗り替え、水田を柑橘園に転換してい確かに現在における政府の農業政策に即応してこれまたよしである。だが、永久平和がなくして柑橘園の維持は永続しない。戦時中には果樹を堀り取って食糧増産に切り替えた苦しい経験をなめた記憶は、まだ消えずに当地方農家の人々の脳裏に残っている筈である。再び暗い迷路に踏み込まない用心こそ肝要というべきであろう。

2 迷路からの蘇生


昭和20年(1945)8月15日、前記した如く、天皇の「終戦」詔勅放送が行なわれて、その夜から、明るい電燈の下で夕食をとることになった。しかし、その夕食の膳には、前日の夕食と同様、薄い茶粥に僅かな漬物。それでも、昨夜までの、燈火管制下長い期間暗がりでとった食事と、その味は全然違っていた。
出征軍人の家では、ただひたすら、無事帰還を願って、話題は必ずそれに集中した。だが、一方、戦死者の遺族家庭では、その望みもなく、むしろ、何んのための犠牲であったのかとさえ疑念と涙が湧いてきた。敗戦を知らされた国民は、糸の切れた凧の如く想念は思い思いに飛んだのである。
戦勝国の進駐軍が、ガムを噛みながら、片田舎にまで見馴れぬ姿を現わしはじめたころ、都会では、進駐軍将兵に寄り添い、腕を組んで歩く、派手な服装の若い女性が現われた。それが何んと、昔は大和撫子の名で呼ばれていた日本娘であったのだから、民衆は眼を見張った。この奇妙な風景も、彼女達のやむを得ない生活の知恵であったであろうが、何とも惨めな世の中になったものかと、世間の男性を嘆かせた。
しかし、この敗戦は日本が古い殿から脱して、新しく蘇生するための一大転換をもたらしたことを想えば、必ずしも悲しむべきことでなかった。戦時中の組織や制度は、殆ど余すことなく解体或は改革となって、新世界之の扉が開かれた。
第1、国家の基本法である憲法、国民私法の基本である民法、その他刑法など改正されて、旧6法全書は役立たない時代となった。
地方行政制度が改正され、地方自治の精神を生かすために県・市・町・村・首長公選制度がとられた。敗戦直後の諸政正の中で、最も農村に大きな影響を及ぼしたのは、いうまでもなく、農地改革である。
戦勝国の日本占領政策は、帝国主義・軍国主義日本を解体して、民主主義国とすることにあった。そのためには、敗戦前の日本の3大支柱である軍隊・独占資本家層・地主層の解体が必要であった。軍隊の全面解体の直ちに行なわれたことはいうまでもないが、財閥解体にもすぐ手を付け、三井・三菱・住友・安田4財閥をはじめとして、83社が指定された。だが、政府の行なった解体はそのうち16社にとどまった。もう1つの支柱、地主解体はどうであったか。
敗戦の年、昭和20年12月、「日本農民を封建的柱粕から解放し、日本農民の民主的再建を期するため」という、占領軍からの農地改革指令が発せられた。第1次は、不在地主の小作地、および在村地主の全国平均5町歩以上の小作地を、5ヵ年間に解放、小作料の物納から金納化という線で、政府は農地改革に着手した。だが、これでは不徹底だと、再度、占領軍指令部から、第2次改革の指令があり、同21年に実施されたのは、在村地主保有地平均1町歩(北海道4町歩)に引き下げであった。これによって、全国平均自作地は、全耕地の87パーセントに拡大された(岩波新書『昭和史』遠山茂樹・今井清一・藤原彰共著)。
この農地改革によって、和歌山県は、不在地主の所有する小作地全部と、在村地主で6反を超える小作地を解放し、自作・小作両地併せて1町9反を超えるもの、自作地でも耕作業務が不適正と認める場合は、1町9反をこえる分を政府が買い上げ、自作農民となるものに売渡すという方法であった。
とにかく、占領軍の考えているのは、「農地改革に関する覚書」にもあるとおり、「日本農民を奴隷化した経済的な束縛を破壊するのが目的」であった。「農民の4分の3以上が小作人で、収入の半分以上の小作料を支払っている」封建的制度の解体こそ、日本民主主義化の要諦であるとしている。

3 南海大地震・津浪と7・18水害、その他


京都・奈良など古都は、文化財の宝庫という理由で大平洋戦争時の空襲から免れた以外、日本のあらゆる都市は爆撃を受けた。地方の小さな町まで爆弾が投下され、日本全土は、まさに火焔地獄の様相を呈した。
都会が空襲の危険にさらされるころから、この広川地方にも縁故をたどって疎開人が続々と来住した。終戦後、その疎開の人達がいまだ帰り終わらない昭和21年(1946)12月20日早暁、南海大地震が発生し、続いて大津浪が当地方の海岸を襲った。繰り返し述べたことであるが、広は津浪の被害の受けやすい土地である。
地元の人達も、疎開で来ていた人達も、この天災には取るものも取りあえず避難したが、広町・湯浅町では多数の死者を出した。
終戦後、ようやく人心が虚脱状態から立ち直りかけていた矢先の被害であったから、何とも名状し難い悲惨な気持に襲われ、敗戦国という負目以上に暗澹たる年末を迎えた。この津浪の詳細については、本書災異篇において述べられているので参照されたい。
それから7年後の昭和28年(1953)7月18日、近来未曽有の大水害に見舞われ、有田川・日高川流域地方は、忽ち泥海となり、人家・人命がおびただしく洪水の中に巻き込まれた。当広川地方もその被害少なしとしなかったのである。この事についても災異篇に詳しく述べられているから、参照を乞うことにするが、前記津浪にしても、この紀州水害にしても、戦後、当地方の人心に与えた打撃は甚大であった。ようやくにして、長い暗黒時代から解放を得た昭和20年代は、右の2大災害を蒙り、実に受難の年代と謂わざるを得なかった。
それが今、全くその爪跡も残さないまでに復旧し、かつ新装されて繁栄の時代を迎えるに至っている。これも偏に、昭和元禄と称される程の平和な時代が持続されているからに外ならない。人類の幸福や文化の発展維持には、何と謂っても平和が第1要件である。
前記の如き天災は、長く町民の記憶から消えない痛手として、ここに記載したが、これ以上に警戒すべき災害が、現代の日本に到来している。特に広川町の問題として云々する訳ではないが、経済高度成長政策に伴って発生した公害問題である。
天災による被害もさることながら、人類の幸福と文化財の保存、否、全生物の生命を脅かすものは公害という
人災である。これを憂えて環境改善を叫ぶ声が高まりつつあるにも拘らず、日本全土が、公害の危険にさらされている。わが広川町はいまだその危険にさらされていないが、町民が無関心に日を過すならば何時、そのような危険が襲って来るかも知れない。
緑したたるわが郷土。永遠にこの緑を失うことのないよう、為政者は勿論、全町民が常に真剣なる配慮を必要とする。
南海の大津浪、7・18水害、このような天災は滅多に襲って来る訳でない。しかし、公害は日時をとわず、常時われわれの生命ばかりでなく、あらゆるものを侵蝕してやむことない。天災よりも人災が大きく国家や社会の問題となっていることを、わが町民も深く認識して、常に警戒を怠ることないよう心掛けるのが、愛町精神であり、日本の社会を、日本の自然を守る道であろう。
打角、暗黒時代から脱却し得たのであるから、公害によって破滅の途に迷い込まぬよう心すべきであるまいか。
以上、標題から逸脱した叙述を行なったついでに、最近の憂慮すべき事柄について、いささか苦言めくが、今すこしいわせてもらいたい。日本全土、この広川地方も含めて、昨今、開発の名のもとに自然を破壊しつつある。

そして、何時かは、この自然の破壊によって、大災害を招くことになるであろうと、将来を心配される科学者が多い。わが広川町は大切な自然を守るべく、無謀な開発を慎しむことを、ここに強く要望する。枝葉末節の細かい出来事を漏れなく記述するのも歴史の一方法であろうが、重要な問題点を指摘することこそ、真の歴史学の課題であると信じる。
折角、昭和前半の暗黒時代から、敗戦という試練を経て迷路から蘇生の途を得たのであるから、今度は経済成長1辺倒の、迷路に踏み込まぬ賢明な行政が望まれる。今日の繁栄を勝ち取るためには、それなりの努力や工夫が必要であったことは高く評価されて然るべきであるが、行き過ぎが公害を招き、遂には天災以上の人災が天鎚となって、人間の幸福は一瞬にして消滅に終わるであろう。その時は、最早や従来の被害程度で済まない事態となるであろうことを、今のうちに反省すべきであるまいか。
広川町には、それ程心配した環境破壊が進められていないのは、せめてもの仕合わせというものであろう。しかし、知らず知らずのうちに、経済的な発展を願うあまり、その危険な道に迷い込まないにも限らないことを、警戒すべきであり、真の愛町精神に徹すべきである。
さて、この辺で再び終戦当時の事に話を戻すことにしよう。労働組合運動の復活も、戦後における日本民主主義化のために、占領政策の1環としてとられたものである。
戦時中は、総ての労働組合運動は禁止され、ただ、軍部のいうがままに働く以外の途は開かれていなかった。
「1億国民総懺悔」もさることながら、1億国民の平等な権利の確立こそ、敗戦日本の進路確定の第1歩であった。働く者の権利保証のない社会に、民主的社会育成の余地がない。その意味において、昭和20年(1945)12月、労働組合法が公布され、これに基づいて全国的に労働組合が結成された。和歌山県下では、その翌年逸早く三菱電機・住友金属・日東紡績など結成され、同年末には約30単組、当地広の日東紡績和歌山工場もこの年労働組合の結成を見た。昭和24年には県下70を超えたという。(この数字は、前掲「和歌山県の歴史』による。)

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4 農業転換と広川町


昭和22年農地改革によって、当地の農家も殆ど自作農家になった。そして、戦前に引き続き食糧不足の時代緩和のために米麦を増産し、とかく、議論の絶えなかったそれらの供出も、未完遂の汚名を着ることなく戦後の食糧危機解消に協力してきた。
科学文明の進展に伴い農業の発達と栽培技術の進歩が米麦の増産を促すと共に、国民食生活の変化から、昭和30年代の中ばごろ、既に、米麦の需給関係に大きな変化が現われ、従来の米不足の時代から、米過剰の時代えと早くも傾向を示しはじめた。そして、政府は昭和35年(1960) 農業基本法を制定し、畜産3倍果樹2倍の農業構造改善計画を発表した。そのころから、有田地方の柑橘栽培地帯は、山地畑作による柑橘栽培から漸次、水田の畑地転換による平地柑橘経営に方向転換した。
当広川町もそのとおり、10年後の昭和45年(1970)現在では、南広地区において、水田面積の半分以上は、柑橘園に転換された。広・津木地区は、立地条件も伴い水田の畑地転換はそれ程でもないが、津木地区などは、山地の開墾を進め、柑橘栽培の拡大が図られた。驚くべき農業革命といえるであろう。2千年来の稲作中心の農業経営は、ここに終止符が打たれた訳である。
日本のあらゆる都市やその周辺は、かってない工業化の嵐に巻き込まれている。本県では和歌山市・海南市を筆頭に、各地にまでその嵐が及んでいる。海草郡下津町・有田市初島町などは、早くから県下屈指の大石油工場地として知られているが、最近、各種工業が各地へ進出し、まさに工業立国の波が、われわれの周辺をも洗うに至った。時代の潮流は止まるところを知らない有様である。
以前は水田であった場所が、現在では、柑橘園か、然らずば工場か、という程に地目変化の激しさが人の眼を驚かすばかりとなっている。前記した如く、稲作農業の終焉にも等しい時代が、この有田地方に忍び寄っている。
ところで、気象が柑橘栽培に不適当であったり、交通不便が工業化を阻む立地条件の山間部は、次第に時代の趨勢から取り残され、従来の稲作をようやく維持しているが、若い人達には、最早や希望のない土地と看做されるに至った。その山間部の青壮年層は次第に工業地帯に吸収されてゆきつつある。即ち、山間部落の過疎化現象が起きている。この広川町でいえば、津木地区の山間部落などに、その例が多い。殊に岩渕部落などは、近年、人口の減少のみならず、戸数のそれさへ、既に現われはじめている。
山間地帯の過疎化現象は、日本全国的な傾向であって、都市の過密化現象と共に、現代の社会問題として、かなり以前からやかましく取上げられている。幾百年、或は幾千年の長い期間、人間生活の舞台として、山間地帯も、日本の歴史と文化創造に1役を担ってきた。それがいま、あえなくも滅びようとしているところが少なくないという。
山村過疎化を裏返せば、スモッグと汚水に満ちた都市や工場地帯の人口過密化である。公害と人口過密化の問題は、日本の現代史の中で黙過し得ないと同様、山村の過疎・荒廃問題も軽視でき得ない。おそらく有史以来初めてのことであろう。
当広川町は道路行政には積極的であり、かなり山間部まで交通網が布かれている。さらにそれを押し進めつつあり、主要な道路は、立派に舗装が行われ、その面の環境改善は進んでいる。従って、昔に比較すれば交通面では随分便利になっている。しかも、自動車の時代であるから、相当な山間部まで徒歩でなくとも行ける程になっている。だが、それだけで、山間部落の過疎化が緩和されそうにもない。やはり山間に人を引きつけ得る魅力に豊んだ新文化の創造が真剣に課題とされない以上、山村に嫁の来手がないという悩みも、人口が年々山村から流出してゆくという過疎化問題も、何等解決の途が開けないであろう。人口の都市への集中化は、日本民族の将来に必ず禍根をもたらすこと、既に識者間では放置し得ない現代における重要問題の1つとして取り上げられている。
わが広川町における山間部落の過疎化現象も、単に時代の成行と傍観的態度で打ち捨てておいてよい訳ではない。筆者はかって、当時津木農業協同組合長広畑武一氏(現西有田農協組合長) と山村問題について話し合った時、同氏は、次第に過疎化してゆく津木奥地区の実状を憂え、この対策の必要性を説かれた。山村には嫁の来手がないという、山村青年の結婚難さえ現われつつあることが談話の中心的課題となった。筆者は自分の町内にも、このような深刻な1種の社会問題が惹起していることを認識し、現代社会の歪んだ1断面を間近においても見たのであった。
一方都市や工業地帯では公害問題がやかましくなり、やがて、この公害から逃れるため学校移転・学童疎開などの必要が生じてきている現状である。経済大国を目差して、それに到達したと自慢の連中には、日本のかってない環境汚染や環境破壊、この重大な責任をどのように考えているのであろうか。
歪んだ現代社会を正しい方向に思い切った修正がない限り、永久的な日本の繁栄はなく、わが広川町たりともその埒外であり得ないのではあるまいか。
昭和の前半は暗黒の時代であった。敗戦の試練を受けて、そこから折角脱出を得た。その後、目覚ましい経済成長を遂げて、日本は世界的経済大国の地位にまで達した。然しその反面、かってない公害も発生しつつある。
経済高度成長政策の功罪が、今や大きく問題の焦点となっているが、この問題に背を向けて進むならば、例え広川町と謂えども、町民の健全な生活が脅威に暴される日が来ないとも限らない。
開発に伴う環境破壊の問題、工場誘致による公害問題、その他様々な問題がわが広川町の間近まで押し寄せていることは、改めて例を挙げて述べるまでもないであろう。
幸い、広川町は、それ程深刻な問題は惹起していない。時流に押し流されない戒心こそ、この郷土を守る途であろう。

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行政史
行政史篇

1 藩政時代


統治行政の歴史は、遠く古代にその源流を有するであろう。しかし、ここでは、近世から叔述を行なうことにしたい。
古い時代を決して軽視するのではないが、不明な点が多いので、割愛せざるを得ない。
近世、即ち、藩政時代についても、とうてい、詳細を述べ得ないばかりか、近代に至ってさえも、なお、詳らかでない点が多々ある。早い話は、明治初期の戸長時代、誰と誰が戸長であったか、また、副戸長であったか、それを知る史料とて、殆ど管見に入らない。以下述べるであろう当地方村治の歴史は、その組織と名称の変遷に触れ得る程度となろう。
歴史篇でしばしばいったとおり、現在の広川町は、かつて、広庄と呼ばれた地域である。近世初期、徳川頼宣が、紀伊藩主として駿河国府中から入国してから間もない時期に、庄が行政の単位でなく、それを組に改編した。
その時、広庄は隣りの湯浅庄と共に最初広組とされた。各組には大庄屋が置かれ、その補佐役として、杖突がおかれた。大庄屋・杖突の任務については、歴史篇近世史にやや詳しく述べているので、ここでは省略する。

だが、歴史篇との重複を冒すことになるが、初め広組、後の湯浅組大庄屋の名を上げることにする。これが総てであるか否か明らかでないが。津守九太夫、四郎右衛門、興惣兵衛、清右衛門、杉原彦太夫、以上は大体広組と称された時期の大庄屋である。
橋本次郎右衛門、同2代次右衛門、垣内太七郎、藤新右衛門、橋本次郎右衛門、湯川藤之右衛門、湯川藤九郎、北村久次郎、宮井大郎兵衛、津守小左衛門、飯沼五左衛門、飯沼元右衛門、数見清七、千川伝七。以上が湯浅組 と改称されてからの歴代大庄屋である。
広組から湯浅組と名称が改められたのは、大体、江戸中期貞享頃(1684〜87)と推定される。
現在知見し得る史料に拠って右の如く列記したが、中期以前と同以後とでは、その人数に、かなりの差があることに気付く。最初の津守九太夫以前にまだ幾人かあったのかも知れない。
各組の下に幾つかの村があった。村にはそれぞれ、1人ずつ庄屋が置かれ、その補佐役として肝入(肝煎)という役が置かれていた。庄屋・肝入の任務についても、歴史篇近世史との重複を避けるため省略する。
ところで、近世広組、または湯浅組当時、この組内に左記の村むらが存在した。大体、現在の大字がそれに当る。
西広、唐尾、中野、金屋、中村、名島、柳瀬、殿、井関、河瀬、
広庄では、広、和田、山本(池ノ上を含む)
前田、上津木、下津木、以上16ヵ村。
湯浅庄では、湯浅、別所、青木、山田、吉川、栖原、田、以上7ヵ村。合計23ヵ村が所属した。
右村むらの庄屋・肝入については、その名の判名しているのが、極めて一部分である。各種の史料によって分明したそれは、それぞれ年表に載せられているので、参照されたい。
近世行政組織の最末端組織としては、各村内に5人組が設けられた。その名の示すとおり5戸1組の組織で、それぞれ組頭があり、組内の責任者とされた。この5人組は何事によらず、連帯責任で、それを締め括る役が5人組頭であった。
旧幕藩時代の郷村行政は、大体、右の組織をもって行なわれた。この郷村各層組織の上部に郡を単位として、郡奉行・代官など藩の役人が配置されていた。有田郡では、最初、この郡役所が広に置かれていたが、後、湯浅に移された模様である。
近世封建制時代の地方行政組織も、明治維新を迎えて改新へと向かう。
歴史の歯車が近世から近代へと大きく廻転を見せた明治維新、幕末の動乱という激しい陣痛を経て生まれた明治維新であっただけに、地方の統治組織も、当然、大きく改革や脱皮を経なければすまなかった。

2 広川町以前近代の行政組織


日本歴史の上で、大化の改新、南北朝の動乱、明治維新、そして、昭和の敗戦、この4大事件程、時代を大きく変革された例は滅多にない。
さて、右のうちの第3番目、即ち、明治維新による地方行政組織の改革とは、一体どのような形で現われたのであろうか。これについても、歴史篇近代史の最初の章で略叙したので、若干、重複するが、慶応3年10月大政奉還。そして、天皇新政という大義名分のもとに、明治新政府が樹立。この新政府の手によって、明治4年(1871)7月、全国の廃藩置県が行なわれ、紀伊藩が廃されて、新たに和歌山県が誕生した。
その2年前、即ち、明治2年、紀伊藩の藩政改革により、郡政が改められ、旧藩時代の代官を廃し、各郡に民政局を設置する。そして、代官に代って知局事および判局事などの役人が置かれた。その時の有田郡初代知局事は、当広川町、当時広村の浜口儀兵衛(梧陵) であった。副知局事は、現在湯浅町の一部旧栖原村の菊池孫輔(海荘)、 判局事には高垣伊太夫、森直右衛門など。その外、判局事試補6名、書記1名の組織であった。(歴史篇近代史「近代社会への発足」に各氏名を載せているから参照のこと。)
さて、明治2年の地方行政改革で、各郡下の各組大庄屋が、郷長と改められ、杖突は組書記と改称されたのである。だが、その時はまだ、組の名称はそのままであった。明治4年の廃藩置県の時、県治条例を定め、地方制度を改めて、県の下部組織を区制とした。和歌山県は同5年、それに基づき県下に7大区67小区を設け、本郡は第5大区と定められた。さらにそれを5小区に分ち組を廃した。その時、各組か各小区の単位と定められた模様で、湯浅組は、第2小区と呼ばれた。(註、第1小区、旧宮原組。第3小区、旧藤並組。第4小区、旧石垣組。第5小区、旧山保田組)
そして、各区毎に区戸長が置かれ、郷長・庄屋の制が廃された。区には戸長が1人、その下の1村または数村に1人の副戸長が分置された。戸長の下には筆生、村総代、村用係があった。戸籍は、戸長の専任とした。旧幕藩時代の5人組にならって、5戸単位に伍を組織し、伍には、旧5人組頭と同様、伍長を置いた。戸長・副戸長は、官選であったにも拘らず、戸長役場は、戸長の私宅であった。従って、戸長の更迭ごとに役場も替った。同6年、戸長を副区長、副区長を戸長と改称が行なわれた。その当時の第2小区長は岡文1郎であった。
明治4年地方制度改正公布、そして、和歌山県はその翌年、大小区制実施となるが、それによって、郡名は実は質的な行政区画名称でなくなった。だが、明治11年(1876)7月、政府はあらためて、郡区町村編制法を制定し、旧来の郡町村制を復活させたのである。従来の郡町村の存在を否定し得なかった結果であった。そして、この改正法により、町村を自治体とし、郡を行政区画の1単位として郡長を置くことにした。その時、有田郡の初代郡長に、鈴木三郎が就任した。郡役場は湯浅村深専寺山門西側の利生軒を仮庁舎に充てられた。
この時の法令によると、各町村ごとに戸長1人を置く定めとなっているが、事務の便と、段別・戸数の多寡によって必ずしもそのとおりとならなかった。段別と戸数の上から基準を設けていたからである。反別は123町5反5畝歩、戸数は279戸をもって、1人の戸長を置き得る地域と規定があり、本郡は41名の戸長の地とされた。この時、第2小区の現広川・湯浅両町併せて8名の戸長の地となる。歴史篇との重複を顧みず、それを上げると左記の如くであった。

戸長役場所在地      所属村名
田  田
栖原  栖原・吉川
湯浅  湯浅
広  広
山本  和田・山本・西広・唐尾・上中野
井関  南金屋・殿・柳瀬・井関・河瀬・東中
下津木  下津木・上津木・前田
山田  名島・山田・青木・別所


右の如く8グループに編成されたのは、おそらく、前記のような基準に照らした結果であろう。
この区制・戸長制度が明治22年(1889)まで存続するが、その時代の戸長で現在判明しているのは、極めて少ない。判明する分を参考に掲げると次のとおりである。

広村          雁仁右衙門、竹中助太郎、橋本与平、久保田源右衙門、橋本四三二
山本村  中沢甚兵衙
西広村  大場彦三郎、
井関村  長谷庄兵衙、長谷定五郎
下津木村  権崎角兵衙、古垣内安兵衙、


明治5年、庄屋制が廃止され、戸長制に替わるが、最初は官選戸長であり、明治11年の改正で民選となる。

だが、戸長役場が、戸長の私宅であったことには変りはなかった。『有田郡誌』は、これに関連して次の如く述べている。歴史篇でも引用したが、当時の模様が、如実に言い現わされているので再録すると役場の位置、連合村は概略斯の如くなりしが(上掲、役場所在地および所属村名のこと)、戸長は民選なる為、実際其任に堪えずして辞するもの多く、而して役場は殆ど皆戸長其人の私宅なりしを以て、戸長の改選と共に役場も亦其所在を変改するの奇観を呈し、実際一定位置を記し難き場合少なからざりしなり。

とある。この戸長役場には、戸長の下に筆生村総代・村用係など置かれていたことは、さきに記したとおりである。
かくて、明治も20年代を迎えるが、政府は、地方財政能力拡大を期し、町村合併による大規模町村の形成を図った。明治21年(1888)の町村制法がそれである。財政能力の強化、行政能率の向上などを目的に、旧来の町村を適当に統合し、時代の進展に即応した地方自治体促進政策として、この法律が公布されるに至った訳である。町や村は、自然発生的に成長を遂げてきた関係から、その内容まちまちであるもの多く、それを統合して、1行政単位の地域とし、町または村を編成するという狙いがあった。そして、旧来の町や村はそれぞれ新町村内の部落とすることになった。右の町村制法公布の翌年、即ち明治22年、有田郡第2小区と呼ばれた現広川町・湯浅町の古来各村が、5箇村に編成替されたのである。その時成立した5箇村とは、昭和28年(1953)公布の町村合併促進法により、同30年、町村合併が行なわれるまでの町村の基となった村々である。
歴史編との重複を冒すが、それを、左に掲げると、

新設村名 所属大字名(旧村名)
広村  広・和田

南広村  唐尾・西広・山本(池ノ上を含む)・上中野・南金屋・殿・井関・河瀬・柳瀬・東中・名島
津木村  前田・下津木(猿川・寺杣・滝原・岩渕)・上津木(落合・中村・猪谷)
湯浅村  湯浅・山田・青木・別所
田栖川村  田・栖原・吉川


江戸時代初期、藩政の地方組織として組が編成されて以来、この時まで共に1つの行政区域として歩んできた右各村が、互に袂を別ち、各自、新設村に属して、新時代に発足することになった。
新村発足時、広村は田町の中程に、南広村は南金屋蓮開寺境内に、津木村は寺杣にそれぞれ役場を設けた。
戸長制に代って町村長制となり、各村に新村長が置かれた。また、村政決議機関として村会が設けられ村会議員の選出が行なわれた。
昭和25年(1950)10月、広村は町制を布いて広町となる。
以上が大体、現広川町となる以前の当地方村治の組織とその変遷である。
左に旧町村時代の歴代町村長を挙げよう。

広村     氏名        期間
村長  雁仁右衙門  自明治22年5月8日  至明治26年5月7日
     湯川良祐  自明治26年5月11日  至明治29年6月19日
     湯川小兵衙  自明治29年6月29日  至明治32年3月2日

     古田庄右衛門  自明治32年3月14日  至明治35年10月9日
     湯川小兵衛  自明治35年10月24日  至明治37年1月4日
    竹中茂兵衛  自明治37年1月6日  至大正2年5月27日
    浜口八十五  自大正2年6月10日  至大正5年11月25日
    崎山房吉  自大正5年12月9日  至大正8年2月28日
    永井徹  自大正8年4月23日  至大正4年2月10日
    栗原長兵衛  自大正15年3月17日  至昭和4年3月30日
    臨時代理 石井咸一  自昭和4年3月31日  至昭和5年4月5日
    栗原長兵衛  自昭和4年4月4日  至昭和15年8月16日
    戸田保太郎  自昭和5年8月20日  至昭和9年11月10日
    玄後宇一郎  自昭和9年12月21日  至昭和10年4月23日
    岩崎楠二郎  自昭和10年4月26日  至昭和17年9月25日
    戸田勝彦  自昭和17年10月16日  至昭和20年10月11日
    久コ三郎  自昭和20年10月26日  至昭和21年11月7日
    25年10月1日より町長
       五島コ三  自昭和22年4月5日  至昭和26年4月4日
町長  土橋義三郎  自昭和26年4月23日  至昭和30年3月31日

南広村  氏名              期間
村長  宮井重儀  自明治22年5月13日  至明治30年3月15日
      西島新一  自明治30年3月31  至明治38年3月16日
      宮井重儀  自明治38年3月31日  至大正2年3月21日
      西島新一  自大正2年4月4日  至大正6年3月16日
      直山政吉  自大正6年4月1日  至昭和16年3月25日
      衣川文一  自昭和16年3月26日  至昭和21年4月21
      新古勝  自昭和21年4月22日  至昭和21年11月7日
      栗原吉雄  自昭和22年4月9日  至昭和30年3月31日
      
 津木村  氏名             期間
      村長  古垣内安兵衛  自明治22年4月  至明治33年5月
      岩崎市右衛門  自明治33年5月  至明治41年4月
      柳淵幸太郎  自明治41年4月  至明治44年10月
      森兵四郎  自明治44年11月  至大正元年11月
      栗田安龍  自大正元年11月  至大正5年12月
      丸畑雄治郎  自大正6年1月  至昭和22年3月
      栗田信龍  自昭和22年4月  至昭和26年3月
      
      東谷幸太郎  自昭和26年4月  至昭和30年3月



以上、旧3ヶ町村歴代村長および町長の下に、その補佐役として助役を置き、歳出歳入担当者として収入役が設けられた。さらに、行政事務遂行のために各種の係を設け、それぞれ書記を配した。然し書記の人員上2〜3の係を兼務するというのが普通であった。

旧町村当時における役場の係
会計(収入役)、議事、戸籍、兵事、学事、税務、勧業、統計、地理・土木、衛生、選挙、配給係等。
(町村によって多少の相違があったが、大体右の如き係が設けられていた。尤も兵事係は敗戦後改廃され、配給係も物資統制配給制度に基づいて置かれたものであったから、その制度が廃止されたに伴い、この係も改廃された。

町村自治行政執行機関としての町村役場組織は、大体、以上の如くであったが、この決議機関として村議会があった。明治22年以降の旧3ヵ町村の議会の議員中、現在氏名不詳となっている分もあり、掲載を見合わせざるを得ない状態である。はなはだ重視すべき機関の構成員であるが、不明の分あるからにはやむを得ない。昭和30年町村合併以降の分は悉く判明するので、後述において掲載することにしたい。
ところで、明治22年、旧来の村々が、新設村内の大字とされたので、村治の末端機関として、また、各大字内の自治機関として、それぞれ区長を置いた。現在もなおその方法を継承していることは、改めていうまでもない。
なお、ここで付記すると、明治22年、新村発足当時の役場は、それぞれ前記の場所であったが、その後、広村役場は広養源寺西側の町角に、南広村役場は上中野の広八幡神社上手に、津木村は下津木寺杣 (広川町役場津木支所の場所)に移建された。広は昭和25年町制を布いた頃、現在広川町役場となっている県道昭和通りに庁舎を移した。
昭和20年、日本は太平洋戦争に敗戦を喫し、連合軍の占領下に置かれた。そして、あらゆる従来の制度や組織が民主々義の方向に改革された。この改革で昭和21年町村長公選となった。

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3 広川町の誕生から現在まで


第2次大戦後、町村財政の破綻を克服するため、政府は昭和28年(1953)町内合併促進法を発布した。
この法令に基づき昭和30年(1955)4月1日を期して、広村、南広村、津木村の3ヵ町村が合併し新たに広川町誕生となる。その時、広町役場庁舎に増築を施し、新町庁舎として発足を見た。旧町村の町村長が辞任して、新町の首長公選が行なわれ、明治22年以来袂を分かち、それぞれの途を歩んできた旧縁の3町村が、再び1つの町名のもとで新時代に向かって出発することになった。
まず、初代広川町長から氏名を挙げると、次のとおりである。


広川町長氏名  期間
  栗原吉雄    自昭和30年4月30日  至昭和34年4月29日
  岩崎楠三郎  自昭和34年4月30日  至昭和38年4月29日
  平井正三郎  自昭和38年4月30日  至現在
         (註)平井正三郎3期連統当選、任期昭和50年4月29日まで。

次に広川町助役及び収入役を挙げよう。
広川町助役氏名  期間
  奥喜義  自昭和30年6月30日  至昭和34年6月29日
  平井清次  自昭和35年5月7日  至昭和38年4月26日
  西川重二郎  自昭和39年5月7日  至昭和43年5月6日
  奥秀治  自昭和43年5月22日至現在(任期47年5月21日)

広川町收入役氏名  期間
  柏角治  自昭和34年5月23日  至昭和35年4月5日
  衣川文夫  自昭和35年5月7日  至昭和41年1月24日
  平井清次  自昭和41年2月11日  至現在(任期49年2月10日)


さて、町村合併以降の広川町議会議員を左に挙げて参考に供したい。町政議決機関たる町議会の構成員として、はなはだ重要な任務と責任を有した人達、現に有する人達の氏名は左記の如くである。
昭和30年4月1日、町村合併心上,2、新9云川町誕生的時、宏町、南宏村、津木村旧3力町村議会議員は、特令により同年9月12日まで任期が継続された。それで、この時の議員氏名から挙げることにする。

広川町発足当時の町議会議員氏名
丸山コ太郎、田上勝、竹中常吉、藪内弁一、藤本弥太郎、林谷五郎、藤本長太郎、木村稔、新垣善次郎、山本庄太郎、藤本馬一、川口梅吉、畠中太助、上川清治、寺村久一、森政次(以上旧広町)

前川榮一、池田直吉、山本長一、藪三四治、楠本謙一、竹中榮一、溝上松次郎、久保金二郎、中沢貞次郎、山口善一、伊藤榮三、山本清照、植山芳蔵、池水大、中平健一郎(以上旧南広村)

畠山義雄、古P甚一、赤堀市楠、冲幸吉、硲口房吉、広畑武一、丸畑幹雄、西一雄、岩橋与四郎、芝崎由雄、寺杣定楠、平硲松楠(以上旧津木村)

新町発足後初の公選は、昭和30年9月に行なわれ、その結果左の議員が選出された。定員22名。任期は昭和30年9月26日から同34年9月25日までの4力年間。
竹中永一、上川清治、西一雄、梅本長一、大野駒藏、萩平重三郎、木村稔、中平健一郎、岩本昌俊、丹台喜一、栗山文一、西本鶴義、岩鼻栄次、舟P勲、中沢貞次郎、新垣善次郎、山本長一、石川秀一、井窪秀雄、冲幸吉、戸田コ太郎

右のうち議長は木村稔、西一雄昭和31年3月2日死亡。岡本秀雄補欠。

昭和34年9月改選。任期生同年9月26日力占昭和38年9月25日主心。
畠中太助、関口進、大橋久雄、山本清照、中沢馬三郎、北山茂、岡久雄、藤本馬一、竹中信親、池永大、田中福寿、戸田善三郎、栗山文一、西岡久五郎、栗原善太郎、梅本長一、議長は戸田善三郎 (34年〜36年)、池永大(36〜38年)

昭和38年9月改選。任期は同年9月26日から同42年9月25日まで。
畠中太助、栗山文一、岡久夫、大橋久雄、藤本馬一、中沢馬三郎、梅本長一、星畑照、山田勝之、福惣吉、森秋次郎、中平亀、伊藤泰二、古垣内宮次、丹台喜一、岩崎多喜男 議長は畠中太助。

昭和42年9月改選、任期同年9月26日から同46年9月25日まで。
畠中太助、岡久雄、大橋久雄、森秋次郎、丹台喜一、溝畑義次、藤本馬一、成相正美、崎山政千代、芝野茂雄、岩崎多喜男、大野駒蔵、勝田稔、池永大、久保田信雄、一ノ瀬正太郎。議長は畠中太助、副議長は岡久夫。

追録。昭和46年9月改選。任期同年9月26日から昭和50年9月25日まで。
大西幸信、畠中太助、土岐茂雄、西岡文雄、大西正三、中塚政助、大橋久雄、溝畑義次、古瀬甚一、岩崎ゆき江、大野駒蔵、岡久雄、一ノ瀬正太郎、牛居良平、竹中保、萩平重三郎。議長は大橋久雄、副議長は溝畑義次


次に広川町行政機構について簡単な表を掲げて参考に供したい。
(1)町村合併当時の行政機構(昭和30年4月1日)


各種委員会
  教育委員会
  選挙管理委員会
  農業委員会
  固定資産評価委員会

(2)行政事務の集中合理化(昭和35年11月)事務の集中合理化のために課の統合を行う。



各種委員会
  教育委員会
  選挙管理委員会
  農業委員会
  公平委員会
  固定資産評価審査委員会

(3)行政事務の専門化 (現在)
事務の激増と行政事務の専門化 (現在) 
事務の激増と行政の複雑に対処し、高度な行政事務の必要性から課を分け専門化をはかる



各種委員会
  教育委員会 事務局 学校事務 給食センター 文化財保護員会
  選挙管理委員会
  農業委員会
  公平委員会
  固定資産評価審査委員会
  議長 議会事務局


以上で行政史編の項を了したい。行政の内容まで立ち入って叙述し得なかったが、範囲が非常に広範にわたるので省略したことをご了承願いたい。

<上巻 終了>」
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