広川町誌 下巻(3) 文教篇

文教篇


  その1
    1明治以前
    2明治以後
    3旧制耐久中学校の沿革
    4広川町各小学校の沿革
    5広川町小学校の現状
    6新制中学校の発足
    7広川幼稚園の沿革
    8広川町学校給食センター
  その2
    1広川町教育委員会
    2広川町の教育方針(昭和45年度)
    3広川町の社会教育について
    4広川町における同和教育(試案)
  附録

 広川町誌 上巻(1) 地理篇
 広川町誌 上巻(2) 考古篇
 広川町誌 上巻(3) 中世史
 広川町誌 上巻(4) 近世史
 広川町誌 上巻(5) 近代史
広川町誌 下巻(1) 宗教篇
 広川町誌 下巻(2) 産業史篇
広川町誌 下巻(3) 文教篇
 広川町誌 下巻(4) 民族資料篇
 広川町誌 下巻(5) 雑輯篇
広川町誌下巻(6)年表

文教篇


文教篇  その1


1 明治以前


―主として庶民の教育についてー
わが国の学問や芸術は、外来文化(主として仏教や漢学)の伝来によって高められたといえるであろう。以後、大陸文化の影響を受けつつ学問芸術の伝統は時により消長はあったが、それ相当の発達もしてきたが、しかし、もともと学問や芸術は一般庶民のものではなかった。それぞれの時代の権力者や貴族、僧侶のものであったといっても過言ではあるまい。大宝令学校の制に大学や国学の制度があったが、これは貴族、上級官吏らの子弟のものであり、下級官吏や庶民にとっては縁の無いものであった。僧侶として寺に入ったものもその出身の家の階級や身分によって学問も自由ではなかったほどである。
中世戦乱暗黒の時代は、学問教育など荒廃したが、ようやく公卿や僧侶(学僧)たちの手によって学問の命脈を保っていたに過ぎなかった。やがて武家の世になり室町文化による概して平易な民衆の文学ともいえる連歌や俳諧、狂言の如きものが発達したが、これも当時の特権階級に属する人たちのものであった。徳川の世になり天下は平定され文教にも力を入れたが、それも武士階級のものであり、封建制度を推持して行くための1つの手段でもあった。
わが地区の昔の学問や教育のことについては、具体的なことは不明である。ただ言えることは、僧侶や神官、医師や武士、土豪などの身分の人々は、ひと通りの学問技芸は修業したであろう。また、これらの人々について伝授を受けた者もあったことであろう。いかに草深い田舎であっても多少の文字ある人がいて子弟にそれを伝えたことであろう。それは学問とまでは行かなかっても、指導的な地位にある人たちは一応の読み書きの出来ることは必要であった。
江戸幕府の文教方針は、一般百姓庶民が学問などをして「眼を開く」ことは為政者側にとってはあまり好ましいことではなかった。「民をして知らしむべからず、依らしむべし」がその根本にある考え方であった。それはつまるところ、封建社会を維持していくには、理屈や文句なしに、ただ黙々として働く庶民でありさえすればよいので、百姓も町人も機械のように生産活動に従事して、年貢さえとどこおりなく納めて、支配階級である武家の生活をささえていくことのみが要求されたのであった。そしてそのように教化したのである。
ところがその封建制度の下でも、社会生活が発展していくにつれて、商業資本主義が発達してくるのは社会進化の当然のなりゆきであって、その結果として農村の商業化、手工業化に伴って、庶民の間にも、せめて読んだり書いたり計算したりすることぐらいは身につけておかねばとの要求が起こっている。つまり、百姓するにも商売するにも、読み書きそろばんぐらいは必要になってきたのである。といっても百姓と商人とくらべてみると、商人はその商業活動の必然性から、読み書きそろばんは絶対に必要であるが、一方百姓や漁民の方は日常生活上さほどにまでの必要性の少なかったことは事実である。村役人にでもならぬ限り、また大地主でもない限りそうたいした読み書きもいらなかったわけである。それにしてもやがて、文字を学ぶという風潮は百姓町人の上層部から次第に浸透して行って「字」の読めぬ者は「あきめくら」とさえ言われるようになってきたのである。この庶民の要求によって自然発生的ともいってよい教育機関が即ち「寺小屋」であった。「寺小屋」は、初歩の読み書き計算を教える初等教育であるがそれは第1あくまでも実用本位のものであった。寺小屋教育そのものの歴史は相当古いようであるが、それが都市村落あまねく普及しだしたのは、江戸中期以後からといわれている。勿論これにもピンからキリまであって、都会では百人を越える寺子(筆子とも、生徒のこと)をもっていて多少組織化された経営をするところもあったが、たいてい多いところで3、40人、村々ではせいぜい10人ぐらいもあればよいところであった。寺小屋は「制度」ではないから、当局から特別な保護や監督があるわけでなし、教科内容や時間数なども自由であり、就学区域が定まっているわけでなし、附近の子供たちが集まってくるのだが(もちろん希望者だけ)評判のよい寺小屋へはずいぶん遠くからでも通ってきたものだという。師匠(おししょうさん、おしょうはんなどと呼んだ)は、僧侶(寺小屋なる名称も、寺院で僧侶が文字を教えたのが始まりであるとのところから生まれた名である)、武士(浪人も)、医者、神宮などの人々の中からの篤志家か、それらの人々が世間から依頼を受けて開いたり、あるいはこれらの者が零落して生活の資を得るために開いたものもあった。それでも一般に寺小屋の師近は、社会的地位はよい方で、たとえ貧しい人であっても、衿持をもち厳格なしつけや教授をしたようである。
(江戸などでは、奉行所に寺小屋開設の届けを出せば、百姓町人の出身であっても、名字帯刀が許されたとも伝えられている。)寺小屋へは親が子を連れて寺入り(入学)を頼みに来るのだが、数え年8才ぐらいから始められた。授業は、なんといってもまず第1に手習(習字)、素読(本を読むだけ)、それにそろばん。方法は反復練習のいってんばり、毛筆で、草紙(半紙を栽した帳面)に、余白の無くなるまで紙が真黒くなるまで書く。素読は「読書百辺意自ら通ずる式」の丸暗記。そろばんは、加減乗除の「99」の暗記を徹底的にたたき込んだ。寺小屋用の教科書という特別なものは無かったが、都会などで武家の子弟を対象とする寺小屋と、町家百姓の子を対象とするところでは、その教科内容も変わっていたが、たいてい「名字づくし」(人名を書く)「村名づくし」(村名を書く)「国づくし」から、実語教、童子教、百姓往来、庭訓往来、消息往来などで、よほど進んだところで4書5経の素読、女の子には「女大学」や「百人1首」、高等なところで「古今集」などであった。習字は師匠が自ら「いろは歌」や、漢字など適当な文句を選んで書いて手本としてあたえ、これを手習うと同時に暗記させた。教える場所は、僧侶師匠は寺院の1隅で行なったであろうが、その他は師匠の自宅が即ち教室であった。
授業時間は午前午後それぞれ2〜3時間で午前中に終われば「ヒル上り」午後にまで及べば「ヤツ上り」といった。何ヵ年で卒業ということはなく、半年でも1年でもそれは自由であり、寺入りの年令も実はまちまちであった。しかし中には5年も10年近くも通って、師匠の代りに下級のものを教える者もあった。自分より先に寺入した者を兄弟子(あんでし)といった。師匠に対する謝礼は、月はじめに白米1升ほどを持参し、盆暮には祝儀の贈物をし、また4季それぞれの出来物を届けたりした。だから寺小屋といえどもやはり貧家の子弟には縁遠いものであったし、また女の児は男の児より就学がうんと少なかった。寺小屋同窓の友は「寺朋輩」(てらほうばい)といって、大人になってからも特別になつかしがったという。
以上は一般庶民の子弟教育の概観であるが、これらはあくまで初歩的で、日常生活にすぐ間に合う実用本位のものである。学問を志す者は「笈を負うて」上京遊学、学者の家塾に入って勉強したのである。なお、町家では商業の発達により資本の蓄積を生み、やがては大富豪の旦那衆が出て、そのなかには深く学問に心を寄せ、芸術を愛し町家出身の学者や文化人も多く現われるようになってくる。つまり生活の余裕が学問文化へと向かわせたのである。

わが広や湯浅には、こういった人が多かった。(もちろん町家だけではなく豪農や網元も例外ではない)わが紀州藩は、比較的学問文化に力を入れ学者も割合に優遇されたし、藩校もつくって教育には熱心であった。でもそれはあくまで士分に対してのことであり、一般庶民にはかかわりの少ないことであった。なお女子は裁縫が大切な技術であるので、母や祖母から手ほどきされ、後はこれを教えるお針(裁縫)上手な婦人の宅に通って習得したのだが、世間ではこの家を「ぬいや」と呼んでいた。この「ぬいや」の女師匠が、寺小屋を兼ねて簡単な習字読書を教えたり、人によっては茶や花や作法なども教授した。しかしたいていの「ぬいや」は若い娘が大勢集って、にぎやかに世間話や若衆のうわさなどしながら面白く楽しく縫ったという。(この「ぬいや」は、明治に入って学校教育を受けるようになってからもずっと継続しているし、現在でも多少その傾向は残っている)。一般に女は「紺屋」(染物屋)のつけ(請求書や受取書の類)が読めたらそれで充分といった風であまり深い勉強はさせなかった。それでもこの「ぬいや」だけはたいてい通ったようである。
わが広川地区は、各地域とも寺院の僧侶がほとんど寺小屋を開いて村童の面倒をみていたもようである。以上は故老の話や書きものによって一応表面的な記述をしたものであるが、それぞれの具体的な内容や、年代、師匠の名となると、はっきりと伝たわっているものは少なく、つまりくわしいことはわからない。明治5年に学制が発布され、小学校が開設されてからも寺小屋は続いていたらしく、所によってはそれ以後にも及び、寺小屋があるので学校へ来ないから、よろしく取りしまってほしいと学校側から苦情の出ている地域もあったほど普遍していた。また、家によっては祖父や父が学ある人で、わが子や孫に親しく学問を教えたが、これらはたいてい武家か土地の豪家であった。
広地区は昔から「町」であり、文化人も多く、また他国から文人墨客、武芸者なども来て、やや高級な学問技術を教授した人もあった、それは幕末から顕著になって来ているし、幾多の先覚者も出て郷党を指導している。
また湯浅の町と隣り合っている関係で、好学の同志が相集って文化的教養を身につける機会にも恵まれていたようである。広、湯浅と、郡内でも早くから文化的にも開けた土地柄であった。湯浅には天保のころ、野呂松盧が家塾を開き、嘉永の終りごろから栖原極楽寺13世石田冷雲は就正塾(維新後に敬業塾)を開いた。これらは主に青年層を対象とした学塾であった。また安政のころから、鎌田一窓の流れを汲む心学講舎である有信舎もあったし、この外に家塾を経営する人も相当にいて、広地区からもこれらに通学した有志青少年もあったことである。
広で学塾としてはっきりわかっているもの2、3をあげると、まずある意味では、耐久舎の源流をなすともいってよい居幻舎があった。

居幻舎
わかっている範囲で1番古い学塾であろう。現在の安楽寺は昔「真崎」(今の耐久中学校庭西方松林の辺)にあったが、宝永4年10月の大津波で流失した。その後幾多の困難を克服して再建(元文4年)したのが9代の玉龍師であった。玉龍は(号求古堂)相当な学匠であり、著書も残しているし且つ有名な能書家でもあり、時の藩公から朝鮮奉献と伝えられる木硯1面を貰っている。この人が居幻舎の基を築き、その孫にあたる11代の堅亮師がこれを大成した。堅亮(号松巒)は真宗本願寺派きっての大学匠で、例えば安永4年の「安居」に、本願寺の学林で90日にわたってその講師を務めたというから、その一端が知れる。この人がおそらく居幻舎という舎名をつけたかと思われるが、玉龍の跡を継いで経営し、この学塾には常に2、30人の学徒が常住していたという。(本堂の裏に8畳4間つづきの寮舎があった。)安楽寺に残る「名簿」によると42人の名が列ねているが、これは通学していた者も含めてのことらしい。ここへは県下各地から学徒が集まったが、それはほとんど僧侶か寺関係の子弟が多かったであろう。堅亮がなくなって(寛政9年極月)からの居幻舎は、当然衰微はまぬがれなかったが、12代の泊梁がその子松湾(13代)とともに村塾として村内の子弟を集めて、漢学などを教えたのである。松湾は若くして父に先だって歿したが、菊地海荘、橋本柑園などと詩文の交友であり、梧陵翁より7、8才の年長であった。居幻舎は泊梁が歿する嘉永5年までつづいたが、この教育の伝統は、まもなく生れる田町稽古所――耐久舎へと無言の引継ぎがなされていったと考えられるのである。その後安政の津波で安楽寺も居幻舎も大破壊してしまった。(文中に「真崎」とあるが、これは「松崎」とも言われている同一場所を指す別名で後にはもっぱら松崎と呼ばれるようになったのであるそれで安楽寺の前身を松崎道場というのである。)

佐々木家塾
江戸時代末期(慶応の頃)を追想した梶原氏の井関地図より
    衣川家の寺子屋
 近くにも寺子屋があった。狭い集落でも寺子屋が多く見られる。
わが有田郡は千田神社や立神社(ともに有田市)の社家が中心になって本居学を鼓吹し、本居宣長やその養子大平などもしばしば来郡して神道、国学を伝授していた。その風が郡内各神社にも影響し、広がっていたもようで、わが地区でも津木老賀八幡社の友国家、広八幡社の佐々木家なども、当時両神社とも両部(神仏混淆)の神社で、社僧の勢力が強いと見られる社家であったが、国学の勉強をもしていたようである。佐々木家は代々学問好きの人が多かったようで、早くから村童に手習い読書を授けていたらしく、また好学者に対しては漢籍や易なども教えた人もあった。嘉永4年浜口梧陵らが、田町へ文武の稽古場を開いた時にも、八幡の神官佐木久馬之助(五十鈴)は、そこの教師になっている、其後五十鈴は慶応2年から家塾を、今の田町渋谷氏本家で開いて、それは明治7年まであった。この五十鈴の息子丑之助は明治8年広小学校の前身広陵校が開かれたとき、安楽寺の住持大英師と2人で教師を務めたのである。
年月がはっきりしないのだが、明治初年ごろ津木前田八幡社の神宮寺(今無し)の僧と想像される人が附近の子女に習字読書、茶、生花まで教えたという。人々は「法印さん」と呼んで親しみ尊敬したが今その名が判明しない。この「法印さん」は少し高級なことを教えたらしく、一般村童は同じく前田万福寺で寺小屋教育を受けたが、これが後の津木小学校前田分校の前身になるのである。
そのほか当時の各村(今の大字)の各寺院ではたいてい寺小屋を開いて、村童の面倒をみたことは故老の話しなどでほぼ事実であったろうが、残念なことにその年代や師匠さん、その規模など今のところ一切不明である。
さきにもふれておいたとおり相当高度に学びたい者は、広や湯浅の家塾や、学識ある個人について教えを受けたものと思われる。
これも時代がはっきりしないが、井関の素封家である衣川家で、学問あるお年寄りが居て自宅の長屋で寺小屋を開いていたが、このお師匠さん、たいていの日は本家の大黒柱に背をもたせて、時々長屋の方をジロリと眺めて監督していた。寺子達はそれを恐れて懸命に手習いを続けたという語り草が伝わっている。同じく井関で、西島重兵衛という落武者の子孫だといわれた人が寺小屋を開いた。この時期もはっきりしないが、当時、男山焼がまだ盛んなころで、西島氏は、この窯にも関係した仕事をしたと伝えられているところから、大体の見当はつきそうである。この家は今も続いているが、寺小屋に関する資料は残っていない。
また津木村では明治初年から15、6年ごろまで、細谷養安というお医者さんが居て、医療のかたわら寺小屋を開いて子弟の教育もされたという。この人は他所から来た人であるというが、確かなことは不明である。小学校が出来てから自然廃業になったことだろうが、医療のことは日高郡にまで往診したという。そして、えらい漢学者であったと伝えられている。
時期はうんと下がるが、さきに述べた「ぬいや」で今も記憶されているのは、広の中町に「ごとた」のお師匠さんという婦人は、僧侶のころもや、けさ、なども裁ったというほどお針上手で、ここへ通う娘は大勢いたという。しかし、これは明治も中ばのころのはなしであった。

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2  明治以後


−主として国民教育について−
徳川幕府が倒れ、王政復古の明治維新の新政府が樹立されるとともに、集権的統一国家を構成していくために政府は国民の教育に深い関心をもった。まず欧米の文明に追いつくために、資本主義経済を発展さすために、天皇制教育を徹底さすために、以上ひっくるめて富国強兵の国家に仕上げるために特に初等教育を重視したのである。そのためにはまず世界各国の教育の実情や制度を調べ、制度としてはフランスの教育制度である中央集権制をとり入れ、一方新興国のアメリカの実利主義教育を範とすることにしたのである。そして明治4年7月文部省が設置され、翌5年8月、大政官布告で「学則」が発布された。そこで男女とも6才以上は皆就学しなければならなくなった。
この学制と同時に「被仰出書」が公布された。その中の文句に有名な「自今以後一般の人民をして均しく学に就かしめ、邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」とあって、その主旨を明らかにし、文明開化の波に乗り、欧米先進国にならって義務制の国民教育の体制がしかれたのである。しかし実際のところは、最初から「学制」どおりいく筈はなく、地方では相変らず「寺小屋」であり、または「寺小屋式」であった。
ところで第1「学校」をつくらねばならぬのだが、急に間に合うものでなく、さしづめ土地の寺院などを借用して校舎に充てたが、教育が制度化されるにしたがって一定の条件を備えた校舎が必要になってくる。ところが、学校の建設費から経営費、教員の給料まで全部がその地の「学区」が負担するたてまえであった。もちろん義務制であるので僅少ながら補助金は出た。そのうえ児童には授業料を徴集した。(土地によって多少相違があったが、だいたい米1升ほどで、4銭ぐらい)。教員の給料は月に3円から5円ぐらいで白米で支給されるかお金にするかその時に応じたもようである。
児童が使用する教科書も急場に間に合わせるため、外国書の翻訳や翻案されたもの、学者が編さんしたもの、文部省がつくったもの。そのなかで採択は自由であった。1例としてあげると当時文部省が編纂した「小学読本巻1」に

「凡そ世界に居住せる人に5種あり、亜細亜人種、欧羅巴人種、メレイ人種、亜米利加人種、亜弗利加人種なり。日本人は亜細亜人種の中なり。また、「彼は球を蹴て遊べり、汝はそれを見しや、私は棒を以て球を打つを見たり。其の球は堅きものなるや、これは柔かなる球ゆえ人に当るとも傷けることなし、小児等は球遊びを好めり」また、「此の猫を見よ、寝床の上に居れり、これはよき猫にあらず、私の手を載するときは、猫は私の手を噛むべし、汝は猫の鼠を捕るを見しや」

これを1年生から読ませたのだからたまらない。おまけに明治9年、県は試験条例を出し7月から実施してその結果、おほめの賞を貰う者もいたが、出来の悪いものは落第もびしびしやった。
さて学校費はほとんどその区持ちであったし、新しく校舎を建築する費用もかかるし、大変なことだったが、当時の土地の人望家が、学校世話係りになって無報酬で学校一切の面倒を見てくれたもので、学務委員という名で敗戦まで続いた。地域では名誉ある職であった。学校制度も、初めのうちは一般人の無理解や制度がその土地の実情にそぐわなかったり、実際としては就学児童も50%に満たなかったし、特に女児の入学者がさっぱりであった。小学校義務教育がほぼ軌道に乗り出したのは明治20年代になってからといってよい。その間、当局から幾回も制度改正の法令が出されたが、それが朝令暮改の観があり、義務年限をちぢめてみたり、のばしてみたり、設備を制限したり、自由にまかせたり、干渉したり、放任したり2転3転している。
明治18年森有礼が初代の文部大臣になり、新教育令によって大学、中学、小学の諸学校の系統が整備され、師範学校の改革 (生徒全員寄宿舎に入れ兵営式訓練をした)小学校を尋常高等の2段階として修業年限は各4ヵ年、学齢は6才から14才までとし、尋常科4ヵ年は義務制とする。また地方の状況で3ヵ年の小学簡易科を設けることを認めた。また授業日数や教科目を定め、初等教育の学科課程を定めた。その後、明治23年10月30日「教育に関する勅語」が出て、これを国民教育の根本理念とし、終戦まで続けられてきたのであった。明治25年小学校令実施のため諸法令が数多く出され、制度内容ともに小学教育が確立されやがて教育の国家体制へと展開していくのである。しかし実のところ就学児童はそれほど増加せず、県全体としては明治28年度になってやっと55・40%しかなかったのである。さて小学校は日本津々浦々それぞれの地域によってその規模や施設などの相違はあったが、一応どこの村にも出来たし、就学児童もしだいに増加してきた。国民の関心も高まってきた。それに日清、日露の両戦役の結果、国民教育の必要性を痛感するし、この両役にわが国が勝利したことは益々教育の向上に役立ったのである。小学校の存在はそれぞれの土地において、文教の中心となり、教師はただ初等教育のみに専念するだけでなく、その土地の社会教育の役割も引き受けねばならなくなってきた。たとえば青年団や婦人会などの指導や、また国家的行事などを行なう末端の場ともなった。当時の国の祝祭日の式典なども学校中心に行なわれた。その日になると町村長、区長、学務委員、在郷軍人また青年団や婦人会の代表、土地の有志、駐在巡査まで列席した。どんな式日祭日であっても、まず校長の「教育に関する勅語」を奉読、全員頭をたれて拝聴、国歌「君が代」の斉唱、町村長ら来賓たちの祝詞、校長の訓話がありその内容は、皇室への忠誠、国家への奉公を強調した。それによって軍国主義、帝国主義の思想を植えつける役目を果したのである。また、ほとんどの学校では天皇皇后両陛下の写真を御真影と称して神として崇敬させられた。各学校にはこの御真影を奉載する奉安庫なるものを建設して、登下校時には必ず敬礼したものである。
ところで各村の小学校の位置は、だいたいその村の中心か、それに近い所に設置されていたので、村民や区民の集会所の役目も果たし、種々の会合や行事などにも利用されて、盆踊りや村芝居にまで利用されたりもした。
青年会や婦人会などの会合は必らずといってよいほど学校舎を利用して行なわれた。つまりそれはその土地の人々にとって、学校は自分たちのものという観念が強く、こと学校に関することとなれば地区民一致して協力する気持が強かった。学校を建てたのも、運動場を作ったのも、学校の経費の負担も、みなその地区民の力の結集であったからである。さきにふれておいた学校世話係―学務委員さんたちは直接学校の面倒をみてくれたのであった。
また学校の行事のなかで、秋の運動会や冬の学芸会の開催は、先生も児童も力の限りを発輝して行なわれ、父兄や一般人も、これらの催しを大変な期待と楽しみの心でむかえたし、自らも参加したりして興を添えた。特に娯楽の少い土地では、村祭りと同様、重大な年中行事であり、学校と地域社会との関係を深める役目を果たしたものである。時には多少の行過ぎもあって(はでになったりショウ化したり非教育的な面もあって)批判されたこともあったがその都度反省して、現在も新しい教育観点から、やはりたいていの学校では挙行されている。名称も運動会が体育会、学芸会が文化祭といったものに変ったりして、その内容も多彩になり、また近隣の学校と共同で行なうこともある。これらは最初のころとその内容や意味は変ってきているが、学校と地域、児童生徒と父兄保護者とのつながりのうえで大切な役割を果たしていることには変りはない。


3  旧制耐久中学校の沿革


−耐久社から耐久中学校へ−

わが広川町では、現在その教学の基本精神の範を浜口梧陵翁の心とその事業とを理想としてとっている。自らを修め家業を振興しつつ時には身をもって国事に奔走し、また郷党を指導し、人をも助け、絶えず新しい考えを摂取し続けた翁であった。耐久中学校は梧陵が中心となって創立したもので、その始めは広の田町に開いた稽古場に端を発し、それから耐久社――耐久学舎――私立耐久中学校――県に移管されて県立耐久中学校として終戦までに到るその永い校歴は、とうてい簡単には記すべくもないが、追懐を主として略述することにする。なお内容が一貫した記述ではなく断片的なものの寄せあつめの如きものになっているが、時によってまた興趣もあろうかとこんなかたちをとったのでお断りしておく。

徳川末期、綱紀は紊乱し、士気は頽廃して、封建制度の将に反解せんとする時、更に外政的には異国船しきりに来り、或は通商貿易の目的を以て、或は侵略を内蔵して長崎その他の港湾、海岸に迫り、辺海漸く多事、外交の危機将に迫らんとする時、国論統一せず、また国防の任に当るべき武士階級は殆んど其の本領を失って萎微頽廃、今や全く頼むに足らず、目下の急務は国民を指導開発して国家有事の日に備うるに在りとなし、夙に三宅良斎と交わり、佐久間象山の門に出入し、或は勝海舟と住来、他方郷士の先覚菊地海荘等と共に国防問題を論じ、愛国の至誠を懐いていた浜口梧陵は、嘉永4年8月8日崇義団を起こした。次いで翌嘉永5年有志浜口東江、岩崎明岳と相計り、国家有事に奮起すべき人材養成の理想実現への第1着手として、まず郷党における子弟の教育を始めんとし、広村田町に稽古場を開き、村内の青年子弟を集めて其の教育に着手した。これが耐久中学校の起源である。当時稽古場を新築する暇がなかった為、田町の吉田慶蔵の裏納屋を以て之に充てた。したがって其の外容は甚だ振わなかったが、創業の意気に至っては実に旺んなものであった。時に梧陵は33才、東江は53才、明岳は23才であった。剣道指南として、田辺の藩士沢直記を聘し、梧陵自ら槍術を指南、佐々木久馬之助(五十鈴)は漢籍を講じた。





安政元年沢直記辞して後任に当時20才位の海上胤平(六郎)を聘した。海上胤平は千葉県の人で山岡鉄舟、千葉周作に剣法を学び、当時全国を遍歴して箕島の田中善右衛門の道場に留って剣道の指南をしていたのを特に請うて耐久に聘したのである。漢学には緒方洪庵の紹介により小野石斎が来て教鞭を執っている。この年の11月5日7ツ時(午後4時)強震あり、黄昏に至り海嘯襲来して、広村一帯は泥海と化し、甚大なる被害を受けたのである。梧陵は村民救済の為に巨額の私費を投じ、4年の歳月を費して大防浪堤を築造し、荒廃した村の復興に没頭し、その間安政2年浦組を組織、また、1時閉鎖された稽古所も、いくばくもなく開かれ、学問の途も再び興ることとなった。慶応2年、稽古所を広村大道、安楽寺東側に移転増築し、永続を誓って耐久社と称した。この時掲示した「耐久社」の扁額は菊地海荘の揮毫で、浜口松塘の刻になったものである。現在耐久中学校校長室に保管されている。
慶応4年4月博学をもって知られた極楽寺の住職石田冷雲来りて漢籍を講じたが、当時は社生は20名に過ぎない状態であった。翌明治2年石田冷雲民政局教学所教頭となり、代って岩崎明岳が論語古訓を講した。明治3年校舎を改築し、撃剣の指南として新たに田中八十吉、中村嘉右衛門等を聘し、また安楽寺住職浜口松塘をして、専ら教育の任に当らしめ、10月には教育方針として「学則」を定めた。これは紀州藩校「学習館」の社則をそのまま耐久の学則ともしたものであって、現在耐久高校校長室に保管されている。また生徒心得として「掲示」を発表した。これは現在耐久中学校記念館に保存されている。何れも古田詠処の揮毫である。
明治9年再び石田冷雲来りて漢籍を講じたが、同12年石田冷雲辞し、明治13年より松本徳行、桑村元慢、桑村彦雄等を聘し、明治15・6年の交には湯川秀樹博士の祖父に当る田辺藩士浅井篤来り、漢学の教師をされた。明治25年3月、浜口吉右衛門(容所)、浜口儀兵衛(梧桐)、岩崎重次郎等相語り、時勢の変遷に鑑み、舎員を募って維持の方法を立て、教則を規定し、漢学、英学、教学等の普通教育を施すこととし、「耐久学舎」と改称した。なおこの年野田四郎が舎長となり、浜口時丸を教頭とし、本科3学年、予科、普通科を設け、英・漢・数を授けることとしたが、同年7月別に温習科を置き、また本科は英・漢・数の外に、歴史・地理・薄記・法律・論理等をも教授することとした。明治27年3月より予科を廃した。 また浜口時丸教頭を解任し、伊東温教頭となったが、9月伊東温辞し、大島常枝が教頭となった。而して学科には日本歴史・習字・経済を本科に加えた。明治28年、別科を廃す。また、この年の5月19日第1回の卒業式を挙げている。3月大島常枝辞し、狩野広崖が来任して教頭となっている。明治29年、生理科を第3学年に加えている。明治30年。予科を再興す。なお、3月野田四郎舎長を辞し、浜口吉右衛門(容所)舎長となった。この時の教師は狩野広崖・妻木僧鴨・浜口恵璋の3人であった。明治34年。予科及び研究科を廃し、入学程度を高等小学第3学年を修了したものとし、物理学及び東洋歴史を第2学年に加えた。この年、佐々木定信、若林初太郎、雑賀貞浄が、加わり先年、妻木僧暢退いて、職員は5名であった。明治35年法制及び経済を第2学年・第3学年に置き、物理学を第3学年に教授することとした。
明治36年には修業年限を4ヶ年とし、一般中学に於いて5ヶ年間に修得すべき課程を終えしめ、且つ第4年級を2部に分かち、其の第1部は一般中学と同じく各種高等専門学校に入学せんと欲するものを教導し、第2部は卒業後直ちに実務に従事せんとするものを養成することとした。この年テニス部誕生し、また浜口恵璋氏が作歌し、「金剛石」の楽譜を附して「校歌」が出来、明治37年4月8日に始めて発表された。この年入学した者は72名であったが、途中退学する者多く、卒業し得た者は28名であった。明治37年、宝山良雄本校に聘せられ、宝山良雄は東大文科を卒え更に米国エール大学に学び、欧米視察の旅行を終えて帰朝間もなかったが、東京朝日新聞社主筆杉村楚人冠の推薦により、耐久に来任されたのである。この年3月中学校令に準じて学則を定め、修業年限を5ヶ年とした。また浜口容所舎長を辞任し、宝山良雄が舎長となった。教育の基本方針として「真・美・健」の3綱領を定めた。7月に東久世通禧侯が来舎され9月には文部省視学官中川謙二郎が視察に来られた。38年学習院を中退した野村太郎と、現在田辺市在住の圃中 (堀江)忠太と野球部長渡辺運治先生の息子辰雄等が中心となって、野球部を創めた。
明治39年3月17日文部省告示第50号を以て徴兵令第13条により認定せられた。同年4月には正4位徳川頼倫侯が陸軍中将茨木維昭男爵と共に来校されている。同39年6月16日文部省告示第139号以て専門学校入学者検定規定第8条第1号に依り、専門学校入学に関し、本校卒業者は中学校卒業者と同等の学力を有するものとの認定を受けた。同39年9月従来大道にあった校舎は、生徒数の増加、教室の増築により狭隘感じたので、西の浜に新築しここに移転した。これが現在の校地である。明治40年3月10日米国エール大学教授哲学博士勲3等G・T・ラッド博士夫妻が来校され、午前は生徒に対し、午後は郡内教員に対し講演があり、記念として博士は楓樹を、夫人は桜樹を植えられた。明治41年1月学舎の組織を変更して、中学校令の規定により設立することとなり、私立耐久中学校と改称、同時に浜口吉右衛門独力にて経営することとなり、同氏が校主となった。依って3月新規定による第1回卒業証書授与式を行なっている。同年11月23日文部大臣小松原英太郎が視察され、関西第1の中学校と賞讃された。大正2年2月14日宝山校長辞任し、後任に文学士香川直勝が校長に任ぜられた。同12年12月11日校主浜口容所逝去せられ、嗣子乾太郎(無悶)が校主となった。大正5年5月9日香川直勝、不測の事故にて校長を辞任、教頭近藤寿治は校長事務取扱に任ぜられた。次いで大正6年6月17日、旧校舎の増改築竣工を期とし、改称10周年並びに新築落成式を挙行し、同日を以て近藤寿治が校長に任ぜられた。大正9年校主浜口吉右衛門は時勢の推移と共に、耐久の将来につき深慮あり、耐久を県立に移管することとし、寄附届と共に現金5万円を添えて出され、4月1日附を以て県立耐久中学校となった。
大正11年11月5日本校創立70年記念祝賀式を挙行、午後講堂にて京都大学教授理学博士小川琢治氏の「東洋文化と西洋文化」と題する講演があった。大正14年8月水泳同好会を作り、最新式泳法クロール・ストロークを天州の浜や、広川口で練習、高石勝男氏をコーチとした。大正15年11月21日新築寄宿舎(建坪123坪、7室)の落成式を挙行。大正15年9月12日朝山竹松を理事とし、水泳部設立記念事業として、苅藻島、湯浅間約1里半の第1回遠泳を実施した。昭和3年秋10月多年の念願であるプール建設が、野田省吾の率いる部員一同の手で開始され、部員、先輩、生徒、職員、校友、地方有志の寄附により昭和4年春完成をみた。昭和8年5月7日創立80周年記念式挙行さる。
昭和11年従来田町裏にあった耐久社記念館を御大典記念植物園の1隅に移転し、その落成式を4月26日挙行。同年7月3日雨天体操場が竣工した。この年の生徒総数は405名であった。昭和7年5月9日創立90周年記念式を行なう。昭和22年現在の教育基本法により6・3・3制の施行と共に、生徒及び卒業生は現県立耐久高等学校に移管され、西の浜の校舎は5月3日新たに広川町立耐久中学校の創立と共に、その一切を引継がれた。昭和31年8月1日、さきの昭和21年12月21日の南海大津浪による損害の特に甚しかった耐久社記念館を校門横に移転竣工した。昭和33年4月1日耐久社記念館は、和歌山県教育委員会より史蹟の指定を受けた。昭和36年12月14日、さきの南海大津浪に損傷甚しかった旧校舎本館を、鉄筋3階建に改築することとなり、これが起工式を行ない、昭和38年4月23日竣工式を挙行した。昭和42年1月31日校庭に、浜口梧陵翁の銅像が建立された。総工費600万円、製作は日展審査員木下繁氏である。
最後に創立以来より6・3・3新学制にいたるまでの間の経営者、舎長、校長の氏名を記しておくことにする。

名称       年次
広稽古場  嘉永5年〜慶応元年
創立経営者  浜口梧陵
創立経営者  浜口東江
創立経営者  岩崎明岳

耐久社   慶応2年〜明治24年
経営者  浜口熊岳
経営者  浜口悟荘

経営者  岩崎静斉

耐久学舍   舍長  浜口松塘  (明治初年)
明治25年〜明治40年
舍長  野田四郎  明治30年迄
舍長  浜口容所  明治37年迄
舍長  宝山良雄  明治40年迄

私立耐久中学校  明治41年〜大正8年
校長  宝山良雄  大正 2年迄
校長  香川直勝  大正5年5年迄
校長  近藤寿治  大正8年迄

県立耐久中学校  大正8年〜昭和23年
校長  近藤寿治  大正11年迄
校長  松扉得悟  大正13年迄
校長  酒井宋太郎  昭和12年迄
校長  瓜生兵吉  昭和15年迄
校長  広P美造  昭和13年迄
校長  佐藤定一  昭和17年迄
校長  淹田 謙治  昭和21年迄

校長  松下正男  昭和23年迄
以上

校歌(旧耐久中学校)
浜口恵璋作詞(金剛石の曲による)
1、 たたふる波も那耆の海
たなびく雲や生石山
わが学びやは礎を
嘉永の昔ここに置き
耐久学舎の名と共に
幾年月を過ぎにけり

2、 3世に輝くのりの道
徳を修むるもととして
慈愛の心たたへつつ
自由の里に身をきたへ
智能をひらき国のため
人のためにもいそしまむ

3、 学びの庭に集ふなる
わが友だちよいざ励め
はげみ進みて久しきに
耐ふとふことを忘れざれ
道義の山は高くとも
真理の海は深くとも

31会歌
1、 黒潮たぎる紀伊の海
松ときはなる那耆の浜
吹く潮風に雄々しくも
そびへて立てり耐久舎

2、 歴史に栄ゆる学舎の
礎遠し嘉永の代
英偉のこころ今もなほ
我等が胸によみがへる

3、 ああ南海の健男児
正しく強くうるわしく
鍛へ磨きてとこしへに
輝かさなん三星章

寮歌
1、 波の花さく海の岸  緑したたる松の影
君泉流を汲めとかや  歌ふ健児のこもりたつ
名も耐久の寄宿寮

2、 春は野山に花をとり  秋は入江に船うかべ
蛍の光窓の雪  互に学び語らひつ
たのしく遊べ那耆の里

3、 薪割る手に火花散り  つるべ汲む手に霜白し
自らかしぎ又学び  理想の自治に進むなる
名も耐久の寄宿寮

4、 いらかのとくる夏の日や  池水凍る冬の朝
追ひつ追はれつ体をねり  たとひ其身を倒るとも
折れずにたゆまぬ健男児

5、 真と健美の3の道  深く我等の胸にひめ
独立自治の旗を上げ  日本男子の範となり
高くかざせや月桂冠


右の寮歌は寄宿舎生のものであり、家から通学する者には縁の少ないものであるが、聞きおぼえてよく口にしたものであった。歌詞の通りの日常であったことは後に出す「中学時代の思ひ出」の文意にそっくりのもので、旧い校友にはなつかしいものであろう。なお、いまわしい思い出として、戦時中もとの懐しいあの「たたふる波も那耆の海」の校歌にまで当局の干渉の手が伸びて、歌詞を変えよの、曲が悪い(金剛石の歌曲)のとなんくせがあったので、これを第1校歌としてそのままにし、別に第2校歌なるものを作ったいきさつがある、あえてここえは載せないがこの校歌など今は知る人も少いであろう。 (昭和17年5月創立90周年に発表したもの。)

(参考)耐久社
掲示
1、今般耐久社教場造立二付村中子弟入塾修文学講武道最可為専務且虚文華芸を省総而実用之修行是亦肝要之事
1、子弟入塾之義者名ニ父兄之差図に随総而自巳之了簡に為任申間敷事
1、塾中別而礼儀正敷いたし且先進者後輩を教誘し後進者先輩に随順し若過失有之節は相互に規諫相加平生共和塾肝要之事
1、塾中席順序年歯可申但稽古之節は先進を上に立可申事
1、塾生中他所にては別而謙謹を心懸可申物識顔などして自然鹿暴之言行に及汚社名候様之儀必有之間敷事
1、常式之外新規之義は何事に不寄社長之差図無之而者猥に執計申間敷
1、入塾修行之義誰人に而も不苦趣意に候得共社長に無断猥に出入為致間敷事
1、塾中煙茶之外飲食之義猥に取扱間敷事
1、稽古中傍にて高声雑話者勿論平生共無益之閑談有之間敷事
1、名々書籍稽古道具共丁寧に取扱且他人之道具猥に遣間敷事
右之条目堅可相守事
明治3年午10月

耐久社社則(参考)
耐久社規則
第1節  該社ハ有志相集り文学ヲ研究し世務ヲ諮詢シ智識ヲ煥発シ情交ヲ厚フスルヲ以テ目的トス
第2節  朝野雅俗ヲ問ハズ貧富貴賤ヲ論ゼズ且居常読書ノ閑暇ナキ者ト雖トモ篤志ノ人ハ皆入社ヲ得べシ

第3節  該社ノ法ニ従ヒ入社スル者ヲ社員ト云フ

執事
第1節  社中ノ事務ヲ司掌スル者ヲ執事ト名ク
第2節  執事ハ社員中ニ就テ投票ヲ以テ撰挙スル左の如シ
社長  1員
副社長  1員
幹事  1員
副幹事  1員    副幹事  1員
第3節  社長ハ大小ノ会議二於テ衆議ヲ断決シ且該社一切ノ事務ヲ総轄ス
第4節  副社長ハ社長ヲ輔佐シテ大小ノ事務ヲ司掌シ社長欠クルカ又ハ不在ノ時ハ其事務ヲ代理ス
第5節  社長副社長ノ任期ハ1ヶ年トシ社長ハ仮令疾病旅行中ニテモ其責ヲ有シ社長副社長共2不在ノ時ハ投票ヲ以テ副社長ヲ撰挙ス
第6節  幹事ハ社長副社長ノ指図ニ随ヒテ諸般ノ事務ヲ措弁シ専パラ金銀ノ出納簿冊ノ記録有品ノ監護ヲ掌リ庶務会計ノ報告ヲ為スベシ
第7節副幹事ハ副社長ノ如ク常ニ幹事ヲ翼ヶ事務ヲ執行ス

教授規則
第1節  社中教ユル者ヲ教員ト云フ
第2節  教員ハ教授規則ニ従テ業ヲ授ク

第3節  学業ヲ級外級内ノ2科ニ分ヶ級外終リテ後ニ級内科入ラシム
第4節  級外科ブ大人童子ノ2様2分ヶ年齢14歳以下ノモノハ童子科ニ入ラシム
第5節  童子ハ小学3級生以上ニアラザレバ入社ヲ許サズ
第6節  毎月1次既読ノ書ヲ以テ試験シ平日ノ勤惰ヲ照準シテ其名順ヲ改定ス
第7節  毎月1回詩文1編ヲ作ラシメ之レヲ正刪ス
第8節  毎期ノ末ニ未ダ読マザルノ書ヲ以テ大試業ヲナシ等級ヲ改定シ昇降表ヲ編成ス
第9節  1年ヲ分ツテ2期ト為ス則1月7日ヨリ7月20日 マテヲ1期トナシ8月11日ヨリ12月25日マデヲ又1期トナス

会合
第1節  毎月第3土曜日午後1時ヨリ各員集合シテ演説会ヲ開ク可シ
第2節  毎年5月全社員ヲ総会シ社則ノ改正執事ノ更選本社重要ノ事件ヲ議定シ及ビ前期施行スル所ノ庶務明細書ヲ幹事ヨリ社員一同へ布告ス
第3節  重要ノ時事ニ付ヒテ疑問アル社員同社中ノ演説討論ヲ開カンコトヲ願フトキハ社長ノ許可ヲ得テ之レヲ催スヲ得可シ

社員
第1節  入社セント欲スル者ハ宿所姓名年庚プ詳記シタル名牌ヲ指シ出ス可シ
第2節  毎月月曜日木曜日ヲ以テ入社ノ日ト定ム
第3節  年内大祭日ノ外日曜日ヲ以テ休業トス
第4節  社員若ン退社セント欲 スル時ハ其趣キヲ幹事ニ告グ可シ
第5節  社員若シ社則ニ違背スルカ又社ノ名誉ヲ害スルノ所為アルトキハ共議ノ上退社セシム
第6節  社員、相互ニ謙遜信義ヲ以テ交ル可キコト
第7節  総テ社員タル者ハ相ヒ互ニ往来シテ知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢シ会合ニ出席シ社有ノ書籍新聞紙ヲ読ミ及ビ友人ヲ会合ノ席ニ同伴 スルヲ得べシ
第8節  社中ノ費用ニ供スルが為メ本社2里以内ノ社員ハ毎月15銭宛以外ノ社員ハ10銭ヲ喉出シ幹事へ渡ス可シ但シ童子ハ5銭宛納ムベシ
第9節  第8節社中ノ費用云々トアレドモ社員其家貧シテ鹸出スル能ハザルモノハ此社則ニ依ルヲ要セズ
第10節  社員若シ社費ヲ収メザルコト5ヶ月ニ及ブ者ハ之レヲ退社ノ者ト見做ス可シ
第11節  社員若シ宿所ヲ転ズルコトアレバ其都度幹事へ通知ス可シ

禁戒
第1節  社中ノ費用ハ勉テ省略ヲ旨トシ社員会合ノ節ハ湯茶薪炭ノミヲ用ヒ其他省靡ノ振舞ヲ禁ズ
第2節  時政ヲ妄議シ大人ヲ漫謗シ及ビ長者幼ヲ侮り幼者長ヲ凌グヲ禁ズ
第3節  畳ヲ焼キ或ハ戸障子ヲ大ニ破リタル者ハ幹事ニ就テ其償ヲ払フ可シ
第4節  飲酒狂呼及ビ婦女淫褻ノ談話ヲ禁ズ
第5節  囲碁象棋ノ類制禁ノ事
第6節  品行不正者入社ヲ禁ズ
以上定ムル所ノ社則ハ他日不便ノコトアレバ社員協議ノ上之レヲ改ムベシ


(附記)左の1文は、昭和8年5月6日から14日にかけて、耐久中学校創立60周年を迎えた記念式典とその祝賀行事が盛大に挙行された際発行された同校々友会雑誌「耐久」の記念特輯号に載せられたものである。筆者岩崎平助氏は湯浅町岩崎書店の主人で、1時教職にもつかれた人であった。既に故人になられている。今日から60余年にもなるふるい耐久中学校の有様が語られ、そのうちに耐久舎の精神や伝統がその底に流れていて興趣のつきないものがある。今ではもうその当時のことを知る人々も、だんだんと少なくなってきている現在、同誌からここに転載しておくことにした。

中学時代の憶い出
校友会幹事  岩崎平助
私の中学校に入学したのは明治41年ですから26年前の話であります。恰も学舎時代から中学校に改称された翌年で、母校中興の名校長宝山先生10年間御勤続の後半5年間であります。此ころは正に天下の模範校として名声隆々その名海内にとどろき、小松原文部大臣を始め旧藩主徳川頼倫侯、米国エール大学校長ラッド博士夫妻、東久世伯爵、杉村楚人冠、鎌倉円覚寺管長釈宗演禅師、村岡理博、水野工博、藤村文博、森外三郎氏、山本良吉氏其他知名の人士陸続として来校し、何れも真に天下の模範校たるの実を備へてあると激賞されたるころでありますから、私の在学5年間は丁度この黄金時代の中核をなす期間でありました。この意味で私の中学時代を思ひ出す度に無上の光栄と幸福とを感ずるのであります。
当時すでに天下に名高い中学が夥多あったが而も遠く信州、甲州東京辺より西は四国、九州、朝鮮あたりから1年級へ入学する有様これを以て見ても真に海内隈なく知れ渉っていた模範校だとうなずかれるでありませう。
何がさうさせたか、何が故に模範校として其名を天下にとどろかしたかといふ事は、当時若かった自分には充分分らなかったが、以下数項書いて見ましょう。
1、当時の生徒は何れも稜々たる気概に富んでいた事は特筆大書すべきであって、誰でも極度に自己反省して少なくとも自己の行動の他の模範とするに足るべく心掛けたものです。知育に体育に特に徳育に於て一層痛感できるのであります。学校自体が崇高なる有志者の創立にかかるものなれば之を無上の矜恃としここに学ぶ者誰かこの誇りをけがしてなるものかとの自重心強く、為に校内は最も神聖なる大道場と化したのであります。1例をあぐれば試験時の如きも無監督でさへあったことがあります。先生は問題を板書して用紙を配ってさっさと職員室へ帰ってしまふ。生徒は互に相誡めあって不正など働く者1人もなく、たまたまカンニングなどするものあらば相互制裁にて撲滅せしめたものであります。監督なしで試験を行ふなんぞいふ事は他校では絶対に行はれない理想であるが、私等は其理想を実地に行なって来たものであります。
また1例をあぐれば、或年の夏、東朝社主筆杉村楚人冠氏の来校を受け、親しく宿舎に起臥された時のことであります。正午すぎ同氏は寄宿舎裏の松原を逍遙された所1生徒松林中にハンモックをつり夫れに横たはりながらノートを一心に読んでいる。杉村氏の近づくを知りハンモックより下りて一礼すれば、杉村生徒のノートに目をつけて曰く杉村「それは何のノートか」 生徒「修身の筆記であります」(当時は修身の教科書なく全部校長の訓話を筆記したもの) 杉村「試験でもあるのか」 生徒「否」 杉村「何故修身の筆記など読んでいるのか」 「生徒」「これを読むのは何となく面白いから」――この1エピソードが杉村氏を痛く感激せしめたと申します。修身のノートを読んで面白いと感ぜしめるぐらい訓話が徹底しているのか、近江聖人の昔を今目のあたりにみる心地がすると述壊せしめたといふ。さすがに見聞の広い新聞記者をも驚嘆せしめたといふ事です。
これは、1、2例に過ぎませんが万事かくの如くで、もって当時の生徒の気風の一端を伺ふに足りると思ひます。然しこれは主として徳育に関する話ですが、運動の如きも例へば庭球、野球の如きも遠く和歌山方面へ遠征して完全に覇を唱へ、和歌山の街を耐久の制服で膚揚と潤歩したものであります。試合のときなど多人数で弥次られても僅々数名の応援団で弥次り返して敵方の弥次団を憎伏せしめるだけの気概があったのであります。ほとんど剽悍と名のつく程稜々たる気魄に富んでいたのは痛快であった。之を要するに生徒各自に創立の精神並に母校の輝やかしい歴史を重んじ且つ校主や校長各先生方の教育精神を充分理解し、何事も自治的に処理し、どこまでも模範校たるの実をあぐる様努力したのであります。

2、寄宿舎生活常に百4、50名の舎生を擁し、自ら当番を決めて自炊もすれば湯も沸かす。自炊当番の如きは冬の日も早朝に起きて1時に5、6斗の米を炊く。それすら大事業であるのにおかずもたかねばならずそれを料理して盛り分けねばならず、お茶の如きも、1、2斗わかす。とても早朝から炊事場は修羅場であってしかも毎日繰り返すのだから大したものである。それでも誰1人苦情を云ふ者もなく皆孜々として当番長の命のままに動く、まるで兵隊の炊事場のようである。而も寄宿舎の周囲には何等の固ひもなければ、出入の門は2本の柱が立っている外扉がない。青山も動かずただ白雲の去来に任せるてい、奥床しいなんぞいふばかりでない。かてて加えてこの寄宿舎には門限といふものがない。出入1に生徒の気まま勝手にしてあり、又罰則といふものがなくまた受けるものもない。全く当世には珍らしい自由境であった。
かくの如く全く解放された自由の里であったが、自由の反面に於て生徒の責任感が一層強かったので決して脱線するものが見たくもなかった。是も耐久中学校の異色の1つである。

3、次に憶ひ出深きは毎年行はれた天長、紀元2大節の夜の夜会である。之は本年久方ぶりに挙行いたしましたが、当時は運動会とともに3大行事として観覧者堂に満ち盛況限りなし。先生の謡曲や仕舞、先徒の各種の余興等悉く自らの手で構作したもののみでここにも自治の精神は遺憾なく発輝されて痛快である。近郷近在の人はこの余興を見んとて入場券を奪ひあい、遠近を問はず、夜の更くるをいとはず来集し、己が子弟の余興に興ずるさま全村をあげての一大家庭たらしめ、これがまた生徒勧誘の上に校運を隆昌ならしむる上にあずかって力があったことと確信する。

4、次に先生も生徒も勤労をいとはなかった事。当時は中学でありながら手工もやれば農業も営む。手工では自分等が主になって教室用の机を製作した。約70脚ぐらいも出来たでせう。 勿論職人ならぬ素人の事であるから立派な物は出来なかったらうが、20何年後の今日までどこかの教室に残って居る筈である。また農業は約4反ばかりの畑でしたが芋も作れば豆も野菜も作る。鶏も豚も飼ふ。これは正課の時間に行なはれたのでしたが、臨時に土木事業例へば附近の山から土を運んで道路や運動場を修繕し、梧陵翁の墓掃除は毎月19日に八幡の森で行なはれ、明神山の植林や文房具品の生徒販売等迄労働を尊び勤労を尊び勤倹力行を勧めてくれた。道路普請の後で農園で作った芋を蒸して先生も生徒もむさぼり食ふ。その団楽さといったら師弟や親子やら朋友やら分らぬ親密さは今も忘れる事の出来ないものになっている。

5、当時は23隻の短艇があって時々ボートレースを行なった。自分らも時々それに乗って栖原や刈藻等に行ったのが再3でなかった。また1年1回2、3日泊りで発火演習に出かけた。金屋方面、箕島方面、御坊方面に行ったのが特に印象が深かった。此時は全生徒を戦闘員に分ち非戦闘員は全校の職員生徒の2、3日分の食糧を積んだ大行季を引きながら行ったものだ。炊事は寄宿生が1手に引受け、1時に1石以上の大炊事を誠に手際よくまたすこぶる無造作にやってのける。毎日の訓練といふものは恐ろしいものである。
其他書き綴れば偉人又は歴史上著名な人の命日忌日をトして祝賀会をやったり、毎朝かならず行った20分間の朝会で校歌を合唱し諸先生よりそれぞれ特色ある調話を聞かしてもらったのも深く脳裡に刻まれている。私の在学当時は私立時代で随分思ひ切った教育法が施されたように後日になって感じられた。この人格的自由教育並に労作教育など約20年後にして一般世間で主唱されるようで、たしかに宝山校長の慧眼には恐れ入らざるを得ない次第である。
今日母校80周年記念式も無事終了し恩師宝山校長にも劣らぬ名校長広瀬先生御統率の下に校運は益々隆盛ならんとし往年の黄金時代また目捷の中に来らんとしています。吾等はこの中等教育への真の完成の日の1日も早く将来せん事を熱望して慈に駄筆をおく事に致します。
昭和8年6月1日。
―了ー


創立百周年記念祭について
昭和27年は旧制耐久中学校の創設百周年にあたった。でもこの時は既に学制改革によって、有田高等女学校と合併して湯浅町に新制高等学校が出来ていた。しかし旧校舎はもとのままの場所にあって新制中学校として残った。梧陵が同志とともに創めた耐久社の精神は新制中学校新制高等学校へと引き継がれたのであった。かたちの上ではもう懐しい耐久中学校は無くなったのであるが「旧耐久中学校創設百年祭執行委員」により、かつ地元の広町が大いに協力して5月8日に盛大に執行された。行事としては慰霊祭(安楽寺)。式典は2階の講堂。各教室では展覧会。雨天体操場では祝賀宴が行なわれた。このとき記念として安楽寺東側が旧耐久学舎の跡であるのでそこへ浜口梧洞揮毫の「耐久社趾」なる石標記念碑を建立。記念品として旧卒業生である日展審査員木下繁制作の旧校舎屋根dを模した文鎮を配布した。またこの行事のてんまつを記した記念出版として卒業生名簿も刊行した。
左にかかげる1文は当日なされた講演で、これによって改めてその創立精神やその後の事情など、またかくれたエピソードなども語られ、新生民主日本再建の覚悟のほども話された。

(講演の概要)
耐久中当校創立百年祭に臨み
その創立事情と推移を語る
            浜口梧洞
私は耐久中学の開係者として最年長者でありますので、今日の百年祭を機会に耐久社の創立以来の事蹟で私の知って居りますことをお話し致したいと思います。
耐久社の生まれたのは米国のペルリ提督が軍艦を率いて浦賀に来航して幕府に通商を迫り、又露国即ち今のソ連の使節ブーチャチンも軍艦を率いて長崎に来て樺太の境界確定を要求するなど2百余年に亘った鎖国の夢を驚かしたときでありまして、当時32、3才で血気旺んな梧陵は天下の形勢容易ならぬことを思って武を練り文を講ずるため広村田町に稽古場を開いたのが、即ち耐久社の起源なのであります。当時梧陵が万一に備えて作った鎧が今尚私の家に残って居ります。そぞろに当時の情勢が偲ばれるのであります。稽古場と申しましても貧弱なもので、吉田慶蔵氏宅の裏納屋を利用して、撃剣は田辺の藩士沢直記を聘し、槍術は梧陵自身が担当し、学問は八幡宮宮司佐々木馬之助氏が教鞭を執ったと伝えられて居ります。佐々木氏は皆さんも御存知の荒木大将の祖父さまで御座います。

その後、文を講じた人には、小野石斉先生があります。この方は紀州藩の動静を偵察に来て居った長州藩士で一廉の人物でありました。撃剣の先生には海上胤平氏がありました。老後は伊勢派歌人として東京で活躍されました。海上氏について面白い話が遺って居ります。そのころ湯浅に千葉某と言う剣道の先生が居りましたが、何かのことで両氏の間に悶着が起こり、海上氏は22、3才の血気壮な時代でありましたので、栖原の先に在るホーズトという峠で決斗することになったのですが、梧陵はこのことを聞いてそれは甚だ穏かでないと仲裁に入り、喧嘩両成敗ということにし千葉氏は熊野方面に、海上氏は京阪方面に出発させて事なきを得たとのことであります。
又、今1つ面白いことは、広の青年連は武術に自信を持って来たので和歌山の藩士に撃剣の試合を申込んで勝利を得て来たと伝えられています。これは多分和歌山藩士は旧式の剣法であるのに、広の連中は海上氏の様な新進の剣士を迎えて稽古して居ったためと思います。然るに梧陵36才の時家業を継いで郷里に居ることが少なくなりましたので、稽古場は段々衰微して来ました。慶応2年道場を大道の安楽寺の隣地に新築し耐久社と命名して再出発したのであります。
私の子供の頃には和歌山藩の儒者であった浅井老先生が専ら漢字を講じて居られました。浅井先生は京大の重鎮であられた小川琢二博士の厳父で当時13、4才であった小川氏も父に従って広に来て居りました。私達は少年の小川氏から学問の初歩の3字経を教はったもので、この浅井先生は世界的に有名になられた湯川秀樹博士の祖父に当られます。
明治18年梧陵がニューヨークで客死されてから社運は又衰え辛うじて形を残しているような状態でありました。明治28年、私は叔父の浜口担及び当村の堂源右衛門氏等と力を合わせ復興に着手しました。浜口担は後日ケンブリッジ大学を出て代議士となった人であります。堂氏は村夫子でしたが一廉の人物で御座いました。そして初めて迎えた校長は慶応義塾の英語の先生であった狩野広崖氏でありまして、狩野先生は昨年郵便切手の肖像となった明治の代表画家狩野芳崖の子息であります。
かような次第で不完全ながら私立中学校として再出発出来たのであります。当時私たちの理想は東京に出て名を成すよりも、地方に土着して地方を開拓する様な人物を養成することにありました。このころには未だ高等の教育を受ける希望者が少なかったので生徒募集には苦心したもので、毎年春の小学校卒業時期には私達は手分けして北有田や日高方面へ生徒募集に出掛けたものです。明治36年有名な杉村楚人冠氏を聘して人物の養成に1段力を入れることに致しましたが、当時同氏は米国公使館に勤務して居ったのでいよいよ赴任する事になった時に、種々の事情で耐久中学に赴任出来なかったのであります。同氏はその責任上諸方を物色した結果同氏の友人宝山良雄氏を推薦してくれました。宝山氏は或る京都の篤志家が理想的の中学を創設する目的で同氏をハーバード大学に留学させ、帰途欧米の中学教育を視察させたのでありますが、都合で京都に創設する筈の中学校は見合せになった時に、杉村氏から耐久社の話があったので自分の信念に基づいた自由な教育に従事出来れば面白いことだといって、洋行帰りの新進教育家は勇んで貧弱な私立中学校に乗込んでくれたのでありまして、まことに宝山氏の意気は壮とすべきものがありました。
ここに至りまして耐久中学もいよいよ軌道に乗り、39年には同族の吉右衛門氏と協力して西の浜に校舎を新築して文部省の認可を得、始めて完全な中学校となったのであります。宝山氏の教育方針は当時一般の中学校に比して大きな特色がありましたので、当時の文部大臣小松原氏は態々視察に来られ模範中学であると賞讃してくれました。私は39年暮に事業に失敗しましたので爾来7、8年間吉右衛門氏独力で経営して居られました。

大正の初期に私も事業を回復しましたので再び耐久中学の経営に協力する積りでしたが、当時我が国は欧州大戦の好影響で全盛時代になりまして、学校教育の如きは貧弱な個人が経営するよりも国家の施設で完全なものにする方が適当で、且つ県当局よりの希望もあり吉右衛門氏と相談して県に移管した次第であります。耐久中学は斯くの如き経過を経て成長してきた学校で普通の中学校とはその創立の精神に於て大分異って居るのであります。
我が国は東亜の大戦で1敗地に塗れ連合国に占領されるような悲惨な状況に陥ったのでありましたが、日本国民の真価を認められ、去る4月28日に独立を回復し得ましたことはまことに喜ばしいことであります。各国が日本の独立を認めたのは日本国民の真価を認識したためであります。実に各国が認めた様に立派な日本を再建出来るか否かは全く青年諸君の双肩にかかって居るのでありますが戦後廃頑した青年には殊に憂慮に堪えぬものがあります。諸君は先刻来述べましたような耐久社の出来た由来をよく心に刻み、愛国の精神を発揚して質実剛健にして郷党の青年の模範とならんことを切望する次第であります。
(註、浜口梧洞は10代儀兵衛氏、人物篇参照。なお3字経とあるのは、江戸時代の児童教訓書で漢字3字で1句をなすよう配列してる)。


耐久社記念館に就いて
浜口恵璋
1
耐久社記念館は、もと広村大道安楽寺の東側にあった耐久社の本館を明治39年に同村西の浜に移して図書閲覧室として使用していたものである。然るにその後、戦前から記念館として保存するがよかろうと云ふことで耐久中学の西南隅の方に移して諸種の会合などにも使用して居たが、戦時中修繕も行き届かず、また昭和21年12月21日南海大震災の際、海嘯の為、いたく荒れはて使用も出来ないようになって居たが、何分戦後のため修繕の方法もなく荒れ果てて居たものを学校の制度もかわり、耐久中学校は新に耐久高等学校として湯浅町にあった女学校と併合し、もとの校舎は、その後、南広村併合の中学校として使用することとなったものの、記念館の如きものは其必要も認めないような有様で一層荒れ果て、狐狸の棲家とまでは行かずとも荒れ果てて実に哀れな有様となり果てて居たのである。其後少し手入れをして和歌山県史蹟として指定されたものの、それは唯名義だけの事であって何等見るべきものがなかったのである。

2
処が耐久中学校の校友有志者の発起によって、その西南隅にあったものを、東方の出口の方に移転し、その基礎を高くし、四方に竹垣をめぐらし、兎も角記念館としての面目を保つように出来上った。それが為校友諸君は多大の犠牲を払って漸く出来上り、これに創立者浜口梧陵、浜口東江、岩崎明岳3老の肖像、其他校主であった浜口容所、浜口梧洞2氏、宝山校長の肖像をかかげ、又嘉永のころ用いたと云はれる鉄砲や鎧甲などを陳列してその創立当時のことを忍ばしむるようにしたことは、まことに有意義のことである。

3



耐久社は、嘉永5年に田町に撃剣の稽古場を設けたことに崩し、後に歌学者となった海上胤平が撃剣の指南をし、佐々木五十鈴が四書などの素読をして居った。次いで、小野石斉を聘して漢籍を講じて居ったが、石斉は長州の出身であるので、文久3年8月、京都に於ける長藩の変以後、紀州藩が征長の命を蒙むるような事情のために逃れ去ったようである。それ以後はこの稽古場も閉鎖せねばならぬような事情であった。ちょうど其ころ安楽寺が西の浜にあったのを元治元年から慶応2年にかけて大道に移した。そのころから、安楽寺の境内に稽古場をこしらへ、1時は安楽寺の本堂でも竹刀の声が聞えて居ったようなこともあった。そして明治3年に安楽寺の東側に、この度修築された校舎そのものが建てられ、規則などを定め、永続を誓うて耐久社と名づけることになった。当時安楽寺15代の住職浜口大英(号松塘)と云うのが慶応元年に銚子宝満寺中道和上の許に於ける修学を終えて帰国し、安楽寺の移転に力を尽して居たのが、同2年3月に落成したから、それ以後耐久社の経営に努め、浜口梧陵、浜口東江、岩崎明岳等に依頼して校舎を寺の東側に建てて、いろいろ世話をしたのである。当時漢籍の師匠としては栖原極楽寺の石田冷雲師を聘して1、6の日に講釈を願って居った。

4
大英(松塘)は器用な方であったから、いろいろ彫刻などもして現に記念館の玄関に掛けてある「耐久社」と云ふ額も自分で彫刻して掲げたものである。然るに明治8年1月17日には安楽寺内にあった耐久社を広村学場とし、大英は村学教員となった。 それもわずかの間であって、小学校令の発布により小学校は正覚寺内に設けらるることとなり、明治9年3月から大英も小学校6等教員として勤務することになった。然るに身体が虚弱であって同年9月8日、31才を以て死亡した。それゆえ耐久社は其後は松本徳行、桑村元慢、桑村彦雄、浅井篤と相続いで監督となったのであった。松本徳行は海部郡冷水村了賢寺の方で、大英の嗣として明治10年11月から同13年5月まで安楽寺に居ったので耐久社をも管理して居ったが、事情ありて去って河内に行った。次の桑村元慢、同彦雄は後に有田郡郡長として野田四郎氏の次に来た佐々木米三郎氏の親の兄さんであった。何れも和歌山の方である。その次の浅井篤と云う方は後に京都大学の教授になった小川琢治氏の親である。これは田辺の方である。この方々は何れも漢学を主とした方で、幼稚の者には素読、年長のものには講議したり、習字作文などの添作をするに過ぎなかったのである。

5
然るに安楽寺大英の死後明治16年4月に石田冷雲の4男時丸(興教)を養子として迎え、そして摂州三島郡五百住の行信教授に仏学を、東京三田の慶応義塾に普通学を修め、明治25年に帰国したので、また耐久社を監督することとなり、従来漢学塾であった耐久社は漢籍以外英語、数学等、時勢向の学課を加えることとなり、学年も3ヶ年と定めて近代学校の組織に準ずることになった。処がこれまた事情があって明治27年7月に退職の余儀なきに至ったので、其後有田郡長野田四郎氏を社長に推し、遠藤敬次郎が漢文、伊東温が普通科を受け持って居たが、明治28年3月に伊東は去って、次いで大島常校が来て漢・英・数の外に歴史、地理等をも加えることとなった。これまた29年3月に去った。このころ伊藤敬次郎も去って、次いで来たのが狩野広崖、妻木僧暢で狩野は英語、数学、簿記等を受持って居た。

6
同30年の1月に予は妻木直良、杉村広太郎2氏に介されて当地に来たり、教鞭を執ることとなったが、同31年の4月から学課目を改正して国語を加えることとし、自分は主としてこれを受け持った。この時、社長野田四郎が辞任して浜口吉右衛門(容所)氏が社長となった。容所氏は東京に在住して居るのであるから、事務はすべて此方で処理し、社員からの集金など会計に関することは湯川小兵衛が取扱っていたように記憶する。それは兎も角、明治27年に第1回の卒業生を出したが、その時は2人、28年も2人、29年が3人、其の次の年が5人で、31年度が3人、32年度が急に増して8人となり、33年は3人、34年は2人に減した。35年は5人となり、同年度から4年制度に改めたために36年度には卒業生がなく、37年に同じく5人であった。37年からまた5年制度としたため38年度には卒業生がなく39年度には14人となった。

7
浜口吉右衛門氏の社長名義は明治37年3月、宝山氏が赴任するまでの間であったが、この時よりも宝山氏が赴任して後、校舎を西の浜に移すころから尤も力を注がれたのである。この移転改築に関しては莫大の経費を要し、東西両浜口家が負担する筈であったが、家政上の都合で西浜口が東浜口同様に負担することが出来なくなったため、それ以後大正9年に県立に移管する迄主として浜口吉右衛門(容所)及び嗣子(無悶居士)が校主となって出資して居たのであった。浜口容所翁は大正2年12月11日に病没せられ、その後は乾太郎無悶居士が引続いて校主となり、其頃容所翁の遺書を寄贈せられることとなった。その遺書の主なものは「十三経註疏」「皇
清経解」「資治通鑑」「歴史綱鑑補」「大日本史」「本朝弓馬要覧」等でその他和漢の典籍数十点数百冊に上るものである。別に珍本と云ふ程のものではないが、中でも「皇清経解」は容所翁が遺愛の書であったから少しく解説を試みたいと思う。

8
何人も知る如く容所翁は実業家であって政治家、政治家であって育英に熱心、また詩文の嗜みあり、書画の風流あり至る所よからさるはなく、近来の偉人の風格を備えた方であった。翁の伝記は「容所遺韻」に委しいから委しいことは云ふまいが、古来から東京日本橋小網町にある店舗の紀州国産及び醤油等の販売は勿論、年々その業務を拡張するのみならず、明治24年鐘渕紡績株式会社が悲境に陥った時、故中上川彦次郎氏等と重役となって整理し、また25年には東京商品取引所創設に尽力し、日清戦争の講和後、上海紡績株式会社を発起したり、また富士瓦斯紡績株式会社の取締役となって尽力し、また九州水力電気株式会社を設置したり、豊国銀行を興したり、東洋拓殖株式会社の設立委員となり、高砂製糖株式会社を組織したり、数え切れぬほど種々の事業に手を出したのみならず、明治29年9月、同31年には東京より同31年8月には和歌山県より衆議院議員として選出せられ、同40年12月、同44年9月には多額納税議員として東京府貴族院議員に推選せらるるのみならず、当地方にありては津木村、南広村に杉桧等の殖林を大規模に経営せられ、育英事業としては前に述べた通り、耐久中学校の維持に力を尽された。これは翁が幼少の折から東都に出で浜村蔵六の門に入り、尋いで亀田鶯谷の塾に学ぶこと多年、その間の修養が大に力をなしたもので、老荘の学には深い興味を持って居ったことでも知られたが、「皇清経解」の如きも、そんな趣味から購求して愛読せられたものと思はれる。

9
「皇清経解」は清の阮元が門人厳杰(ゲンケツ)等と共に編輯したもので清朝時代に盛んに行なはれた考証学の研究には欠くべからざる必要な書である。正編が360冊、190部1417巻、なお、検目2巻で、続9目編は清の壬先権が編輯したもので、320冊209部1430巻、合計682冊、399部2847巻もある大部なものであるが、耐久高等学校の方から送附せられた目録によると、309冊となってあるから半数にも足らぬもので勿論完本ではないが、どれどれが不足して居たかまだ検べて居らないので詳しいことは分らぬ。清朝初期に於ける顧炎武、閻若球、毛奇齢などより初め近くは清末に於ける?(赤鬼)源、愈?等に至るまでで170余人の中国学者達の叢書である。元来考証学と云うのは、宋明時代に起こった程朱陸壬の学風が、高妙な理論に馳せて、聖賢の実際から遠ざかり、徒らに古義を没却するに反対して起ったもので、訓話学、音韻学、金石学、雑学、校勘学などと分かれ、いずれも科学的に研討するようになったもので、使書の蒐輯校勘等も盛んに行なわれることとなったのである。明治40年ごろに日本に来た燉煌学の大家羅振玉氏の如きも或る意味に於けるこの学の大家であった。それはともかく、こんな有要な書を購求せられた容所氏もえらければ惜気もなく之を寄贈せられた無悶居士もまたえらいと云はねばならぬ。然るに之を利用することが出来ず衣魚虫(シミ)の巣にしておくことは惜しみても余りあることで之を先賢を追憶すべき記念館に備えつけて、先賢を追憶するよすがとすることは、まことに意味のあることである。京都の近郊である修学院なる一条村の詩仙堂に至れば、むかし石川丈山が棲んで居た居室をそのままに保存し、丈山が選んだ先賢36人の肖像を?間に掲げ、丈山が用いた机案脇卓なども其ままに置き、その遺墨遺書などを陳列して、さながら生前の当時を偲ばしむるようにせられ、遊訪の客をして無限の情緒を引かしむるものがある。耐久社の記念館の如きもかくありたいものである。

10
この記念館の移転に世話をして居る或る1人に聞くとこの事業に対し、同じ同窓生の中でも喜んで寄附してくれる人もあれば、またこれに反対して寄附を拒むのみならず、その云う言葉に、新しい世界には新しい事業を計画すればよいので、何も故人がした事を記念するようなことをするのは必要はない。また漢文学などは全く必要のないものである云々と云うものがあるとのことであった。なるほど、それも無理からぬ云い分のやうであるがよく考えると決してそうではない。人間世界は過去の記録である歴史によって、これまでに知り得たることより、より以上の所に進むのが所謂進歩と云うものである。過去の歴史を抜きにして進歩したなどと思うて居ても、既に故人が経験ずみであったと云うことが度々ある。それで新しいことをするには古い歴史を知る必要がある。偉人の思想、習慣、風俗等について予め知り置くのは決して無用なことでない。これによって我々の新しい知識にも或る教が附加されるものであると云うことを知らねばならぬ。次にまた漢文学など学ぶ必要は全くないと云うのも、浅膚の見であるといわねばならぬ。
中国は我が国の一衣帯水を隔てるのみの隣国で同文の国であり過去に於ける我が国の文化が中国に影響されたのも随分多いのである。そして今日では彼らには共産主義的の思想が浸潤して日本を赤化せんとするような考えを持って居るものもあり、さなくとも、日本と親善せんが為にとて現に北京で日本文を以て記載して居る雑誌に
「人民中国」と云うのがある。これは中国で発行する日本文で記載している雑誌で、これは日本文のみならず、英、仏、独、伊から更に印度語にまで翻訳してそれぞれの国に贈り、中国との交歓をはかっている雑誌で、その態度は実に雄大なものである。
日本人もこれ位の度量を以て中国語の雑誌を出し彼等を感化する位の思想を持たねば駄目である。こんなことをするとせば、現代語の漢文を読み得ずしてはそんなことは出来ないではないか。戦時「大阪毎日」が中国語の雑誌を出しておったことがあったがそれも今日では止まっている。中国を指導する位の考えを持たねば駄目である。それはそれとして、漢文学を読み得ぬようなことでは我が国で発達した日本に於ける中古以来の図書もろくに読めぬことになり、日本文化は退歩を辿ることとなる。こんなくだらぬことを書くなどは汗顔の至りではあるが、そんな間違った思想を懐いておるものがあるということを聞き老婆親切の為に1言を書き添えた次第で、貴重な紙面を浪費したことは申訳ないことである。(了)

―附記―
これは今は故人となられた恵璋師が、昭和32年11月号の「紀州文化」誌第8号に寄稿された1文である。「耐久社」は昭和25年12月31日和歌山県史蹟として県指定されたのであるが、耐久社についての起源や裏話的なことなど、師によらなければ聞けない事なども語られているし、示唆多き言辞も含まれているので、全文を同誌から掲載した。なお「耐久記念館は、平屋建玄関付、間口5間、奥行6間半、地積32坪半、現在室内は6間で43畳敷、床間その他に「梧陵とナイアガラ瀑布」の油絵、浜口梧陵碑拓本、耐久社則、創設者浜口梧陵、浜口東江、岩崎明岳そのほか経営に力をかされた人々の写真などを掲げている。

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4  広川町各小学校の沿革


広小学校の沿革 明治6年5月、湯浅に公立湯浅小学校が中町の福蔵寺に開設された。これは湯浅組25ヵ村(今の大字)唯一の小学校であり、わが広もその通学区域になっていたので、湯浅まで通学したのである。ところで広も明治8年11月23日に、小学校を創設することになって、ひとまず仮校舎として正覚寺を使用することにした。しかしここで実際授業開始は明治9年3月14日からであった。学校名は「広陵小学校」(または「開識小学校」ともいった。4年までの下等小学校。) これで湯浅まで通学することはなくなり、学区は、広、山本、和田、名島であって、これらの地区の子供が通学したのである。その時の児童は男75人、女26人で浜口大英、佐々木丑之助の両人が教師を努めた。ところでこの正覚寺の広陵校は、その後生徒の数も増えてきたし、いずれ独立した校舎を建てねばならず、明治10年、もと年貢米を保管した倉庫の用地を校地として広小学校が新築された。
(校名は前記の名称はしばらくで廃され、あっさりと広小学校と称することになった。)

当時の記録をみると――

広村ノ北隅字天州ノ内、旧租倉跡ニテ、改正後3畝26歩地価金弐拾6円3拾6銭の宅地ナリ。南ハ(正南ニアラズ)街道ヲ晝リ東(日蓮宗養源寺)北(堀川)西(海岸)ノ3面ニ官有空地ニ接シ略長方形ヲナス。(長辺東西、短辺南北)
南1面ハ民屋ニ接スルモ甚稠密ナラザルヲ以テ空気ノ流通最モヨシ。但海水ニ近キノ故カ地中大ニ塩ヲ含ミ井水飲用ニタへズ。黌舎建築ハ明治10年9月1日功ヲ興シ11年1月13日落ス。其費金総テ510円82銭ナリ。初メ、8年11月23日村中(広、山本、名島3村)小学ヲ公立スルヤ仮ニ広村内ノ1刹(真宗正覚寺)ニ於テ開業セシニ生徒ノ人員年2月ニ増加シ、又1名ヲ入ルヘキノ地ナキニ至ル。是ニ於テ新築ノ挙アリ乃チ左ノ4名其費金ヲ寄附ス。
浜口儀兵衛(145円41銭)(梧陵翁)
浜口吉右衛門(佐右)(熊岳翁)
岩崎重次郎(120円)(明岳翁)
古田庄右衛門(100円)(味処翁)
舎ノ結構ハ旧租倉桁行7間(南北工)梁行3間(東西工)アリシニ北ノ1隅ヨリ東へ向ヶ矩形ニ桁行10間梁行4間ノモノヲ新ニ増築シ、其桁行ト旧倉ノ梁行ヲ合セテ13間、之ヲ長辺トシ3間半ヲ短辺トシ(増築ノ梁行ヨリ3間半ヲ短辺ニシテ残り稼側トス)其積45坪5合(91畳敷)ヲ教場トス。教場ヲ仮ニ分チテ4トス(級別テハ8組ナリ)。其第1場ハ上等6級下等1級全6級乙。受持教員岩崎英孝ナリ。第2場ハ下等3級全5級、受持教員小沢良海ナリ。第3場ハ下等4級、受持ハ久保政吉、小沢良海交番ナリ。第4場ハ下等2級全6級甲、受持ハ久保政吉ナリ。
西南ノ隅6坪(東西3間南北2間)ヲ教師控所及ビ小使詰所其他門塀出入口或ハ窓戸塚側等ハ図面ヲ以テ概略ヲ記ス」

とあって簡単な平面図を添えている。尚、この校舎は明治32年まで使用された。このころの記録に左記のものが残っている。

明治10年上半分生徒調査表
第2番中学区第83番小学区
広学校
第8級 ━━ 男66人   第7級 ━━ 男8人
     ┗ 女25人          ┗ 女0人
                  
第6級 ━━ 男12人   第5級 ━━ 男8人
     ┗ 女5人          ┗ 女0人

       (4、3、2、1級ナシ)
総計  男94人女30人
6才以下就学4人。1期入学男16人。女6人。同退学男11人。女5人。14才以上就学1人。
明治10年9月日  教員  宮井富之助


とあり、また11年3月の調査では男女総員128人、内男94人、女34人とあって、女子の就学の低さが表われている。第00番中学区第00番小学区とあるのは、さきに「学制」を公布したが、その範はフランスの制度にとっていて、それは教育の中央集権制であった。わが国はこれをまねて、まず全国の学事を文部省で管理統一し、全国を8大学区に分ち、各大学区に一大学を設置し、一大学区は之を32中学区として各区に1中学を設置し、1中学区を更に210小学区に小分して各区に1小学を設置するという構想で、これによると全国に8大学、256の中学、5万3760の小学校を設置するということになる。それでわが広校は第21番中学区第83番小学区に入るというわけである。
その後13年には3月より小学校内に公立広夜学校が開設され、男のみ22人が入校し、期間は3ヵ年であった。この夜学校は小学校を卒えた者、今更小学校へ入学するには年たけた者、都合で学校へ行けなかった者などを集めて教えた補習教育で、「夜学」という言葉は勉強に精進する賞讃の意味を含ませて永く残った言葉であった。このころの広小学校は修業年限4ヵ年の下等小学校で、1級より8級まであり6ヵ月毎に試験をして進級させた。この試験は最初のうちは湯浅福蔵寺の小学校まで受けに行った(当時の津木、南広地区も同様)ので大変なことであった。ところでこの試験は受ける者が少なく、その理由として、日常欠席がちのもの、出席日数の不足のもの、各級へ入学する時期がまちまちで1学級として学力が不揃であったなどが挙げられているが、始めのころの学校の実情が想像される。でも試験に受からなかったら進級も卒業も出来ない。それで「落第」即ち今の留年がどしどし行なわれた。下級の時は落第しても続けて学校へ行ったが、上級になるにしたがって落第すればたいていの者は退学してしまったという。教師にも等級があって、1等から8等まで、この外に授業生という教員見習もあった。校長はまだ置かれてなく、首座教員というのがあって校長のような役目をした。
そして小学校といへども授業料が徴集されて、初期のころはそれが教員の給料にあてられた。(広校は明治20年になって徴集月6銭)校庭は今のような運動場は勿論無く、ただちょっと遊べる程度のもので「遊園」という言葉が残っている。 男児と女児とは別々のところで遊んだ。
明治15年ごろの記録に学区内の戸数を記しているのによると、当時広村516戸、山本村83戸、和田3戸とあり(名島村の記載がぬかっている)。学令児童数は広男224女164。山本男34。女43。名島男13。女6。和田4。となっている。その後明治19年になって宇田分校を開設男児26。女児6名の就学があった。(この分校は明治43年3月廃止され全員本校へ通学)同24年4月、4ヵ年制の尋常小学校となり2学級に分け、初めて校長を置き岩崎英孝が兼任することになった。訓導兼校長である。児童は男120。女53。計172名、教員数は3名である。
ついで同32年に高等科(4ヵ年)を併置し、同41年、制度改正とともに義務年限が6年に延長された。従来の高等科は2ヵ年になった。この間校舎を改築したり、増築したりしながら大正14年11月創立50周年記念式を迎へたのである。大正15年1月校舎移転改築の議がなり、現在地(小字平田の地)面積約1町歩余の校地を選定移転し、やがて今の鉄筋校舎へと発展してきたのである。
広小学校が現在になるまでの沿革を簡単に述べておく。今までの記述と重複するところもあるが整理の意味で列挙することにする。

明治8年11月23日創設。校舎は正覚寺堂宇を使用。広、山本、名島、和田を就学区域とする。実際授業を開始したのは明治9年3月14日から、4ヵ年の下等小学校1級より8級まであり6ヵ月で進級する。児童数男75、女26、計101名で、教員は2名。校名は開識、広陵などの名であったが、やがて単に広小学校と称した。

明治10年8月  旧貢租米倉庫の地に校舎新築、4教室11年1月30日落成する。
同11年  3ヵ年の上等、3ヵ年の下等小学の併置となる。(当時の児童数男134、女37名であった)
明治15年  教育令改正により初等3ヵ年、中等3ヵ年の併置とする。(男149、女57名)
同17年秋  暴風により校舎大破、18年大修理、この年山本村学区より分離した。
同19年5月  宇田分教場開設。
同20年  制度改正、4ヵ年の尋常小学校となる、岩崎英孝訓導兼校長となる。
同23年10月30日「教育ニ関スル勅語」下賜。
同26年  名島村を学区より分離する。
同29年  村会で全校舎改築を決議。30年6月竣成する。
同32年  高等科を併置。(4ヵ年)
同33年9月  第1期校舎増築なる。(1教室24坪)
同36年  「同窓会」ができる。
同38年7月  第2期校舎増築なる。(2教室50坪)
同年5月29日  実業補習学校(女子)を附設する。
同39年1月  運動場を増設、養源寺境内の1部(南方)約378坪を借入る。この年、尋常科男119女102、高等科男129、女54名であった。(高等科は) (南広、津木、田栖川の児童を受け入れていた)。
同41年4月  制度改正で義務教育年限は6ヵ年となる。高等科2ヵ年を併置する。旧役場及び巡査駐在所を改築して校舎の1部とする。この年山本明神谷に学校植林地として約3町歩を借入れ植林する。
同42年4月3日  職員児童一同招魂祭に参列する(以後恒例となる)。
同43年  宇田分教場廃止全部本校通学。
同44年  「広陵青年会」創設、会員65名、毎夜学校の1室で夜学をする。
大正2年10月1日  実業補習学校併設。
大正5年2月  隣地百坪を購入し2階建55坪4教室を増築、6年2月竣成。尋5以上高等科を新校舎へ移転する。
大正8年4月3日  第1回処女会(女子青年)開催。
大正11年10月30日  学制領布50年記念式挙行。
大正13年4月  教室不足のため戸田製網工場を借り1教室とした。
全年5月1日  校章を制定し校旗もつくる。
大正14年11月  創立50周年記念式及び祝賀会を催す。
大正15年1月25日  村会の議決により校舎移転新築のこと決定。現在の校地である字平田へ3年〜4年の継続事業とする。
大正15年7月1日  青年訓練所(青年学校の前身、軍事訓練を主とする)を小学校内に設け入所式を行う。
昭和2年3月19日  新校舎第1期工事落成、尋5以上を新校舎に収容する。―引き続いて昭和6年までに第5期工事及び講堂の工事をする。
昭和9年4月21日  梧陵翁50年祭を記念して、各教室に翁の肖像写真を常掲することにした。

従来の青年訓練所、農業補習学校を廃し、青年学校を設置し義務制とする。
昭和16年2月28日  各校とも尋常高等小学校の称を廃し国民学校と改める。4月29日(天長節)各校とも学校長を団長とする青少年団を結成する。
昭和19年9月8日  大阪市玉出国民学校初等科125名を疎開学童として受入る。
昭和20年3月28日  運動場を開墾し中庭の桜樹も伐り食糧増産のため畑とする。
仝年7月22日  第16709部隊広校に駐屯する。(8月31日引揚)
仝年8月15日  終戦。10月20日疎開学童引揚げる。11月16日運動場整地。仝21年1月10日  御真影奉還する。11月3日新憲法発布記念式。12月21日早朝強震津波本学童3名の犠牲者あり。
全22年4月1日、633制実施。広小学校と改称する。12月23日、育友会(PTA)発会式。
仝23年12月24日  学校給食(ミルクだけ)2周年記念で菓子を配給する。
昭和27年4月19日  西川県議の差別事件発生県下各校同盟休校に入る。(217日休校を解く)
昭和28年7月18日  有田大水害、本校も大被害を受く。
昭和30年4月1日  広川町発生。広川町立広小学校となる。
仝年11月19日午后7時45分  広小講堂に爆発事件あり、外部より侵入したことは確かだが犯人不明。父兄児童に異常な不安感をあたえた。
昭和32年11月9日  (かねてから計画された)鉄筋校舎新築の起工式を行なう。
昭和33年5月15日  鉄筋校舎第1期工事竣工。3階建9教室出来上る。
昭和34年5月12日  第2期工事落成教室4、特別教室4、職員室、校長室、保健室、資料室など完成する。
昭和35年  本年度より特別学級を開設13名の児童を収容する。10月3日新講堂起工式。
昭和36年  講堂落成。以上で約5275万円の工事であった。
昭和38年11月12日  町内各学校完全給食のため給食センター施設完成。
昭和39年4月24日  学童に赤痢保菌者が出て23名入院。臨時休暇に入りその後益々増加し5月19日学童全員退院(郡内の病院及講堂の臨時収容所など)するまで休校を延長してきたが、5月25日にやっと授業開始した。大変な騒ぎであった。
昭和40年8月3日 学校プール完成この日より使用(工費約600万円)

歴代校長
主座教員として浜口大英、佐々木丑之助、宮井富之助、岩崎英孝、和田玄洋、日根千足、片島廉、らの名が見える(当時まで校長という職名がなくこれに代る主座教員というのがあった)。制度として正式に校長に任命されたのは明治32年からとなっている。それまで訓導兼校長であった。
1、薬王小弥太  2、山本正操  3、岩崎勝  4、平木伴次郎  5、上野山菊次郎
6、高垣英一  7、川口賢一  8、岩本信亮  9、三輪吉之助  10、一ノ瀬貫一
11、広田権蔵  12、田辺善一  13、片山厚治  14、岩崎功  15、川岸義雄
16、拍 保  17、片山正義(現)


南広小学校の沿革
旧南広地区では「学制」発布後、それぞれ創立の年月は多少異なるが、次のように、いくつかの小学校を設置した。それは地域も拡く、村数(字数)も多かったからで、現在の南広小学校となるまでに幾多の変転を経てきたのであった。それらを列挙してみると左のようになるが、資料の不足や不備で細かいところは不明である。
(1)殿小学校 
    明治9年7月21日開設。就学区域は、殿、上中野、南金屋、東中、柳瀬の5ヵ村で、そのころの先生は、鈴木義登という人だったというだけで、児童数や学校の状況など今わからない。
(2)上中野小学校(第1次) 
    明治14年に、殿小学校の学区内であった上中野が、なにかの都合で、殿から分離して、上中野小学校を開設し、宮垣貞次郎という方が先生になった。それが18年7月になって(20年とも)山本小学校と合併して、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋が通学区域となり、池下丈之助、片山源之助の2人が先生であった。これが同21年8月の暴風雨のため校舎は破壊、遂に山本校と離れ、再び上中野小学校にもどり、22年9月27日に開校、前記池下丈之助が先生になった。
(3)西広小学校 (第1次)  
  明治9年8月10日、西広村法昌寺の堂宇を借り受けて開設、上下2等の小学科を教授、就学区域は西広と唐尾の両村、11年ごろまでの間に、楠山大厳、管野孫一、小沢良海らが先生として在勤されたことは確かだが、その他のことについては不明。その後明治13年3月になって西広と唐尾とが分離して2校となり、西広は同村628番地に校舎を新築(37坪)、同15年6月の教育令改正で初等科中等科となった。同20年4月1日に今度は、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋の5村が合併して山本村に校舎を設置して山本小学校を創めた。そして唐尾には小学校簡易科を置いた。
(4)山本小学校  
  このようにして折角山本小学校が出来たのだったが、前記上中野小学校の項で述べたとおり校舎が倒壊した結果、また元へもどって、西広、上中野とも旧校舎を仮用して授業を続け、同22年9月2日に山本校と正式に分離、再び西広小学校と上中野小学校とに分れてしまった。
(5)西広小学校(第2次)  
  明治26年1月8日小学校令によって単級編成の尋常小学校となり、就学区域は、唐尾、西広、山本の1部であった。同30年6月、4坪半の増築をして総坪数25坪半、内教室19坪半、その他6坪であった。同34年4月には2学級編成となり校長も置いた。そして同36年4月5日まで続いた。
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(6)井関小学校
  明治10年4月創立、井関村370番地旧寺院(霊泉寺)の堂宇を仮用して、下等小学校を開いた。場所は今の井関分校の所である。就学区域は井関、河瀬の2ヵ村であった。校地は241坪あり、教場は22坪半その他3坪半の附属建物があった。当時の先生は長谷政楠、開元琢龍と伝っているほか他のことは不明。明治15年6月15日、小学初等科中等科を教授した。同18年7月に就学区域を変更して、井関、河瀬、柳瀬、殿、東中の5ヵ村とした。(このときおそらく殿小学校は廃止されたものかと推定される)。同20年4月1日、井関尋常小学校となった。同26年1月8日4ヵ年の単級編成の尋常小学校となり、同34年には2学級編成となり校長も置いた。
(7)上中野小学校(第2次)  明治22年9月27日、上中野法蔵寺の堂宇を仮用して開校、尋常科のみで就学区域は上中野、南金屋、名島、山本で、児童数は男47、女12、先生は池下丈之助。同26年単級編成の尋常小学校となった。その後33年度の児童数は男45、女22計67とある。34年から校長を置いた。
南広小学校
  明治36年4月5日前記の西広小学校、井関小学校、上中野小学校の3校が合併することとなり、校名を南広尋常小学校とし、上中野に本校を置き、井関と西広とを分校とすることになった。しかし、当分実際の授業は各3校旧校舎で行なわれた。ここでいままで各地区で、それぞれ変遷を経てきた小学校は統合されることになって現在の南広小学校の誕生をみることになったのである。当時の児童数は1年男9、女15。2年男19、女15。3年男16、女10。4年男10。女12。計106名。教員数5名であった。
以下簡単に年次を追ってその沿革を述べよう。

明治38年8月19日  戦時紀念林を鈴子丸山5町7段4畝15歩を設け、毎年1回児童が松苗を植えることにした。
同39年3月29日  2教室の新築落成式と卒業式とを兼ねて行なう。この年、西広、井関の両分校の4年生は本校に通学、両分校とも1学級、本校は2学級となったので、先生は本分校通じて4名である。なお、この年の10月19日本校で農作物、特に米の品評会が開催され、郡長佐々木米三郎が知事代理として出席、褒賞を授与した。
仝41年3月15日  井関分校舎改築、2教室、職員室、裁縫室、便所等落成。これとほぼ同時に西広分校も同様の規模の校舎を改築落成する。この年は義務教育年限延長され学級数は、本分校とも2学級となり、先生も裁縫専科とともで7名になった。3年以上の女児に裁縫科が置かれたのである。
42年6月14日 南広農業補習学校開設、9月10日から授業開始(夜間)。同じこの年8月から11月へかけて2教室を増築する坪数60坪。12月24、5日、農業補習学校生徒が農産物品評会を開催。この時の出品点数155、授賞48点。この催しは以後恒例となり、小学校児童作品も展示して、毎年盛大に実施されてきている。
明治43年の児童数、本校259名井関分校115名西広分校105名になる。
明治44年10月30日  校舎の増築成り、いままでの寺院仮用教室を廃止することになった。時の校長は「上中野尋常小学校創立以来今日に至るまで23年間教室に仮用して、多数の卒業児童を出した法蔵寺廃院(通称奧の寺)も校舎完成の結果廃止、物置となすが、永久に保存往古懐旧の資となさんことを切望するものである」との感慨を語っている。同じくこの年度3月高等科を併置、校名は南広尋常高等小学校となった。これまで高等科を修めるものは、広村に委託、広の高等科へ通ったのである。なかには湯浅の高等科へ通学する者もあった。この時高等科1年は男20、女5。第2学年へ入学者は男15、女4であった。(この19名が広や湯浅への通学者が帰った)。
大正2年7月5日、南広青年会結成。従来各大字毎に青年会があったのだが、今回それらを統一することになった。会長として時の校長梶原政雄を推薦した。9月15日に第1回の総会をして、相撲、剣道、マラソンなどをした。
大正3年2月28日  南広村「処女会」が発足し会員140名あった。
大正5年4月4日  裁縫学校を設置。修業年限2ヵ年。尋卒者を乙部、高卒者を甲部と分けた。新入生38名あった。
大正7年  小学校学級数は10、児童数は尋常高等合わせて559名、職員数は11名になった。
大正10年10月4日  南広裁縫学校を廃し、農業補習学校女子部として再出発する。10月26日より校舎増築工事にとりかかる。

大正15年7月1日  本村青年訓練所開所式、入所生97名。
昭和2年4月8日  米国コンネチカット・メリー嬢より日米親善人形を寄贈さる。5月6日この人形の歓迎会を保護者会を兼ねて行なった。
昭和3年5月5日  本校創立50周年記念式を挙行。この日同窓会が発足した。
昭和9年9月21日  台風、校舎被害あり、特に西広分校の被害が大きかった。
昭和10年9月13日  講堂落成する。
昭和16年  国民学校と改称されることになる。14学級編成、初等科男205、女216名、高等科男44、女49名、総計514名になった。
昭和18年  併設されていた南広青年学校、南広家政学校は廃校となり、広村外2ヵ村組合立男山青年学校となったが、校舎は新築せず、広、南広校舎の1部を使用することにした。
昭和20年8月15日  終戦。
昭和21年9月11日  PTA発足。12月21日午前4時大地震、唐尾、西広海岸一帯津波来襲、浸水、家屋多数。
昭和22年4月1日  63制実施、国民学校を小学校と改称、南広小学校となる。新制中学発足。(従って高等科は無くなる)。5月3日新憲法施行。
昭和23年2月7日  新制中学校舎落成。この年度小学校第1回卒業式男37、女50名。
昭和24年4月9日  新制の南広中学校は広中学校と合併、旧耐久中学校舎に移転。
昭和26年4月  両分校の4年生本校へ通学することになる。5月5日児童憲章制定。
昭和27年4月  西川事件起こる。
昭和28年7月  有田大水害、大きな被害を受ける。
昭和30年4月  3村合併広川町が発足。17日南広村廃村式をする。
昭和31年12月26日  井関分校改築起工式。
昭和32年1月8日  西広分校校地問題でもめごと起こる。2月18日騒ぎもおさまり校舎改築起工式を行なう(現在の場所)。西広、井関両分校とも明治41年以来の校舎で、48年の年月を経ているので新築することになったのである。
同33年4月7日  井関分校落成式、続いて6月3日西広分校新校舎へ移転、落成式は6月24日行なう。
昭和35年5月6日  本校舎鉄筋3階建が落成、総工費約3千5百万円である。
昭和36年4月1日  井関分校の就学区域であった殿地区児童は全部本校へ通学することになる。井関分校は新入生のみの1学級となり児童数6名。9月16日第2室戸台風、被害甚大、井関、西広分校及び本校の講堂屋根全壊。
昭和38年9月7日 鉄筋新講堂が落成した。

歴代校長
殿小学校  不明
山本小学校  不明
西広小学校  1、片山源之助  2、山本昌俊
井関小学校  1、金森義制
上中野小学校  1、高井?光  2、岩崎 英孝
南広小学校  1、岩崎英孝  2、山本昌俊  3、梶原政雄  4、栗田源一郎
5、後安栄吉  6、平松竹二郎  7、直山種吉  8、上野山亀一
9、元田喜十郎  10、斯波郡之助  11、藤山信一  12、畠山信一
13、中西英雄  14、岩崎功  15、梅原紀治  16、生馬貞二
17、亀井圭造  18、筒井清次郎  19、西島 功(現】


津木小学校の沿革
旧津木地区は、学制発布までは、前田地区では万福寺、寺杣には広源寺、中村は安楽寺、岩渕地区は観音寺と各寺小屋を開いて、読み書きなどを教えていたことが故老の記憶によって伝えられている。
津木地区は古来、地域的に特異な点があり、隠れた知識人とも言ふべき武士や僧侶の隠棲していたと想像されるふしもあり、これらの人々によって学問の初歩を教えられたものであろう。しかし、一般には山村の生活としてあまりに学問の必要も痛感せず、明治5年の例の「学制」発布後でも、依然として寺小屋の継続であった。しかし、明治9年8月3日には上津木249番地の安楽寺の本堂を小学校として林昇龍という人が先生になって上津木小学校を開き、落合、中村、猪谷を就学区域としたが、児童の就学はあまりかんばしくなかったもようである。同じく9年8月4日には下津木小学校が開校。つまり日を同じくして2校が出来上ったのである。ところが、前田と岩渕はまだ寺小屋であった。現在の津木小学校になるまでの歩みは次の通りである。

(1)上津木小学校
  さきに述べたように明治9年8月3日開校。同15年ごろ児島覚明、山本甚三先生らの名が記録されている。同20年2月に安楽寺本堂を取除き校舎を新築、教室が12、5坪。教員室3、55坪、教員住宅4、2坪。校地坪数は77坪余となっている。しかし出席児童は相変らず思わしくなかったようである。
これはここだけでなく、一般に言えたことであるが、当時一応入学はするのだが、中途退学者が多く、特に女児はほとんどといってよいほど就学する者がなかった。
明治22年上津木簡易小学校と改称した。23年6月に初めて吉田彰が校長となった。明治32年になって創立以来女児が1名卒業したことが特記されている。同33年10月24日より、今までの不就学者や中途退学者のために特別授業を実施することまでしている。同41年10月に下津木校と合併することになるのだが、40年度には男8、女7名の入学児があり、男9、女7名の卒業者を送り、創立してからの卒業者は男58、女44、計102人を出している。明治41年10月20日、義務年限が6年になったことだし、1村に2校あるのも管理や児童の訓育にも不便であり、不経済でもあるとの理由から下津木小学校と合併、村の中央部の前田羅(落合)431番地に校舎を新築して、津木尋常小学校となり、下津木校を、3年生までの分校とした。初代校長に上田利楠が就任した。
(2)下津木小学校
  明治9年8月4日寺杣にあった元の御蔵を仮用して、下津木小学校として開校され、場所は大字下津木790番地、校舎の坪数は6坪、児童数は18、9名、先生は細谷貞三であった。明治15年2月に校舎3、76坪を増築した。児童数は30名内外になった。明治18年また校舎を2、5坪増築した。児童数には変りがみえない。全20年4月 前田校を合併、下津木尋常小学校といった。全26年1月7日に新令による尋常小学校として単級編成とした。
全36年 岩渕校を分校とした。これも単級である。合わせて2学級編成になった。仝40年、2学級編成になったので岩渕と合わせて3学級となる。これまで創立以来197名(男126、女71名)の卒業者を出した。明治41年10月20日、前記上津木校のところで述べたように合併し、3年生までの分校となった。それで津木地区は1校2分校となった。
(3)前田校
  明治20年4月下津木校と合併するまでは寺小屋式の学校で、くわしいことは不明であるが、明治15年ごろ、岡本虎三という先生の名が伝わっている。
(4)岩渕校
  岩渕校も明治36年下津木校の分校として校舎を新築(3月起工6月27日落成)して単級の学校となったがそれまでのくわしいことはやはり不明、寺小屋式の授業を続けていたのである。合併後の学級の規模は左のように記録されている。
本校敷地688坪、建物坪数70坪、その他42、5坪、3学級編成。下津木分校敷地256、建物教室24坪その他18、25坪。単級。岩渕分校敷地236坪、教室21坪、その他13坪。単級。在籍児童数は全部で208名(男110、女98)創立からの卒業者299名(男184、女115)になっている。
(5)津木小学校
  明治41年10月20日  上、下津木両校を合併して津木尋常小学校となり、下津木と岩渕を分校として、10月22日に開校式をあげ再出発することになったのである。大正3年4月、高等科を新設、津木尋常高等小学校と改称。高1は男11、女4名、高2は男4、女1名であった。学級数は尋常科5学級、高等科1学級で教員は7名であった。

これよりさき明治41年8月、実業補習学校を設置、青年教育を始め、42年津木村青年会を創立、これは13才以上30才以下の村内青年で組織し、7つの支部に分かれて活動した。大正6年7月3日補習学校の女子部が出来て25名が入学した。なお、男子の方は20才以下は義務制とした。大正8年12月10日2教室を増築した。このころから農産物の品評会を始めた。大正11年学制領布50年記念式を10月30日に挙行。この年の秋補習学校生徒主催の農産物品評会を盛大に開催。
昭和2年5月14日  米国寄贈の親善人形の歓迎会をする。
昭和9年9月21日  未明より大暴風雨、本校分校とも被害相当なものであったが登校前であったので児童被害は無し。
昭和10年6月1日  青年学校開校。
昭和16年4月1日  津木国民学校と改称。児童数増加のため1学級増設8学級になる。4月28日より校舎増築、講堂建設、運動場拡張工事に着手する。7月岩渕分校運動場を約1畝歩拡張する。
昭和18年  この年児童の貯金成積優良の表彰を県金融業組合より受ける。
昭和20年8月15日  終戦。
昭和22年4月1日、633制実施、津木小学校と改称。国民学校高等科を廃し、新制中学校が出来る。
昭和24年6月18日、津木農協を親銀行として子供銀行が発足する。8月26日下津木分校を新制中学校舎とすることになり、分校児童(1、2年)を本校へ収容。それまでは本校講堂を中学校の校舎としていた。
昭和24年1月7日  下津木分校廃止になったため前田に分校を設置下津木分校と称す。前田、猿川の1、2年生が通学することになる。
昭和25年12月9日  流感のため10日間の臨時休校とする。
昭和27年4月19日  西川事件により臨休。8月9日岩渕分校改築着手、11月20日落成式挙行。
昭和28年7月18日  有田大水害、津木地域も大被害を受ける。10月6日 国体旗本村通過のため出迎える。
昭和30年4月1日  3町村合併広川町となり、4月17日津木村廃庁式をする。
昭和31年5月9日  校歌を制定する。
昭和33年5月23日  本校の新校舎落成する(木造)。
昭和39年12月10日  完全給食実施。
昭和40年10月20日  開校89周年を迎える。なお本年度限り前田の分校を廃止、本校へ登校することになる。前田地区としては寺小屋時代から90年にわたる幕を閉じる。

歴代校長
上津木校
1、吉田彰
2、森兵四郎
3、田中惟一
4、松下順之助
5、上田 利楠

下津木校
1、奥森忠恕
2、吉田彰

津木小学校(上、下合併以後)
1、上田利楠
2、岸上宋助
3、三輪吉之助
4、高居利助
5、竹内定楠
6、上松貞一
7、西岡正一郎
8、元田喜十郎
9、平木 正
10、楠磯右衛門

11、宮井丈二
12、加賀喜代楠
13、岩崎 功
14、古垣内宮次
15、複本貞雄
16、山崎良弘
17、中野保男
18、志賀満
19、松尾勝(現)



5  広川町小学校の現状


広小学校
所在地  631番地
校地面積  1O274平方比
施設

鉄筋コンクリート3階建 2593平方メートル
講堂鉄筋コンクリート495平方メートル
普通教室12、理科教室1、音渠教室2、凶書室1、保健室1、職員室2、準備室、その他2、プール1。
学級数  12(内特種学級2)
児童数  男210、女208名計418名
職員数  男6、女12名、用務員女1

広小学校校歌
1、その名も広の浦べなる
常盤の松も千代かけて
琴の調ともろともに
変らぬ色をちぎるなり
2、花橘のかおるなる
那着の園生の教へ草
恵の露にうるほいて
学の庭に培わん

(初代校長薬王小弥太の作詞と伝えられている)

南広小学校
所在地  上中野1175番地
校地面積  6148平方メートル
施設
鉄筋コンクリート3階建2千平方メートル
講堂鉄筋コンクリート534平方メートル

普通教室9、理科教室1、音渠教室1、図書室1、保健室1、職員室1、
学級数  6
児童数  男92、女77名計169名
職員数  男5、女4名

南広小学校西広分校
所在地  唐尾2千21番地
校地面積  1556平方
施設
木造平屋建366平方
普通教室3、便所その他
学級数  3
兒童数男17、女20名計37名 (1年〜3年迄)
職員数  女3、

南広小学校井関分校
所在地  井関205番地
校地面積  1556平方メートル
施設

木造平屋建360平方m
普通教室3、便所その他
学級数  2
児童数  男9、女10名計19名(1年?3年)
職員数  女2

南広小学校校歌
1、東によびゆる常盤の山も
西にたたうるみどりの海も
いやさかゆく学びの園に
はぐくみ受くる我らがながめ
2、務めいそしめおのが本務を
自治協同の旗あざやかに
学びの海にまたまをあつめ
望みの高嶺いざやよじなん
(作詞作曲者ともに不詳)


津木小学校
所在地  上津木431番地
校地面積  516O平方
施設
木造平屋建950平方メートル
講堂鉄骨338平方メートル
普通教室6、理科教室1、凶書室1、保健室1、その他便所物置
学級数  6
兒童数  男56、女45名計101名
職員数  男3、女6名
用務員女1

津木小学校岩渕分校
所在地  下津木2千80番地
校地面積  935平方メートル
施設
木造平屋建248平方メートル
普通教室3、その他2
学級数  3、(1年より6年まで収容)
児童数  男5、女11
職員数  男2、女1名

津木小学校校歌
1、雲晴れる白馬の嶺よ
手をつなぎ笑顔をかわし
この窓に文化のつぼみをさかそうよ
よい子の集い津木小我等
2、真清水の落合うところ
せせらぎの流れも清い
この里に真心合わせはげもうよ
よい子の集い津木小我等
3、串ヶ谷緑にはえて
山は呼ぶ光は踊る
この庭に命の若芽のばそうよ
よい子の集い津木小我等
(作詞者芝田かめ岡本三郎作曲者竹中重雄)

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6  新制中学校の発足


津木中学校・南広中学校・広中学校の誕生
わが国の義務教育は、明治41年に6ヵ年に延長されてから久しい時を経てきたが、昭和16年になって義務年限を、8ヵ年に延長することが決定し、その実施は昭和19年からとなっていた。ところがあたかも戦時下で、それどころではなく、第1そんなことは一般には忘れてしまっていたといってよい。(法的には、19年1月にこのことは無期延期されている)。しかし実情としては、小学校6年を卒業して中等学校等に進学する者の外は、ほとんどが高等科(2ヵ年)へ進む者が多かったのでまず8ヵ年義務制のようなものであった。それが敗戦後、昭和21年11月3日に新憲法が公布、この精神にのっとり22年3月には、教育基本法、学校教育法が法律として公布されて、教育の基調を民主化において、明治以来の国家主義、軍国主義、天皇中心主義の国民教育は大きな転換期を迎えたのである。
この教育新制度によって、国民学校初等科は小学校と改称、同高等科は廃止、3ヵ年の新制中学校を設置することとなった。またこれまでの各種の中等学校、高等専問学校も廃止、3ヵ年の新制高等学校と変り(従来の高等学校、専問学校などは新制の大学へ昇格していった。)それで、この制度を6(小学校)3(中学校)3(高等学校)制と呼ばれた。ここで小学中学合わせて9ヵ年の義務教育制となったのである。この制度はさっそく22年4月より実施ということになったが、この教育制度の改革は、わが国の国内事情によったのではなく、敗戦と占領下で、連合軍の強力な指示によるものであった。
古今東西戦争に負けて、国民生活がドン底に落ち込んでいる最中に、初等教育の義務年限を延長するといったことはあまり例を聞かないことであったけれど、元来「教育」には熱心なわが国民のことであり、敗戦の痛手を克服し、国土の復興を実現するためには、何より教育の力にまたねばならぬとの気慨にもえて、各町村とも歯を喰いしばって、この改革の実行に取り組んだのであった。新制中学校を発足させるといっても、まずさしあたり生徒を収容する校舎問題、新教育にあたる教員の確保、学校運営の財源などと随分頭の痛いことであった。
当時の広、南広、津木の3地区とも、一応各小学校の教室や講堂、その他の建物を借り受け、教員も不足がちであったが、ともかく5月3日全県下一斉に開校新発足に歩調を合わせたのであった。こうして津木中学校、南広中学校、広中学校が誕生したのである。
津木中学校の沿革 昭和22年4月1日、新学制度により、津木村立津木中学校を設立。さしあたり津木小学校の講堂を仮校舎として発足した。同年5月3日開校。1年生48名、2年生37名、3年生2名、であった。同9月18日、岩渕区民と懇談して中学校義務制を説明、生徒就学をすすめる。同23年、旧制中学校併設中学校在学生徒を還元受入れ。内訳は耐中2、吉備農2、有田高女3、湯浅家政1名を3年生として入学せしめる。同24年5月24日、生徒会が決議して校舎建築歎願行進をする。このとき津木村青年団の楽団が応援して村内を行進した。同5月25日、校舎新築基金募集演芸会を開催、7千円の募金ありこれを村当局に寄附する。同5月26日、中学校建築第1回の委員会を開催、校舎建築を推進することとする。同8月9日、校舎建築入札をする。校地は旧小学校下津木分校敷地とする。同12月31日、新校舎へ移転する。昭和25年2月18日、学校落成記念祝賀会を開催。昭和28年7月18日 有田大水害、被害甚大。昭和30年4月1日、広川町発足。昭和36年9月18日、第2室戸台風のため校舎の被害百万円を越す。昭和38年11月12日、鉄筋3階建の新校舎を建築することになり起工式。同39年7月10日、落成式を挙行する。同40年、本年度より山村産業教育の一環として地域性を活かし、マス養漁池を作り養殖を開始した。

歴代校長
1、梶原潔
2、岩崎功
3、片山厚治
4、富山儀三郎
5、田広芳郎
6、田中実藏
7、西島功
8、林照夫(現)



津木中学校(現状)
所在地  下津木716番地
校地面積  681平方メートル
施設
鉄筋コンクリート3階建1353平方メートル
講堂 鉄筋コンクリート234平方メートル
木造53平方メートル
普通教室4、理科教室1、音渠教室1、因工教室1、家庭科教室1、保健室1、
学級数  3、
生徒数  男38、女40名計78名
職員数  男5、女2名
用務員  女1名

津木中学校校歌
1、白馬の高嶺仰ぎ見て
岩の清水の流るるほとり
清き自然の恵も深く
げに美わしき津木中よ
2、希望の峰は遠けれど
学び進みて朝に夕に
たゆむことなき我等の集い
げに美わしき津木中よ
3、慈愛の心つちかいて
理想の文化打ち建てん
鐘は高鳴る希望の胸に
げに美わしき津木中よ


耐久中学校の沿革(広中学校と南広中学校)
現在の耐久中学校は、もとの新制広中学校と新制南広中学校とが合併したものである。633制の新制度により、もとの小学校高等科は廃され、小学校6年を卒業したものは新しく制定された修業年限3ヵ年の新制中学校へ入学せねばならなくなった。それで小学6年、中学3年の計9ヵ年の義務教育制となったわけである。そこで、順序として極く簡単に広、南広の新制中学校について述べ、現耐久中学校のことにおよぼうと想う。

広中学校
昭和22年5月3日開校  初代校長は川口洋。入学生徒は1年男58、女33。2年男20、女13の計124名。校舎は広小学校北西棟3教室を使用することにした。
昭和23年5月  旧制中学校併設中学校の第3学年生徒のうち広に在住する者を本校へ還元入学させた。

南広中学校
これも広中学校と同様昭和22年5月3日、新制中学校として発足した。初代校長は畠山信一。昭和23年になって校舎も新築落成した。同24年になって広中学校と合併することになった。この間、もとの耐久中学校(旧制度による)は、有田高等女学校(旧制度による)と合併して、新制の高等学校となり校名は耐久とし、その校舎は、湯浅町の有田高等女学校舎に決定された。それでもとの広の耐久中学校舎は空家になるわけである。そこで、広、南広の両新制中学校が合併し広南広組合立新制中学校とし、校舎はもとの耐久中学校舎を利用し、校名も耐久としたのである。だから高等学校の「耐久」は湯浅町に、中学校の「耐久」は広に存在することになったわけである。

耐久中学校

昭和24年4月9日、広と南広の新制中学校が合併、5月18日両中学校は廃校。広村と南広村学校組合立耐久中学校となる。その後のあゆみを簡単に列挙すると、昭和24年10月1日広村町制実施広町となる。昭和26年5月1日、旧耐久中学校初期の校舎であった「耐久舎」は、県史蹟に指定されたので、念館」として永久に保存することになり、校地内で別の場所に移築して、内部は当時の遺物などを置いて大切に管理されている。同27年3月6日、旧耐久校舎及校地を県より535万円で買収した。同4月19日、西川県議による差別事件発生により2日間の臨休をする。同5月8日広町主催により、耐久学舎創立百年祭を行なう。記念に木下繁氏製作の文鎮を領布した。同28年7月18日、有田大水害。同30年4月1日、町村合併により広川町となったので、広川町立耐久中学校となる。昭和36年7月21日、鉄筋新校舎建設の作業が初まる。同37年9月1日、第1期工事完了。引続いて校舎の建築を進める。同38年4月23日、校舎竣工祝賀式を挙行する。同41年、新講堂が落成する。同42年1月31日、浜口梧陵介の銅像を校庭に建設その除幕式が挙行された。

歴代校長(昭和24年より)
1、川口洋
2、栗原佳一
3、小槇孝二郎
4、松宮順一
5、藤田常蔵
6、島津伊太郎
7、山本久三
8、田中実蔵(現)


耐久中学校(現状)
所在地  広1123番地
校地面積  27600平方メートル

施設
鉄筋コンクリート3階建2716平方メートル
講堂鉄筋コンクリート594平方メートル
木造建物569平方メートル
普通教室12、理科教室1、音楽教室1、図工教室2、家庭科教室2、
図書室1、保健室1、職員室2、便所物置其他、プール
学級数  10、(内特種学級1)
生徒数  男183、女178計361名
職員数  男14、女6名計20名
用務員  女1名

耐久中学校校歌
1、正義の熱を燃やしつつ
真理の求めたゆまずに
我が先人の歩み来し
此の学舎に誇あり
ああ我等が耐久中学校

2、磯の香かをとる校庭に
身心共にきたえつつ
未来を背負う意気を持つ
此の学舎に力あり
ああ我等が耐久中学校
3、歴史を語る松原に
苦難の道を忍びつつ
美の精神もて育ちゆく
此の学舎に栄あり
ああ我等が耐久中学校


7  広川幼稚園の沿革


広町では幼児教育の重要性をかねてから留意してきたがその施設は無かった。
昭和27年4月1日に「広幼稚園」を設立し、5月5日に開園した。町立であり郡内唯一の公立幼稚園であった。其後町村合併の結果現在は「広川町幼稚園」となり、全町各地域から通園している。

広川幼稚園(現状)

所在地  広637ノ1 (小学校西隣)
園地面積  1035平方メートル
施設
木造平屋建 413平方メートル
普通教室3、 遊戯室1、職員室1、その他1、
園児数 男57、女57名計114名(5才児のみ)
職員数 女4名園長は広小学校長兼務。

8  広川町学校給食センター


所在地  広小学校東隣地
施設
木造平屋建  185平方メートル
配給車  2台
職員  9名(場長1人、運転手2人、栄養士1人、調理師5人)
町内各学校とも完全給食を行なっているのでこのセンターで調理、配給車(ひまわり号)で各学校分校まで配給する。(幼稚園は除外)

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文教篇  その2


1  広川町教育委員会


明治以来わが国の教育、特に義務教育については、国の統制がきびしく、教育内容も全国同一で府県市町村による地域差などあまり考慮されず総て一様にとりあつかわれた。教科書はもちろん国定であり、教育課程も教員の身分も文部大臣または府県知事の権限とされ教育行政は中央集権的であった。かくして第2次世界大戦終結の時まで続いてきたのであるが、敗戦後わが国の教育も大改革され、日本国憲法の精神に基づき、新しい教育の根本理念を確定した教育基本法(昭和22年公布)によって行なわれることになった。
昭和23年7月15日法律第170号として教育委員会法が施行され、教育事務は、都道府県、またはそれぞれの市町村の事務とし、教育委員会が管理執行することになった。教育の地方分権である。 わが県では和歌山県教育委員会が設けられ、この委員は公選によって選ばれ、12名の候補から4年委員3名、2年委員3名が当選、それに県会議員から選出された1名とで構成され、23年11月15日から発足した。教育委員会の仕事は地方教育行政を相当する機関で、

1、学校の施設や設備など物の面
2、教職員などの人の面
3、学校の運営管理の面
などについて地方自治体が直接責任を負うことになった。それは教育は不当な支配に服すべきではなく、教育行政は公平な民意によること、また教育は地方の実情に即して行なわれることなどと、教育行政の自主性、民主化及び地方分権化の3原則により教育本来の目的を達成しようというのであった。
ついで昭和27年11月に市町村にも地方教育委員会が設置されることになり、当時の津木村、南広村、広町とそれぞれ公選によって委員を選び、各町村教育委員会が発足したのである。(後、町村合併により広川町教育委員会となる。)そして63制下の新教育施設の整備、町村内の教育条件の向上など成果を収めていたが、何分その組織機構は規模も小さく、戦後の広くかつ多岐にわたる教育行政事務の処理や、そのほか委員会に課せられた任務の遂行はなみたいていのことではなかった。特に教職員の人事については実際のところ手をやいたのである。と
いうのは、教職員の身分はその町村の公務員となり、それぞれの教育委員会が人事権をもつことになったため、教職員が転任する場合など、本人の同意と、関係町村教育委員会の了解がなければどうすることもできない状況となった。広域な人事交流などまず不可能といったことになりかねない。31年6月になってこの制度の根本的な変化を図る新しい法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が成立した。この法改正には各方面からの猛反対があったのだがそれを押しきり成立させた法律で、これによって、

1、委員は公選とせず、市町村長が議会の同意を得て任命する。
2、教職員は県教育委員会が任命する。
3、一般行政と教育行政の調整をはかり、市町村、国都道府県を一体とした教育行政をする。
ということになって教員の人事面ではその運営がかなりたやすくはなかったが、内申権や服務監督権は地教委が握っている。尚、現在広川町の教育委員会の行政組織は左の通りである。

広川町教育委員会
委員長  1名
委員長職務代行者  1名
委員  2名
教育長
事務局職員  4名(内1名は社会教育主事)

なお、教育委員は浜口誠二(委員長)大西久太郎、石原久男(教育長)、西岡文雄、石原岩男の諸氏である。また湯浅町と兼務の学校指導主事1名がある。

2  広川町の教育方針(昭和45年度)


広川町教育委員会では毎年その教育方針を示して、町内の学校教育及び社会教育の指導理念を打出している。
そしてその効果を検討することによって年々の方針の具体的な点について反省し再検討してその万全を期している。昭和45年度に於ける教育方針は左記のとおりである。

教育方針の樹立にあたって
広川町は古くから浜口梧陵翁の私塾耐久社の創立で知られるように、教育について深い理解と情熱をもった伝統ある土地柄であります。この歴史ある伝統の上にたって、真に教育への時代的要求にこたえ、強立な教育諸活動を押し進めるところにこそ広川町教育の真髄があると考えるのであります。ここに当面の広川町教育の道標をうち立て、人間性豊かな町づくりをめざして、先ず教育関係者が率先して指導に臨み、1つ1つ着実に実践するため一致協力して情熱を注ぎたいと存ずるのであります。町民の皆様の深い御理解と御協力をお願い致します。

方針
人間尊重の精神を基盤として、学校教育、社会教育、家庭教育の1体化をはかり、町全体に教育的雰囲気を醸成し、日本人としての自覚の上に立って、人間性豊かなしかも家庭を愛し郷土を愛し、正しくたくましく行動できる人間を育成する。
1、学校教育の努力点
自ら考え、自ら正しくたくましく行動でき、しかも人間味豊かな人間を育成する。 上記は 基本的な努力点としてあげたのであるが、具体的には下記の留意事項を参酌し、それぞれの学校の実情にあわせてより高い教育的効果を生みだすために計画、実施、評価の3つの過程を意図的、継続的に行なわれるようにされたい。

留意事項
1、学校運営における秩序と指導体制の確立をはかること。
2、学力向上のため教育研修の計画を立て、指導にあたっては特に基本的事項を明確にし、児童生徒の1人1人に効果的な配慮をする。

3、特別教育活動の充実をはかり、児童生徒指導、進路指導等個々の児童生徒と指導者の人間関係を深めること。
4、道徳の指導にあたっては、児童生徒の生活に浸透する具体策を立てること。
5、同和対策審議会答申の趣旨に沿い、同和教育を推進すること。
6、健康安全教育の具体化をはかること。
7、特種教育の促進充実をはかること。
8、町内各学校緊密な連絡をはかり、教職員の自主的な研究体制を強化する。

ニ、社会教育の努力点
1、家庭教育の充実をはかる。
ルソーは「世界1立派な学校の教師について学ぶより、学問がなくても分別ある両親に朝晩守られている子供は幸福である。」と述べている。家庭の建設は人間生活の基本である。 又人間教育の出発であり終着であると考える。
子どもの幸福を願う親心を社会教育に発展させ、明るく豊かな家庭をつくる。
幼児教育を重視し、幼児期をもつ母親の研修会を開き、幼児教育の正しいあり方を身につける。
地域の子どもたちを地域の親たちで育てるという気運をつくりだしたい。
家庭教育学級を通じ、学校教育との連携を密にする。
2、産業教育の振興をはかる。
地域の実態に立脚して産業教育を振興し希望と誇りをもって家業に専念する青少年を育成する。
地域開発と相まって郷土の課題をみつめ住みよい豊かな郷土を築くため青年学級の充実と、組織の強化を図る
生活の科学化、合理化を推進し、生活文化の向上を図る。
3、社会体育の振興と安全教育を徹底する。
職場年令に応じた体操の習慣化を養う。
スポーツグループの育成を推進する。
家庭婦人に対する適度のスポーツ活動を促進する。
定期的に安全教育を実施し、人命尊重の習慣を徹底する。
4、人間尊重教育(同和教育)の充実をはかる。
同和対策審議会答申の趣旨にそい同和教育を特別の配慮のもとに行なう。
人間尊重教育を社会教育のあらゆる場で行ない、日常生活の中にとけこませる。
5、社会教育団体の育成強化を図る。
特にPTAの研修活動を推進する。
6、文化財の調査保存活動並びに町誌を発行する。
文化財を指定し、重要なものについては県、国に申請する。
町誌の編纂を終え発行する。
7、新町民運動を推進する。
新町民運動実行委員会と連携しつつ推進していきたい。

8、結び
以上、当面の方針について述べましたが、要は全町民1人1人の問題として、おたがいに積極的に取り組んでいくところに、その成果が期待されるものと思考されます。時代は進展してやみません。私達は祖先の労苦の結晶を受け継ぎ、住みなれたこの郷土を愛し、郷土の発展に努力し、明るく豊かな郷土建設のため力強い1歩を続けようではありませんか。
町民皆様の格段の御協力を望んで止みません。
昭和45年度の広川町小中学校児童生徒の統一実践目標
“すすんで環境を美しくする。”


広川町の社会教育の具体的な進め方
わが町の社会教育の目標
人間尊重の精神を基盤として1人1人が共同社会の1員であるという意識を育てる。
学校教育、社会教育の1体化をはかり町全体に教育的雰囲気を醸成し、家庭を愛し、隣人を愛し、郷土を愛し、日本を愛する人間を育成する。
積極的に余暇をみつけ学習する態度を養なう、それによって今までの生活の知恵と、新しい知識をもってよい豊かな教養と生活が出来るよう指導する。それで、この目標を達成するために具体的な進め方については、下記のような計画をもって実行していくことにしている。
1、公民館活動の育成について
館長主事会をなるべく隔月に開催し公民館がそれぞれの地区の「憩いの場」になり、又常に社会教育団体の活
動の主軸になるよう努力するとともに、各館の連絡、調整を密にする。
2、家庭教育学級について
本年も幼稚園、小学校、中学校、PTA、婦人会の協力を得て家庭教育学級を開設するが、PTA役員研修会を持ち、前年度まで学校が主体的にやっていた運営を、除々にPTAに移していきたい。又教育委員会は、幼児期の教育を行なう、対象は初めて0〜6才までの子をもった人とし、家庭教育のあり方について研修するようにしたい。
3、青年学級について
従来開設しているのは南広、津木の2学級であるが、ややともすればマンネリ化しようとする傾向を脱却し、新鮮な魅力あるものにしていきたい。
4、青少年の健全育成について
今日問題視されている青少年健全育成について、社会教育団体の活動よりもれている青少年の組織化を進めていきたい。その1つとして、スポーツ少年団の結成準備を考えている。その他新しくできる若者広場の活用方法を考えていく。又学校施設の開放も積極的に推進していきたい。
5、婦人学級について
昨年度は南広では山本、上中野、津木では寺杣、中村、広の5学級と南金屋では国委嘱婦人学級を開設した。
今年は山本を国委嘱婦人学級として申請している。本年もできるだけ多くの部落で開設できるよう話しかけていきたい。
6、社会体育について
今日、社会体育(体力づくり)が非常に重視されている。本町も体力づくりは重点施策として、職場、家庭における健康体操を推進したい。とくに婦人を対象に、バレーボールの普及並びに地域全体で楽しむスポーツ、レクレーションを奨励したい。又健康保持、体力づくりの必要性を充分認識してもらうため広報活動を活発にしたい。

7、同和教育について
学校教育との関連を深め、あらゆる社会教育活動の中で同和教育の視点を明らかにしていく。学校教育の内容や方法を地区家庭学級で学習し、地区全体が子供の学力向上に努めるようにしていきたい。又昨年国より委嘱されていた団体育成諸集会の事業を本年度も引き続き実施したい。
8、子供会について
学力向上進学問題等、色々問題があるが、子供会では直接その問題の解決を図るのではなく、自分から考え勉強していこうとする人づくりをねらいとしたい。スポーツ、レクレーションを充分取り入れたい。なお前年度は中学生を対象としてきたが、本年度は、小学生の子供会も考えていきたい。
9、社会教育団体の育成について
時代の発展進歩に伴ない、社会教育団体の必要性がますます高くなっているが、それに反して社会教育団体の活動がますます困難になってきている。とくに青年団では青年の都市への流失、婦人会では役員選出等、色々な問題をかかえているので適切な指導、地域に密着した存在価値の高い会員、団体に魅力ある団体づくりを進めていきたい。

10、文化財について
明王院の文化財保持については何らかの結論を出したい。
11、町誌について
町誌も本年で完成し発行の段階になっているので、一般の人々に町誌発行の意味を理解してもらうため広報活動を行ないたい。
12、新町民運動について
新町民運動実行委員会と、連係しつつ推進していきたい。

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3  広川町の社会教育について


今日社会教育といえば、公民館を中心として行なわれる、主として一般社会人を対象とした広義な教育活動を指し、いわば正規の学校教育以外の教育活動の総称である。しかしその内容や具体的なことになると実に多様多様であるが、ここでは一般的なことにとどめて、そのうちわが広川町に於ける現状を述べることにする。
社会教育という言葉は、明治10年代ごろから使われていて、やはりそれは社会人の教育を意味していた。その後しだいに教育そのものの内容を大別して、家庭教育、学校教育、社会教育と3つの領域に区分されたが、社会教育の対象は、主として青年男女に対する教育と受けとられていた。社会教育が時の政府によって正式にとりあげられたのは、明治44年文部省に通俗教育調査委員会が設けられ、大正8年になると文部省に通俗教育の主任官がおかれ、同9年には各府県にも社会教育主事がおかれることになって、上からの教化としての社会教育活動がなされ、その対象は青年団、婦人会などを修養団体として組織化し系列化されるようになってしまった。
それまでわが国には各地に、若衆仲間があり、地域社会の1員としての役目を果せるよう相互に研鑽する組織があり、やがてそれが明治に入って地域青年団となるのであるが、その本来の姿はあくまで自治の精神から生まれたものであり、地域社会への奉仕と自己研修を主とした。(しかし青年団も上記のように官制化されるようになり、特に戦時中は政府、軍部の強力な統制下におかれ、戦争協力に利用されるようになったりした。)わが広川町は合併以前の津木村、南広村、広町ともに青年団活動の活発なことで知られ、それぞれに輝しい歴史をもっている。
上記の如く社会教育即青年団教育と一般には理解されていたのが実情であった。昭和20年敗戦後は、民主的平和国家建設のため、真の社会教育の重要性が改めて認識され、教育基本法にも民主的な社会教育のあり方を規定し、やがて社会教育法が昭和24年6月に制定、この教育に関する制度が整備された。そして社会教育は地方自治体の責任において行なわれることとなった。これよりさき昭和21年7月に、公民館設置要項が示され、公民館の設置が、占領軍や文部当局によって盛んに奨励されて、市民教育による明るい町づくりの中心拠点とするように勧告された。しかし当時としては各町村とも新しく公民館を設けるだけのゆとりもなく、やむを得ず学校の1室や旧青年会場や、役場の一隅などに公民館の看板をぶらさげてお茶をにごすような所がほとんどであった。やがて、誰もが社会教育の重要性は認めていることであるし、戦後国民の民主化を育てる1つの拠点ともなるべき公民館活動の必要が次第に痛感され、独立した公民館も建設されてくるようになってきた。そして公民館は各地域における各種団体の連絡調整の場となり、地域住民の集会、教養娯楽、社交のための施設と理解されるようになってきたのである。
わが広川町の社会教育に関する施設としては、広、津木、南広には独立した公民館があり、 ほかに広西町に青少年会館。前田に若者ひろ場。東町に文化センター。(公民館と同性格のもの)ちびっ子ひろ場、浜口ひろばなどがある。また各地区に昔からあった青年会場を残しているもの、地区民の集会所の出来ているところもあって、地域の人々、成人婦人青少年に活用され社会教育の場になっている。社会教育活動の具体的なことについては、広川町教育委員会による教育方針のなかに示されている。

青年団活動
広川町には明治大正期から津木、南広、広にそれぞれ青年団を組織し、いろいろの歴史を経てきて今日に至っている。現在では
津木青年団  団員数60(内女20)8支部
南広青年団  団員数80(内女20)12支部
那耆青年団  団員数20(内女15)
広青年団  団員数50(内女15)
以上の各団で広川町青年団連絡協議会が組織されている。また女子団員は慣例的に22才になると退団する。
会費として年間5百円、行事の模様によって臨時に経費を徴集することもある。教育委員会の指導によって活動しているが、運営は自主的に行なわれている。その活動のうち社会奉仕的なものとしては湯浅駅の清掃、各施設への慰問、氏神祭礼、盆おどりなどの参加奉任などである。また社会見学を兼ねた遠足、ハイキング、フォークダンス、スキー、ボーリング、体育大会(野球、陸上競技など)。なお青年学級の運営については全面的に協力する学習内容として、茶道、花道、手芸、教養講座、映画鑑賞、その他各種研修会への参加などがある。

婦人会活動
婦人会も各地域でそれぞれの歴史を経て今日に至っているが、婦人会独自で会の目的にそって活動しているが、教育委員会の指導としては婦人学級を実施して、生産や職業教育を目的としたもの、文化生活に関するものなどを重点として学習活動を行なっている。学習内容別にみると小中学校生徒児童をもつ両親を対象とする家庭教育学級。かしこい消費者になるための生活学級3同和問題を学習する同和婦人学級のペン習字学級の料理手芸の講習◎体力向上のためのバレーボール練習、などがその主なものである。

高令者教育学級
各地区の老人クラブと提携して老後の問題とお互の親睦をはかる学級で、手芸、レクリェーションなど趣味に関するものを主としている。


4  広川町における同和教育(試案)


昭和45年4月に広川町教育委員会が出した同和教育の試案は左の通りである。
(1) はじめに
日本国憲法第14条に「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と明示されているように、人はみな人間として尊重されるべきであり、平等でなければならないのであって、このことは人類普遍の原理である。しかし現代社会の人間生活の中に、いまなおさまざまな差別が残されておりそのもっとも深刻にして重大な社会問題としての同和問題が、依然として未解決のままでとり残されている。
国の同和対策審議会は「同和地区に関する社会的および経済的諸問題を解決するための基本的方策」について、内閣総理大臣の諮問に対し、昭和40年8月その答申を行ない、この趣旨にそって昭和44年7月「同和対策事業特別措置法」の制定をみた。
広川町においても、この社会的背景をふまえ、同和問題の早急な解決は、今や全国民の課題であるという認識にたって、「同和問題解消のために特別の配慮のもとに行なわれる教育」を積極的に進めなければならない。従来町においては、和歌山県教育委員会が、昭和38年10月に示した人間尊重教育(同和教育)の方針に従って、人間尊重教育(同和教育)を進めてきたのであるが、それはともすれば、人間尊重という民主主義一般の抽象的概念の中に埋没し「同和教育」という中心課題が看過されがちとなっていた。
したがって町としては同和対策審議会答申の趣旨にそって「同和教育」にせまらなければならないし、「同和問題」の現状に即した特別の教育が必要不可欠となるのである。しかもそれは、同和地区に限定された特別の教育ということではなしに、全町民の正確な認識の理解を求めるという普遍的な教育の場に於てぜひ考慮しなければならない問題である。同時に同和教育が、その成果をあげるには教育の環境、教育の諸条件を整備しなければならない。そのためには、地域、父母、教師、行政当局の協力が必要であることはいうまでもない。

(2) 学校教育における同和教育
1、職員が先ず同和問題および部落差別について正しく認識し、共通の理解をもつこと。
同和問題および部落差別については、同和対策審議会答申(以下同対審答申という)の中で具体的に明らかにされているが、その重点と思われるところは、まず前文に、「同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。」と述べ、同和問題の本質については「同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の1部の集団が経済的、社会的、文化的に低位の状態におかれて、現代社会においても、なお、いちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である」とし、また「同和問題は、日本民族、日本国民のなかの身分的差別を、受ける少数集団の問題である」として、低位におかれてきた具体的事実をとりあげ、さらに「この問題の存在は、主観を越えた客観的事実に基づくものである」と説いている。次に「部落差別は、半封建的な身分差別であり、わが国の社会に潜在的または顕在的に厳存し多種多様の形態で発現する。それを分類すれば、心理的差別と実態的差別とにこれを分けることができる。「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を謀介として顕在化する。「実態的差別とは、同和地区住民の生活実態に具現されている差別のことである。また「このような心理的差別と実態的差別とは相互に因果関係を保ち、相互に作用しあっている。「すなわち、近代社会における部落差別とは、ひとくちに言えば、市民的権利自由の侵害にほかならない」と述べてその事実をとりあげ、「同和地区住民に就職と教育の機会均等を完全に保障し、同和地区に滞留する停滞的過剰人口を近代的な主要産業の生産過程に導入することにより、生活の安定と地位の向上をはかることが、同和問題解決の中心課題である。」「以上の解明によって、部落差別は単なる観念の亡霊ではなく現実の社会に実在することが理解されるであろう。」と結んでいるのである。

2、同和教育は、部落問題解消のため、特別の配慮のもとに行なわれる教育であって、その焦点を最も恵まれない子どもたちにあてて行なう教育である。このことは、同対審答申の教育部会報告の中で、「部落問題解消のため特別の配慮のもとに行なわれる教育が積極的に推進されるべきである。」 「それは、部落に限定された特別の教育ということではなしに、全国民の正確な認識と理解を求めるという普遍的な教育の場において、ぜひとも考慮しなければならない問題である。」と述べている。
基本的には人間尊重の観点からさまざまな差別を云々しなければならないことは論をまたないが、いろいろな人間差別の中に部落差別も当然含まれるという考え方ではなく、同対審答申に明らかなとおり、部落差別こそは現代社会の中でもっとも根強く深刻な差別であるのであって、同和地区の最も恵まれない子どもたちに焦点をあてる教育の意義もそこにある。すなわち、同和教育は、差別を集中的に受けている同和地区の子どもたち―同和地区を含まない学校では、最も恵まれない子どもたちーの側にたちその願いや要求にこたえられるような教育、いいかえると、その子どもたちの側にたって、民主教育の全領域の中で、憲法、教育基本法に示されている本質に魂をそそぎ、中身を入れて実践する教育ということができる。

憲法第14条  すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
憲法第26条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
教育基本法第3条(教育の機会均等)  すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

3、同和教育の目ざす人間像を明らかにすること。
身近にある差別の事実をとらえ、その原因の究明と、正しい解決を科学的に追求し、「差別に気づき」 「差別に負けず」 「差別をにくみ」 「差別をとりのぞき」 「差別を許さない」人間、すなわち事実を正しく理解して生活の中での一切の差別をなくしていこうとする意欲と能力をもった人間をつくることが同和教育の目ざす人間像である。
4、同和教育は、学校教育の全領域で行なわれるべきである。
同和教育の視点を学校の一切の教育活動の中に意識的、計画的に明らかにさせなくてはならない。したがって同和教育の具体的な進め方については、それぞれの学校の主体性においてなされなければならない。
同和教育の基礎的な仕事は、子どもたちの学力の立ち遅れを確かめ、たかめること。
基本的な生活習慣をねばり強く訓練するとともに、子どもの自主性と正しい人間関係を育てることである。差別の結果としての不就学、長欠の問題、また非行、無気力、逃避等の問題は、貧困等による経済的、社会的側面があるが、教育作用としてとらえたとき、学力の立ち遅れと1連のかかわりがあるのであって、同和教育の視点から、教育の内容や方法を見なおさなければならない。このことは同和教育の特別な単元を用意したり、教材や資料に対してむりに同和教育的意味づけをするのではない。子どもの可能性を信頼し、指導要領の基準に照らしながら、年間計画を作成する中で教材化していくなど、発達に即してその本質を生き生きと教える工夫をすることである。また、基本的な生活習慣については、ねばり強く意識的に訓練していくことも同和教育が持つきびしさである。
同時に子どもたちが自ら考え、話し合い、確かめ合って、問題を正しく解決していくという自主性と、民主的で協力的な正しい人間関係を育てなければならない。これらのことを通して、子どもたちの将来に希望が持てるようにすることが、同和教育の最も基礎的な仕事である。


6、子どもたちに同和問題を正しく認識させるには、そのための前提が特に重要である。
同和教育といえば、部落の歴史や部落差別を教えることとのみ思われやすいが、大切なことは、部落の歴史等が知識として必要なのではなく、同和教育の目ざす人間をつくるてだての1つであることを忘れてはならない。
そのためには、子どもの教科の中での学力と、日々の生活の上でのもののみ方、感じ方、考え方、正しい行動の仕方等を育てることが前提として大切である。同時に、職員自身が部落の実態を正しく知り、同和問題について「何のために、何を、どう教えるか」について統一し、子どもの発達段階に応じて正しく認識させなければならない。

7、中学校における進路指導は、とくに同和教育の仕上げとしての意味を持つ重要な課題である。
中学校を卒業する生徒の就職や進学の際に、差別はもっとも現実的に現われてきていることは、同対審答申にも明らかにされているとおりである。中学卒で就職するものの殆んどは、貧しい家の生徒である。その中でも特に同和地区出身ということで就職の差別を受けることがある。高校進学については、同和地区の進学率は最近少しずつ高まってきているが、一般地区の生徒のそれに比べてまだまだ低いという実態の中に差別の現実がある。
これらの実態をなくしていく教育のつみかさねこそが、同和教育の仕上げとしての意味を持つものであって、そのためには、生徒の実態を正しくとらえ、1人1人の生徒の実態に即した進路指導計画を綿密にたてて正しく指導することが大切であり、当面子ども会、隣保館、PTAとも協力して、自学自習の習慣と、学力向上の対策を講じること、又就職を希望する生徒に対しては、職業安定機関等との連携協力を一層緊密にし、近代産業や事業所への就職が容易にできるようにするとともに、それらの職業に定着するように指導しなければならない。
同和教育を進める職員のたえざる研修とたくましい指導力とは、この教育の生命ともいうべきである。

このため、研究会、講演会、研修会等を通じて、不断の研修を積むとともに、この教育に対する自信を深め、効果的に進めなければならない。

9、町教育諸機関や諸団体および父母との有機的な関連を深めること。
同対審答申の教育部会報告の中で、「同和教育は、基本的には地域の実情に即し、学校教育、社会教育両面から、総合的にとらえ実施されることが必要である。この2つの教育は、各々その分野において、最高度に機能しなければならないが、その関連性をとくに重要視し、総合的にその成果を高めるよう努力しなければならない。」と述べられているとおり、同和教育を効果的に進めるためには、学校内の教育だけで果たせるものではない。
たがって町小中学校同和教育研究委員会を媒介として、幼、小、中学校はもちろん、子ども会、隣保館をはじめとする社会教育関係機関や団体と有機的に連携を深める中で、指導の内容や方法等について統一を図り、地域、父母との共通理解を深めていかなければならない。また教育行政上の諸問題については、とくに教育委員会が積極的にとり組まなければならないことは言うまでもない。
10、同和教育を進めるに当り、とくに義務教育の段階にあっては、「教育の中立性」が堅持されるべきことはいうまでもないことである。同和教育と政治運動、社会運動の関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であるといったような考え方は避けられるべきである。
以上は、「学校教育における同和教育」についての基本的態度を試案として述べた。同和教育はもはやかけごえのみに終わってはならない。より具体的で画期的な実践が強力に進められなければならない。この試案もまた、学校教育の実践をとおして確かめられ、批正されることを期待する。


(3)  社会教育における同和教育
1、学校教育との有機的な関連を深めること。
社会教育における同和教育の推進については、その基本的理念や態度については、学校教育において示したものとかわりはないが、実際にはその対象者がそれぞれの教育経験や生活経験に相違があり、同和教育の基本的な考え方に相当の傾斜があると考えられるので、学校教育の場合と違って、推進する上で幾多の困難が予想される。
しかし同和教育は基本的には広川町の実情に即して進められなければならないのであって、そのためには学校教育、社会教育の両面から総合的にとらえ実施されるべきであることはいうまでもない。したがって、両者の関連性をとくに重視し、有機的にそれを深めていかなければならない。
2、同和問題は町民全体の課題であるという認識を深め、相提携してこの問題の解決にとりくむように努めなければならない。
特に日常生活の中の身近にある矛盾や不合理をとらえ、人間尊重の立場からこれを是正しようとする意欲を高め、その科学的解決について正しく考える場をもてるようにする。また社会全体の民主化を進めるためにも、特に同和問題が全町民の共通課題であるという認識がもてるように進める。とりわけ、これからの社会教育の課題として、古いしきたりや不合理な因習を温存している地域全体の近代化をはかるなかで、この問題の解決を促進する努力をはらわなければならない。
3、公民館、PTA、青年団、婦人会等の社会教育諸団体の活動において、自主的に同和教育の研究が深められるように進める。
すべての社会教育活動に同和教育の視点を明らかにさせていくことが必要であるが、特にPTA家庭教育学級においては、学校教育における同和教育についての理解を深め、その内容や方法等について統一することが必要である。
4、各種研究会、座談会、講演会等において同和教育の啓蒙を行なうとともに積極的に問題を出し合い正しい解決の方向を見出すよう努める。
このことについては、単なる思いつきではなく日常生活の中から多くの課題を拾いあげて、継続的計画的に行なう工夫をすることが肝要である。
5、同和地区を対象とする教育について特に配慮をしなければならない。
地域を対象とする教育では青少年および成人に対する教育活動を通じて、地域住民の教養と文化を高め、他の施策とも相まって経済的、社会的生活の向上に資することが肝要である。そのなかでも特に家庭教育や子ども会の育成に力を注ぎ、よい教育環境のなかで、健全な子どもを育成するように努力しなければならない。また、あらゆる機会をとらえて、一般地区との交流をはかり、相互理解を深め温い人間関係を形成するよう努めなければならない。
6、子供会の指導にあたって特に強調したいことは、学校教育との連携を深めることであり、教育方針も指導方針も同じ歩調でなければならない。
子供会活動と学校教育と連携を深めることは、車の両輪のようなもので、解放をめざす人間形成のために絶対に必要なことである。当面、子どもたちの生活や学習の実態を正しくとらえ、自主的な生活や自学自習の態度習慣を培うとともに、正しい人間関係をつくるために両者が協力し、歩調を同じくすることが最も大切である。
7、同和教育を積極的に推進するためには特に指導者の養成に力を入れ、その資質の向上をはからなければならない。
同和教育の成果は、人間性豊かな誠実な指導者の同和問題に対する正しい理解と、人間教育への固い信念と深い情熱に負うところが多い。広川町に於ては、昭和45年4月社会教育主事の措置を得たことは、この教育の前進のために大きい意義がある。しかし広範多岐にわたる社会教育を考えるとき、まだまだ指導者の不足を痛感するのであって、指導者の養成と資質の向上に対しては特別の配慮をしなければならない。 このことは、とくに地域の子どもの向上をはかり、地域全体の生活文化を高めるために強く要請される。同時にまた、指導者にばかり期待するのではなく行政としても優遇措置、増員等の対人的措置などの施策を積極的に講じなければならない。
8、各関係機関相互の連絡提携は勿論、各種団体ごとの提携についても充分配慮する必要がある。
このことは、同和教育を全町民の課題とするために必要なことであり、そのためには町教育委員会が中心になって、その有機的関連を深め、同和教育の効果を高めていく努力をしなければならない。


PTAについて
戦後あらたに出来た団体にPTAがある。従来わが国の小学校や中学校には「父兄会」とか「教育後援会」などがあって、親達がわが子の通学する学校のために、主として財政的な援助や、時には労力を提供して、学校を援助してきたながい歴史をもっている。ところへ昭和21年3月アメリカ教育使節団がきて、「教育は学校だけに限らず、家庭、地域社会の協力において行なわるべきもので、そのためにはPTA活動を行なうことが望ましい」と勧奨された。そこで文部省では「父母と教師の会―教育民主化の手引」という参考資料を各方面に配布してその結成をすすめた。やがて各小中高の学校にPTAが出来たのであるが、これがどうも昔の父兄会や後援会と同じもののように受取られて、その役割も学校に対する金銭的な援助や施設への労力奉仕的なものになってしまった。もともとPTAの役割は、P即ち両親、T即ち教師、Aは会といった意味で、父母や教師が子供たちの幸福な成長をはかるために、父母と教師が自らを高めるべき成人教育団体である。そのため会員相互の学習活動や、社会環境の浄化などの地域活動を行なうことが、本来の目的であり社会教育活動に属するものである。
しかしこのことは今の時点でいいうることで戦後の荒廃や混乱のさなかに、まず子弟の教育を守るために、物心両面から活動してくれたことは高く評価さるべきである。学校側も、乏しい教育費のやりくりや、教師の生活上の援助まで手をのばしてくれた当時のPTAに対して深く感謝したことであった。戦後のとげとげしい人心の荒廃、極端な物資不足、教員の不足など学校運営上の困難を陰に陽に援助し、教育の正常化に努力してくれたことは忘れることの出来ないものである。
昭和27年10月以降PTAの全国組織が出来て、日本PTA全国協議会、全国高校PTA協議会、全国幼稚園協議会などが相ついで結成されている。わが広川町も各小中学校、幼稚園ともPTAがあり町内及び郡市の連絡協議会もできている。尚学校によってPTAといわずに「育友会」とかその他の名称を用いているところもある。そしてそれぞれの学区内の実情に応じて多面的な活動が続けられているのである。

広川町教育振興大会
広川町では毎年夏季、たいてい7月中旬ごろの日を選んで実施され此大会は恒例となっている。その目的はいままでの教育成果をふまえてさらに今後においてよりよい成果をあげるために、教育の具体的な諸問題を追求して、町全体の教育の振興を図るものである。主催は町教育委員会、町PTA連絡協議会、町婦人会連絡協議会の共同主催である。内容は主として小中学校児童生徒の学校及び家庭においての教育効果の促進、幼児教育の問題、社会教育に関する問題などであるが参加者のほとんどは児童生徒の親たちが中心となる。

大体のプログラムは、教育功労者に対する表彰や感謝。
大会分科会での研究とその報告(この会の中心課題を5つぐらいにしぼって話し合う)
記念講演(適当な講師を依頼)
などあるが、なんといってもこの会の主要な部分を占める各分科会では、定められたテーマに従って、司会者、助言者、参加者が1体になって活発な研究討議がなされる。参加人員は250から300人位であって、時間は9時から16時である。この会は地味であるが親たちが具体的に種々な教育問題にとりくむことに意義が認められる。
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(附録)


  教科書から観た明治教育  岩崎勝
(1)
私は当年47才、明治18年6才で当校へ入学して満40年、小学教育の新旧の分水嶺ともいふべき明治20年の峠に立って、明治教育の新旧の両面を実際に鳥瞰した。懐しい母校の開校50年記念といふ慶典に当って、格別に感慨の念を深くした。
(2)
私は嘗て興味を以て、この生きた教育史ともいふべき教科書を或る期間実際に学習し、又その前後は大抵実物を集めて見た。そんな背景から明治教育を描いて見たい。
(3)
教科書は実に程度の高いものだった。といふより無茶に近いものだった。初等科6級、今の尋1の前期から、「勉強は健康より生れ健康は養生により来る」こんな難解なものがあった。「私別荘の書斉殊の外手狭には候得共南山の景色聊が見晴らしにも相成るべくと有候間明日午後2時頃煎茶会相催申度御閑暇に候はば尊来の程御待申上候」是は初等2級、今の尋3の前期だといへば、誰か真実に思へよう。而かも字体が草書と来ているものを。
明治7年文部省刊行の見出しが無かったら、それこそ天保時代の遺物と見られるであろう。面白いのはそれでも意味はとれていた。今私にして之を今の尋3に教えよといわれたら、どこから手をつけてよいか、とても扱う勇気がない。
(4)
一方西洋思想や科学を早く注入しようとしたことはまた教科書によって歴然と見出される。文部省刊行の物理楷梯(上・中・下の3冊本)や、中川謙次郎著の化学訓蒙は、今の子供にしてもなかなか消化されそうにもない程度の高いものであった。唯遺憾にも之を理解さすだけの設備と教師が先ず少なかったことである。
(5)
明治初年の教育が如何に欧米を理想としたか、如何に欧米の文化に憧憬を持ったかが、また当時の教科書をけばすぐ感付かれる。カッケンボスの読本が、そのまま邦文に翻訳されてその挿画までも憧がれの種であった。
文化住宅というやうな気持の家が、米国風の郊外の雄大なる景色を背景にして建って居るではないか。そこには洋服姿の農夫が、愉快さうに鍬を使って居る。広い村の郊外に沢山な少年少女の凧あげや、打球の絵などは、其の上洋服を喜ぶ今の児童に見せると、たまらない程喜ぶにちがいない。美濃紙版10冊本「輿地誌略」の挿画は又当時に喜ばれた写真銅版で、ベニスの浮市街や、ウインのセントスチフェンスの寺院の高塔などは、殊に憧れの的であった。「近日日耳曼国へ御出帆のよし風土も相変り寒暖も同じからず候よし云々」是は前述書慣文の1節、なんぼうなんでも、小学時代からドイツ留学の友達を持っていることほど左様に欧米に憧れたものだ。
(6)
欧米への憧憬は心酔となって、明治18、9年を以て絶頂に達した。明治唯一の画才、むしろ世界的の画聖狩野芳崖(故狩野広崖氏養父)の1代の力作が夜店に並べられて50銭、一方何でもない石版絵が珍重がられて客間を飾ったとは嘘のやうな話、鹿鳴館に伊藤公等の顕官達が、男女相擁してダンスに狂いまわったのも、西洋でなければ夜があけないこの時分の消息を雄弁に物語るものである。
(7)
高等小学校に英語が盛んであったのは、明治20年の改正の時であった。卒業の時はナショナルの3は立派に読めたものだ。英語の出来ぬ先生は高等科には1人もなかった。例の木銃は時の文相森有礼の創めたもので、生徒はみんな洋服でなければ入学が出来なかった。図画について見れば、明治4年文部省刊行の「西画指南」が最初の教科書で、以後明治25年までは、すべて鉛筆画ばかりであったことも、洋風の謳歌を物語るものである。
(8)
物極まれば反動が起こる。国粋保存の声はこの時代から称えられて来た。九鬼隆一男が、全国古美術の行脚から本郡に踏みこんだのは、確か明治21年、深専寺の本堂へ全部の古物を並べて、勿体なくも是りや良いとか悪いとか仏像をひねくり廻してから5年目には英語が省かれ、鋭筆画はいつの間にか毛筆画に代った、洋服もいつか和服になってしまった。
(9)
国粋主義と実業主義の隊長は、有名な人格者の文相梧蔭井上毅先生であった。実業教育主義のこの後の勢はすばらしいものであっただけ、趣味教育は全く地をはらってしまった。井上先生は立派な文学家だけに、それは無かったが、この実業主義を極度に振りまわした明治37、8年ごろときたら、理科と実業とでなければ夜が明けなかった。なるべく銭のかからぬように挿画を省いて、国定教科書は読本か理科書か区別がつかなかった。
(10)
世界的の国宝興福寺の5重塔を焼き払おうとしたくらいの欧化主義であったならばこそ、欧米の科学をとり入れて、他の先進国に追付いたのだ。私は無謀な欧化主義を救ってくれた日本の恩人フェノロサに感謝をささげると共に、明治の思い切ったこの乱暴に何の憎しみも持たない1人である。
(11)
世の中は面白いものである。昨日の非は今日の是、5、6年もたつと、またひっくりかわる。明治、大正へかけて50年間に於ける幾多の変改は、皆現代の大日本を形成する道程であった。過去50年の小学校教育を教科書からのぞいてみて私はその1地1張1興1敗の交錯に無限の興味をおぼえるものである。
ー了ー

(附記)上記の1文は、広小学校開校50周年記念式典が大正14年11月29日より12月1日にかけて挙行された時の記念講演の筆記である。岩崎勝氏は永らく教職にあり県下でも有名な教育者であった。昭和16年6月24日当時日高郡常盤商業学校に奉職されていたが、その出勤途上急逝された。
明治年間の小学校教育内容やその背景をなす国家社会情勢の一端にもふれられていて興味深く語られている。
(広小学校発行50周年記念号より転載)

わが国教育制度の変遷とそれを背景とした教科書の内容の変化
ここで結論めいたことを言うようだが、明治以来今日までのわが国の教育理念をひとくちに、おおざっぱに言ってみると、明治期の天皇制教育。大正期の自由教育。戦時下の軍国教育といずれも国家体制への奉仕が教育に課せられた根本理念であり、それを強要されつづけてきたのであった。
敗戦後は民主教育となり、それを推進するために日教組の運動も見のがせない。以上のことが実際教育面に具体的に表現されるのが、まず第1に教科書の内容であろう。 教科書によって児童生徒に対する教育内容や方向が察知できるし、ひいては近代日本のあゆみの歴史の一端もうかがえるであろう。 そこでその教科書の内容をいちいちここで述べるわけにはいかぬが、教育制度の変還―それはひいて教科書を作る背景をなすもの―を簡単にふりかえってみることにする。
今まで述べてきたことと重複する点もあるが、いわば学校教育百年に及ぶ歩みの概観年表でもある。

明治5年(1872)  学制発布。全国を8大学区、各大学区を32の中学区、各中学区を210の小学区にわけ、それぞれに大学、中学校、小学校を置くという計画だが、財政上の裏付けがなく、実施上うまくいかなかったが、わが国近代的教育制度がここに出発。教科書は自由発行のものを、各校自由に採択した。
明治8年(1875)  京都市柳池小に幼稚園ができる。翌9年に東京女子師範付属幼稚園が出来、これが本格的な園の始のである。
明治10年(1877)  東京大学を設立。このころから自由民権運動が活発化し、之を押えるために修身科が重視され、儒教倫理が強調されるようになる。
明治12年(1879)  学制を廃止し、教育令を公布、義務教育年限を16ヵ月に短縮する、父母や地方財政を緩和するため。
明治13年  文部省は「不妥当ナ教科書」を使用することを禁じる通達を出す。
明治14年  教科書の開申制度を定め、使用する教科書を各府県が文部省へ届けなければならなくなった。
明治16年  認可制になって、教科書を選定したり変更したりする時は、各府県が文部省に申出て認可を受けなければならない。
明治18年(1885)  内閣制度創設、森有礼が初代文相となる。
明治19年  帝国大学令、中学校令、師範学校令、小学校令などが公布、小学校尋常科4年が義務教育と決まる。
教科書は検定制度になり同時に、各学校の自由採択廃止。府県ごとに審査委員がおかれ、委員には視学官、師範学校長らが任命され、富国強兵の立場から次第に国家統制が強化されだした。
明治22年  帝国憲法制定。
同23年(1890)  教育に関する勅語が発布。修身教科書の巻頭に掲載された。
明治30年(1897)  このころから教科書を国定とする論が高まり、検定も強化される。
明治35年(1902)  教科書の採択をめぐり多くの府県で贈収賄事件が起こり、有罪となった者116人、このなかに知事、代議士、視学、学校長らも含まれていた(和歌山県下には無かったもよう)。
明治37年(1904)  国定化実施。
明治43年(1910)  第2期国定教科書使用、ずいぶん軍国調が強くなりだした。
同44年  国定歴史教科書中「南北朝併立」の記述が衆議院で問題となり、文部省は記述を改定、これ以後楠木正成が大忠臣として重視されだした。
大正元年(1912)  個性尊重、自由教育運動が起こる。修身廃止、芸術教育、学校改造運動、自由画教育運動など各地で起こり始める。
大正7年(1918)  第3期国定教科書使用。
大正13年(1924)  川井訓導事件起る。松本女師範付属小で国定修身教科書を使用しない授業したと免職。自由教育運動への弾圧が強まりだした。
大正14年  陸軍現役将校学校配置令でる。
昭和4年(1929)  生活綴方運動起こる。
昭和8年  第4期国定教科書(サクラ読本といわれた)使用、軍国調がさらに高まる。
昭和10年(1935)  天皇機関説問題起こる。文部省「国体の本義」を刊行配布する。
昭和15年(1940)  生活綴方教師の検挙はじまる。
同16年  第5期国定教科書使用、全く軍国調1色にぬりつぶされてしまう。小学校が国民学校と改称。文部省「臣民の道」を刊行、 「聖戦」を強調する。
昭和19年(1944)  学童の集団疎開はじまる。学徒勤労令公布、中等学校生徒ら勤労動員さる。
昭和20年  敗戦。教科書のなかの戦時教材の削除、墨ぬり教科書が出現した。GHQより神道排除、修身、日本史、地理の教科書回収授業停止を指令。
昭和21年(1946)  米国教育使節団来日、教育の自由主義化と個人主義化、教育課程の全面改定、教育行政の地方分権、男女共学などを提言する。国史教科書「くにのあゆみ」刊行され、石器時代より始まる日本史ができる。
昭和22年(1947)  日本国憲法施行。教育基本法公布。633制実施、義務教育年限9年に延長される。文部省は学習指導要領を発行。これは「試案」であり現場の教師の自由は大幅に認めたものである。社会科授業始まる。日教組結成さる。
昭和23年(1948)  都道府県に公選制教育委員会発足、教育行政の地方分権実現新制高校、新制大学発足。
昭和25年(1950)  朝鮮戦争起こる。文部省は国旗掲揚や「君が代」斉唱を通達。天野文相修身科復活を唱え、翌年には「静かな愛国心」を説いた。
昭和26年  文部省「道徳教育の手引書要綱」を発表、日教組第1回教研集会開催。
昭和27年  破防法公布、保安隊創設、翌年自衛隊となった。
20

昭和29年(1954)  教育2法成立。これで教職員の政治活動は禁止。
昭和30年  民主党が「うれうべき教科書の問題」なるパンフレットを配布。偏向教科書論議高まる。
昭和31年  公選制教育委員会が任命制となり教育行政は再び中央集権の方向へ。教科書調査官制度を新設した。
昭和33年(1958)  教員の勤務評定全国的に実施、勤評斗争高まる。小中学校で「道徳」の時間特設。文部省学習指導要領を改定「試案」でなく拘束力があるとした。これは教科書の内容を規制すると同時に、現場教師の授業内容をも拘束することになった。
昭和37年  文部省学力テスト実施、学テ斗争激化する。
昭和38年(1963)  教科書無償配布はじまり、採択制度が確立した。
昭和40年(1965)  中教審が「期待される人間像」を発表。家永氏「教科書訴訟」を提起する。
昭和42年  家永氏「第2次教科書訴訟(検定処分取消訴訟)」を提起する。
昭和43年  小学校の学習指導要領改定。ここで「日本神話」が取上げられ、歴史学習を通して「天皇への理解と敬愛」の念を深かめるよう強調されだした。
昭和45年  OECD教育調査団、日本の教育制度視察調査。家永氏教科書訴訟、1審で勝訴。



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